512日礼拝説教(詳細)

「人の子昇天高挙」  ダニエル書7章13、14節

私は夜の幻を見ていた。見よ、 人の子のような者が天の雲に乗って来て日の老いたる者のところに着きその前に導かれた。この方に支配権、栄誉、王権が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちすべてはこの方に仕える。その支配は永遠の支配で、過ぎ去ることがなくその統治は滅びることがない。

主の御名を崇めます。今日5月12日はご存知でしょうか、記念日が二つ重なっています。一つは「母の日」で、もう一つは「昇天記念日」です。私たちは2024年の主の復活を3月31日に記念して礼拝しましたが、今年の主の昇天記念日が5月9日なのです。「母の日」としては、礼拝最後に祝福の祈りを捧げることにし、今日は主の昇天をテーマに聖書をダニエル7章からお読みいたします。その13、14節です。

1.人の子の昇天

さて、ダニエル書を読んでキリストの昇天と言われても、ピンと来ないかもしれませんから、先ず、使徒行伝1章3節を読み、続いて9〜11節をお読みします。3節「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」9節〜11節「こう話し終わると、イエスは彼らが見ている前で天に上げられ、雲に覆われて見えなくなった。イエスが昇って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い衣を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に昇って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またお出でになる。』」

私たちは、イエス・キリストが十字架で苦難を受け死なれた後、三日目に復活されてことを知っています。そして、復活されたイエス・キリストが40日間、弟子たちに現れ、ご自身を示されたことをも知っています。そのキリストが、40日後、エルサレム郊外のオリブ山から、弟子たちの見ている前で、雲に包まれ昇天されました。9節にこう語られている通りです。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ている前で天に上げられ、雲に覆われて見えなくなった。」このキリストの昇天は、多くの証人によって証言される明らかな歴史的出来事です。しかしながら、驚くべきことに、この歴史的出来事が、偶発的な事件ではなく、500年以上も前に語られていた預言の成就であったことが、このダニエル7章で明らかにされるのです。

ダニエルは、バビロン帝国のネブカドネザルによって滅ぼされた南ユダ王国から、捕らえ移された青年でした。その捕囚のダニエルは、次々と皇帝の夢を解き明かした功績によって、皇帝の信任を得て、高い位に着けられます。そのダニエルが、ネブカドネザルを継いだベルシャツアル王の時代B C553年、不思議な夢を彼自身が見せられます。その夢の最初の部分が2〜12節であり、今日読んだ部分はその続きなのです。ダニエルは、その夢の中で「人の子のような者」を見たと言います。更に、「天の雲に乗って来て日の老いたる者のところに着きその前に導かれた。」と語り、「この方に支配権、栄誉、王権が与えられ」たと語っています。これは、一言で言うなれば、人の形をとり来られた神の御子イエス・キリストの昇天と高挙の預言なのです。

  キリストの称号

ダニエルの夢に見た「人の子のような者」の人の子は、聖書において、実はメシア、救い主の称号なのです。イエス様が好んでご自分を指すのに使用した名称が「人の子」でした。マタイには31回、マルコには14回、ルカには24回、ヨハネには12回使用されています。メシアの称号である神の子が神性を強調するとすれば、人の子はメシアの人間性が強調されているともいえます。そのメシア称号の由来が、ここダニエル7章にあるのです。

  キリストの昇天

ですから、ダニエルが夢に見た「天の雲に乗って来」る人の子のような者は、キリストの昇天の預言です。イエス様がオリーブ山から昇天された時、主は雲に包まれ見えなくなりました。「雲に乗る」この独特な表現は、雲を乗り物とされる神を表すものです。最近、和歌山県の串本町から、民間の手でロケットが打ち上げられましたが失敗しましたね。人間は開発した強力なエンジンで、宇宙に有人ロケットを打ち上げるのですが、精々400キロが限度です。人の力では神の所まで行くことは絶対できません。

