9月24日礼拝説教(詳細)

「万策尽きた暁に」   ルカ16章1〜13節  

イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口する者があった。そこで、

主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』

管理人は考えた。『どうしようか。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうすれば、管理の仕事をやめさせられても、私を家に迎えてくれる人がいるに違いない。』

そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、最初の人に、『私の主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。早く座って、五十バトスと書きなさい。』

また別の者には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書きなさい。』

主人は、この不正な管理人の賢いやり方を褒めた。この世の子らは光の子らよりも、自分の仲間に対して賢く振る舞っているからだ。

そこで、私は言っておくが、不正の富で友達を作りなさい。そうすれば、富がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。

ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。だから、不正の富について忠実でなければ、誰があなたがたに真実なものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、誰があなたがたのものを与えてくれるだろうか。

どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

聖書はルカ16章1〜13節をお読みします。祈ります。今日の聖書箇所は、聖書の中でも最も難解な箇所の一つで、何を言わんとしているか、一読しただけでは定かではありません。1−8節は主の語られた譬えで、それに主の教えが続いているという構造です。その譬えとは、ある金持ちの財産管理人が不正を働いたことが内部告発され、首にされてしまう。ところが、この管理人が首にされても行き場を確保できるよう、土壇場で抜け目なく振る舞ったことを、その主人が見てそれを褒めた、というものなのです。

この喩えを読むと、私は5年前に起きた未解決事件を直ぐに思い出しました。2018年11月、プライベートジェットで空港に着いた日産の会長カルロス・ゴーンが、警察に逮捕されました。ゴーン会長は、経営が傾いた日産の立て直しのため救世主のように、1999年に迎えられた経営の手腕家です。彼は辣腕を振るって就任2年で赤字を黒字に変えるのに成功しました。それから18年後のことです。彼は自分の立場を悪用して不正を働き、日産に450億円の損害を与えた罪で起訴され、裁判に付されてしまいます。彼はそこで15億円の保釈金を支払い、一旦釈放されます。すると釈放されるや、日本脱出を謀り、関空からプレイベートジェットでまんまと逃亡に成功し、現在はレバノンに在住しているのです。その逃亡費用には16億円をかけたと言われます。一方で、彼はこの裁判を不服として、レバノンの裁判所に日産に対して1400億円の賠償を請求する裁判を起こしました。この二つの裁判は、今現在も未解決のままです。もし仮に日本の裁判でカルロス・ゴーンの有罪が確定したとすれば、彼はとんでもない不正な管理人であったということになります。

今日読み上げたこの聖書箇所のタイトルをご覧ください。「不正な管理人」の譬えであります。辞書によると、管理人とは、「他人の財産か業務を運営する者、或いは責任を有する者」となっています。教会では毎週木曜日午後1時から聖書を学ぶ会がありますが、前回の第八課は「神の管理者として生きる」これがテーマでした。聖書は、私たち人間は、神の被造物であると教えるのですが、私たち人間を神は、その被造物の管理者として創造されたとも教えているのです。創世記2章15節にはこう書いてあります。「神である主は、エデンの園に人を連れて来て、そこに住まわせた。そこを耕し、守るためであった。」この、守るためであった、それは管理することです。人間が管理人と定められたことを意味しているのです。

人間は所有者ではありません。一切を造られた神が万物の所有者です。人間は神の所有の全てを管理する責任が与えられた、聖書はそう教えているのです。もちろん神の造られた全世界の管理などと考えたら、とてもとても、その課題は一個人には大きすぎることであることは明らかです。しかしそれでも、私たちはこの学びを通して、自分の身体の管理や、心の管理、賜物、能力、経験、時間、家族、仕事など、一人一人に様々な管理が、委ねられていることを学ぶことができました。そして、その委ねられた管理の中の一つが、実は私たち自身の所有する富、財産なのです。今日、私たちが手にしている聖書箇所のテーマは、この富の管理を私たちはどうするべきなのか、そういうことなのです。

.富の課題

この主の語られた譬えの中で、ある金持ちの財産管理人が、主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口されてしまいます。この金持ちとは、その当時よくある不在地主であったに違いありません。その財産の管理を任された管理人には、相当な自由裁量の権限が与えられていたのでしょう。ところが不本意にも、内部告発によって不正が主人にバレてしまいます。彼は直ちに呼び出され、「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。」と主人にキツく詰問され、会計報告の提出を要求されます。それは、単なる会計報告ではありません。この管理人を解雇し別な管理人に引き継がせるための報告提出です。彼はこの土壇場で、進退極まり深刻に「どうしようか」と自問自答します。「主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。」

彼は、転業するにしても土木作業には体力がありません。今更乞食をするなど恥ずかしくてとてもする訳にはいきません。彼は管理人を首にされ失業し、行き場を全く失いかけていたのです。その時でした。彼の脳裏に閃くものがありました。「そうだ。こうすれば、管理の仕事をやめさせられても、私を家に迎えてくれる人がいるに違いない。」管理人の考えついたアイデアとは、主人に借金している負債者を、一人一人呼び出し、その借用証書を書き換えてしまうことでした。彼は自分の権限で主人の許可無しに、負債者たちの借用金額を大幅に減額してやり、負債者に恩義を着せることで、自分が首になっても、彼らが自分を歓迎してくれることになると踏んだのです。

そこで善は急げ、彼は早速、主人に借金のある大勢の負債者を一人一人個別に呼び出し、証書の書き換え作業を開始しました。ここには、その内の二人の負債者の書き換え作業が克明に語られています。最初の人は「油百バトス」を「五十バトス」と書き換えられます。次の人は「小麦百コロス」のところを「八十コロス」と書き換えられます。油の分量は換算すると2300 L に相当し、金銭価値にすれば数百万円になります。小麦の分量も2300L で、価値はこれまた相当なものです。この借金証書に、金銭通貨ではなく産物で記されたということは、恐らく借りている土地の地代を産物で支払う習慣であったからなのでしょう。そしてこれらの減額された分量は、借金に対する利息であったろうと解釈されます。何故なら、イスラエルの律法には、同胞に対して金を貸すのに利息を取ることが禁じられていたからです。取り分け、貧しい人に貸す場合には、利息を取って貸し与えることは禁止されていました。しかし、商取引の場合には貸す方も借りる方も利益を得ることになるのですから、利息を取っても構わない、そういう暗黙の了解があったようです。

ですから金持ちが実際に貸したのは油の場合は、50バトス、小麦は80コロスでした。それゆえに、管理人が減額したとしても、利息分であるならば、金持ちの実質的な損失はない事になります。そうでなければ、主人が後からこの不正な管理人のやり口を知って、その賢さを褒めるはずがありません。むしろ被った被害のことで激怒したはずです。この管理人が、主人には実施的な損失を与えないように配慮しつつ、負債者たちに恩恵を与えることで、自分が首になっても行き場があるように抜け目なく工夫したことを、賢い奴だと主人は褒めたのです。

さて、主イエス様は、この譬えをご自分で語られると、更にこれをコメントし、8節後半で「この世の子らは光の子らよりも、自分の仲間に対して賢く振る舞っているからだ。」と言われました。そして、その上で「そこで、私は言っておくが、不正の富で友達を作りなさい。」と弟子たちに命じられたのです。誤解してはなりません。イエス様は決して、管理人の不正を是認したのではありません。管理者としての不正を賞賛しているのではありません。

そうではなく、何とか生き延びようと、管理人の賢い振る舞い、抜け目ないやり方を賞賛するのです。その上で、主は「不正の富で友達を作りなさい。」と命じられているのです。しかも富は富でも不正の富と主は言われました。何故でしょうか。この箇所には、9節、10節、13節と繰り返し富が出て来ますが、この富とは、明らかに財産、所有、金、資本のことです。この富、財産、金は本来、中立、中性なものであって、それ自体が何もするわけではありません。そうですよね。しかし、それを取り扱う人間次第で、富は悪にもなれば、善にもなるといった性質のものなのです。

見てください。この不正な管理人の譬えの前後の章、15章はあのよく知られた放蕩息子の譬えですね。二人の息子の弟は父親に生前財産分与を求めるのです。そして分与されると遠くに旅立ち、放蕩三昧に耽って身をもち崩してしまいます。この同じ16章のこの譬えの次の14節には「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスを嘲笑った。」と書かれています。これらの人々は、弟子たちに語っておられるイエス様のこの話を少し離れて聞いていたに違いありません。当時のこの宗教グループは、律法を厳格に遵守することをモットーとし誇りにしていたファリサイ派と呼ばれる宗教熱心な人々でした。彼らは、富は神の祝福のしるしである、貧乏は神の呪いのしるしだと律法を解釈していました。その結果、金や富にいつの間にか執着するようになっていたのです。

同じ16章のその先の19節以降の「金持ちとラザロ」の物語をご覧ください。ここには金持ちと貧乏人が対照されています。金持ちはその豊かな富を享受し、贅沢三昧の生活を毎日楽しみ、その反対に貧乏人で乞食のラザロは、ドン底の生活をしています。贅沢を楽しむ金持ちは、自分の門前にいるラザロには全く無頓着です。ところがどうでしょう、死の運命が同時に両者を襲うのです。ラザロが死にます。なんと同じ日に金持ちも死んだのです。しかし、その死後の両者の運命は決定的に違っていました。ラザロはアブラハムの懐に憩い、金持ちは黄泉の火炎の苦悩に過ごすのです。

