5月31日礼拝説教(詳細)

  「五旬節の上下前後左右」  使徒2章1〜15節

五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。

さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。そして驚き怪しんで言った、

「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか

わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」

みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った

そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり声をあげて人々に語りかけた。

「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない

5月19日のことでした。北陸で牧師を務める長男が、メイルで次のように書いてよこしました。『BCACという表現がありますがキリスト教界も何か教会のあり方に変化が起こりそうな気がします。』そこには聞きなれない「BCAC」とあったので私は早速それを調べてみました。どうやらアメリカのニューヨークタイムズのコラムニスト、トーマス・フリードマンさんの記事が発端であると分かりました。

これまで「BC」と言えば世界史の教科書に出てくる「紀元前」を意味していましたが、フリードマンさんの言う「BC」「AC」とは「Before Corona(コロナ以前)」と「After Corona(コロナ以後)」を意味すると説明されていたのです。フリードマンさんがその記事で、「世界は「BC」と「AC」で完全に変化するだろう」と指摘したことが発端で、どうやら話題になったようであります。皆さんは、コロナ以前とコロナ以後は何もかも変化すると思われるでしょうか?

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images-1.jpeg 今日は、しかし、コロナとは比較しようのないもっと大きな変化を世界にもたらした出来事を取り上げることにいたします。それが使徒2章に記された五旬節なのです。

使徒2章1〜4節を読むとこう書いてあります。「五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。

私は今日、ここから五旬節の上下、前後、その左右についてお語りすることにいたします。

  1. 五旬節の上下

 五旬節の上下とは何かと言いますと、上は天、下は地上と理解してください。その日、地上では、イスラエルの首都エルサレムの神殿で、盛大に一つのお祭りが催されていました。それが過越祭と仮庵祭と並ぶ三大祭の一つ「五旬祭」だったのです。この五旬祭、五旬節をペンテコステと私たちは教会で呼ぶことがあるのですが、それは原典のギリシャ語のペンテコステスから来ているとご理解ください。

 五旬節の五旬は言い換えれば50日目ということです。7×7=49で七週の翌日という意味なのです。イスラエルの民が何故、毎年、毎年、この50日目を祝うかといえば、それは旧約聖書のレビ記23章の規定によるものなのです。23章の規定を要約するとこうなります。

イスラエルの旧正月ニサンの月の14日は過越祭、その翌日15日は種なしパンの祭り、過越祭から次の日曜日は初穂の祭り、その日曜日から数えて50日目が五旬祭、それは「七週の祭り」とも呼ばれる祭りであります。それに加えて最後に7月の仮庵祭を守ることが規定されてもおります。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown.jpeg お祭り、そこには、それが世界中どこであっても、共通する意味があります。「それは、過去に人々が体験した歴史的に大事な出来事を忘れず記念するために行う」ということです。過去に経験した出来事を祭りで表現することによって、それが一つの民族であれば、自分たちがどういう民族であるのかを再確認し、意識を強化する、そのための営みなのです。

ではレビ記23章に記された祭りの歴史体験とは何であったのか。それはお分かりのように、イスラエルの出エジプトの民族的な大移動の体験でした。過越祭は、イスラエルの民が、エジプトで430年間もの長い間、奴隷であった時、指導者モーセにより奇跡的に大脱出したことを表現する祭りでした。種無しパンの祭りとは、パン種でパンを発酵させてから焼く時間も無いくらいに、脱出した際は慌ただしかったのだ、ということを表現する祭りです。初穂の祭りとは、カナンの地に定着し、秋に蒔いた大麦が冬を越して成長する、迎える春に目出度く初穂が出たことを記念し感謝する祭りでした。では、それから50日目の五旬節とは何か、それは、大麦の刈り入れ時であって、収穫感謝の祭りなのでありました。イスラエルの民は来る年、来る年、この祭りを実行することによって、あの苦渋を舐めた辛いエジプトの奴隷生活から解放されたのだということ、いや、そればかりか、豊穣なカナンの約束の地に導き入れられ、安住出来たことを記念し喜び祝う祭りだったのです。

 ところが、この五旬節には上下の上があったのです。過越祭の日には、おびただしい羊が屠られて血を流し、犠牲として神殿の祭壇に祭司によって捧げられておりました。その日です。聖書によれば、まさにその日に、主イエスがローマ総督ピラトに断罪され、十字架に磔(はりつけ)にされました。その三日目の初穂の祭り、日曜の早朝、主イエスは死人の中から蘇り、復活なされたのです。では、その初穂の祭りの日曜の日から数えて50日目、五旬節に、何が起こったのでしょうか? そうです。神の約束された聖霊が、あの待ち望み祈っていた120名の弟子たちの上に、お降りになられたということなのです。

 これはどういうことでしょうか? 過越の日に十字架に主イエスが受難の死を遂げられたことは、それによって人が罪の奴隷から解放されたということです。初穂の祭り日に主イエスが復活されたことは、信じる人々が死んでもやがて必ず次々と復活させられるということです。(コリント上15:20)「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。」そうです!主イエスが復活の初穂です。初穂の後にそれから続々と麦畑に穂が出てくるように、信じる者が誰であっても、たとえ死んでも、必ず復活する保証なのです。

 では、大麦の刈り入れ時、収穫感謝の五旬節に、聖霊が降られたことは一体何なのでしょうか? それは神のご計画が聖霊によって実行に移されるということなのです。神はそのご計画をヨハネ3章16節でこう明らかにされました。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」そうです。神のご計画は信じる者が救われることです。滅びないで永遠の命を得ることです。世界は神の畑です。神のご計画は神の畑である世界中で、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、オーストラリアそして南北アメリカで、肌の色や男女の別なく、人々が主イエスを信じて救われることです。それは世の終わりにおける霊的な収穫を意味したのです。聖霊はその神のご計画を執行するために来られました。主イエスを証しし、福音を宣べ伝える人に力を与えるために来られました。

主イエスは言われました。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒1:8)聖霊に満たされ力を受けなければ人に福音を伝えることはできません。力を付与された人が福音を伝え、証するとき、人々は救われ、霊的に刈り取られるのです。五旬節に聖霊が注がれたということは、それ以来、覚えてください!今の時代は、私たちの生きる時代は、霊的な収穫の時である、ハーベストタイムだということなのです。

  1. 五旬節の前後

 さて、ここで私たちは、私たちの問題として、五旬節の上下に続く前後を取り上げる必要があるでしょう。聖霊が降られる以前の弟子たちと、聖霊が降られ、その聖霊に満たされた以後の弟子たちには大いなる変化がありました。コロナのBCACではありません。五旬節のBPAPです。弟子たちのBefore PentecostAfter Pentecost のことです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images-2.jpeg 弟子たちの中でもペテロに焦点を当てて五旬節の前後を観てみましょう。ペテロは他の弟子たちの誰にも先んじて「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」と告白した先覚者です。「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである」と主イエスの祝福を受けた人物です。ペテロはヤコブとヨハネと並ぶ、弟子達の生え抜きのリーダーでした。主イエスの側近中の側近でした。主イエスが、重要な働きをする時には、この三人が常に同行したものです。やがて、主イエスの公生涯も終局を迎えようとする時のことでした、主はペテロにこう語られたのです、『シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。』それは間も無く、ペテロが塗炭の苦しみ試練に合うことを予見されたものでした。ところがペテロはこう答えたのです、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」素晴らしい!何と男らしい勇猛な発言でしょうか。事実、間も無く主イエスは捕らわれ、大祭司の館で厳しい審問を受けられました。その渦中です。ペテロは捕らわれた主イエスの後を遠くからついて行きました。しかも、勇気を奮って大祭司の中庭に潜り込むことができたのです。

しかしながら、試練がその時、彼を襲ったのです。焚き火にあたる兵士らと一緒に暖を採るペテロに、「この人もイエスと一緒にいました」と女中や他の二人に暴露され、見破られてしまったのです。ところが「死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」とまで断言したはずのあのペテロが、「わたしはその人を知らない」「いやそれは違う」「あなたの言っていることは、わたしにはわからない」と三度も、しかも公然と主イエスを否認してしまったのです。その時でした。朝を告げる鶏が「コケコッコー」と鳴きました。それはイエスが予告した通りでした。イエスは言われた、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と予見して言われたのです。すると彼はその主の御言葉を思い出すや、「外へ出て、激しく泣い」てしまいました。あの逞しいガリラヤの漁師、物怖じしないはずのペテロはどこに行ってしまったのでしょう。彼は自分の弱さ、なさけなさ、惨めさ、不甲斐なさに心痛め、悲しく激しく泣かないわけにはいかなかったのです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown-1.jpeg ところが私たちは今日、五旬節後のペテロを知っております。そうです。そのペテロが五旬節に聖霊の注ぎを受けた後でした。彼は一変していたのです。新しくされていたのです。2章をご覧下さい。周囲の人々が驚き怪しみ、嘲り笑う中で、彼は堂々と立ち上がったのです。14節にはこうあります。「そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。」ペテロだけではありません。他の弟子達もそうでした!彼らは聖霊によって変えられ、力が与えられ、真理のため、真実のために、勇敢に弁証することができたのです。ペテロのその日の発言内容をつぶさに学ぶ者は、その内容の深さに驚ろかされます。ペテロは、その最後に起こった出来事、五旬節の聖霊の注ぎを総括してこう言いました。「このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。」(32,33節)

