227日礼拝説教(詳細)

「子供たちのパン」  マルコ7章24〜30節

さて、イエスは、そこを立ち去って、ツロの地方に行かれた。そして、だれにも知れないように、家の中にはいられたが、隠れていることができなかった。そして、けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏した。

この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生れであった。そして、娘から悪霊を追い出してくださいとお願いした。

イエスは女に言われた、「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。

すると、女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。

そこでイエスは言われた、「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」。

そこで、女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

 今日、読んでいただいた聖書箇所は、キリストがティルス地方に行かれた際に起こった出来事で、フェニキアの女の悪霊に憑かれた娘が癒された物語です。

キリストが何故、フェニキアに行かれたのか、また何故、ある家に入り誰にも知られたくないと思われたのか、その理由はここでは明らかにされていません。先週水曜日の祈祷会で、男子は一階ホールで集まり祈ったのですが、終わってその帰り際に、一人の兄弟が、棚の雑誌を指し示し、「先生、今月の『舟の右』雑誌の特集は牧師の休暇になっていますよ」と注意を促してくれました。可能性の一つとしては、食事する暇もなかったキリストと弟子たちは、しばし休息するために休暇で国外に出たのかもしれません。或いは、何かと敵対する律法学者との論争を避けるためであったか、それとも、自分の不倫を糾弾した洗礼者ヨハネを斬首したガリラヤ領主のヘロデ王が、ヨハネの再来ではと恐れて殺害しようとするのを避けるためであったのかもしれません。ところが結果的には、人々に気づかれてしまい、しかも、いち早く駆けつけたのがフェニキアの女でした。フェニキアと言えば現在のレバノンの辺りと思えば見当がつきますね。この女には可愛い娘があり、しかもその娘は気の毒にも悪霊に憑かれ苦しめられていたのです。だから何としても癒して欲しいと、女は足元にひれ伏し、キリストに懇願しているのです。すると、その女に対して、キリストは「先ず、子供たちに十分に食べさせるべきである。」と言われました。そればかりか続けて「子供たちのパンを取って、子犬に投げてやるのはよくない。」とまで言われたのです。

 このキリストの短い語りかけで、「子供たち」と「子犬」が対照的ですね。場所が場所、ユダヤではなくフェニキアですから、「子供たち」がユダヤ人を表し、「子犬」が異邦人を意味して語られていることは明らかでしょう。聖書では、イスラエルが神の子と呼ばれていました。モーセが、奴隷であったイスラエルの民を解放させるため、エジプトのパロに遣わされた時、こう言えと命じられています。「主はこう言われた。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。』」出エジ4章22節です。また預言者ホセアも11章1節に、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」と主の言葉を語っています。旧約聖書によれば、神の目にイスラエルの民は神の子なのです。「神の子」とは明らかに特別な権利ですね。聖書によれば、イスラエルの民は神から特別な権利を与えられた宝の民であったのです。

誰かの子供であるということは、その親子関係が普通、正常であれば、その子供には、他の子供たちとは違って、特権があるということになりますね。第一に、親から愛される特権が子供にはあるでしょう。第二に、親から保護され守られる特権も子供にはあります。第三に、親から育てられ教えられる特権も子供には備わっています。そればかりか、親の資産を必ず相続することになる特権が子供にはありますね。

私が60歳から70歳まで、オーストリアの首都ウイ—ンで10年間、教会牧師として奉仕している間に、私の父が102歳で逝去いたしました。長生きしたのです。当然、遺産相続が浮上しました。私は五人兄弟で、上に兄二人、姉二人がいました。姉二人は独身を通していたため、父は姉二人には、多く与えるように遺言していたので、姉たちには各々に600万円、男達は300万円と決まり、分配されることになりました。今思い出しても、その父の遺産がウイ—ン宣教でどれほど役立ったか知れません。それは父の子供としての特権でした。

しかし、イスラエルの民の神の子の特権は比較できない驚くべき豊かなものです。天地の創造者であり、万物の所有者の子なのですから。イスラエルは特別に神に愛され、神に保護され、神に育てられ、神の嗣業を受け継ぐ特権が与えられていたのです。ですから、主イエスが、「先ず、子供たちに十分に食べさせるべきである。」と言われたとき、それはすべて物事の順序として、神の子であるイスラエルが優先的に第一に扱われるということを意味したのです。

 では何ゆえに、イスラエルの民が特権のある神の子とされたのでしょうか。神の子とされる何か特別な条件を彼らが満たし、優れていたからでしょうか。普通、私たちの生活の中での親子関係では、子供となる条件は二つしかありませんね。一つは父と母の間に誕生することでしょう。もう一つは養子縁組によって法律的に子供とされることです。しかし、イスラエル民族が神の子とされた条件は、そのどれでもありませんでした。彼らが神の子とされた条件は、ただ一つ、一方的な神の選びだったのです。それは、創世記12章のアブラハムに対する神の召しで明らかで、神はアブラハムを呼び出され、彼にこう言われました。2節「私はあなたを大いなる国民とし、祝福し、あなたの名を大いなるものとする。」これは一方的な神の選び以外のなにものでもありません。このアブラハムからイサクが生まれ、イサクにヤコブとエサウが生まれ、ヤコブから12部族が生まれ、イスラエル民族が、長い歴史の過程で形成されたのです。ところが実は、その神の選びには、人類救済の遠大な計画が込められていたのですね。最初に創造された人、アダムとエバが罪を犯し、神から離反し堕落したため、この人類を救済するために、一つの民族を造り、その民族からキリストを、救い種をこの世に送り出すための計画だったのです。そして、驚くことに、キリストがこの世にこられ、この神の計画が実現した今現在、神の子となる全く新しい条件が明らかにされました。それが、キリストを信じる信仰なのです。

ヨハネ1章10〜13節にこう記されています。「(ことば)は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。この人々は、血によらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、神によって生まれたのである。」この言とは御子イエス様ですね。『その名を信じる人々には、神の子となる特権を与えた』即ち、御子イエスを主と信じる、それは霊的な誕生であり、ただその条件を満たせば誰でも神の子となる特権に預かることができるのです。キリストがフェニキアの女に語ったまさにそのとき、女は「子供」ではなく「子犬」でした。犬は犬でも「食卓の下の子犬」ですから、可愛い愛玩動物を意味してはいますが、この時、「子犬」とは異邦人のことを意味しており、罪により彼女は全く特権から外れた人でした。ところが、この女は子犬にもかかわらず、即ち異邦人であるにもかかわらず、神の子の特権に預かることができたのです。それは、彼女がイエスを信じたからです。心に救い主として受け入れたからです。「主よ。食卓の子犬でも、子供のパン屑はいただきます。」主イエスは、「その言葉で十分です。」と、この女の告白に、生きた信仰を認められました。フェニキアの女は、イエスが神から遣わされたキリストであることを素直に、純粋に受け入れたのです。その信仰によってその瞬間、女は神の子とされたのです。キリストは、やがて、すべての人の罪の赦し贖いのため、十字架に架けられ、復活されます。そして、今や、誰でもキリストを受け入れ信じるものは罪赦され、神の子の特権に預かることができるのです。そう言う時代に私たちが生きていることは感謝なことではないですか。

 フェニキアの女は、キリストを信じる信仰を告白した瞬間に神の子とされ、それによって、具体的に、神の子の祝福に預かることができました。子どもであれば、必要なパンをお腹一杯に食べさせられるのです。フェニキアの女は、信仰により神の子とされたので、もはや「パン屑」ではなく、「パン」を十分に食べさせていただくことができたのです。「パン」はここで原語では「アルトス」が使われ、これは、人間の生活の必要を表す象徴的な言葉であります。礼拝でも私たちが唱和する主の祈りに「私たちに日ごとの糧を今日お与えください。」と祈るよう教えられていますね。この「糧」の原語は、このアルトス、パンなのです。「パンを今日お与えください」を「糧を」に意訳されているのです。神の子とされた者は、父なる神に日々の必要の満たしを、それが何であれ、期待することが許されているのです。そして、今日の聖書箇所から、そのフェニキアの女の必要が、娘の悪霊からの解放、即ち癒しであったことが分かります。主イエスは言われました、「悪霊はあなたの娘から出て行った。」どうでしょうか、女が帰宅すると、その時、娘は遠く離れた所に居たにもかかわらず、すでに癒され解放されていたのでした。神の子とされた者達の沢山の祝福の一つは、病気が癒されることですね。主なる神は、今日も病人を癒すことを願っておられことをはっきりと確認しておきましょう。かつて主は、イスラエルの民に(出15:26)「わたしは主であって、あなたを癒すものである。」と言われました。神の子であったイスラエルに、神がそう言われたとすれば、信仰により今現在、神の子とされた者たちにも、主は同じように語っておられるのです。現代においても、医療従事者や適切な薬も癒しに有効であると同時に、主は、医者の中の医者なのであり、信頼する者の期待に応え癒される方なのです。

