2019年2月礼拝説教

2月24日礼拝説教

         「解放婦人の先行き」          ルカ8章1〜3節

8:1そののちイエスは、神の国の福音を説きまた伝えながら、町々村々を巡回し続けられたが、十二弟子もお供をした。

8:2また悪霊を追い出され病気をいやされた数名の婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリヤ、

8:3ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒にいて、自分たちの持ち物をもって一行に奉仕した

 イエスの福音宣教の巡回には12弟子がお供をした。全て男性である。そこに女性は含まれない。

だが多数の婦人たちが奉仕をしていた。

人間には二つの性しかないがそれは神の創造の業である。

創世記1章27節によれば、人間は神の似姿として造られ、その神のイメージは男女の異なる性が共同して生きることに反映されている。

私たちは父、御子、御霊の三位格において唯一の神を信じる。

神が愛において一つであるように、異なる性が一致するところに神の栄光がある。

男と女は互いに補完する関係であり、神の前では平等である。

にもかかわらず罪のゆえに女性が軽視され蔑視される男尊女卑の性の歪みの歴史は非常に長い。

日本においても女性の参政権が正式に認められたのは昭和20年12月のこと、ごく最近のことなのです。

しかし驚くべきことに、主イエスの下には二つの性の麗しいバランスがある。

神が人の心を治めるとき、人間の性は本来のあるべき姿を回復されるのです。

婦人たちは罪と悪霊と病気から解放された感謝を動機とし、全く違った互いの身分を克服し、自分の持てるものをささげ、聖なる事業に従事する聖徒に喜んで奉仕することができた。

昨年のクリスマス・コンサートでは森 祐理さんが、この度のヴァイオリン・コンサートではロシェック女史と細木朝子姉が、その自分の音楽的才覚を生かして奉仕なされた。

その文化事情により、家庭や職場や地域社会によっては依然として性差別が著しいだろう。

だが、どのような状況でも主イエスにあるならば婦人は内面的な自由を確保し、主と人々に仕えることができるのである。

私たちはあの七つの悪霊から解放されたマグダラのマリヤに、解放された婦人の輝かしい先行きを見る。

主イエスが最初に復活の姿を現されたのはマリヤであった。

痛み泣き悲しむ後ろから『マリヤよ』と呼びかけられたイエスは、重要な知らせを他の使徒たちに伝えるよう彼女に委託された。

それゆえにマリヤは『使徒のための使徒』と呼ばれる。

性の違いは神の創造の秩序であり、婦人の先行きには大きな使命があるに違いない。

2月17日礼拝説教

 

       「虫けらのヤコブ」                 イザヤ41章8~14節

41:8しかし、わがしもべイスラエルよ、
わたしの選んだヤコブ、
わが友アブラハムの子孫よ、
41:9わたしは地の果から、あなたを連れてき、
地のすみずみから、あなたを召して、
あなたに言った、「あなたは、わたしのしもべ、
わたしは、あなたを選んで捨てなかった」と。
41:10恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。
驚いてはならない、わたしはあなたの神である。
わたしはあなたを強くし、あなたを助け、
わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。
41:11見よ、あなたにむかって怒る者はみな、
はじて、あわてふためき、
あなたと争う者は滅びて無に帰する。
41:12あなたは、あなたと争う者を尋ねても見いださず、
あなたと戦う者は全く消えうせる。
41:13あなたの神、主なるわたしは
あなたの右の手をとってあなたに言う、
「恐れてはならない、わたしはあなたを助ける」。
41:14主は言われる、「虫にひとしいヤコブよ、
イスラエルの人々よ、恐れてはならない。
わたしはあなたを助ける。
あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。

 主なる神は『虫にひとしいヤコブよ』と捕囚の民へ愛を込め実に示唆に富む呼びかけをされました。

人間が他の動物と区別される大いなる特徴は、自分が誰であるか自己認識できることです。

男女の性差もさることながら、よほどのことがない限り自分が誰であるかを人はわきまえるものです。

与えられた天分才能を発展させ理想的な科学者、実業家、芸術家、福祉活動家、政治家、宗教家、スポーツ選手になる人もあります。

人から称賛され、高い地位を獲得し、高収入を得て成功者と自負する人もおることです。

しかしながら人は神の前にある自分を知らない限り正しい自己認識を持つことはできません。

創造者なる神の前では、この世の立場、業績がどうあれ「虫に等しい」のです。

すなわち神の御前では小さく無力なはかない存在なのです。

ところがこのような正しい認識に基づき謙遜にへりくだる者を神は恵まれるのです。

バビロンに捕囚とされ打ちひしがれたイスラエルの民が、それによってまさしく虫に等しい弱さを経験させられたとき、神は彼らに「わたしはあなたを助ける」と励まし慰められました。