 ペンテコステの前後は、ペテロだけではなく、私たちの経験でもあります。聖霊に満たされる前と後では私たちもまた明らかに違ってくるということです。主イエスはルカ11章で祈りを弟子たちに教え、「そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」と教えました。求めよ、捜せ、門を叩け!それは「神に祈りなさい」という強い勧告です。そして、その祈り求めるものが何かを最後に明らかにし、こう言われました。「天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」そうです!最高の祈りは聖霊を求め祈ることなのです。「父よ。聖霊を下さい。聖霊に満たしてください。」と祈ることが信じる者の至高の祈祷なのです。ですから、朝ごとに、1日に先立って「父よ。聖霊を下さい、満たして下さい」と祈ることにしようではありませんか。その時、その日は以前とは必ずや違った一日となることを、経験されることでしょう。

  1. 五旬節の左右

 最後に五旬節の左右に目を向けてみましょう。この場合、120名の弟子たちに聖霊が降った出来事に対して、人々の反応が左右に分かれたということです。左側とは次のような人々です。天から聖霊が臨み、弟子たちが聖霊に満たされるのを目撃し、その現象を見て「驚き怪し」んだ人々がいたことです。何故なら、120名の無学な弟子たちが、習ったこともない他国の言語で、何と神の奥義を語っていたからでした。それは聖霊が与えられた異言と呼ばれる賜物の一つでした。 そこで彼らはこう言いました、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」彼らには、自分たちの常識を超えた聖霊の現れが全く、チンプンカンプンで理解できなかったのです。そればかりではありません、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と、聖霊に満たされた弟子たちを嘲笑った人々がいました。彼らは聖霊の現れと満たしを深酒による泥酔と誤解したのです。それは全く的外れの判断でした。

使徒パウロは、このような人々についてこう言います。「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。」(コリント上1:14)これらの人々には聖霊の現れは愚かで、理解することが全くできないのです。

 しかしながら、そこには右側の人々がおりました。それは、聖霊の満たしを受けて立ち上がった使徒ペテロの説教を聴いて、強く心を刺された人たちのことです。彼らには聞く耳がありました。彼らは心の謙遜なへりくだった人たちだったのです。そこで、彼らは真剣にペテロにこう尋ねました。「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」(37節)ペテロはそれに答えて勧告してこう言いました。「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。」聖書によれば、その勧告を受けて洗礼を受けた人の数は、その日、何と3000人だったということです。これら右側の人々は、主イエスをキリストと信じて洗礼を受けた結果、彼らもまた聖霊に満たされ神の子とされました。使徒パウロは、神の子とされた者は聖霊に導かれてその人生を生きるようになると、ローマ8章14節にこう言いました。「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。」神の子とされたクリスチャンの特徴は、その生涯が聖霊により導かれつつ生きるということなのです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown-2.jpeg 卑近な例ですが、これは私自身が経験したことなので聞いてください。それは2005年、私が59歳の10月のことでした。ある朝、一通の電子メイルを開くと、そこにはこう記されていました。「私は昨晩、寝ている間に一つの夢を見ました。その夢の中に高木先生がお祈りしている姿が見えたのです。そして、翌朝起きると、家内に『これは間違いなく高木先生のことだ。』と打ち明けたのです。私たちは、ウイ—ンでの働きを10年続け、来年には日本に戻る予定です。高木先生にその後の働きを続けて欲しいのですが、祈って考えてくださいませんか。」それは、ウイ—ンを拠点にルーマニアでの宣教活動をしていた石川秀和牧師からの問い合わせでした。彼らはルーマニア宣教と並行しウイ—ンの日本語教会の牧師を10年務め、体力的に疲れ果てもう限界に来ていたのです。

寝耳に水のこの突然の申し出に、正直言って、私は当惑してしまいました。私はその時、石川県松任市の松任キリスト教会に牧師として奉職し23年目でした。所属する北陸教区では教区長を務め、教団関係では本部の総務局員、また宣教研究所員として勤務する立場にありました。これらの全てに深く関わっていた私にとって、突然、海外に移転することなど毛頭考えられないことです。妻に打ち明け、それから毎日祈りはしましたが、どうしても釈然としません。やがて月が開けて11月、最初の週に北陸聖会が開催されました。車で会場に駆けつけて、私の目に飛び込んできたのは聖会の大きな縦看板でした。そこには「出て行って福音を伝えよう」と大書されていたのです。その聖会の主講師は教団理事長経験者の伊藤顕榮先生でした。その三回の連続講解説教はコリント上1章〜2章をテキストとされ、演題は「福音の宣教」でした。その講解説教を聴いている間中でした、伊藤先生はあたかも私個人に対して「出て行って福音を宣べ伝えよ」と繰り返し説得するかのようでありました。それからしばらくしてのことです、私は石川牧師に「とりあえず年が明けたら1月にウイ—ンを訪問し、皆さんにお会いし実情を調査させていただくことにします。」と返事を出しました。

それは確か2006年の1月半ばだったと覚えていますが、妻と共に初めてウイ—ン市を訪ね、日本語教会の礼拝で説教させていただき、皆様と話し合いの時を持ったのです。その滞在した宿舎でのある晩のことでした。私は真夜中2時頃に目覚めてしまったので、独り起きて暫く祈ることにしました。その時のことです、あの主イエス様のお言葉が心に響いてきたのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。」それはヨハネ15章16節でした。それは私Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images-3.jpegにとって決定的な決断の要因となりました。そこで、私たちはウイ—ン教会の要請を受諾しました。帰国すると、松任の教会に、北陸教区に、そして教団本部に報告し、ウイ—ンへの移転の準備に取り掛かったのでした。

現地に赴任するに至る過程は、実際にはそれはそれは複雑な経路を通らされたもので、その詳細を今ここに全部語ることはできません。その中でも最も心を痛めた問題は、95歳を超えた私の父が、私たちのウイ—ン行きを知ると激怒し、そのためか病気で倒れてしまったことでした。私たちが松任で築き上げた全てを捨てて、未知の世界に飛び込んで行くことを父は、無謀だと理解できなかったのです。しかし、感謝なことに、暫く後に父が納得してくれたことを示す手紙を受け取ることが出来、安堵したものです。長年奉職した教団も退職し、単身独立して海外で奉職することはそれこそ冒険でした。しかし主のお約束は真実です。10年間の海外奉仕の生活は全く不思議な主の御手に守られ全うすることが出来たのです。

 私は今振り返っても、そこに聖霊の導きがあったことを心から感謝するものです。聖霊は環境を整え、人々を配置し、み言葉を与え、必要を備え、道を開いてくださいました。

 私たちが五旬節(ペンテコステ)礼拝を喜ぶのは、神の約束された聖霊が、助け主として降られ、私たち信じる者を満たしてくださる、導いてくださるからです。聖霊を受ける前の弟子たちは、弱く、つまづき、裏切り、逃げ惑いましたが、聖霊を受けた後の弟子たちは、状況が困難であることには変わりなくても、大胆に勇気が与えられ、キリストの証人として立つことが出来ました。聖霊は証しする力をくださいます。聖霊は人生を導いてくださいます。聖霊は光を照らし真理を理解させてくださいます。聖霊は奉仕の能力、賜物を与えてくださいます。聖霊は死ぬべき身体を活かしてくださいます。聖霊は愛、喜び、平和など9つの実を与え、私たちをキリストに似たものにしてくださいます。聖霊は何よりも主イエスを指し示し、私たちが主イエスをより一層知り、愛するものとなるのを助けてくださいます。聖霊は、常に私たちの側にいてくださる助け主なのです。この2020年の五旬節の日、いい尽くしがたい感謝を父、御子、御霊なる三一の主なる神にお捧げすることにいたしましょう。アーメン 

5月24日礼拝説教(詳細)

  「災難遭遇の理由」  ルカ13章1〜5節

ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた

そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。

また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」

 緊急事態宣言の解除が21日に確定しました。感染者数が減少し、解除の条件が満たされたためです。感染予防に国民が一致協力した成果であると共に、神が私たちの祈りに応えてくださったことであり感謝であります。感染の第二波、第三波を起こさないためにも、しばらくはマスク着用、手洗い励行、三密を避ける努力をすることに致しましょう。

 世界の新型コロナウイルス感染者数は496万人、その死亡者数は32万人とも報告されております。この疫病が自然災害かそれとも人災かでは、意見の別れるところですが、甚大な被害をもたらしたことでは、100年に一度の災害だとも言われます。日本の感染者数は、5月18日現在、16、433人、死亡者数は784人と報告されており、死亡された方々のために、心から哀悼の意を表すものです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:main.jpg この疫病は、突如として数ヶ月の間に全世界の人々に、あっという間に降り掛かってきましたが、私たちはどういうわけか幸い難を免れることができました。しかしながら、ただ我が身の安全を喜ぶだけで、果たしていいものでしょうか。予想もせず降って湧いたようなこのコロナ感染の災難に遭遇された多くの方々は、どうして死に追いやられたのでしょう。他人事と私たちはこれを見過ごすべきでしょうか。人が災難に遭遇する意味理由は一体どういうことなのでしょう。

 今日、読んでいただいた聖書箇所には、「ある人々が来て」一つの悲惨な事件を主イエスに「知らせた」とあります。その悲惨な事件とは、「ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたこと」です。ピラトとはローマ皇帝から全権を付与され、ユダヤを統治した総督ポンテオ・ピラトのことです。

ピラトはエルサレムに水の供給の必要から水道工事を画策したと言われます。その目的自体は確かに良いことでした。ところが彼はその工事資金をエルサレム神殿に捧げられた献金を流用することで調達したのです。そのため彼の不当な行為は、激怒した民の反乱を引き起こす結果となりました。ピラトはこれに報復したのです。彼は祭りの最中に武具の上に上着で変装した兵士を混入させ、反乱が起こるのを抑えるため棍棒で対処しようとしました。その結果、殺害される人が当然多数起こってしまったのです。これは明らかに政治的人為的災難でした。