  キリストの高挙

ダニエルが夢に見た「日の老いたる者のところに」導かれた人の子の幻は、昇天し、天の父なる神の右に着座されたキリストの預言です。「日の老いたる者」とは、字義的には普通は老人を指す表現ですが、ここでは、見ることのできない神様を永遠の先から存在されたことを象徴的に表現したものです。イエス・キリストは、昇天されて天の神の右に着座され、父なる神から栄光を受け、天地支配の権能が授けられました。マタイ28章18節には、復活された主が弟子たちに「私は天と地の一切の権能を授かっている。」と語られておられたことの預言の成就なのです。ともすれば、私たちは、自分の目の前の日常の出来事に翻弄されて、自分の立ち位置が分からなくなってしまいがちです。今日、改めて、この預言と成就の確かさに立ち、復活昇天高挙の主イエス・キリストを仰ぎ礼拝することにしましょう。

.人の子の自覚

さて、ここダニエル7章で「人の子のような者」と預言され、自らを指して聖書では80回以上も「人の子」と発言されたイエス様は、どのような自覚を抱いておられたか、三つに絞って見ることにしましょう。

  権威の自覚

第一にイエス様がご自分を指して「人の子」と語られた時には、ご自分の権威を自覚して発言されておられました。ダニエル7章14節には「この方に支配権、栄誉、王権が与えられ」と預言されています。主イエスにはこの絶対的な権威の自覚がありました。マタイ12章8節をご覧ください。主はこう語られました。「人の子は安息日の主なのである。」こう語られたイエス様は、安息日にユダヤ人の会堂に入り、そこにいた気の毒な片手の萎えた人に、「手を伸ばしなさい」と命じられます。すると、彼が手を伸ばすと、何と他の手と同じように元通りに良くなってしまいました。

マタイ9章をご覧ください。イエス様のところに体の麻痺した人がベッドに寝かせたまま連れてこられています。すると主はこう言われました。「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、体の麻痺した人に、「起きて床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。」すると、その言われた通りに、彼は立ち上がり、床を担いで歩き出したではありませんか。イエス様は、ご自分が人の病も癒やし、罪をも赦す権威ある神のメシアであることを自覚しておられたからなのです。イエス・キリストは、今も変わらず、この王権を行使し、人々を闇の支配から救い出し、光の国へと移し出しておられます。

  受難の自覚

更に、イエス様がご自分を指して「人の子」と語られたのは、ご自分の受難を強く、非常に強く自覚されるときでした。ルカ9章21節をご覧ください。「イエスは弟子たちを戒め、このことを誰にも話さないように命じ、そして、言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」」私たちが福音書において、イエス様がご自分の十字架の受難を予告されたのは、いつでも、弟子たちの信仰の告白を導かれた後であったことが分かります。イエスは弟子たちに「あなたがたは、私を誰だと言いますか」と尋ね、弟子たちが「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」と答えたのですが、そのキリスト、救い主が、人々から拒絶され、苦難を受け、敗北することを、イエスが語られるときに、弟子たちには到底理解することができませんでした。

神の御子が何故、人となられたのでしょう。人となられた救い主が何故、十字架に磔られ死なれたのでしょう。十字架の受難は、人間の理解を超えています。ユダヤ人にはつまづき、ギリシャ人には愚かにしか見えません。「十字架の言葉は滅び行く者には愚かであっても、救いに預かる私たちには神の力です。」(コリント第一1・8)十字架無しには罪の赦しが無いからです。キリストはご自分が罪なき人としてこの世に来られました。人類の、すなわち私たちの罪の身代わりとなり、十字架の受難を神の裁きとして受けることを自覚され、「人の子」とご自分を指して語られていたのです。

  再臨の自覚

その「人の子」の更なるイエス様の自覚は、再臨の自覚です。主が「人の子」と語られるときには、ご自身の終末的な栄光との結びつきにありました。ダニエルの夢に見た14節の出来事は、全てキリストが再臨されるときに完全に実現成就する預言の出来事です。「この方に支配権、栄誉、王権が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちすべてはこの方に仕える。その支配は永遠の支配で、過ぎ去ることがなくその統治は滅びることがない。」使徒ヨハネも、このダニエルの預言を踏まえて「見よ、この方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者たちは。地上の部族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。」と黙示録1章7節に預言しております。主イエスが、大祭司の前で尋問された際に、大祭司からこう問われました。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」(マタイ26・63)すると主イエスはこう答えられたのです。「私は言っておく。あなたがたは間もなく、人の子が力ある方の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」(マタイ26・64)イエス様はご自分が再び来臨されるときには、ダニエル7章14節の預言が実現成就するということを、確かに自覚しつつ、ご自分を「人の子」と指して語っておられたのです。

