11月27日礼拝説教

「根株から若枝が」  エレミヤ33章14〜16節

その日が来る――主の仰せ。私は、イスラエルの家とユダの家に語った恵みの約束を果たす。その日、その時、私はダビデのために正義の若枝を出させる。彼は公正と正義をこの地に行う。その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに暮らす。この都は『主は我らの義』と呼ばれる。

 第一アドベント(待降節)で朗読されるエレミヤ33章14〜16節で、来臨されるメシアは若枝と呼ばれる。エレミヤが預言したエルサレムの状況は、周囲をバビロンの大軍に包囲され緊迫していた。エレミヤは、拘留され獄死の危機にさらされてもゼデキヤ王と民に預言を辞めない。この預言は王国の滅亡と回復であった。エレミヤは神の民の罪を糾弾し、当然被る神の裁きを警告し、なおかつ回復の恵みの約束を告げている。預言は的中しBC536にバビロンによりエルサレムは焼払われ、壮麗な神殿は跡形もなく破壊され、民は異国の地に捕囚とされた。

しかし、歴史は大きく動き、後発のペルシャ帝国によりバビロンは崩壊、何と皇帝クロスにより、捕囚の民に帰還命令が下る。神の回復預言は捕囚から70年後に的中、その帰還の先頭に立ったゼルバベルこそ、若枝と呼ばれたダビデの末裔であった。

預言をグラスに注がれる水に喩えれば、この神の民の救済歴史はグラスの半ばに満ちた成就であり、完全な預言成就は、神の人類全体の救済計画の執行者として、メシアが将来、若枝として到来することであった。私たちは、その預言の完全な成就を神の御子イエスに見ている。AD70年にローマ軍により倒されたイスラエルは、世界に離散し滅亡したが、主イエスは、切り倒された根株(イスラエル)から萌え出る若枝である。

マタイ1章のキリストの系図に四人の女性の素性を掘り当てるだけでも、その根株の罪穢れはおぞましい。だが、主イエスは、私たちと連帯し、人類の罪責の全てを、代表してその身に引き受け、十字架上で身代わりの死を遂げることで、罪の赦しをもたらしてくださった。イエスを主と信じる者は、自分の内に若枝を迎える。自分がどんなに罪深く、絶望的なまでの状態にあっても、新しい命が萌え出る。だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。若枝なる主により無限の可能性を内に秘めている確かな事実に感謝しよう。

「私を呼べ。私はあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる。」と主は言われる。

11月20日礼拝説教

「王の王、主の主」  使徒行伝19章11〜16節

それから、私は天が開かれているのを見た。すると、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「忠実」および「真実」と呼ばれ、正義をもって裁き、また戦われる。

その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠を戴き、この方には、自分のほかは誰も知らない名が記されていた。この方は血染めの衣を身にまとい、その名は「神の言葉」と呼ばれた。そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い上質の亜麻布を身にまとい、この方に従っていた。この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。そして、この方はぶどう酒の搾り桶を踏む。そのぶどう酒には、全能者である神の怒りが込められている。この方の衣と腿には、「王の王、主の主」という名が記されていた。

 絶海の孤島パトモスに流刑の使徒ヨハネは、開かれた天に、神の視座から時の終わりを見せられた。時の初めには創造者なる主イエスが、時の中心には贖い主イエスが、時の終わりには白馬に騎乗する勝利の主イエスが立たれる。罪の赦しを得させる十字架に犠牲となるため人となられたイエスは、エルサレムにロバで王として入場されたが、再臨の主イエスは勝利の象徴である白馬に騎乗され「王の王、主の主」となられる。

今や80億人を突破した人類は196の国々に様々な政治形態で統治されるが、為政者の「今ある権力はすべて神によって立てられたもの(ローマ13:1)」であることが真理である。実際すべてを統合する主権者は、天においても地においてもすべての権能を与えられた主イエスであり、再臨においてその支配が完成される。

主イエスは羊飼いが羊の世話をするように優しく王として治められ、羊飼いが獅子や狼の手から羊を守るように果敢に戦う王である。人は一度死ぬことと死んだ後に裁かれることが定まっている。白馬に騎乗する王なるイエスは、最後の審判では万人のその生前の罪を裁かれる。しかし感謝なことに、十字架に罪の犠牲となられたイエスを救い主として受け入れ洗礼を受ける者が、最後の審判で裁かれることはない。今は恵の時、救いの日である。畏れ謙り救いの恵みに信仰をもって預かろう。そして、花嫁として婚礼に備えよう。その十字架の血で罪の奴隷から買い取られた教会はキリストの花嫁であり、主イエスが花婿である。

主が再臨される際に、栄光の新しい身体を与えられた信者たちは残らず、子羊の婚姻に招かれる。この開かれた未来の祝福を見据えて、小躍りするほど大いに喜ぼう。そして神に栄光を帰し、「ハレルヤ!」と賛美しよう。花嫁が純白のウエディングドレスで式に臨むよう、キリストの義と自分の正しい行いで装い、その日を迎えよう。私たちを取り巻く状況が、どんなに暗くても、私たちの未来には勝利された主イエスが両手を広げて私たち一人ひとりを待っておられる。束の間の人生だが確かな永遠の希望がある。

