7月22日礼拝説教
「石を取りのけよ」 ヨハネ11章1〜4節
11:1さて、ひとりの病人がいた。ラザロといい、マリヤとその姉妹マルタの村ベタニヤの人であった。
11:2このマリヤは主に香油をぬり、自分の髪の毛で、主の足をふいた女であって、病気であったのは、彼女の兄弟ラザロであった。
11:3姉妹たちは人をイエスのもとにつかわして、「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言わせた。
11:4イエスはそれを聞いて言われた、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。 ヨハネによる福音書 11:1~4
マリヤとマルタの村であったベタニヤは、その名の意味が「悩みの家」でした。その悩みを代表するかのように彼らの兄弟ラザロが病気です。
姉妹が使いをイエスに遣わしたのは、ラザロが病気で死ぬのではないかと心配したからです。それはイエスが『この病気は死で終わるものではない。』と言われたことで明らかです。
デンマークのキルケゴールは、心理学的には死に至る病は絶望である、と言いました。絶望とは自分自身への関係のバランスが失われることです。
人は関係によって生きます。自分との関係、他人との関係、自然との関係、そして神との関係に生きるように神に造られました。全ての人が陥っている絶望があります。しかもほとんどの人が気づいていない絶望があります。
それは神と自分の関係のバランスが失われた絶望です。聖書はその絶望を罪と言います。罪とは神を認めず、神との責任ある関係を無視して生きることです。
聖書は『罪を犯した魂は死ぬ。(エゼキエル18:4)』と言います。ラザロが墓に埋葬され腐り始めたように、神を無視した人はその人間性が腐敗しています。悟性が腐敗し、情性が腐敗し、意性が腐敗しています。それはローマ1:18〜31で詳細にその腐敗の深刻さが診断されている通りです。
私たちの喜びは、「悩みの家」ベタニヤにイエスが入って来られ、墓に向かって「ラザロよ、出てきなさい」と大声で呼び出されたように、今や、悩む世界にイエスが来られ、その神のことばにより腐敗した人類を死の腐敗から呼び出してくださる事実です。
それに先立ちマルタに「石を取りのけなさい」と協力をイエスは要請されました。マルタにはそれが簡単であっても信じがたいことでした。死んで四日も経ち腐っているだろうに、とんでもないことだと常識はイエスの要請に抵抗します。
しかし、イエスはすでに『この病気は、、、神の栄光のためである』と言われたのです。イエスは今現在、人を罪の腐敗から救うためになさろうとする業があります。 どれほど状況が困難であっても、自分にできるイエスへの協力を実行したいものです。
7月15日礼拝説教
「あなたは鍵の人」 マタイ16章13〜19節
16:13イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。
16:14彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。
16:15そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
16:16シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
16:17すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
16:18そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。
16:19わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。 マタイによる福音書 16:13~19
鍵とは小さいものですが非常に特殊な力が、すなわち開閉する機能のあることは誰もが知る事実です。
主は信仰の告白をしたペテロに『わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。』と約束されました。それは主が特別な権能、つまり人々を神の国に導き入れる権威を授けられたということです。
12使徒を代表してペテロが『あなたこそ、生ける神の子キリストです。』と告白できたのは人間の理性や教育にはよらず、天の父なる神の特別な啓示でした。その意味からペテロは大いなる祝福に預かったのです。
誰でも同じく告白した人は神から特別に祝福されています。主はペテロを祝福されたばかりか、彼に教会の土台となる特権を授けられ、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。」と宣明されました。
教会の隅石はキリストであり、教会の土台は使徒と預言者なのですが、中でもペテロには初代教会時代の指導的責任が分与されたのでした。
同じ信仰の告白に導かれた私たちに与えられる特権があります。主が霊的に建立される教会という神の家を構成する生ける石とされることです。
神は聖霊のご人格において私たちを住まいとしてお住まいくださるのです。その上でさらに、ペテロに授けられた天国の鍵を、同じ告白をする私たちにも主は授けられました。人々に神の国の門戸を開き導き入れる天国の鍵とは、十字架の福音です。
「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。(第一コリ1:18)」私たちがキリストの十字架の死と復活を宣べ伝えるとき、聞いて信じる人は救われ流のです。信じない人は滅びます。福音が神の国の門戸を開閉する鍵なのです。告白した私たちにはとてつもない責任が付託されているのです。
その意味で、私たち一人一人が鍵の人(キーパーソン)なのです。誰でも自分を信仰に導き入れるのに重要な役割を果たしてくれた人があります。
今や私たち自身がキーパーソンとなる自覚を深め、どなたかを神の国に導き入れる鍵の人、キーパーソンにならせていただこうではありませんか。
7月8日礼拝説教
「人生の不確実性」 ヤコブ4章13〜17節
4:13よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。