 ここでは、この災難を主イエスに報告したのが、それが誰であったのかは特定されていません。ということは、この「ある人々」が誰であるのか、或いは、何を動機に主イエスに知らせようとしたのかを、読者が自由に想像することが許されているということでしょう。そればかりか、自分自身をその立場に置き換えることもできると言うものです。

 「ある人々」はパリサイ派の人物だったとする説があります。そうであれば、彼らはこの災難報告によって暗にイエスを事件の加担者であると非難しようとしたことになります。殺害されたガリラヤ人のことを歴史家のヨセフスは「いつも革新好きで、その本性に変革の気があり、騒動を喜ぶ」人達だと評しています。ガリラヤ地方はローマ帝国に反抗した熱心党運動の故郷であり中心地でありました。ペテロを始め主イエスの弟子の多くはガリラヤ出身者であったばかりか、その内の一人シモンは、はっきりと「熱心党」と呼ばれていました。パリサイ派は、その信条に「悪運、災難は罪の結果だ」と強くうたっていたグループでしたから、この事件を知らせることで、「それ見たことか」と主イエスを痛烈に非難したことになります。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:pass87.jpg 更に「ある人々」がその熱心党の人物ではなかったかとする説があります。そうだとすれば、彼らは、主イエスに自分たちの仲間が惨殺されたことを報告することによって、イエスを憤慨、激怒させ、ローマ帝国打倒の為に、決起するよう誘惑することが彼らの動機であったということになります。ガリラヤの熱心党が祭りに乗じて集結し、反乱を起こしてピラトを殺害しようとしたが、ピラトが潜入させた兵士によって仲間達が殺害されてしまった!そう報告した彼らは、「イエスよ。あなたはこれをどう思うのですか。このままでいいのですか!立ち上がるべきではありませんか!」と言いたかったのではないでしょうか。

 さて、この箇所で、主イエスは、この知らされたピラトによる殺害事件に加えて、エルサレムのシロアムの塔の倒壊事件で18人が圧死した事件をも取り上げて語られました。このシロアムとはエルサレム南東部にある長方形の石造りの池のことです。その側に立つ塔が水道工事作業中に倒れかかり多数の工事請負人が圧死する。それは政治的な意図のない偶発事故だったのでしょう。このような工事中の偶発事故の災難、政治意図による暴虐の災難、或いは地震、津波、火山噴火、河川反乱、洪水の自然災害、そして、今直面させられている新型コロナウイルス感染の疫病災難、このように災難をあげれば、それこそ際限はありません。

 そこで現代に生きる私たちも、「災難は何故それらの人々に起こったのか」、その災難遭遇の理由を考えないわけにはいかないでしょう。災難に遭遇した人は不幸な星の下に生まれたからでしょうか。そうなるよう定められていたのだから諦めるしかないのでしょうか。1995年に起きたあの地下鉄サリン事件が思い出されますね。あれは恐るべき同時多発テロでした。地下鉄駅構内に毒物が使用され、その結果多数の人々が気の毒にも殺害されてしまいました。それは不特定多数の人を狙った卑劣な殺人行為でした。そこには、その日、駅構内で勤務していた職員がいました、そこには、その日、電車に乗り合わせた多くの乗客がいました、それはたまさかの出来事、不運にもそこに居合わせたため災難に巻き込まれた偶然の悲劇だったのでしょうか。

 先々週のメッセージで、私は、カラオケで歌った「長崎の鐘」の作曲が朝ドラの主人公のモデル、古関裕而によるものであることを知りました。そればかりか、その歌詞が医者であり物理学者でもあった長崎医科大学の永井隆博士が被爆後に書いた記録小説「長崎の鐘」から生まれた作品だと知ったことにも触れました。私はその週のうちに即、その書を取り寄せ一気に読んだものですが、非常に感動的な作品でした。

8月9日11時2分、米軍から投下された原子爆弾は浦上天主堂、長崎医科大学上に炸裂、長崎市の人口24万人の3万人が即死、被爆した4万4千人が次々と苦しみ悶えつつ死んでいきました。永井博士自身、被爆したばかりか、倒壊した建物の下敷きになり頭部に裂傷を負っていたのですが、かろうじて抜け出すことができ、生き残りの部下と力を合わせ負傷者の救護手当に、それから毎日、市内を駆けずり回って治療に没頭されたと言われます。それから三ヶ月後のことを綴って彼は、こう語ります。

「私は、爆心地に近い上野町に一坪あまりのトタン小屋を作ってもらい、それに入った」それを見た同僚たちはそれを家とは言わず箱と言っていたと言い、その「箱には客が絶えなかった」と述懐されるのです。その来客の一人は、戦地から復員した市太郎さんでした。その対話を記憶されていた永井博士は克明にこう記されます、「悄然として市太郎さんがあらわれる。足首を結んだ復員服の一張羅。復員して来てMacintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images.jpegみたら故郷は廃墟、我が家に駆けつけてみればただ灰ばかり、最愛の妻と五人の子供の黒い骨が散らばっていた。『わしゃ、もう生きる楽しみはなか。』『戦争に負けて誰が楽しみをもっとりましょう。』『そりゃそうばってん。誰に会うてもこう いうですたい。原子爆弾は天罰。殺された者は悪者だった。生き残った者は神様からの特別のお恵みをいただいたんだと。それじゃ私の家内と子供は悪者でしたか!』」永井博士の庵の訪問者、敗戦、家族の原爆死、家族の悪者扱い、その市太郎さんの心境、それは察して余りあるものです。因果応報的に見れば、悪人、罪人だから災難に遭遇したのだと考えられても、生き残った人々には最も合理的発想だったのかもしれません。

 さて、ここで、私たちは、聖書に戻らねばなりません。知らせを受けられた主イエスの答えを見なければなりません。主はこう答えられたのです。「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。」更に、「また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。」そして、主イエスは答えて「あなたがたに言うが、そうではない。」と強く否定されたのです。それは、何が原因で、どんな理由でこのような災難が人に降りかかったのかと詮索するのは、とんでもない勘違いであり、的外れであり、本当に第一に考えるべき問題から人の注意をそらしてしまうものだと言われたのです。

 それでは、遭遇する災難を思う時に、第一に考えるべきこととは一体何でしょうか?主イエスはこう言われました。「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」これこそ万人の現実の真相だと言われたのです。災難に遭遇した人々だけの問題では全く無い、全ての人が例外なく滅びると言われるのです。あの恐ろしい洪水、津波の難を逃れた!あの震災火災の難を逃れることができた!この恐るべき疫病の感染を免れることができた!やれやれ助かった!とんでも無いことなのです。そう思う、そのように言うあなたも、やがて滅びることに変わりはないと、主は言われるのです。

 このルカ13章1節は「ちょうどその時」という言葉で始まっているので、この記事が12章の最後の部分と繋がっていることが分かりますね。その12章56節で主イエスはこう語っておられます。「偽善者よ、あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか。」主が「今の時代」と言われた時代とはいつのことか。それは実は、私たち現代人が生きる時代を含むもので、神の経綸、摂理、時代真理によれば、終末、終わりの時代を意味する言葉であります。主は、私たちに「今の時代」、私たちが生かされている時代の意味を見分けなさい!と呼びかけておられるのです。そして、続く57〜59節の喩え、すなわち、「人に訴えられ、裁判にかけられる前に和解しなければ、裁判の結果、投獄され、その結果、決して獄中から出てくることはできない」という喩えによって、今の時代は、人が神と和解するべき猶予された時であることが明らかにされたのです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:HELL_21.jpg 主イエスはこう言われたのです。「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」それはどういう意味かと言えば、聖書によれば、ヘブル書9章27節の通りなのです、そこにはこう記されます。「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」 そうです。人は必ず死ぬのです。これは誰も否定しえない事実です。意識の下に押し隠し、考えないようにしても死ぬことは間違いないのです。災難で悲劇的に死のうが、無病息災で安楽に長寿を全うして死のうが、人は死ぬことを絶対に避けられません。その上、人は必ず死んだ後に、神の前に裁かれるのです。裁かれてその生前の罪状に従い、永遠の滅びが下されるのです。この「滅び」を聖書は、(Ⅱテサ19)には「彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。」と記され、刑罰なのです。(マタ1028)には「体を殺しても、魂を殺すことのできない人間たちを恐れてはいけません。そんな者たちより魂も体も、共に地獄で滅ぼすことのできる力を持っておられる神様を恐れなさい。」と記され、それは魂の破滅なのであり、神との関係が失われた霊的な死、永遠の命を喪失した破滅状態なのです。災難に遭遇する時、たとえ自分はかろうじて免れたとしても、そこで悲惨な死を迎えた人々を思う時に、人が根本的に考えるべきことは、恐るべき永遠の死、滅亡が自分自身にも待ち受けているという深刻な事実なのです。

 それゆえに主イエスは言われるのです、「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。」それが天災であれ、人災であれ、人が災難に遭遇する時、それは、神による悔い改めの呼びかけなのです。聖書のリビングバイブルはこれをわかりやすくこう訳しています、「あなたがただって、今の悪い行ないをやめて神に立ち返らなければ、同じように滅びるのです。」この「今の悪い行い」とは、あれやこれやの悪習慣や罪深い行為ということではありません。生活の生きる方向を神に背を向け、神を問題視せず、自分勝手に進む態度なのです。悔い改めとは方向を転換するという意味です。今まで南を向いて歩いていたのを転換して北に向かって歩き始めることです。自動車の運転で言えばギヤーシフトを後ろ向きから前向きに切り替えることです。認識の仕方や考えた方を劇的に変化させることをパラダイムシフトと言うのですが、悔い改めは単なる考え方の変化ではありません。その人自身の全存在の生きる方向を転じて神に立ち返ることなのです。そのMacintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown.jpegターニングポイント、転換点こそキリストの十字架です。神の御子イエスは、神との和解を人に得させるために、人類の罪責の全てを引き受け、十字架に身代わりの犠牲となられました。罪なき方が私たちの罪を引き受け、神により罰せられたので、信じる者は赦され、神は和解してくださるのです。