彼らの内には拭い去り難い恐れがありましたが、神は「恐れてはならない」と繰り返し呼びかけ、『わたしはあなたと共にいる』、『わたしの右の手であなたを支える』と約束されました。

その約束される神は『あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である』と啓示され、イスラエルの律法に近親者が落ちぶれた親族を買い戻す責任があると規定されるように、神ご自身が民を奴隷状態から買い戻されると保証されました。

この贖う真実な聖者を私たちは受肉された神の御子イエス様に見ることが許されています。

ご自身を贖いの代価として十字架に犠牲となられた主イエスは、自分を虫けらに等しいとへりくだる者に「わたしはあなたを助ける」と語られます。

あなたは誰を恐れ、何を恐れるでしょうか。恐れる必要はなく、恐れるべきではないのです。

主があなたと共におられるからです。

必ずや信頼する者に勝利の御手を差し伸べ支えてくださることでしょう。

2月10日礼拝説教

 

         「鷲の如く昇る」        イザヤ40章27〜31節

 

 40:27ヤコブよ、何ゆえあなたは、
「わが道は主に隠れている」と言うか。
イスラエルよ、何ゆえあなたは、
「わが訴えはわが神に顧みられない」と言うか。
40:28あなたは知らなかったか、
あなたは聞かなかったか。
主はとこしえの神、地の果の創造者であって、
弱ることなく、また疲れることなく、
その知恵ははかりがたい。
40:29弱った者には力を与え、
勢いのない者には強さを増し加えられる。
40:30年若い者も弱り、かつ疲れ、
壮年の者も疲れはてて倒れる。
40:31しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、
わしのように翼をはって、のぼることができる。
走っても疲れることなく、
歩いても弱ることはない。

『鷲のように翼をはって、のぼることができる』なんと力強く勇ましく美しいイメージによる神の約束でしょうか。

神の民のイメージ、クリスチャンのイメージは上昇気流によって天空を舞いかける鷲なのです。

バビロン捕囚とされた民は、その惨めさに打ちひしがれ、神に忘れられ、もはや顧みられることもないと気落ちしていました。

女から生れる人は日が短く悩みに満ちている。」とヨブが言ったように、苦しみ試練は不可避ですが、無意味ではありません

詩篇11971苦しみにあったことは、わたしに良い事ですこれによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。

神が人に様々な苦しみを許容されるときに、そこには深い配慮とご計画が込められているのです。

なぜか十分に理解できなくとも主に感謝して忍耐できるなら幸いです。

なぜなら神は必ずや回復させ、鷲のように翼をはって昇らせると約束されるからです。新しく力が更新されるのです。

人の力に代わり神の力に交換されるのです。弱さと疲れは癒され強くされるのです。

その新しい力は主を待ち望む者に与えられるものです。

主は時間を超えた永遠の神、主は空間を超えた地の果ての創造者です。

その英知のはかりがたいお方です。

今やイエス・キリストの御名により祈り待ち望むときに、神は無条件で力を与えてくださるのです。

鷲も鳥類の例外ではなく、羽の抜け替わる換羽期には、生え揃うまでジッと待ち、生え揃ろうと羽ばたき上昇気流にまかせ、再び力強く舞いかけます。

愛する主イエスが十字架に磔殺されるや、ペテロをはじめとする弟子たちは失意のどん底に突き落とされました。

しかしながら、蘇られたイエス様の聖霊の約束をいただいた彼らが、待望して祈り過ごすとき、あのペンテコステの朝、上から聖霊の力を着せられ、全く新しい人とされました。

弱さの故に主を3度も否んだペテロでさえ果敢な証人とされたことを私たちは知るものです。

自らの置かれた困難な状況はそれぞれ異なりますが、忍耐強く主を待ち望む時、必ずや新しい力を得ることでしょう。 

2月3日礼拝説教 

      「目を上げて見よ」         イザヤ40章12〜26節

 

