2月25日礼拝説教
「惑わず慌てず」 マタイ24章1〜14節
24:1イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。
24:2そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」。
地方出の弟子たちは、壮麗にそびえる神殿に見とれたその瞬間、その神殿がやがて粉砕されるとの主イエスの予告には仰天したことでしょう。その40年後に、ローマ軍に包囲され、百万人が虐殺され、神殿が焼き払われた歴史事実を私たちは知っています。
それから2千年が経過した今現在、世界規模の山積する問題を抱える人類は、一体これからどこに向かおうとしているのでしょうか。
弟子たちがその時、思わず口にした「世の終わり」とは果たして確かな裏付けのある歴史観なのでしょうか。私たちは聖書の中に、神の霊によって動かされた真理を語った使徒たちの証言に、確かな確証を得ることができます。
使徒ペテロもパウロもヨハネも確信した真理は、私たちの生きる時代はまさに「終わりの時」であることです。ヨハネの証言だけでも十分でしょう。
『子供たちよ。今は終りの時である(ヨハ1 2:18)』悠久の人類歴史は終局に向かいつつある!それが聖書の証言です。
主イエスが「人に惑わされないように気をつけなさい。」と警告されるのは、この時代にこそ、神を度外視して自分の力でユートピアを実現しようとする傲慢な理想主義者が、次々と立ち上がり人を惑わすからです。それが政治家であったり宗教家であったり科学者であることは実証済みです。
彼らは「我こそは社会の難題を完全に解決できる救い主なのだ」と言うのです。主イエスが「あわててはいけない。」と命じるのも、困難な終わりの時代に生きる私たちの陥りがちな傾向に対する警告です。
戦争、ききん、地震など手に余る災難が降りかかる時に「ああもう世の終わりだ」と絶望する危険性があるからです。
もっと深刻なのは「愛が冷えること」です。愛することが最大最高の戒めとされる教会に愛の冷え込みが顕著になることに注意しましょう。
そして世の終わりとはキリストの栄光の再来の希望であることを覚えましょう。この時代にこそあの愛の章の一節を堅持することが肝心なのです。
「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。」 (Iコリント13:13)
2月18日礼拝説教
「つらつら凝視す」 出エジプト33章12〜23節
33:12モーセは主に言った、「ごらんください。あなたは『この民を導きのぼれ』とわたしに言いながら、わたしと一緒につかわされる者を知らせてくださいません。しかも、あなたはかつて『わたしはお前を選んだ。お前はまたわたしの前に恵みを得た』と仰せになりました。
33:13それで今、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、どうか、あなたの道を示し、あなたをわたしに知らせ、あなたの前に恵みを得させてください。また、この国民があなたの民であることを覚えてください」。
33:14主は言われた「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」。
33:15モーセは主に言った「もしあなた自身が一緒に行かれないならば、わたしたちをここからのぼらせないでください。
33:16わたしとあなたの民とが、あなたの前に恵みを得ることは、何によって知られましょうか。それはあなたがわたしたちと一緒に行かれて、わたしとあなたの民とが、地の面にある諸民と異なるものになるからではありませんか」。
神様が本当におられるなら、直接に会って一目でも見ることができたらいいのにと、心のどこかにそんな思いが誰にでもあるはずです。
モーセは思っただけではなしに実際に見ることを神様に願ったその人です。
イスラエルの民をエジプトの奴隷生活から解放する大任を果たしたモーセを待ち受けたのは、民が勝手に鋳物の金の子牛に熱狂して拝み騒ぐ偶像崇拝事件でした。
その犯罪ゆえに滅ぼされて当然の民のために、謙遜な指導者モーセが真摯に神にとりなした結果、赦しを得たばかりか神が約束の地まで共に行ってくださるとの約束を取り付けることができました。
そのモーセが、もう一歩踏み込み嘆願したことこそ、「どうか、あなたの栄光を私に見せてください(18)」すなわち神を確かに目で見てその臨在を確認することでした。
この要望に対する神の回答は明白で、それは否認でした。「あなたはわたしの顔を見ることはできない(20)」
顔とは目、口、鼻、耳が集中する人体ではその人を識別する特別な部位であり、そのため顔はその人自身の人格を表現するものです。
神はご自身の本質すべては肉眼では識別できないと答えられたのです。
神の本質は存在するが見えない霊です。(ヨハネ4:24) そればかりか、私たちはともすれば錯覚を起こす目の視力の限界を知っているのではないでしょうか。それにもかかわらず恵みに富む神はモーセの前を通過され、それによってモーセは神のうしろを見るという経験に導かれました(23)。
実に、この経験は後に受肉された神の御子による啓示を指し示すものです。
主イエスの行いと言葉によって知る私たちの知識は、神のうしろを見させられることなのです。
使徒パウロがこの真理を「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう(I コリント13:12)」と証言しました。
私たちに今日与えられる祝福は「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう(14)」と語られた約束です。
見えないけれども神は日々私たちと共におられ、臨在しつつ導いてくださるのです。
2月11日礼拝説教
「この人もアブラハムの子なのだから」 ルカ 19章1~16節
19:1さて、イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった。
19:2ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持であった。
19:3彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。