 

 この度の新型コロナウイルスには世界で総数500万人近い人が感染し、30万人以上が感染死亡しましたが、それはある意味で、私たちが生き残れるための犠牲者であったと言えるでしょう。その悲惨な死が国家の医療体制を大きく改革させ、その犠牲によって特効薬やワクチン開発が促進させられることでしょう。彼らの犠牲は決して無駄にはなりません。それによって今ある私たちは生かされることになるからです。

 しかし、それにも増して、この度のコロナウイルスによる疫病、そしてその甚大な被害を、私たち一人一人に対する神の忍耐強い悔い改めと信仰への呼びかけであると受け止めることが、何よりも第一に求められることなのです。あなたはすでに、人生の方向の大転換をされ、生ける神、慈愛に富める父なる神に、イエス・キリストを主と信じ受け入れ、立ち帰られたでしょうか。それとも、この度の厳しいコロナウイルス感染に際しても予防に万全を尽くして難を免れ、自信たっぷりに、今まで通り、神など信仰など教会など、どうでもいい、自分の想い通りに自分の人生だから好きなように生きていくのだと、思い込んでいるのでしょうか。主はあなたに言われます、「それは違います。 あなたも、今の悪い行ないをやめて神に立ち返らなければ、同じように滅びるのです。

 この度のウイルス感染で「突然重症化した人」の驚くべき共通点が話題になっています。それは「サイレント肺炎」と呼ばれるものです。感染してウイルスが肺に炎症を起こし、何日も続いているにも関わらず、ほとんど息切れを感じていない。だが静かにゆっくりと炎症は拡大し、突然重症化するということなのです。そして重症化した時点では、殆どの回復の見込みはなくなってしまう。それは私たち一人一人の人生にも言えることです。神の悔い改めの呼びかけを軽んじることのないようにしましょう。今こそ、立ち返らねば、手遅れになるのです。聖書は今の時代を「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。」と言います。神は全ての人が悔い改めて神に立ち返ることを忍耐強く待っておられるのです。主イエスをキリストとして受け入れることによって、神と和解が成り立つのです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images-2.jpeg 聖歌の421番を私たちはこう歌います。1節「父なるみ神に 今帰らん」2節「あだに日を過ごし 今帰らん」3節「汚れに飽きたり 今帰らん」最後4節「心は痛めり 今帰らん」そして折り返して歌います。「帰らん 帰らん 我帰らん 神よ 愛の手 伸べたまえ」そうです!神は今日、愛の御手を差し伸べ、神に立ち返るあなたを迎え入れてくださいます。「神は愛です」神はあなたの全てを知り尽くした上で、キリストの故に、十字架のゆえにあなたを子として受け入れてくださいます。祝福があなたの上に豊かにありますように。

5月17日礼拝説教(詳細)

  「慌てる事はない」  イザヤ28章16節

それゆえ、主なる神はこう言われる、

「見よ、わたしはシオンに

一つの石をすえて基とした。

これは試みを経た石、

堅くすえた尊い隅の石である。

『信ずる者はあわてることはない』

さしものコロナウイルス感染の脅威も下火になったようです。39県については、15日より緊急事態宣言が解除されました東京、大阪等の特定地域についても速やかに解除されることが望まれるところですここ数ヶ月は何かにつけてコロナウイルスが話題の中心でもういい加減にしてくれと言いたいところですそんな折先週郵便受けを見れば小笠原浩一という聞いた事のない差出人からの茶封筒が届いておりました何かと思いつつ封を切れば中から出てきたのは、A4サイズのカラー刷りのチラシ表題には「愛と希望を伝える宣教落語家 ゴスペル亭パウロ」とありましたご自身の紹介によれば50歳を前に和歌山市主催の落語ワークショップに通い落語の手ほどきを受けられたとか毎年大阪でのゴスペル落語会には第一回から55回まで連続出演されたそうであります56歳の今に至るまで、幼稚園、介護施設、教会、福祉施設、自治会、老人会、子供会等で、140回の高座を務められたとのこと近い将来機会あれば当教会でもお招きできればと思わされた次第です

 今日の説教題は「慌(あわ)てる事はない」としたのですが落語には慌て者粗忽者(そこつもの)を題材にした古典落語が結構あります「粗忽者長屋」「粗忽の使者」「堀の内」「粗忽の釘」などを立川談志、柳家小さん、古今亭志ん朝、三遊亭園遊さん達が得意として聴く人々を笑わせ楽しませてくれているようです笑いは百薬の長なのですから、ここで私も一席お笑いをぶてればいいのですが、慌て者、粗忽者を題材とする点では通じる所ありとはいえ、聖書からの説教であること、どうぞ、ご了承ください

 今日の聖書箇所として読んでいただいたのは、イザヤ2816節です。『見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基(もとい)としたこれは試みを経(へ)た石、堅くすえた尊い隅(すみ)の石である。『信ずる者はあわてることはない』』今日、私たちに呼びかけられている言葉は「信ずる者はあわてることはない」すなわち、主に信頼するなら慌て者、粗忽者、軽率な者、何をしてよいか分からず、うろたえ騒ぐ者になることはない、ということです。その意味をしっかりと理解するには、この聖句が置かれている28章全体と、語られた時代背景を無視することはできません。

この28章は、紀元前700前後の北イスラエル王国の滅亡と南ユダ王国に対する警告が主な内容です。紀元前千年頃にダビデ王により確立されたイスラエルは、それまでに、10部族による北イスラエル王国と2部族の南ユダ王国に分裂しておりました。その当時、二つの王国にとっての脅威は何か、それは北方から攻め寄せ来る軍事大国アッシリアの恐るべき軍勢でした。

 17節をご覧ください。そこにはまず北イスラエルの滅亡が語られています。1節「エフライムの酔いどれの誇る冠と、酒におぼれた者の肥えた谷のかしらにあるしぼみゆく花の美しい飾りは、わざわいだ」ここで、エフライムとはイスラエルのことです。その首都サマリアは、良く肥えた谷の中央の丘の上にあり、塔のある城壁で囲まれていたために、冠のように、また美しい飾りの花のように見えたと言われています。ところが3節では「酔いどれの誇る冠は足で踏みにじられる」と言われ、美しい飾りの花のような都市は「しぼみゆく」と預言されたのです。これはイスラエル滅亡の預言です。そして、それは見事に実現成就することとなり、紀元前722年には残忍非道なアッシリア帝国によって、完全徹底的に滅ぼされ、彼らは国を失い、10部族は追放されてしまったのです。

 続く722節は、2部族による南ユダ王国について語られます。ユダの人々は、あの北イスラエル国を、自分で出て行った卑怯者、偶像崇拝に凝り固まった堕落者と見下していました。北王国がアッシリアに無残にも滅ぼされるのを目の辺りにしたユダの人々は、それは彼らの堕落に対する神の裁きで、自業自得、当然の成り行きだと思っていました。それにしても北のアッシリア帝国が甚大な脅威であること、彼らにも変わりはありません。その脅威を表した言葉が15節の「みなぎりあふれる災の過ぎる時」と言う表現です。ここを別訳では「洪水が押し寄せても」とか、「洪水がみなぎり溢れても」あるいは「どっと溢れる大水がきても」と訳出しており、アッシリアのどう猛な攻撃が洪水のようだと言うのです。洪水や津波、それは一度襲いかかれば、人間は何一つ手の施しようがなく、慌てふためき、ただ茫然とするばかりでしょう。では、このような迫り来る危機に、南ユダ王国の人々はどう対応したのか?

 78節、「濃い酒のゆえによろけ、よろめき、心乱れ」た。そうです。酒に酔いしれていたというのです。酒は現実逃避の手短な手段の一つです。酒の酔いにより思考を麻痺させれば、現実を直視することから逃げることができる。彼らはエクスタシー(恍惚)に逃避したのです。そればかりか、8節に注意ください。「すべての食卓は吐いた物で満ち、清い所はない」彼らは飲んで食べて嘔吐したのです。このような場合の嘔吐は、生理的に快感を覚えると言われることもあります。

不安や緊張の原因となっている欲求や感情や衝動を、解放させることを心理学用語で言えばカタルシスです。カタルシスは、排泄や浄化を意味する言葉で、吐き出すことに浄化作用があることを意味するものです。コロナウイルス感染対策でしばしば問題視されるのが、繁華街の深夜営業、接待業、ライブハウス、キャバレー、ナイトクラブ、パチンコ店です。そこに何時間か浸ることは一種のカタルシス作用なのでしょう。そればかりか、テレビドラマの悲劇、喜劇を観る観客もまた、それによって浄化作用を受けると言われます。それらが一種の恍惚状態による不安や緊張の無意識の浄化作用として活用するとすれば、それによって果たして、迫り来る危機に対して、本当に慌てないで、対応することができるかどうか、それが問題です。

 ユダの人々の二つ目の対応は、その時代に語られた神の言葉に対する徹底した軽蔑の態度です。913節をご覧ください。「彼はだれに知識を教えようとするのか。」彼とは預言者イザヤのことです。神の言葉を語り教えたイザヤは、彼らに馬鹿にされ、軽蔑され、排斥されていました。その馬鹿にした言葉が10節です。「それは教訓に教訓、教訓に教訓、規則に規則、規則に規則。ここにも少し、そこにも少し教えるのだ」それはヘブル語で言えばこうなります。「ツァウ・ラ・ツァウ、ツァウ・ラ・ツァウ カウ・ラ・カウ、カウ・ラ・カウ ザイル シャム ザイル シャム」要するにこれは「チンプンカンプン」でさっぱり分からない、幼児を叱るように,現実には目もくれず,まじめくさってうるさく,堅苦しく,融通のきかないやつだ,というあざけりなのです。

