ましょう﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽6月28日礼拝説教(詳細)

  「共に生きるとき」  伝道の書4章1〜12節

  1. わたしはまた、日の下に行われるすべてのしえたげを見た。見よ、しえたげられる者の涙を。彼らを慰める者はない。しえたげる者の手には権力がある。しかし彼らを慰める者はいない。
  2. それで、わたしはなお生きている生存者よりも、すでに死んだ死者を、さいわいな者と思った。

  3. しかし、この両者よりもさいわいなのは、まだ生れない者で、日の下に行われる悪しきわざを見ない者である。

  4. また、わたしはすべての労苦と、すべての巧みなわざを見たが、これは人が互にねたみあってなすものである。これもまた空であって、風を捕えるようである。

  5. 愚かなる者は手をつかねて、自分の肉を食う。

  6. 片手に物を満たして平穏であるのは、両手に物を満たして労苦し、風を捕えるのにまさる。

  7. わたしはまた、日の下に空なる事のあるのを見た。

  8. ここに人がある。ひとりであって、仲間もなく、子もなく、兄弟もない。それでも彼の労苦は窮まりなく、その目は富に飽くことがない。また彼は言わない、「わたしはだれのために労するのか、どうして自分を楽しませないのか」と。これもまた空であって、苦しいわざである。

  9. ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。

  10. すなわち彼らが倒れる時には、そのひとりがその友を助け起す。しかしひとりであって、その倒れる時、これを助け起す者のない者はわざわいである。

  11. またふたりが一緒に寝れば暖かである。ひとりだけで、どうして暖かになり得ようか。

  12. 人がもし、そのひとりを攻め撃ったなら、ふたりで、それに当るであろう。三つよりの綱はたやすくは切れない。

今日開かれた聖句から、分かってくることがあるのです。それは、我々人間は道徳性ばかりではなく共同性を持つ生き物、つまり、共に生きる存在であることです。我々人間が神により創造されたことは、創世記1章が語ることです。その27節に重要な一言があります。「すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」人間が男女に造られたことです。この男女であることが神の似姿だというのです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown-3.jpegこれは神が男女だということではない。そうではなく、神が複数の人格を持った存在だということなのです。私たちは神を唯一の神と信じます。しかし、唯一の神が三つの神格を持つ神、即ち三位一体の神であると信じているのです。父なる神、御子なるイエス、聖霊なる神、三つの人格を有する神と信じております。人間のアタマでは非常に理解し難い。よくよく考えると狂ってしまう程です。だが、聖書はそのように啓示するので、そのまま私たちが信じるのです。父、御子、御霊が一つとなって交わり存在しておられる!それゆえに人間もまた複数で共に生きるよう造られたのだ、と聖書は教えるのです。

 先週日曜日6月21日に珍しい金環日食が観測されました。ご覧になったでしょうか?日本では部分日食だが、アフリカ、インド、中国、台湾では皆既日食が観測されたと言われます!月が太陽を遮るから起こる現象です。珍しい美しい、だが、本来の太陽ではない!

 私たちは今日、太陽ならぬ太陽の下の人間の実態を、伝道者が観察した結果報告を1節〜8節に聞きます。それによるとどうでしょう、観察した人間の現実は、何とも異常な実態だと伝道者は報告するのです。共に生きるよう造られたはずなのに、人間は全く共に生きているとはどうしても思われない、と伝道者は言うのです。そこで彼が5つの異常な実態を報告しているので順次簡略に見てみましょう。

1 虐待の行為  1〜3節です。

1節「わたしはまた、日の下に行われるすべてのしえたげを見た」と。その観察した異常な実態の第一は虐げです。抑圧、搾取、虐待です。虐待される者がいるのは虐待者がいるからです。「しえたげる者の手には権力がある。」人の手にある力そのものは決して悪いものではありません。その与えられた力を人が濫用し、それによって人が人を虐待する。虐げる!暴力を振るい、金を搾り取り、組織力で人を抑圧する。

目に余る虐待が至る所にある!アメリカで、人種差別主義の警官が黒人を逮捕した際に、首を絞めつけて殺してしまった!それを見ていた3人の警官も止めようとはしなかった!これは典型的な虐待です。これは氷山の一角にすぎません。人が人を虐げる!それは異常な実態だと伝道者は言うのです。

伝道者が「しえたげられる者の涙」を観察する時、更に悲しい事実を報告します。 虐げられ泣き寝入りする人の涙を「慰める者がいない」と言うのです。それが二回繰り返される。それは虐待の悲惨さの強調です。伝道者は、虐待の目に余るその惨たらしさを見て言うのです、「それで、わたしはなお生きている生存者よりも、すでに死んだ死者を、さいわいな者と思った。」虐待される生存者より死んだ人がましだと言います。いや、更に比較して、生まれない者の方が幸いだ、とまで言うのです。生まれなければ苦しまなくて済むからです。

2 嫉妬の行為  4節です。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown-5.jpeg 第二の実態は4節、嫉妬です。「また、わたしはすべての労苦と、すべての巧みなわざを見たが、これは人が互にねたみあってなすものである。」「すべての労苦と、すべての巧みなわざ」新改訳は「仕事の成功」と訳します。「才覚ある業」「成功した活動」とも訳されています。その労苦、巧みなわざ、それがどの分野、領域か特定されません。「すべての」労働、勤労、活動です。人は生きるために働く!働いて生きる!働くことは尊いことです。それがどんな職種、どのような企業、規模の大小を問わず大切な営みです。ところが例外なく、どのような職場にも活動の場にも、研究の場にも隠れた歪みがあると!それは「妬み」だ、嫉妬だと!伝道者は単刀直入に切り込みます。これは鋭い観察力ですね。労働、活動、成功の裏にある動機は嫉妬だと言うのです。

他人との競争心、ライバル意識だと言うのです。嫉妬とは、「他人が自分より恵まれている、すぐれていることに対して、うらやみねたむこと」です。急いで人を追い抜きたいという競争への著しい衝動が現に人間の背後にはあると言うことなのです。

3 怠慢の行為  第三の実態は5節です。

 伝道者が観察したのは怠慢です。「愚かなる者は手をつかねて、自分の肉を食う」「手をつかねる」とは手を組むこと、手を腕組みすること、手をこまねくこと、つまり自分から何もしないこと、怠慢です。箴言6:6〜11節には、蟻(あり)に学べと怠慢が警告されている。「なまけ者よ、いつまで寝ているのか、いつ目をさまして起きるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む。それゆえ、貧しさは盗びとのようにあなたに来り、乏しさは、つわもののようにあなたに来る。

競争社会で妬みあい生きるのと正反対です。勤勉に働く習慣を持たない人がいる、持とうとしない人がいるのです。誤解しないで下さい。何らかの障害で働けないことが認められ社会的に補償されている人々のことではありません。働きたくても働けない人のことではありません。定年退職で年金生活に入られた方々のことでも全くありません。そうではなく、怠け者のことです。共に生きることを保留し、依存することに慣れきった人のことです。「自分の肉を食う」とは ヘブル的表現です。食べ物がなく自分の肉を食う。自分を破壊することを意味する言い方です。これもまた社会の現実であることに間違いありません。

4 過労の行為  6節です。

 伝道者の観察の第4番目は6節、それは休息の無い過労です。「片手に物を満たして平穏であるのは、両手に物を満たして労苦し、風を捕えるのにまさる」「両手に物を満たして労苦」するとは、貪欲に生きる比喩で過度に働きすぎることです。「片手に物を満たして平穏である」とは富を追求せず慎ましい生活で満足することです。「両手に物を満たす」やたらと多くを手に入れようとすることです。怠慢の逆で過労の戒めです。勤勉と言えば聞こえがいいのですが、過度の働きは虚しいと言うのです。伝道者が見たのはこの休み知らずの過重労働です。

5 孤独な行為  7〜8節です。

 最後の観察結果は、一言で言えば孤独です。最初の出だし「ここに人がある」の他訳はこうです。「一人の男があった、ひとりぼっち、そこに孤独な男がいた、一人の人が」これらの訳からこの男が孤独と分かります。それを補強するように「ひとりであって、仲間もなく、子もなく、兄弟もない」と続きます。「仲間もなく」仕事仲間がいないこと。「子もなく」独身暮らしということ、「兄弟もない」身寄りがないことです。

