4月26日礼拝説教(詳細)

  「静まって神を知れ」  詩篇46篇1~11節

神はわれらの避け所また力である。

悩める時のいと近き助けである

このゆえに、たとい地は変り、

山は海の真中に移るとも、われらは恐れない

たといその水は鳴りとどろきあわだつとも

そのさわぎによって山は震え動くとも

われらは恐れない[セラ

一つの川がある。

その流れは神の都を喜ばせ

いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる

神がその中におられるので都はゆるがない

神は朝はやくこれを助けられる

もろもろの民は騒ぎたちもろもろの国は揺れ動く

神がその声を出されると地は溶ける

万軍の主はわれらと共におられる

ヤコブの神はわれらの避け所である。[セラ

来て、主のみわざを見よ、

主は驚くべきことを地に行われた。

主は地のはてまでも戦いをやめさせ

弓を折りやりを断ち、戦車を火で焼かれる。

静まってわたしこそ神であることを知れ

わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ

全地にあがめられる」。

万軍の主はわれらと共におられる

ヤコブの神はわれらの避け所である。[セラ

 緊急事態宣言が発令され19日が経過しました。あなたは依然として自宅待機をなされておられるのでしょうか。ある人が「老人に必要なのは教育と教養です」と言いました。そしてその意味は「教育とは、今日行くところがあること」「教養とは、今日も用事があること」と言うのです。あなたにも今日、行くところがあります。主イエス・キリストのところです。そして、あなたにも今日、やるべきことがあります。詩篇46篇において主がこう言われます、「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」そうです。あなたを愛される神、あなたの「避け所」である、唯一真の神を知ることです。

 ドイツのマルチン・ルターは1517年、ヴッテンベルグ城の教会の門にローマ法皇に対する95ヶ条の抗議文を張り出した為、逮捕されてしまいました。ルターは直ちにヴォルムス帝国議会に喚問され、大勢の只中で、皇帝カール5世により、その「信仰ヶ条」を撤回するよう、厳重に命じられました。すると彼はこう答えたのです。「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。私はここに立っている。それ以上のことはできない。神よ、助けたまえ」その宗教改革者ルターの全生涯を支え、改革を遂行させた原動力は、この詩篇46篇でした。あの有名な賛美歌267番「神は我が櫓」はこの詩篇からルターが作詞作曲したものです。

 先週日曜日朝、五時半過ぎに私が目覚めて書斎に入った瞬間に、一つのことに気づきました。それは異常なまでの静寂でした。窓を開けて耳をそばだてると、街全体は静まり返り、高架高速道路を走るトラックも見えず、いつもなら遠くに鳴り響く関空のエンジンテスト音も聞こえず、通りを歩く人もいません。それは恐らく緊急事態宣言が発令された結果、人々の自宅待機、経済活動の大幅自粛の結果現象でしょう。その時でした、私の心に、正にその時、この詩篇46篇の10節が響き渡ったのです。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」

この11節から成る短編の詩篇46篇は、150篇の詩篇の中でも、その内容構成からして、最高傑作だと評価される詩篇の一つです。私たちに「わたしこそ神であることを知れ」と命じられる神とは、一体どのようなお方でしょうか。この詩篇は、3節、7節、11節に使用される、音楽用語セラによる区分によってとてつもないスケールで神の偉大さが啓示されます。セラとは「完全休息」という意味です。セラとは「神ご自身がを啓示されたことに対する会衆の感激と喜びを響かせる用語なのです。

 まず第一に、2、3節を区分するセラによって啓示されるのは天地創造の神様です。

「地は変わり」「山は海の真中に移る」「水は鳴りとどろき」「山は震え動く」 私は、これらの言葉から1977年に経験した北海道洞爺湖半の有珠山噴火を否応無しに思い出されました。その時私が牧師として奉職していた伊達福音教会は、有珠山から距離にして8キロメートルの位置にありました。有珠山の大噴火は、晴天の日曜日礼拝の直前でした。目の前に一条の巨大な噴煙が立ち昇る異様な光景が今だに脳裏から離れることがありません。

 またこれらの言葉から東日本を襲った巨大地震を思い出させられるのは私だけではないでしょう。太平洋に面した東北各地は、これによって壊滅的な被害を受けました。崩壊した原子力発電所の放射能拡散の脅威は、今もなお深い傷跡を残しております。この天然自然、そしてその全ての現象は、偶然の産物でもありません。進化の結果でもありません。全宇宙は、神が創造され、人間の居住空間とされたのです。またその全ての現象によって人間に、神はご自身を啓示されるのです。

 第二、4〜7節を区分するセラによって啓示されるのは歴史を支配し形成される神です。「もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く聖書は、一人の人アブラハムを目的あって神が召し出されたことを教えます。やがて彼の子孫からイスラエルの国が形成されたのですが、旧約聖書は、それを取り巻く大国によって翻弄されるイスラエルの歴史の記録なのです。エジプトで奴隷として酷使されるイスラエル、アッシリア帝国に滅ばされるイスラエル、バビロン帝国に捕囚とされるイスラエル、ペルシャ帝国により解放されるイスラエル、ギリシャ帝国に蹂躙され、ローマ帝国により世界に離散されるイスラエル。神はイスラエルの歴史に深く介入されることを通して、ご自身を歴史の創設者、支配者、形成者であられることを啓示されたのです。

