926日礼拝説教

「後なる者が先に」  マタイ20章1〜16節

「天の国は、ある家の主人に似ている。主人は、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けとともに出かけて行った。彼は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場で立っている人々がいたので、『あなたがたもぶどう園に行きなさい。それなりの賃金を払うから』と言った。それで、彼らは出かけて行った。

主人はまた、十二時ごろと三時ごろに出て行って、同じようにした。

五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と言った。彼らが、『誰も雇ってくれないのです』と答えたので、主人は、『あなたがたもぶどう園に行きなさい』と言った。

夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい。』

そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていたが、やはり一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。

『最後に来たこの連中は、一時間しか働かなかったのに、丸一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと同じ扱いをなさるとは。』主人はその一人に答えた。

『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分の物を自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、私の気前のよさを妬むのか。』

このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 神の国とは、主を信じる者の心にある神の支配で地図上にはない。主イエスはこの喩えでこの神の支配の特質を「ある家の主人に似ている」と教えられた。

この主人は収穫に必要な労働者を、朝6時、9時、12時、午後3時、5時と市場に出かけて雇用する。これは創造主なる神が、被造物である人間を神に仕え、人間相互の必要に応える奉仕に招いておられることを示している。

労働は、罪によって商品化され、食うために働く、金持ちになるため働く、自己実現のため働くなどと堕落しているが、主イエスは「私について来なさい」と呼びかけることで、信仰により応じた私たちに、本来の労働のあり方としての愛による奉仕の業を回復させてくださる。更にこの喩えの展開を通して主は、私たち信仰者の根底に隠れる問題を露呈される。

ぶどう園の主人の労働者に対する賃金の支給の仕方は意想外で、不本意に思う労働者から不満の声が上がった。

管理人が、5時から一時間働いただけの最後の労働者から始め、しかも一律一デナリオンの日当を支払ったからであった。労働の対価は時間に比例するべきだとする常識にそれは反する。だが、主人は『不当なことはしていない』と反論したばかりか『私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ』と言明する。

実はこの喩えは、それに先立つ弟子のペテロとの対話に関係しており、ペテロは「あなたに従って参りました。では、私たちは何をいただけるのでしょうか」と主に問いかけていた。従うとは信仰の具体的行為としての奉仕であり働きを意味する。この問いの問題は、信仰を売買契約とする態度にある。

人は信仰により救われる。それは労働行為の代価、報酬ではない。主人が労働者に支払った一律一デナリオンの日当とは、実は救いを指している。人が救われるのは恵みにより憐れみによることを教えている。それゆえに、信仰生活の長短や奉仕の大小により他人と比較したり、利益や報酬を打算するべきではないのだ。

 

神の愛と憐れみと恩寵により救われたことを感謝し奉仕に向かおうではないか。

919日礼拝説教

「神の国を継ぐ者」  エペソ5章1〜5節

こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。

また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。

それよりは、むしろ感謝をささげなさい。

あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。

 武装勢力タリバンにより制圧されたアフガンから、安全を求めて多数が国を追われ難民となりつつある。

国とは、権力が領土と人民を統治する存在だが、神の国は地図上には無い。「神の国は近づいた」と主イエスの告げられる国は、イエスを王として信じた人の心にある。「実に、神の国はあなたがたの中にある」と主は言われる。

キリストはやがて再び来られるその日に、その支配を父なる神に引き渡され(コリント上15:24、25)、千年王国の後に到来する新天新地において神の国は可視的に具現する。(黙示21:1〜4)「また私は、聖なる都、新しいエルサレムが・・・天から降って来るのを見た」とヨハネは証言する。その時、『目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。』それは、神の国の完成なのだ。

