8月27日礼拝説教
「人生の嵐」 マルコ 4:35~41
4:35さてその日、夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。
4:36そこで、彼らは群衆をあとに残し、イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した。ほかの舟も一緒に行った。
4:37すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。
4:38ところがイエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスをおこして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。
4:39イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになった。
4:40イエスは彼らに言われた、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」。
4:41彼らは恐れおののいて、互に言った、「いったい、この方はだれだろう。風も海も従わせるとは」。
マルコによる福音書 4:35~41
ある時イエス様が向こう岸へ渡ろうと言って舟に乗りこんだ後大嵐がやってきました。
弟子たちはパニックとなり慌てふためき、右往左往しています。ガリラヤの事を良く知っている漁師達でさえも「私たちはおぼれそうです」と大騒ぎしているのでよっぽど激しい嵐だったのだと思います。彼らの経験、力、知恵によっても解決できない事態となりました。
「イエス様は?」弟子たちはイエスを起こして「主よ。助けて下さい」ではなく「私どもがおぼれ死んでもおかまいにならないのですか」と言っています。
弟子たちは旧約聖書の中に「あなたは海の荒れるのを治め、その波の起こる時これを静められます。主が嵐を静められると海の波は穏やかになった」と言うみ言葉を知識として頭では理解していましたが、想定外の状況ではそれを生かすことはできないばかりか、嵐を見て怖くなり、これまでイエスはどんな困難時でも自分たちを守り、支え、導いて下さったという事も忘れ、イエス様の介入を待つ事が出来ずイエスへの信頼も信仰も無くしてしまいました。
しかし39節イエスは起き上がって風を叱り海に向かって「静まれ。黙れ」と言われると風はやんで大なぎになったと記されています。
静まれと言う動詞は英語では「口輪をはめる」「口を封じる」と言う意味で「湖に口輪をはめよ、口を封じよ」と言うことになります。
イエスは弟子達に「なぜそんなに怖がるのか、どうして信仰がないのか」と言われます。
弟子たちは恐れおののいて「一体このかたは誰だろう、風も海も従わせるとは」と語っています。
イエス様と寝食を共にし、イエスがなされる数々の業(病人の癒し、死人のよみがえりなど)を見、イエスに従ってきた弟子たちですが、イエス様の事を本当の意味で理解していなかったのだと思います。しかしビフォーアフターではありませんが、確かに弟子たちは嵐に弄ばれる経験を通しイエスの実態に触れ、イエスへの認識が変えられました。
み言葉でもって全地を創造された神は自然界をも支配しておられることを知った弟子たちは、嵐を恐れていたものから神を恐れる(畏怖の念)者へと変えられ、彼らの信仰は強められていきました。嵐の中でイエスは神としての権威を発揮し弟子たちを守られました。
キリシタン迫害の時代、ある一人の人が、キリストを否定せず信仰を貫き等したため、翌朝9時に火あぶりの刑に処せられるため独房に入れられた。明日の事を思うと眠れなかった。
すると部屋の隅に1本のろうそくが燃えていた。どれくらい熱いかと思い手をかざすととても熱かった。ろうそくの火1本でさえ耐えられない自分。明日の朝全身が焼かれてしまうことにとても耐えられない。どうなるんだろうと床にひれ伏し泣いて祈るうちに寝てしまう。
ところが朝目が覚めると全身に力がみなぎっていた。そして刑場に行く途中も恐れることなく神をほめたたえながら死んでいったと言う事です。
肉体は死んでも神は最後の最後まで彼らを守られました。神は私たちに世とは異なる平安(苦難がなくなるとかではなくどんな困難の中にあっても奪われない平安)を与えてくださり、また苦難を通して信仰を成長させて下さいます。
私たちの全てを知ってくださる主が共に居てくださるゆえ、どんな問題、嵐がやってきても乗り越える力を与えてくださいます。
8月20日礼拝説教
「風は思いのままに」 ヨハネ3章1〜9節
3:1パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。
3:2この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。
3:3イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
3:4ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。
3:5イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。
3:6肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。
3:7あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。
3:8風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。
3:9ニコデモはイエスに答えて言った、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」。
ヨハネによる福音書 3:1~9
私たちは9月22〜24日に三日連続した聖書講演会を、その講師に野口一郎師を招き実施予定にしているが、それが何を意味するかヨハネ3章が明らかにしている。
宗教家で有力議員だったニコデモが好意的に挨拶をしたが、『だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない』と唐突に主イエスは答えられた。
人は誕生すると母の胎内では経験しえない世界を見ることになる。
しかし新しく生まれるとは、自然の誕生ではない。上から、天から、神から生まれる特別な霊的誕生を意味する。神を見ることはできない、また神を見た人はいない。
だが、霊的誕生者は神の国、神の支配の現実を認識することができるようにされる。
9月の特別集会は、ある人々にとって特別な霊的誕生日となることを意味する。しかもその誕生は人間の生殖機能、人間的努力、工作にもよらず、神の聖霊による。
主イエスは続けてニコデモに、『風は思いのままに吹く。』と語られ、聖霊による新生体験を自然の風で比喩的に説明された。
台風5号は記録的な長寿台風だった。その蛇行した軌跡を気象衛星が把握できたが不可解だった。
風が思いのままに吹くように、聖霊は人智予測を超えて自由に主権的に行為される。人が霊的に誕生するのを、なぜか誰も説明できない。自分自身の改心でさえ説明できるだろうか。
人が救われるのは神の愛のなせる奇跡的な聖霊による働きなのです。
神の聖霊は9月の特別集会に際して激しく吹き付け、改心の奇跡を起こされる。だとすれば、教会は霊的な親となることが求められている。父となり母となる親が子の出産を控えて準備するように、備えるべきであろう。
私たちが霊的に子を生み出す親となる決意を祈りにより表明し、具体的に名を挙げて執り成す祈りを開始し、その方々を訪ね、安否を問い、集会には一緒に出席参加できるよう配慮し、主イエスを恵みにより受け入れた改心者を、あとあとまでお世話するよう心がけたいものです。
泉佐野福音教会
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