 第三に、8〜11節が啓示するのは、世の終わり、終末に神の国を完成される神様です。9節はこう歌われます、「主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。」先日私は75歳の誕生を迎えたところです。奇しくも私は第二次世界大戦の終戦の1945年に生まれました。世界を巻き込んだこの大戦で日本人は310万人、何と世界では5500万人が戦死しました。この悲惨な戦争体験から果たして、人類は教訓を得て、平和を構築できたでしょうか。全くその逆です。終戦と同時に共産主義と資本主義の対立による厳しい冷戦時代に突入しました。共産主義が崩壊すると、次には新たな民族国家主義の対立が激化します。その結果、各国の軍事力増強は凄まじいものがあります。「主は地のはてまでも戦いをやめさせ」る!私たちは未だこの預言の成就を見ていません。これはやがて神によって実現される終末に関する預言です。再臨を約束された主イエス様が再び来られて世界に平和を必ず打ち立てられます!この詩篇は主なる神が世界に完全な平和をもたらされることを指し示しているのです。それが私たちの希望であります。

 そして更に、この天地創造者、歴史の支配者、終末に平和を確立される神が、実は我らといつも共におられる万軍の主であるとこの詩篇46篇は明らかにするものです。7節と11節をご覧ください。そこに全く同じ文節が二回繰り返されていますね。「万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。そうです。神は我らとともにおられる神、そして、個人的に私たちと関わり、個人的に知り得る神様なのです。どういうお方か、私たちは1節によって三つの角度から教えられます。神様は私たちの避け所である、神様は私たちの力である。神様は私たちの近き助けであると。1節のこの避け所には、雨や嵐、危険や詐欺、欺瞞(ぎまん)からの避難または守りという意味を持つ原語「マハセ」が使われ、神様が私たちの避難場所であると教えます。711節でも、神が私たちの避け所だと繰り返されていますが、よく調べてみると「ミスガブ」という違ったヘブル語が使われていることが分かりました。別訳の聖書では、それが「砦、砦の塔、櫓、要塞」と訳されており、それが具体的には、「高い所、安全な高台、難攻不落で安全な場所」を意味していることが分かりました。

 私はこの言葉によって、かつて妻とイスラエルを旅行した際に、あの死海に沿った荒野にそびえる切り立った岩山の上に建設されたマサダの要塞を思い出されました。遥か山頂へは「蛇の道」と呼ばれる細い登山道が一本あるのみ、周囲は切り立った崖で、難攻不落と言われた要塞です。紀元70年にローマ軍によってエルサレムが滅ぼされた時でした、ユダヤ人集団967人が包囲を逃れこの難攻不落のマサダ要塞に立てこもりました。要塞は1万5千のローマ兵に包囲されましたが、堅固な要塞であったため持ちこたえるのです。業を煮やしたローマ軍は、奴隷を動員して、西側の崖を土で埋め立て登り道を2年かけ構築し、遂に頂上に攻め込んだのですが、その時すでに、全員が自害して朽ち果てていたと言う悲惨な史実が残っております。

 神は「マハセ」であり「ミスガブ」です。神は、「我らの避け所」であり「難攻不落で安全な場所」なのです。力ある万軍の主なる神であり、「われらと共におられる」「悩める時のいと近き助け」「必ずそこに今いて助けてくださる」素晴らしいお方なのです。そして、このようなお方、天地創造者、歴史形成者、終末の平和完成者にして、個人的に私たちと共におられる神を知る結果は、そうです。歴然としていますね。それはわれらは恐れない」 恐れが私たちの心から払拭されてしまう、恐れが消失してしまうということなのです。今現在、全世界の全ての人々を震撼させているのは、中国武漢から発した新型コロナウイルス感染です。その只中において、「わたしこそ神であることを知れ」と命ずる神様を知ることができる人は、不要な恐れから解放されるのです。

 ではこのお方をどうしたら知ることができるでしょうか。主はこう命じられます。「静まって、知れ」と。主は私たちに「静まれ」と命じられるのです。あなたが静まるなら私が神であることが分かると言われるのです。「静まれ」と訳される原語の「ラーファー」には「手を引く、手放す」すなわち何かを「やめる」という意味が含まれます。

 この詩46篇から語るキッカケが、先週日曜日の朝の異常なまでの静寂であったと私は最初に申しました。その街の静寂、静けさは、発令された緊急事態宣言の結果と言えるかも知れません。多くの人々は半強制的に運動を仕事を活動を自粛せざるを得ません。しかしながら、忙しく、落ち着きがなく、止まることを知らない活動に満ちた通常の現代社会においては、「静まる」ことは決して容易なことではありません。ひとたび「忙しさというブラックホール」の中に吸い込まれるならば、そこから脱出することは容易ではないのです。