.人の子の高挙

イエス様は復活されました。イエス様は昇天されました。イエス様は神の右に着座され栄光を受けられました。イエス様は天地の一切の権能を授けられました。イエス様は王の王、主の主です。しかしながら、私たちは、まだその王権による全世界の支配の完全な実現を見てはいません。思い出してください。イエス様はその最初のメッセージで「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語られました。神の国とは神の支配です。このお言葉によれば、イエス・キリストによる神の支配は、既に始まっているといえます。同時に、神の支配はまだ完成していないとも言えるものです。言葉を代えて言えば、キリストの主権による完全な支配統治は、段階的に実現することになるということです。

  ローマ帝国の支配

私たちは、その事実を、キリストの昇天高挙のダニエルの預言の前に、彼の見た四つの獣の幻から確信することができます。7章2節から見てみましょう。ダニエルは夢の中で、人の子の世界支配の幻を、海から上がってくる「四つの獣」の幻に続いて見せられています。この四つの獣の幻は、世界を支配してきた人間による帝国支配の預言的幻です。第一の獣はバビロンです。鷲の翼を持つ獅子のようです。第二の獣はペルシャです。これは熊のようです。第三の獣はギリシャです。その姿は豹のようです。そして第四の獣は、どんな動物にも喩えられない異様で不気味な獣として表現されます。第四の獣とは、ギリシャに続いたローマ帝国のことなのです。

この四つの獣の幻は、明らかにダニエル2章のバビロン王ネブカドネザルの見た巨大な像の夢と並行していることがわかります。ネブカドネザル王が見た巨大な像は、頭が純金、胸と腕が銀、腹と腿は青銅、そしてすねは鉄、足の一部が鉄で、一部が陶土でした。この巨大な不気味な像も世界を制覇する四つの帝国の幻です。純金の頭はバビロン、銀の胸と腕がペルシャ、青銅の腹と腿がギリシャ、そして脛と足が大ローマ帝国なのです。今日、私たちに関係するものとして注目するべきは、ネブカドネザルの見た幻でいえば、脛と足、ダニエルの見た幻で言えば第四の獣です。すなわち大ローマ帝国です。

世界史によれば、ローマ帝国には四つの大転換点があったことがわかります。その第一は、B C753年にローマが建国されたことです。その第二は、イエス様が誕生された1世紀に帝国の絶頂期を迎えたことです。その第三は、紀元395年に帝国が東西に分裂したことです。西ローマ帝国はローマを、東ローマ帝国はコンスタンチノープルを首都としました。その第四は、西ローマ帝国が476年に滅亡したこと、そして、東ローマ帝国が1453年に滅亡したことです。この歴史を俯瞰すると、ローマ帝国はその支配が2000年に及んだことが分かります。

  ローマ帝国の再興

それでは、ローマ帝国は過去の歴史に葬り去られてしまったのでしょうか。それが聖書によればそうではありません。聖書が私たちに明らかにするのは、この世の終わりに臨んで、かつての大ローマ帝国が眼に見える形で再興するということです。あのネブカドネザル王の見た像の脛と足はローマ帝国を指し示すもので、2本の脛と足とは東西ローマ帝国そのものです。そして、その足には10本の指があります。あのダニエルの見た第四の獣の頭には10本の角があります。この像の10本の指、獣の10本の角が何を意味するか、それは、15節から記されている夢の解き明かしにより、終わりの時に起こされる10の王国であることが分かります。それは24節からの解き明かしにより明らかにされることです。そして、その10本の角の間から「別な小さな角が立ち現れる」と8節で語られた角は、もう一人の王であり、その王が25節の解き明かしによれば、聖者たちを疲弊させ、「一年、二年と、半年の間」彼らを支配することになります。これらの記述を読んで、黙示録を読み知る人であれば、この「小さな角」が反キリストの預言であることがすぐ分かるでしょう。