 この態度、対応は、2700年後の今日の問題であることに変わりはありません。聖書を読もうとしない人のことです。教会の礼拝で説教を聴こうとしない人のことです。家庭に少数でも集まってみ言葉の分かち合いを軽んじる人のことです。聖書など現代人は時代遅れだと批判し、語りかけようとされる神に背を向ける人は、それでも自分は洪水のような危機が押し寄せてきても、決して慌てることはないと、思いこんでいるのです。

預言者イザヤはユダ王国の人々についてこう言います。11節、「否、むしろ主は異国のくちびると、異国の舌とをもってこの民に語られる」それは聴こうとしない人々への皮肉な神の対応です。全く聞いたことのない外国人の言葉を語りかけられたら、さっぱり分かりません。ドイツ語圏のウイ-ンに10年生活して、それは嫌という程、味わった経験です。ドイツ語、フランス語、スペイン語で語られても全然分かりません。そのように、神は聞こうとしない者には、神の言葉がわからないようにされる、と言われているのですその結果は何か、13節これは彼らが行って、うしろに倒れ、破られ、わなにかけられ、捕えられるためである」そうです。恐ろしいことです。慌てないどころではない、滅ぼされてしまうことなのです。あなたは今日、神の語りかけである聖書の言葉に心から聞こうとされるでしょうか。

 迫り来る危機に慌てないで対処しようとユダの人々がとった対応の三番目は、1415節に記されるものです、15節「あなたがたは言った、「われわれは死と契約をなし、陰府と協定を結んだ。みなぎりあふれる災の過ぎる時にも、それはわれわれに来ない。

みなぎりあふれる災の過ぎる時にも」それは北のアッシリア帝国軍の襲来のことです。だが、到来しても大丈夫!何故なら、「われわれは死と契約をなし、陰府と協定を結んだ」と彼らは言ったのですが、どう言う意味でしょうか。死とは人に定まった運命、陰府とは死人の行く場所のこと、死と陰府と契約するとは、そこに行かなくても済むように契約し、それだから、自分たちは不死なのだ、と言うことを意味したのです。そして、それは具体的には、アッシリアに対抗できるよう南の大国エジプトと同盟を締結することを指し示すものでした。あの偉大なピラミッドとスフィンクスを建築する、美しくたくましく力強いエジプトと同盟している限り、絶対にアッシリアに対しては万全である。しかし、18節にはユダの人々にはこう預言されたのです。「その時あなたがたが死とたてた契約は取り消され、陰府と結んだ協定は行われない。みなぎりあふれる災の過ぎるとき、あなたがたはこれによって打ち倒される」そうです。エジプトに頼ることは人間の力に依存することです。エジプトはこの世を表す象徴的な言葉です。エジプトに頼っても、人間の力に依存しても、いざという時には、何の役にも立たないと主は言われるのです。

 20節に主はまたこうも言われます。「床が短くて身を伸べることができず、かける夜具が狭くて身をおおうことができないからだ身を伸ばすには短すぎる寝床とか、身をくるむには狭すぎる毛布とは、エジプトのことです。身を伸ばそうとしても足がベッドからはみ出しているように、身をくるもうとしても毛布が小さすぎてちゃんと身をくるむことができないように、エジプトの助けは彼らに真の安心感を与えるには足りないのです。民がよりどころとしていたもの、ゆっくりと体を休め、体を温めるはずのものが、いざというときに何の役にも立ちません。この世と同盟を結んでも完全な安心はありません。

私は生命保険に入っているから大丈夫です。銀行にこれだけ貯金があるから安心です。不動産があるから、株があるから何とかなります。私には健康があるから大丈夫です。健康だけが取り柄です。私にはこの資格、あの資格があるから何とか食べていけます。この仕事があるから、力があるからと、この世の安心という毛布で身をくるもうとするのですが、そうしたものは狭すぎるのです。ベッドから足が飛び出してしまいます。寒いときには暖めてくれるだろうと思っていても、いざという時には何の役にも立ちません。私たちの人生には、自分ではどうしようもないという時があります。それは死です。死という敵がやって来るとき、あなたがよりどころにしているこの世のものが、本当にあなたを守ってくれるものではないことに気がつくでしょう。そうしたものはあなたを本当に暖めてくれるものではないのです。それらのものは、短すぎます。狭すぎるのです。

 では、いざという時、危機が迫ってくる時に、慌てることのない生き方とは何か、16節、「それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。『信ずる者はあわてることはない』」聖書は、主なる神の据えられた隅の石に信頼することだと言うのです。パレスチナの建築法は、家の重量が全部そこにかかるような、要となる大きな石を礎として置きました。それが隅の石、隅石、かしら石と呼ばれるものです。主なる神が、シオンに基礎となる石を据えられた。その石は試みを経た石、堅く据えられ、しかも尊い石である。それは、第一義的には、その時代において、イスラエルの神ご自身に他なりません。

 ところが、この御言葉が、新約聖書に引用されたことにより、俄然、現代に生きる私たちにとって、身近な言葉となります。この言葉をパウロがローマ933節、1011節に引用しました。この同じ言葉を使徒ペテロも、ペテロ上26節に引用しました。「聖書にこう書いてある、「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」」そして、その前の3、4節で、「あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。」とペテロが言うとき、その隅のかしら石が、主イエス・キリストである、と彼は言っているのです。

主は、人には捨てられた石」それは裁かれ、鞭打たれ、十字架に付けられたイエス・キリストのことです。主イエスは、建物に例えれば、その全重量がかかる要の石なのです。固く見える石でも太陽に照らされ続け、風雨に晒されると風化するものです。川の激流を流れれば砕け散り、丸くなり、砂に変化してしまいます。しかし、試みを経た主イエスは、堅牢であり不動の岩であり、全宇宙、全世界の重量の全てがかかっても不滅なお方なのです。

主は十字架にかかり三日目に蘇り生きておられます。「イエス・キリストは昨日も今日も変わることがありません。」この方に信頼するなら、「慌てることはない」のです。この方を単純に主と信じ受け入れるなら「失望させられることはない」のです。使徒パウロはローマ1011に引用してこう断言しています。「聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。2700年前に真実なことが、今現在の真実なのです。

 イザヤ時代の歴史的事件の一つに、紀元701年に起ったアッシリアの大軍によるエルサレム包囲がありました。これはヒゼキヤ王の第14年のことです。おびただしい敵の軍勢に包囲されたエルサレムは絶体絶命、まさに民は大慌てであったに違いありません。アッシリア王から派遣された大将ラブシャケが、書簡を送り、ヒゼキヤを恫喝した詳細が、列王下1819章に記録されています。その敵の書簡は、「ヒゼキヤ王と民がエジプトと同盟を結び、どんなにイスラエルの神、主に信頼しても、全く無駄であるぞ。」とヒゼキヤ王を愚弄し侮辱した内容でした。

ところがその時です、ヒゼキヤ王は神の宮に登り、敵の手紙を拡げ、隅のかしら石なる主に祈りを捧げ、嘆願したのです。彼はその絶体絶命の境地にあって、心から主に信頼したのです。その祈りはこうでした。「ヒゼキヤは使者の手から手紙を受け取ってそれを読み、主の宮にのぼっていって、主の前にそれをひろげ、そしてヒゼキヤは主の前に祈って言った、「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ、地のすべての国のうちで、ただあなただけが神でいらせられます。あなたは天と地を造られました。主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いてごらんください。セナケリブが生ける神をそしるために書き送った言葉をお聞きください。主よ、まことにアッスリヤの王たちはもろもろの民とその国々を滅ぼし、またその神々を火に投げ入れました。それらは神ではなく、人の手の作ったもので、木や石だから滅ぼされたのです。われわれの神、主よ、どうぞ、今われわれを彼の手から救い出してください。そうすれば地の国々は皆、主であるあなただけが神でいらせられることを知るようになるでしょう」。」すると、その祈りは見事に聞かれたのです。驚くべき結果がもたらされたのです。列王下1935節にはこう記録されます。「その夜、主の使が出て、アッスリヤの陣営で十八万五千人を撃ち殺した。人々が朝早く起きて見ると、彼らは皆、死体となっていた。」そうです。主に信頼したヒゼキヤは、主に信頼した結果、確かに失望させられませんでした。

 あなたの置かれた状況において、誰を信頼し、何を頼りとしておられますか。今や、主イエスこそ隅のかしら石です。主の御名を呼び、心を注ぎだして信頼して祈るなら、主はあなたの祈りに必ず答えてくださいます。そして、決して失望させられることはないのです。慌てることはないのです。

5月10日礼拝説教(詳細)

  「震われないもの」  ヘブル12章18〜29節

あなたがたが近づいているのは、手で触れることができ、火が燃え、黒雲や暗やみやあらしにつつまれ、また、ラッパの響や、聞いた者たちがそれ以上、耳にしたくないと願ったような言葉がひびいてきた山ではない。

そこでは、彼らは、「けものであっても、山に触たら、石で打ち殺されてしまえ」という命令の言葉に、耐えることができなかったのである。その光景が恐ろしかったのでモーセさえも、「わたしは恐ろしさのあまり、おののいている」と言ったほどである。

しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。

あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。

あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。

このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。

聖書箇所としてヘブル書12章から読んでいただきましたが、その18節と22節に二度繰り返される『あなたがたが近づいているのは』と言うフレーズが、このような特殊な状況に置かれている日々の生活の中で、私の心に響いて来ました。

