1025日礼拝説教(詳細)

「人の人たる所以」 コヘレト12章9〜14節

12:9さらに伝道者は知恵があるゆえに、知識を民に教えた。彼はよく考え、尋ねきわめ、あまたの箴言をまとめた。

12:10伝道者は麗しい言葉を得ようとつとめた。また彼は真実の言葉を正しく書きしるした。

12:11知者の言葉は突き棒のようであり、またよく打った釘のようなものであって、ひとりの牧者から出た言葉が集められたものである。

12:12わが子よ、これら以外の事にも心を用いよ。多くの書を作れば際限がない。多く学べばからだが疲れる。

12:13事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。

12:14神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。

ハレルヤ!コヘレトの言葉からの説教も今日が最後となりました。12章の短編ですが6ヶ月を費やしたことになります。この書の内容は難解な箇所が多いばかりか、途中コロナの影響で4、5月が抜け中断したことや、9月から使用聖書を聖書協会共同訳に変えたことが重なり、皆さんも戸惑うことが多々あったのではないでしょうか。

以前の口語訳が「伝道の書」が新しい訳では「コヘレトの言葉」、説教でもそれまでは「伝道者」と呼んでいたものを「コヘレト」と呼び変えるなどで、混乱したかもしれません。

ちなみに、口語訳が伝道者と訳した言語はコヘレトで、「会衆を招集する人」「集める人」を意味しており、共同訳は日本語の適訳語が無いため、コヘレトとしております。恐らく古代ユダヤ社会で、民衆の集会を招集し、話し合いで助言を求められる時には知恵を提供する教師のような役割を果たす人物ではなかったかと推定されています。

今日の箇所は、正に最終章の最後の部分で、共同訳は「締めくくり」と表題を付けています。内容は、どのような書物でも「後書き」があるもので、この書の著者であるコヘレト自身の事が語られ、彼が本書を書いた意図を述べていると思われます。

そこで今日は、この箇所から聖書の由来、聖書の機能、聖書の帰結と、三つのポイントで短く奨励致します。

I.       聖書の由来

先ずは聖書の由来ですが、ここにはこの書の特徴を表す言葉が5つありますので挙げておきます。10節「喜ばしい言葉」「真実の言葉」11節「知恵ある者の言葉」「集められた言葉」13節「聞き取ったすべての言葉」これら一つ一つを説明したいところですが、最後の二つだけを取り上げます。

この二つの言葉から導き出される真理があります。それはコヘレトの言葉は神の霊感を受けて書き記された事です。それは11節の「集められた言葉は一人の牧者から与えられた」によって裏付けられます。先週、この「一人の牧者」に触れましたね。この牧者とはイスラエルの神を指し示していると申し上げました。聖書はイスラエルの民を羊に神が牧者に例えられているからです。コヘレトは12章の言葉のすべてを神から与えられたのだと証言しているわけです。

コヘレト12章は聖書の中に収められています。この12章は聖書だという事です。そして、聖書が他のどんな書物とも決定的に違うのは、聖書は神から与えられた神の言葉だという事です。パウロはそれをこう明言しました。「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。」(テモテ下3:16)ペテロも同様に明言してこう言います。「預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、人々が聖霊に導かれて、神からの言葉を語ったものだからです。」(ペテロ下1:21

聖書が「書物の中の書物」The Book of Booksと言われる所以(ゆえん)は聖書が神の霊感による書物であるからです。

ここで霊感とは何か、二つの違う霊感説と私たちの霊感を短く紹介しましょう。

①言語口述霊感説

これはちょうど、事業経営者が秘書に手紙を口述するように、全ての単語が、句読点に至るまで、神によって口述されたというものです。聖書は1500年程の年月を掛け、およそ40人の人々が書き表したものであることが分かっています。繰り返し丹念に読んで気づくことは、どの聖書もそれを書き留めた人の個人的な特徴があるということです。この考え方の大きな間違いは聖書を書き記した人間の個人的特徴を全く排除してしまうところにあります。

②思想霊感説

これは、神は選ばれた人々に思想を与え、この思想を彼ら自身の言葉で記録するに任せたのだとする説です。言葉ではなく、思想だけが霊感されていると考えるのです。これは聖書の人間性を説明できますが、問題点は、聖書の神性であることが弱いということです。

③完全逐語霊感説

では、私たちが採用する霊感説とはどういうものか?私たちが教理的に「完全逐語霊感」と呼ぶものです。逐語とは「一つ一つの言葉」で、完全霊感とは「言葉自体が全部霊感されている」という意味です。神は、聖書に記されているすべての言葉において、ご自身の思想を完全に表現されたのです。神は、著者がその個性と文化的背景の中から言葉を選ぶ過程を導かれたので、それは計り知れない方法で、聖書は人の言葉でありつつ、神の言葉でもある、という意味なのです。

ガウセンという神学者が適切に定義しているので紹介する。『神の霊が聖なる書物の著者たちに働いて、彼らが用いた言葉使いに至るまでも彼らを導いて、また同様に彼らをあらゆる誤謬、欠落から保護してくださった、解明し得ない力である』