 チャック・スウィンドールという人が現代人の傾向を的確に言い表わしこう言います。「確かなものを持っていない人は、忙しくすることによって自分を支えようとする。しかし、よくしゃべり、忙しく動き回っている人は、どこかで霊的な力を失っている。ほんとうの意味で神のため、人々のために働こうとするなら、人々から離れて、神のもとで静まる時が必要である。静寂と沈黙なしには深い洞察をもった人物になることはできない。」静寂と沈黙は訓練を要することなのです。この詩篇は「セラ」という詩篇が歌われる際の音楽用語で区切られていると申しました。これは礼拝で、詩篇が歌われる時には、この記号一つで、沈黙の時を取るということでした。歌うことをここでしばらくやめて、歌われている内容を深く思い見るということです。ポーズをとってはまた歌い、またポーズを取る。ここから教えられることがあります。私たちが祈る時も、賛美する時も、ただ口を開いてことばを出すというのでなく、心の中で静まって、神を思う、そのような心の態度を持つことが必要だという事でしょう。

 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」神は、私たちに、神の声を聞かせ、神をさらに深く知ることができるようにと、「沈黙と孤独」の訓練をお与えになります。この訓練によって、神に従うことと、神に信頼することを学びとっていきましょう。神を知り、神を親しく知るためには神との交わりのために時間をとり、じっとして静まり、神の御前で耳を澄まして待ち望むという生活の訓練がなくては、霊的生活に深みを増すことは望めないと信じます。

 この静まって神を知る経験を詩篇46篇は4節で、心の深みに流れ出すで表現していることが分かります。一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる。」この神の都はエルサレムのことです、実際には、山の上にある要塞都市エルサレムに流れる川はありません。しかし、この「一つの川」は、近年になって考古学者によって発見された「ヒゼキヤの水路」が背景になって歌われたのかも知れません。紀元前701年のことでした。ヒゼキヤ王はアッシリア王セナケリブに率いられた18万5千の侵入軍に包囲され窮地にたたされました。敵は町に攻め入らなくても、やがて水に困って根をあげるだろうと考えていました。ところがなかなか根を上げる様子がありません。それどころか18万5千の敵兵はその夜に、神が遣わした天使によって陣営の中で撃ち殺されてしまったのです。ヒゼキヤ王は賢明にもエルサレムの防備を強化し、水の供給を確保するため、堅い岩を掘って城壁内のシロアムの池とギホンの泉を結ぶ335メートルの水道を作って城内の水を確保していたのです。

 この掘り抜かれたヒゼキヤの水路、「神の都を喜ばせる川」は、新約聖書においては御霊の譬えであります。今もイエスを信じる者のうちに流れる聖霊の川のことなのです。ヨハネ7章によれば、仮庵の祭りの最後の日に、イエスが叫んでこう言われました。「祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。」それは信じる者の内に神が臨在しておられることです。どんな危機が襲ったとしても決して揺るがされることがないのです。神こそ全ての問題の解決者であり、打開者なのです。信じる者には人の目には隠されたところにある「一つの川」がその心を流れているのです。見えない部分にこそ、本当の力の秘訣があるのです。それは、隠れた神との交わりの生活、祈りの生活なのです。

 たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。」地震や洪水や巨大台風が襲うかも知れませんが私たちは恐れることはないのです。避け所である万軍の主が私たちと共におられるからです。「もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く」戦争や戦争の噂が飛び交うかも知れませんが、私たちは恐れることはないのです。「悩める時のいと近き助けである」万軍の主イエスが私たちといつでも共におられるからです。目に見えないコロナウイルスの感染拡大は、経済活動の停滞を招き、原油価格が暴落し、株式相場が混乱し、大企業、中小企業を問わず、途轍もない危機に直面させられています。しかしながら、私たちは恐れることはないのです。世界は天地の創造者、歴史の形成者、そして世の終わり、終末を完成に導かれる神の御手の中に確かにあるからです。こんな不安定な状況だからこそ、静まりましょう。「静まって、わたしこそ神であることを知れ。神様は、神との交わり、神への祈りへとあなたを主は招いておられるのです。

4月19日礼拝説教(詳細)

  「帰れる家がある」  ヨハネ14:1〜3

主はこう言われます。「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」

 これは、主イエスが、その公生涯の末期、十字架の死を目前にし、最後の晩餐の席上で、弟子たちに語られた言葉であります。主イエスは、弟子たちの心境を洞察され、「あなたがたは、心を騒がせないがよい。」と言われました。主イエスは、弟子たちのその心を鼓舞し、「神を信じ、またわたしを信じなさい。」と奨励されました。そして、主イエスは、確かな未来を展望させ、「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。」と弟子たちに、約束なされました。

イエスの洞察理解

 主イエスの公生涯の末期は、その状況が刻々と、変化しつつありました。敵対する宗教家や官憲は、イエスを殺害しようと、その機会を虎視淡々と、狙っておりました。主イエスが、最後の晩餐の席上で、「私は去って行く」と語られ、「あなたがたはわたしの行く所に来ることはできない」と、決別のメッセージを語られました。すると、それでなくとも、雲行きの怪しい雰囲気を、感じ取っていた弟子たちは、水が掻き回されたように、その心の騒ぎたつのを抑えることができません。

昨年12月に、新型コロナウイルス感染者が、中国の武漢で確認されて以来、僅か数ヶ月で、その感染者数が、世界で200万人を突破し、その死者数も、14万人を数えたと報道されました。日本における、感染者数の増加傾向も例外ではなく、日本政府もとうとう、緊急事態宣言を、全都道府県に拡大決定し、全国民を挙げて感染防止に取り組むよう、呼びかけることになりました。そしてその対策として、「不要不急の外出は控えること」「職場出勤者数は7割を削減すること」「指定された業種は休業すること」などが要請されます。このような状態がいつまで続くのか、先行きが不透明であることに、私たちの心は穏やかではありません。なんとなく不安であり、誰しも心騒ぐのは当然のことでありましょう。