主が富を敢えて不正の富と呼ばれたのはそのような背景があるからです。使い方次第ではどうにでもなる富、財産、金です。その使い方において、弟子たちには賢明であれと勧告されるのです。何故ならば、富、財産、金は、決してその人自身の所有物ではあり得ず、全てが神から委託されたものであり、人はどこまでもその管理人であるからなのです。あの不正な管理人が、主人から託された富を巧みに操作して、それによって多くの負債者を自分の友にしたように、私たち、主に従うキリスト者に対して、自分に託された富、金、財産によって友を作りなさいと命じられるのです。

あのルカ10章の「良きサマリア人」の喩えでは、隣人とは誰かが明らかにされましたね。自動的に自分の隣近所にいる人々が隣人なのではないのです。自分から進んで他者の隣人になることが教えられています。それは友にも言えることです。友達になってくれたから友、話しや趣味がピッタリ合うから友なのではく、友とは自分から進んで友になるべき性質のものなのです。イエス様は、あのヨハネ15章で「私はあなたがたを友と呼んだ」と弟子たちに語られました。イエス様は、「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」と弟子たちに語られました。イエス様はその上で「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」と語られたのです。友になること、それは自分から先行する行為であります。誰かが自分の友達になることを待つことではありません。誰かを友とするために、自分の持てる、所有する富を生かし用いようとする行為なのです。 私たちはどれだけ、多くの人々の経済的支援によって生かされてきたことでしょうか。誰一人自分の力で生きてきたとか、これからも生きていけるなどと言える人はいないはずです。

私が今の妻と再婚した30代の半ばでした。2年生になったばかりの長男が遊んでいる最中に1メートルほどの高さから転落して頭を強打し、救急車で脳外科に運ばれました。脳内出血と診断され、緊急手術を受ける事件がありました。それから一ヶ月入院したのですが、妻は幼い三人の子供の世話があるため、付き添えません。私が付き添いをしなければならず、その結果一ヶ月、勤めていた工場を休まざるを得ませんでした。もうそろそろ退院する日が近づいたその時でした。私たちが通っていた教会の牧師が病院を訪ねて来られたのです。牧師の奥さんはノルウェーの婦人宣教師オーゴット先生でした。ノルウエーのある方が匿名で私たちを指名し、送金してきたと20数万円を手渡してくれたのです。驚きでした。それは、入院費用と次の一ヶ月分の生活費に十分な金額でした。これはあるノルウエーのクリスチャンが、匿名でご自分の富を私たちに提供することによって、私たちを友とされたことなのではないでしょうか。私たち夫婦は、このことに関して、心から神に感謝しました。

.富の限界

主は言われました。「そこで、私は言っておくが、不正の富で友達を作りなさい。」そしてその上で、主はこう言われるのです。「そうすれば、富がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」これはどういう意味でしょうか。「そうすれば、富がなくなったとき」これは、人の富の所有には限界があるということでしょう。神の御前には財産所有者というものは存在しません。神に属する財産の管理人、管理者があるのみです。そして、表面的に、或いは合法的に人が所有しているように見える財産、富、資産、金は、その使用する期間には限りがあるということなのです。どんなに自分名義で確かに所有していたとしても、いつまでも無限に所有し、手元に置き、自由に使えることはできないのです。人は自分の死によって、一切の富、財産を手放さなければなりません。そうではありませんか。私たちは詩篇49編の言葉を心に刻みおくべきでしょう。6〜13節こう記されています。

「災いの日に、なぜ恐れることがあろうか、私を追う者の悪に取り囲まれるとも。彼らは財宝を頼みとし、富の力を誇る。しかし、人は兄弟を贖うことができない。神に身代金を払うことはできない。魂の贖いの値はあまりに高く、とこしえに払い終えることはない。永遠に生きることができようか、墓穴を見ずに済むであろうか。まことに人が見るのは、知恵ある者が死に 愚かな者や無知な者と共に滅び財宝も他人に遺さなければならない、ということ。彼らが土地を自分の名で呼んでも、墓がとこしえに彼らの家、代々に彼らの住まい。人間は栄華のうちにはとどまれず、屠られる家畜に等しい。」そして更に、18節はこう語ります「死に際して、携えて行けるものは何もなく、栄誉がその後を追って下ることもない。」これが真理なのです。

このルカ16章の19節以降に記された「金持ちとラザロ」物語の金持ちは、自分の富の全てを派手で贅沢な生活を楽しむためにのみ使って日々暮らしていました。しかし、決定的な時が来たのです。彼の寿命は尽き、彼は死んで黄泉に降らざるを得なかったのです。確かに自分の富、財産を自由自在に自分のためだけに使うことはできます。しかし、必ず限界が来るのです。そして、人はその限りある期間に自分に委ねられた富をどのように使うかによって、自分の永遠が決まることになるのです。自分中心のこの金持ちの行先は、永遠の火炎地獄でした。人には例外なく万策尽き果てる日が必ず到来するものです。どんなに策を弄しても自分の死を免れることはできません。

.富の報酬

それゆえに、主は「不正の富で友達を作りなさい」と命じられるのです。何故でしょうか。それは委ねられた富を正しく管理することによって、富が永遠の報酬をもたらすからです。主は言われました、「そうすれば、富がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」あの不正な管理人は、主人から預かった財産を抜け目なく使うことで、主人から首にされても、生きていける仲間を獲得しました。主は、この譬えを用い、あの不正な管理人が賢く振る舞ったように、あなたの富を正しく管理するなら、あなたは必ずや永遠の住まいに迎え入れてもらえるのだと教えられるのです。

家を持つことは「男子一生の仕事」とか男子の本懐、本望だという言い方があります。私たちの教会の周辺にはいつの間にか、新しい家が続々と建築されてきました。全く様変わりです。自分の自由になる持ち家を、マイホームを所有できること、それは素晴らしいことです。十分な住宅資金を確保できれば、立派な家を新築することができることでしょう。中には潤沢な財産、富を所有する故に、御殿のような豪華な住宅を実現する人もいるでしょう。しかし、それは永遠の住まいには比べるべき何物でもありません。どこまでも仮の宿に過ぎないのです。主イエス様は言われるのです。「不正の富で友達を作りなさい。そうすれば、富がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」先週のメッセージはコロサイ3章からでした。そこでは「上にあるものを求めなさい。上にあるものを思いなさい。」と勧告されていました。神がおられる天、キリストがおられる天、天こそ永遠の住まいである。ピリピ書3章20節には「私たちの国籍は天にあります。」と告白されています。それがキリストを信じた信者の希望に違いありません。しかし、現実に、神の管理者とされているにも関わらず、自分に委ねられた富、財産、金を自分のためだけに無駄遣いをしている人には、永遠の住まいの現実性は全く乏しいことになります。天国の市民である証明は、その人が神の目に、実際に自分の富、財産の忠実な管理人であるかにかかっているのです。ヤコブはこう語りました。「信仰は、行いが伴わなければ、それだけでは、死んだものです。」(ヤコブ2章17節)人はキリストを信じる信仰により救われるものです。これは不動の真理であり、恵みにより憐れみにより、十字架の罪の赦しにより救われます。しかし、その信仰は行いによって実証されるべきものでもあることも不動の真理なのです。

主は10節でこう語られます。「ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。」「ごく小さなこと」とは何でしょうか。不正の富の管理なのです。自分に委ねられた富、財産、金銭の管理なのです。それ故に、主は11節で続いて、「だから、不正の富について忠実でなければ、誰があなたがたに真実なものを任せるだろうか。」と言われるのです。そればかりか12節で更にこうも言われています。「また、他人のものについて忠実でなければ、誰があなたがたのものを与えてくれるだろうか。」神は束の間の人生において、管理人として忠実に生きる者には、永遠の住まい、すなわち天において、大きなことをその人に任せる計画があります。そして、その人には、その人のものとなるものを、与えられることも神のご計画なのです。その上で、主は最後に13節で、人間の根本的なあり方を指摘され、こう教えられました。

「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」主は、あなたが、富の管理者である前に、富に仕える富の僕、奴隷なのか、それとも神に仕える神の僕なのかを問われておられるのです。神に仕える神の僕でなければ、富、財産、金を所有し、それを自分の自由に使っているはずなのに、いつの間にか、実は、富の奴隷となり、金銭に使われることになってしまうのです。

聖書は厳しく富に関してこう警告しています。「もっとも、満ち足りる心を伴った敬虔は、大きな利得の道です。私たちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、私たちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が人を破滅と滅亡へと突き落とすのです。金銭の欲が諸悪の根源だからです。金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、さまざまな苦痛でわが身を刺し貫いた者たちもいます。」(テモテ第一6章6〜10節)聖書は「信仰から迷い出て」と、信仰ある私たちに警告を与えています。

