11月19日礼拝説教
「収穫の主に願う」 マタイ9章35−38節
9:35イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。
9:36また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。
9:37そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。
9:38だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。
マタイによる福音書 9:35~38
主イエスはその弟子たちに、『収穫の主に願え』と特別な祈りの課題を与えられました。『収穫のために働き人を送り出すように』祈れと。それゆえに教会はこのために祈るべきです。これは祈りの家である私たち教会にとって喫緊の祈祷課題です。
農夫が秋に豊かな実りを期待するように、罪により堕落した人類が、神との正しい関係に一人ひとり立ち返ることを実りとして、神は期待しておられます。
農夫が耕し、種まき、苗を忍耐強く手入れして収穫を期待するごとく、収穫の主である天の父は、アブラハムを選び、神の民イスラエルを興し、救い主として御子イエスを世にお遣わしくださいました。罪の赦しを得させる十字架の死と復活により、神の畑である世界は今や収穫の季節です。
使徒パウロが、『見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。(IIコリント6:2)』と言明したのはその意味でした。
麦を刈り取る農夫が実とカラをふるい分けるように、収穫の主は、人が御子を救い主として信じるか否かにより、ふるい分けておられます。
この御子の福音を伝える働き人を送り出すように祈れ、と主が言われるのは、人は神の言葉を聞いて信じることにより救われるからです。
宣べ伝える働き人がなければ、熟した実が腐るように、人は滅びてしまうのです。
「収穫は多い」だから祈れ、とも主は言われました。
主は群衆が「飼う者のない羊のように弱り果てて」いるのをご覧になられるからです。人間の困窮した状態が収穫の多いことを意味します。
人間の行き詰まりは神の働きの機会であるからです。その働きを実行する人が少ないこと、これが今現在でも決定的な問題です。
統計によれば日本のキリスト教界の牧師や伝道者の平均年齢は60歳を超えています。後に続く働き人の興されることが死活問題です。
主は「あなたが行け」とは言われず、『願いなさい』と言われます。宣教の働きは人間の思惑によらず宣教の主の主権的な業であります。
主は必ずや祈りに応えてふさわしい人材を興してくださることでしょう。
11月5日礼拝説教
「逆転の確信と警鐘」 ルカ16章19−31節
16:19ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。
16:20ところが、ラザロという貧乏人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、
16:21その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。
16:22この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。
16:23そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。
16:24そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。
16:25アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。
16:26そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。
16:27そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。
16:28わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。
16:29アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。
16:30金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。
16:31アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。 ルカによる福音書 16:19~31
主イエスにより語られた『金持ちとラザロ』の説話は、二幕の舞台劇のようです。
この二人は経済的に見て際立って対照的です。金持ちは毎日贅沢三昧なのに、ラザロは貧しさを通り越して乞食同然です。
聖書は富とその所有を否定、非難することはありません。経済は生きる上で大切な手段です。一方で富める者と貧しい者の格差は現代社会の深刻な問題でもあります。
因果応報論は、その人の行った善や悪の結果であるとか、生前の所業の応報だと説明するでしょう。善悪二元論によれば、この世の不合理や理不尽な不公平の原因は善神と悪神の争いにあるとします。
ところが聖書は『富む者と貧しい者とは互いに出会う。これらすべてを造られたのは主である。(箴言22:2)』と神の摂理を教えます。一見理不尽に思える不公平な現象も実は、そこに目的があることを意味するのです。
ある日乞食ラザロが死に、同じ日に金持ちも死にました。身分や所有の多少の違いがあっても誰しもがこの世の生の幕を死によって閉じなければなりません。同じその両者は、その死で終わりではなく、全く立場を逆転され黄泉に現れました。
黄泉は死者が最後の審判まで留められる場です。金持ちは火炎に苦しみ、ラザロは天上の豊かな食卓に憩います。
恐ろしいばかりの金持ちの逆転は、摂理のうちに神が彼を富める者とされた目的を果たさなかった為さざる罪の故でした。
彼は自分が金持ちであるのは神から祝されたしるしと思い込み、その祝福を独り占めにしていたのです。富財産の所有は多少にかかわらず、それをどのように使うかが問われるのです。
乞食が死後の至福に預かった理由はその名にありました。
ラザロとは「神は我助け」を意味し、彼は自分が神の前に無一物であることを認め、神に信頼し、従おうとする信仰があったからです。主が『あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。(ルカ6:20)』と祝福されたのはその意味です。
死後の逆転を予見させるこの説話により真剣な自己吟味が求められているのです。
泉佐野福音教会
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