しかしながら、主イエスは、私たちの心を理解洞察されます。不安な私たちに対して今日、「あなたがたは、心を騒がせないがよい。」と語っておられるのです。

イエスの激励奨励

 何故ならば、いかなる状況に置かれたとしても、そこには真の意味で頼れるお方が共におられるからです。弟子たちを激励された同じ主イエスが、今日私たちにも、「神を信じ、またわたしを信じなさい。」と、力強く語っておられます。自分を取り巻く状況が、どんなに劣悪で四面楚歌であっても、天は大きく開かれています。天と地を創造された全能の神を、慈愛に富める父なる神を、信頼して仰ぎ見るならば、心に騒ぐ波風は静まり、神の平安に必ず包まれるのです。

 あの弟子たちが、ガリラヤの湖を真夜中に、船で向こう岸に渡ろうとしたときでした。船漕ぐ弟子たちは、山から吹き降ろす強烈な向かい風に妨げられ、今にも沈没しそうでした。彼らは、恐怖のどん底に突き落とされてしまったのです。しかしその時です。イエスが何と海の上を歩いて現れ、弟子たちにこう語られたのです。「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」そして、イエスが船に乗り込むや、さしもの「風も止んでしま」ったのです。イエス。その名はインマヌエル!「神は我らと共におられる」。このお方、主イエスの御名を呼び、信頼するなら、波風は必ず静まり収まるのです。

 かつて、イスラエルが獰猛な敵に包囲され、絶体絶命の危機に直面したときでした。主は預言者イザヤによって、こう語られました。「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」(イザヤ30:15)そうです。今このような世界情勢であるからこそ、落ち着いて主に信頼することに、しようではありませんか。

イエスの約束保証

 何故ならば、主の奨励には、確かな約束が保証されているからなのです。その約束とは、イエスを信じる者には、未来永遠の居場所が、確実に保証されているということです。イエスは弟子たちに、「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。」と未来の希望を弟子たちに明らかにされます。そればかりか、イエスは、まさに弟子たちから去って行かれようとしたのですが、その目的を明かしし、「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。」と語られもしました。家も財産も全てを捨て、イエスに従ってきた弟子たちの不安は、何と言っても、自分たちの安全な居場所を失うことでした。

 居場所、家、或いは住まいといえば、この度の危険極まりない疫病対策で、全ての人々に求められるのは、極力、人との接触を避けるため、自宅待機することです。しかしながら、一言で自宅待機と言っても、人それぞれの置かれた状況は、複雑多様でありましょう。一軒家に住む人、マンションに住む人、アパート集合住宅に住む人、間借りしている人、中にはネットカフェで寝起きしている人もいれば、路上生活者、ホームレスもおることです。そればかりか、住む場所が違うだけではありません。独身者がおれば、三世代同居するような大所帯もあります。自宅での生活の仕方は種々様々違っているのです。

 自宅待機の結果、そこに何が起こっているのでしょう。長時間自宅に待機するストレスから、DV(家庭内暴力)や児童虐待が、増加していると言われてもおります。全家庭で起こっていることを全てを言い尽くすことなど勿論できませんが、今この時、問われていることは、それは、自分自身の居場所の問題なのです。自宅待機する家、ホーム、家族、それは本来、自分が何の気兼ねもなく、自分自身でいられる空間、休みくつろげる場所です。自分の居場所があることは、生きる上で、大変重要なことです。しかし、現実にはどうでしょうか。安定しているというよりも流動的であり、人間関係によっては気まずく、肩身の狭い思いをさせられ、そればかりか、家族構成も世代交代で常に変化して行く宿命にあるのではないでしょうか。私自身の75年の生涯を振り返って見ても、引越した回数を数えてみれば、何と19回に及ぶことが分かりました。私の場合には土地も家もなく常に間借り生活でありました。帰れる家などありません。

 聖書は人の人生を何と言っているでしょう。旅人、寄留者だと言うのです。

最初の人アダムに生まれた長男のカインは、弟を殺害した結果、「地上の放浪者」となりました。信仰の始祖と言われるアブラハムは、神の召しを受けて約束の地を目指し、パレスチナに移り住みましたが、彼は終生天幕住まいでした。何故アブラハムが、仮住まい生活に徹したのか、その理由をヘブル11章は、解説してこう言います。「彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。」そうです。アブラハムは未来を見据え、神が建てられる都の家に、永遠に住むことを希望を託し、「地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわ」し生涯を全うしたのです。

 人は自分の居心地の良い居場所として、マイホームを望み、家を建て、或いはマンションを購入し、思い思いの生活をするのですが、それが、いつまでも永続するものではないことには、時が経つにつれ、誰でもやがて気がつくことです。そういう私たちにイエスは、究極の居場所を約束されるのです。そして、こう言われているのです。「行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(3)先週12日に、私たちは主イエスの復活を祝いました。復活昇天されたイエスは、再び来られます。信じる者たちを、父の家に備えられた永遠の住まい、主ご自身がおられる居場所に、迎え入れるためなのです。 