孤独の由来は中国の孟子の教えから来ているようです。「老いて妻なきをという。老いて夫なきをという。幼くして親なきをという。老いて子なきをという。」そこから四文字で鰥寡孤独(かんかこどく)という。しかしこの孤独とは違います。「その目は富に飽くことがない」そればかりか「わたしはだれのために労するのか、どうして自分を楽しませないのか」と自問自答もしない。そこから見えてくるのは、この男は「素朴な日常の楽しみや喜びも知らない人、徹底した利己主義者で、意味ある交わりのあらゆる形態と絶縁するタイプ」だということです。 

ここに挙げられた虐待する人、嫉妬深い人、怠慢な人、休み知らずの過重労働する人、利己的で孤独な人、古今東西変わりありません。伝道者が観察した太陽の下の人間模様は、共に生きるよう神に似せて造られた人間のねじれ現象なのです。それを伝道者は「空(くう)の空(くう)」というのです。虚しい、意味がない、というのです。それは共に生きる人間の姿ではありえない。共に生きようとするならそんなはずがない、それは空しい「風を捉えるようだ」掴み所がないのです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images.jpeg そこで、この伝道者の観察報告を聞いた上で、続く9〜12節を読むときに、改めて人が「共に生きること」の何たるかを見せられます。ここで伝道者は、本来の人間のあり方を結論として「ふたりはひとりにまさる」と言うのです。最初に人間は神に似せて男女に造られたと言いました。

それからするとこの「ふたり」は結婚した男女と考えられやすいのですが、結婚男女に限定されるものではありません。結婚式の祝いの言葉によく引用されるのもわかる気がします。しかし、あらゆる人間の営みに適用される言葉でもあることを覚えておきましょう。

彼らはその労苦によって良い報いを得るからである」二人が、それが誰であれ、仲良く一致協力し、共に生きようとするなら、良い報いがある、それはこうだ、と伝道者は三つ挙げています。

1 倒れる時助け起こされる 

 10節「すなわち彼らが倒れる時には、そのひとりがその友を助け起す。しかしひとりであって、その倒れる時、これを助け起す者のない者はわざわいである

倒れる」これは二人のどちらか一人が、穴に落ちいる、石につまづいて倒れる、あるいは滑って倒れることです。仕事の上で失敗するとか,苦境に立つことを指す言葉です。その時、まさにその時、仲間がいる、友がいる、それは幸いなのです。ダビデとヨナタンの友情は聖書でもよく知られた間柄です。ヨナタンはダビデが仕えたサウル王の息子ですがダビデを尊敬し、ダビデの陥った苦境を何回も助け起こしたことが知られています。ヨナタンの助けがなければ後のダビデはあり得なかったに違いありません。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown-2.jpeg2 一緒に寝れば暖かい

 11節「またふたりが一緒に寝れば暖かである。ひとりだけで、どうして暖かになり得ようか」これもまた、結婚生活と解釈されることが多いが、そればかりではありません。NHKEテレで「コヘレトの言葉」講座を担当される小友牧師は、コヘレトが生きた時代、ギリシャ帝国と戦ったユダヤ人兵士たちのことを想定し、「兵士たちが寒さをしのぐために戦場で身を寄せ合うことを意味する」と解釈しています。あるいはまた、イスラエルでは日中暑くなるが,夜になると急激に寒くなるので,旅人が寒さに対処するための生活の知恵なのかもしれない。「いや、現代では電気シーツや電気毛布があるから心配ありません」と言うのは野暮な発言です。

3 敵に対処する時有利

 12節は第三の理由で、「人がもし、そのひとりを攻め撃ったなら、ふたりで、それに当るであろう」「敵に対処する時有利」であると言うことです。「ひとりを攻め撃ったなら」これは軍事的な表現です。あるいは旅の途上で強盗に襲撃されることかもしれません。ルカ10章30節にはエルサレムからエリコへの途上で強盗に半殺しにされた旅人が出てくる。彼は一人単独の旅行だったから襲撃に持ちこたえられなかった。

 その上で、伝道者は一つの比喩的表現で締めくくるのです。13節の最後「三つよりの綱はたやすくは切れない」あるいは「三つ撚りの糸は簡単には切れない。」これは二人よりも更に三人ならなお力強いことを言おうとしたのかもしれません。

 これに関連した資料にユニークな解説があったので紹介しておきましょう。「三つ撚りの糸は簡単には切れない」そこには神の秘密が隠されていると言うものです。その秘密は「男」と「女」を表わすヘブル語の文字の中に隠されていると言うのです。男はヘブル語で「イーシュ」(אִישׁ)、女はヘブル語で「イッシャー」(אִשּׁה)です。男と女を表わすヘブル語をよく観察すると、相手にあって自分にはない文字といえば、女の場合は「ヨッド」(י)で、男の場合は「へー」(ה)という文字です。 その二つの文字を合わせると「ヤー」(יָה)となります。つまり、男と女が一体となることで、主の名前を表わす「ヤーハ」(יָהּ)という文字がそこに存在するようになります。「ヤーハ」(יָהּ)とは神聖四文字であるיהוהを略した形で、「主」という神の固有名詞です。しかしその「ヤーハ」(יָהּ)が抜け落ちると、そこには「エーシュ」(אֵשׁ)しか残りません。「エーシュ」(אֵשׁ)は「火」を意味することばです。ということは、「ヤーハ」である主が「男」と「女」との間に存在しなければ、その関係はお互いを焼き尽くす火ともなり、二人の関係は大変なことになることを物語っています。「火」は聖書においては神のさばきと関連しています。その意味では、夫婦という二つの糸ともうひとつの糸であるによって撚られる「三つ撚りの糸は簡単には切れない(切れにくい)」のです。

 しかし、男と女の間に主なる神に入っていただくのは、結婚における男女関係に限りません。2〜8節の虐待、嫉妬、怠慢、過労、孤独の原因は、人と人との間に神が不在だからです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images-1.jpeg この「三つ撚りの糸は簡単には切れない」の最も優れた理解は、主イエスのお言葉そのものです。マタイ18章19,20節、『また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである』主は約束して言われる、「ふたりが、・・・・心を合わせるなら」その祈りに父が答えてくださる。更に、「ふたりまたは三人が集まっている所に」主イエスご自身がいてくださる。

 我々、人間だけでは共同したくてもできないのです。世界中至る所で悲しいことに観察できるのは分裂であり対立であり反目なのです。そこに主イエスは来てくださったのです。平和の君として、人と人の間に立ち、人と神との間に立つ方として。このお方を我々の間に迎え入れる時に、我々は「共に生きること」が可能となるのです。主と共に三つ撚りの糸とされるからです。

教会はキリストを頭(かしら)とする信仰と愛の共同体なのです。共に生きる集まりなのです。キリストを一人一人の心に迎い入れ、愛により撚り合わされて初めて共に生きることができる、そう言う共同体なのです。その時、初めて我々は人を虐げることをしなくなるでしょう。人を妬むことをしなくなるでしょう。人を避けて孤独にならなくなるでしょう。むしろ、虐げられている人を慰め、倒れている人を助け起こし、優れた人を尊敬し、心の冷え切った人を温めることができるに違いありません。

621日礼拝説教(詳細)

  「予定と自由の狭間」  伝道の書3章16〜22節

わたしはまた、日の下を見たが、さばきを行う所にも不正があり、公義を行う所にも不正がある。わたしは心に言った、「神は正しい者と悪い者とをさばかれる。神はすべての事と、すべてのわざに、時を定められたからである」と。

わたしはまた、人の子らについて心に言った、「神は彼らをためして、彼らに自分たちが獣にすぎないことを悟らせられるのである」と。人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息をもっている。人は獣にまさるところがない。すべてのものは空だからである。みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。

だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを。それで、わたしは見た、人はその働きによって楽しむにこした事はない。これが彼の分だからである。だれが彼をつれていって、その後の、どうなるかを見させることができようか

私たち夫婦が楽しみにしている一つにNHKの朝ドラがあります。ご存知のよう、連続ドラマは古関裕而の生涯を描いたストーリーですだが、先週、二日連続して妻の死んだ父が、頭に三角巾姿で登場する。娘や妻には見えるが他人には見えない設定。滑稽でしたね。そこで私が思い出したのが近松門左衛門の芸術論です。「虚実皮膜論」昔高校で習ったことですね。「芸の真実は、芸術的虚構(=フィクション)と事実との間の微妙なところにあり、写実だけではなく、虚構があることによって芸の真実みが増すというもの」。朝ドラはその芸術論そのものですね。そこで翻って礼拝の説教はどうでしょう。説教もそうでしょうか?虚実皮膜でしょうか? 説教も事実と虚構の混じり合った芸術作品なのでしょうか? ここで絶対「アーメン」と言わないで下さいね。違うのですから!全く違うのですから