40:12だれが、たなごころをもって海をはかり、
指を伸ばして天をはかり、
地のちりを枡に盛り、
てんびんをもって、もろもろの山をはかり、
はかりをもって、もろもろの丘をはかったか。
40:13だれが、主の霊を導き、
その相談役となって主を教えたか。
40:14主はだれと相談して悟りを得たか。
だれが主に公義の道を教え、
知識を教え、悟りの道を示したか。
40:15見よ、もろもろの国民は、おけの一しずくのように、
はかりの上のちりのように思われる。
見よ、主は島々を、ほこりのようにあげられる。
40:16レバノンは、たきぎに足りない、
またその獣は、燔祭に足りない。
40:17主のみ前には、もろもろの国民は無きにひとしい。
彼らは主によって、無きもののように、
むなしいもののように思われる。
40:18それで、あなたがたは神をだれとくらべ、
どんな像と比較しようとするのか。
40:19偶像は細工人が鋳て造り、
鍛冶が、金をもって、それをおおい、
また、これがために銀の鎖を造る。
40:20貧しい者は、ささげ物として
朽ちることのない木を選び、
巧みな細工人を求めて、
動くことのない像を立たせる。
40:21あなたがたは知らなかったか。
あなたがたは聞かなかったか。
初めから、あなたがたに伝えられなかったか。
地の基をおいた時から、
あなたがたは悟らなかったか。
40:22主は地球のはるか上に座して、
地に住む者をいなごのように見られる。
主は天を幕のようにひろげ、
これを住むべき天幕のように張り、
40:23また、もろもろの君を無きものとせられ、
地のつかさたちを、むなしくされる。
40:24彼らは、かろうじて植えられ、かろうじてまかれ、
その幹がかろうじて地に根をおろしたとき、
神がその上を吹かれると、彼らは枯れて、
わらのように、つむじ風にまき去られる。
40:25聖者は言われる、
「それで、あなたがたは、わたしをだれにくらべ、
わたしは、だれにひとしいというのか」。
40:26目を高くあげて、
だれが、これらのものを創造したかを見よ。
主は数をしらべて万軍をひきいだし、
おのおのをその名で呼ばれる。
その勢いの大いなるにより、
またその力の強きがゆえに、
一つも欠けることはない。

自分の置かれた困難な環境や状況の中で、神に心底から信頼を寄せることは容易なことではありません。

70年もの永いバビロン捕囚を余儀無くされたイスラエルの民には、イザヤの神の慰めのメッセージにも疑念を払拭することは難しかったに違いありません。

罪の償いの捕囚生活70年が終わる時に、主には驚くばかりの解放が計画されておりました。

彼らは祖国に帰還し新しい生活が約束されていたのです。

彼らにもっとも必要なことは主なる神に信頼する生きた信仰でした。

『信仰がなくては神に喜ばれることはない』のです。

12〜26節は、打ちひしがれていた民の信仰を奮い立たせる預言のメッセージでした。

そのメッセージは12節の「だれが、たなごころをもって海をはかり」という問いかけに始まり、民が質問に答えることによって信仰を喚起させる形式でした。

12節では、宇宙を構成する海、天、塵、山、丘を人が計測することができるかとの問いにより、主が万物の偉大な全能の創造者であることを民は想起させられます。

13、14節では主が全てを知る全知の神であること、

15〜17節ではいかなる国民もこの全知全能の主の前には「桶のひとしずく」のような無きに等しい存在であること、

18〜20節では、金属や木片から形成された人の手の細工である偶像などは、真の生ける神と比較にならぬことを呼び覚まされます。

21節で『あなたがたは知らなかったか、聞かなかったか。』と問われた民は、かつて礼拝で賛美し歌った信仰の詩篇を思い起こされ、

天地の創造者である主が天の御座に座し、地上の諸々の権力者、為政者たちをちっぽけなイナゴのようにご覧になられ、

イスラエルの神が歴史を支配し形成される主である信仰を喚起させられます。

事実、獰猛なバビロン王国はペルシャに滅ぼされ、神はその初代帝王クロスの心を動かし、イスラエルに帰還命令を発布なされました。

主の「目を高くあげて見よ!」との呼びかけは、現代に生きる私たちにも語られたメッセージです。

状況がどうであれ恐れず主に信頼することが肝心なのです。