コヘレトは、9節で「多くの格言を探し出し」た と言います。「吟味し分類した」と言います。10節で「喜ばしい言葉を見つけ出そうと努め」た と言います。そして「真実の言葉を正しく書き留めた」とも言います。コヘレトの言葉は彼が書き留めたものである同時に、それは神の息の吹きかけ霊感によるものなのです。

II.    聖書の機能

では、その神の霊感を受けた聖書にはどんな機能があるのでしょうか。11節にこう語られています。「知恵ある者の言葉は、突き棒や打ち込まれた釘に似ている」

①聖書は突き棒に似ている

私はこの一句から一人の証を思い出した!以前にギデオン協会のA兄が訪ねて下さった時に2時間語らったと証しましたが、彼から3枚の証(あかし)の文をいただきました。垣内尚美さんの証しを紹介します。

 

「これ、良かったら差し上げます。」そう言って差し出されたのはギデオンの聖書でした。当時住んでいた近くの教会のゴスペルコンサートに、ふと足を運んだのですが、教会の音楽主事の方が週末に、自宅へ招待してくださいました。私は聖書とは全く無縁の生活を送っていましたので、受け取るかどうか かなり躊躇しました。私は筋金入りの仏教徒だったのです。

17歳で授戒会に参加し戒名を貰い、お寺でアルバイトをしたり、家族に仏教の講釈をしたりしていました。だけれども、阿弥陀仏に帰依すれば帰依するほど、その実態のなさに虚しさが増し、救いのない現実に絶望し、「この先私はどうなるのだろう」という不安値ばかりが心を支配するようになっていました。そんな矢先の出来事だったのです。「受け取るなら、一気に読もう」私は脂汗までかきながら考えました。 

実はその頃、人知れず霊的な恐怖に怯えていたのです。私が聖書を手にしたら悪霊も気づくそんな緊張感が走りました。しかし私は聖書を受け取ることにしたのです。表紙をめくるとそこには、全く知らない一人の姉妹の名前が記されていました。その方の召天記念の贈呈用の聖書でした。ルカの福音書から読み始め、神様の愛を強く感じて涙を流し、ヨハネの福音書に読み進み、イエス様にどんどん心が惹かれて行きました。教会に通い礼拝に出席し、牧師先生から個別にお話を聴く中で、次第に肩に重くのしかかっていた何かが取れていくのを感じました。言葉で言い尽くせない平安に心が満たされ、神様に対する信頼は揺るぎないものへとなって行きました。

イエス様を個人的な救い主として心にお迎えし、永遠の光なるお方はこの方だと分かるようになった頃のことです。私は聖書を読みながら寝入ってしまいました。その時、これまで見たことのない凄まじい悪夢を見ました。目を覚まして、聖書に目を留め、「今とんでもないものと出会ってしまったのだ」と途方にくれました。しかし、私はその悪夢の中で、ギデオンの聖書が稲妻のように激しく光っていたのを思い出したのです。聖書を手にしたから悪夢を見たのではなく、聖書に出会い真の神様を知ったことを嫌がって、サタンが攻撃をしてきたのだと気づきました。そこで私は、部屋にひとつ残っていたパンを取り、皆が聖餐式にするようにそれを割いて聖餐にしました。悪霊に対する宣戦布告です。その時以来、神様は本当に私を守って下さり、どんな時も勝利の右の手で私をやさしく導いて下さっています。』

 

なぜ思い出したか?それはその証の最後に「神様は導いて下さっています」で終わっていたからです。聖書は「突き棒に似ている」と言われます。それは神が聖書によって人を導かれるということなのです。これとよく似た表現が詩篇23篇4節にあります。「あなたの鞭(むち)と杖(つえ)が私を慰める。」これは羊飼いが羊を導くということです。鞭は近づく獣を追い払う道具で、杖は迷いだす羊を引き寄せる道具のことです。大変牧歌的で優しいイメージが感じられるものです。ところがここでは牧者が使う道具は「突き棒」です。次に「打ち込まれた釘」と分けてありますが、この釘は突き棒の先端に打ち込まれた釘だとする解釈もあります。これは羊ではなく牛に使う道具、中でも手ごわい雄牛の道具です。牛に突き立て強い痛みを伴う刺激を与えて誘導する道具です。

コヘレトの言葉12章を読んだ人の中には羊用の杖よりも雄牛用のキツイ突き棒を感じた方がいるかもしれません。心が突き刺され痛みを覚えたかもしれません。それは神が聖書を用いてあなたを導いておられることだと受け止められるなら幸いです。

ヘブル書4章12節にもこう言われています。『というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。』神は聖書により人を導かれるのです。

先ほど紹介した垣内尚美さんは今現在何をしておられるか?日本基督教団の牧師なのです。ご自分で言われる。「私は筋金入りの仏教徒だったのです。17歳で授戒会に参加し戒名を貰い、お寺でアルバイトをしたり、家族に仏教の講釈をしたりしていました。」筋金入りの仏教徒!女性ですが雄牛のような強者なのです。神は突き棒のような聖書で彼女を救いに導かれたばかりか牧師となるように導かれたのです。

