725日礼拝説教

「キリストの愛が」  コリント下5章14〜6章2節

なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。

それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。

神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。

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わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。神はこう言われる、

「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、

救の日にあなたを助けた」。

見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。

 クーベルタン男爵は、古代オリンピックに着目し、その復興で世界平和に貢献しようとした。真の平和は、人が先ずキリストにより、神と和解することなしにはあり得ない。神とのその和解はキリストの愛により道が開示された。

キリストとはあの使徒パウロにダマスコ途上でご自身を啓示された主イエスに他ならない。キリスト者迫害の急先鋒だったパウロは、この改心で一点、キリストの和解の使者とされた。

この和解の務めに彼を突き動かしたものを、パウロは、「事実、キリストの愛が私たちを捕えて離さないのです」と告白する。その愛の根拠として主の十字架を指摘し、「その方はすべての人のために死んでくださいました」と、キリストの愛をそこに立体的に教示した。

主イエスは神の御子であるゆえにその愛は至高である。主イエスが罪業深重な私たち罪人のため命を捨てられたゆえにその愛は限りなく深い。時代、人種、国籍、言語、文化、老若男女に関わらず、例外なく万人のため犠牲となられたゆえに、その愛は果てしなく広い。

そればかりか、キリストの愛は神のアガペーの愛、時間を超越した永遠無限の愛である。そのキリストの愛が、自分自身にさえ及んでいることは何たる恵か。「主我を愛す 主は強ければ 我弱くとも 恐れはあらじ」と子供賛美歌が歌うとき、それは子供に限定されない。主イエスは私を愛され、あなたを愛される。その主の愛が私たちを捕えて離さないときに、一つの尊い務めが、和解の務めが委託される。

キリストは十字架により罪の赦しを得させ、私たちを神に和解させてくださった。

主は赦され和解された私たちを、キリストの使者として遣わされようとされる。和解された者が、他の人々への和解の使者となる責任がある。

二人の息子の父の喩え(ルカ15章)に登場する放蕩な弟は異邦人を、冷淡な兄はユダヤ人を意味する。父は帰ってきた放蕩な弟を両腕に受容し、冷酷な兄に家に入るよう懇願した。その父の姿こそ神の私たちへの和解の姿勢を示している。 

神と和解した者がなすべき務めこそキリストの使者だと弁えよう。

718日礼拝説教

「神の主権的選び」  ローマ9章19〜28節

そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。

ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。

もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。

神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。それは、ホセアの書でも言われているとおりである、

「わたしは、わたしの民でない者を、

わたしの民と呼び、

愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。

あなたがたはわたしの民ではないと、

彼らに言ったその場所で、

彼らは生ける神の子らであると、

呼ばれるであろう」。

また、イザヤはイスラエルについて叫んでいる、

「たとい、イスラエルの子らの数は、

浜の砂のようであっても、

救われるのは、残された者だけであろう。

主は、御言をきびしくまたすみやかに、

地上になしとげられるであろう」。

 「陶工は、同じ粘土の塊から、一つを貴い器に、一つを卑しい器に作る権限があるのではないか。」聖書は、神と人間の関係を陶工と粘土に喩(たと)える。陶器師の製作上の絶対権限は、神の主権的支配を示す。

「もし神が霊であり、したがって一個の人格的存在であり、その本質と完全性において無限、永遠、不変であり、宇宙の創造者、保持者であるなら、神はその絶対的主権を持つ権利がある。」とホッジは言う。

古代バビロンの王ネブカドネザルでさえ、「その支配は永遠の支配、その王国は代々にわたって続く。地に住む者は皆、無に等しく天の軍勢も地に住む者も御旨のままに扱われる。その手を押さえて「あなたは何をなさるのか」と言える者はない。」と告白した。

では、神の民イスラエルの選びは失敗であったのか。パウロは、神が遣わされた救い主イエスを同胞の彼らが拒絶したことを悲しみ痛む。だが、パウロが神の民の選びの歴史にメスを鋭く切り込む時、そこに神の主権的選びが克明に描き出される。

神は約束によりイシマエルではなくイサクを、計画に基づきエサウではなくヤコブを選び、イスラエルをエジプトの奴隷から解放する時には、パロの心を頑(かたく)なにし、モーセに憐れみを注ぐことで、人間の意志や努力の介在を許さず、主権的選びを明確にされた。