1.目指す目標

昨年1122日に中華人民共和国湖北省武漢市で「原因不明のウイルス性肺炎」として最初の症例が確認されてから、ここ5ヶ月の間に、瞬く間に、感染症が世界中に拡大し、日本もその例外ではありません。高校野球の春の甲子園は中止される、夏に予定された東京オリンピックも一年延長が決まる、相撲も五月場所は中止を余儀なくされ、緊急事態宣言が531日まで延長された現在、密閉、密集、密接を避けるため、私たちの日常生活は大幅な変更を余儀なくされております。その結果、「これから一体どうなるのだろうか」という先行き不透明感が、世間一般に蔓延しているのではないでしょうか。

 実は、この13章からなるこのヘブル書が執筆された当時の教会も、その置かれた混沌とした世界状況のゆえに、同じ不透明感におおわれていたようなのです。

ヘブル書の執筆年代は、今からおよそ2千年前の紀元64年以降だと言われています。あのエルサレムに始まった福音の宣教は、当時のローマ帝国内に、すでに燎原の火のように広がりつつありました。エジプトのアレキサンドリア、イタリアのローマ、ギリシャの諸都市、そして現在のトルコのエペソ等の諸都市には、次々と有力な教会が誕生していたのです。

 しかしながら、そのキリスト教会が置かれた状況はと言えば、当時の世界史の観点から見る限りでは、それはそれは暗澹たる雰囲気であっただろうと推定されます。あの大ローマ帝国では、紀元54年に、暴君と言われたネロが皇帝に即位しました。

その頃、ローマの圧政に反抗する過激派ユダヤ人による暴動が続発しており、66年からは熾烈なユダヤ戦争が勃発しました。皇帝ネロは当然のこととして、強力な軍隊を派遣し、徹底的に暴動を鎮圧する政策を取りました。ところがその翌々年の68年には、その皇帝ネロ自身に対する反乱が突如内部から起こるや、皇帝ネロは、とうとう自殺に追いやられてしまったのです。

 その年「68年」は歴史的に有名な「四皇帝の年」と呼ばれ、その僅か一年の間に、即位する皇帝の殺害、自殺が繰り返され、帝国内は大混乱に陥ってしまったのです。最後には将軍ウェスパシアヌスが権力を掌握し安定を見ることになったのですが、彼は、息子のテトスを総大将に任命、ローマの大軍をエルサレムに派遣し、ユダヤ人暴動を鎮圧させようといたしました。その結果、エルサレムは完全に包囲され、ついに糧食が断たれるや、エルサレムは紀元70年に陥落、歴史家のヨセフスによれば、ユダヤ人110万人が殺害され、残る全てのユダヤ人が、追放されてしまったといわれております。

 そのような混沌とした世界情勢の只中で、「これから一体どうなるのだろうか」と戸惑いを覚える教会に、書き送られたのがこのヘブル書でした。その中で、「あなたがたが近づいているのは」と、はっきり語られているのは、どのような混乱と不透明な中にあっても、主イエスを信じるクリスチャンには、進み目指す確かな目標、ゴールがあることを確信させるものだったのです。

 その前の信仰の章と呼ばれる、11章では、イスラエルの始祖であるアブラハムの生き方が取り上げられ、それによって、信仰の父に倣うクリスチャンの人生が、目標を目指して進みゆく旅人、寄留者に喩えられます。その16節では、「実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった」と、その目指すべき目標が「天のふるさと」だと表現されており、それが、神が私たちに備えてくださる天の都であると明らかにされました。

 そして、12章に進むと今度は、クリスチャンの人生が、ゴール目指してひたすらに走る競争者、ランナーに喩(たと)えられ、「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」と2節で呼びかけられているのです。その上で、それを受けて、18節、22節に「あなたがたが近づいているのは」と語られているのは、私たち主イエスを信じる者が近づきつつある目標、ゴールとは「生ける神の都、天にあるエルサレム」なのだ、と再び明らかにされています。「天のふるさと」が、11章では旅人が目指す目的地として、「天にあるエルサレム」が、12章ではランナーが目指すゴールとして描かれ、それが、私たちクリスチャンの目指す究極の目標であることが明らかにされたのです。

 私はここに至り、老人クラブのカラオケで歌ったことのある千 昌夫のヒット曲「北国の春」が思い出されました。その第一節はこうです、『白樺 青空 南風 こぶし咲くあの丘 北国の ああ 北国の春 季節が都会では 分からないだろと届いた お袋の小さな包み あの故郷へ 帰ろかな 帰ろかな』タイトル曲「北国の春」は、都会で暮らす男性が実家から届いた包みを受け取り、早春期の故郷や家族、かつての恋心などを想う内容の歌詞です。終戦後の地方からの集団就職組や、出稼ぎ労働者には、心にジンジンと響く歌詞ではないかと思います。

 しかし、どうでしょうか。人の魂の何処か奥深いところには、癒され難い故郷(ふるさと)志向が残っているのではないでしょうか。聖書によれば、人間は父なる神により愛された被造物です。神から出て来た生き物であり、神から離れてしまった人間は、それでも、誰でも神に帰ろうとする傾向、帰りたいという基本的な故郷(ふるさと)志向が、無意識のうちにも、あるのではないでしょうか。

 今このメッセージを、聞いてくださるあなたご自身は個人的に、何処から出て来て、自分の人生を何処に向かって生きようとし、何を目標に目指しておられるのでしょうか。私たちは、このヘブル書が記された時代とは全く違う状況に生きているのでしょうが、混沌とし、先行き不透明であることに変わりはないでしょう。その只中で、究極の目標はこの地上にではなく、天上にあることを再確認できれば、幸いであります。

 2.試みられる信仰

 さらに続いて、私の心に響いて来る言葉が26節にあります。「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」と語られた主の言葉なのです。

 天地を創造された神が、その天地を震わそう、揺さぶろうと言われるのです。「わたしはもう一度」と言うとき、それは以前に、神が地を震われた時があった、それが、エジプトを脱出したイスラエルの民が、シナイ山でモーセを通して神の十の戒めを授かった時であったことが前後で分かります。そして、この預言の言葉は実は、旧約の預言者ハガイにより語られた預言の引用であって、調べてみると、その預言箇所には「「わたしはまた万国民を震う」と言われていることに気づかされます。ということは、神が天地と万国民を震われるということは、大自然も人類の歴史も全てを神が揺さぶられるということです。

 では、神が全てを震われるその目的は何か、それは、直ぐ続く27節で明らかになります。「この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。」そうです。神が震わせられる目的は、「震われないものが残るため」なのです。

 20113月に三陸沖にマグニチュード9の激震が走りました。これはごく最近の震災として、私たちは決して忘れないことでしょう。また、専門家からは、過去のデータから推測して、ここ30年以内に南海トラフで巨大地震が発生するだろう、その確率は80%だと公表されました。天変地変に加えて、そればかりか、国家的な激震が走る!人類の歴史は無数の国家変動の記録そのものです。今なお、世界の国々も日本も震われています。

 私たち人間の常としては、このような理解しにくい困難や問題に直面するときに、ともすれば、その原因を究明し、解決策を考案し、また、その責任を追及することに躍起となる傾向があります。確かにそれは大切なのですが、もっとそれを超えた大切な取り組みが必要でしょう。それは、そこに秘められた目的、意味があることを悟ることです。

 私たち夫婦は、毎朝、朝食に合わせてNHKの朝ドラを観ることにしております。現在放映されている「エール」は、音楽家の古関裕而の生涯をドラマ化したことを知りました。彼は生涯に5000曲もの作曲をしたと言われ、その中には、関西の阪神タイガース応援歌「六甲おろし」がありそのファンには馴染みの人でしょう。

その作曲の中に「長崎の鐘」が含まれていたことを知った時、非常に感動させられたものです。何故なら、先に紹介した演歌の「北国の春」に加えて、老人クラブで歌った歌の一つが「長崎の鐘」だったからです。歌謡曲に縁の無い私にとって、カラオケで歌うことは難題でしたが、小さい時からラジオで耳にしていたこの曲を思い出して選曲して歌った歌でしたが、その作曲が古関裕而であることは遅まきながら最近分かった次第です。そればかりではありません。この「長崎の鐘」が歴史に残る日本の医学博士、永井 隆さんの随筆「長崎の鐘」から昭和28年に誕生した歌で、サトウハチロー作詞、古関裕而作曲、藤島一郎が歌って、大流行した歌と知り、尚一層驚きでした。

その随筆の内容は、調べた資料にはこうありました。「長崎医科大学助教授だった永井が原爆爆心地に近い同大学で被爆した時の状況と、右側頭動脈切断の重症を負いながら被爆者の救護活動に当たる様を記録したもの。被爆時に大学をはじめとする長崎の都市が完全に破壊された様子、火傷を負いながら死んでゆく同僚や市民たちの様子を克明に描いている。永井は、この時妻を亡くした。また、救護の際には、頭部の重症と疲労から自らも危篤状態におちいるが、同僚医師や看護士たちの努力により一命を取り留める。「長崎の鐘」とは、廃墟となった浦上天主堂の煉瓦の中から、壊れずに掘り出された鐘のこと。」その歌の一節だけを紹介しておきましょう。

こよなく晴れた青空を 悲しと思う切なさよ うねりの波の 人の世に儚(はかな)く生きる野の花よ 慰め励まし長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る」永井博士はカトリックの信者でした。21年にその随筆は完成していましたが、原爆被害を背景にしたためGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から発行は許可されず、24年に発刊され、28年に曲が歌われました。永井博士は、被爆直後にその妻を亡くし、自ら重症被爆者であるにも関わらず、被爆者の救護に手を尽くし、まさに全てが揺さぶられ震われたでありましょう。しかし、信仰の目で何が「震われないもの」であるかを確かに見届け、原爆の廃墟の中から探し出された長崎の教会の鐘の音を聴きつつ主を礼拝されたことでしょう。

