2016年7月礼拝説教

2016年7月31日礼拝説教

 

         「主の御名の秘義」     出エジプト記3章13〜15節 

 

3:13モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。

3:14神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。

また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

3:15神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。

これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。    出エジプト記3:13~15

 

 名付け、名乗り、名を呼び合うことは日常茶飯ではある。だがその意味することは深く、名に負うところは大であります。

 民を奴隷から解放されるべく遣わされようとするモーセが神の名を問うと、神の啓示は『わたしは有る』であった。

 その民の先祖にご自身をすでに『主』と啓示されていた神が、この不可思議な名を何故あらためてモーセに啓示されたのだろう。430年の永きにわたりエジプトで虐げられていた民が先祖の神の名『主』を知らないはずはなかった。だが、彼らにはアブラハムをはじめその先祖が信頼した主なる神が、彼らの過酷で惨めな境遇に、どのように関係なされるのか知るよしもなかったのだ。

 『わたしは有る』であるとはいかなる意味だろう。

 その言語の意味からすれば神が単に存在される以上のことであり、むしろ、その意味するところは、神が生きて働き、あらゆる状況の中にも力強く介入行動される方であることを指し示すものです。

 モーセは人間的には解決不可な困窮する民に遣わされている。それはこの『わたしは有る』と自己啓示された神が、奴隷から解放することを決意されていたからに他なりません。この神の名の啓示は、神の御子を信じる私たちにも深く関ります。何故ならイエスが「あなたが選んでわたしに賜った人々に、御名をあらわしました(ヨハネ17:6)」と祈り、御子が人のかたちで来られた目的が神の御名の啓示のためでもあったことから分ります。

 あの弟子達がガリラヤ湖上の大嵐に翻弄された際に、波の上を歩き近づかれたイエスが、『しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない』と激励するや嵐は直ちに鎮められてしまった。『わたしである』とはあの『わたしは有る』であり、言ってみればイエスはそれによって神の名を啓示したのだ。イエスは今や私たちの主として、どんな状況に私たちが置かれたとしても『わたしだ』と語られ、波を鎮めてくださる。それゆえに恐れることは何もないのです。


2016年7月17日礼拝説教

 

          「生ける神のみ手」          ヘブル10章31節

 

10:31生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。    へブル人への手紙 10:31

 

 『生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。』主なる神は今生きておられます。手を伸ばすことも歩くことも話すこともできない「きゅうり畑のかかし」のような偶像ではありません。

 神は、人間を塵で形成し息を吹き入れた命の源泉です。

 人が重要な誓いを立てるときは、「主は生きておられる」と宣言し、約束を破るなら保証する神が私を罰せられると自覚したものです。

 人は神に造られ、神の前に責任ある存在です。

 神は目に見えない霊なる方です。神に手があるように語られたのは、手で働く人間にたとえた擬人法という表現です。それは生ける神が力ある不思議な業をなされることを意味します。

 430年も過酷に虐げられた奴隷のイスラエルの民が解放されたのは生ける神の不思議な業でした。

 生ける神の御手が差し伸ばされ、人は導き支えられます。神の御手とは導きと守りのシンボルです。

 生ける神は人の人生を導き守り支えられるのです。だがしかし、この聖句で「み手のうちに落ちるのは恐ろしいこと」とするのは何故でしょう。

 前後で明らかなことは、この警告が意図的に徹底して神に逆らう背教者たちになされていることです。

 主イエスを受入れ洗礼を受けた後にも、肉の弱さゆえに罪過ちを犯すことはあります。その過ちを犯した者への警告ではありません。

 過ちを示されたなら悔い改め祈るなら十字架の血で清められ赦されます。

 生ける神のみ手に落ちる恐ろしさよりむしろ、生ける神のみ手に導かれる素晴らしさを覚えましょう。

 広く歌われる「主は今生きておられる」の作詞作曲家のガイサー夫妻は、60年代の混沌としたアメリカ国内情勢の中で、生まれて来る赤ちゃんの将来に不安を感じたその時、「子供を授かるのはイエス様が生きておられるから」と気付き、この歌が生活の中から滲み出てきたのです、と証言しました。

 生ける神のみ手に導かれて生きる幸いに感謝しましょう。


2016年7月10日礼拝説教

 

       「ヨベルのラッパを響き鳴り渡らせよ」   レビ記25章8〜12節

 

25:8あなたは安息の年を七たび、すなわち、七年を七回数えなければならない。安息の年七たびの年数は四十九年である。

25:9七月の十日にあなたはラッパの音を響き渡らせなければならない。すなわち、贖罪の日にあなたがたは全国にラッパを響き渡らせなければならない。

25:10その五十年目を聖別して、国中のすべての住民に自由をふれ示さなければならない。この年はあなたがたにはヨベルの年であって、あなたがたは、おのおのその所有の地に帰り、おのおのその家族に帰らなければならない。

