2016年2月21日礼拝説教
「神を礼拝する」 ヨハネ4章19〜24節
4:19女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。
4:20わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。
4:21イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
4:22あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。
4:23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
4:24神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
ヨハネによる福音書 4:19~24
礼拝は人としての最高の特権であり義務である。
サマリヤの女が礼拝につき問うのは礼拝の必要性に迫られたからだろう。彼女には何ものによっても満たされない心の渇き、赦されねばならない癌のような罪、癒されねばならない心奥のうずく深い傷、偏見による人種差別の痛みがあった。
彼女はこれらの必要の満たされる正当な礼拝場所を尋ねるが、イエスの答えは全く意想外であった。
「神は霊であるから、礼拝する者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。」礼拝場所などは論外だと。
礼拝場所を特定することは神を空間に閉じ込め、神を制御し、自分の願いを実現させようとする偶像礼拝に通じるのだ。神は特定の場所や時間に制限されるような方ではない。
「神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。」(第一テモテ6:16)
神は目で見ることができないが、生きた人格ある霊なる方である。この霊なる神をイエスは「父なる神」だと紹介された。
人が礼拝するのは人手による偶像ではなく、愛と慈しみと善意に溢れ、信頼する者らを守り、必要を供給してくれる魂の永遠の父としての神なのである。
そのためには、「霊とまこととをもって礼拝」するべきだと教えられる。真の礼拝はただ神の御霊に導かれ、真理の御言葉が語られるときに可能となると主は言われたのだ。
その礼拝の典型を私たちは使徒10章のローマ人百人隊長コルネリオ物語に見ることができる。
聖霊に不思議と導かれて訪ねた使徒ペテロが御言葉を語り出すと聖霊が一同に臨み、聖霊の賜物がダイナミックに与えられた。生ける神に触れられる礼拝がそこに現出している。
それは全く新しい礼拝の時代の到来であった。
今私たちはその恵みの時代に生かされ、渇きが満たされ、罪が赦され、傷が癒され、和解がもたらされる礼拝が可能とされているのである。
2016年2月14日
「充実の時を生きる」 詩篇1篇1〜6節
1:1悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、
あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
1:2このような人は主のおきてをよろこび、
昼も夜もそのおきてを思う。
1:3このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、
その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
1:4悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。
1:5それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。
罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
1:6主は正しい者の道を知られる。
しかし、悪しき者の道は滅びる。 詩篇 1:1~6
詩篇1篇は「いかに幸いなことか」と祝福が冒頭に来る。
その祝福された幸いな人は流れのほとりに植えられた樹として、その反対の災いな人が籾殻に喩えられている。
幸いな人は「正しい者」、災いな人は「悪しき者」と呼ばれるが、倫理道徳的な意味ではない。その違いは何か。
その人が主なる神を信じるか信じないかの一点にかかっている。
信じないならその人は風に吹き払われる籾殻同然に無価値だ。
イエス様を主と受入れた者は不義なる罪人だったが「正しい者」とされ、神の恵みと憐れみにより神の基準に全くかなう者とみなされているが、それでも赦された罪人にすぎない。
だが信じる者は時が来ると実を結ぶ。義の実を結ぶようになる。
「純真で責められるところのないもの」とされるのだ。(ピリピ1:10)愛の実をも結ぶようになる。
御霊の実とよばれる愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制は皮に包まれたミカンのひとつひとつの房のようだ。
品性の結ぶ実でありキリストの御性質にあずかるのである。
目に見えるかたちで結ぶ実は福音を語ることによって魂が回心することだ。
信仰により正しい者とされると証しの実が期待されている。
どんなに魅力に惹かれても神を信じない者に組してはならない。
樹が果実を実らせるため水源に根を張るように、主のおきて(トーラー)を瞑想することが肝要である。
樹は時が来ると、決定的瞬間を迎える。実がなる。生命の神秘だ。だから自分を責めたり他人を非難したりしないようにしよう。
実を結ぶには十分な滋養と時間を要するに違いない。みな成長し成熟する過程にあることをわきまえて、互いにつまづかないようにしよう。
栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられていくのである。
聖書は人を厳密に二種類に分類する。信じる者と信じない者である。グレーゾーンはない。あなたはどちらか問われている。
信じる者はいかに幸いなるかな。
2016年2月7日礼拝説教
「虫けらのヤコブ」 イザヤ41章14~16節
41:14主は言われる、「虫にひとしいヤコブよ、イスラエルの人々よ、恐れてはならない。わたしはあなたを助ける。あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。
41:15見よ、わたしはあなたを鋭い歯のある新しい打穀機とする。あなたは山を打って、これを粉々にし、丘をもみがらのようにする。
41:16あなたがあおげば風はこれを巻き去り、つむじ風がこれを吹き散らす。あなたは主によって喜びイスラエルの聖者によって誇る。 イザヤ書 41:14~16
主は民に「恐れてはならない」と言われました。恐れは相手の力に押されて心が弱くなり、とてもかなわないと思い怖がる情動です。
イザヤがBC750頃に預言したこのメッセージは150年後に民にとり現実となり、北の大国バビロンに征服され、王をはじめ大勢が捕われ捕囚とされてしまった。イスラエルの民はそそり立つ巨大な山岳の前の虫けら同然です。
歴史に翻弄された民のように、私たちもまた生活に支障を来たす難題によって恐れに圧倒されることがあるでしょう。
しかし、主は「わたしはあなたを助ける」と約束され、民を決して見捨てないイスラエルの聖者であるとご自身を啓示されたのです。
そればかりか、ミミズのような虫けら同然の民を「鋭い歯のある新しい打穀機とする」とまで約束され、山のような大国バビロンが粉々に粉砕されることが予告されている。
それがどのように実現したのか、事実は新興ペルシャ帝国の初代大王クロスによったことが歴史で明らかです。
バビロンを制覇したクロス王はイスラエルを解放し、祖国帰国を命じ、神殿は再建され国家再建が実現することとなった。
この歴史を動かしたのはいったい誰か?聖書は「わたしがそれだ。」(41:4)と主であると証言している。
それから数百年後、ペテロが「あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」(ヨハネ6:69)と告白したとき、主なる神が主イエスによって私たちの聖者ともなられたことを知ります。
十字架に罪の赦しを得させるために命を捨てられた主イエスは、信じる者をどのような苦境にあっても見捨てることなく助けて下さる聖者です。
「わたしは虫であって、人ではない。」(詩編22:6)主イエスは侮られ虫のように十字架で踏みつぶされた。その受難によって私たちを救われたのです。
「恐れてはならない」何を誰を恐れるでしょうか。虫のように小さく弱く思えるとしても恐れることはありません。
主が驚くべき仕方で助けてくださるからです。
泉佐野福音教会
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