今現在、私たちが聖書から確信させられる真理は、私たちが生きる時代は、世の終わりの終わりであるという事実です。19世紀、20世紀、21世紀に起こったことを聖書と照らし合わせた最新の研究では、主の再臨の前に起こるであろう主要な出来事が、いくつか挙げられています。第一は世界大戦です。すでに第一次、第二次大戦が起こりました。第二は、イスラエル国家の再建です。これは1948年に現実となりました。第三は、ユダヤ人によるエルサレムの完全支配です。その時、間違いなく第3 神殿が建設されることになります。第四は、北の諸国連合によるイスラエル侵略です。これはエゼキエル38章に預言されているゴグ・マゴグ戦争です。第五は世界統一政府の実現です。第六は10の王国の実現です。これがダニエルの見た第四の獣の 10本の角です。第七は、反キリストの出現です。これがダニエルの見た「小さな角」のことです。第八は、偽の平和と偽の安全です。これは反キリストによる支配の初めです。第九は、反キリストとイスラエルの七年契約締結です。そして、週の半ば、すなわち三年半が経過した時から、大患難が臨むことになります。ダニエル7章25節の「聖者たちは、一年、二年と、半年の間、彼の手に渡される」と言われたのは、この大患難のことの預言なのです。

今月5月7日、ウラジミール・プーチンは、クレムリン宮殿の就任式に臨み、5期目の大統領に就任しました。その翌々日の9日には対独戦勝記念式典に臨み、ウクライナ戦争で、戦術核兵器使用の準備を始めたと語り、西側諸国を強く牽制しました。エゼキエル38章に預言された北の諸国によるイスラエル侵略の指導的国家はロシアであります。東ローマ帝国は、オスマン帝国により1453年に滅されましたが、王族や指導者は北のロシアに逃れ、モスクワに拠点を移したと言われています。ロシアの中心的宗教のロシア正教は、キリスト教東方教会の流れを組み、その拠点をムスクワにしています。そのために、昔から、ロシアではモスクワは第三のローマであると言われて来ました。プーチンが目指しているのは、3 代目のローマ帝国として強大なロシアを作ることなのです。歴史は動いています。一つの方向に向かって動いています。主の再臨に向かって動いています。世界には獣のような獰猛残忍な政治が支配して来ましたし、今なお支配が続いています。

  人の子支配の待望

しかし、獣とは全く対照的な「人の子」の支配が、やがて完全に実現することになります。そして、その実現は段階的なのであって、現在進行中です。今の時代にイエス・キリストを信じるキリスト者は、あの昔、サウル王に追われて身を隠したダビデのもとに集まった人々のようです。サムエル上22章1〜2節を読んでみましょう。「ダビデはそこを出て、アドラムの洞穴に逃れた。それを聞いた彼の兄弟や父の家の者は皆、彼のもとに下って来た。また困窮している者、負債のある者、不満を持つ者も皆、彼のもとに集まって来た。ダビデは彼らの長になった。おおよそ四百人の者がダビデと共にいた。」ダビデは、エッサイの八人兄弟たちの中からサムエルによって選び出された時、すでに、彼はやがて王となる器でした。しかし、実際に王として完全にイスラエルを支配するには、幾つもの段階を踏むことによってでした。彼はその段階を忍耐しつつ、踏み従い、サウル王が戦争で死ぬと、12部族のうちユダ部族が彼を王としヘブロンで7年間、王として治めます。しかし、やがて、イスラエル全部族が集まり、彼を王と認めた結果、それからダビデはエルサレムでイスラエルを完全に支配する王となりました。十字架の罪の赦しを成し遂げ、天に昇り王権を授けられたイエス・キリストを信じる私たちは、アドラムの洞穴のダビデに仕えた400人のようです。今現在、依然として人間の手による世界の支配が現実であり、その悲惨な有り様は目を覆うものがあります。しかし、世の終わりに、必ずイエス・キリストが再臨されるのです。その日、その時、世界は王の王なるキリストによる完全な支配が実現することになるのです。このような明るい見通しを持つことが許されている、今を生きる私たちはどうあるべきでしょうか。

ご自分を「人の子」と自覚されたイエス様は、ルカ21章34〜36節で、こう勧告されました。「二日酔いや泥酔や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が罠のように、突如あなたがたを襲うことになる。その日は、地の面のあらゆる所に住む人々すべてに、襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」そうです。求められるのは、「いつも目を覚まして祈っていなさい」祈り待ち望むことなのです。

