10月30日礼拝説教

「虹の約束の彼方」  創世記9章8〜17節

神はノアと、彼と共にいる息子たちに言われた。「私は今、あなたがたと、その後に続く子孫と契約を立てる。また、あなたがたと共にいるすべての生き物、すなわち、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣と契約を立てる。箱舟を出たすべてのもの、地のすべての獣とである。私はあなたがたと契約を立てる。すべての肉なるものが大洪水によって滅ぼされることはもはやない。洪水が地を滅ぼすことはもはやない。」

さらに神は言われた。「あなたがた、および、あなたがたと共にいるすべての生き物と、代々とこしえに私が立てる契約のしるしはこれである。私は雲の中に私の虹を置いた。これが私と地との契約のしるしとなる。私が地の上に雲を起こすとき、雲に虹が現れる。その時、私は、あなたがたと、またすべての肉なる生き物と立てた契約を思い起こす。大洪水がすべての肉なるものを滅ぼすことはもはやない。雲に虹が現れるとき、私はそれを見て、神と地上のすべての肉なるあらゆる生き物との永遠の契約を思い起こす。」

神はノアに言われた。「これが、私と地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

 虹は自然現象だが、主なる神は虹を契約のしるしとされた。大洪水の後に、神は「私はあなたがたと契約を立てる。洪水が地を滅ぼすことはもはやない。」とノアと不戦の契約を結ばれた。その契約のしるしに、虹は雲の間に置かれた。

ヘブル語で虹は戦いの弓を意味し、神は上向きに置いた弓を、不戦のしるしとされた。滅ぼさないばかりか、神は地球を最適に保全し、穀物収穫、四季の変化等、一般恩恵を人に与えると約束もされた。

私たちはあたかも当然のことと、その利便に預かる恩恵に浴している。更に「雲に虹が現れる。その時、私は、契約を思い起こす。」と約束することで、主は虹を備忘のしるしともされる。それは契約の当事者であるノアとその子孫、即ち、今に生きる私たちを片時も忘れず覚えていることを意味する。

神の民が辛い時に「わが主は私を忘れられた」と呟くと、主は「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。たとえ、女たちが忘れても、私はあなたを忘れない。」(イザヤ4915)と答えられた。更に「見よ。私はあなたを手のひらに刻みつけた。」とまで強調される。

人の心の奥深くにある一つの恐れは、自分が無視され忘れ去られることだろう。だからこそ無意識の内に忘れられないよう何か手を打つ。しかし虹を見る時、思い起こそう。誰からも顧みられ無くても、神は私を愛し決して忘れられないことを。

不戦を約束される主は、ノア以後の新しい人類に特別な一般恩恵を与えられたが、それは「地の続く限り」でもあることを覚えておこう。主イエスは「人の子が来るのは、ノアの時と同じだ」と今の時代が終わりに近いと明言された。

現在の人類の悪が許容限度を超えると、次の裁きは水によらず火によって実行される。ノアの箱船はキリストの救いの雛形に相当する。箱船に入った者が洪水から救われたように、神は一人でもイエスを信じて救いの恵みに入るのを忍耐して待たれる。

今日、私たちが救われているのは神の忍耐の賜物である。ノアが当時の人々に呼びかけたように、我々を今の時代の人々に呼びかける義の宣伝者とさせていただこう。

11月23日礼拝説教

「私は何者なのか」  ヨブ記38章1〜18節

主は嵐の中からヨブに答えられた。

知識もないまま言葉を重ね主の計画を暗くするこの者は誰か。あなたは勇者らしく腰に帯を締めよ。

あなたに尋ねる、私に答えてみよ。

私が地の基を据えたときあなたはどこにいたのか。それを知っているなら、告げよ。

あなたは知っているのか、誰がその広さを決め誰がその上に測り縄を張ったのかを。

地の基は何の上に沈められたのか。誰が隅の親石を据えたのか。夜明けの星々がこぞって歌い神の子らが皆、喜び叫んだときに。

海がその胎内からほとばしり出たとき、誰が海の扉を閉じたのか。私が雲をその上着とし、密雲をその産着としたときに。

私は海のために境を定め、かんぬきと扉を設けた。私は言った。「ここまでは来てもよいが、越えてはならない。あなたの高ぶる波はここで止められる」と。

あなたは生まれてこの方、朝に命じ曙にその場所を示したことがあるか。地の果てをつかんでそこから悪しき者どもを、振り落としたことがあるか。地は刻印を押された粘土のように変わり、上着のように彩られる。悪しき者どもからその光は取り去られ、振り上げた腕は折られる。