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown-5.jpeg 今日も伝道の書3章が開かれていますが、読んでいて虚実皮膜ならぬ「予定と自由」の信仰教理が浮かんで来ました。3章は時間がテーマです。2〜8節に28の時が振り子時計のように繰り返される、その時に生じる出来事は全部、我々人間の経験です。ところが、私たちは先に読み進む時に、その時を貫いて神が働いておられることが分かってくるのです。しかも、神の業は時に適っている、人には見極めきれない、永遠であり、付加削除不可能である。ですから、ここから見えてくるのは神の確固たる予定であり、と同時に人間の自由ではないでしょうか。もし神が絶対的に事を予定されるなら、人間は運命で全てが決まっているのか?決定論に支配されているのか。それでも現実には私たち人間は、勝手気儘、自由奔放に生きているではないか、行動していないか? そういう意味で今日の説教題は「予定と自由の狭間」となった次第なのです。

 こういう狭間に生きる人間を考えたからでしょうか、昔の詩人がこう歌うのが思い出されます。「わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。」(詩篇8:3、4)皆さんもそう思いませんか。「人間とは一体何者なのか」今日は、この箇所より人間の5つの特性を取り上げ、話を進めたい。

 それは第一に人間は何かに全くそっくり似ている事です。「そっくりさん」とよく言いますね。調べたら「そっくりさんアプリ」がある。自分の写真を撮ってからジャンル別に検索がスマホでできるのですね。聞いたところでは、自分にそっくりさんが世界に5人はいるらしいですね。会ったことがありますか? 伝道者は、ここで、私たち人間が何かに似ていると言う。いやそっくりだと言います。何に? 誰にでしょうか? そうです、なんと獣になのです。これはショックですね。少し言い過ぎではありませんか。彼は言うのです、「神は彼らをためして、彼らに自分たちが獣にすぎないことを悟らせられるのである」別訳「動物に過ぎない、動物と同じだ、獣と変わらない、実際動物である」 どう訳しても意味は同じです。我々人間は動物だとはっきり言うのですよ。「アーメン!」ですか?

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:kiji1Img.jpg ウイ—ンに行く準備で6ヶ月間、沖縄を皮切りに教会訪問で日本縦断したが、最後は北海道。旭川市で牧師が名刺をくれた。その半分は動物写真。曰く、「是非、旭川動物園を見て欲しい」と。ご存知でしょう。小さな地方動物園、潰れかかり閉園に追い込まれていた。ところが、職員が奮起し再生案を提出し、作り直したのです。それが結果的に受けたのですね。入場者数が上野動物園を超えるまでになった。何故か、動物の生態を見せるのに実にユニークな発想で園舎を改造したからです。感動して忘れられないのはオランウータンです。円形の広場の真ん中の柱に園舎からロープを伝って渡りオヤツを食べさせるシーンを観客は目の当たりに見せられる。それは圧倒的な迫力でしたね。大きな毛むくじゃらの巨体の獣、ムシャムシャとバナナを食べるのです。ああしかし、大勢の観客の誰がこの巨獣と自分が同じだと知っていたでしょうか?

 では人間が動物だとする証拠があるのですか? 彼ははっきり「ある」と言う、紛れもない証拠はこれだと!19節です。読んでみましょう!「人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息をもっている。人は獣にまさるところがない。すべてのものは空(くう)だからである。そうです。動物である証拠の第一は人間も動物も死ぬことです。第二は、動物も息している。生きているから。人間も息している。吸っては吐いている成分は同じです。酸素を吸い、二酸化炭素を排出する。動物の体の成分も、人間の体の成分も何ら変わることはない。第三の証拠、それは両者とも束の間生きるからです。「すべてのものは空(くう)だからである。」結構長生きする動物がいます。象は60〜80年、鯨は200年生きるのもいると言われる。それでも束の間の命に変わりありません。人間は70、80歳、長くて120歳です。束の間なのです。

 長男が高校生の時、今は牧師しているがいつの間にか捨て猫を無断で自室で飼い始めた。とうとう母親にバレたが、許可され、彼は無性に可愛がる。だが、等々病気になってしまった、虫の息、病院に運ぶ途中、抱き抱えていた猫が死んだ時の彼の嘆き様、オイオイそれは可哀想だった。 ペットブームで愛玩動物の数は凄まじい、2年前の統計、「全国の推計飼育頭数 :8903千頭、猫:9649千頭」飼育する人は分かっている、猫や犬は自分も人間と思いこんでいることだ。私は、床屋さんから「メダカ」を貰って飼育しているが、娘が餌やり始めてから、メダカまで人になつくことが分かった。餌を求めて集まってくるのだ!メダカまで人間と思い込んでいるのではないかと思う。だが、誰が我々の誰が「自分は動物だ。全く同じ獣だ」と真面目に真剣にしっかり思い込んでいる人がいるだろうか。しかし知ってください。人は獣なのです!

 ところが3章は動物との同似性で終わっていない。人間にはもう一つの特性があると!それは被造性なのです。人間は神によって創造された被造物だと言うことです。20節を見てください。「みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。」これは明らかに創世記2章7節が背景なのです。そこには人間が神に造られたと、はっきり書いてある。(2:7)「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」ここに人間は神が造られた被造物であることが明示されています。創造の秩序では人間は6日目に造られる、その同じ日に動物も造られたのです。そこで動物は「生き物」と呼ばれ、その点では人間も「生きた者」で変わりがないのです。同じ日に造られ、同じ生き物同士なので、だからこそ人間は動物に親しみを覚えるのでしょう。ペットに立派な上着やスボンまで着せる飼い主の心理が分かる様な気がしますね。

 ところが、この真理、人間が神の被造物だ、被造性を有すると誰が知っているでしょうか。誰が真剣に認めますか。皆さんの周囲の人に尋ねてみてください。「人間はどこから来たのでしょうね?」と。殆どの人は「進化したのですよ!」と。中には「前世が良かったから!」と。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:Unknown.jpeg 最近、安藤和子理学博士の「ダーウイン・メガネをはずしてみたら」を読了して痛快であった。安藤博士は大阪大学理学部で生物科学専攻、その後東大大学院博士課程で理学博士を取得されたれっきとした生物科学者です。米国に5年留学、研究所に勤務し、やがて阪大で生物学部長を務められた。その時点で当然のことですが、徹底した唯物論者、進化論者だったそうです。確信して疑うことがなかった。ところがある日、晴れ渡った日に庭先でカタツムリを踏みつけてしまった。その時、何故か彼女は命の愛おしさに圧倒されたそうです。それから、命とは何か考えざるをえなくなる。1980年代に、世界中で人間の遺伝子数が解明できると沸いたことがあります。遺伝子の構造が螺旋状であることを誰でも知っています。今現在、人間の遺伝子の数が21306個だと分かっています。安藤さんもこれで人間の生命の神秘は解明できると期待したそうです。ところがその結果は案に相違し、生命の奥はむしろ一層深く、理解し難くなってしまったと言う。

安藤博士がもう50歳を過ぎた頃、宗教嫌いで徹底した彼女の家に、郵便受けの一枚のチラシに目が止まる、普通は丸めて全部捨てるのだが。それはある教会の礼拝案内チラシ!マザーテレサを尊敬し、キリスト教には好意が無いわけではなかった。「行ってみようかな」と思い、行動に移すまでに3ヶ月かかる。毎週入るチラシが気になり、ある日曜日到頭出席したのです。彼女の行動は徹底していました。午前出席し、それから他の教会の午後の集会、夜の集会に、そして水曜日の祈祷会にも出席した。早く結論を出したかったからだそうです。そして2ヶ月が経過した時です、「私が求める答えをキリスト教は提供しない」と結論を出し、その日、教会に別れを告げるために家を出たのです。その時でした、何が起こったか、そのまま引用します。『「私は神である。何故そのことがわからないのか!」家を出て直後、声が聞こえた。神様の声を聞いたと言うと、気が狂ったのかと言われる。どの様に聞こえたのか、昔々のことであるので、段々記憶が薄れてきている。しかし、声が聞こえたのである。『はい!そうですね』と、考える前に私は返事をしていた。その瞬間、驚いたことには、私の眼から滝のように涙が溢れ出たのである。そして、私の身体は地上にフワーと舞い上がり、全身優しい光に包み込まれ、目の前の光そのものとしか描写できない空間に軽やかに舞い降りた。爽やかな涙は、延々と流れ続けて止まらなかった。男性より遥かに涙を抑え、頑なに神を拒み続けて頑固な無神論者の私が、一瞬にして目からウロコが落ち、全宇宙を、地球を、人間を創造した全知全能の神を信じる信仰者、クリスチャンに生まれ変わった瞬間である。』