 「震われるものが取り除かれ」、「震われないものが残る」ために神は天地、万国を震い給うのです。「震われないもの」それは「震われない国」すなわち、神の国なのです。イエスを主と信じ受け入れ、神の支配される生活に生きること、これは何があってもどんな激震が襲っても破壊、転倒することは決して無いのです。今回の新型コロナウイルス感染の脅威は今現在、まさに進行中であります。長期間、自宅待機させられ、仕事や事業を自粛させられ、経済基盤が大きく揺さぶられるこの時、自分の人生の究極の目標が何であるのか、自分の寄って立つ基盤が何であるのかを、再確認することにいたしましょう。

 3.果たすべき務め

 そうして、そうする時にこそ、今現在、自分の果たすべき役割、務めがきっと確かなものとされることでしょう。28節は私たちにこう勧告します。「このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。」この「仕えていこう」の原語はラトリューオーで、「雇い人として仕える」として使われる用語ですが、これはまた「礼拝する」ことにも使われる特別な言葉です。礼拝は神への捧げものであり、神への奉仕なのです。

今日も、礼拝の形態はどうであれ、震われない国を受けている者として、「感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれる」よう、真心から主を礼拝いたしましょう。

 そして12章に続く13章を見れば、現在為すべき尚一層具体的な6つ勧告がされていることが分かってきます。その第一は兄弟愛を続けることです。第二は旅人をもてなすこと。第三は投獄されている者を思いやること。第四は結婚を重んじること。第五は自分の持てるもので満足すること。第六は指導者たちの信仰に習うことです。

その中でも今日、第三番目に注目したらどうでしょうか。3節にこうあります。「獄につながれている人たちを、自分も一緒につながれている心持で思いやりなさい。また、自分も同じ肉体にある者だから、苦しめられている人たちのことを、心にとめなさい。」迫害されて投獄された人々への思いやりの勧告です。投獄されるとは自由を制約された苦しい生活です。投獄ではないのですが、今このコロナウイルス感染予防で自宅待機させられることは、一種の拘束された不自由な苦しい生活であります。このような孤立し、通常の人との接触、交流を断たれているお互いのために、「自分も一緒につながれている心持で」思いやり、許された範囲で、声かけをするなり、出来ることを実行に移すことにしたらどうでしょうか。

 コロナウイルスの感染の酷い国の一つはスペインですが、その首都マドリードに住む知人のフェルナンド兄から321日にメイルが日本語で寄せられました。彼は日本の東大、京大で生物学を専攻し、現在、スペインの厚生省に勤務する公務員です。奥さんの祥永さんはマドリッドで看護士として勤務され、彼らはマドリッドの日本語教会を主催する責任者でもあるご夫妻です。

そのメイルはこうでした。『私があなたと連絡を取るのは、祈りが必要だからです。今よしえさんのはらていている病院でコロナウイルスの患者さんは送られていています。今日から患者さんは軍隊によって病院に連れて行かれます。今のスペインの病院のじょうたいはすごく恐ろしいです。スタフとマスク足りません、その上によしえさんの病院は普通の病院です。感染症病院ではありません。お願いします。よしえの健康と保護を祈りしてください。変な日本語を許してください。先生たちも本当に体に気を付けてください。このウイルスはとても怖いいです。病院で死亡率はほとんど10%に近いです。

それから10日後でした。彼のメイルは次のよう報告でした。『いつもお祈りしてくれてるありがとうございます。よしえも仕事に行けれません。ウイルスに感染されました。もう仕事に行けれません。多分寄作くんと私も感染されたんですが調子はいいです。祥永さんさけせきいっぱいでてるしかし熱はありません。よしえは早く良くなりますようにお祈りしてください。』 この彼のたどたどしい日本語に接したとき、それは一種の悲鳴のように私には聞こえてきました。そして、感染した御本人の祥永夫人から55日に報告が寄せられ、430日に再検査を実施したところ陽性反応で、更に自宅養生が続くとのことでした。どうぞ、皆さんも彼らの回復のためお祈りください。そして更に一ヶ月自宅待機を余儀なくされる私たち相互のためにも、主のみ守りを祈ることにいたしましょう。

 先日、一人の姉妹から「オンラインで「からし種カフェ」を実施してみたらどうでしょう」と提案がありました。私は「それはいいアイデアですね。担当者と連絡して実行してみてはいかがですか。」とご返事したところです。

日曜の礼拝も通常の礼拝形式を取れない今現在、感染予防のために、礼拝資料を受領するために、教会に来ることもためらわれる方もおられることでしょう。そうした方々とも連絡を取り合い、互いに安否を問い、励まし祈り合い、支え合うことができれば幸いです。

聖歌584番の1節ではこう歌われています。「心にあるこの安きを 奪うもの地になし 試みにて苦しむとも 我が安き動かじ 我がものなる主を宿す その喜び 言い難し 主宣えり「我などて汝を捨てて去るべき」」私たちも震われない御国を受けている者として、感謝し主を賛美いたしましょう。 

5月3日礼拝説(詳細)

  「霊的な呼吸の力」  ヨハネ20章19〜22節

38日から私は旧約聖書の「伝道の書」より講解説教を開始したところですが、このシリーズは皆様と顔を合わせての礼拝で続ける方針でおりますのでご了解下さい。

このシリーズ開始に折良く、「伝道の書」の新しい注解書が325日に出版されることが、馴染みのキリスト教書店から知らされました。そればかりか、この注解書の著者、小友聡先生が、4月からEテレ「NHKこころの時代」で「それでも生きる」と題し、9月まで6回に渡り、毎月第三日曜日の朝5時から、対談形式で、「伝道の書」を紹介下さることをも知らされ、第一回目を視聴したところであります。関心のある方は、テキストも市販され、放映された週末土曜の午後1時から再放送もされますので、是非ご覧なされるとよろしいかとお勧めいたします

 この番組の中で、対談相手の文学者、若松英輔さんが、こう語っておられました。「聖書は聖典ですが、古典でもありますね。」すると、それに対して、小友先生が「古典は過去の書ですが、聖典は現在の書ですね。」と答えられました。若松さんがそれを受けて、「古典は知でその門に入れますが、聖典は信で入れるものではないでしょうか。」と発言された対話が、私には大変印象的でした。

今、私たちが手にしている、この聖書は、聖典であって、もし私たちが信仰により受け止めようとすれば、今を生きる私たちを生かす現在の書だということなのです。

 ヨハネ20章は、日曜の早朝に復活された主イエスが、マグダラのマリアに、そして弟子たちにご自身を次々と現されたという2千年前の出来事を綴る歴史的な箇所であります。その意味では、これは間違いなく過去を語る古典の書であると言えるでしょう。しかしながら、信仰はこう言うのです。「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」(ヘブル13:8)と言うことは、あの日曜の夕方に起こった出来事は、信仰によれば今日起こる出来事でもあると言って差し支えないのです。復活し、生きて弟子達に現れくださった同じ主イエスが、今日、私たちにも現れてくださる、と言うことなのです。

  1. 施錠した部屋に入るイエス

 まず第一に言えることは、復活の主イエスは、人がどんなに閉ざされた状態にあっても入ってきてくださるお方だということです。

その日曜日の夕方でした。弟子達は非常な恐れに取り憑かれ、厳重に念入りに鍵を内側からかけた部屋に閉じこもっていました。恐れという感情は、危険を回避するために人間に備わった必要な能力であります。しかし気分を陰鬱にし、思考を鈍らせ、行動を萎縮させてしまうネガティブな反応です。新型コロナウイルス感染の世界的大流行が危惧され、緊急事態宣言が発令された今日この頃、人の動きは止まり、経済的破綻が危ぶまれ、自宅待機を余儀なくされている(私たちを含めて)多くの人々の心境は察して余りあるものがあるものです。

 鍵をかけ恐れて部屋に篭った当時の弟子達と、私たちの置かれた状況は全く違っているでしょう。それでも恐れと心配の心境には、彼らと私たちには共通するものがあります。ところがどうでしょうか。彼らが閉じこもっていたドアには厳重に鍵が内側からかけられていたにもかかわらず、主イエスが突然、中に入って来られたのです。彼らの真ん中に立たれ、「安かれ」と言われたのです。その瞬間、何が起こったのでしょうか?弟子達の心から不安と恐れが一挙に突然吹き飛びさったのです。彼らの心は言いつくし難い神の平安に満たされてしまったのです。ハレルヤ!