あなたは海の源まで行ったことがあるか。深い淵の奥底を歩いたことがあるか。死の門があなたに姿を現したか。死の陰の門をあなたは見たことがあるか。あなたは地の広がりを悟ったのか。そのすべてを知っているなら、言ってみよ。

 ヨブは敬虔で裕福な人から尊敬される人物だった。突然、全財産を奪われ、災害で10人の子供を失い、挙句に重度の皮膚病を患う。未曾有の苦難を「主は与え、主は奪う。主の名は褒め称えられますように」と何とか持ち堪える。だが、自分の生まれた日を呪い、慰めに来た三人の友人の説得に納得できず苛立ち、自分が何故これほど苦しむのか理由も分からないまま、神に「答えてください」と祈った。

真実な神は、38章から41章にそのヨブに答えられたが、ヨブの問いに答えは無く、むしろヨブに神は問われ、その数は60を超える。ヨブ記から学ぶべきは、人は神への発信者ではなく受信者であるべきことにある。

人は神の問いに答えねばならない。「主の計画を暗くするこの者は誰か。」と主はヨブに問われた。万物を創造し、歴史を支配するのは主なる神であるが、ヨブは自分の身に起こった理不尽な災難を思うと、神のなさり方に批判的にならざるを得ない。神は一切を創造され、それを「極めて良い」とされたが、ヨブは「極めて悪い」と密かに思わざるを得ない。ヨブは人生で苦悩する私たちを代表する。

我々は自分の身に起こった苦しみを主の前にどう受けとめているだろうか。万事を益に変え得る主の計画を暗くしていないだろうか。主は「私が地の基を据えたとき、あなたはどこにいたのか。」とヨブに尋ねる。

広大な宇宙に浮かぶ地球を神が創造された時、一人としてそこに居合わせた人間は居ない。その地球とそこに棲息する生き物をも全て神は造られた。人間の想像を絶するその生態は奇妙であり不思議である。この偉大な創造者の前に人は「空の空」はかなく束の間の存在でしかない。

神の創造に目が開かれる時にのみ、人は自分が何者かを悟らされる。神が陸と海と地底の創造を語るのを真摯に傾聴したヨブは、最後に「私は知りました。あなたはどのようなこともおできになります」と神の全能性を悟った。

そればかりかヨブは被造物の冠である人間として役割がある自覚にも導かれている。

造物主の問いの前に「私は何者なのか」改めて自覚したい。

10月16日礼拝説教

「終末の待望姿勢」  マタイ25章1〜9節

「そこで、天の国は、十人のおとめがそれぞれ灯を持って、花婿を迎えに出て行くのに似ている。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、灯は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれの灯と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆うとうとして眠ってしまった。真夜中に『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。

そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれの灯を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。私たちの灯は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が着いた。用意のできている五人は、花婿と一緒に祝宴の間に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。

しかし主人は、『よく言っておく。私はお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたはその日、その時を知らないのだから。」

 10日に開催された関西聖会で講師の中里恵美師は、「広がる福音、伝える福音」と題してメッセージを語られた。私たちは、神の御子の十字架の犠牲の死、三日目の復活を福音として知っている。蘇(よみがえ)りの生ける主イエスを信じる人は誰でも罪赦され救われ、神の国に入れられる。

主イエスの宣教の中心は神の国であり、その最初の使信は『悔い改めよ。天の国は近づいた』であった。天の国とは神の国の同義語で、信じた者が神に支配され治められることを意味する。