 癒しのためには、私たちの信仰を行動に移すことも必要ですね。フェニキアの女は、「すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足元にひれ伏した」と、その信仰を祈り求めることで行動に移しています。全ての人が瞬時に癒されるということではないでしょう。いつでも完全に癒される訳でもありません。しかしながら、癒される資格があるとか、ないとかそういう問題ではありません。私たちに求められること、必要なことは、病気の癒しと解放のために、主イエスに率直に謙遜に、執拗に祈ることであります。癒しのためには、信じるクリスチャン一人一人に聖霊の力が与えられていますから、全てのクリスチャンは癒しのために祈ることができるのです。主は、言われました「ただ聖霊があなた方の上に臨まれるとき、あなた方は力を受けます。」その聖霊の力には、病気を癒す力も含まれていることは間違いないのです。人を癒すのは人間の力ではありません、聖霊の力です。私たちの責任は、聖霊に心を開き、信じ認め、力を受け取り、信仰を行動に移し、具体的に祈ることです。そして、聖霊が臨在され、「神は癒してくださる」と信じる信仰のある人々で、癒しの場所を作ることが必要になりますね。主イエスが、ヤイロの12歳の娘を蘇生させた時もそうでした。主が駆けつけた時にはすで死んでいたのですが、その家から不信仰な人は外に出し、3人の弟子と両親だけを連れて中に入り祈られました。(マルコ5章21〜43節)

これから毎週礼拝の後に、ゲストルームで具体的な必要のために祈りますので、一緒に祈りたい方は、是非参加してください。ケアセルの家庭集会でも祈ることにしましょう。午後2時からの第二礼拝でも、友の会でも祈りますので、期待してください。

そして、いつでも癒しのために心を開いておきましょう。どこに居ても、それが道端でも、病人の人には希望されれば癒しの祈りをすることにしましょう。今週もきっと、必要とする方を主が備えておかれることでしょう。

 すでに、ジョン・ウインバー牧師の癒しの証を以前に紹介していますが、彼が1983年にスウエーデンのゲーテボルク市のバプテスト教会であった四日間の癒しのセミナーでの報告があります。この町は、若い頃に北海道で一緒に奉仕したスエーデン宣教師のヘルベル先生が引退された後に住まわれた町で、欧州在住中に家内と一度訪問したことのある港町です。そのセミナーには300人が出席していましたが、最初の二日間は、みなさんはあまり乗り気でなかったそうです。ところが三日目に、彼は「神が、左胸に癌を患っている人を癒そうとしておられると感じました。」そこで、会衆に「神は今、左胸を癌に侵された方を癒そうとしておられます。」と語りました。聖霊の賜物の一つで「知識の言葉」が与えられたのです。すると二階座席の女性が立ち上がり、「サンフランシスコにいる自分の友人が左胸に癌を患い、そのため断食してとりなししているところだ」と語りました。それには皆どよめき、これはすごいという雰囲気になりました。ところが、ウインバー牧師は、知識の言葉により、その女性がこの聴衆の中にいると感じていたのです。そこで彼が再び語りました、「主が言っておられるのは、どうも今の方ではないようです。癒されるべき女性は、今この場所におられます。入院しておられて、今日の朝だけ、外出許可をもらって来た方です。その方は60歳です。私の真ん前か、少し右側に座っておられるようです。」すると、黒い毛皮のコートをまとった女性が立ち上がり、スエーデン語で「私です。私です。」と応えたのです。祈りますから前に出てくださいと彼は彼女を前に招き、一緒に祈ってくれる方を会場から募りました。すると、一列目の三人の男性が協力を申し出、二人が後ろに一人が前に立ちました。女性ですから胸に手を置いて祈れないので、ウインバー牧師は、女性に自分の手で胸を覆い、その上から男性に手を置いて祈ってもらうがどうかと尋ねました。後ろの二人は彼女の肩に手を置き、彼が「まず私が祈ります。」と言うや、その時、通訳者がまだ訳さないうちに、心に信仰の言葉が湧き上がったのです。彼が英語でそれを口に出し、「イエスの御名によって癒されなさい。」と発言したところ、それと同時に、神の力が一気にくだり、四人に触れたのです。彼らの体が揺れ始め、次の瞬間、四人とも床に倒れてしまいました。それから倒れた四人は、泣きながら床の上で神を賛美したとのことで、後で完全に癒されたことが報告されたということです。素晴らしいですね。「イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも同じです。」(ヘブル13章8節)イエスをキリストと信じる私たちを、神は恵みにより神の子としてくださっておられます。その特権を活かし、その祝福に預かろうではありませんか。そうすることが今週も許されていることを感謝しましょう。

220日礼拝説教(詳細)

「押し流されない」  ヘブル2章1〜4節

こういうわけだから、わたしたちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めねばならない。そうでないと、おし流されてしまう。

というのは、御使たちをとおして語られた御言が効力を持ち、あらゆる罪過と不従順とに対して正当な報いが加えられたとすれば、わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか。

この救は、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ、さらに神も、しるしと不思議とさまざまな力あるわざとにより、また、御旨に従い聖霊を各自に賜うことによって、あかしをされたのである。

 ヘブル2章の今日の箇所を目にした時です、私が即、想起させられたのは2018年9月に起こった「関空連絡橋タンカー衝突」事件でした。その記録はこうです。『乗組員11人が乗ったタンカー「宝運丸」(2591トン)は関空島に燃料を荷揚げし、3日午後1時10分ごろに離岸。同1時半ごろ、連絡橋の南約2・2キロの位置で、重さ2・5トンのいかりと長さ195メートルの鎖を下ろし停泊した。4日に大阪府高石市の製油所で燃料を積み込む予定だったが、台風で5日に延期されたため、4日も同じ場所で停泊。しかし、同日午後1時半ごろ、関空島で観測史上最大の瞬間風速58・1メートルを記録した強風により、海底に下ろしたいかりや鎖が機能しなくなって船が流される「走錨」状態に陥り、同1時40分ごろに連絡橋に衝突した。

どうぞ、ヘブル2章1節をご覧くださいますか。「だから、私たちは押し流されないように、聞いたことにいっそう注意を払わなければなりません」と今日、この聖書の言葉が私たちに勧告されています。ここで「押し流されない」という言葉は、航海用語に使用されると、水夫が風向きや潮流に対する注意を怠ったために、「船が港や停泊地点から漂流してしまうこと」を意味して使われる言葉なのです。

 ここには、現代を生きる私たちに対して、霊的に押し流される三つの危険が指摘されていると思われます。

その第一の危険とは、霊的に押し流される危険です。このヘブル書の著者が誰であるかは正確には明らかになっておりません。それでも、手紙の対象が、初代教会のユダヤ人キリスト者であったことがはっきり分かっているのです。では、彼らがどういう状態であったのか。それは同じヘブル書10章32〜35節を見ると幾分垣間見ることができるようです。そこにはこう記されています。『あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。』この最後の35節には「だから、自分の確信を捨ててはいけません。」と勧告されております。ここから想像できるのは、当時の彼らが、どうやらすべてに倦み疲れていたであろうということなのです。この世に仕えることに疲れている、礼拝にすることに疲れている、霊的な葛藤に疲れ、祈りの生活にも疲れ、世の人々のヒソヒソ話のタネにされていることにも倦み疲れていたに違いありません。彼らは、言ってみれば、掴んでいるロープを手から放り出し、漂流しかかっていたのです。