5月5日礼拝説教(詳細)

勝ち得て餘あり」  ローマ8章31〜39節

では、これらのことについて何と言うべきでしょう。神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。

誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。

誰が罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです。

誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。苦難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。「私たちはあなたのゆえに、日夜、死にさらされ、屠られる羊と見なされています」と書いてあるとおりです。

しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります。

私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。

ハレルヤ!ゴールデンウイークの今日5月5日、共に礼拝できる恵みに感謝しています。いにしえのある詩人が神の言葉を称えてこう歌いました。「主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めはまことで、無知な者を賢くする。主の諭しはまっすぐで、心を喜ばせ主の戒めは純粋で、目を光り輝かせる。主への畏れは清く、いつまでも続く。主の裁きは真実で、ことごとく正しい。金よりも、あまたの純金よりも好ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。」(詩篇19:8〜11)そうです。金よりも純金よりも好ましいもの、それが聖書です。神の言葉です。ゴールデンウィークの今日、私たちは聖書をローマ8章からお読みします。31節から39節です。そして神の祝福を祈りたいと思います。

使徒パウロによるとされる16章からなる、頁数26頁に及ぶこのローマ書を、標高8849m の世界最高峰エベレスト山に喩えるとすれば、16章の中程のこの8章は、その頂上のようだと言うことができます。登山の醍醐味の一つは頂上を極めることです。頂上に立たなければ見えないものが見えてくるからです。では、ローマ書の頂上である8章から見えてくるものは何でしょうか。それが神の愛なのです。37節にこう記されています。「これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります。」

「私たちを愛してくださる方」とは誰のことでしょう。神です。私たちを愛してくださるのは神です。聖書は、神が愛であると教えます。神は私たち一人一人を、例外なく愛しておられると教えます。そして、神に愛された結果、人は勝利者なのだと8章は教えているのです。しかもそれが単なる勝利者なのではありません。「勝って余りあります」他の聖書訳では「圧倒的な勝利者」「輝かしい勝利を収めています。」「悠々と勝つことができる」私は、文語訳を採用して説教題を「勝ち得て餘(あまり)あり」とすることにしました。

勝利者と言えば、皆さんはどんな勝利者を連想されるでしょうか。千秋楽で優勝杯を手にするお相撲さんですか。最終コーナーを回って怒涛のようにゴールに傾れ込む競馬の優勝騎手ですか。選挙で激戦を戦い当選した議員さんですか。オリンピックで晴れの表彰台に立ち金メダルを授与された優勝選手ですか。しかし、圧倒的な優勝者だとされる神に愛されるクリスチャンのイメージは、他のどんなイメージとも全く違うのです。その勝利者のイメージを、この聖書箇所から今日、共に確認することによって、私たちを愛してくださる神を褒め称えることにしましょう。

1.敵対不可

その勝利者の第一のイメージは、神に愛される者には、敵対者がいないということです。「神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。」31節です。これをもっと厳密に訳すと「もし、神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。」です。原文にははっきり「もし」が入っています。この「もし」は条件文を導く言葉で、条件の結果を否定するために使われることもあれば、結果がどうなるか曖昧であることのために使われることもあります。否定を含んで語られたとすれば、「神が味方であるはずがなく、誰彼から皆敵対されてやられてしまう」となることでしょう。曖昧さを含むのであれば、「神が果たして味方かどうか、敵と戦ったら、勝つか負けるか結果は分からない」となります。しかし、ここで「もし、神が味方なら」と言われる場合には、そのどれでもありません。ここでは反語の形式も取ることによって、結果が必ずそうなると確言する強調なのです。「神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。」と条件付きで質問しており、ここには答えが書いてありませんが、その答えは明らかなのです。言わずもがな、「誰も私たちに敵対することはできません」なのです。

では、神様が味方であるので、私たちに敵対することができないその根拠が何処にあるでしょうか。その確かな根拠がここにあると指し示すのが次の32節です。「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。」そうです。神が私たちの味方であられる絶対揺るがせにできない確かな根拠、それは神様が最愛の御子イエス・キリストを私たちのために惜しまず十字架の死に渡されたという歴史的な事実にあります。この「惜しまずに死に渡された方」の背景に、創世記22章の出来事が見えてこないでしょうか。