復活された主イエスは、『私は天と地の一切の権能を授かっている。』と明言された。世界の200近い大小の国家は、それぞれ政治指導者により統治されているが、それを超えた現実は、主イエスの全世界統治にある。

神の国は、主イエスの初臨に始まり、再臨により完成される。私たちは初臨と再臨の中間時代に生きるのであり、主の再臨をどのように待望するかが問われている。

「十人のおとめ」の喩えでは、主の再臨を婚宴の喜びになぞらえ、キリストが花婿に、乙女たちが教会を表している。

乙女達は花嫁の友人で、花嫁を迎えに来る花婿を灯火のもとで踊って迎えようとしていた。だが花婿の到来は遅れ、乙女達は居眠りに陥り、いざ花婿到来時に、五人の乙女には油の予備が無く、役目を果たせず婚礼から締め出されてしまった。

主イエスは「私はすぐに来る」と約束されたが、その日その時を人は知らない。教会は何時、如何なる時に主イエスが来られても良いように油を備えて待望することが求められている。

主イエスは弟子達に「あなたがたは世の光である」と言われ、「あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。」と勧められた。光に必要な油が、キリスト者の愛の業を指していることを、25章35〜40節で主イエスによって解釈されている。飢え渇く人、宿無し人、裸の人、病気の人、投獄されている人への配慮を、主はご自分にすること同定された。

再臨待望は、熱狂的になることでも、遅延ゆえに怠惰になることでもない。未来に心の目を見開き、隣人愛に生きることに他ならない。

10月9日礼拝説教

「堂々とした敗北」  創世記32章23〜33節

だが彼は夜中に起きて、二人の妻、二人の召し使いの女、それに十一人の子どもを引き連れ、ヤボクの渡しを渡って行った。ヤコブは彼らを引き連れ、川を渡らせ、自分の持ち物も一緒に運ばせたが、ヤコブは一人、後に残った。

すると、ある男が夜明けまで彼と格闘した。ところが、その男は勝てないと見るや、彼の股関節に一撃を与えた。ヤコブの股関節はそのせいで、格闘をしているうちに外れてしまった。

男は、「放してくれ。夜が明けてしまう」と叫んだが、ヤコブは、「いいえ、祝福してくださるまでは放しません」と言った。

男が、「あなたの名前は何と言うのか」と尋ねるので、彼が、「ヤコブです」と答えると、男は言った。「あなたの名はもはやヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。あなたは神と闘い、人々と闘って勝ったからだ。」

ヤコブが、「どうか、あなたの名前を教えてください」と尋ねると、男は、「どうして、私の名前を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。

ヤコブは、「私は顔と顔とを合わせて神を見たが、命は救われた」と言って、その場所をペヌエルと名付けた。

ヤコブがペヌエルを立ち去るときには、日はすでに彼の上に昇っていたが、彼は腿を痛めて足を引きずっていた。こういうわけで、イスラエルの人々は、今日に至るまで股関節の上にある腰の筋を食べない。男がヤコブの股関節、つまり腰の筋に一撃を与えたからである。

 人間臭さが露骨なまでに描かれる波乱万丈のヤコブに、親近感を覚えさせられる。双子兄弟のヤコブは、長子の特権を兄エサウからだまし取り憎まれていた。

逃亡先で長年仕えた叔父ラバンには、巧妙なやり口ゆえに疎まれてしまう。

逃げるべく20年ぶりに郷里に戻ろうとするヤコブの前方には、一族郎党400人を引き連れる兄エサウが向かいつつあった。穏やかではない。ヤボクの渡し場のヤコブは精神的に追い詰められていた。財産の安全対策、怒れる兄への周到な宥めの贈答品準備、神への真摯な嘆願祈祷と打つ手は打ったが、恐れと不安は心から消えない。そんなヤコブを天使がつかまえ、一晩中格闘したとこの故事が伝える。