 では、永遠の住まいを約束されはしたけれども、弟子たちの現実はどうだったのでしょう。残る生涯を敵に囲まれ、居場所を失った放浪者として、惨めに過ごしたのでしょうか。そうではありません。彼らは約束された永遠の住まいの、前味とも言える新しい住まい、居場所が備えられていたのであります。

イエスはこう約束されました。「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。」(18)イエスは信じる者を「捨てて孤児とはしない」と言われます。天に昇られるイエスは、神の第三人格であられる、聖霊を遣わすとの約束をなされ、イエスご自身が、聖霊の御人格において、弟子たちの所に来られると、約束されたのです。それによって、イエスを信じる者たちに約束された新しい居場所、住まいが備えられました。それが教会なのです。

使徒パウロがエペソ2章19〜22節で明らかにしていることは、この教会のことです。「そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。」(19)そうです。教会は神の家族なのです。その上、こう言われます、「そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。」そうです。教会は神の家族であるばかりか、神の住まい、神の家なのです。主イエスを信じ受け入れ教会に繋がるとき、人は永遠の住まいの前味を今現在、しみじみと深く豊かに経験することが許されるのです。

 さて、その教会を構成するのが、誰であるかを見事に明らかにする、イエスの譬えがあります。あのルカ15章11〜32節に描かれたいわゆる「放蕩息子」の譬えです。一人の父親に二人の息子のこの譬え話は、放蕩息子物語と言うより、「二人の失われた息子」とも言うべきでしょう。何故なら、弟は父の家を出て行き、兄は父の家に入ろうとしなかったからです。父からすれば二人の息子は失われた存在だったのです。この例えで父が神を表すとすれば、父の家とは教会を表しているのです。とすれば、教会を構成する人は兄であり弟と言うことになるでしょう。私たちの教会を構成する人は誰か、家から出て行った弟であり、家に頑として入ろうとしない兄なのです。全ての人は例外なく出て行った弟タイプか、入ろうとしない兄タイプであります。弟はある日、父に財産の分与を請求しました。普通は親の死後に遺産として財産分与は行われるものです。当時律法によれば、兄は財産の三分の二、弟は残りの三分の一です。父はその要求に応え、「ふたりに分けてや」りました。

 弟タイプとは、慣習や伝統を嫌い自由を強調する人のことです。道徳倫理を盾に振る人や権威、組織に反発する人のことです。自由奔放で人気者になりたがる人です。自分の生きたいように生きることで、幸せを見つけることができると考える人のことです。物語の弟は、贈与財産をすべて、換金したのでしょう、遠い国へ旅立ち、その挙句、放蕩に身を持ち崩し、全財産を使い果たしてしまいました。一方で兄もまた、生前に財産を贈与されたのですが、所有権はあっても父の生前には処分権、使用権がありませんでした。

 兄タイプとは、社会に適応する道徳観を重視する人のことです。自分個人の満足や充足より共同体の規則を守ることを優先する人です。物語の兄は、父と家に住み、仕事を真面目にし、父の言いつけを守る律儀な生活をしています。しかし、仕事から家に帰ってきたとき、放蕩で自堕落な弟が、帰ってきたというだけの理由で、お祝いの盛大な宴会が、開かれていることを知るや激怒し、家に一歩も入ろうとしません。父が自分に相談もせずに、高価な子牛を料理し盛大な宴会を開いたことが絶対許せないのです。売春婦と遊び呆け、財産を浪費した体たらくな弟を、兄は、他人扱いにして軽蔑し、優越感をもって痛烈に批判します。その上、「わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかった」と、義務意識で奴隷のように働いてきたとも言い張ります。 

 家から出て行った弟と家に入ろうとしない兄には、明らかに共通点があります。それは親よりも親の財産を、自分の欲望のため、自由にしたい心でした。彼らには自分の親と親の愛に対する関心は全くなかったのです。イエスはこの譬えで、私たち全ての人間が、神の前ではこの二人の兄弟のようだと教えられたのです。罪とは法律違反というよりも、自分自身を神の立場に置き、自分の人生は自分でコントロールするものと考え、自分自身を自分の救い主、自分の支配者とすることなのです。そればかりではありません。

  イエスはこの譬えで、父なる神が、そのどちらをも差別なく愛しておられることを教えられます。父は奔放な弟にも、苦々しい批判的な兄にも全財産を惜しみなく与えました。弟が困窮して帰れば、遠くから見届け、走り寄り、首に抱きつき口付けし歓迎しました。兄が怒って家に一歩も入ろうとしないと、父は自ら出て行って「わたしのものは全部あなたのものだ」と兄を宥(なだ)め、家に入るように忍耐強く説得します。

 聖書は「神は愛である」と言います。そして全ての人に、神の家に帰るように、神の家に入るようにと、招いておられのです。あなたはこの二人の兄弟のどちらのタイプでしょうか。神の住まいである教会に帰れるよう、入れるよう、そのために、神は御子イエスを犠牲にし、罪の赦しのために、十字架に捧げてくださいました。イエスを救い主と受け入れ神に立ち返った人は、自分の居場所を神の家に見いだすことができるのです。永遠の住まいの前味を味わうことが許されるのです。