このイスラエル民族から救い主を出すこと、更に、救い主イエスを信じる者を選ぶことが、神のご計画である。そこに選ばれた者達で構成される教会は、民族の壁を超え、ユダヤ人と異邦人とから救われた者で成り立つ神の民とされる。

今この時代に、自分自身の出自や才能、天分、容姿、環境の他者との違いを思うと、神が不公平に見えるかもしれない。

しかし、この全人類に対する深遠な神の主権的選びの計画を知り、我々は、土の器に過ぎないことを自覚しへりくだり、創造主に対して「どうして私をこのように造ったのか」と口答えするのを控えよう。

否、むしろ、罪赦され、神に愛され、神の民、神の子とされ、多くの人々の中から「残りの者」とされていることに感謝し、神に栄光を帰すことにしよう。

711日礼拝説教

「生活刷新の深奥」  使徒行伝19章11〜20節

神は、パウロの手によって、異常な力あるわざを次々になされた。たとえば、人々が、彼の身につけている手ぬぐいや前掛けを取って病人にあてると、その病気が除かれ、悪霊が出て行くのであった。

そこで、ユダヤ人のまじない師で、遍歴している者たちが、悪霊につかれている者にむかって、主イエスの名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって命じる。出て行け」と、ためしに言ってみた。ユダヤの祭司長スケワという者の七人のむすこたちも、そんなことをしていた。

すると悪霊がこれに対して言った、「イエスなら自分は知っている。パウロもわかっている。だが、おまえたちは、いったい何者だ」。そして、悪霊につかれている人が、彼らに飛びかかり、みんなを押えつけて負かしたので、彼らは傷を負ったまま裸になって、その家を逃げ出した。

このことがエペソに住むすべてのユダヤ人やギリシヤ人に知れわたって、みんな恐怖に襲われ、そして、主イエスの名があがめられた。

また信者になった者が大ぜいきて、自分の行為を打ちあけて告白した。それから、魔術を行っていた多くの者が、魔術の本を持ち出してきては、みんなの前で焼き捨てた。その値段を総計したところ、銀五万にも上ることがわかった。

このようにして、主の言はますます盛んにひろまり、また力を増し加えていった。

 使徒パウロにより宣べ伝えられた福音は、エペソの人々に大いなる生活の刷新をもたらした。後にパウロが彼らに書き送ったエペソ書が、その刷新の真相を明らかにする。

第一に彼らは、イエスを主と受け入れ受洗した結果、天上に着座させられている。それは神と和解し、彼らの神の子たる身分が確定したことを意味した。

それまでは、罪過の内に霊的に死に、悪魔に従い、神の怒りによる滅亡に定められていたが、キリストの死と復活に与り、神の大いなる恵みと憐れみによって救われた。

パウロは初対面の彼らが、洗礼を受け、聖霊に満たされているか尋ねたが、それは今に生きる私たちへの問いでもある。

信仰を公に洗礼を通して告白し、聖霊に与るとき、人は大いに刷新されることになる。

エペソの人々は更に、霊的に新しい身分を得たばかりか、罪過ちを放棄し、光の子として歩むことで生活が刷新されていた。

港湾エペソは交易で栄え、州都の権力が集中、女神崇拝の悪徳で道徳が腐敗していた。怪しげな魔術師達が徘徊し、パウロの宣教に主イエスの御名による著しい奇跡の業が伴うのを目撃した彼らの中には、その御名に魔術的力を読み誤り、模倣する者まで続出する。

ところが、悪霊祓いを意図した連中は、悪霊憑きに逆襲され、散々な仕打ちを受ける事件がきっかけで、真の意味での神への畏怖の念が人々の間に生じ、その結果、「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行を告白し、打ち明けた」と記録されている。

信仰により神に義と認められたクリスチャンは、残りの生涯を罪からの清めを経験する聖化の生活に導かれることが望ましい。「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不義から清めてくださいます。」(第一ヨハネ1:9)

良心の呵責を覚える罪を自覚した時には、真実な神に言い表して赦しと清めをいただこう。

 