今現在、私たちの心に経験する神の国は義と平和と喜びが顕著な特徴であろう。十字架の罪の赦しは神と人との関係を正常化する。

ガリラヤ湖上で突風に翻弄された弟子達の船は、沈没寸前であったが「黙れ、静まれ」と命じられる主のお声で嵐は凪に変られた。人生の不安と恐れの嵐は、慈愛に富む全能の父なる神の庇護を直感するときに凪に変えられてしまう。主を信じた者の心が聖霊に満たされるや、梨や林檎の樹木に実がたわわであるように、愛や喜びが霊的に結ばれ、歓喜が湧き上がる。私たちは日本国に住む日本人でありつつ天国の市民とされている。

この驚異の神の国はただ信じた者に嗣業として与えられるが、生涯持続させるべく、自分が神に愛された子供である自覚が求められる。

御子を十字架に犠牲にするほど神は自分を愛して子と認めてくださった。主は神の義の怒りをなだめる犠牲の子羊としてご自身を捧げられたと感謝しよう。その上に、神の所有とすべく聖徒としてくださったと確信しよう。

この自覚を深めることなしに、この世の汚れた誘惑に勝つことは出来ない。「淫らなこと」ポルノなど口にすることさえ避けよう。むしろ感謝の花束を日々に口の言葉で主に捧げようではないか。

912日礼拝説教

「分け隔てせずに」  創世記45章1〜15節

そこでヨセフはそばに立っているすべての人の前で、自分を制しきれなくなったので、「人は皆ここから出てください」と呼ばわった。それゆえヨセフが兄弟たちに自分のことを明かした時、ひとりも彼のそばに立っている者はなかった。ヨセフは声をあげて泣いた。エジプトびとはこれを聞き、パロの家もこれを聞いた。

ヨセフは兄弟たちに言った、「わたしはヨセフです。父はまだ生きながらえていますか」。兄弟たちは答えることができなかった。彼らは驚き恐れたからである。

ヨセフは兄弟たちに言った、「わたしに近寄ってください」。

彼らが近寄ったので彼は言った、「わたしはあなたがたの弟ヨセフです。あなたがたがエジプトに売った者です。しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。

この二年の間、国中にききんがあったが、なお五年の間は耕すことも刈り入れることもないでしょう。神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です。

神はわたしをパロの父とし、その全家の主とし、またエジプト全国のつかさとされました。 あなたがたは父のもとに急ぎ上って言いなさい、

『あなたの子ヨセフが、こう言いました。神がわたしをエジプト全国の主とされたから、ためらわずにわたしの所へ下ってきなさい。あなたはゴセンの地に住み、あなたも、あなたの子らも、孫たちも、羊も牛も、その他のものもみな、わたしの近くにおらせます。ききんはなお五年つづきますから、あなたも、家族も、その他のものも、みな困らないように、わたしはそこで養いましょう』。

あなたがたと弟ベニヤミンが目に見るとおり、あなたがたに口ら語っているのはこのわたしです。 あなたがたはエジプトでの、わたしのいっさいの栄えと、あなたがたが見るいっさいの事をわたしの父に告げ、急いでわたしの父をここへ連れ下りなさい」。

そしてヨセフは弟ベニヤミンのくびを抱いて泣き、ベニヤミンも彼のくびを抱いて泣いた。またヨセフはすべての兄弟たちに口づけし、彼らを抱いて泣いた。そして後、兄弟たちは彼と語った。

 数奇のヨセフ物語はここ45章で頂点に至る。兄達の策略で奴隷に成り下がったヨセフが、いつしかエジプトの宰相に抜擢され、飢饉で糧食を乞う兄達に立場逆転し再開、和解する場面が記される。

その経緯を遡ると、そこに意外な事実、即ち、12人の息子の父ヤコブのヨセフへのえこひいきが露呈する。

ヤコブには叔父ラバンの娘レアとラケルの二人妻があった。11番目にやっとラケルがヤコブに産んだのがヨセフだった。ヤコブが誰より可愛がるヨセフに長袖の晴れ着を着せたことは、恐らく後継の目論みからだろう。10人の兄達の憎悪が惹起されたのも当然、その結果がヨセフ虐待だった。