 ローマ書8章32節にはこのようにうたわれています。「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。

放蕩息子は贈与された財産を浪費してしまいました。神は私たち罪びとである私たちのために全てを浪費されるほどに、犠牲を払い愛してくださっておられるのです。

 自宅待機するその場所で、神の愛のみ住まいに居場所を与えられていることを覚え感謝しましょう。主の御名をほめたたえ、礼拝しようではありませんか。

4月12日礼拝説教(詳細)

  「生きている証」  使徒行伝1章1〜5節 

テオピロよ、わたしは先に第一巻を著わして、イエスが行い、また教えはじめてから、お選びになった使徒たちに、聖霊によって命じたのち、天に上げられた日までのことを、ことごとくしるした。イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。

そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。

 今現在、至る所で猛威を奮う新型コロナウイルス感染に対し、決め手となる特効薬やワクチンがありません。感染予防対策には、手の消毒、マスク着用、自宅待機といった消極的な方法手段しか無いのが現状です。それでも数ある感染予防の中で大変重要な対策があります。それは感染の疑いのある人々を強制的に指定された場所に二週間、隔離するという方法です。

二週間とはコロナウイルスの潜伏期間から算定された日数です。これによって病気の伝播を防ぐ目的で行動の制限を行う方法なのです。これは「検疫」と呼ばれ、検疫を意味する英語はQuarantine(クワランティーン)です。これはイタリア語で40を意味するquaranta(クワランタ)から由来した言葉で、本来40日間を意味する言葉です。

ペストがヨーロッパに大流行した時、1377年ペスト予防のためにイタリアがエジプトより入港する船を40日間沖合に係留したことから,検疫の意味に用いられるようになったと言われています。病原体が海外から持ち込まれた場合のみ流行する伝染病を外来伝染病と言いますが,この外来伝染病の対策として行われるのがこの隔離検疫なのです。 

ところで、40という数字は、聖書の中では、3、7、12と共に非常に目立つ数字の一つであります。ノアの洪水では天から雨が40日降り続けました。モーセはシナイ山に40日間留まって十戒を授けられました。 エジプトから奴隷解放されたイスラエルの民は、荒野を40年間旅しました。 ヨシュアはパレスチナに入る直前に、12人の斥候を派遣し、40日間調査させたと言われています。そして、イエスの生涯をご覧ください。

イエスは公生涯に入るや否や、荒野で40日間、悪魔の厳しい試みを受けらました。そして、復活されたイエスは弟子達に40日間ご自分を現されたのであります。ということは、40という数字には象徴的な意味が込められているということでしょう。それは何かが試みられ、何かがそれによって証明されたということを意味したのであります。

それでは、復活されたキリストがご自分を弟子達に40日間、現さすことによって何を証明されたのでしょうか。使徒行伝1章3節によれば、三つの事実が証明されたことが明らかです。

3節を読んで見ましょう。『イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。

その第一に証明された事実とは、イエスご自身が生きておられることであります。自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示されたのです12使徒を始め、その時点で全ての弟子達が確かな事実として知っていたのは、それまで尊敬し信頼し期待し従い続けてきたイエスが、十字架にかけられ無残にも死んでしまったことでした

鞭打たれ、釘付けられ、槍を貫かれ、息引き取り、ローマ兵に死を確認された挙句、十字架からヨセフとニコデモにより撮り下ろされたイエスが、墓穴に葬られるのを弟子達は確かに見届けていたのでしたイエスは死んだのです。間違いなく死んでしまったのです

ところが何と、イエスは死んで三日目の朝蘇られたのです。生き返られ復活されたのです。そして、弟子達に「数々の確かな証拠によって」ご自身が生きておられることを示されたのです。 

物理的、科学的な事実、物事は、繰り返し、繰り返し実験した結果が全く一致していることによって証明されるものです。しかしながら、歴史的な過去の出来事は、残された証拠と複数の目撃者の証言によって証明されるものです。 

イエスが生きておられることを証明する数々の確かな証拠の幾つかを挙げて見ましょう。 

 その第一は、イエスの葬られた墓が空っぽであった事実です。マリヤを始め複数の女達が日曜早朝に香油を塗ろうと墓に行った際に気付いたのは、開けられていた墓をのぞいて見ると、イエスの遺体がそこにはなかったことでした。彼らの急を知らされたペテロとヨハネが急いで墓に駆けつけ、二人の弟子たちが確認した事実も墓が空であったことでした。 

 その第二は、その墓のイエスの遺体の寝かせてあった同じ場所に、遺体を巻いていた布が、セミの抜け殻のようにそのままの形で残されていた事実であります。墓が空っぽであったとすれば誰かに盗まれたのでしょうか。しかし、盗み出される可能性は全くありません。イエスが埋葬された後にローマ総督ピラトの命令で、墓は封印され、訓練された屈強なローマ兵16人により、墓は厳重に警備されていたからです。

それとも、過酷な十字架刑により気絶し仮死状態であったため、埋葬後に息を吹き返し、自力で墓から出てきたというのでしょうか。そのようなことは絶対あり得ないことです。何故なら墓の入り口を塞いでいた石は、1.5トンもの重量であり、20人ぐらいの人々でやっと動かすことのできる代物でした。鞭打たれ憔悴し弱り切った体力で、その石の戸を動かせるはずがなかったのです。 