 それでもこうも書いて言います。『さて、信じた直後は、自分のそれまでの人生全てを否定されたようで、大混乱に陥った。無神論者として進化論を前提に研究してきたこと、構築してきた人生哲学、世界観、それらすべてが180度覆され、否定され、捨て去らねばならないと思ったからである。』それは、安藤博士の危機体験でした。しかし、彼女は目からダーウインのメガネを外したのです。見るべき目で真実を見ることができたのです。生物化学者の安藤博士は、人間が神によって創造された被造物であることが分かったのです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images-2.jpeg そればかりではありません。この3章は私たち人間がなんと神に似せて造られたこと、すなわち神との近似性を指し示しているのです。16節ご覧ください。「わたしはまた、日の下を見たが、さばきを行う所にも不正があり、公義を行う所にも不正がある。」「さばきを行う所、公義を行う所」どう言う場所ですか? 言い換えれば裁判所、国会、そう言い替えれば分かりやすいでしょう。裁判所に不正が、国会に不正が!そう言われれば、何か現代的な問題の指摘に聞こえてきませんか。

今国会で成立しなかった案件に政府提案の「検事の任期延長」がありましたね。検事の定年は63歳だが、政府が延長できるとする。だが、その最中に5月21日発売の週間文春が暴露記事を掲載、それが東京高検の黒川検事長の賭け麻雀です。5月1、13日に新聞記者の自宅マンションで賭け麻雀を、しかも、勤務時間外だったが、コロナ予防で「不要不急の外出は控える」よう呼びかけられている最中での不祥事。野党は一斉に辞職要求になった。政府は黒川検事長を検事総長に押したかった。だが、現総長が任期2年を残し、退職勧告を拒絶。そのため、63歳の黒川検事の定年を延長し、やがて総長にする計画だった。だが、黒川検事の些細な不正行為によって辞職に追い込まれてしまったのです。 検事とは法廷で犯罪被告人の罪状をあげつらい法に照らして訴追する職務でしょう。その中でもNO、2の検事長が賭け事をしかも自宅待機要請の最中にやってしまった。それは不正行為そのものなのです。立場が立場であったため、彼は失脚せざるを得なかったのです。 もっと露骨な不正は、広島県の河井元法務大臣、その妻で参議院議員の案理さん。選挙法違反で逮捕される。最初はマイク嬢への報酬問題だが、到頭、2千5百万円を買収でばら撒いたことが発覚。前代未聞の不正となる。法の番人である法務大臣経験者が不正を働く!

 不正を働くと裁かれるのです。これは何を意味するのか? これは人間が道徳的な存在であると言うことです。善悪を弁え判断して基準に従って生きることが求められる生き物、それが人間です。動物と同じ生き物なのに、動物と決定的に違っているのは、この人間の道徳性でしょう。猫が車の走る右側走ったからといって警官に逮捕されますか?聞いたことがありません。動物は本能に従って生きるだけなのです! その違いは何か、人間は神により創造され、しかも神に似せて造られたからなのです。その事実を語るのが創世記1章26、27節です。「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう。』神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」 神に似ているとは、神が道徳性を有するように人間も有するということです。神は義、聖、真実、善だからこそ、人間もまたその道徳性を備えられ、それに従って生きることが求められ、それに違反するときに、神は裁かれるということなのです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:images-3.jpeg 私たちの社会制度に裁判所があるのは、これによって社会秩序を保つためです。伝道者はその裁判所に不正を見ています。裁判所が不正を行うことがある。正義を曲げることがある。その裁判で裁き切れずに悪が放任されることもある。 だが、最終的には神の裁きがあるのです。17節「わたしは心に言った、『神は正しい者と悪い者とをさばかれる。神はすべての事と、すべてのわざに、時を定められたからである』と。」 その裁きを逃れうるものは一人もいない。そうです。そして、17節は「神はすべての事と、すべてのわざに、時を定められたからである」死んだ後に「裁きを受けることは決まっている。」2〜8節に18の出来事が描写されている!しかし、「裁きを受けるに時がある」というのです。それは人間が神に似せて造られ神に対して責任ある生き物だからなのです。

 そればかりか、人間のもう一つの特質が22節で明らかです。「だれが彼をつれていって、その後の、どうなるかを見させることができようか。」それは人間の未来性とでもいうべき特性です。ところが、伝道者の発言は未来の否定です。「その後の、どうなるか」すなわち人の未来は分からない!不確定だと言うのです。 21節でも、人間が獣と同じだと論じた後で言います。「だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを。」チリから造られチリに戻る点で同じだ。だが霊の行方は、その未来は分からない。誰も分からないと。 しかし、今、私たちは知っているのです。彼が「だれが彼をつれていって」と言うとき、私たちはその「誰」が誰だか知っているのです。主イエスキリストなのです。そこに紀元前、旧約時代に生かされた伝道者の限界があります。彼には啓示されていなかった。分からなかった、見えていなかったのです。しかし、神が約束された救い主イエスが来られました。神はそれによって、私たちが未来を展望できるようにしてくださったのです。 主は私たちに「その後の、どうなるかを」明らかにするため来てくださったのです。主ご自身「わたしの時」としばしば言われました。主イエスは、神の定めた決定的瞬間を知っておられたのです。その決定的瞬間、イエスの「わたしの時」、それが十字架の死だったのです。人の罪を赦し、永遠の生命を与えるために、キリストは犠牲となられた。そして三日目に復活されたのです。19節は「彼も死ぬ」と、動物が死ぬように人も死ぬと。しかし、主は言われたのです。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。」主イエスを信じる者には未来が開かれたのです。「その後の、どうなるかを」 誰が連れて行って見させてくれるのか? 主イエス様が連れて行ってくださるのです!ハレルヤ!私たちに未来は開かれているのです!死んでも生きるのです!

 最後の特性を見て終わりましょう。人間には同似性、被造性、近似性、未来性に加えて、もう一つの特性、現在性が備わっていることです。同じく、22節前半をご覧ください。「それで、わたしは見た、人はその働きによって楽しむにこした事はない。これが彼の分だからである。」伝道者は、ここまで、人間の実相を観察した結論をこう語るのです。すなわち、人間の人生が束の間の儚い、しかも動物と変わらない生き物であるなら、その現在を楽しむに越したことはない、と言うのです。何によって楽しむのか?「人はその働きによって」そうです、仕事、働き、勤労、労働によってなのです。 そのことについては、先週も少し触れたところです。そこに食い飲みもありましたが、ここではだが「働き」がテーマの中心です。労働に関してはそれだけでも語る内容は沢山ありますが、今日、ここでもっとも大切なポイントは、「これが彼の分だからである」にあります。別訳「人の受ける分、ふさわしい分」配分、分け前ということです。仕事は誰が人に配分するのか?会社なら人事課、日雇いであれば手配師とでも言うでしょう。しかし、聖書は神が一人一人に仕事を配分されると言うのです。配分者は神なのです。しかし、問題は、一人一人が本当に、これが自分に神が配分された仕事だと、どれほど弁えているかにあります。

 現在を生きる人間にとって大切なことは、仕事をし働きつつ生きることです。それによって互いに支え合い、共に生きることができます。人がそれぞれ自分の分を果たして働くことによって社会も文化も形成され発展していく、そう期待されるものです。

Macintosh HD:Users:takagikoichi:Desktop:5e724f61235c182d9e07226e.jpg このような理解を持って一つの問題提起となる文章を紹介したい。「福音と世界」の一文、「デービッド・グレーバーは新型コロナ危機が露呈した『通常』の異常さについて次のように述べている。『私たちは、これらすべてが終わったのち、それは夢に過ぎなかったのだと考えるように促されることでしょう。実に奇妙な出来事だったが、それは現実とは何の関係もない、今や目を覚まして、通常に復帰すべき時だ、というわけです。しかし本当はそうではない。通常こそが夢だったのです。今起こっているこのことこそが現実だった。これこそが現実です。』」 これは考えさせられる発言ではないでしょうか。ここ数ヶ月を私たちは普通じゃない、異常だ、緊急事態だと言い続けて来ましたね。そして、教会も通常の礼拝は中止する、今やっと通常の礼拝の現実に戻ることができたと喜んでいる。何が通常で現実で、何が異常で緊急事態、夢なのでしょうか?