この神の言葉である聖書に親しむ時、垣内尚美さんばかりではありません。誰でも神は優しく導かれることでしょう。

III.  聖書の帰結

そして聖書の導きの帰結が、ここに明確なのです。13節にこう言われます。「聞き取ったすべての言葉の結論。神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。」聖書協会共同訳が「これこそ人間のすべてである」とした箇所を口語訳「これはすべての人の本分である」新改訳「これが人間にとってすべてである」いくつかある中で私は中澤さんの個人訳の「人の人たる所以」を知りました。それを今日の説教題としたわけです。

人の人たる所以」 所以というと別な同じ読みで違う熟語があります。

「由縁」で、物事の始まりを話すときなどに使われる言葉で、「縁」「因縁」という意味で使われます。

ところが「所以」とは、根拠、理由の意味で使われるものです。その意味ではどの訳も適当です。聖書は人をして本来のあるべき人たらしめる!それが聖書の果たす帰結なのです。

どういうことですか?「神を畏れ、その戒めを守れ。」

先週の祈祷会に出席した方々は覚えておられるでしょう。奨励者の山崎兄が懇切丁寧に説明されました。同じ読みでも意味するところは違うということです。山崎兄は以前の口語訳を全部調べたそうです!そして口語訳には「畏れ」は一回も無いことが分かったと!私も検索したがその通りです。全てが「恐れ」です。どう違うのでしょうか。

恐れ」が「恐怖」や「心配」からの近寄りがたさを表すのに対し、「畏れ」は「敬意」からの近寄りがたさを表すという点に違いがあるのです」山崎兄はその説明に幼い頃に犬に噛み付かれた体験をされました。話は愉快ですが本人は大変だったでしょう。それが恐れです。しかし、畏れは神への敬意、畏敬、畏怖の念であって、恐怖や心配からの近寄りがたさではありません。

この「畏れ」を銀貨の裏表で説明するなら、表は「」なのです。伝道の書12章13節で言われていることは、そっくり申命記6章4〜6節にすでに言われていたことなのです。『聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日、私が命じるこれらの言葉を心に留めなさい。』

この言葉こそ主イエスが律法の中心だと言われた戒めです。第二の戒めは「隣人を自分のように愛しなさい。」神を愛すること、人を愛すること!それが人の本分である。人の人たる所以である!人のすべてである!そう言うのです。

しかし、そこまで聞かれたある方は、「そんなことなら日本人として初めから分かっていますよ。神を大事に神様を畏れかしこみ奉ってきましたよ。」と言われるかもしれません。

ここで2017年に91歳で召天された堀越暢治牧師が思い出されます。堀越先生は、その亡くなる4年前に「創造主訳聖書」(ロゴス出版)を造られた牧師として知られています。堀越氏は1926年、群馬県の神主(かんぬし)の子として生まれました。幼い頃に母親を亡くして以来、「命の由来」を考えてきたという。

戦時中は陸軍士官学校に入ったが、戦後になると「士官」ではなく「戦争犯罪人」として扱われたことから「人の価値」について考えるようになる。この経験が後に堀越氏を、聖書に立つ「創造論」を伝える働きへと導くことになったと言われています。

堀越先生は、その聖書では徹底して神を使わず「創造主」を使用するのですが、そうした動機を尋ねられてこう語っています。「私は神主の息子として生まれたのですが、初めて聖書を読んだとき、「この『神』という言葉を世界の創り主と理解しなければならないのか?」と思ったのですね。しかし、牧師になって三重県の四日市という因習の強い土地に遣わされ、伝道を開始すると神道や仏教と ことごとくぶつかりました。実際、未信者の方に神様のお話をすると、「私、神様を信じてます」と言うのです。「いや、その神様じゃなくて、イエスなんですが」と言うと、

「石にも木にも神は宿っているんで、そこに神の霊が宿っていると分からない人の方がかわいそうだ」と言われました。

伝道牧会に関わっていない神学者が、「訳は『神』でいいんだよ」と言ってくれても、現場ではそれは通らない。そういう意味で、神という言葉を変える必要を覚えたのです。

堀越先生が感じられた日本宣教の壁を私も感じてきましたね。日本は八百万(やおよろず)の神々を祀(まつ)る国なのです。日本人の大半がこれらの神々を畏れ敬い拝(おが)み祀っているのが現実なのです。神社仏閣の祭り事を見れば一目瞭然です。その信仰心の熱心さはある意味で見上げたものではないですか。

ところが、問題は神ならぬものを神に祭り上げて祀っていることなのです。堀越先生は神主の息子だからこそ尚更のこと分かったのでしょう。神は 聖書の神の他に存在しない のです。

13節で「神を畏れよ」と命ぜられる神は、12章1節の「造り主」なのです。天地万物をそして人間を創造された神を畏れること、愛すること、それが人間たる所以なのです。

 

今日をもってコヘレトの言葉、伝道の書の講解説教を終えるのですが、天地の創造者なる神が、聖書を通し、御子イエス・キリストの十字架により、私たちを真の神を畏れ、愛する者としてくださったことを感謝しましょう。

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