私たちは信仰の父と言われるアブラハムが神から特別な試練を与えられたことを知っています。彼は、自分の最愛の息子イサクを生贄として捧げるように神様から命じられたのです。それに対して、アブラハムは躊躇することなく命令に従いました。イサクを指定されたモリアの山頂で祭壇を築き、薪の上にねかせて犠牲に捧げようとしました。しかし、ナイフで刺し殺そうとしたその瞬間、天からみ使いが声を掛けてそれを制止しました。「その子に手を下してはならない。あなたが神を畏れる者であることが今、分かった。あなたは自分の息子、自分の独り子を私のために惜しまなかった。」ここに「惜しまなかった」という言葉が使われました。アブラハムがイサクを惜しまず神に捧げようとしたことは、アブラハムの神に対する誠実さ、信仰と愛と従順の表れでした。アブラハムは神に独り子イサクを惜しまず捧げました。しかし、神は、私たちに対して、神の独り子イエス・キリストを惜しみなく与えられたのです。私たちに罪の赦しを得させるために十字架に犠牲の生贄として惜しみなく捧げてくださったのです。ここに神の私たちに対する不動の愛が示されました。ヨハネ第一 4章9節が言う通りです。「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。」神が私たちの味方である根拠は、神が私たちを愛しておられるからです。

旧約聖書のヨシュア記には、ヨシュアがイスラエルの民を率いてエリコの城を倒した物語があります。その5章には、こんな出来事があったと記されています。ヨシュアは、エジプトからイスラエルを奴隷から解放したモーセの従者でした。モーセの死後、イスラエルの民を約束の地に導き入れる大任を果たした人物がヨシュアです。その彼はこの時、大きな壁に直面していました。ヨルダン川を渡河したその先に控えていたのは、堅牢な城壁を構えて敵対するエリコの町でした。ある日のこと、ヨシュアが一人思案している時でした。彼がふと目を上げると、何とそこに抜き身の剣を手にした人がヨシュアに向かって立っていたのです。その時、すかさずヨシュアが口にした言葉があります。「あなたは私たちの味方か、それとも私たちの敵か」そしてそれに対する回答がこうでした。「いや、私は主の軍勢の長である。今やって来たのだ。」ヨシュアの前に立つ人物、それは敵ではなく、味方も味方、天の万軍を率いて立つ軍勢の大将でした。その結果が歴然としています。エリコの城は崩され、イスラエルは大勝利に導かれることになったのです。この時、ヨシュアに味方となられた同じ神様は、私たちの味方としてイエス・キリストが人の形を取って来てくださったのです。

聖書はですから、皆さんにこう語るのです。「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。」神様は最愛の御子を惜しまずに与えてくださったのであるから、何でも必要なものをくださらないはずがない、と言われているのです。今日、皆さんが個人的にどうしても必要としているものは何でしょうか。勿論、何でもいいはずがありません。宝くじを二、三枚買って「神様、一億円が当たりますよう」と祈っても答えられるはずはないでしょう。自分の欲望のためではなく、それが本当に必要なものであるなら、神様に求めれば、与えられないことはありません。「求めなさい。そうすれば与えられます。」祈り求めてください。味方である愛なる父なる神様がきっと与えてくださることでしょう。

.告発不可

勝利者の第二のイメージは告発不可ということです。それは33節、34節に語られている通りです。33節「誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。」そして34節、「誰が罪に定めることができましょう。」誰か人に訴えられる、誰か人に罪に定められる、それは告発されて裁判に掛けられることを意味します。

妻と私は、朝のお祈りの後、朝食が8時前後になるので、朝ドラを見るのが日課になっています。朝ドラ「虎に翼」は愉快ですね。ご覧になっていますか。昭和15年に女性初の弁護士となり鳥取市で活躍された中田正子さんがモデルだそうで、主人公の名前がまた猪爪寅子と滑稽です。虎年生まれなので寅子と付けられ、皆から「トラちゃん」と親しまれています。そのトラちゃんの家族が一大事件に巻き込まれてしまう。銀行に勤める父親が政界を巻き込む大収賄事件に加担したとして告発され、厳しい尋問の末裁判に掛けられるという事態です。先週金曜日は、一年以上審理された最終判決の場面で、固唾を呑んで傍聴席で一同が裁判長に聞き入ります。裁判長はその時「判決を申し渡す。被告全員無罪」その途端、一同が涙して感動する場面でした。