11月13日礼拝説教

「慰めの時の訪れ」  使徒行伝3章20、21節

こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために定めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなる時まで、天にとどまることになっています。

 美しい門の奇跡は、未来の希望を垣間見させる機会となった。

『主は、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。』と驚き見つめる群衆に使徒は語る。

そのイエスをユダヤ人達が総督ピラトに引渡し、拒絶し、十字架で殺していた。

そのイエスがメシアとして再び来られる。それによって慰めの時が訪れる。そこに私たちの永遠の希望がある。

救い主イエスは人を罪の奴隷から救い、罪の力から救ってくださるばかりか、究極的には罪の存在から救ってくださる。

イエスを主と信じた者は、最早かつての所有者であった罪の奴隷ではないが、罪の法則に影響され、信者は今なお悩まされる。しかし、助け主聖霊が来られた。罪の法則を破る命の霊の法則により、聖霊に依り頼む者に勝利の生活が、主イエスによって保証される。

だが、私たちが待望するのは、「然り、私は直ぐに来る」と約束される主の再臨、それによってもたらされる慰め、慰安、回復、生気一新の時に違いない。絵に描いた餅ではない。旧約に約束されるキリスト初臨の333の預言が、一つ残らず成就したのであれば、キリストの再臨の実現の確実さは圧倒的である。

主イエスの御名を信じる信仰によって起こった、生まれつきの足の萎えた乞食の癒しの奇跡は、慰めの時の告知の力強いしるしでもある。私たちの日々に経験される主の御名とみ言葉の確かさもまた再臨のしるしではないか。

神は約束を守られる真実な方であり、その裏付けにより、慰めの時の訪れを私たちが待望することが当然とされた。「悔い改めて立ち帰りなさい。こうして・・・」という使徒ペテロの勧告は、イエスの再臨の実現の時が、私たち人間の悔い改めで促進されることを意味する。罪を離れて生ける神に立ち帰り、敬虔に生きる生活、主の業、すなわち良い行いに努めることが再臨を促進する。

「全ての人々に何もかもはできなくとも、誰かに何かはできる」が、世界中の貧困児童救済の輪を331万人まで拡大したワールドビジョンの創始者ピアスを動かした動機であった。その労苦は何であれ、主にあって無駄ではない。

116日礼拝説教

「神に不可能なし」  創世記18章9〜15節

アブラハムは凝乳と乳、そして調理された子牛を運んで来て、彼らの前に出した。木陰で彼らが食事をしている間、彼はそばで給仕をした。

彼らはアブラハムに「あなたの妻のサラはどこですか」と尋ねた。アブラハムが「その天幕の中にいます」と答えると、彼らの一人が言った。「私は必ず来年の今頃、あなたのところに戻って来ます。その時、あなたの妻のサラには男の子が生まれているでしょう。」

サラは、その人の後ろにある天幕の入り口で聞いていた。アブラハムとサラは多くの日を重ねて年を取り、サラには月経がなくなっていた。サラは心の中で笑って言った。「老いてしまった私に喜びなどあるだろうか。主人も年を取っているのに。」

主はアブラハムに言われた。「どうしてサラは、自分は年を取っているのに本当に子どもを産むことなどできるのか、と言って笑ったのか。主にとって不可能なことがあろうか。私があなたのところに戻って来る来年の今頃には、サラに男の子が生まれている。」

サラは怖くなり、打ち消して言った。「いえ、私は笑っていません。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」

 アブラハムとその妻サラが、三人の旅人を迎えた出来事は、見えざる唯一の神が人間に人の形で出会われるという驚くべき真理を明らかにする。アブラハムはそれとも知らずに旅人をもてなしていた。「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」人間の形による神の顕現の極致は、処女マリアから生まれたイエスであった。イエスを見た者は父なる神を見る恵みに預かった。

イエスの昇天後、神はキリストの体である教会により、見える形でご自身を啓示される。何時か、何処か、誰かキリスト者より人は神と出会う。これこそ現代の不思議な現実である。

三人の旅人の土産は、99歳のアブラハムと89歳の妻サラに子供が一年後に誕生するとの告知であった。信仰の父と言われるアブラハムは声に出して笑い、サラは心の中で笑った。それは神の祝福に対する不謹慎で不信仰な最悪の反応であった。「天が地よりも高いように、私の道はあなたがたの道より高く私の思いはあなたがたの思いより高い。」神の思いと人間の思いは隔絶している。だが、神は人の信不信にかかわりなく、ご自身の語られた言葉を、雨が地に稔りをもたらすように、必ず実行なされる。

二人に対する子供誕生の告知は、一年後に見事に成就し、サラはその胸に男の子イサクを抱くことになった。イサクとはヘブライ語で「笑い」を意味する。不遜なアブラハムの笑いと苦渋のサラの笑いを神は喜びの笑いに転じて下さった。私たちも置かれた状況が思わしくなくとも、真実で全能の神の約束にしっかりと依拠しよう。

聖餐を通じて主の受難を記念する時、ゲッセマネの園での「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。」とのキリストの祈りを想起しよう。杯で表現された十字架は、全人類の罪責の断罪処罰であった。全能の神が、この苦き杯を御子イエスの前から取り去ることだけはできない。イエスの罪の身代わりの贖罪無しに、赦しは無い。

父なる神が、私たちを赦し子とするため、御子を犠牲にされた愛に感謝しよう。