7月31日礼拝説教

「ありのまま行く」  伝道の書7章15〜22節

わたしはこのむなしい人生において、もろもろの事を見た。そこには義人がその義によって滅びることがあり、悪人がその悪によって長生きすることがある。あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。悪に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。あなたはどうして、自分の時のこないのに、死んでよかろうか。あなたがこれを執るのはよい、また彼から手を引いてはならない。神をかしこむ者は、このすべてからのがれ出るのである。

知恵が知者を強くするのは、十人のつかさが町におるのにまさる。

善を行い、罪を犯さない正しい人は世にいない。

人の語るすべての事に心をとめてはならない。これはあなたが、自分のしもべのあなたをのろう言葉を聞かないためである。あなたもまた、しばしば他人をのろったのを自分の心に知っているからである。

 伝道者は束の間の人生に、正義の敗北と悪徳の栄えを直視し、現実が必ずしも善人が報われ、悪人が罰せられる因果応報ではない不条理に生きる私たちに如何に生きるべきか打つ手を指南する。

「あなたは義にすぎてはならない」とは、自分の力と努力で正しくあろう、善人であろう、賢くあろうとする傾向を戒める。何故なら、その結果は自画自賛、うぬぼれとなり、他の人を批判し、裁き、軽蔑する危険性をはらむからだ。主イエスが『人をさばくな』と戒められるのもその理由に他ならない。一方で中には「悪に過ぎる」人があり身の破滅を招いている。

伝道者は勧告する理由を「善を行い、罪を犯さない正しい人は世にいない」と20節で明らかにする。人の目にはどうあれ、神の目に人は十分過ぎる程罪深いからであり、正しく賢くあろうとしても、それは自己満足に過ぎないのだ。「義人はいない。一人もいない」(ローマ3:10)。

「神をかしこむ者」はこれら両極端を避け、ありのままに行くことができるとの示唆は、キリストの十字架を仰ぎ、罪の赦しによる信仰義認に立つキリスト者に通じるものである。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。(ローマ3:23)」それは自己義認ではなく信仰義認である。

主イエスが「わたしについて来なさい」とあるがまま従うように招かれるのは罪の赦しを前提にしている。それゆえに、ただ十字架を仰ぎ、条件抜きに信じてありのままに行くことが可能なのだ。そこに、私たちを悩ます他人の自分に対する辛辣な言葉をいちいち気にしないで済むことができるようになれる恵みがある。人の悪口、中傷、批判は気になるものだ。ところが自分も他人を中傷していた前科を認める者は、相手を受け入れ寛容になれるのだ。

キリストにあって赦された罪人の自覚で、ありのままの姿で飾らず、背伸びせず、演技することなく信仰に生きるとき、この不条理な束の間の人生が豊かにされるに違いない。

7月24日礼拝説教

「時は充ち満ちた」  マルコによる福音書 1章8〜15節

わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」。

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。 1:13イエスは四十日のあいだ荒野にいて、サタンの試みにあわれた。そして獣もそこにいたが、御使たちはイエスに仕えていた。

ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。

 「時は満ちた」と言うとき、準備が整い、行動を起こす時期が到来し、機が熟したことだと私たちは知っています。主イエスは、公生涯の第一声で『時は満ちた』と宣言されました。それは神が人類の間で行動を起こされる特別な時の到来の告知です。それはアダム以来の人類を不当にも支配してきたこの世の君、サタンの領域に神がキリストにより介入することです。

聖書は人類の歴史の背後に目に見えない暗黒の支配者が、人間を神から分断し、罪の奴隷とし滅ぼそうとしている霊的事実を明らかにします。主イエスは悪魔の仕業を打ち壊す神の国の王として来られました。主イエスの行くところ、そこに義と平和と喜びが満ち溢れました。その究極の御業は十字架の贖罪死による罪の赦しの完成です。

信じる者は誰でも救われ永遠の命に入れられる新時代が到来したのです。それはまた悔い改めの時が満ちたことでもあります。主イエスが「悔い改めよ」とアピールするとき、自分の生活の方向を変えるべき時がきたということです。