4:14あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。
4:15むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。
4:16ところが、あなたがたは誇り高ぶっている。このような高慢は、すべて悪である。
4:17人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。 ヤコブの手紙 4:13~17
タイのタルムアン洞窟の奥深くに閉じ込められた13名の少年サッカーチームの生存が10日ぶりに確認され世界中が安堵しました。彼らにとり大雨による洞窟封じ込めは予想外だったでしょう。まさに人生の不確実さが象徴される事件です。
聖書は『あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。』そして、その不確実さを『あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。』と人のいのちのはかなさを明らかにします。
にもかかわらず、自分の人生はあたかも自分のもの、自分でコントロールできるものと思い込み、ビジネスチャンスを逃すまいとするユダヤ商人たちが「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と目標を掲げ、その実現に向けて計画を立案実行しようとする態度を、聖書は誇り高ぶる高慢であると警告します。
私たちも自分の人生計画を将来に向けてそれなりに、見通しを立て活動をするものですが、神を度外視した人生設計であるなら、それは霧のように儚い人間のとんでもない思い違いなのです。
なぜなら、いのちは神が各自に貸し与えられたものであり、その人自身のものではなく、神の御手の中にあるからです。
それゆえに、人は神の前に謙虚に、「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきなのです。
神を第一に認め委ねて生きることは、何も計画せず成り行きに任せる無責任な態度ではありません。神のみこころを求めて祈り目標を見定め、「あの事もこの事も」実行するのです。否むしろ「なすべき善を知りながら行わなければ」、それは為さざる罪であり、神を度外視した高慢な態度とは別な意味で、愚かしい生き方なのです。
「わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。(詩 32:8)」と主は約束されます。
人生がたちまち消え行く霧に象徴されるように不確実であれば、いよいよそう悟らせていただき、へりくだって積極的に御心を敢行するものでありたいものです。
7月1日礼拝説教
「遅すぎる事なし」 ルカ5章21〜35節
5:21すると律法学者とパリサイ人たちとは、「神を汚すことを言うこの人は、いったい、何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」と言って論じはじめた。
5:22イエスは彼らの論議を見ぬいて、「あなたがたは心の中で何を論じているのか。
5:23あなたの罪はゆるされたと言うのと、起きて歩けと言うのと、どちらがたやすいか。
5:24しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威を持っていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに対して言い、中風の者にむかって、「あなたに命じる。起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言われた。
5:25すると病人は即座にみんなの前で起きあがり、寝ていた床を取りあげて、神をあがめながら家に帰って行った。
5:26みんなの者は驚嘆してしまった。そして神をあがめ、おそれに満たされて、「きょうは驚くべきことを見た」と言った。
長血の女の癒しと続づくヤイロの娘の復活は、マタイ、マルコそしてルカも記載しています。二つの主の御業は連続し絡み合った出来事でした。
女は悪性の出血症を12年も患い、ヤイロの娘は当時では成人を意味する12歳でした。ユダヤ人には数字の12はすべてを包括する意味があると考えられたようです。
長血の女の12年は病苦による不幸で、ヤイロの娘の12年は両親の寵愛により幸福で、同じ12年でも全く質が違っていたことでしょう。しかしながら両者に共通した悩みは願った物事が遅々として進まないことでした。
箴言13:12に、『望みを得ることが長びくときは、心を悩ます』とあるとおりです。出血症の病苦は12年も長引き、どれほど女の心を悩ませたことでしょう。
一方でヤイロの娘は幸福の絶頂から突き落とされ瀕死の重体でした。なりふりかまわず会堂司のヤイロは主イエスに癒しを嘆願します。幸いその要請は叶えられたものの、群衆から割り込んだ長血の女に対処する時間を取られた結果、イエスの進行に大幅の遅れが生じ、家からの使いにより娘の死が知らされ、事態は最悪となります。
この女の割り込みによる遅れがなければ娘は助かっただろうにと、父ヤイロは塗炭の苦しみに襲われたことでしょう。これら両者の物事の遅れの悩みはまた、私たちの人生において時として生じる悩みでもあります。
どんな手立てをしても計画が遅々として進まない時、突如として降って湧いたような障害邪魔立てによって事が遅延する時、私たちの心は悩むのです。しかしながら、すべてを包括する12年を主は治める方として彼らの前を、私たちの前を通られるのです。そして主は『恐れることはない。ただ信じなさい』と優しくまた力強く激励してくださるのです。
病弱の女は信仰を持ってイエスの衣の裾に触り癒されました。ヤイロは最悪の状況でもイエスを家に迎え入れた結果、「タリタ、クミ」とのイエスの一声によって娘を死から取り戻すことができました。
恵み深い主にとって私たちの人生で遅すぎる事はありません。
泉佐野福音教会
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