5月27日礼拝説教
「互いに愛し合いなさい」 ヨハネ15章9〜17節
15:9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。
15:10もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。
15:11わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。
主イエスは、ご自分と弟子たちとの関係をぶどうの木とその枝にたとえられ、その結ぶ実が愛であることを教えられました。
「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」愛がなければ私たちは無に等しいのです。
愛があれば他人に寛容です。情け深いのです。人に対して高ぶらないし、自慢したり、あるいは人をねたむことはしません。恨みを抱いたり、他人に不作法をしないばかりか、希望を抱いてすべてを耐える、それが愛することです。
主イエスは、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」と言われ、弟子たちを「あなたがたはわたしの友である。」とされました。
友のために命を捨てる、愛は犠牲であり、主イエスはみずからその愛の犠牲を十字架で模範を示されました。
わたしたちに罪の赦しを与えるために、主イエスは身代わりとなられ愛の犠牲を払われたのです。わたしたちにはこのような愛はありません。
主イエスを受け入れ、ぶどうの幹に枝がつながるように信頼するなら、愛を結ぶ実として実らせることができるのです。
わたしはアメリカにおいて、ある親子と友達になりました。その娘さんはとても困難な病気をわずらい、歩くこともできず入院して医師の治療を受けておられました。
わたしは何回もその病院の母親と娘さんを訪ねては祈らせていただきました。すると本当に不思議とその娘さんは元気になり、とうとう病気が治ってしまいました。
わたしは癒すことができなくても主は祈りに答えてくださったのです。主イエスが「あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。」と言われたように、わたしたちが互いに愛し合う時に大きな喜びが心に満ちあふれてくるのです。
主イエスの戒めは難しいことではありません。互いに愛し合うことです。
ただ、イエス様を受け入れ、イエス様に信仰によってつながるときに、愛を実として結ぶことができるからです。
主イエスはわたしたちを互いに愛し合う者にするためにお選びくださいました。
5月20日礼拝説教
「新しい民の使命」 詩篇102篇18節
102:18きたるべき代のために、この事を書きしるしましょう。
そうすれば新しく造られる民は、主をほめたたえるでしょう。 詩篇102篇18節
詩篇102篇は、古代に生きた一人の嘆きの祈りかと思いきや、それを超えた預言的詩篇であり、キリストを指し示しています。
その詩の真ん中に位置する18節を共同訳では『後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」』と読み、これはキリストが意図された教会の使命を明らかにした預言です。
今日、教会暦で言うペンテテ記念礼拝は聖霊降臨による教会の誕生を祝い、記念するのですが、教会は新しい神の民であり、その民の使命は主を賛美することなのです。
主に感謝し、讃め称えることが何故に使命なのか?賛美は神に栄光を表すとともに、敵に対する強力な戦いの武器であり、堅固な砦であるからです。
教会は悪魔と罪と肉に汚染されたこの世にあって、敵に勝利し捕らわれ人を解放する霊的戦いのために創造された新しい民なのです。
この詩篇には主を賛美する明確な理由が明らかです。
第一に主イエスの犠牲的な愛を讃えることです。1〜11節の嘆きの祈りは十字架の受難に耐えられた主イエスの祈りです。その犠牲の死により私たちは罪赦されました。
第二に主イエスの復活の栄光の勝利を讃えることです。13〜21節にはシオンの回復が歌われますが、シオンとはエルサレムの雅号で、聖都エルサレムは神の支配する御座の象徴です。主イエスは復活により聖徒らに復活の希望を与え、蘇る聖徒は天のエルサレム、神の都に住むのです。
第三に主イエスの優越性を讃えることです。主は天地を創造され、被造物は変化するのですが、創造者なる主イエスは不変です。25〜27節はヘブル1章に引用され、そこでは御子イエスの優越性が中心主題です。
主イエスに比肩する者はいません。比較の対象にならないのです。
主を賛美しましょう!くちびるの生け贄として捧げましょう。主は賛美されるに最もふさわしい方です。
口のみか楽器を打ち鳴らし、踊り喜び賛美するとき、教会が創造された目的は達成されることでしょう。
5月13日礼拝説教
「一羽の雀でさえ」 ルカ12章1〜8節
12:1その間に、おびただしい群衆が、互に踏み合うほどに群がってきたが、イエスはまず弟子たちに語りはじめられた、「パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい。
12:2おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。
12:3だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう。
12:4そこでわたしの友であるあなたがたに言うが、からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。
12:5恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。