神に背を向けた自分勝手な生き方を止め、神に立ち返る時がきているのです。「果たしてこのままでいいのだろうか?」と自問自答する心があるなら、今こそキリストにあって神に帰ろうではありませんか。まさに福音を信じる時がきているのです。

福音とはよきおとずれです。主イエスが福音です。イエスを信頼し主と心に迎え入れる時です。『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。』と自分の重荷を委ねあけ渡すように主イエスは私たちを招かれます。

神の国の到来を告知された主イエスが最初に成されたのは福音を宣べ伝える弟子の招きでした。漁師のペテロとアンデレが召されました。イエスは最初、肉体におられました。今や、人が福音を語るみ言葉にイエスはおられます。あなたがみ言葉を語ることにより神の国は現実します。

あなたは神の国に入れられたでしょうか。その祝福をみ言葉を語り出すことにより人々に分かち与えることにしようではありませんか。

7月17日礼拝説教

「賛美の衣を着て」  イザヤ6113

主なる神の霊がわたしに臨んだ。

これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、

わたしをつかわして心のいためる者をいやし、

捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、

主の恵みの年とわれわれの神の報復の日とを告げさせ、

また、すべての悲しむ者を慰め、

シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、

灰にかえて冠を与え、

悲しみにかえて喜びの油を与え、

憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。

こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、

主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる。

 私たちは、衣装に様々な機能があることを知っています。

 今日、私はカラーワイシャツ着用していますが、これによって私が教会牧師であることを示しています。これは象徴的な機能と言えるでしょう。更に、護身的機能が衣服にあることは説明不要なくらいです。

 聖書では、使徒パウロとシラスのピリピの賛美経験がよく知られています。

 第二次宣教旅行途路、囚われ鞭打たれ投獄された二人が、暗い獄中でしたことは賛美し祈ることでした。「真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。」その結果何が起こったか?大地震です。鉄の扉は開き、彼らは解放されることになりました。

 賛美には優れた護身機能があるのです。カラテや武術が護身術としてあるでしょうが、それに勝る護身術とは賛美することなのです。

 更にまた、賛美の衣には装飾美機能があるということです.私は教会玄関前の鉢植えの花に感動しました。この炎暑の夏にも関わらず天に向かって見事に全開し咲き誇っているのです。美しい彼らは一体何をしているのでしょうか?人によってその説明は違うでしょう。だが、花々は皆、偉大な創造者、神を賛美しているに違いないと私は確信します。教会は神の花園です。

 人が神を賛美することは神の目に美しいのです。今日も賛美チームが立派にリードしてくれました。彼らのように上手に歌えなくてもいいのです。メロディをつけられなくても賛美の言葉で主をほめたたえればよろしいのです。主はすでに「賛美の衣」を私たちに与えておられます。

 詩篇150篇では、誰でも直ぐに気づくことがあります。それは『主を賛美せよ』との呼びかけがいたるところに散りばめられて歌われていることです。

 主は、十字架で私たちの憂いの心を引き受け、賛美の衣を与えられたのです。賛美の衣には素晴らしい象徴的、護身的、装飾的意義があります。

 今週も生活の狭間で敵が待ち受け、私たちを失望落胆させようとするでしょう。その時、とにかく主を賛美することにしましょう。

710日礼拝説教

「気づき無くとも」  ルカ23章32〜38節

さて、イエスと共に刑を受けるために、ほかにふたりの犯罪人も引かれていった。されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。兵卒どももイエスをののしり、近寄ってきて酢いぶどう酒をさし出して言った、「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。イエスの上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札がかけてあった。