25:11その五十年目はあなたがたにはヨベルの年である。種をまいてはならない。また自然に生えたものは刈り取ってはならない。手入れをしないで結んだぶどうの実は摘んではならない。

25:12この年はヨベルの年であって、あなたがたに聖であるからである。あなたがたは畑に自然にできた物を食べなければならない。      レビ記 25:8~12

 

 教会創立50周年おめでとう。過去を顧み未来を展望するために何事でも10年、30年、50年と記念することは大切である。

 神は創造の御業を6日かけて行い7日目を安息の日とされた。

 田畑については6年耕し7年目は安息年と規定されている。

 レビ記25章では7年を7回数えその翌年にはラッパの音を響き渡らせと命じられる。

 この特別な年 50年目はヨベルの年と呼ばれ、奴隷は解放され、借金が免除された。ラッパは福音の象徴であり、私たちは解放と自由の福音を広く宣べ伝える責任がある。

 主イエス様はナザレの会堂で「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために」とご自分についてイザヤ61章を引用され、宣教のために聖霊の必要を語られた。

 その主の十字架の罪の赦しを得た私たちは、しかしながら弱さのためにその福音宣教の責任を十分果せないのが現実ではないか。

 そのような私たちのために新約聖書にも50の数字が備えられている。

 主が復活されてから50日目、ユダヤの五旬節の日に120名の祈り備えた弟子たちのうえに聖霊が下ったのだ。

 「ただ聖霊があなたがたの上に臨むときに、あなたがたは力を得てエルサレムをはじめ、、、、わたしの証人となる」と約束された御霊である。

 御霊無しには福音、良きおとづれをラッパのように人々に語り伝えることはできない。

 よみがえられた主イエス様は弟子達に「見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい(ルカ24:49)。」と命じられた。

 その力が聖霊により授けられたときから弟子達は変えられ、大胆に証ししている。

 開拓以来、半世紀を経過した今、泉佐野福音教会が求められていることは、罪からの解放を得させる福音を広く証しすることではないか。(山城晴夫師)


2016年7月3日礼拝説教

 

          「道は必ず開かれる」      イザヤ43章14〜20節

 

43:14あなたがたをあがなう者、イスラエルの聖者、主はこう言われる、

「あなたがたのために、わたしは人をバビロンにつかわし、

すべての貫の木をこわし、カルデヤびとの喜びの声を嘆きに変らせる

43:15わたしは主、あなたがたの聖者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である」

43:16海のなかに大路を設け、大いなる水の中に道をつくり

43:17戦車および馬、軍勢および兵士を出てこさせ、これを倒して起きることができないようにし、絶え滅ぼして、灯心の消えうせるようにされる主はこう言われる

43:18「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、また、いにしえのことを考えてはならない

43:19見よ、わたしは新しい事をなす

やがてそれは起るあなたがたはそれを知らないのか

わたしは荒野に道を設けさばくに川を流れさせる

43:20野の獣はわたしをあがめ山犬およびだちょうもわたしをあがめる

わたしが荒野に水をいだしさばくに川を流れさせてわたしの選んだ民に飲ませるからだ

                               イザヤ書 43:14~20

 

 教会創立50周年を記念しようとするとき、バビロン捕囚から解放された民の経験に重ね合わせ、私たちは神の御声を聞くことができます。

 紀元前500年頃、民は罪の堕落により異国のバビロンに捕囚とされたが、主はバビロンを滅ぼし民を捕われから解放すると宣言されました(14節)。

 教会50年の歩みも決して平坦な道ではなく、近年も離反し教会から去る人々があり、教会は苦渋を経験したのですが、主は共におられその痛みを和らげ、一人一人を慰め立て直して下さいました。

 しかしながら、民を解放すると宣言された同じ主が禁止命令を発し、「あなたがたは、さきの亊を思い出してはならない(18節)」と語られたのは何故でしょう。

 さきの事とは祖先が経験した輝かしいエジプト奴隷からの解放です。

 彼らは過越祭や仮庵祭によって忘れないよう記念していたのですが、その過去の追憶が必ずしも未来に向う力にならず、むしろ懐古趣味に陥っていたからです。

 捕囚生活といってもかなりの自由が確保され、バビロンにおいて民の生活は比較的安定し、そのために一千キロも遠く危険な旅をし、荒廃した祖国を再建する課題に無気力になっていたのです。

 私たちの教会にとっての脅威は外部にではなく私たちの内にあります。

 過去の輝かしい活動を懐古し、美しい立派な教会堂と安定した諸集会に安住し、主がその血をもって罪から買取られた教会の本来の使命に無気力になるとすれば、大きな問題です。

 主は「見よ。わたしは新しい事をなす。」と未来に目を上げるよう促されます。

 民にはかつての出エジプトの奇蹟よりももっと大いなる御業を成されると、「荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる」と約束されます。

 エズラ15節には、神にその心を感動された者、およそ5万人が復興のために立上がったと記録しています。

 主は何を私たちの教会を通してなさろうとされるのでしょう。