 環境問題だけを取り上げてみて、実は驚くべき現象が起こっていたことが分かる。●中国の上空のスモッグが晴天になった。●インダス川の汚染が改善され口にできる。●ヴェネチアの運河が透明に。●自宅待機で人影ない街頭に野生動物が徘徊。と言うことは、この数ヶ月間こそ本来の姿、通常であって、コロナ災害が終わって、私たちが戻ろうとする「通常」こそ、異常である、夢である、と言うことではないか! それは何を意味するのか?人間の働きがどこかで、分を超えている!配分を超えて、人が余分に、分捕ろうとして働きかけた結果だと言うことです。どこかが狂っているのです。

 今日、私たちは世界の中で、ほんの少数者に過ぎません。しかし、真の意味で現在、自分たちの働き、仕事、勤務によって本当に、生活を楽しもうとするのであれば、真剣に自分の仕事を神からの配分だと自覚しなければならない、と言うことではないですか。通常どころではない異常な現在にあって、私たちのところから本当の意味で「通常」を回復していかねばならないのです。

「主よ。今現在、生かされている私は、あなたが配分なされる分を分け前とし、自分の仕事をなさせてください」と祈りましょう。

614日礼拝説教(詳細)

  「神の賜物を喜ぶ」  伝道の書3章10〜15節

わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。

わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。

わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。

今あるものは、すでにあったものである。後にあるものも、すでにあったものである。神は追いやられたものを尋ね求められる。

 ハレルヤ!緊急事態宣言が解除され、通常の礼拝は今日で二回目となりました!それは嬉しいことですね。しかし、何とも煩わしいことはマスク着用です!どこに行っても着用していない人は一人もいない!マスク、マスク、マスクです!マスクは容貌、顔立ちと言う意味がありますが、衛生用具、仮面、防具の意味もあります。皆さんは勿論、予防用に着用されていることでしょう!しかし中には牧師に自分の本性が分からないように仮面としている方がいるかも!もっと酷い場合には牧師に切り込まれても避けられるように防具として着用しているかもしれませんね!なんとか早くマスク無しで礼拝できるよう祈りましょう。

Unknown.png さて、今日、聖書箇所を読んでいただきましたが、「あれ!これは先週と同じじゃないか」と気づいた方いるかも!その通りです!でも驚かないでください!昔、アメリカにJohn Houと言う牧師が、ヨハネ3章16節から14回説教したと言う記録があります。そのヨハネ福音書を書いた使徒ヨハネにこんな逸話が残っています!

その日の説教題は「互いに愛し合いなさい」でした。次の週も同じでした。次の次も、そして、まだしばらく続いたのです。等々、堪りかねた役員が「ヨハネ牧師、どうか別の箇所から話してくださいませんか」と頼みました。すると彼はこう答えたと言われます。「あなた方が互いに本当に愛し合うまでは辞めません。」使徒ヨハネだから良かったでしょうが、もし私がこんなことをしたら早々に首ですよね。

3章13節をご覧下さい。またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。」賜物!辞書にはこう説明されています。 天や神からたまわったもの。「自然の−」② 他者から受けた恩恵 「私の今日あるは叔父援助の−だ」③ よいことや試練などの結果与えられた成果 努力の−」とすれば、13節の意味は当然第一であると分かりますね。

この箇所で間違いなく神の賜物だとされていることが三つあります。その第一の賜物は13節「食い飲み」です!思わず「ええ、本当ですか?」と言いたくなりませんか。そうです。本当なのです。「すべての人が食い飲みすることは神の賜物である。」聖書ははっきりそう断言し、神の御心だと宣言して憚りません

 この伝道の書の主題は「空(くう)の空(くう)」だと申しました。原語で空=ヘベルがこの書で38回も反復使用されている!そのヘベルには確かに「虚しい、儚い、無益、無意味」と言った否定的な意味が無いでは無い。しかし、この伝道の書を30年以上研究された小山聡牧師の見解を紹介したいと思います。Eテレで講義するそのテキストで彼はこう言います、「私はヘベルの第一義を『束の間』つまり時間的に短いことと捉えてみました」ヘベル空には「束の間」が、時間的な短さが読み取れると言われるのです。

 時間的にと言えば、先週3章からお話しした中で、1節「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」から始め、テーマが時間だと申しました。第1章のテーマが空間であれば、第3章は時間である!時間と空間!それは間違いなく人間が生きる枠組みですね。その時間にはギリシャ人の時間観念を紹介もし、クロノスとカイロスがあることもお話ししました。クロノスは計測できる、しかも同じことが延々と続く時間観念、カイロスは突然訪れる決定的な瞬間、私たち人間は、例外なしに、否応なくこの時間の枠に生きる、生かされている!そうですね。その人間の生活活動を観察した結果、伝道者はそれを「空の空」と言っている。その空の意味合いを「虚しい、儚い、無益、無意味」と取ることもできますが、小山牧師は「束の間」とも理解すると、尚一層分かりやすいのではないか、と言われたのです。人の一生は空ではないか!即ち「束の間」ではないか、と言うのです。気が付いてみたら「アッと言う間に」一生が終わりかねない!そうではありませんか。

images-2.jpeg だからこそ、「食い飲みして楽しみを得ること」が人の生きる上で大変重要だとこの箇所は言うのです。でも「いやそれは刹那的な快楽主義になりませんか」「2章の快楽実験で、食い飲みは空(むな)しいと言われたのでは?」と誤解されかねません!しかし、13節と2章とは全く似て非なるものなのです。これはもうすでに2章24節から語った時にお話ししたことですが、人が快楽を即ち五感による楽しみを自分でひたすらに追求することと、神から賜物として受け取ることとは全く、その本質が違うと言うことでした。13節で言われることが、あの2章24、25節でも言われたことなのです。「だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。」これは神と共に生きる者が、神の手から賜物、プレゼントとして受け取る喜び楽しみを言っているのです。

 ウイ—ン時代のことでした。礼拝に学校教師を引退した老夫婦(高橋夫妻)が来会されました。吉祥寺教会の信徒だとか。ウイ—ンへの目的はウイ—ン大学でドイツ語研修を三ヶ月受講するためだと言う。その動機を聞いて驚いた。彼は「音楽の天才モーツアルトの生きたドイツ語を自分も知りたいと思う」と言われたのです。つまり彼はモーツアルトの音楽にぞっこん惚れ込んでいたのです。彼は作品700曲全てレコードを所持し、庭に専用の部屋を作り、最高の音質を聞けるようにしているとのこと。曰く「私はファンではない。モーツァルチアンです。」この方はクリスチャンとして脱線していますか。私にはそう思われませんでした。この元高校教師は、素直に五感の一つ聴覚で音楽の喜びを楽しんでいるのです。それは罪ですか。贅沢すぎますか。そうではない。彼は音楽を神の賜物として受け、楽しみ喜んでおられたのです。

 神は人間に五感を備えられました。それは神の賜物を受け取る手段ではありませんか。味覚、聴覚、触覚、視覚、嗅覚全てそれは祝福されているのではありませんか。神抜きに追求しようというのではない。それらすべてをフルに活用し、神からの賜物として受け取る時に、人生はたとえ束の間の儚い時であっても、大いなる喜びを得ると言うことなのです。ですから、食前に感謝して食べよう、感謝して絵画や花を鑑賞しよう、感謝して音楽を楽しみましょう。感謝してハーブ、香水を楽しもう。そうすることが許されているのです。「天のお父様、ありがとうございます。」と言えるならいいのです!

 しかし、今日、私は、その五感に勝る楽しみ、第六感とでも言うべき神の賜物を改めて紹介したいと思うのです。それが先週もすでに触れた永遠なのです。11節に「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。」と言われています。授けられた!そうです!それは正しく神の賜物だと言うことなのです。何がプレゼントされているか?「永遠」です。原語ではオーラムと前回紹介した通りです。直訳すれば「永遠を授けた」となります。そして、私はこの「永遠」オーラムが新約聖書の「永遠の命」に相当する、通ずると話しました。覚えておられるでしょうか。 

今日は別の箇所を引用して記憶を新しくしたいと思う。ローマ6章23節です。「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」そうです!永遠の命は神の賜物なのです!そして永遠の生命の最高の定義を紹介しておきましょう。それは主イエスのお言葉です。ヨハネ17章3節です。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」神はイエスを主と信じる者に賜物として永遠の命、オーラムを授けられるのです。それは神と神の業を認識する霊的な驚くばかりの能力なのです。 3章2〜8節で、私たちは前回、時の狭間に振り子時計のように繰り広げられる人間の業、営みを見せられました。ところが、その時を貫くもう一つの時がある!オーラム永遠、即ち神の時が貫いていることを話しました。神は時空を超えて働いておられる、動いておられる、行動しておられる。その働きを認識できる能力!それが永遠の命なのです。

images-4.jpeg 先週、その神の働き、業については、十分語りつくせなかったいくつかの事実を今日、更に5つ順番に提示しておきたいと思います。

 