 キリストは極刑の十字架に二人の強盗に挟まれ磔にされました。「父よ。彼らをゆるしてください。」これは十字架上で語られた最初の言葉です。そして赦しの理由として「彼らは何をしているのかわからないのです。」と祈られました。キリストが赦しを祈られた「彼ら」とは誰のことでしょうか。足下では4人のローマ兵がキリストの所持品をくじ引きしていました。彼らは自分たちのしていることを分かっていたでしょう。職務として犯罪者を処刑したのであり、くじ引きしたのはその役得です。そこには民衆、役人、兵卒、二人の極悪人がおり、それ以前にもイエスを裏切ったユダ、逃亡した弟子たち、イエスを逮捕した役人たち、議会で断罪した大祭司、イエスを嘲弄したヘロデ王、そして死刑を宣告した総督ピラトがおりました。彼らは自分が何をしていたのか分かっていなかったでしょうか。そんなはずはありません。まともな人間であれば自意識があり全ての行為発言を分かった上で行うものです。しかし人の心を全て知りたもうキリストには、彼らの決定的な気づきの無さ、霊的な無知をご存知だったのです。彼らが不当に扱った方、イエスは人と成られた神です。イエスに対して成された言動全ては神に対するものです。そこにある無知、それは神を知らないことです。聖書の言う罪こそこの無知であり、神を知らず、神との断絶に他なりません。キリストはその罪を十字架上で全て引き受け、神の審判を受けられるがゆえに、父なる神に罪の赦しを取り成されたのです。キリストは神と人との間の唯一の中保者です。神はキリストのこのとりなしゆえに、全く気づきの無い者を無条件に愛され、全面的に受け入れてくださるのです。少しでも気づき、悔い改め、生活や態度を改めるから赦されるのではありません。ただ十字架を仰ぎ、神の無条件の赦しを受け入れるとき、気づき無くとも、そのままのあるがままを赦し、それによって人は救われるのです。これから預かろうとする聖餐において、ただその絶対的な恵みに感謝しようではありませんか。

73日礼拝説教

「子供たちのパン」  マルコによる福音書 7章24〜30節

さて、イエスは、そこを立ち去って、ツロの地方に行かれた。そして、だれにも知れないように、家の中にはいられたが、隠れていることができなかった。 そして、けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏した。この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生れであった。そして、娘から悪霊を追い出してくださいとお願いした。イエスは女に言われた、「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。すると、女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。そこでイエスは言われた、「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」。そこで、女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

 主は、国外のティルス地方に移動すると、その娘が悪霊に苦しむフェニキアの女から娘の癒しを懇願された。それに対し「まず、子どもたちに十分に食べさせるべきである。」と告げ、続けて「子どもたちのパンを取って、子犬に投げてやるのはよくない。」と素気無く願いを退けられる。聖書には、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」とイスラエルが神の子だと証言されている。彼らには神に愛され、保護され、養育され、嗣業を約束される権利があった。主が「まず、子どもたちに」と言われる時、神の経綸では選民であるイスラエルが優先されることが意味された。彼らが神の子とされた条件は、彼ら自身には何もなく、ただ一方的な神の選びだった。神は一人アブラハムを選び出し、歴史の行程で神の民を形成された。実はそこに、アダム以来の罪により堕落した全人類救済のため、この民からメシアを送り出す計画が込められていた。そして感謝すべきことに、主イエスの到来で救いが成就した結果、神の子となる全く新しい条件が開示された。それは御子を信じ受け入れる信仰である。主は「ご自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与え」られる。それは霊的な誕生である。気の毒な母親が嘆願した時には、彼女は子犬であり異邦人であった。だが、彼女が「主よ。食卓の子犬でも、子供のパン屑はいただきます。」と謙遜に信仰を持って食い下がった瞬間、彼女は神の子とされ、子どもたちのパンに預かる特権を得ることができたのだ。主は「その言葉で十分です。」と信仰に即応え、娘は完全に癒されることとなった。パンは人の必要の全てを象徴する。主の祈りで「日毎の糧を与えたまえ」と祈る糧の原語はパンである。日々の必要の一つには病気の癒し、悪霊抑圧からの解放が確かにある。可愛い娘が解放され瞬時に癒されている。今現在、神の子とされた我らにも「私は主であってあなたを癒す者である」と主は約束しておられる。信仰を行動に移し病者のため祈ろうではないか