 その第二の危険は、破船する危険でした。漂流した船が、そのまま放置されたらどうなるか、それは分かりきったことですね。浅瀬に乗り上げ座礁するか、予想もしなかった岸壁に激突して破船するのがオチです。当時のユダヤ人キリスト者たちが、倦み疲れて霊的に漂流した挙句に、待ち受けていたのは霊的破船でした。2章3節に「私たちは、これほど大きな救いをないがしろにして、どうして報いを逃れることができましょう。」と語られています。この「救いをないがしろに」するということは、主イエスを信じてせっかく受けることのできたかけがいのない救いを軽んじるようになってしまうことです。この「ないがしろにする」という同じ言葉が使用されている箇所に、マタイ22章1〜13節で主イエスが語られた「婚礼の祝宴の喩え」があります。ある王が王子の婚礼の祝いに盛大な祝宴を催したのです。ところが、どういうわけか、招かれた人々が来ようとしなかったというたとえなのです。王はそこで諦めず、もう一度、別の家来たちを使いに出してこう言わせるのです、『食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、祝宴にお出でください。』ところが、その話しは続きます。「しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけた」と。「それを無視した」それにヘブル2章の「ないがしろにする」と同じ言葉が使われているのです。王の催した祝宴は、キリストを信じる救いの喜びを意味していますね。その招きを無視する、ないがしろにすることは、それは信仰の放棄ではありませんか。自分の救われた恵みに無感動になってしまう、それは霊的な破船なのです。

 その第三の危険は、破船に続く沈没の危険です。船が沈没すれば全てを失ってしまいますね、船の人は溺死してしまうことでしょう。3節にこう言われています、『私たちは、これほど大きな救いをないがしろにして、どうして報いを逃れることができましょう。』ここで言われている「この報い」とは、いわゆる褒賞のことではありません。オリンピックで授与される輝かしいメダルではありません。裁かれることであり刑罰のことなのです。2節には、「天使たちを通して語られた言葉が確かなものとなり、あらゆる違反や不従順が当然の報いを受けたとすれば」とありますが、ここで「天使たちを通して語られた言葉」とは律法のことを指しています。律法の中心である十戒は、モーセがシナイ山で神から授かっているのですが、天使を介して受けたと考えられていました。その律法には、必ず賞罰規定が定められていますね。律法違反者が罰せられることは当然でした。ここでは、天使を介して授けられた律法と恵みによりキリストを信じることにより授けられる救いとの大きな違いは何でしょうか。比較して分かるおおきな違いは、律法が命令される性質のものであるのに対して、恵みの救いは、神の愛による招待によるものだという点なのです。慈愛に富める神の恵みと憐れみにより招待され受けた大いなる尊い救いを、それにも関わらず無視する、ないがしろにする、とするならば、それに対する報いは、即ち、裁きはより一層厳しいということを言っているのです。続いてここで、ヘブル書6章4〜6節をも朗読しておきましょう。『ひとたび光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力を味わいながら、後に堕落した者たちは、再び悔い改めへと立ち帰ることはできません。神の子を自分でまたもや十字架につけ、さらし者にしているからです。』これは大変に厳しい言葉ではありませんか。これは文字通り霊的な沈没の危険そのものです。救いを失うことは滅びることです。今日、現代に生きる私たちも、これらの言葉を真摯に受け止め、押し流される危険に対処することにしようではありませんか。

 なぜなら、決して押し流されない確かな保証が、ここに明らかにされているからなのであります。その確かな保証こそ、1節の「聞いたこと」なのです。彼らがその聞いたこと、その内容とは では一体何でしょうか。それは3節でも言われた「大きな救い」なのですね。福音なのですね。良きおとづれなのです。聖書の言う救いとは、罪が赦されて神との関係が正しくなることです。罪の奴隷から解放され、神に仕える者とされることですね。イエス・キリストの十字架の死と復活により、もたらされた大いなる救いなのです。それこそ、とてつもなく「大きな救い」なのです。しかも、三人の証人により確証されている確かな救いであるということなのです。申命記19章15節によれば「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」と規定されています。これは法廷での犯罪を審理する際の立証を語りますが、全てに適用される真理ですね。物理的な出来事の確かな証明は、実験によって証明されるものでしょう。同じ実験を繰り返し、同じ結果が出れば、証明されたことになります。ところが、歴史的な事実、出来事は、反復することはあり得ず、その立証のためには、複数の証言、証拠によってのみ証明可能とされるものなのです。神の御子イエス・キリストが十字架で罪の身代わりの犠牲となり、この救いの御業が歴史的に完成しました。この救いの確かさが3節にこう言われているのです、『この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々が私たちに確かなものとして示しました。』 ここに、私たちの救いの確かさの第一の証言者は、主イエスなのだと言っています。この救い主イエスについては、1章1、2節にこう言われています。『神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。』 イエスは神の御子であり、神が最後的に、この方により人類に語りかけられました。そのイエスが誰であり何をなされたかは3節が詳細に明らかにしていますね。更に、この大いなる救いの第二の証言者は、主イエスに直接聞いた者たちだと言います、即ち12人の使徒たちのことなのです。彼らはキリストに選ばれ、真理の証言者として、その見たこと、聞いたことを率直に語りつないだ人々です。これで複数の証言が明らかですね。実は、そればかりではないのです。大いなる救いの確かさは、神ご自身が、第三の証言者として奇跡と聖霊により証しされていると言われているのです。福音書を見たらこれが分かりますね。キリストの多くの奇跡と不思議を見ることになるでしょう。使徒行伝を読めば、更に分かることですね。初代の教会を通して神は奇跡を起こされ、福音の知らせの確かさを確証されておられるからです。マルコ16章20節にはこう言われています。『弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も弟子たちと共に働き、彼らの語る言葉にしるしを伴わせることによって、その言葉を確かなものとされた。』 癒しや不思議、奇跡そのものが目的なのではありません。それらは大いなる救い、罪の赦しの確かさを証言する手段として、神により成された不思議な業であり、救いの確かさがそれによって確証されるものなのです。

 こんな素晴らしい証があるので、ここに紹介しておきます。これは尾山令仁先生が書かれた本にあったお話ですが、先生が1958年に石川県の金沢市にある北陸学院というミッション・スクールの夏期学校に講師として行ったとき、ある教会の夕拝で説教されました。

その中にこのような経験をされたご婦人がいました。それはその時よりもさらに15年ほども前のことですが、その方は、ある冬の日、玄関で赤ん坊が泣く声で目が覚めました。その朝は大雪で、軒近くまで雪が積もっており、その玄関の軒先に赤ん坊が置かれていました。すぐに玄関をあけ、その赤ん坊を抱いた時、その赤ん坊がだれの子であるかはすぐに見当がつきました。ちょっと前に近所の奥さんが赤ん坊を置いて家出をしたと聞いていたので、おそらくその人の子供だろうと思いました。きっと育てることができなかったので、ここに置いて行ったのだろうと思い、であれば、自分が育てなければならないと、この時決心しました。しかし、自分が産んだ子供ではありませんから、お乳が出ないわけです。そこで、人工栄養で育てるしかないと粉ミルクを買おうとしましたが、それが結構お金がかかり、ちょっとした内職程度ではミルク代をかせぐことができないわけです。そこでやむなく男たちに交じって道路工事の仕事をすることにしました。

 ところが、ある日のこと、仕事をしていると、人がやって来て、その子がトラックにはねられた、と知らせに来てくれました。取るものも取りあえず病院に飛んでいくと、幸いにして一命を取り止めることができました。しかし、だんだんよくなってくると、欲が出るもので、その子のからだのいたるところにできた傷を何とか直してやりたいと思うようになりました。その子が女の子であれば、なおさらのことです。病院のお医者さんに相談すると、「それは難しいですよ」ということでしたが、とうとう意を決して、自分の皮膚を取って、その子に移植しました。無事手術も終わり、日ましによくなり、そのうちにその女の子の傷跡はすっかりなくなってしまいました。しかし、母親のおなかには、大きな傷跡が残ってしまったのです。そして、その子が中学生になり、ミッション・スクールの北陸学院の生徒になったころ、母親と一緒に風呂屋へ行くことを嫌がるようになったのです。母親には、その理由がすぐにわかりました。一緒に風呂屋へ行くと、小さな子供たちが母親の近くに来て、「あのおばちゃんおなかの所おかしいよ」と言っては、じろじろと眺めるものですから、中学生になったその子にとってはとても恥ずかしく、耐えられない苦痛だったのです。