私たちはこの世にあってこの世の者ではありません。イエス様を信じ受け入れたことによって、全く新しい存在へと入れられました。主は8節で「この世の子らは光の子らよりも、自分の仲間に対して賢く振る舞っているからだ。」と言われましたが、イエス様を信じる弟子たちは光の子なのです。そして、光の子はこの世の子ら、信じていない者よりも、もっと賢く、懸命に振る舞えと言われているのです。それは自分の富を、自分の財を神から託された管理人として、愛の心で他人を生かすために大胆に使いなさいと言われるのです。これは大きなチャレンジではありませんか。経済中心主義的なこの世にあって、主の弟子は、大胆な経済活動をすることが求められ、またできるのです。この新しい週の歩みの中で、友を作るために、富の新しい使い方を実践していこうではありませんか。

9月17日礼拝説教(詳細)

「新しい人を着る」  コロサイ3章1〜11節

あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地上のものに思いを寄せてはなりません。あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているからです。

あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。だから、地上の体に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかなりません。

これらのことのために、神の怒りが不従順の子らの上に下るのです。あなたがたも、以前このようなものの中に生きていたときは、そのように歩んでいました。しかし今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、冒瀆、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。

互いに噓をついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、新しい人を着なさい。新しい人は、造り主のかたちに従ってますます新たにされ、真の知識に達するのです。そこには、もはやギリシア人とユダヤ人、割礼のある者とない者、未開の人、スキタイ人、奴隷、自由人の違いはありません。キリストがすべてであり、すべてのものの内におられるのです。

聖書はコロサイ3章からお読みします。この礼拝の準備をする中で、「醜いアヒルの子症候群」という人の悩みのあることが分かりました。醜いアヒルの子症候群とは、幼い頃に違った扱いを受けたりすることで、大人としての自分に自信が持てないというものです。その特徴は、自分は特別な存在ではないと思う、他人のお世辞は素直に聞けない、自意識過剰である、自分が好きになれない、恋から逃げようとする、などが挙げられています。これは、アンデルセンのお伽話で、小鳥が虐待と苦しみの末に、最後には美しい白鳥に変わるというあの「醜いアヒルの子」から取られたものです。今日のこの御言葉は、醜いアヒルから美しい白鳥に変わる話しではありません。人が古い人から新しい人に変わる話しです。

.人の定義

今朝、この場に居合わせる私たちは、もちろんアヒルでも白鳥でもありません。たった一つの共通点、それは私たちが人間であることです。好きでも嫌いでも私たちは人間なのです。寝ても覚めても人間です。人間であることから逃げ出すことはできません。私たちは自分自身にこんなにも毎日近くにいるのに、分かっているようでいて分からないのが、自分が人間であることです。英国の文学者サムエル・ジョンソンが、話の中で古代の哲学者の人間の定義を引用し、「人間とは羽毛のない二本足の動物である」と言ったところ、ライバルが鶏を捕まえてきて、その羽毛を全部引き抜き裸にして、「これがそうか?」と突き出したという逸話があります。その後でジョンソン自身が自分の定義を語るのですが、それは「人間とは自分の食べ物を料理する動物である」であったといわれています。人間とは一体何ものなのか?ある人はホモサピエンス(英知人)と言います。ある人はホモフェーバー(工作人)と言います。ある人はホモルーデンス(遊戯人)、ある人はホモペーシェンス(苦悩人)と言います。どれも要点を突いており間違いではありません。では聖書は人間をどのように定義しているでしょうか。

①造られたもの

聖書は非常に明瞭に、人間は造られたもの、神によって創造されたものである、と定義します。それは創世記1章27節に「神は人を自分のかたちに創造された」とあるからです。更に2章7節を読むと、「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。」とあります。非常に面白いことに、聖書の書かれたヘブライ語では、土と人が語呂合わせになっていることです。土はアダマーで、人がアダムなのです。聖書では人間はアダム、すなわち土、泥、粘土なのです。人間は地の塵から取られ、また塵に戻る土塊なのです。その人間アダムは神の創造の業の最後に造られました。神の似像として創造され、神と共に生き、共に働くよう、神の愛の対象として造られた被造物中の最高の傑作なのです。

② 堕落したもの

しかし、聖書は人間をその上で、罪の故に堕落したものと定義します。ローマ3章23節によれば、こう定義されます。「人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている」この罪とは新約聖書の書かれた原語でハマルティアと言い、その本来の意味は、的外れです。聖書は、人が人生の生きる目的からズレ、的外れに生きていることを罪と言うのです。人間は、その最初の人アダムとエバが、エデンの園で神に逆らい罪を犯した結果、全ての人がその影響を受け、罪を犯したとされるのです。私たちはそれを原罪と呼びます。その結果、それ以後の全ての人間は、人種、文化、歴史に関係なく、神との関係から堕落し、的外れな生き方をしている、聖書は人間を堕落したものと定義するのです。

③呼び出されるもの

ところが、聖書は更に人間を定義し、人間は神に呼び出されるものである、と言われているのです。毎朝8時から N H K で放映されている連続テレビドラマ「らんまん」は、日本に実在した植物学者の牧野富太郎をモデルにした作品です。牧野さんは、高知県の酒問屋の跡継ぎであったにも関わらず、家業を投げ出し、植物研究に一生をかけ、94歳の高齢で世を去りました。その生涯に彼が採集した植物は60万点に及び、そのうち1500種が新種と認定されたと言われます。牧野博士の無上の喜び、それは新種を発見し、それに自分の名前を交えた名称を命名し、それを辞典に残すことでした。新種の植物を採取し、新しい名を命名すること、それは、言い方を変えれば、新しい存在に呼び出す創造的な業なのです。

万物の全てをその名を呼ぶことによって存在に呼び出された創造の神は、罪によって堕落した人間を、本来の人間の在り方に回復するために、今現在、全ての人々に呼びかけておられます。神の子イエス・キリストが、この世に来られたのは、神が人を新しい存在に呼び出すためでありました。イエス様が、弟子たちに向かって、「私に付いて来なさい」と語りかけたことは、人間を新しい本来の姿に呼び出す創造の働きでした。そして、イエス・キリストによって、この世から呼び出された者たちの集まりが教会なのです。ペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」と告白したとき、イエス・キリストは言われました。「私はこの岩の上に、私の教会を建てます。」この教会の原語エクレシアは、「呼び出された者の集まり」という意味です。今日、私たちがこの場所に集まり、神を礼拝しようとしている。それは、イエス様が、私たち一人一人を新しい存在に、この世から呼び出された結果なのです。

.人の脱着

その呼び出された私たちに、今日、主によって何と呼びかけられているかと言えば、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、新しい人を着なさい。」と言われているのです。この脱ぐとか着るという表現は、全く分かりやすいもので、私たち全ての人に馴染み深い毎日の行為、それは衣服の着脱です。小さい幼子や、高齢で病弱な人は衣服の着脱は人の助けを受けなければできないでしょうが、ほとんどの人は何の苦もなく衣服の着脱はできる行為です。聖書は、私たちに、私たちの慣れ親しんでいる衣服の脱着の行為を使って、ここに比喩的に語りかけておられることが分かります。

①脱着する衣服

では、9節で「古い人をその行いと共に脱ぎ捨てなさい」と言われる古い人とは、一体何を指しているのでしょうか。古い人とは、時間的に言えば、過去に神を知らずに生きていた古い自分のことなのです。それを衣服で質的に喩えて言えば、汚れてヨレヨレで擦り切れた使い古しの服です。まとめて袋詰めにして、さっさとゴミに出すような服です。その古い自分の行いを5節では「淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲」と5つ列挙しています。「淫らな行い」とは、不品行や姦淫のことです。婚前交渉や婚外交渉のこと、諸々の性的不道徳です。「汚れた行い」「情欲」とは、不潔な行いであり、性の変態、性の倒錯、サディズム・マゾです。「悪い欲望」「貪欲」とは、悪欲、邪欲であり、より多くを所有したがる欲望のことです。

そればかりではありません。8節では古い人の特徴をここでも5つ挙げ、「怒り、憤り、悪意、冒瀆、口から出る恥ずべき言葉」であるとしています。「怒り」とは持続的な怒り、はっきりした憎悪の態度です。「憤り」とは激しく燃え盛る怒りの感情、瞬発的な怒りです。「悪意」とは人を傷つける態度、卑属で悪意を持つゴシップです。「冒瀆」とは誹謗、中傷すること、口頭による名誉毀損です。「口から出る恥ずべき言葉」とは淫らな言葉、口汚い悪口のことです。そればかりか更に9節には「互いに噓をついてはなりません」と嘘、偽りも挙げられています。

7節には「あなたがたも、以前このようなものの中に生きていたときは、そのように歩んでいました」と聖書は言います。古い人、古い自分とは、このようなものの中に生きていた自分のことなのです。それにどっぷり染まっていた自分のことなのです。

