1月28日礼拝説教
「暗い谷を歩むとも」 詩篇23篇1〜4節
23:1主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
23:2主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
23:3主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
23:4たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。 詩篇 23:1~4
「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。」勇猛果敢な名王ダビデの発言とあれば、さもありなんと思いがちです。
しかしながら彼も人の子、死の危険に遭遇すれば恐れたことは歴史の事実です。迫害するサウル王を恐れ、身を寄せて避難できると期待したペリシテ王のアキシの面前で、立場が危ういとなればヨダレを垂らして狂人を演じさえしたのです。
恐れは人を萎縮させ変容させます。陰が光に照らされた実体を想像させるように、遭遇する災難は人に死を予感させるものです。
死とは存在の否定、抹消であり、関係の断絶です。時にはそのような暗い人生の谷間を歩むことは避けられないことでしょう。大なり小なり種々様々な試練に遭遇するであろうことは避けて通れないのです。
幸いなことは、ダビデが死の陰の谷を克服した秘訣を、今日の我々も共有できることです。その秘訣は『あなたがわたしと共におられる』からです。
突然にダビデが呼びかけた『あなた』が誰であるのか、ダビデは数字によって暗示しました。この呼びかけ前半を26文字で、後半も彼は26文字に収めて歌います。この26という数字が指し示すものが「あなた」なのです。何と原語四文字で表記される神の名が数字に換算すると26なのです。
その御名こそ『主』なのです。
ダビデは最初のフレーズで『主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。』と歌いました。主なる神が羊のそばにいつも寄りそう羊飼いのように共にいてくださるので、わざわいを恐れない、と告白したのです。
この23篇の前に置かれた22篇は、「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。」に始まる有名な受難の主イエスの預言的詩篇でもあります。ダビデと共にいてくださった主が、十字架により救いをもたらされた主イエスであることを意味します。
「わたしは良い羊飼いです。」と言われたイエスは死から復活し、日々に共にいてくださいます。
人生の暗い谷間を行くことがあっても、牧者なる主イエスのゆえに恐れることはないのです。
1月21日礼拝説教
「福音を恥とせず」 ローマ1章8〜17節
1:8まず第一に、わたしは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられていることを、イエス・キリストによって、あなたがた一同のために、わたしの神に感謝する。
1:9 1:10わたしは、祈のたびごとに、絶えずあなたがたを覚え、いつかは御旨にかなって道が開かれ、どうにかして、あなたがたの所に行けるようにと願っている。
このことについて、わたしのためにあかしをして下さるのは、わたしが霊により、御子の福音を宣べ伝えて仕えている神である。
1:11わたしは、あなたがたに会うことを熱望している。あなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて、力づけたいからである。
1:12それは、あなたがたの中にいて、あなたがたと
わたしとのお互の信仰によって、共に励まし合うためにほかならない。
1:13兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしはほかの異邦人の間で得たように、あなたがたの間でも幾分かの実を得るために、あなたがたの所に行こうとしばしば企てたが、今まで妨げられてきた。
1:14わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。
1:15そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。
1:16わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。
1:17神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。 ローマ人への手紙 1:8~17
「わたしは福音を恥としない。」何と奇異な発言でしょうか!恥としない、実はその二重否定の背景には、当時の世界に重くのしかかる福音への強烈な反発があったのです。
福音とは御子イエスの十字架の死と復活です。
救い主の残酷な磔刑による刑死、それはユダヤ人にはまさに躓き、異邦人には当然馬鹿げたものでした。パウロ自身も嫌悪したばかりか、その福音信奉者たちを激しく迫害したのです。
しかしながら、復活のイエスの顕現をその身に受け、ダマスコ途上で改心したパウロは神の力を全存在で体験させられました。彼は世界の否定的な重圧を跳ね飛ばしてしまう、救いを得させる神の力を福音に確信したのです。
福音は今日の日本の状況においてもその力に変わりはありません。明治維新以来、150年が経過しても、クリスチャン人口が伸び悩む現状ではあっても、「福音を恥としない」それが私たちの確かな姿勢でありましょう。
なぜなら、十字架の贖い、罪の赦しのみが、人間を永遠の滅びから救い、神との本来あるべき正しい関係に立ち戻らせる神の業だからです。
神を天地万物の創造主と認めず、偶像崇拝に陥り、自分を神格化して好き勝手に生きようとする者は、それとも知らずに、神の怒りの下に置かれているのです。
神を認めない者が、したい放題にしていること自体が、神の怒りのその表れであると聖書は啓示します。偶像を拝み、汚れた情欲に溺れ、歪んだ発言行動の全てが神の怒りの表れなのです。
神が「任せられた(24,26,28)」放任こそが神の裁きなのです。人はそれによって罪に罪を重ね、最後の審判の日に永遠の滅びに定められるのです。
ただ十字架のみです。御子が滅びを引き受け、身代わりに裁かれ給いました。その義を信じる者に転化してくださったのです。神は信者を義とし賜うのです。これ以外に救いは無い。
この福音をこの現実社会で生き、この福音を宣べ伝えましょう。福音を聞いて信じて人は救われるのですから。
この良きおとづれを体験した者として、心から主に感謝し礼拝したいものです。
1月7日礼拝説教
「聖霊による一致」 エペソ4章1〜6節
4:1さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、 4:2できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、 4:3平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。エペソ人への手紙 4:1~6
「あなたがたが召されたその召し」そうです、神は召される神、人を呼び出される神です。無から有を呼び出される神により、人は人間存在に呼び出されたのです。
しかしながら罪の堕落により神との関係が断たれた結果、失われた人間存在の価値と意義を回復するため、神は御子を犠牲にし、救いの恵みへと私たちを呼び出されました。その召しの具体的な形こそ教会なのです。
教会はエクレシア、この世から神に召された者の信仰共同体です。身体のように有機的に一つのまとまりのある集まりです。一致を造り出すよう努力せよではなく、召されて入れられた教会の既にある一致を保つよう努めよ、と勧告されるのです。
その尊い一致の実現のため主イエスは受難直前に祈られました。(ヨハネ17:11,21,22,23)
その一致の目的が、それによってこの世が福音を信じるようになるためであることをも、主は明らかにされました。
では1868年の明治維新以来、福音が日本に宣教師らによって伝えられ、150年が経過したにもかかわらず、クリスチャンが人口の1%にも満たないのは何故でしょう。
明治維新よりはるか以前、1549年にフランシスコ・ザビエルが薩摩に到来し、福音を伝えた結果、その後90年間に当時のクリスチャン人口が40万人を数えた歴史事実があります。
しかしながら厳しい弾圧で壊滅し、幕府により敷かれた鎖国政策、キリスト教禁止令により250年の長期間、日本は福音に心を閉ざしました。
私たちはともすると封建武家制度を非難しがちですが、鎖国の原因が実は、歴史的検証によれば、当時の欧州列強の植民地政策にあったことが明白です。
欧州の諸帝国が、布教によって民を手懐け、ついには武力で植民地化する魂胆を危険視した幕府が、防衛のため取らざるを得なかったのが鎖国だったのです。そのため日本の心理深層に植え付けられたキリスト教に対する批判精神は根強いものがあります。
しかしそれを乗り越え宣教を可能にするのが聖霊による一致です。
聖霊により愛の一致を保つときに驚くばかりの変革を必ずや見ることでしょう。
泉佐野福音教会
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