そこで、ある日のこと、その母親は、その子にこう言いました。「今日は、あなたにお話ししたいことがあります。そこにお座んなさい。」すると母親は、自分の醜いおなかのことを話す前に、その子が自分のおなかを痛めて産んだ子ではないことを話しました。さすがに拾った子供だとは言えなかったので、ある人からもらったのだと言いました。そして、「このことはほかの人から聞くよりも私から話しておいた方がいいと思ったから、私から話したの。あなたはどう思う。」と言うと、彼女は少しも動じることなく、「産みの親は産みの親、育ての親は育ての親と言うでしょ。別にどうってことないわ」というので、「それじゃ、あなたにこのこともお話しておくわ」と、自分の醜いおなかのわけを話しました。するとそれをじっと聞いていた娘さんは、「お母さん、ごめんなさい、私はお母さんのおなかのことが恥ずかしくて、一緒にお風呂に行かなかったの。」と言って、その場に泣き崩れてしまいました。そのことがあってから、この娘さんは、学校で聖書の時間や礼拝の時に聞いたイエスさまのことがよくわかるようになりました。イエスさまが自分のために身代わりとして十字架にかかってくださり、私を罪から救ってくださったということがよくわかり、周りにいる人たちにこの福音をよく伝えたそうです。

 押し流されない保証とは、十字架の罪の赦しによる救いであることを再確認しましょう。この確証されている「大いなる救い」に感謝しようではありませんか。

 では最後に、押し流されないよう具体的に私たちは、どう対処することができるでしょうか? 一言で言えば、流されないよう錨を投げおろす事です。1節『だから、私たちは押し流されないように、聞いたことにいっそう注意を払わなければなりません。』この「注意を払う」が船の航海に使用されると「錨を降ろす事」意味するものなのです。しっかりした錨が海底に固定されれば、どんな嵐、強風にも、船は押し流されることはありませんね。流されて信仰の破船に陥らないために、錨を降ろすとは具体的にどうあるべきか挙げてみましょう。

その第一は、神を生活の優先順位の第一とすることです。救いとはキリストを信じる信仰により罪赦され、神とのと正しい関係に入れられることと言いました。錨を降ろすとは、生活の優先順位の第一に神を置く事なのです。3節で警告された「救いをないがしろにする」とは、神を第二、第三に置き換える過ちではありませんか。ルカ14章18〜20節には、主イエスにより語られた大宴会の喩えの中で、招待客たちの誤った具体的な態度が、次のように記載されています。「すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。」これはどれもまともな理由になっていませんね。前もって調べもしないで土地を買ったり、牛を買ったりする人はいません。断りたいからの理由のこじつけに過ぎないのです。主はマタイ6章33節で言われました、「まず神の国と神の義とを求めない。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。」神を第一の優先順位に置くなら、全て必要は満たされるのです。これが押し流されない秘訣です。

 第二神の言葉に固執することです。「聞いたことにいっそう注意を払わなければなりません。」錨を降ろすとは、神の言葉に固執することです。昔、神に用いられたサムエルがまだ少年時代のことでした。「サムエルよ、サムエルよ」と呼ぶ声を夜中に寝床で聞く機会がありました。それは祭司エリの呼び声かと間違えたのでしたが、三度同じことが起こった時、それが神の呼びかけの声だと分かり、彼はそれに対して答え「しもべは聞きます。お話しください」と応答しました。霊的に信仰の破船に会わないため、錨を降ろすとは、聴き従う態度で聖書に向かい、主の言葉に聞くことです。聖書を読むこと、暗唱すること、説教を聞くことに固執しようではありませんか。

 第三主イエスを夢中で賛美することをお勧めいたします。ここで「注意する」即ち「錨を降ろす」ことを意味する原語のプロセコーは、心とらわれる、夢中になる、熱中することを意味しています。今、真っ盛りの冬季オリンピックで活躍する選手達に共通するのは自分の種目に夢中、楽しんでいることでしょう。良きにつけ悪しきにつけ、それが彼らには人生の全てとなっておりますね。ではキリスト者の共通点は、何でしょうか。イエス・キリストに夢中になることです。私は、ヘブル書1章1〜3節から主イエスが誰かを書き出してみました。ここだけでも7つにまとめられますね。

①イエスは万物の創造者 ②イエスは万物の相続者 イエスは栄光の神の輝き ④イエスは神の本質の現れ ⑤イエスは万物の保持者 ⑥イエスは贖いの完成者 ⑦イエスは天地の主権者  

どうでしょう!これらが分かったら賛美しないわけにはいかないのではありませんか。主イエスは賛美に相応しい方なのですか。今週もことあるごとに主を賛美し、誉めたたえようではありませんか。その時、霊的に錨を降ろすことになるのです。

 第四に、聖霊の賜物を生かして奉仕することです。神ご自身が、救いを確かなものと確証するために、その証しに奇跡を行われると4節に語られていますね。「御心に従い聖霊の賜物を与えることによって」と。同じ神が、今現在もキリスト者に聖霊を注ぎ、賜物を分与することで奇跡を行われようとしておられるのです。賜物はギフト、プレゼントですが、その人に与えられたギフトではありません。その人を通して誰か必要とする人に神が与えられる特別な能力なのです。コリント第一の手紙12章には9つの賜物があると分かります。その7節には「一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」と説明されています。教会はキリストの体であり、一人一人に私たちに果たすべき機能、役割が与えられているのです。その役割を実行に写す能力を聖霊が与えてくださっているのです。そう言う訳ですから、分相応に自分の奉仕を実行するようにしようではありませんか。

 5番目に、個々の私たちの必要のために、神に祈り求めることです。最後に錨を降ろすことを「必要のため祈り求めること」としてお勧めします。4節の「しるし、不思議、奇跡」これらは神の証しの業を別な角度から語っています。「しるし」とは、その出来事の背後に神がいることを指し示す神の業です。「不思議」とは、その出来事が人間に与える印象として、どうにも説明の付かない途方も無いことを示す神の業です。「奇跡」とは、その出来事が恩恵として特別に力が与えられたから可能であることを示す神の業です。これらは全て、それ自体が目的ではありません。神の語られた言葉を確証するための証しであるということです。そして、神の不思議な業は、私たちが信仰を働かせ、個々の必要のため祈り求めるときに、御心のままに、表されるのです。それゆえに、個々の私たちの具体的な必要のため祈り求めることにしましょう。そうすることにより、私たちは押し流されることなく錨を降ろすことになるからです。「だから、私たちは押し流されないように、聞いたことにいっそう注意を払わなければなりません。」神の祝福をお祈りします。

2月13日礼拝説教(詳細)

「一線越える信仰」  マルコ2章1〜12節

幾日かたって、イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき、家におられるといううわさが立ったので、多くの人々が集まってきて、もはや戸口のあたりまでも、すきまが無いほどになった。そして、イエスは御言を彼らに語っておられた。

すると、人々がひとりの体の麻痺した人を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた。ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、体の麻痺した人を寝かせたまま、床をつりおろした。

イエスは彼らの信仰を見て、体の麻痺した人に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。

ところが、そこに幾人かの律法学者がすわっていて、心の中で論じた、「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」。

イエスは、彼らが内心このように論じているのを、自分の心ですぐ見ぬいて、「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを論じているのか。体の麻痺した人に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに言い、体の麻痺した人にむかって、「あなたに命じる。起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。

すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行ったので、一同は大いに驚き、神をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った。

 ご存知のように、私は一年掛けて市内51の町を、日を木曜日に定め、短い時間ですが祈りの歩行をしているのですが、面白いのは滅多に見られない光景を目にすることです。先々週、笠松町では庭先に放し飼いされた三頭の大きなブルドッグに見とれてしまいました。先週木曜日は、13番目の町で、上瓦屋町でしたが、そこにある小さな神社の境内を見てビックリ、大きなプロペラの無いヘリコプターが寄贈され、神社の屋根の高さくらい台に固定されていたのです。それが何の役に立つのか疑問ですね。何とか航空会社寄贈と読めたので、宣伝目的でしょう。だが、私たちの教会では、先週のこと、寄贈されたのではありませんが、非常に優れた車椅子を購入しました。股関節骨折されたM姉が退院されたのを機会に、不自由な方々のために活用するためです。乗ってみたい方は是非遠慮なく試してみてください。但し、病院に直行かもしれないのでご注意ください。これは役に立ちますよね。さて、今日の聖書箇所は、プロベラもない、車もない、粗末なワラ蒲團(ふとん)で運ばれた体の麻痺した人の癒しの物語です。体の麻痺した男は四人に担われ、何と屋根から釣り降ろされ、主イエスにより癒されているのです。共観福音書のマタイ、ルカにも記録される非常に忘れがたい物語です。どこがユニークかと言えば、それは何もかも一線を越えている点にあるのです。「一線を越える」とは、良い意味で使われた試しは無く、「子供が万引で、一線を越えてしまった」とか、「男女交際で一線を越えてしまった」とか「冗談のつもりが相手を本気で怒らせ一線を越えてしまった」等々挙げればキリがありません。