  1. 神の業は、時にかなって美しい    11節

  2. 神の業は、見極められることはない  11節

  3. 神の業は、永遠に不変である     14節

  4. 神の業は、加筆、削除は不可である  14節

  5. 神の業は、過去の繰り返しである   15節

 「神の業は、時にかなって美しい」改めて私は、あのルツ記の2章の場面が思い出されました。モアブの女ルツは夫と二人の息子に死別し傷心の義理の母ナオミとエルサレムにやって来ました。彼らは経済不況で出稼ぎに行っていたのです。彼女は生計を立てるため、刈り入れの麦畑に落ち穂拾いに出かけて行きました。

昨日土曜日の朝、妻と申命記24章を読んでいて、「ああ、これだ」と気付きました。19節「あなたが畑で穀物を刈る時、もしその一束を畑におき忘れたならば、それを取りに引き返してはならない。それは寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。そうすればあなたの神、主はすべてあなたがする事において、あなたを祝福されるであろう。」異邦人モアブの女ルツはきっとユダヤ人のナオミから教えられていたのでしょうね。

2章3節はこう記されている。「ルツは行って、刈る人たちのあとに従い、畑で落ち穂を拾ったが、彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズの畑の部分にきた。」ここで大切な言葉は「はからずも」です。偶然、たまさか、たまたま。ルツは誰の畑かを全く知らずにいた。だが、事態はここから急展開して行ったのです。畑の所有者ボアズはナオミの親戚、やがてルツはボアズと結ばれ結婚する、彼らの間に男の子が生まれる。なんとそれが系図によれば、その子孫からダビデがimages.jpeg輩出することになったのです。そればかりかではありません。なんとその末からです!救い主キリスト・イエスが誕生しているのです。このルツの小さな落穂拾いの行為、それはどう見ても人間的見地からすれば偶然でしかない。だが、それは時にかなった美しい神の業であったのです。

 その神の業を人は見極められない。永遠に不変である。加筆、削除はできません。その上で今日、15節の最後の一句だけ注意してみましょう。「神は追いやられたものを尋ね求められる。」この短いが一句が難解な言葉なのです。しかし、細かい説明は省略して結論から言えば、15節の前半との関係から、「神は過去になされた業を未来にもなされる」と理解したらよろしいでしょう。前半「今あるものは、すでにあったものである。後にあるものも、すでにあったものである。」これはすでに1章9節でも語られた事実に等しい。「先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。

 これに関連して私はある有名な言葉を思い出しました。「歴史は繰り返す」Hisory repeats itself. です。「過去に起きたことは、同じような過程を経てもう一度起こること」

誰が言ったか諸説があります。ヘーゲルだ、マルクスだ、ローマの歴史家だとか。「マルクスが、フランス革命を例にとり、歴史が繰り返すとしたら『1度目は悲劇として、2度目は喜劇として』 だと書いて、有名になった。」とも説明されていました。その典型が1812年のナポレオンによるロシア侵攻とヒトラーによる1941年のソ連侵攻でしょう。両者ともロシアを支配しようと攻め上ったのです。ナポレオンは70万の軍を投じロシアに侵攻、モスクワを占領しますが、結果的には冬将軍に襲われ惨敗、帰還できたのは5000人だったと。ヒトラーは400万の軍を投じ、スターリングラードは35万、全く同じく冬将軍に襲われ、最後に包囲された30万人のうち帰還できたのは6000人だった。まさに歴史は繰り返すのです。果たして二度目は喜劇でしょうか

 しかし、伝道の書3章15節の意味は全く違うのです。「神は過去になされた業を未来にもなされる」と言うことは、神のなされることが歴史、時間を貫いて一貫していると言うことです。その意味で、過去の神の御業が聖書が書きとどめられたことは私たちにとって大きな意味があるでしょう。聖書には神がなされた過去のみ業とみ言葉が必要十分に記録されており、私たちはそれによって、今現在、神がどのように私たちに対して働きかけられるかを知ることができるし、期待することができる、ということなのです。

 そればかりではありません。神は歴史、時間を通じ、目的を持ってその計画を実行成されると言うことです。その過去の出来事でもよく知られた事件は、イスラエル民族のエジプト奴隷解放事件です。430年間奴隷であった民は神により遣わされたモーセの手により解放されました。そして、神はその奴隷解放の過去の業を、その後1500年後に繰り返されたのです。なんでしょうか?それこそ、御子イエスによる十字架の救いによる奴隷解放の御業だったのです。奴隷は奴隷でも、それは人を罪の奴隷から解放です。主イエスは言われました。「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。」十字架は人を罪の奴隷から解放する新しい出エジプトだったのです。そして、神は今一度、未来に救いの御業を世界になされるに違いありません。聖書の最後は「然り私はすぐに来る」で終わっています。救い主イエスが再び来られるのです!なんのために来られますか。その日その時、信じる人が死の縄目から解放され、復活させられるためなのです。それによって救いは完成するのです。これはすべてオーラムを授けられた者、永遠の生命を賜物として与えられる者が見せられる神の御業ではありませんか。ハレルヤ!

 最後にもう一つの楽しみ喜ぶべき神の賜物を紹介して終わりましょう。それは13節に言われた「労苦によって楽しみを得ること」です。人の仕事、労働、労苦は神から与えられた賜物、喜び楽しみだと言うことです。今、今日、この時、取り分け、新型コロナウイルス感染の脅威に晒されて、経済活動が正常に戻るには2、3年はかかるだろうと言われています。この時、人が働くことの意味を問い直すことは意味あることではないでしょうか。自宅待機、テレワーク、休業要請、大幅収入減少、人が働く環境の深刻さが増大しております。

P8070015.JPG 聖書は言うのです。「すべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。」 今日はその真理を絵画に描いて証言したフランスの画家ミレーの作品「晩鐘」を短く紹介して終わりたい。ミレーは1814年フランスの北西部の半島の貧しい村で農業に従事する両親に生まれます。朝早くから日没まで畑に出て働き、1日の初めと最後には神に感謝の祈りを捧げる両親。そのような両親の姿が目に焼き付いていて、「晩鐘」のモデルとなったと言われます。やがて画家を目指し、35歳のミレーは、パリ南部のバルビゾン村に住み着き画家活動を続け、そこで生涯過ごしたとされ、私たちはパリ教会の作田兄のご案内で、彼の墓地を訪ねる機会がありました。その郊外に見れば、「晩鐘」が大きくモザイクで作成され道端に掲示されていました!私たちはそこで記念写真を取り、その畑地が晩鐘の背景になったと知りました。ミレーの住んだと言われる家が博物館となって展示され、そこで一大発見は、晩鐘の祈る女性が彼の妻ではなくて、洗濯女であると言う事実でした。

ミレーはこの絵画によって「遠くに見える教会と鳴り渡ってくる鐘の音で、敬虔で清貧なキリスト教徒を表現しようとしています。」「畑には突き立てられた鋤があり、その柄は農夫の汗と脂が染み込んで黒光りしています。使い古した籠の中にはその日の収穫の馬鈴薯が入っています。それもクズの馬鈴薯で、これが彼らの明日の食卓に並ぶことでしょう。農婦の向こうには、一輪の手押し車があります。鋤と籠に入った馬鈴薯を一輪車に乗せて、重い足を引きずりながら家路を急ぐのです。」

 「晩鐘」には、人間が神に創造されて以来続く農夫の姿、貧しさ、労働の厳しさ、そして神への感謝が表現されています。晩鐘を描いたミレーは、画家とはいかなるものだと考えていたでしょうか。次の言葉を繰り返したそうです。「私の日課は労働である。と言うのも、すべて人間は肉体的苦痛を甘受しなければならないからである。汝の額に汗して生きよ。昔からよく言われている、不変の格言である。人間にとって必要なのは、自らの仕事を進歩させるベく努力することであり、すなわち、それは、自らの才能と仕事への良心によって、仲間に抜きん出た優れた職業人間になるよう不断の研鑽を積む事に他ならない。それが私にとって唯一の道であり、迷いもなく、打算もない。」

 ここにいる私たちはそれぞれその仕事、労働は違っております。しかし、それがどんな仕事であっても、共通する真理は、それが神から授けられた責任であり、それはまた、感謝し、受け取るべきものであり、また、そうするときに労働が喜びであり楽しみとなると言う事です。