それでは10節で、着用しなさいと言われる新しい人とは何を指しているでしょうか。それは時間的に言えば、イエス・キリストを救主と信じ、神に立ち返ってからの新しい自分のことです。それは衣服で質的に喩えて言えば、パリと清潔に洗濯され、アイロンがかけられた、斬新なデザインの明るい服装なのです。新しい人、新しい自分の特徴、それは12節で「あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容」と5つ挙げられます。13節では、新しい人とは、相互に耐え忍び合い、赦し合う人だと言われます。14節では、新しい人は愛を帯のように着けると言われ、15節では、平和が心を支配していると言われます。そればかりか、感謝に溢れ、神に向かって賛美を歌う、それが新しい人、新しい自分だと言われます。

②着脱の理由

「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、新しい人を着なさい。」では、着脱せよとの命令のその理由根拠はどこにあるのですか。何故ですか。5節が「だから」で始まっているということからして、その前の1〜4節が勧告、命令の理由だということになりますね。読み直してみましょう。「あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地上のものに思いを寄せてはなりません。あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているからです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」

これによって、古い人と新しい人を脱着するのに動機付となる理由根拠は、イエス様を主と信じることによって、自分の生きる方向が決定的に決まったからだと分かります。それまでの自分の生き方は、どこに向かって行くべきか、全く分からなかったのです。「あなたは、どこから来て、何処に行こうとしているのですか?」と聞かれてズバッと答えることができたでしょうか。できなかったのです。しかしながら、何故か不思議とイエス様を救主として信じた結果、自分の生きる方向が天国であることがはっきり確定したのです。神の子イエス様は、十字架につけられ死に、三日目に復活され、天に昇り、父なる神の右に着座されました。イエス様を信じるとは、イエス様と一つとなり、イエス様の全てに、全面的に預かることです。イエス様が死ぬことにより、古い自分が、一緒に死にました。古い自分は、イエス様と共に墓に埋葬されてしまったのです。イエス様が復活することにより、新しい自分も、主と一緒に復活しました。イエス様が昇天することにより、新しい自分も主と一緒に昇天し、イエス様が天に着座されると、自分も主と一緒に天に着座したのです。

エペソ2章5、6節を見てください。そこにはこう書いてあります。「しかし、神は憐れみ深く、私たちを愛された大いなる愛によって、過ちのうちに死んでいた私たちを、キリストと共に生かし——あなたがたの救われたのは恵みによるのです——、キリスト・イエスにおいて、共に復活させ、共に天上で座に着かせてくださいました。」イエス様が昇天して天の御座に着座されたことを、誰でも知っておられることでしょう。主はそれによって栄光を受け、天地の一切の権能を授けられました。しかし、信じた新しい自分自身が、イエス様と一緒に御座に着座したと信じている人は、あまりいないのではありませんか。しかし、これが、信じた新しい自分に起こった霊的な、間違いのない事実なのです。

イエス様を信じたあなたはすでに天上に住み、その住民とされ生きているのだから、地上のことよりも、「上にあるものを求めなさい。」「上にあるものを思いなさい」と勧められているのです。何故なら、地上の生活は束の間の人生であり、天上の生活が永遠だからです。このように天で永遠に生きる命が、私個人に与えられていることを、他の誰も、私たちの周りにいるこの世の人々は知りません。3節「あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているからです。」葉っぱの上を動いていた青虫が、蛹(さなぎ)になって殻の中に入っているみたいですね。外からは見えません。ところが、時が来ると蛹の殻が割れると、そこから美しい蝶々が飛び出します。4節をみてください。「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」そうです。天に昇られたイエス様は再び来られます。主が再び来られる時、その時、新しい自分も一緒に現れることになるのです。これが着脱の動機です。

③着脱の実践

このような根拠理由があるから、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、新しい人を着なさい。」と勧告されるのです。しかしながら、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て」よ、と言われても、習慣化してしまった今までの古い自分の生き方を、そう簡単に捨て切ることができるものでしょうか。5節では「殺してしまいなさい」、8節では「捨てなさい」そして9節では「脱ぎ捨てよ」と言われています。その上で「新しい人を着なさい」と言われたとしても、そうそう簡単に新しい生き方を、実際に実践することが果たしてできるものでしょうか。10節では「着なさい」12節では「身に着けなさい」そして14節でも「愛を帯のように着けなさい」と命じられていますね。

ところで、皆さんの中に、衣服の着替え、着脱がなかなか面倒でできないという方がいらっしゃいますか。どこか障害があったり、病弱であったり、寝たきりであれば別です。私が直腸癌で入院し、手術直後は、ほとんど自分で何もできませんでした。看護師の助けを借りなければ寝巻きさえ着替えられません。当然です。しかし、普通の健康状態である限り、自分の衣服の着脱は今でも全く苦もなくできます。そうです。古い人を脱ぎ、新しい人を着ることはできるのです。可能なのです。何故なら、イエス様を信じることにより、イエス様と一つとなり、イエス様の中に生かされ、イエス様に治められている者とされているからです。イエス様を信じることにより、信じたあなたは、瞬間的にイエス・キリストの中に移されているので、それ以来、着脱する力が与えられているのです。肝心なことは、古い人を行いと一緒に脱ぎ捨てる意志があるかどうかなのです。新しい人を着る意志があるかどうかなのです。

ペテロと弟子たちがガリラヤ湖上に夕方漕ぎ出した時に、マタイ14章22節から記された事件ですが、真夜中に大嵐に遭遇する事件がありました。その時、真夜中の嵐の只中にイエス様が湖上を歩いて船に接近してこられました。その時、ペテロがイエス様に「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いて御もとに行かせてください。」とお願いしています。すると、主が「来なさい」と言われたのです。その時、ペテロはどうしたでしょうか。そうです。ペテロは何と船から降りて水の上を歩きイエス様の方へ進んでいくことができたのです。驚きです。実はこれと同じことなのです。古い人と新しい人の着脱は、その人がそうしようと意志し、脱ごうとすれば、神の力が働いて、脱ぎ捨てられるし、着ようとして実行すれば必ずすることができるのです。悪い習慣、悪い関係を辞めたい、辞めるべきだと分かっていることがありませんか。悪に誘われているが、別れるべきだと分かっている人がいませんか。主にあって辞める決意をし、辞めるのです。辞められるのです。別れる決断をすれば離れて行くことができるのです。そして、新しい人としての自分の新たな生き方を実践開始することができるのです。

.人の目標

その時、私たちは、神が最初に意図された本来の人間性を取り戻すことが可能となり、人間としての目指すべき目標に向かって進ことができるのです。その目標が、10節に明らかにされています。「新しい人は、造り主のかたちに従ってますます新たにされ、真の知識に達するのです。」そうです。人間の目指すべき目標は真の知識に達することです。真の知識とは、真の神を知ることです。人間の生きる目的は神様を知ることです。神様に栄光を返すことです。その神を知る知識はイエス・キリストそのものなのです。神の形であるイエス様を知ることが神を知ることです。使徒パウロはこう言い切りました。「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためである」(ピリピ3章8節)人生の目標は、キリストを知り、真の神の知識を知的に体験的に知るに至ことです。7節「あなたがたも、以前このようなものの中に生きていたときは、そのように歩んでいました。しかし今は、」そうです。私たちは以前の自分と今の自分は変えられたのです。今でも自分を取り囲む周囲の人からは、醜いアヒルの子のように見られているかもしれません。しかし、キリストにあっては、白鳥の子なのです。神の子なのです。天に召されるその日まで、どこまでも私たちは完全ではありません。完成を目指し現在進行中です。これは人の目には隠されています。しかし、やがてキリストが到来されるその日には、必ずキリストにある新しい自分が明らかにされることでしょう。

最後にヨハネ第一3章1〜3節をお読みし、お祈りしましょう。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどれほどの愛を私たちにお与えくださったか、考えてみなさい。事実、私たちは神の子どもなのです。世が私たちを知らないのは、神を知らなかったからです。愛する人たち、私たちは今すでに神の子どもですが、私たちがどのようになるかは、まだ現されていません。しかし、そのことが現されるとき、私たちが神に似たものとなることは知っています。神をありのままに見るからです。神にこの望みを抱く人は皆、御子が清いように自分を清くするのです。」

910日礼拝説教(詳細)

「塩気確保の秘訣」  ルカ14章25〜35節

大勢の群衆が付いて来たので、イエスは振り向いて言われた。

「誰でも、私のもとに来ていながら、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者があれば、その人は私の弟子ではありえない。自分の十字架を負って、私に付いて来る者でなければ、私の弟子ではありえない。

あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰を据えて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人々は皆嘲って、『あの人は建て始めたが、完成できなかった』と言うだろう。

また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうかを、まず腰を据えて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵の王がまだ遠くにいる間に、使節を送って和を求めるだろう。

だから、同じように、自分の財産をことごとく捨て去る者でなければ、あなたがたのうち誰一人として私の弟子ではありえない。」

「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。土にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」

九月第二週の今日は、ルカ14章からお読みします。私はこの箇所を読んでいて、ふと一つのエスニックジョークが思い出されました。エスニックジョークとはある国の国民性を端的に表すような話で笑いを誘うジョークのことです。今時の愉快なのを紹介するとこれです。