 この物語で第一に一線を越えているのは信仰です。この時、主イエスは、宣教活動の拠点としたカペナウムのある家におられ、「戸口の辺りまで全く隙間もないほどになった」とあり、その家は、噂で集まる人で満杯でした。それが誰の家か不明です。先にペテロの姑の熱病が癒されていることが分かっているので、ペテロの家かも知れません。大きい家で集会に適していたでしょうか。そこに、体の麻痺した人が四人にワラ蒲團に乗せて担がれ運ばれてきたのです。勿論癒して頂くためです。

「体の麻痺した人」これは脳性疾患の麻痺症状を指します。「脳栓塞」と言えば、心臓の凝血が脳血管に詰まることです。「脳血栓」は、動脈硬化、血流障害です。「脳出血」と言えば、高血圧で発症する疾患です。現在、死因の第一位を占めるのは脳性疾患で、死なずとも運動麻痺障害が残ってしまう恐るべき病です。

この体の麻痺した人を運んだ四人組が、素早く察知した状況、それは狭い家が詰めかけた人で満杯で混雑し入室不可であったことです。では、それで、直ぐに諦め退散したでしょうか?そうではありません。状況を察知した彼らの対応は、何と屋根に登り、イエスの居られる辺りに狙いを付け、穴を開け、患者をベッドごと釣り下ろすことであったのです。当時の家の構造は簡単でした。屋根部分は壁に1メートル間隔で梁を配置し、それに灌木を並べて漆喰で固め、その上に泥炭土をかぶせるだけのものでした。だから、剥がすことは簡単であったし、修復も容易だったのでしょう。それによって、彼らは主イエスの真ん前に患者をつり降ろし、その結果、体の麻痺した人は完全に癒されてしまったのです。

確かに彼らの目的は達成されたかもしれません。だが、その手段はどうでしょう?疑問ですね。それこそ「一線を越えた」のではないですか。他人の家の屋根を勝手に破壊する行為は、現代では住宅損壊、不法住居侵入罪に相当する犯罪行為にも等しいのではありませんか。しかしながら、主イエスは「彼らの信仰を見て」5節、癒しの業を進められたのです。主イエスの見たのは、患者自身の信仰ではなく、四人の信仰でした。確かに一線を越えていでしょうが、主イエスはそこに、生き生きとした信仰を彼らに認められたのです。

 そればかりかここで、一線を越えていたのは主イエスの宣言です。主イエスはその病人に対して「子よ。あなたの罪は赦された」と宣言、宣告されました。これが何故、一線を越えているのかと言えば、そこに居合わせた数人の律法学者達が、この主イエスの発言に対してクレームをつけていることから分かることなのです。「この人は、なぜあんなことを言うのか。神を冒瀆している。罪を赦すことができるのは、神おひとりだ。」7節。口にこそ出してはいないのですが「心の中で考えた」、ブツブツ言っているのです。何故、この宣言が彼らにとって一線を越えるように思えるのか。それは彼らにとっては、主イエスの発言が由々しい「神を冒瀆している」態度であったからです。冒涜とは、神聖なもの、尊厳なもの、清らかなものをおかしけがすことです。どの点で冒涜していると彼らは指摘しているでしょうか?「罪を赦すことができるのは、神おひとりだ」つまり、主イエスが只の人間が赦しを宣言することは、神の神聖な領域侵犯に相当するとみなしたのです。律法学者達は、ルカによればエルサレムからも来ていたようです。彼らはユダヤ議会から派遣されたに違いありません。サンヒドリンと呼ばれた議会には宗教的な審判権限があり、中でも偽預言者、偽教師を見張る責任があり、違反者は、即死刑に相当していた時代です。そこに居合わせた律法学者達は、噂で怪しいと当局から睨まれていた主イエスの言動を監視するべく居合わせたのです。そこで彼らは、その宣言に決定的な違反、神聖冒涜罪を見たに違いありません。この怪しい男、イエスは、ナザレの田舎出身、大工の倅(せがれ)、教養学歴もない市井の人間ではないか。それにもかかわらず身のほど知らぬ、とんでもない発言をする奴だ、と憤慨したのでしょう。これは「一線を越える」どころの騒ぎではなかったのです。由々しい霊的な犯罪行為を彼らはイエスに見ていたからです。

 そればかりではありません。一線を越えていたのは、主イエスの律法学者に対する質問でした。9節「この人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」この主イエスの質問のどの点が一線を越えていると、皆さんは思いますか?

ここに二つの文句が天秤にかけられています。一つは「あなたの罪は赦された」で、他は「起きて、床を担いで歩け」です。前者は宣言宣告、後者は命令文句です。そして主イエスは問われたのです。「どちらが易しいか」「どちらがたやすいか」「どちらが簡単か」と。前者はすでに宣言されテイル文句で、後者は、この後すぐに患者に命じられようとする文句です。では、「どちらが易しいか」その答え、正解はどちらなのでしょうか?皆さんは、どちらがやさしいと考えますか?果たして律法学者たちは、また、そこに居合わせた群衆はどう考えたのでしょうか?主イエスが言わんとされたこと、前後関係からすれば、イエスの回答は明らかになります。そうです。「起きて、床を担いで歩け」なのです。後者の方が簡単、とてもたやすいことと、主イエスは言われようとしていたのです。しかし、これは常識、論理的思考の一線を越えていませんか。そうでしょう。何故なら、常識では、「あなたの罪は赦された」と発言しても、赦されたのか、赦されていないのか確かめようがありません。その発言の結果は見えることはなく曖昧模糊としているからです。ですから、口で言うだけであればいともたやすいことでしょう。ところが、「起きて、床を担いで歩け」と発言したら、どうですか?それが見える結果となるかならないかは、誰の目にも明らかでしょう。その結果が目に見える形で起こらねば、面目丸つぶれです。これは簡単に言える言葉ではありません。難しいはずです。

それからすれば、当然、後者が難しく、前者は易しいはずです。ところがどうでしょう。主イエスは、逆に前者は難しく、後者は易しいと言われているのです。では、これによって何を主イエスは意味しようとしたのでしょうか? それが10節です。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そうです!主イエスは、人が常識的に、難しいとする癒しを後にされ、易しいとする罪の許しを前に宣言することで、神であるにもかかわらず人となり救い主であるご自身の罪の赦しの権威を証明なされようとされたのです。主イエスはご自分を指して「人の子」と呼ばれました。これは旧約聖書の預言するメシア、救い主の呼称です。主イエスは、神が遣わされた救い主、しかも神の第二神格、神の御子なのです。神が人となられた方がイエスなのです。その事実が、この宣言と命令で証明されたのです。

 では、この一線を越えた信仰、宣言、質問から、何が私たちに求められているでしょうか。それは、罪により麻痺した人々を主イエスに連れ来たることです。この体の麻痺した人、体の麻痺した患者は、罪により霊的に麻痺した人間を象徴しているのです。脳性疾患が死をもたらし、麻痺をもたらすように、罪が人を神との関係、人間同士の関係に死を、麻痺をもたらしているからです。ローマ3章23節に「全ての人は罪を犯したために神の栄光を受けることができない」と聖書は言います。その前の9〜18節を読んでみましょう。『既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。」これは詩篇5篇、14篇からの引用です。13節には喉、舌、唇が、14節には口が指摘され、耳鼻咽喉科の診断のようです。15節には足が指摘され、それらは罪によって人間性が徹頭徹尾麻痺していることを的確に指し示すものです。体の麻痺した人が言語障害、視覚障害、身体機能障害を生じさせるように、罪により人は、神との関係を、人と人との関係を、正常に持つことができないのです。それが全ての人間の現実なのです。

一人の体の麻痺した人を四人の男が、ワラ布団で担いで屋根を剥がして主イエスに連れて来た姿は、教会の姿そのものではありませんか。教会は、一人の人を大事にし、その人のために一致した信仰で対応するのです。そして、愛によって働く信仰により、何とか主イエスに連れ来たるため、工夫努力しようとするのです。担うことは多くの犠牲を要したことでしょう。他人の屋根を剥がして穴を開ける一線を越えた行動には問題を感じますが、主イエスは、そこに、何とかしようとする彼らの生き生きした信仰を認められました。患者の信仰ではなく、彼らの信仰のゆえに、癒しが実現したのです。