更に福音による刷新がエペソでは魔術からも人々を解放したことは特筆されるべきであろう。多額の魔術本が焼却処分されている。

74日礼拝説教

「敬虔気品の保持」  歴代下6章12〜23節

ソロモンはイスラエルの全会衆の前、主の祭壇の前に立って、手を伸べた。ソロモンはさきに長さ五キュビト、幅五キュビト、高さ三キュビトの青銅の台を造って、庭のまん中にすえて置いたので、彼はその上に立ち、イスラエルの全会衆の前でひざをかがめ、その手を天に伸べて、言った、

「イスラエルの神、主よ、天にも地にも、あなたのような神はありません。あなたは契約を守られ、心をつくしてあなたの前に歩むあなたのしもべらに、いつくしみを施し、あなたのしもべ、わたしの父ダビデに約束されたことを守られました。あなたが口をもって約束されたことを、手をもってなし遂げられたことは、今日見るとおりであります。

それゆえ、イスラエルの神、主よ、あなたのしもべ、わたしの父ダビデに、あなたが約束して、『おまえがわたしの前に歩んだように、おまえの子孫がその道を慎んで、わたしのおきてに歩むならば、おまえにはイスラエルの位に座する人がわたしの前に欠けることはない』と言われたことを、ダビデのためにお守りください。それゆえ、イスラエルの神、主よ、どうぞ、あなたのしもべダビデに言われた言葉を確認してください。

しかし神は、はたして人と共に地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。わたしの建てたこの家などなおさらです。しかしわが神、主よ、しもべの祈と願いを顧みて、しもべがあなたの前にささげる叫びと祈をお聞きください。

どうぞ、あなたの目を昼も夜もこの家に、すなわち、あなたの名をそこに置くと言われた所に向かってお開きください。

どうぞ、しもべがこの所に向かってささげる祈をお聞きください。

どうぞ、しもべと、あなたの民イスラエルがこの所に向かって祈る時に、その願いをお聞きください。あなたのすみかである天から聞き、聞いておゆるしください。

もし人がその隣り人に対して罪を犯し、誓いをすることを求められるとき、来てこの宮で、あなたの祭壇の前に誓うならば、あなたは天から聞いて、行い、あなたのしもべらをさばき、悪人に報いをなして、その行いの報いをそのこうべに帰し、義人を義として、その義にしたがってその人に報いてください。

 人はなぜ祈り、また祈るべきなのか。他の生き物は祈らないし祈れない。祈りは人の特性のようだ。

ソロモン王は父王ダビデの遺志により神殿をエルサレムの丘に完成するや、ひざまづき諸手を挙げ、神に祈りを捧げた。巨費を投じて建立された壮麗な神殿の奉献の祈祷だった。祈り終えるや俄然天から火が降り、彼の祈祷は神に加納された。私たちはここに祈りが神に聞き届けられる事実を知る。

だが、この祈祷物語は3千年前の故事、ソロモンはイスラエル人、場所は中東のエルサレムと、現代の我々とは隔絶する。この出来事は聖書を聖書で解釈する原理により、テモテ上2章が我々に適用の光をもたらす。

ソロモン王は神殿を建設し、神殿を通して神に祈った。彼はその神殿を『ここはあなたが、そこにご自分の名を置くと仰せになった所です』と祈り、神の名が置かれ、その御名を呼ぶことで、神殿が神と人との接点となることを明示した。

では、今や我々のための神と人との接点はどこにあるのか。「神は唯一であり、神と人との仲介者も唯一であって、それは人であるキリスト・イエスです。」この方は肉体に宿られ人となられた神の御子である。言は肉となって、私たちの間に宿った」(ヨハネ114)そして、「この方は、全ての人のための贖いとしてご自身を捧げられました。

御子は罪の奴隷であった我々の救いのため十字架に贖いの子羊として、ご自分を犠牲にされた。三日目に復活することで罪の赦しは確証され、今や、主の御名を呼び求める者は、その祈りが必ず神に聞かれる道が開かれた。更に「すべての人のために」祈るよう勧告される。神がすべての人が救われることを望まれるからである。

神は誰が救われるのかを予知予定されるが、その人の救いの実現のために我々の祈りが求められている。政治指導者のためにも祈るべきだ。支配者が誤っている時でさえ、教会は悪人を善人に変えていただくように祈らねばならない。 

それによって敬虔と気品が保持される。穏やかで静かな生活を送ることが可能となる。その時、祈祷が、我々のはかない束の間の人生の要となる。