「国際会議で、コロナ禍の今、何が必要かについて話し合われた。アメリカ人が言った。『勇気だ』ドイツ人が言った。『ルールだ』フランス人が言った。『愛だ』日本人が言った。『技術だ』最後にロシア人が言った。『ウオッカだ』みんなが不思議そうに聞いた。『ウオッカを飲むとウイルスを抑制できるのですか?』ロシア人が答えた。『ウイルスを抑制することはできません。しかし、不安を抑制することはできます。』」私が思い出したのは実は次の短いものです。「ドイツ人は考えてから歩く。イギリス人は歩きながら考える。フランス人は歩いた後で考える。」何故思い出したかと言えば、それはイエス様が付いて来た群衆に対し、敢えて振り向いて語りかけられたと書かれてあるからです。そして、その語りかけの真ん中で、主は二つの譬(たと)えを語られます。一つは塔を建設する譬え、もう一つは戦争する王の譬えです。その二つの譬えには、よく似た表現が二度繰り返されますね。塔の譬えでは「まず腰を据えて計算する」です。戦争の譬えでは「まず腰を据えて考える」です。よく分かりますね。この譬えは非常に分かりやすいのです。誰でも何かをする前に考えます。建築しようとするなら、建てるだけの費用があるかどうか事前に計算する。戦争を仕掛けられたら、戦えるだけの軍事力が、果たしてあるか事前に考えるものです。

イエス様は何故こんな譬えを語られたのでしょうか。イエス様の周りには、主の語られる教えを聞いて感動し、主の成された不思議な奇跡の数々を見聞きして驚いた群衆が沢山集まりました。そればかりか、イエス様の後から付いて行こうとしていたからなのです。イエス様の奇跡に惹かれ、その教えを聞いて学ぼうとしてついて行くということ、それは、別な言い方をすればイエス様の弟子になることでしょう。弟子とは教師に付いて学ぶ者のことです。ですから、イエス様が付いてくる群衆に振り向いて、このような譬えを敢えて語られたのは、

「あなた方には、本当に真剣に私の弟子になる覚悟ができているのですか?」と問い掛ける必要があったからなのです。

この箇所最後の塩の譬えはまとめです。語られた話をまとめイエス様は、弟子であるとは塩のようなものであると言われたのです。塩は防腐剤に使われます。料理の味付けに使われます。農業栽培では肥料にも使われるものです。しかし、塩が塩気を失ったら、何の役にも立たないだろう、捨てられるだけだ、と言われたのです。主は、この最後の譬でも弟子の覚悟を問い、「あなたがたは塩気のある塩なのか?」と問われます。「弟子となる覚悟が十分でないと塩気の無い塩同然ではないか、何の役にも立たないのだ」と警告されておられるのです。そういう訳ですから、今日の主の御言葉から、塩気を確保する秘訣を三つ紹介することにいたします。どうぞ各自、自分で受け止め、自己吟味していただきたいと思うのです。

1.塩気確保の秘訣()

塩気確保の第一の秘訣は、誰よりもイエス様を愛することです。主はこう群衆に語られました。「誰でも、私のもとに来ていながら、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者があれば、その人は私の弟子ではありえない。」この「誰でも、私のもとに来ていながら」とは、すでにイエス様に付いて来ている群衆のことです。これから付いて行こうとする人のことではありません。今朝、この礼拝に来会された皆さんは、教会に来始めてからその年数は長短さまざまだと思います。教会に来ること、集会に出ること、それはイエス様に付いて行くことです。弟子となることです。教会はキリストの現時点での身体であるからです。であるとするならば、弟子であるために、塩気を保つ第一の秘訣は、誰よりも何よりもイエス様を優先的に愛することなのです。

主は非常に厳しい、人を躓かせるようなキツイ表現をされました。「父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者があれば」この憎むという言葉は、直接的には嫌悪する、憎悪する、忌み嫌うを意味するものです。父母を憎めですか!自分の子供を、自分の兄弟を、姉妹を、憎めというのですか?それはおかしくないですか?聖書に矛盾していませんか?十戒の第四戒には「あなたの父母を敬え」とあるではありませんか。テモテ第一5章8節の「親族、特に家族を顧みない者がいれば、その者は信仰を否定しているのであり、信仰のない者よりも悪いのです。」という教えに反しているじゃありませんか。次々と疑問が湧いてきますね。

そうです。このままストレートでは意味をなしません。このような場合に役立つ聖書理解の仕方は、他の並行する聖句と並べてみることです。同じ趣旨の主の言葉をマタイがこう10章37節に記しています。「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。」これによって、ルカ14章の「憎む」の意味することは「〜よりも少なく愛する」ことだと理解できます。イエス様はこれによって「私以上に家族、それに私以上に自分を愛する者は私の弟子ではあり得ない」と言われたのです。家族を愛すること、即ち、家族を世話する、顧みる、養う、とても大切なことです。しかし、そうであっても愛の優先順位からすれば、イエス様を第一に優先的に愛することが弟子の条件なのです。

イエス様が大祭司の官邸で審問された際のことでした。弟子のペテロは、三度もイエス様を「私は知らない」と否認してしまいました。イエス様との弟子関係が絶たれたそのペテロの回復記事は、ヨハネ21章に載せられています。その時の、イエス様のペテロに対する問いかけは15節、こうでした。「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」この「この人たち」が、誰のことを意味するのか非常に意味深長な言葉です。ペテロの弟子仲間のことであったとすれば、他の弟子たちの誰よも、イエス様を愛する点で抜きん出ていることを意味したことでしょう。しかし、「この人たち」を拡大解釈すれば、イエス様の語られた「父、母、妻、子、兄弟、姉妹」ともなり、彼らを愛する以上にイエス様を愛することが問われた、と理解することもできます。

アブラハムがイサクを祭壇に捧げたという厳しい試練を物語る創世記22章も、理解を助ける良い参考になるでしょう。子供のいなかったアブラハムに神様の約束が成就して男の子、イサクが誕生しました。それは彼には大いなる喜びでした。その名がイサク(笑い)であったことからしても想像できます。ところが、主なる神は、何とアブラハムにこの独り息子のイサクを犠牲として焼き尽くす生贄として捧げなさい、と命じられたのです。神が世継ぎとして祝福して与えられたのに、その世継ぎを神が奪い取られるとは矛盾ではないでしょうか。しかし、これはアブラハムの神様への愛と献身の試練であったのです。アブラハムのイサクに対する愛情を正しい位置に戻すために、神は彼を試みたのです。アブラハムの神に対する愛が、可愛い世継ぎのイサクへの愛を優先するものでなければ、彼にとっては霊的に非常に危険であったからなのです。アブラハムは神のご意志が分かったのです。それゆえ、彼は翌朝早く、ためらわずに敢然と立ち上がり、イサクを捧げるために旅立ちました。彼は神様を愛することを優先する決意を固めたのです。

人は誰しも、神を最優先するときにはじめて、すべての人間関係を正常に保ことができるものです。主にあって、父、母、子供、兄弟姉妹、そして自分自身でさえも、自分との位置関係を正しくしなければなりません。イエス様が「父や母を憎まなければ」とまで言われるのは、それほどに人間の愛情、愛着関係が強靭にがんじがらめに人を縛りつけ、大切な人間性を破壊する危険があるからなのです。父親が子供を過保護にしてダメにしてしまうことがあります。母親が子供をいつまでも自分のものとして手放さず、支配することがあります。子供が甘えて自立できないことがあります。兄弟姉妹で張り合い牽制することがあります。自分を異常に愛する自己愛がどんなにその人の人間性を破壊してしまうか、それは凄まじいものです。すべてのいびつな人間関係は、神を愛し、神を第一に位置付けることをしようとしない罪の結果なのです。あなたは、イエス様を第一とし、誰よりも愛することを優先することを決断しているでしょうか。それが塩気確保の第一の秘訣であるからです。

.塩気確保の秘訣(2)

第二の秘訣は、イエス様の御言葉によれば明らかに、それは、自分を犠牲にして隣人を愛することです。主は言われました。「自分の十字架を負って、私に付いて来る者でなければ、私の弟子ではありえない。」この「自分の十字架」という表現は、かなり広くこの世の中にも浸透しています。これは、自分の抱えている苦しみや試練のことだと理解されがちです。しかし、主が言われた「自分の十字架」とは、決してそうではありません。「交通事故で半身不随になったが、私はこれを自分の十字架と受け止め一生担っていきます。」とか、「経営した会社が倒産し、多額の借金を抱え込んでしまったのですが、これを自分の十字架として払い続けて行くことにします」とか、「自分の十字架」がこのようにしばしば使われるのですが、主の意味することとは、全く違うのです。

十字架は、当時のローマ帝国の重犯罪者に対する残酷な極刑の一つでした。犯罪者を十字架に釘付ける、あるいは縛り付けて、公衆にさらし者にし、徐々に苦しませ、じわじわ殺す残酷な死刑方法でした。大勢の群衆が付いて来たという、まさにこのとき、主イエスが目指していた目標は、このローマの極刑十字架にかけられることでした。神の子であるイエス様が、人となった目的、それは十字架で死ぬためです。十字架刑は、重犯罪者の罪を罰する死刑でしたが、イエス様は自分の犯した犯罪で罰せられるためではなく、それは、我々人類の罪の身代わりになって、罪を引き受けて罰せられる犠牲の死でありました。