ここで、私は北陸の七尾市開拓で経験した出来事を想起させられました。そこで、七尾市郊外の田鶴浜のクリスチャン農家と知り合いました。一家を挙げてクリスチャンです。どうして救われたか話してくれました。娘さんが高校時代、教会に行きクリスチャンになりましたが、父は天理教、母は創価学会です。母は猛反対で三年間、厳しく娘を迫害し教会に行くのを妨害していました。ところが、その母が教会に導かれ、ある讃美歌に心打たれ、信仰に至り不思議と救われ、父も救われます。彼らは、それから広い自宅の庭先に、四畳半ほどの祈りの家を建て、20年祈り続けていました。すると、家の前の広大な稲田地域が、大手のスーパーに買収され大型店舗が出店しました。その地域には彼らの所有する田があったのですが、彼らだけはその買収に応じず、何とそのスーパーの敷地内の一角に教会堂を建立してしまったのです。彼らの夢は自分の村にも教会ができることでした。村人から見れば、文字通り一線を越えた逸脱行為であったでしょうが、それが彼らの信仰行動でした。そこで行われた集会に私も何回か出席させていただいたことを思い出します。コリント上1章21節には、「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」と聖書は言います。あの四人の男たちの屋根瓦壊しは、何とも愚かしくはないでしょうか。それでも、それによって一人の苦しむ体の麻痺した人は癒されたのです。一人の魂が心身救われたのです。誰かが、あなたの来るのを待っているのではないでしょうか。何とかして一人の人が救われるよう、信仰を働かせ工夫しようではありませんか。

コロナ感染で萎縮しがちですが、このような状況だからこそなすべき術があるに違いないのではありませんか。

 さらに、病気の癒しのために積極的に祈ることです。四人の男達は、体の麻痺した人をその癒しのために、主イエスに連れ來ました。そして、主イエスが「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい。」と命じられるや、彼は起き上がり癒されました。全ての病気が癒される訳では勿論ありません。だが、病気の回復のため祈るべきなのです。主イエスは、御心のままに病気を癒すことがおできになります。今日、この聖書箇所からはっきり分かったことは、主イエスにとって、病気を癒すことは「とても易しい」ことであることでしょう。主イエスはマタイ10:8に「病人を癒し、死者を生き返らせ、規定の病を患っている人を清め、悪霊を追い出しなさい」と弟子達に命じておられます。病気の癒しは、教会に与えられている務めミニストリの一つなのです。主は教会に癒しの務めとその賜物と権能を付与されました。使徒行伝を見ると、初代教会においては、主イエスの名により病人を癒すことは、日常茶飯のことであったと分かります。使徒ペテロとヨハネも癒しの業を成しており、美しの門の生まれつきの足の悪い人の癒し、ペテロの影を踏めば病人は癒されました。使徒行伝9章33節には、「体が麻痺して八年前から床に着いていたアイネア」にペテロは力強く言います、「アイネア、イエス・キリストが癒してくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい。」その結果はどうか?「リダとシャロンに住む人は皆、アイネアを見て、主に立ち返った」のです。ハレルヤ!素晴らしい働きです。使徒パウロの宣教にも、奇跡と癒しが付随していました。ローマ15章18〜19節には、「私は、キリストが私を通して働かれたこと以外は、何も話そうとは思いません。キリストは異邦人を従順へと導くために、言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。」とパウロは報告しています。ヤコブはその手紙5章13節から教会が癒しの業をするよう、勧告しこう勧めます、『あなたがたの中に苦しんでいる人があれば、祈りなさい。喜んでいる人があれば、賛美の歌を歌いなさい。あなたがたの中に病気の人があれば、教会の長老たちを招き、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、弱っている人を救い、主はその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯しているのであれば、主は赦してくださいます。』この「教会の長老たちを招き」とは病気のために牧師を呼び祈ってもらいなさいということです。牧師に癒す力があるのではありません。牧師を通して主イエスが癒しの業をなされるからです。先週、ジョン・ウインバー牧師の証を紹介しました。彼は福音派の牧師としても活躍し、教会は4000名に成長していました。だが、次第に癒しの働きに彼は目を開かれ、毎週日曜日の礼拝で病人の為に祈り始めました。しかし、誰も癒されない日が続き、戦いが続きました。そのうち、それに反発する他の牧師と信徒600名が離脱する羽目になってしまったそうです。大きな失望だったのですが、それでも祈りつづけ、すると11ヶ月後に、癒される者が起こされるようになったと証言しています。確かに人間的には、目に見える形で癒しが起こるのは難しいのです。癒されねば落胆しやすいのです。だから、癒されなかったらどうしようと祈るのをためらいがちになります。しかし、覚えておきましょう。病気を癒すことは主イエスにはとても易しいことであることを。どうぞ祈ってください。祈り続けてください。主が信仰の祈りに応えてくださるからです。

 そして、自分を麻痺させる重荷を主に委ねることです。主イエスが体の麻痺した人に「あなたの罪は赦された」と宣言されたとき、その罪が原語では単数ではなく複数であることに注目してください。それはこの男の体の麻痺した人の病が、彼の犯した罪と関係していることを指し示しているからです。全ての病が罪の結果であるということでは決してありません。病気はそれだけで単独であることはなく、罪に関係する場合、悪霊と関係する場合、悪習慣と関係する場合、感情と関係する場合、事故と関係する場合、他人の犯した過ちによる場合、薬物中毒による等々、何かと関係していることが分かっています。それゆえに、癒しの場合には、病気そのもの、症状そのものだけでなく、関係している問題が何かを判別する、見極めることが極めて重要なのです。石川県時代、隣の小松市の尊敬する老齢の鈴木牧師が胃潰瘍で入院していることが分かり、病院を見舞いました。診断の結果、胃内部に大きな黒い潰瘍が分かったとのことでした。そして、話をする内に、その潰瘍の原因が幼稚園問題だと分かりました。経営する教会幼稚園が園児の減少で閉園しようとしたのですが、通園する父兄から猛反対が起き、その為に牧師は板挟みになり、過大な心労の結果、胃潰瘍を発症したことが分かったのです。人間は心、魂、肉体と一体化した総合的な存在であり、全てが深く関わり合っていることが精神身体医学で分かっています。泉佐野福音教会に赴任してから、市内のK病院の精神科のS医師と懇意になり、月に一度の懇談をする機会がありました。彼は自分の研究で第三の医学を立ち上げたいと研究に打ち込んでおられ、それは精神医学、身体医学だけでなく宗教の側面から診断する必要があると考えているからだと、世界中から資料を集め、その翻訳論文を沢山くださいました。先程読んだヤコブ5章15、16節にも勧告されています。『信仰による祈りは、弱っている人を救い、主はその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯しているのであれば、主は赦してくださいます。それゆえ、癒やされるように、互いに罪を告白し、互いのために祈りなさい。正しい人の執り成しは、大いに力があり、効果があります。

ここの罪も単数ではなく、複数形であり、人の犯した個々の罪過ち、そればかりか、感情的なしこりなども含まれると解釈されるものです。そして、そこには、自分の罪過ちのみならず、他人が犯した罪過ち、それを赦さぬ態度も含まれていることを忘れてはならないでしょう。主イエスは、主の祈りを教えられた最後に、マタイ6章14、15節で「もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」と教えられました。あの体の麻痺した人が罪赦されて癒されたとすれば、赦されなければ病が癒されないことになります。 何故なら、主の祈りで「私たちの負い目をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」と祈るよう勧告されているからです。他人を赦すのは自分が赦されている自覚に基づいているものです。だから、自分が神に赦されているのに、他人を赦さないなら、神はその人を赦されないのです。赦されないから癒されない、ということになるのです。主は、私たちを招き言われました、「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)自分の病、麻痺に関係する重荷が何であれ、主イエスに打ち明け、重荷を下ろすことにしてください。

「子よ。あなたの罪は赦された」主は我が子に語るよう「子よ、神はあなたに立腹しておられない。いいのだよ。」と語っておられるのです。

2月6日礼拝説教(詳細)

「神の支配の秘儀」  マルコ4章10〜12節

イエスがひとりになられた時、そばにいた者たちが、十二弟子と共に、これらの譬について尋ねた。そこでイエスは言われた、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。