主イエスが生きておられる決定的な証拠は、これはなんと言っても、イエスご自身が復活し、直接弟子達に出会って語りかけられたことです。使徒パウロはコリント上15章3〜8節にこう証言します。『わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。』 

この手紙は、紀元54~56年頃、パウロによって記録されたものです。もし、復活が事実でないなら、紀元30~55年頃まで、25年もの間、500人以上の人を騙し続けることが果たしてできるでしょうか。絶対に不可能です。キリストは復活後、多くの人たちに実際に現われてくださったのです。そして、弟子たちは、復活されたキリストと共に生活したのです。 

空の墓の前で嘆き悲しむマグダラのマリヤに、イエスは現れ優しく「マリヤよ」と語りかけられました。 弟子達が恐れ怯えて鍵を掛け閉じこもっていたその部屋に、イエスは現れ、彼らに「安かれ」と語りかけられました。幽霊を見ているのではと恐れる弟子達に、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」とご自分の体を示されたばかりか、「ここに何か食物があるか」と言われ、弟子達が焼いた魚の一切れを差し上げると、イエスはみんなの見ている前で食べられたのです。イエスは死から蘇り復活されたのです。イエスは生きておられるのです。

更に、40日間に証明された第二の事実は、イエスのキリスト、救い主であることです。3節にこう記されていますね。「イエスは苦難を受けたのち」そうです。この苦難とは十字架により苦しみ死なれたことを意味しています。かつてイエスが弟子達に「あなた方は私を誰と言うか」と問われた時、弟子の一人ペテロは、「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」と答えました。キリストとはヘブライ語で救い主を意味するメシアのギリシャ語訳です。イスラエルの民は、やがて神がメシア、救い主を必ず遣わしてくださると固く信じ待ち望んでいました。そして、イエスに従ってきた弟子達は、この方、イエスこそキリストに違いないと確信していたのです。にも関わらず、救い主であるはずの方が、何の抵抗することもなく、官憲に捕らわれてしまいました。裁かれ、十字架の死刑で無残にも処刑されてしまったのです。

使徒パウロはコリント上1章22節に「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。」と言い、続く23節で十字架につけられた「キリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものである」であると言います。弱々しく無抵抗で無残にも十字架に磔けられたイエスには、誰の目にも頼みになる力強い神の救い主のイメージは微塵にも無いと思われたのです

ところが、イエスは復活により、ご自身のキリストであること、メシア、救い主であることを決定的に証明なされたのです。即ち、イエスの十字架の死こそ、神の救いの業であるということです。罪なき神の子羊イエスが人類の罪責の全てを引き受けられ、私たちの身代わりとなって神の裁きを受けることにより、罪の赦しを得させる道を開いてくださったのです。十字架の受難は復活によって有効とされたのです。復活されたイエスを救い主と信じる者は、罪赦され、死んでも主の復活に預かり、永遠に生きる体が与えられるのです 

 

イエスの復活後の40日の顕現によって証明された残る最後の一つがあります。それは「イエスが王である」ことです。イエスはご自身が生きていること、キリストであることを示されたばかりか、尚且つご自身が王の王であることを証明されました。3節をもう一度ご覧ください。「四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。神の国とは、神が王として世界を支配されること、治められると言う意味です。

イエスの公生涯の最初のメッセージは「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)でした。更に、イエスが悪霊に憑かれた人から悪霊を追い出された時に、「わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。」(ルカ11:20)とも言われました。と言うことは、神の御子イエスが来られたことは神の国の到来を意味するものであったのです。もっと別な言い方をすれば、神の国が、多くの国々の王達、為政者の支配する世界に侵入してきたと言うことです。

この世のあり様は依然として同じで変わりありません。だが、そこに神の国が並行して存在するようになったのです。この時、弟子達の質問はこうでした。「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」6節。

イスラエルは、その歴史過程において、アッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、そして、ローマ帝国の過酷な支配に苦しめられてきました。彼らは今この時こそ、イエスによって、重圧から解放され、完全な神の国が政治的に到来するのですか、と真剣に問いかけたのです。しかし、イエスの答えから明らかなことは、完全な神の国の実現は、世の終わりに主イエスが再び来臨なされる時に完成すると言うことです。

イエスは40日後、弟子達の見ている前で、オリーブ山から雲に包まれて昇天されました。その時、天使が現れ、こう告げたのです。「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」昇天されたイエスは再びお出でになられます。その時、イエスは全世界を統べ治める王として来られるのです。

では、昇天されたイエスは今現在、どうしておられるでしょうか。そうです。イエスはこう言われました。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」(マタイ28:18)昇天されたイエスは父なる神の右に着座され、全宇宙の主権者として今現在、世界を治めておられるのです。地上に住み分ける77億の人間は、それぞれの国々において、立てられた政治的権威によって統治されております。しかしながら、それらの政治権威は、神により、最低限の平和秩序を維持するために、神により人間に貸与されたものであって、どこまでも限界のある、限定された力、権威でしか無いのです。主権はキリストにあるのです。