この5月のゴールデンウイークの3日が祝日とされたのは、日本に憲法が施行されたことを記念するためです。何故、祝日にまでして憲法を記念するのでしょうか。それは、人は法律に基づいて共同生活をすることが基本義務であり、日本が法治国家であることを徹底するためです。法律を守ることが国民に求められます。法律を破ったなら告発されて裁かれねばなりません。当然至極のことです。

しかし、聖書のこの箇所で問題にされる告発は、国や県や市の法律問題ではありません。31節の最初の問いかけはこうなっていますね。「では、これらのことについて何と言うべきでしょう」この「これらのこと」とは、直ぐ直前で語られたことを意味すると同時に、これはローマ書1章から語られてきた全てを指して言われているものです。そして、このローマ書のここに至る前の段階で、明瞭に指摘されている真理は、すべての人間が神の前には罪人であるということです。3章10節から18節を読んでみましょう。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を探し求める者はいない。皆迷い出て、誰も彼も無益な者になった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らの喉は開いた墓であり、彼らは舌で人を欺き、その唇の裏には蛇の毒がある。口は呪いと苦味に満ち、足は血を流そうと急ぎ、その道には破壊と悲惨がある。その道には破壊と悲惨がある。彼らの目には神への畏れがない。」そして3章23節はその結果を「人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっています」と一言で語っているのです。聖書を前にして、罪の告発を神の前で免れることのできる人は誰もおりません。皆、神の前に罪人なのです。そして、人は死んだら神の前で必ず裁かれることになります。これは誰も避けることのできない事実です。

にも関わらず、ここに告発されることはない、とうたわれているのです。それは罪を裁く正しい神が、神に選ばれた者を義としてくださるからなのです。神に選ばれた者とは誰のことですか。イエス・キリストを信じるクリスチャンのことです。聖書は、イエス・キリストを信じるクリスチャンは、天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びくださった、と教えています。(エペソ1章4節)私たちはこの神の恵みの行為を絶対恩寵と呼ぶのです。私たちがイエス様を救い主と信じたのは、この神の救いの選びを自分の意志で選ぶ意志の働きの結果です。神は、ただ十字架にかかり罪の赦しのために死なれて復活されたイエスを信じる者に、キリストの義を転嫁してくださるのです。ここに不義なる者を義とする神の義認の恵みがあります。そしてその確かな根拠が、昇天された主イエス様の天上の大祭司としてのとりなしの働きなのです。34節にはこう書いてあります。「誰が罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです。」主が十字架に磔られた時、イエスはこう祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ23章34節)このイエス様は、復活して昇天され、神の右におられ、大祭司としてあなたのため私のためにとりなしておられるのです。それゆえに、死んでも神に裁かれることは決してありません。そのゆえに、勝ち得て余りある勝利者なのです。

ですから、神が義と認めてくださったのですから、自分で自分を裁いてはなりません。自分がどんなに過ちを犯し、罪深いとしても、その罪を悔い改め、告白し、キリストの流された赦しの血で清めていただきましょう。そうであっても、誰かに罪を犯し、過ちを犯し、損害を与えるようなことがあれば、率直に自分の否を認めて謝り、必要であれば損害を償うことをするべきです。また、社会的な違反行為をしたとすれば、当然受くべき社会的な制裁に甘んじなければならないのは、当然です。しかし、感謝しましょう。この地上では罪過ちを犯して告発されることは免れませんが、十字架に罪なき御子が身代わりとなって神の裁きを私たちに代わって受けてくださったので、永遠の審判で裁かれることは絶対にないのです。

.剥離不可

神の愛による勝利者の第三のイメージは、この神の愛から引き離される、分離させられることは絶対に無いことです。35節をご覧ください。「誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。苦難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。」ここに再び反語で強調されていることがあります。それは、神の愛から私をあなたを引き離す、分離させるようなものは何も無いと言うことです。それゆえに、私たちは勝利者だと、勝ち得て余りあると言われるのです。