それは

『彼らは見るには見るが、認めず、

聞くには聞くが、悟らず、

悔い改めてゆるされることがない』ためである」。

 ハレルヤ!あと二ヶ月、三月末で赴任して7年になります。早いものです。こうして礼拝説教も、回を数えると年平均50回とすれば350回となる計算です。果たしてどれだけ覚えておられるでしょうか。語った本人も覚えていないのですからご安心ください。だが不思議なことに、説教を忘れても一つや二つの例話を意外と覚えているものですね。私は20代の頃、東京の武道館で語られた伝道者ビリー・グラハム師の例話を一つ忘れられません。「あるサーカス舞台に筋肉隆々の屈強な男が、一個のレモンを手に登場しました。彼はそのレモンを指差し曰く、『私が力一杯に握り絞ったレモンを、誰でもそのあとで絞って一滴でも汁が垂れたなら、その人に賞金千ドルを与えます。我と思わん人はおためしあれ!』するとどうでしょう、我も我もと長い行列が出来ました。ところが、誰一人汁を出せないでいると、そこに貧相な痩せた男がヨロヨロと前に出てきました。そして彼がレモンを受け取り軽く絞るや、何とタラタラと数滴のレモン汁がこぼれたのです。驚いたサーカスの主催者が問うたのです。『あなたの職業は何ですか?』すると、彼答えて曰く『私は教会の会計です。』」 来週の礼拝会の午後に、2021年度決算総会が予定されています。教会の会計に、皆さんどうぞその労苦に感謝して下さい。

 さて、今日の聖書箇所の発端は、弟子たちが主に喩(たと)えについて尋ねたことにあります。マルコ4章の冒頭によれば、ガリラヤ湖畔に群衆が、イエスの話を聞こうと押しかけて来ており、あまりにその数が多いのでイエスが船上から語ったことが分かります。そしてその2節、「イエスは喩えを用いて多くのことを教えられた」とあり、その3節からは「種を蒔く人」の喩え、21節に「灯と秤」の喩え、26節に「成長する種」の喩え、30節「からし種」の喩えと続いています。この出来事を同じように記録している共観福音書のマタイ13章10節には、「なぜ、あの人たちには喩えを用いてお話になるのですか」と、具体的に弟子の発した問いも残されております。この弟子達の問いに対する主イエスの回答(11節)から、まず最初に明らかなこと、それは喩えで教えようとされた主題であります。主はこう言われました。「あなたがたには神の国の秘儀が授けられているが、外の人々には、すべてが喩えで示される。」そうです、主イエスの語られた喩えの主題は神の国なのです。主イエスの公生涯の最初のメッセージは何でしょうか(1:15)。「時は満ちた。神の国は近づいた」でした。そうなのです。神の国が主題でした。では、主イエスの復活後の最後のメッセージは何でしょうか(使徒1:3)。『イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。』そうなのです。神の国だったのです。三年半に及ぶ主イエスの全てのメッセージ、その福音の中心は神の国なのです。

 神の国と言えば、直ぐに地図上の国を連想しやすいものです。だが、地図上ではありません。国と訳された原語のバシレイアは、むしろ支配と訳した方が良いのです。その方が分かりやすいからです。目には見えないが、真の神が支配し、王として治めておられる、それが神の国なのです。ロシアと言えば、直ぐプーチン大統領が支配していると思いますね。中共といえば、直ぐに習近平が支配していると。北朝鮮といえば、直ぐにキムが支配していると思うことでしょう。だが、聖書は、世界を、宇宙を、全てを、実は主なる神が支配していると教えるのです。詩篇145篇1〜13節では詩人がこう歌っています。「わたしの王、神よ、あなたをあがめ世々限りなく御名をたたえます。、、、あなたの主権の栄光を告げ力強い御業について語りますように。その力強い御業と栄光を主権の輝きを、人の子らに示しますように。あなたの主権はとこしえの主権あなたの統治は代々に。」神を王として歌う、これこそ真理、永遠の真理なのです。そうです。聖書の何処を切っても出てくる主題は、神の国、支配なのです。

 ところが、神の国、支配は、秘儀だとも言われているのです。これを、殆どの訳は「奥義」としているのですが、他に秘密、真理とも訳され、英語はミステリーと訳しています。普通は奥義といえば、学問・芸能・武術などの最もかんじんな点、極意と理解されるのですが、聖書の言う奥義、秘儀の意味は、そうではなく、以前は隠されていたが今は明らかにされている真理のことを意味するのです。エペソ3章5節には「この秘義は、前の時代には人の子らには知らされていませんでしたが、今や霊によってその聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。」とパウロにより語られています。そして、神の国の秘儀とは、即、主イエス・キリストご自身のことなのです。旧約聖書が歌う神の王権、神の支配が、見える形で具現したもの、それが主イエス・キリストなのです。神が人間として受肉され、しかも死から復活された、神の御子イエスが居られること、イエスが語られること、イエスがなさる事、それが神の国、支配なのです。マルコ4章の直ぐ前の3章20節から主イエスが悪霊を追い出す事で生じた「ベルゼブル論争」が記録されています。その同じ記事が、ルカ11章14節から記されており、その20節で語られた主の言葉にこうあるのです。『私が神の指で悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来たのだ』 つまり、主イエスはご自身が権威を持って悪霊憑きから悪霊を追い出している現実を指し示し、今ここに神の支配が現に来ているのだと指摘されたのです。そうです。イエスがおられる所、イエスの言葉が語られる所、イエスの業が行われる所、そこが神の国、神の支配なのです。そこに秘儀が開示されているということです。

 私たちは、その神の国、支配の実際を、この一連の喩えに続いて同じ4章35節から、見ることになるのではないでしょうか。あの、有名なガリラヤ湖上の嵐のよく知られた出来事です。夕方、イエスは「向こう岸へ渡ろう」と弟子達と船上の人となられました。だが、突然に船は突風に見舞われ、行手を阻まれ難儀し、水浸しになった船は沈没寸前でした。その時、主イエスは何処におられたでしょうか。「艫(とも)の方で枕して眠って」おられたのです。38節。弟子たちが恐怖に怯え、右往左往しているというのにです。そこで、弟子たちはイエスを起こして訴えました、「先生、私たちが溺れ死んでも、構わないのですか」彼らの真剣な表情が目に見えるようではありませんか。すると、どうでしょう。イエスはやおら起き上がり、「黙れ、静まれ」と嵐を一喝されたのです。すると、何と風は止み、海は凪(なぎ)になってしまいました。その時の弟子たちの驚きが彼らの会話で分かります。「一体、この方はどなたなのだろう」

本当に、どなたなのでしょうか。天地を支配される神なのです。人となられた神なのです、それがイエスなのです。あの詩篇145篇が「、、、あなたの王権はとこしえの王権、あなたの統治は代々に」と歌う、世界を統べ治める王なのです。その方がイエス・キリストなのです。このガリラヤ突風事件で、何処に神の支配の秘儀、真理が表されているでしょうか。それは、王なる主イエスが「向こう岸へ渡ろう」と主の語られた言葉にあるのです。これは支配者なる王の権威ある言葉でした。旧約の預言、イザヤ55章の表題には「み言葉の力」とあり、その9〜11節に何と語られているでしょうか。「天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ種蒔く人には種を与え食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げわたしが与えた使命を必ず果たす。」主の語られた言葉は決して虚しく戻ることはありません。ハレルヤ! 主イエスが「向こう岸へ渡ろう」と語られた以上、その途中に何があったとしても、必ず実現するということではありませんか!天も地も従える王の権威ある言葉であるからです。弟子たちにはそれが分かっていません。だから波風に翻弄されてしまったのです。

 ここで、最近手にした書物の印象的な証しを紹介しましょう。今は天に召された器ですが、米国を中心に活躍されたジョン・ウインバー牧師の証しです。彼はこう語ります。『数年前、四〇代後半の女性からいやしの祈りを頼まれたことがあります。胃の病と関節炎にかかって長い年月苦しんできたということでした。その女性のために祈り始めると、彼女の中に人を恨む思いがあるという語りかけを受けました。そこで、「あなたはだれかに対して敵意や怒り、あるいは恨みを抱いていませんか」と尋ねたのです。さらに、「その恨みの相手はあなたの妹さんではありませんか」と口に出して言うように、主が促しておられるような気がしました。そのとおりに言ったところ、その女性はきつぱりと否定しました。「いいえ、そんなことはありません。だって私は妹ともう16年間も会ってないんですから。」「本当にそうですか。」私がさらに突き詰めると、彼女は妹さんのことを話し始めました。二人は同じ男性が好きになり、妹がその男性を奪うようにして結婚したそうです。けれどもやがて二人は離婚という結末を迎えました。彼女は「そう、確かにあのことで、私は妹を赦せないわ」と。