12:6五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。
12:7その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。
12:8そこで、あなたがたに言う。だれでも人の前でわたしを受けいれる者を、人の子も神の使たちの前で受けいれるであろう。 ルカによる福音書 12:1~8
久しい昔から人の恐れるワースト4を『地震、雷、火事、親父』と称してきました。自然災害ばかりか人も恐ろしく感じる。
恐れること自体は生得の感情で有用なのですが、主は信仰のゆえに迫害する人々を恐るべきではないと、「からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。」と言われます。
人に危害を加える人間の限界をわきまえるだけでなく、恐るべき方は永遠の審判を下し、地獄に投じる権威ある神であると諭されました。
今を生きる私たちには迫害はともかく、現実として誰か他人に脅威を覚えて萎縮してしまう危険性があります。
聖書は「人を恐れると、わなに陥る(箴言9:25)」と警告します。人を恐ると偽善や、貪欲や、争い、逃避の罠に捕らわれ身動き取れなくなるからです。
聖書の至るところで語られるメッセージは「あなたは恐れてはならない」です。その恐れからの解放への道はただ一つです。それは「神に信頼すること」です。
主イエスは信頼すべき神を貧乏人の安価な食料でもあった一羽の雀により平易に紹介してくださいました。「五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。」つまり、言ってみればおまけでしかないような子雀さえも顧みられるとすれば、はるかに優るあなたがたを顧みてくださらないはずがなかろうと、優しく諭されたのです。
主イエスが十字架に犠牲となり罪の赦しを得させてくださることにより、私たちはこの慈愛に富める父なる神のもとに立ち返りました。
神は私でさえ忘れられない、神は私のすべてを理解される、神は私の価値を高く評価し、「あなたは私の目に高価で尊い」と受け入れてくださる、そう受けとめ信頼するとき、恐れは霧散し心は安らかさを取り戻すのです。
主イエスにより神に信頼する恵みを証ししつつ生きる道は安易ではないでしょう。誤解や抵抗を受けることがあるかもしれません。
それでも主に信頼し、愛に生きるとき平安と勝利は間違いなく保証されるに違いありません。
5月6日礼拝説教
「機会を買い取る」 エペソ5章8〜16節
5:8あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい――
5:9光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである――
5:10主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。
5:11実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。
5:12彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。
5:13しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。
5:14明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、
国が定めた祝日「昭和の日」「憲法記念日」「みどりの日」そして「子供の日」の趣旨は理にかなっており、休日の連続する一週間をゴールデンウィークと称するのももっともなことです。
しかし、パウロはローマの獄中から私たちが生きる今の時代を含めて「悪い時代」であると識別しています。
確かに当時は、ローマ大火とキリスト者の大迫害、ネロ皇帝の自殺と内乱、ユダヤ戦争とエルサレムの滅亡と激動時代でした。
ところが聖書の視点に立てば、いずれの時代も本質的には残念ながら悪なのです。
戦争と悲惨の連続であり、人間性は歪み、不品行、汚れ、貪欲、言葉の乱れ、偶像礼拝が蔓延します。
それは最初の人、アダムが悪魔にそそのかされて罪を犯し、人類が堕落した結果です。人が生きる形式である時間が悪魔に捕らわれ、機会あるごとに生きる人の営みが悪魔の手中に陥っている、それが目に見えない霊的な現実です。
「賢い者」として生きよ、と勧告されるのはそれゆえです。聖書は愚か者とは神を否定する者であり、神を信じ求める者を賢者と言います(詩篇14:1,2)
神の愛ゆえに御子イエスの十字架の贖罪により憐れみを受けて信じ救われた私たちに求められることは、悪魔に捕らわれていた私たちの生きる時間、機会を取り戻すことです。
時間を神が与えられた価値ある賜物として認め、神に愛されている者、光の子であるとしっかり自覚しつつ、主に喜ばれるよう、主の御旨を祈り確信して日々に生きることなのです。
私たちの現在はまた過去の時間に繋がっているのですから、過去の様々な機会に経験した出来事、出会った人との関係も、全てが実は神の御手の中に置かれていたことと理解し、今現在の自分の霊的成長のために生かされるよう神が万事を益としてくださった(ローマ8:28)と理解することが大切です。
「すべてのわざには時がある」( 伝道者3:1)
一日の初めに祈りにおいて神の導きを求め、優先順序を選択しつつ、仕事に、愛の奉仕に、宣教のわざを実行することにしましょう。
泉佐野福音教会
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