 今週も私たちの置かれた状況はコロナの影響で、とても明るいとはいいがいたい事でしょう。しかしながら、だからこそ、神の賜物に信仰の目を向け、それを感謝して受け止め、喜び楽しむことにいたしましょう。14節最後にこうあります。「神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。」それは神への畏敬、畏怖の念を抱く事です。神を礼拝する事です

6月7日礼拝説(詳細)

  「万事に時がある」  伝道の書3章1〜15節

天が下のすべての事には季節があり、

すべてのわざには時がある。

生るるに時があり、死ぬるに時があり、

植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、

殺すに時があり、いやすに時があり、

こわすに時があり、建てるに時があり、

泣くに時があり、笑うに時があり、

悲しむに時があり、踊るに時があり、

石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、

抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、

捜すに時があり、失うに時があり、

保つに時があり、捨てるに時があり、

裂くに時があり、縫うに時があり、

黙るに時があり、語るに時があり、

愛するに時があり、憎むに時があり、

戦うに時があり、和らぐに時がある。

働く者はその労することにより、なんの益を得るか。

わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。神のなされることは皆その時にかなって美しい。

神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。

わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。

わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。

今あるものは、すでにあったものである。後にあるものも、すでにあったものである。神は追いやられたものを尋ね求められる。

「ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉」この書の著者は、恐らくソロモン王の名を借りて書いた知恵ある教師であったと学者の間では一致しております。2節「伝道者は言う、空(くう)の空(くう)、空の空、いっさいは空(くう)である。」この2節により、この書の主題が「空(くう)」であると私たちは分かりました。この書には38回この空が使われ、本来は霧、息、風を意味する原語ヘベルであって、そこから「空、虚しさ、儚さ、束の間」を表す言葉として使われていると最初に、お話し致しました。

 まず第一にこの伝道者は、1章によって、宇宙空間の循環運動を観察した結果、全ては空(くう)であると証明しました。更に、2章に進むと、伝道者は、快楽をとことん実験した結果、またまた全ては空(くう)であると証明しました。因みに先日テレビで珍しい名字を紹介する番組を見たら「快楽さん」がいるとのこと!説明では仏教の快楽院が由来だとか。仏教では「けらく」と読み、「安楽。永遠のたのしみ。浄土のたのしみ」を意味すると説明されていました。

さて、そこで、今日、開かれているのが第3章。1〜15節一読して直ぐ分かりますね。第1章が空間だとすれば第3章は時間が取り上げられていると言うことです!3章1節はこう始まります。「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」

I. 万事に季節がある

 1節の最初の文言は「すべての事には季節があり」です。ここで時間が季節と訳された原語はゼマンです。「ある一定の定まった時期」ある持続、続く期間を指す意味です。「七十人訳聖書」というギリシャ語聖書があります。これはBC250年頃、ユダヤ12部族から6人づつ選ばれた72人の学者が72日かけてヘブル語からギリシャ語に翻訳したと言われる聖書です。このギリシャ語七十人訳聖書は、この季節と訳されたゼマンをクロノスと訳しました。それにより、私はより分かりやすくなる気がします。ギリシャ人にはご存知のように、古代はギリシャ神話があり、彼らは何でも神に祭り上げるのが特徴でした。大地の神はガイア、火の神プロメテウス、戦争の神アテナ、愛の神エロース、芸術の神アポロンといった具合です。その神々の中に時の神もあり、それがカイロスなのです。そしてギリシャ人は時間を上半身は怪獣、下半身が人間と見立てた像にカイロスをイメージしました。この怪獣は何をするか?下半身の人間が子供を産む、すると上半身の怪獣が食べてしまう。産んでも産んでも次々と食べる。つまり、時間とは延々と果てしなく続くもの、同じことの繰り返し、時とは計測できるものとギリシャ人は考えたのです。

 1日は24時間です。一時間は60分、分なら1440分。50年=438,288時間、50年間8時間×200日=1600×50年=80000時間労働することになる。私たちには例外なく延々と続くその時間の中に生きている。そしてそれが長くも、短くも感じる。多すぎると感じ、不足にも感じる。

 30代半ば、札幌の塗装工場でバイトした時だった。仕事は加熱した鉄製品に粉体塗装する作業。粉体に製品を12回揺すり、それを続ける!朝から晩まで!その単純作業には参った!時間の経過が遅い、長い、ひどいストレスだった。

 諺に「時は金なり」とありますね。限られた時間の使い方次第によっては億万長者にもなれるし、貧乏のどん底に突き落とされるかもしれない。時間はできるだけ要領よく詰めこむ箱のようなものと考えられるのです。詰めて詰めて合理的に上手に詰めまくり、金を稼ごうとする。こんなにも文化の進んだ日本で昨年は「働き方改革」でずいぶん揉めました。違法な長時間労働が後を断たない。労働基準監督署が躍起となって警告しても無駄。その結果、悲惨な過労死が社会問題となり、国会で新しい法案が「働き方改革」として可決されたところです。時間が問題です。

 「天が下のすべての事には季節があ」る!すべてのことにゼマンがある!クロノスがある!しかし、人はその使い方によって、うっかりすると時間病になる危険性が多分にあることがわかります。

II. 万事に時がある

 更に私たちは3章1節に続く別な時間があることに注目しなければなりません。「すべてのわざには時がある」と語られているからです。その前の時はゼマンでしたが、これは違う!原語で「エート」が使われているのです。そして、続く2〜8節を注意して見てください!この「エート」時が繰り返し、数えてみれば28回使われていること分かります。

そして、「生るるに時があり、死ぬるに時があり」で始まり、全てが対立した文章、それが14行並べられた詩の形です。何故28回なのか?恐らくこれは作者がゲマトリア(名前の数字化)を使ったからでしょう。ヘブル語アルファベットには数値があります。「エート」のスペルは、アイン(70)+ タウ(400)で表記され、数価は470。そこで4×7=28となるわけです。この14行の詩を観て何か思い起こされませんか。それは規則的にチックタックボーンボーン左右に反復する振り子時計ですね。今でも家で使っている人ありますか?あの例の、ギリシャ語70人訳聖書は、これをクロノスではなくカイロスと訳しています。やはり時の神ですよ。でもそのイメージはと言うと、頭が禿げてツルツル、前髪しかない天使なのです。カイロスはチャンス、機会の神!前から来た時に素早く前髪を掴まないと、後ろからツルツルで掴めないのです。愉快な発想ですね。

 ですから、この1節の「すべてのわざには時がある」の時は、点としての時、決定的瞬間としての時、突然訪れる時 機会なのです。肯定的には充実した瞬間なのです。人はクロノスの中で人生を生きています。過去、現在、未来へと戻る事なく生きています。ところがカイロスが突如現れるのです。突如人は「生まれる」 そうですね!そして突然「死ぬ」のです!先日、ある姉妹が、玄関前の花を無残にも「抜いて」いた!そして「植えて」いました。それはカイロスなのです!ヘブライ語では「エート」なのです。

 3節「殺すに時があり」恐ろしいですね。京都アニメーション放火殺人事件は、2019 年(令和元年)7月18日に京都府京都市伏見区で発生し36人が殺害された。その日の昼前です。その会社の誰が予測できたか?突然殺されてしまったのです。犯人は2、3人のつもり!それが36人殺害された!それはカイロスなのです!2〜8節まで、28のカイロスを全部実例挙げることができるでしょうが、いくら時間があっても足りないでしょう。これは、「すべての出来事には時がある」と言うこの詩的表現よって人生全体を網羅していると言うことなのです。

 皆さんもこの詩によって自分の人生のカイロス(決定的瞬間)を思い起こしませんか?「あの日あの時、あの人と出会ったために今この仕事をするようになったんだなー」「あんな酷い事故にあったので、生活が一変してしまったなー」そうです。人の人生には好ましい出来事、好ましからざる出来事が、振り子時計のように、それが決定的瞬間として、時には突如として経験されるのです。

 そこで9節を見ると、伝道者が、その結果です。これらの時、クロノス、カイロスにおいて様々な出来事に遭遇する人間の人生を観察するときに、一つの大きな疑問が湧いてきたと言いっています。「働く者はその労することにより、なんの益を得るか。」そして続く10節で「わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。」と言っています。「私は、……見た」それは言い換えれば観察したと言う事です! 