イエス様の弟子であるとは、主イエス様が生きられたように同じ生き方を選択することです。イエス様がこの時、付いてくる群衆を振り向いて、あえて「自分の十字架を負って、私に付いて来る者でなければ、私の弟子ではありえない。」と語られたのは、イエス様が掛けられようとしている十字架と同じ意味で、「あなたがたもまた、他人のために自分の十字架を負う覚悟があるのか」と問われたのです。つまり、主が私たちの為に犠牲になろうとしたように、他人の為に犠牲になる、隣人を愛する愛の覚悟があるかどうか、吟味するよう問いかけられたのです。

数年前に、タイトルが「God Is Not A Christian」という一冊の書物を見つけたのでネット上で購入する機会がありました。訳せば「神様はクリスチャンではない」となります。随分変わったタイトルではないですか。その著者はあの南アフリカ連邦のノーベル平和賞の受賞者、ツツ元大主教です。このタイトルは強烈なクリスチャンに対する皮肉な表現です。彼が1984年に平和賞を受賞した際のことです、「アパルトヘイトに反対するのは勇気がいることだったのではないですか。」と質問されると彼は、「はい。アパルトヘイト体制のもとでは人口の80%を占める黒人が、全土の13%にすぎない痩せた土地に押し込められ、許可なく移動することができませんでした。黒人は白人が住む地域に外国人労働者として出稼ぎを強いられ、街中では白人と黒人やアジア系など白人以外は乗り物もレストランもトイレも別々でした。白人政府は体制維持のためにマンデラ氏ら活動家をいっせいに逮捕、収監しました。」と答えました。彼がオランダの植民地とされたアフリカに見た現実は、クリスチャンと呼ばれる白人たちの非人道的な差別政策そのものだったのです。そこから生まれた書物のタイトルが、「神様はクリスチャンではない」なのです。それはそれは痛烈な皮肉をクリスチャンに対して込めたタイトルです。

クリスチャンという呼称の由来は、使徒行伝11章にあります。シリアのアンテオケ教会からでしたね。自然発生的に誕生したアンテオケの教会にパウロが奉仕するようになり、沢山の人々がイエス様を信じて救われていきました。11章26節にこう記録されています。

「このアンテオケで初めて、弟子たちがキリスト者と呼ばれるようになった」すなわち、クリスチャンとは明らかに弟子たちのことなのです。弟子とはイエス様に付き従い学ぶ者です。その弟子たちがクリスチャン、キリスト者と、しかも他人からあだ名として呼ばれたのは、彼らの生活ぶりがキリストに、きっと似ていたからなのでしょう。

ツツ主教が生まれ育った祖国南ア連邦を植民地としたのは、オランダ改革派の白人たちでした。彼らこそクリスチャンと呼ばれる人々です。そのクリスチャンたちが黒人を奴隷として隷従させていた、それが当時の現実でした。クリスチャンの延長線上に、辿って行けば神様に行き着くのでしょうか?神様はクリスチャンのようなのですか。とんでもないことです。神様はそんな残酷非道なクリスチャンであるはずがありません。主は言われました。「自分の十字架を負って、私に付いて来る者でなければ、私の弟子ではありえない。」イエス様が他人の罪の身代わりの犠牲になられたように、他人の苦しみを共に担い犠牲になることをいとわないのでなければ、主は「私の弟子ではありえない。」と言われるのです。クリスチャンと自称すること自体が欺瞞です。

先週水曜日の祈祷会でY兄から一枚の印刷物をいただきました。それは滋賀県の障害者支援施設の止揚学園のものでした。37数名の障害者と介護職員合わせ100名近い施設です。そこに園名、止揚学園の由来が書いてありました。それはドイツ語のアウフヘーベンの訳語で、ドイツ哲学者のヘーゲルの思想で、「対立する物事から新しい見識を見いだす方法」のことです。正反合と言います。対立する二つの主張が保存されて高い次元の新しい主張が生まれるという理論です。そこから、創始者の福井さんは、障害者と健常者が一緒に生活をすることで新しい生き方を生み出そうと、止揚学園と命名されたと書いてありました。

泉佐野福音教会は、2年後には創立60周年を迎えようとしています。クリスチャンのほとんどいないこの泉佐野市に、クリスチャンの教会が誕生することによって、ここに新しい生き方が生まれることが期待されています。そのために、主は本当に塩気のある弟子、塩気のあるクリスチャンを是が非にも必要とされるのではありませんか。

.塩気確保の秘訣(3)

イエス様が、塩気確保の第三の秘訣として語られたのは、33節です。「だから、同じように、自分の財産をことごとく捨て去る者でなければ、あなたがたのうち誰一人として私の弟子ではありえない。」これまた、字義通りに受け止めれば、大層手厳しい秘訣であります。この自分の財産とは、所有物、持ち物、誰かに所属するもののことであり、新約聖書は一貫して、これを地上の富の意味で用いる言葉であります。「ことごとく捨て去る」とは、別れを告げること、放棄すること、見捨てて去ることです。

イエス様もヨガの断捨離と同じことを提唱されたのでしょうか、と誤解されかねませんが、全く違います。断捨離の断は「断行」、捨は「捨行」、離は「離行」で、断行は欲望を断つこと、捨行は今ある不要な物を捨てること、そして離行は執着している物から離れることというヨガの教えです。断捨離を意識した生活ができるようになるとその効果は、本当に自分に必要な物だけを選定し購入するようになるので無駄遣いを抑える事ができる、自分が管理できる範囲の物だけを身の回りに置いて生活するため探し物が減り、時間と心に余裕が持てるようになる。いいことですね。非常に実践的な教えで、実行すれば役に立つことは間違いありません。

しかし、塩気を確保するための弟子となる秘訣とは、全く違うのです。イエス様が、付いて来る群衆に、全所有物の放棄を求められたのは、人の所有物、財産、富が神様とその人の関係を分厚く遮断する障害物となるからなのです。主は、別な箇所で、マタイ6章24節ですが、こう言われました。「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」この御言葉で「神と富とに」と、神と富が同格に対比されていることに注意してください。どういうことかというと、富が人間にとっては神にとって替われるような存在だということなのです。神の本質は全能です。人は富があたかも全能の神であるかのように錯覚させる魅力的な力が備わっているのです。金さえあれば何でもできる。金さえあれば幸福になれる。お金の魅力は計り知れません。 お金や資産、財産、富が不要だというのではありません。人間は経済的な生き物であり、それによって経済活動をすることは、生きる上で必要不可欠であることに変わりありません。 しかし、その生きる手段である富、財産が神格化し、あたかも何でもできないことのない全能の神のように看做されるようになるなら、それは決定的に人間破壊なのです。主イエス様が、「自分の財産をことごとく捨て去る者でなければ」と言われた真意は、裏返せば真の神様に全面的に信頼して従う者でなければ、弟子にはなれない、ということなのです。

詩篇135篇で、いにしえの信仰詩人がこう歌いました。

「ハレルヤ。賛美せよ、主の名を。賛美せよ、主の僕たちよ。私は確かに知った。主は大いなる方、我らの主はすべての神々にまさる、と。主は何事も御旨のままに行われる。天と地において、海とすべての深い淵において。地の果てから雨雲を湧き上がらせ、雨のために稲妻を造り、風を倉から送り出される。国々の偶像は銀と金、人の手が造ったもの。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、口には息もない。それを造り、頼る者は皆偶像と同じようになる。」

富、財産、人の所有物は必要な手段であっても真の神ではありません。手段が目的になるとき、それは偶像なのです。人の手の造った偶像は、真の意味で何もできないのです。あなたは、どれだけの資産を所有していたとしても、それ自体が問題なのではありません。いつの間にか、あたかも何で望みを叶えてくれる全能の神であるかのように取り違えているとすれば、それが致命的な問題なのです。人はどれだけ蓄えても死んだらそれを持って行くことはできません。

あなたは、いつでも自分の全財産を手放せるように備えておられますか。主は今日、皆さんに顔を振り向いて、「弟子である覚悟ができてついて来ているのか」と語っておられます。イエス様を誰よりも何よりも愛しておられるでしょうか。自分の十字架として、隣人を、他人を自分を犠牲にしてでも、愛する覚悟がありますか。御子を給うほどにあなたを愛される主なる全能の神のみに、全面的に信頼していますか。塩は塩気がなくなれば役に立たず捨てられてしまいます。あなたは塩気を保った主の弟子でしょうか。主の弟子の覚悟で付いて行こうとしておられるでしょうか。

93日礼拝説教(詳細)