聖書は神は愛であると教えます。そして、私たちは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして主なる神を愛しなさい。」と戒められています。しかし、その神の私たちへの愛、逆に私たちの神への愛は、ビリビリと引き剥がされてしまうようなことはないのでしょうか。私たちは共に生きていく上で、必要から様々な場で、自分の誠実を誓約することで言い表す機会がありますね。学校に入学する際にも誓約させられます。会社に入社する時にも誓約するでしょう。男女が愛し合い結婚する時にも、結婚式の場で人々、親族、友人の前で誓約するものです。教会で信仰を告白し、洗礼を受ける際にも神と会衆の前で誓約をするものです。

しかし、至る所に私たちが見るのは、誓約が破られ、約束が切り裂かれ、痛ましい傷跡が人々の心と生活に残されている現実です。この35節を書き綴った使徒パウロは、「誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。」と問い掛け、その上直ちに、神と人との間の愛を引き離しかねない具体的な7つの危険を列挙します。「苦難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。」このような危険な状況に、もし実際遭遇したとするなら、誰でも、我慢できなくなって、引き裂かれてしまうと思うのではありませんか。しかし、これは空想上の危険な状況ではなく、使徒パウロ自身が自分の生涯で、実際に生々しく直面し体験し、痛感してきた状況そのものなのです。コリント第二の11章23節以降を読んでみたらもっと驚くでしょう。パウロは自分の受けてきた苦しみをこう語ります。

「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは数えきれず、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度、棒で打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜海上に漂ったこともありました。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」その上で、使徒パウロは証言し、最後39節で「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。」と断定しているのです。

では神の愛から剥離されない、引き離されない根拠は何処にあるのでしょうか。信じた私たち自身には全くありません。使徒パウロは35節で7つの危険な要素を列挙しましたが、更に、38節からこう語ります。「私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。」35節はより具体的な体験ですが、38節以降の要素は、より抽象的であり、目で見えない事柄です。聖書は、これによって、神の愛から人を引き離すことのない根拠が、全く神の愛にあることを明確に強調するのです。神の愛はどこにありますか。何処に表されましたか。そうです。イエス・キリストに表されたのです。神の御子が人となられたことに神の愛が表されました。御子イエスは、人間と一体となり連帯するために人間の形となられたのです。それは神の愛の表れそのものです。神の御子が十字架に罪の犠牲となられた事実に、決定的に神の愛が表されました。十字架に神の永遠の愛、不変の愛、犠牲の愛が余す所なく表されたのです。

それにもかかわらず、しばしば私たちは肉の弱さゆえに、自分に対する神の愛を疑い、こんなことが自分だけに起こるとすれば、これは神が愛することを辞められたからではないかと錯覚してしまいがちなのです。私たちはこの8章の28節で語られている真理を忘れるべきではありません。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。」そうなのです。神は生きて働いておられ、ご計画に従ってことを実行なさっておられます。使徒パウロはある時、自分の体に生じた病気のために祈ったことがコリント第二の手紙12章に記されています。パウロはその病を「私の体に一つの棘が与えられました。」(7節)と言い表します。棘が刺さった経験ある人は分かるでしょう。たとえその棘が小さくても気になるもので、何とか抜き去りたいと思うものです。私たちにはパウロの棘が何を具体的に意味したか判然としないのですが、それが彼を悩ませたことは間違いありません。それゆえに、彼は祈ったのです。「私は三度主に願いました。」しかし、主の答えはこうでした。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」そこで彼の理解は変えられました。そしてこう語ることができたのです。「だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」何という開き直りでしょうか。パウロはこの苦しみによって神の愛が引き離されたと思うより、一層、神の愛の力強さを痛感させられたのです。詩篇119編71節に非常に愛されている御言葉がありますね。「苦しみに遭ったのは私には良いことでした。あなたの掟を学ぶためでした。」神は万事を益とされるほどに私を皆さん一人一人をこよなく愛しておられるのです。その神の愛からあなたを引き離すようなものは、何も実際には無いのです。

5月第一聖日の今日、これから私たちは聖餐式に預かろうとしています。この聖餐式を通じてパンと盃に預かる時、そこに神の愛を再確認する機会とさせていただきましょう。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネ第一4:10)私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝ち得て余りあるのです。ただ神の愛ゆえに圧倒的な勝利者なのです。