 新約聖書を記したギリシャ語では「安かれ」はエイレーネーです。だが、主イエスは間違いなくヘブライ語でシャロームと語られた事でしょう。そして、ヘブライ語のシャロームの本来の意味は、単に争いのない、平和な状態を表すだけでなく、力と生命に溢れた動的な状態を言うものです。個人的に平穏、無事、安心、安全であるばかりか、人と神に対しては和平、和解であり、生命的には満足と生きる意欲を意味するものなのです。

天地は神の言葉によって造られました。神が「光あれ!」と言われると光ができたことを、私たちは創世記の記事から知っております。人と成られた神である主イエスが一言「平安あれ!」と語られるなら、間違いなくそこには、神の平安が訪れるのです。「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」

今日、あなたが、例えどんな状況に置かれていたとしても、蘇り生きておられる主イエスが、あなたに対し個人的に、「しっかりするのだ。わたしである。恐ることはない。」「安かれ!」と語っておられるその力強い励ましに満ちたお言葉を是非聞き分けてください。

  1. 両手の傷を見せるイエス

 更に、今日の聖書箇所から言えることは、復活の主イエスは、湧き上がる喜びを十字架により確かに与えて下さるお方であるということです。

部屋に入られ「安かれ」と語られた主イエスが、驚く弟子達にしたことは、ご自身の両手の釘痕(くぎあと)と脇の槍痕(やりあと)をお見せになった事です。十字架にはりつけられた主イエスは、三日目に確かに復活されたのです。そして生きておられると言う事実は、十字架の受難が単なる人間の手による死刑ではなかったことを弟子達に思い起こさせたに違いありません。

 

主イエスは人に殺されたのではありません。主イエスは自分から進んで命を差し出し、十字架上で死なれたのです。

 主はヨハネ1011節で先立って、こう語っておられました。「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。」更に、18節でもこう言われました。「だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。」エルサレムでやがて捕らえられること、祭司に裁かれること、そして十字架の受難を受けることを、前もって繰り返し、主イエスが弟子達に予告されたのは、その意味だったのです

主イエスは、私たちの罪の身代わりとして犠牲となったのです。信じる私たちにその命を与えるために、十字架上で苦しまれたのです。信じて命を得た人は、罪赦されて神との生きた関係を取り戻すことができるのです。主イエスの御体の傷跡を見せられた弟子達は、神がキリストにより成し遂げてくださった救いの御業を明らかにされるや、いい尽くし難い喜びに満ち溢れました

 緊急事態宣言の結果、多くの娯楽施設が営業自粛を求められ、人々の楽しみが奪い取られてしまったかのようです。それでも営業を続けるパチンコ店に、他県からも押しかける客が溢れていると言った報道もあります。パチンコの玉が偶然穴に入った瞬間の喜悦は得難いものがきっとあるのでしょう。だがしかし、それはどこまでもバーチャルリアリティなのです。仮想現実なのです。それは一時的な人間の作り出した憂さ晴らしに過ぎず、人間の深みにある本質的な喜びの必要に応えるものではありません。

 今、この時、自宅待機を余儀なくされる私たちのただ中に主イエスは入ってこられます。その上、復活を記念する日曜日、主イエスは受難の十字架を指し示しておられるのです。

この主の十字架を私たちが心の深みから仰ぐ時、静まって、主の御受難の意義を、それが罪の赦しのためであったことを悟るとき、人の心の奥底からは真の喜悦がこんこんと泉のように湧き上がってくるのです。

  1. 息吹きかけるイエス

 最後に復活の主イエスが、今現在も昔と同じく私たちに為される御業があります。それは、主イエスが命の息を私たちに吹き掛けてくださる方だということです

 

「そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった」そうです!蘇られた主イエスは、何と、驚き喜ぶ弟子達に、息を吹き掛けられたのです。それは、勿論、その直後に語られたお言葉によって、すなわち、「聖霊を受けよ」というお言葉によって、それが象徴的な行為であったことは明らかです。

 これによって、私たちは何を思い起こさせられるでしょうか。そうです。あの創世記第2章の神の人間創造記事です。そこには7節にこう記されています。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」我々人間は、土を材料に神の被造物として造られたのです。土で造られた命の無い肉体に、神がその上にかがみ込み、その鼻に直接、息を吹きかけられると、その瞬間「人は生きた者となった」のです。「人」とはヘブライ語で言えばアダムです。何故アダムか?土を意味するアーダーマーから造られたからアダムなのです。人間は泥、土、粘土なのです。

 神が吹き入れられた「命の息」の息は、原語のヘブライ語ではネシャマー、気息、呼吸、息吹き、霊、魂とも訳される重要な用語です。その瞬間でした。人は肺呼吸によって空気から酸素を摂取し、不要となった二酸化炭素を排出し、生命活動を開始したのです。

 それ以後の人間は、母親の胎内で羊水の中で十ヶ月十日過ごし、出産の時、空気が肺に入って膨らみ、「オギャー」と泣く瞬間に呼吸を開始します。胎内にいる胎児は、臍の緒(へそのお)を経由して胎盤でガス交換をすると同時に、口内にあるエラでも呼吸をしていると言われています。胎児は出産と同時に肺呼吸を突然開始する!それは驚きです。感動です。それによって生命活動は維持され、成長発達していくことになるわけです。

 新型コロナウイルス感染の恐ろしさは、感染者の肺を侵し、ウイルスが肺炎を起こし、重症化すれば死に至る点です。その為、医療現場では、軽症者は病院以外の施設に移し、重症者のみを集中治療室で対応するようにし、何とか死亡をくい止めようとしています。

呼吸困難には、人工呼吸器で補助し、酸素の摂取と二酸化炭素の排出が不可となった重症者には、最新の医療機器エクモで血液を抜き出し、人工的に摂取排出を施し、体内に戻す手当をしております。専門医師の説明では、一台のエクモの治療作業には5人の医師と5人の看護師、スタッフを必要とするとのことで、一人の患者の命を守ることの凄まじさを知ります。人は自分の肺で酸素と二酸化炭素の摂取排出ができなければ死ぬのです。

 それでは、あの復活の日に、蘇られた主イエスが、弟子たちに対する息の吹きかけにはどんな意味が込められていると言うのでしょうか。ここであの老練なユダヤ人指導者ニコデモに語られた主イエスの言葉が生きてきます。

主は彼にこう言われたのです。(3:5,6)「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。」主イエスが意味されたのは、人は新しく生まれるべきことです。霊的な誕生が不可欠なのです。

母の胎内の胎児には、母親の体外の世界は全く見えません、分かりません。それと同じく、母の胎内から生まれただけの人間には、自然の世界、人間世界を超えた神様の支配する世界の現実が見えてこないのです。わからないのです。全く新しく、神の力によって、霊的に誕生しない限り見えない、わからないのです。主イエスが弟子達に息を吹き入れ、「聖霊を受けよ」と語れられたのは、その人が経験させられる霊的誕生のことなのです。神の国を見ることができ、神の国に入る経験のことを意味していたのです。不思議なことです。

ある日、突然、今の今まで天地を造られた神を全く知らなかった人が、分かるようになるのです。信じられるようになるのです。神が居られることが、どう言う訳か確信させられるのです。それは、主イエスに息ふきかけられた結果なのです。約束された聖霊が来られ、聖霊がその人に望まれた結果なのです。福音を聞き、イエス様を主、キリストと受け入れた瞬間に、人は聖霊により誕生し、何と目に見えない神様に向かって「天のお父様、神様!」と呼びかけ、どんなにおぼつかない表現であっても、あの胎児が出産と同時に、「オギャー」と呼吸を始めるのと同様に、霊的呼吸、神に対する祈りを開始するのです。

 主イエスが弟子達に息を吹きかけたことは、霊的に誕生することばかりではありませんでした。それは聖霊の力によって、弟子達が、使命を神から与えられて派遣されるためでした。その使命とは、罪の赦しを得させる福音を人々にのべ伝えることです。このような使命は聖霊の助けと導き、さらに上からの力によらなければ到底果たすことのできないことなのです。

 あなたは霊的に誕生されたでしょうか。「アバ、父よ。」親しく「天のお父様!」と祈り始めておられるでしょうか。あなたは、自分が受けた罪の赦しによる神との和解の福音を自分だけのものとせず、この驚くばかりの恵の救いの御業を、愛する友人、知人、家族に伝えるために祈り準備しておられるでしょうか。

 新型コロナウイルス感染の恐ろしさは、肺炎を起こし、重症化すれば患者を死に至らしめることです。その炎症を抑え、ウイルスを殺す決定的な特効薬は無く、予防するワクチンも未完成の現在、我々を含め全ての人は、危険極まりない状況に置かれております。しかし、覚えてください。ほとんどの人々はコロナウイルスよりも恐ろしい罪によって、重傷どころではなく、霊的に呼吸機能が働かず死んでいるのです。イエスキリストの父なる神を知らない人は、霊的に死んでいるのであって、神の愛の呼びかけに応答することも、神への語りかけである祈りもすることができません。

 あなたは、すでに主イエスの息の吹きかけを受け、聖霊により新生され、祈り執り成しの祈りをすることができることでしょう。この度の、恐るべき新型コロナウイルス感染が速やかにおさまるように、感染した方々が癒されるように、医療従事者達の健康が支えられるように、一刻も早く特効薬が開発されるように、是非お祈りください。しかし、同時に、覚えてください。主があなたに息を吹きかけられ、聖霊を与えられたのは、あなたが福音を証言し、人々が罪の呪いから解放されて救われ、神のもとに立ち返るよう執り成し祈るためなのです。

 先ず、何にも先駆けて主なる神を賛美し褒め称えようではありませんか。そのご性質、本質、属性の驚くばかりの素晴らしさを言葉に言い表して賛美しましょう。主があなたにしてくださった恵みの良き業を思い起こして感謝しようではありませんか。「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。」(詩篇1032)そうです。忘れずに「ありがとうございます」と主に感謝しましょう。聖霊により示される罪過ちがあるならば、言い表して告白し、悔い改めて赦しを求めましょう。「あなたの罪は赦された」と、主イエスは、へりくだったあなたの懺悔の祈りに答えてくださいます。

今、このような自宅待機の時こそ、時間を取って、自分の関係する知人、友人、家族の救いのために祈りましょう。自宅待機でテレワークであれば、しばらく職場で会えない上司や同僚のために祈りましょう。緊急事態宣言が終わり、職場に復帰するときには、それ以前とは違った雰囲気になっていることにきっと気がつくことでしょう。

 迫害され真っ暗な泥の井戸に幽閉されたエレミヤに語られた約束の言葉はまた、あなたのためでもあります。主は言われました。「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。」主イエスの息の吹きかけを受けられたあなたは、霊的な呼吸として神にひざまずき祈るとき、このような閉塞的な状況の中で、その驚くばかりの力を必ずや経験されることでしょう。