今現在、この新型コロナウイルス感染の脅威にさらされ暗雲の垂れ込める世界に生きる私たちにとって、キリストの復活に勝る慰めに満ちたメッセージは他にありません。空を黒雲が覆っていても、その上に太陽が輝いているのを私たちが知るように、キリストを信じる者は、いかなる状況に置かれたとしても、そこに、王なる主イエスが力強く支配し治めておられることを知ることができるのです。

ダビデ王の後継者であったソロモンが、神殿を完成して神に献堂した時に、主が夜ソロモンに現れこう言われました。「わたしはあなたの祈を聞き、この所をわたしのために選んで、犠牲をささげる家とした。わたしが天を閉じて雨をなくし、またはわたしがいなごに命じて地の物を食わせ、または疫病を民の中に送るとき、わたしの名をもってとなえられるわたしの民が、もしへりくだり、祈って、わたしの顔を求め、その悪い道を離れるならば、わたしは天から聞いて、その罪をゆるし、その地をいやす。今この所にささげられる祈にわたしの目を開き、耳を傾ける。

現代人は、雨が降らずに干ばつとなれば、或いは雨が降り過ぎて大洪水となれば、直ちに、異常気象が原因だと分析納得するでしょう。今現在でも、エチオピアなどに大量発生しイナゴの大群の被害を見れば、異常気象による雨が原因だと説明し、コロナウイルスが発生すれば、その出所はコウモリではないかと研究者たちは分析しています。しかし、神の支配の現実をわきまえていたソロモンは、そのような自然現象にすら、そこに神の御手を見せられたのです。キリストは世界を宇宙を統べ治める王なのです。 

 イエスは三日目に蘇り生きておられ、キリストであり、治めたもう王なるお方です。今日、私たちに求められていることがあります。 

 それは、復活し生きておられるイエスを信じることです。

イエスは救いを十字架に完成され三日目に復活されたことは否定できない事実なのですから、改めてキリストとして王の王として受け入れ、信仰を告白し、主に栄光を帰して賛美礼拝いたしましょう。 

 更に、復活のイエスに未来の希望を託すことです。

新型コロナウイルスの恐ろしさは、感染した人に肺炎を発症させ、酷い場合には死亡させることです。行政と医療関係者は協力し、軽症者はホテル等に移し、重症患者を設備の完備した集中治療室で死を防ぐため手当てしようと努めております。

イタリアの重症患者の死亡率が13%と高いのにドイツでは1.3%と低いのは、ドイツでは30万人に30床の集中治療室が完備しているが、イタリアでは4床しか備えがないためだと報道されていました。十分な設備が完備し、死亡を防ぐことができれば、それに越したことはありません。

しかし、人が死ぬことは定まっていることでもあります。人は死ぬのです。大切なことは、いつ死んでも良いように未来に対して復活して生きる希望があるかどうかです。

疫病は人の死を早めることでしょう。しかしながら、イエスが復活により死に打ち勝たれました。死は命に飲まれたのです。イエスは言われました。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」そうです。信じるなら死んでも生きるのです。

このような状況にあって、感染予防に努めると共に、復活の主を仰いで死の恐怖に負けないようにしましょう。未来への希望はキリストにあるのです。

その上で、このような差し迫った状況であるからこそ、主イエスの復活の証人となろうではありませんか。復活の主は弟子たちに「あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(5節)と聖霊の約束を与えられました。それは別な助け主として来られる聖霊によって力が私たちに与えられ、この方によりイエスの証人とされるからです。 

これは戦後にあった はなしなのですが、南洋のある島にあったことだそうです。『かつて人食い人種の酋長であった老人が、家の前で椅子に腰掛けて熱心に聖書を読んでいました。そこへ一人の白人が通りかかり、声をかけて尋ねました。「あなたはいったい何を読んでいるのかね」「これですか。これは聖書ですよ。わたしは毎日欠かさずこれを読んでいるんです」白人は無神論者であったらしく、それを聞くとからかうつもりでこう言いました。「なあんだ、聖書か。そんな古臭い書物を読んでどうするつもりかね。今の時代、文明国ではそんなものを読む人なんかもういないよ」すると、元酋長はこういったというのです。「あなたはそうおっしゃいますが、しかし、わたしがこれを読んでいなかったら、あなたは庭の片隅にあるあの大きな釜に投げ込まれて、いまごろわたしのこのお腹の中に入っていたことでしょうよ」これを聞いた白人は、何も言えず、そそくさとその場を立ち去ったという話です。』 

このような人間の驚くべき変化というものは、復活したキリストが今も生きて働いておられる何よりの証拠ではないでしょうか。イエスを主と信じて変えられたあなたに関心を示して、近づいて来る人がいるかもしれません。使徒ペテロは勧めてこう言っています。「ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。」(ペテロ上3:15)そのような方々には、謙虚に救われた事実を証言し、復活のキリストにある希望を語り伝えさせていただこうではありませんか。

主イエスは死に撃ち勝ち、復活されました。復活は希望であり力なのです。主イエスは生きておられるのです。 

 お祈りします。「天の父よ。御子を賜うほどに私たちを愛してくださり感謝します。十字架に命を犠牲にされたイエス様は復活しました。生ける神主イエスを信じます。コロナウイルスが猛威をふるう今、この時、私たちを世の光として生かしお用いください。御名によって。アーメン」