差別は、特定の個人や集団に対して、彼らに付随する固有な特徴を考慮するとしないとにかかわらず、彼らを異質な者として扱い、彼らが望んでいる平等待遇を拒否する。いわゆる成熟社会と呼ばれる段階に到達した現代社会において、現在最も普遍的にその解消が重要課題となっているのが差別なのだ。

調査によれば、小中学生の30%が親や教師に暴力を振るいたい気持ちがある。その最多の理由は、教師や親のえこひいきに集中している。人種、学歴、身体、職業等、挙げればその差別は際限ない。

私のきょうだいたち、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰があるなら、分け隔てをしてはなりません。」(ヤコブ21)という警告を教会はどう受止めるべきだろう。キリスト者といえども無意識の差別行為があるかもしれないのだ。それによって他者に与える深傷を想像できるだろうか。

えこひいきは、愛の戒め「自分のように隣人を愛しなさい」に違反する。一つの律法に違反すれば律法全体を破っている。違反は裁かれること必至であり、「憐れみのない裁きが下される」と警告される。それゆえに「自由の律法によっていずれは裁かれる者として、語り、また振る舞いなさい。」との勧告を重く受けよう。

 

十字架に命捨て罪の赦しを与えたもう主イエスの憐れみのゆえに、差別意識を断罪し、「互いに愛し合いなさい」と戒められた主イエスの自由の律法に聴従しよう。

95日礼拝説教

「心を一つに」  コリント上1章10〜17節

さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにし、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。

わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合っていることである。キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなたがたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのか。

わたしは感謝しているが、クリスポとガイオ以外には、あなたがたのうちのだれにも、バプテスマを授けたことがない。それはあなたがたがわたしの名によってバプテスマを受けたのだと、だれにも言われることのないためである。もっとも、ステパナの家の者たちには、バプテスマを授けたことがある。しかし、そのほかには、だれにも授けた覚えがない。

いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。

 分断する世界にスポーツを介して平和を希求するオリンピックが閉幕した。だが現実は、誰しもが一致を望みつつ世界、国家、社会、企業、家庭、至る所で分裂している。使徒パウロは、自らが開拓したコリント教会に綻びを見て『どうか、心を一つにし、固く結び合いなさい。』と勧告した。

教会は、キリスト者であるにもかかわらず主義主張を異にするいくつかの分派が争っていた。その有様は服装で言えばボロボロであり、身体で言えば複雑骨折であった。パウロはその勧告冒頭で『さて、きょうだいたち』と呼びかけたが、主イエスを信じた者たちは、罪赦されて神の子とされ、霊的な兄弟姉妹関係に入れられている。

主イエスはその関係の戒めを『私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。』と命じられた。しかも、主イエスは、真の一致の模範を示し、受難直前の祈りで、「私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」と執り成された。

「私たちが一つである」とは複数が単数である。この「一つ」とは複合的単数であり、神は唯一であり、かつ、父なる神、御子なるイエス、聖霊なる神の三位格を有する三位一体であられると私たちは信じている。その位格において混同することなく、本質において同等でありつつ、愛と信頼と意志において一致される。

私たちはこの神の中に洗礼によって入れられている。神の御名によって水に浸されたが、それは受洗者が御名に入れられ、神の絶対所有とされたことを意味する。

 

キリスト者はお互いが、兄弟姉妹であることを自覚し、永遠の一致に存在される真の神に模範を認め、受けた洗礼によって神に所有されている自覚をしっかり持つことが一致の基盤となる。その上で、キリスト者は心を一つにする絆に、「語ることを一つに」十字架の言葉を告白する。教会の一致は十字架の告白にあり、その具体化として私たちは「私の記念としてこのように行いなさい」と聖定された主に従い、陪餐者が共に罪の赦しを与えられた兄弟姉妹であると認め合い聖餐式を挙行する。ここに私たちは一つなのである。