19:4それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである。
19:5イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。
19:6そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。
19:7人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った。
19:8ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。
19:9イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。
19:10人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。
死海に注ぐヨルダン川河口の町エリコは、かれることのない良質の泉に恵まれたオアシスであり、ナツメヤシの名産地で古くから栄えた商業要地であった。
それゆえ、ローマ帝国の手先と見なされ不正を働く嫌われ者の取税人ザアカイが富を築く条件は揃っていた。だが、イエスの目には失われた者であった。
金持ちであったが社会性と人間性を失い孤独なザアカイの心は空しかった。
イエスがエリコをあえて通過し、樹上のザアカイの名を呼び、彼の邸宅に泊まる予定まで提示されたのは、彼を尋ね探し出し救うためであったことが分かる。
誰ひとりとして彼に関心を示し声をかけてくれる者のなかったザアカイにとっては狂喜するほどの転機となった。事実、彼は喜び急ぎ樹上から降り、イエスを自宅に迎え入れるや、大いなる人格的変革を経験させられることになった。
自分の非をすすんで認め、その償いをどんな損害をもたらそうとも恐れず被害者に果たそうと決意を表明している。
イエスはこんな人非人のザアカイをもアブラハムの子と認定された。すなわち選びの民の一人であり、それゆえに神の子であると受け入れてくださった。
ザアカイにはそうしていただく価値も業績も全くない。ただ神の恩寵のなさる業としか言いようがないのであった。
昨年のこと、私の声はかれ体力的衰えを覚えたばかりか、ドクターチェックによれば糖尿病がひどいと診断されてしまった。
もうこれまでかとドイツでの宣教活動を諦めかけたある日、聖書通読中のヨシュア記の13章1節が目に飛び込んできた。「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている。」それを私個人への主の語りかけと受け止め、「ならば癒し給え」と祈った。
その一週間後、病院で担当医の精密検査結果報告を聴いた。
「全て機能は正常値を示していますよ。」今では何でも美味しく食べられます。
私にはなお果たすべき仕事が多く残っていると確信させられたのです。
あの失われたザアカイに目をお留めくださった主イエス様は、今日も私たちひとりひとりに配慮くださるのです。 ドイツ・ライプチッヒ 長 和男宣教師
2月4日礼拝説教
「残された者だけ」 ローマ9章19〜28節
9:19そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。
9:20ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。
9:21陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。
9:22もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、
9:23かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。
9:24神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。
9:25それは、ホセアの書でも言われているとおりである、
9:27また、イザヤはイスラエルについて叫んでいる、
「残された者」の概念は、旧約時代のイスラエルには特別な意味があります。
パウロが引用したイザヤ10:22の預言には、神の民とされたイスラエルが惨忍非道な巨大アッシリア帝国により滅される背景があった。民は神への不信の罪ゆえに裁かれる。しかし神は、その憐れみのゆえに民を絶滅させず少数を生きながらえさせる。その少数の民が「残された者」と呼ばれる。
このイザヤの預言は同時に、終末の出来事をも指し示すものです。
使徒パウロはローマ9−11章にユダヤ人問題を取り上げ、神が遣わされた救い主イエスを拒み、イエスを十字架に処した意味とその結末を論じ、自分自身の同族であるユダヤ人が厳しい裁きに遭遇するであろうことを痛み悲しみます。
だが最後には神の救いに預かる者が、すなわち「残される者」があることを預言的に語るのです。全ての民ではないが、救われる者があるということ、それは神が彼らを選ぶことです。
神は選びの神です。
罪のゆえに滅ぼされるべき者は神の怒りが注がれる怒りの器です。
しかし神はその憐れみのゆえに怒りの器を「憐れみの器」とされる。
神の選びは憐れみによって実行されると聖書は教えます。
ヨハネ3章16節で明らかなように、神は全ての人が滅びず御子により救われることを予定されました。
しかしながら、神の選びは予定された人自身が個人の責任において御子イエスを受け入れることによって実現成就するものなのです。なぜなら人間は選択する自由な存在だからです。
パウロは同族イスラエルについて語りつつ、異邦人である私たちに言及し、怒りの器である私たちをも神はキリストのゆえに憐れみの器として選んでくださったことを証言します。
伝えられた福音を聞いてイエスを主と受け入れた瞬間に神の選びが我々自身にも現実となるという、驚くべき恵みでありませんか。
日本においては極々少数者であるクリスチャンは世の終わりに臨むこの時代の「残された者」なのです。
パウロが同族の行く末を思い痛み祈ったように、我らも同族日本の救いを祈ろう。
泉佐野福音教会
日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団
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