「隙を狙われても」  第二コリント11章1〜15節

私の少しばかりの愚かさを、我慢してくれたらよいのですが。いや、我慢してほしい。私は、神の妬みをもって、あなたがたを妬んでいます。私はあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたのです。しかし、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストへの真心と純潔とから離れ去ってしまうのではないかと心配しています。なぜなら、あなたがたは、誰かがやって来て私たちが宣べ伝えたのとは別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたがかつて受けたことのない異なった霊や、受け入れたことのない異なった福音を受けているのに、よく我慢しているからです。あの偉い使徒たちに比べて、私は少しも引けは取らないと思います。たとえ、話し振りは素人でも、知識はそうではない。私たちは、事ごとに、さまざまな機会に、このことをあなたがたに示してきました。

それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたことが、私の罪になるのでしょうか。私は他の教会から奪い取って、あなたがたに仕えるための賃金を得たのです。あなたがたのところにいて生活に困ったときにも、私は誰にも負担をかけませんでした。マケドニアから来た兄弟が私の欠乏を補ってくれたからです。私は何事につけ、あなた方の重荷にならないようにしてきましたし、これからもそうするつもりです。私の内にあるキリストの心理にかけて言います。私のこの誇りがアカイア地方で封じられることは、決してありません。負担をかけないのはなぜでしょうか。私があなたがたを愛していないからでしょうか。それは、神がご存じです。

私は今していることを今後も続けるつもりです。それは、私たちと同じように誇れるようにと隙を狙っている者たちから、その隙を絶つためです。こういう者たちは偽使徒、人をだます働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らの最期は、その仕業に見合ったものとなるでしょう。

少し長い箇所ですが、今朝は第二コリント11章を1〜15節まで読みましょう。私たちは今現在、非常に何もかも便利な時代に生きています。私にとっては、とても役に立つ一つがネットによるメイル配信です。毎週の説教は、プリントすることで希望する方々に郵送するのですが、メイルでも簡単に送信ができるので、大変助かっています。しかし、メイルは便利な反面、気をつけないとスパムにやられてとんでもないトラブルに巻き込まれかねません。先週のこと、娘が朝食に角切りのソーセージを焼いてくれたので、「これは何か」と聞くと「スパムですよ」と言うので、そこからスパムの語源が、実は缶詰ソーセージだと分かった次第です。昔アメリカのコメディ番組の話しですが、その番組に登場する食堂のメニューには「〇〇とスパム」とスパムが付いてくるのしかない。客が注文するたびに、客全員がスパムの歌を歌い、スパムに関係した迷惑な振る舞いを繰り返す。その喜劇の内容から「スパム=迷惑な行為」と結びついた経緯があったということなのです。スパム・メイルとは、受信者の意向を無視して、無差別に大量にばら撒かれるメールのことです。悪質なのは、情報を盗み出すスパムがあり、住所、氏名、電話、メルアド、カード番号の個人情報を入力させ、金銭トラブルを起こすケースがあるのです。皆さんも気をつけてください。

今日お読みした聖書箇所は、使徒パウロが福音宣教で開拓して生み出したコリントの教会に対して、教会に入り込んだ迷惑メイルのような偽教師達に注意するよう促す警告です。パウロは第二次宣教旅行によって、一年半コリントに滞在することで、ギリシャに有力な教会を立ち上げることができました。ところが、パウロが去った後に、いつの間にか入り込んだ宗教指導者達によって、教会が混乱してしまっていたのです。

.婚約した花嫁

使徒パウロは、コリント教会に対してこう呼びかけて言います。「私はあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたのです。」2節。これは、教会がキリストに対して、花婿に対する花嫁のようであるということです。パウロは、その意味で、自分は、娘を花嫁として花婿に嫁がせる父親のようだと言っているのです。教会とは、原語のエクレシアは、呼び出された者の集まりを意味します。その集まり、すなわち教会は喩えて言うならば、キリストの花嫁なのです。聖書には、教会を理解するために、様々なイメージが使われていますね。教会は、キリストの身体である、聖霊の宮である、神の家族である、羊の群れである、キリストの兵卒である、神の民である、といった具合です。どれをとっても教会をイメージし、理解する上で大切な喩えであります。

その中でも最も素晴らしい喩えこそ、教会がキリストの花嫁であることなのです。パウロは、その花嫁であることの大切な意味を、エペソ5章の妻と夫に関する教えの中で、見事に解き明かしております。特に5章30−32節は重要です。「私たちはキリストの体の一部なのです。『こういうわけで、人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。』この秘義は偉大です。私は、キリストと教会とを指して言っているのです。」これは結婚の聖定を教える創世記2章24節の引用です。人間は男と女とに神により創造されました。それゆえ、男女の結婚は、神が聖定してくださった極めて喜ばしい人間の営みなのです。しかも、その男女の結婚の聖定が、特別な秘義なのです。奥義なのです。そこには隠された深い深い意味が込められているのです。聖書は言います、「この秘義は偉大です。私は、キリストと教会とを指して言っているのです。」イエス様を信じた人々の集まりはキリストの花嫁です。

教会がキリストの花嫁であることは何を意味しているでしょうか。

第一に、教会はキリストによって愛されていることです。25節に、聖書は夫に対しこう教えています。「夫達よ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」キリストは教会を愛されました、愛しておられます。アガペーの愛で愛されます。神の愛で愛されます。ご自分の全存在を与えることによって、その絶大な愛を表されました。キリストは、ご自分を教会に全て与えるために、神であるのにもかかわらず、人となり、十字架にご自分を捧げ、罪の赦しを得させるために、犠牲となりました。イエスを信じる者の集まりである教会は、キリストにより格別に愛されているのです。

第二に、花嫁であるとは、教会がキリストによって清められていることです。26節にこう解き明かされます。「キリストがそうなさったのは、言葉と共に水で洗うことによって、教会を清めて聖なるものとし、」私たちが花嫁なる教会に加えられたのは、キリストの言葉を聞いてただ信じたからです。信じて洗礼を受けたからです。水のバプテスマを受けること、それは罪の汚れから清められたことを象徴するのです。それはそれによって、聖とされたこと、主のものとされたことを意味しているのです。

第三に、花嫁であるとは、教会がキリストと婚約したことです。教会は花嫁として選ばれました。しかしまだ結婚してはいません。人は信仰を告白することを通して、キリストに婚約したのです。古代イスラエルでは、婚約は法律的には結婚と同じでした。婚約した男女は、婚約期間を慎ましく過ごして、結婚式に向かうのでした。教会がキリストの花嫁であるとは、教会は未来にキリストの再臨を待望し、天上での子羊の婚宴に備えて待つことなのです。27節はこう言います、「染みやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、傷のない、栄光に輝く教会を、ご自分の前に立たせるためでした。」

私は長女の結婚式のことが、いまだに忘れられません。ウエディングドレスの娘の右腕を父親として抱え、式場入り口で結婚行進曲を待ちました。その最初のメロディを聴くや一歩、娘と踏み出した途端に、私は感情が破れて泣き出してしまいました。それでも父親の役目として、花婿の前まで娘に付き添い、娘を花嫁として手渡したのです。結婚は秘義なのです。奥義です。隠された神秘です。それはキリストと教会を指しているのです。キリストにこよなく愛されていることを、純白のウエディングドレスの花嫁のようにキリストに清められていることを、キリストに一体となる婚宴の日を待たれていることを感謝しましょう。

.隙狙れる花嫁

と同時に、今日、私たちはキリストの花嫁である教会に対して語られた警告を、真摯に受け止めなければなりません。コリント教会に対してパウロが言葉を選んでこう警告しているからです。「しかし、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストへの真心と純潔とから離れ去ってしまうのではないかと心配しています。」これによって、コリント教会に対するパウロの心配が三つ明らかになります。

①純潔の喪失

パウロの第一の心配は、コリント教会のキリストに対する純潔の喪失です。「キリストへの真心と純潔」と言われる、この真心と純潔とは、他に心を動かされず、ひたすら一つのことに心を集中することです。キリスト以外には目もくれず、ひたすらキリストに心を集中することです。これは黙示録2章4節でいう「初めの愛」です。この黙示録ではエペソ教会に対して、「あなたは初めの愛を離れてしまった。それゆえ、あなたがどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。」と警告されました。これはまたエレミヤ2章でいう、「花嫁の時の愛」です。古代イスラエルについて、主は彼らを花嫁と見做し、預言者エレミヤにより語りかけてこう言われました。「行って、エルサレムの人々の耳に呼びかけよ。主はこう言われる。私は覚えているあなたの若い頃の誠実を花嫁の時の愛を、種の蒔かれない地、荒れ野であなたが私に従って来たことを。」2章2節。人が語られたキリストの福音メッセージを初めて聞いたとき、どのような反応をキリストに対して示すか、それは個人差があるでしょう。しかし、信仰を持ってキリストを救い主と受け入れたということは、キリストに対する愛の表明なのです。コリント教会の信者達は、その初めの愛から落ちかかっていました。離れかかっていました。婚約した女性が、将来の夫となることを誓った男性とは別の男性に心が向きつつあるような状態でした。