伝道者は、ここで人間は時間の中で労働する、仕事をする、それは神が与えた賜物、神が人に与えた課題だと理解する、ところが、そればかりではありません、人間はカイロスとクロノスという時間の中で、その労働、仕事、課題で苦労し、骨折っているという現実を直視したのです。そして疑問が湧く、人間の労働、仕事には一体本当に益があるのか真剣に考えない訳には行かなかったのです。1章、2章には「空(くう)」が多発されますが、ここ3章の箇所には出てこない!その代わりに「益がない」が、使われます。これは1章3節でも問われた問いに繋がるものです。「日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。」これは切実な問いですね。

 2節ご覧ください!「生(いき)るに時があり、死ぬるに時があり」生まれる!だが人は死ぬのです!その間にせっせと働く!自分の務め、役割、仕事に人生の課題を意識し、やりがいを覚えて働く!汗して労働し蓄え、結婚もし、家建て、車を買い、趣味に興じ、退職して余生を楽しむ!だが、死ぬのです!計算したらゼロではありませんか。14節からなる詩はすべて対立する内容、プラスマイナス=ゼロ。それでは幾ら一生懸命、労苦し、あくせく働いても一体どんな益、利益があるのか?これは大問題です。

III. 万事に永遠がある

 その時です。時の観察の結果、大いなる疑問が沸き起こったその時でした。彼はもう一つの事実、人間にはクロノス、カイロスだけではない!もう一つの時間の中に、人は生かされているのだと言う事実、可能性を見てとったのです。11節中程に彼はこう記しています。「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。」これは意訳であって「人の心に永遠を授けた、置いた」が直訳です。ところがこの「永遠」をどう訳すかによって学者の間では大きく分かれているのですね。正直、その難解さに悩まされたものです。この永遠と訳された原語は「オーラム」です。永遠の他に、「持続、世界、秘密、知識、神秘、謎、」が意味されます。ユダヤ教では世界と理解され、欽定訳聖書もそこを世界(ワールド)と訳しているのですね!

 私はそれでも、私なりに、一つの結論に至ったので是非紹介したいと思います。このオーラムは旧約聖書のあちこちに使用されていることが分かります。例えば、創 21:33 「アブラハムはベエルシバに一本のぎょりゅうの木を植え、その所で永遠の神、主の名を呼んだ。」これは神の本質を言い表す重要な表現です。神は永遠オーラムの神である。もう一箇所はエレミヤ31:3「主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。」オーラムの愛!共同訳「とこしえの愛」新改訳は「永遠の愛」英訳everlasting love. これはすべてオーラムの基本的意味「持続、永続」が生かされ、それを永遠と訳しているものです。そればかりではありません。このオーラムはヘブライ語の「隠す」という動詞から派生したもので、それによって永遠とは神によって隠された秘義という意味が込められていることもわかります。この永遠(オーラム)が「神によって人の心に与えられた」ということは非常に際立った表現ですね。それは、言って見れば、人に神の時、神の業を認識する能力が与えられたということなのです。

 人は、計測できる延々と続くクロノスの時に生きております。突然訪れる瞬間のカイロスの時に生きてもいる。ところが、そればかりか、隠された秘義であるオーラムの神の時に生かされていると言うことなのです。

 そして11節前半ご覧ください!このオーラムが与えられた人は、自分の人生の時のただ中に、神の成される業を認識することができると言われているのです。「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」伝道者は10節で「わたしは、……仕事を見た」と言う!それは時の中にある人間の業、人間の仕事を見たのです。しかし同時に、彼はその時を貫いて成される神の業、神の働きをも見たと言っているのです。しかも、それは「皆時にかなって美しい」神のみ前には、その成される働きのすべてが、時に調和して、かなって、適切で 美しいと言う。神はその時に、ジャストに、適切に、見事に物事を生じさせると言うのです。

 石川県時代、毎年秋になると菊を届けてくれる方がいた。家内の父の信仰の友でAさん!彼は金沢漁協に勤務中、クリスチャンの上司に導かれ改心されていた。そのAさんが退職すると趣味で朝顔栽培を開始された。松任市の花は朝顔。千代尼の俳句で。だから毎年、朝顔品評会がある。退職したその年、何とAさんは特賞を受賞してしまったのです。花の大きさが20センチを超えて!出品する時、その日に花咲かせるのは至難の業!それは当に時にかなった美しい花、美しい業でした。オーラム(永遠を思う心)、神の時を認識する能力を授かった人は、その自分の人生の時の間に、神の美しい働きを確認することができる!なんと素晴らしいことか!

 では一体誰がこのオーラムを授かると言うのでしょうか? 私は、その手がかりを、ギリシャ語訳70人訳が直オーラムをどう訳したかで得ました。アイオンと訳しているのです。アイオン、これはギリシャ語で記された新約聖書でも「永遠」と訳され最も大切な用語の一つであります。どこに使われていますか?そうです、ヨハネ3章16節!「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」この「永遠の命」とは、まさしく伝道の書のオーラムそのものなのです!永遠の命とは信じた者が神を知り、イエスを知る、認識する特別な能力なのです。この賜物が付与された人は、自分の人生の時の間において、今、現在でも神のなされる時にかなった美しい働き、業を識別することができると言うことなのです。

 前回も「長崎の鐘」の永井 隆博士に言及したことを覚えておられるでしょうか。私はその著書も映画も購入し深い感動を覚えた次第です。

永井博士は終戦末期、長崎医科大学の放射線科の医師を務め、毎日のようにレントゲンを操作する激務が重なり、放射線による白血病と診断され3年の命と宣告されていました。そこに20年8月9日原子爆弾が炸裂し、辛うじて生き延びたものの、被爆して原子病をも併発、昭和25年43歳の若さで死去された方です。死ぬまでの状況は、永井博士著「この子らを残して」によれば、全身骨皮やせ衰え、ただ脾臓だけが不気味に肥大し、下腹部だけは妊婦のようだったと。その永井博士は、原爆が投下された三ヶ月後、浦上天主堂で催された原爆で死亡した8000人の信徒の合同葬儀で、信徒代表の弔辞を捧げる務めが与えられました。その弔辞の最初の部分はこうです。「昭和20年8月9日午前10時30分ころ大本営に於いて戦争最高指導会議が開かれ、降伏か抗戦かを決定することになりました。世界に新しい平和をもたらすか、それとも人類を更に悲惨な血の戦乱におとし入れるか、運命の岐路に世界が立っていた時刻、即ち、午前11時2分、一発の原子爆弾が吾が浦上に爆裂し、カトリック信者8千の霊魂は一瞬に天主の御手に召され、猛火は数時間にして東洋の聖地を灰の廃墟と化し去ったのであります。」そして言われます、「これと全く時刻を同じうして大本営に於いては天皇陛下が終戦の聖断を下し賜うたのでございます。」

 そこで彼は問うのです。「これらの事件の奇しき一致は、果たして偶然でありましょうか?それとも天主の妙なる摂理でありましょうか?」永井博士は、被爆後、長崎への原爆投下の経緯を伝え聞いておりました。米軍の予定した都市は別にありました。だが、上空が雲に閉ざされていたため変更され、長崎にしかも、軍需工場を狙ったが、投下時に雲と風とにより北方に偏り、天主堂の正面に流れ落ちたものだと言うものでした。永井博士はこの突然の悲劇的な訪れの事件に見たのです!オーラムにより永遠の命により、そこに、神の時を、神の業を認識する力により、それが、偶然ではなく、神の摂理であると認識するに至ったのであります。

 私たちは、ただイエスを信じるが故に、このような驚くばかりの認識力が与えられていることを確認すると共に、次の11節の句をも決して忘れてはなりません。「それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」そうです!永遠の命オーラムが恵みにより信じた私たちには付与されるが、その認識力には限界があると言うこと、これも忘れないでください。

 昨年の11月、中国の武漢に発生したコロナウイルス感染の脅威は世界中を大混乱に引き起こしました。この突発的な出来事も果たして偶然なのか、それともそこに神の摂理があるのか、それを識別することが私たちに求められていることかも!4月からEテレで小友牧師による「コヘレトの言葉」が開始しましたが、このウイルス感染で、5月から延期となりました。そのテキストにこの時の中に生きる私たちのあり方を例えた例えがありますので、紹介して終わりましょう。それは大きな川をボートでオールを漕いで降る例話です。ボートは下流に向って進むが漕ぎ手は後ろを向いてひたすらに漕ぎ進む。8人のボート競技であれば、ボートの最後尾にコックスと呼ばれる舵手が一人前向きに座りリードする!それは当(まさ)に私たちの生きる姿でしょう。前向きに座る舵手はイエス様なのです。私たちはイエスを見つめて指示を仰ぎ、過去の出来事から学び、前に向かってただひたすら前進する。それが永遠の命、オーラムを恵みにより受けた私たちの生きる姿なのです。日々の出来事の中に美しい時にかなった神の業を認めることができるよう祈りましょう。