「ダビデがバテシバと姦淫を犯し、その罪を主に告白しなかったとき、(詩篇32:3)ダビデは自分の骨は弱り果てたと言っています。ご存知ですね。もしあなたが妹さんを赦さないなら、あなたも同じように、いつまでも苦しみを負い続けますよ。」と語ると、とうとう彼女の強がりは崩れました。「いったい私はどうすればいいんですか。」私が彼女に勧めたことは、「今までのことを赦します、もう一度仲直りしてやっていきましょう」と妹さんに手紙を書くことでした。彼女はすぐその手紙を書きました。けれどもそれを何週間も投函することができませんでした。その間ますます病状は悪くなり、もう死んでしまうのではないかと思えてきました。そして、彼女はあの手紙のことを思い出したのです。まさに最後の力を振り絞るようにして、郵便局まで行き、手紙を投函しました。ポストに手紙を入れたとき、彼女を何とも言えない安堵感が包みました。そして家に着いた時には、完全に病が癒されていたのです。』

 これが神の支配の秘儀の現実です。お分かりでしょうか。これは現代に経験された神の支配の秘儀の実際の一つに過ぎません。ヘブル書13章8節に「イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも同じです」とあります。王なる主イエスは、今、私たちと共におられるのです。主イエスが語られるところに神の支配が現実となるのです。

 最後に、主の語られた言葉で大切なのは、その神の国、支配の秘儀が誰に授けられるかです。それを確認しておきましょう。主は言われました、『あなたがたには神の国の秘儀が授けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される』11節

ここに三種類の人々が登場しています。「イエスの周りにいる人たち」「12人」そして「外の人々」です。では、神の国の秘儀が授与されるのは誰か?二種類の人だけです。そして「外の人々には、すべてがたとえで示される」と秘儀の授与の対象外の人々には「すべてがたとえで示される」と主は語られます。ここに喩えの使用目的の一つが明らかにされることになります。本来、喩えの積極的な使用目的は、語ろうとする事柄を相手に分かりやすくすることにあるでしょう。マルコ4章33節は、その意味で説明されていますね。「イエスは、このように多くのたとえで、人々の聞く力に応じて御言葉を語られた。」と。喩えは、わかりやすく説明するために、ある物事引き合い出していうことです。異質物事類似点をとらえ、連想させることです。

喩えは、その意味で、人々のイメージに働きかけて、理解を深める効果的な伝達手段だと言えるでしょう。私たちも普通に「手っ取り早く言えば」とか、「言ってみれば」「たとえばさあ」と語るのではありませんか。主イエスが26節、30節で切り出す「神の国は次のようなものである。」「神の国を何に例えようか」はその意味ですね。

ところがです、喩えには、別な機能が隠されているのです。それは聴き手に真理を隠す働きがあるということなのです。意図的に語り手がそうすると言うよりも、聴き手に理解しようとする意志がない場合に、結果的に隠されてしまうということなのです。

その意味で、ある神学者などは、11節の「喩え」はむしろ「謎」と訳すべきだと提案する向きもあるくらいです。「謎」とは、表向きの意味の背後に別の意味を隠しておき,それを当てさせる言語遊戯の一形式ですね。語源は『何ぞ』という問いかけの言葉で,〈なぞなぞ〉とも言われるものです。

古代ギリシアでスフィンクスが問うたという謎をご存知でしょうか。「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足で歩くものは何か」分かりますか。答えは「人間」ですね。はいはい歩きの赤ちゃん、最後は杖をつく老人ということです。イエスの喩えが、謎めいたものになってしまう人を、イエスは「外の人々」と呼ばれます。この人々の特徴は、イエスを受け入れず、理解しようとする意志の無い人のことなのです。主は、それに続いて、「心を頑なにするメッセージ」として知られるイザヤ6章9、10節を引用され「彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず立ち帰って赦されることがない」ためである。」と語られていますね。

 では誰に授与されるのでしょうか。主は「あなたがたには神の国の秘儀が授けられている」と言われました。「あなたがた」とは、イエスの周りにいる人たち、それに12人のことでしょう。十二人とは3章13節の選ばれて使徒とされた弟子たちのことです。「周りにいる人たち」とは、喩えが知りたくイエスに尋ねた人々、周りに粘った人々です。イエスに比較的親しい弟子のことです。つまり、いつもイエスにつき従い、生活をともにしている人々。イエスとともに歩む者、イエスと交わる者です。

これを現代的に言い換えれば、そうです。教会なのです。クリスチャンなのです。教会は、キリスト信者と主の職務を付与された使徒、預言者、伝道者、牧師、教師で構成される信仰共同体のことです。今日は、2月の第一主日礼拝なので、聖餐式をこの後、続けて予定しております。聖餐式に預かるとは、それによって、主イエスの「周りにいる者」であることを確認し、自覚する儀礼なのです。神の国、支配の秘儀、真理の中心はキリストの十字架です。 十字架が自分の罪の赦しであることを確信する者のみが、聖餐式でパンと盃を受けるのです。パンがキリストの体、盃がキリストの血を象徴することを理解しているからです。そのイエスの周りに者に、神の国、支配の秘儀は授与されるのです。何たる恵み、計り知れない恵みであることか!

 最後に、この神の支配の秘儀を受け続ける秘訣を三つ挙げて終わりにしましょう。

その第一は、み言葉に聴く耳を持つことです。23節で主が「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われておられるからです。かつて預言者アモスに語られた言葉を思い出されます。『主なる神は言われる、「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。 」敗戦直後の日本は、食うや食わずで悲惨だったいわれています。ここに経験した人がおられるでしょうか。その敗戦直後から7年間、当時の教会は満席になったそうです。街頭でトラクト、チラシが配られると人々が殺到したそうです。救われる人が沢山起こされたのです。だが、7年が過ぎると、波が引くように教会から人は去って行ったとも言われます。何故でしょうか。経済復興が進むにつれ、物質的な豊かさを取り戻して行った結果、人心は教会から離れていったのです。

今や情報、娯楽産業の花盛りです。至るところに言葉と映像が氾濫している時代です。

クリスチャンにとっても、危機的な状況でしょう。多くの時間と関心が誘惑されるからです。聖書に聞くことが危険にさらされているのです。主イエスは勧告されます。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。あなたには、聴く耳がありますか。

第二は、み言葉を受け入れることです。聞くだけでなく、心から受け入れる精神を保持することです。主イエスは20節で言われます、「御言葉を聞いて受け入れる人」と。御言葉を受け入れるとは、聞いて行うことです。言葉を実践することです。ヤコブ1章22〜24節を読んでお来ましょう「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。」ジョン・ウインバー牧師が紹介した女性の癒しの決め手は、彼女が和解の手紙を実際にポストに投函したことにあります。彼女は罪を告白し、妹を赦す意志を表明したので癒されたのです。特定の問題のために、御言葉が与えられたなら、具体的に実行、実践することにしようではありませんか。そこに祝福があります。

最後は、み言葉に注意することです。主は、24節に「何を聞いているかに注意しなさい」とも語られました。「注意する」とは、本来は、見ること、凝視する、理解する、熟考することです。続いて言われました、「あなたがたは、自分の量る秤で量られ、さらに加えて与えられる。」ここを新改訳聖書は「あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。」と誰のために量るかを意訳している訳しています。これはみ言葉をよく理解し、それを他人に奉仕することに適用する言葉なのです。み言葉を自分だけに留めおかず、他人に与えることで経験されることなのです。奉仕をして一番祝福を受けるのは、その本人ではありませんか。そうなのです。与えられば与えられるのです。より多く与えられるのです。みことばによって変えられた自分を他の人に与えると、より多くの祝福を受けるのです。御言葉を教える、奨励する、説教する、御言葉に従い奉仕する。それは秘儀を授与される素晴らしい仕方です。主は更に言われました。「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」経済原理は霊的原理でもあるのです。資本家が持てる資本を投資すると儲けるように、不思議なことに、奉仕する人はいよいよ祝福されるのです。

 聞く耳を持ちましょう。み言葉を受け入れ実践し、み言葉を他の人々にわかち与えるようにすること、それが神の支配の秘儀が授与される秘訣なのです。その人は、30倍、60倍、100倍の実を結ぶことになることでしょう。