この天使は、受肉前の御子イエス・キリストだと神学的には理解される。神の御子は乙女マリアから人間として誕生された。それ以前の歴史時間に、天使の姿で人間に関わられたことが知られている。ヤコブの天使との格闘は、それ故に、イエスを主と信じるキリスト者の姿を映し出している。

ヤコブは格闘を終えた朝、「私は顔と顔とを合わせて神を見た」と、その場所を記念してペヌエルと呼んだ。日本の相撲力士は、土俵上で互いの顔を睨み合い立ち会う。顔を見る、顔を知るとは相手を知ることにつながる。人間として来臨された主イエスは、神の顔であり、神の御名を明らかにされた。

人は主イエスを信じて神を知る恵みに浴す。人生の究極目的は神を知ることにあり、主キリスト・イエスを信じる者は、価値の大転換を経験させられる。

ヤコブが、天使に問われてその名を明かすと、「これからはイスラエルと呼ばれる。」と宣言された。それは、新しい存在への呼び出しであって、「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。」に通じる自己同一性の経験でもあり、信じる者は、その瞬間に新しい自分の一歩を踏み出すことになる。

その時ヤコブが、天使から祝福されるや、瞬時に不安は解消、恐れていた兄との再会も、復讐とは逆に和解の対面に変えられていく。神の祝福は、驚異の変化をもたらすことになる。

102日礼拝説教

「まさか私のことでは」  マルコ14章12〜25節

除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。

「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人に付いて行きなさい。そして、その人が入って行く家の主人にこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする宿屋はどこか」と言っています。』すると、席のきちんと整った二階の広間を見せてくれるから、そこに私たちのために用意をしなさい。」

弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスの言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。

「よく言っておく。あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている。」

弟子たちは心を痛めて、「まさか私のことでは」と代わる代わる言い始めた。

イエスは言われた。

「十二人のうちの一人で、私と一緒に鉢に食べ物を浸している者だ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに去って行く。だが、人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかったほうが、その者のためによかった。」

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してそれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これは私の体である。」また、杯を取り、感謝を献げて彼らに与えられた。彼らは皆その杯から飲んだ。

そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流される、私の契約の血である。よく言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」

 過越の食事の席上で、「あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている。」と主イエスが予告されると、「まさか私のことでは」と心を痛めた弟子たちが、代わる代わる応えていた。

それは相手の否定の答えを期待する物の言い方であった。しかしながら、裏切り予告で主イエスが誰であるかを、公に特定しなかったのは、裏切りがユダ一人の問題ではないこと、誰にでもある裏切りの可能性を自覚させるためであった。

主の次の予告、「あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている。」は、友達の裏切り、夫婦の裏切り、親子の裏切り、師弟の裏切り、すべて人の裏切りの前提に、愛と信頼があることが指摘される。

主イエスが続いて語られた「人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかったほうが、その者のためによかった。」との言葉は、呪いのように誤解されやすいが、むしろ、「私の心は張り裂けるばかりだ」と裏切る者に対する悲嘆であろう。裏切る人の人生そのものが悲しいことに災いとなってしまうからに違いない。

実際に銀貨30枚で裏切りに走ったユダの動機の何たるかは明らかにされていない。ここに、私たち自身の中にも、主イエスを裏切ろうとする思いが透けて見えるのではないか。その思いがどう現れるか、誘惑に負けてなのか、思い通りにならないひがみなのか、教えに対する反発なのか、人それぞれ違っている。

教会は、聖人君子の集まりではなく、裏切りの可能性を持ったままの人間の共同体であることに変わりはない。「まさか私のことではないでしょうね」いや残念ながら、あなたなのです。私なのです。あなたも私も裏切る可能性を持っている。主イエスは、ユダを含む12弟子全員にパンを裂いて与え、「これは、多くの人のために流される、私の契約の血である。」と、杯から飲ませられた。裏切りの可能性を有する全員が今、聖餐式に招かれている。

私たちが聖餐式でパンと杯に預かることにより、神との契約関係を再確認させられる。驚くばかりの恵みではないか。