②思いの汚れ

パウロの心配は、コリント教会に集まる人々の思いが汚されることでした。「あなたがたの思いが汚されて」。人間は考える生き物です、思考の存在です。人は考え行動するものです。人の行動は、心の中で考えたことの直接的な表れです。コリント教会がキリストへの真心が離れ去りつつあったのは、彼らが異なった福音を受け入れたからです。パウロは4節でこう語ります。「なぜなら、あなたがたは、誰かがやって来て私たちが宣べ伝えたのとは別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたがかつて受けたことのない異なった霊や、受け入れたことのない異なった福音を受けているのに、よく我慢しているからです。」パウロがコリント教会のことで心配したのは、一年半かけて福音を宣べ伝え、天塩にかけて教会を立ち上げたパウロが、コリントを後にしてから、その後にコリント教会に入り込んできた偽(にせ)教師達の破壊的な悪影響でした。パウロは、彼らのことを13節で、「こういう者たちは偽使徒、人をだます働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。」と批判しています。彼らは自分たちのことを「キリストの使徒」だと、コリント教会の人々に、堂々と自称していたに違いありません。彼らは、そればかりか、コリント教会の開拓者である使徒パウロを徹底的に批判していたようです。

第一に、パウロの話し振りはプロ級ではなく、ど素人だと酷評しました。ギリシャでは、知性豊かで説得力のある雄弁家が尊敬されていました。前の章の10章10節では、パウロは自分がこう人々から思われていると、『「パウロの手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者がいる』と書いたことからもわかります。

第二に、パウロは自分の教える内容に、全く自信がないから、コリント教会で無報酬で奉仕していたのだと、彼らは辛辣に批判したようです。自信があったら報酬を要求したはずだと言っていたのです。パウロは、コリントでの一年半の滞在中、教会から報酬を得ることを全くしません。彼は、他の教会からの支援で自分の生活はまかなったようです。パウロはその理由を9節で語ります、「あなたがたのところにいて生活に困ったときも、私は誰にも負担をかけませんでした。マケドニアから来た兄弟が私の欠乏を補ってくれたからです。私は何事につけ、あなたがたの重荷にならないようにしてきましたし、これからもそうするつもりです。」と言います。パウロは別の所で、これは第一コリント9章ですが、使徒の権利としてこう教えています。「主は、福音を宣べ伝える人達には福音によって生活の糧を得るようにと、命じられたのです。」その上で、「しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。」と言います。パウロが無報酬の奉仕に徹した主要な理由は、人の負担にならないこと、重荷にならないことでした。彼は自分の生活のために、時には天幕造りで仕事をして生計を得、時には他の教会からの支援で自活して宣教活動を実行することを常としていたのです。それを偽教師達は逆手に取って、「それはパウロの自信の無さによるものだ、プロとしての自信がないから報酬を得ることができなかったのだ」と揶揄したのです。 

そうした上で、彼らは、パウロの宣べ伝えた福音とは別の違った教えをコリント教会に持ち込んで、教え込んでいました。4節の言葉使いに注意してください。「別のイエス」「異なった霊」「異なった福音」を宣べ伝えていると言います。彼らがパウロの去った後で宣べ伝えていたのは、似て非なる教えでした。それはギリシャ神話の神々、ゼウス、ヘルメスやアポロンではありません。そうであれば違いがはっきり分かったことでしょう。彼らがコリント教会に教えたのは、それとは簡単には識別し見極めることの難しい、別のイエス、異なった霊、異なった福音だったのです。それは、私たちがキリスト教異端と呼ぶところの似非キリスト教です。イエス・キリストの神性を否定する教えは異端です。彼らはイエス様が神であるとは認めず、単なる人間で、偉大な道徳家だとする人々です。イエス・キリストの人性を否定する教えは異端です。彼らはイエス様が人間であることを認めません。神が人間になると言うことは馬鹿げている、と考えるのです。イエス・キリストは幻影に過ぎない、実体ではないとするのも異端です。イエス・キリストの十字架の死と復活を否定する教えは全くの異端です。現代においても、宗教的分類ではキリスト教に入れられても「モルモン教」は異端です。「エホバの証人」も異端です。「統一原理」などは徹底的に異端です。

③汚すサタン

しかし、私たちの心を汚す張本人は、偽教師、偽使徒なのではなく、実は、その背後にあるサタンであることを見極めなければなりません。13節でパウロはこう断言します。「こういう者たちは偽使徒、人をだます働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。」その上で、「しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の天使を装うのです。」私たちは、創世記3章のエデンの園の誘惑物語を絵空事などと断じて思うべきではありません。サタンが人間を騙し、汚し、滅ぼそうとする暗闇の業は、極めて現代的で深刻な現実なのです。3節で「エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて」語られるように、現実は、人の心の隙が常にサタンによって狙われているのです。蛇とは悪魔、サタンの象徴的な動物のイメージです。エバは蛇に騙されたのですが、エバは蛇をどのように見ていたのでしょう。決して狡猾な生き物だとは見なしていなかったのではないかと思われます。むしろ、利口で、神のような賢さを持てるように教えてくれる一見優しい、親切な存在として見ていた感があります。旧約学者の鍋谷尭爾氏は「女の前に現れた時の蛇は、かわいいリスやウサギのような形であったと思われます」と記しています。パウロが心配したのは、コリント教会の隙がサタンに狙われ汚されることでした。

.隙を絶つ花嫁

キリストの花嫁とされた教会は、隙を狙って突いてくるサタンに対抗し、隙間を絶たねばなりません。私と妻は、ウイーン滞在中に最初の住まいで泥棒に入られたことがありました。私たちは集合住宅のベランダ付きの一階に住居を得ました。ある夕方、家内と買い物に行っていた時間は 1 時間程度でしたが、帰宅し、玄関の鍵を開けると、誰かが出ていく物音がしました。中に入って見れば、それは空き巣狙いが荒らした後でした。大した被害が無かったのが不幸中の幸いです。空き巣は、文字通り私たちの隙を狙っていたのです。ベランダには鉄製の開戸式のシャッターがありましたが、私は一度も使用したことがありませんでした。空き巣はバールで大きなガラスの引き戸を押し上げ、まんまと侵入したのです。見ればどこのベランダもシャッターを閉めているではありませんか。私たちは隙だらけだったのです。すまいだけではなく、心の隙間を塞ぐ手立てを日頃からしておきましょう。

①牧師に我慢する

第一に自分の教会の牧師に我慢してください。パウロがコリント教会にこう願ってます。「私の少しばかりの愚かさを、我慢してくれたらよいのですが。いや、我慢してほしい。」1節。今日のように世界中の教会の牧師達の説教を聞ける時代はありません。テレビやネットで他の教会の能弁な説教者を見たら自分の教会の牧師には我慢できなくなるかもしれません。しかし、どんなに訥弁であっても我慢して説教に傾聴してください。そして牧師のために祈ってください。「私が語るべきしかたで語って、この秘義を明らかにすることができるように祈ってください。」(コロサイ4:4)とパウロは教会に要請しています。

②異なる福音に注意する 

第二に世界中にスパム・メイル、迷惑メイルのように、蔓延する異なる福音に注意しましょう。これだけ情報化の進んだ時代にあっては、説教を聞くのも、読むのも、自分の所だけに限定しましょう、などと呼びかけること自体不可能なことです。情報に関して人を制約することなど出来ない時代です。各自が、聞く耳と、選択する能力を養う他にすべがありません。必要であるならば、様々な牧師・伝道者、説教者について、キリスト教番組について、信仰的書物について、牧師に相談することも役に立つかもしれません。私自身は、広く福音的な説教、信仰良書を聞き、読むことを進める立場です。しかし、問題があるケースに気づけば、避けるよう提案することができるでしょう。

③御言葉に接し読み聞く習慣を身につける 

パウロは愛弟子のテモテにこう勧告しました。「私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい」テモテ4章13節。そうです。聖書の朗読を聞くだけで非常に有益なのです。携帯の便利なスマホには簡単に聖書ソフトをダウンロードすることができます。読むだけではなく、音声で聖書朗読を聞くこともできます。どうぞ有効に活用してください。そればかりか、聖書をグループで読み学び合う機会を増やすことです。家庭集会での学びや木曜日の聖書セルを活用ください。それに今月からスタートするバイブル・アカデミーの継続的な学びなどは、率先して活用することをお勧めします。

④未来から現在に生きる 

心の隙間を塞ぐ大切な方法は、この箇所から言えることですが、自分の生き方を未来から現在に向かって生きることです。現在から未来に生きるのではありません。何故なら、教会はキリストの花嫁であり、婚約した私たちは、キリストが来られる時に喜びの結婚式に預かることが確定しているからです。未来には喜びに満ちた希望があるのです。教会には人生の目的が開かれた未来にはあるのです。未来に実現するキリストの再臨に焦点を合わせ、そこから現在に目を向け、自分の責任を果たすのです。

サタンは非常に狡猾です。蛇のように騙そうと教会は狙われています。私たちはある意味、隙だらけかもしれません。しかし、主に従い、悪魔に立ち向かう限り、隙が狙われても大丈夫です。「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」と箴言4章23節が語ります。サタンに隙を与えないよう注意しましょう。この新しい週の歩みにおいても、心の隙を絶ち、キリストの花嫁として主イエス様に日々お従いすることにしましょう。