10月28日礼拝説教
「特選の宝の民」 申命記7章6〜15節
7:6あなたはあなたの神、主の聖なる民である。
あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。
7:7主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。
あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。
7:8ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、
奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである。
7:9それゆえあなたは知らなければならない。
あなたの神、主は神にましまし、真実の神にましまして、彼を愛し、その命令を守る者には、契約を守り、恵みを施して千代に及び、
7:10また彼を憎む者には、めいめいに報いて滅ぼされることを。
主は自分を憎む者には猶予することなく、めいめいに報いられる。
7:11それゆえ、きょうわたしがあなたに命じる命令と、定めと、おきてとを守って、これを行わなければならない。
申命記は、約束の地パレスチナに入ろうとするイスラエルが、神の民であることを再確認するメッセージの記録です。
主なる神は彼らを聖なる民、しかもご自分の宝の民として選ばれました。
すなわち彼らがとびきり大事なもの、価値あり片時も忘れられないものとされたのです。
イザヤ43章4節で「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と言われたのもその意味であります。
そして主が『あなたを選んで、自分の宝の民とした』と言われるとき、その語り掛けが、イエス様を主としキリストとして信じ受け入れた私たちキリスト者に対する語りかけと受け止めることが大切です。
なぜなら、神はキリストにあって私たちを救いに選びとってくださったからであります。
驚くべきことは、神の選びが、その選ばれた民に宝とされるような何か魅力と価値があったからではなかったこと、
ただ彼らの先祖アブラハムと交わした契約を遵守するためであったという事実です。
はるか以前に神はアブラハムに「すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます(創13:15)」と約束されました。
神は真実な約束を守る信頼される方なのです。私たちが神の子と選ばれたのも同じ原理であります。
主イエスが罪の赦しを得させる贖いの業を十字架の死と復活により成就されたとき、神はそれによって全く新しい契約を立てられました。
信仰により、人は義とされ神との正しい関係に立つことのできる契約のゆえに、
私たちに何かそうしていただけるような功績や価値や魅力があるからではなく、神は私たちを宝の民とみなされるのです。
そのようにして神に選ばれたのは、このお方をより深く知り、このお方により従順にお仕えし、このお方によって祝福を豊かに享受させていただくためです。
「あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたの数を増し(13節)」と、キリスト者には幾重にも祝福が重ね合わされているとは何という幸いでしょうか。
15節には『主はまたすべての病をあなたから取り去』るとも約束されました。
神の驚くばかりの恵みに感謝しましょう。
2018年10月21日礼拝説教
「ちょうどその時」 ルカ13章1〜5節
13:1ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。
13:2そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。
13:3あなたがたに言うが、そうではない。
あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。
13:4また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。
13:5あなたがたに言うが、そうではない。
あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。 ルカによる福音書 13:1~5
ローマ総督ピラトによる残虐非道な流血事件を知らされた主イエスは、突如人を襲う災難をどう受けとめ対処すべきか、明確に語られました。
それが自然災害か、人災か、はたまた政治暴力か、災難が起こると人はその原因を究明することで納得しようとするものです。
ユダヤ人には災害や災難はその人の犯した罪過ちの結果だとする因果応報で考える傾向がありました。
しかし主イエスは「そうではない。」と否定され、悔い改めなければ誰でも滅びると断言されました。
悔い改めるとは神についての考え方と生きる方向を変えることで、全ての人が間違った方向に向かっている、神との正しい関係に立っていないと言われたのです。
聖書はそれを罪と言い、すべての人は罪を犯したので神の栄光を受けることができない、とローマ3章23節に指摘されています。
主イエスが「滅びる」と言われた意味は、神との正しい関係にない人はその本来の人間性を失っているということです。
人間をご自身の似姿に創造された神は、私たちとの関係を回復させるために御子イエスをお遣わしになりました。
神の御子イエスが誕生されたことは、人類史上に全く新しい恵みの時代が到来したことであります。
御子が十字架に罪の身代わりとなり命を犠牲にすることにより、罪の赦しが人に与えられ、方向を神に向けて信仰によって歩み出す人は、本来の人間性が回復されるのです。
災難には個人的レベルだけでなく、国家的レベルで巻き込まれることが避けられません。
個人は単独な存在ではなく社会的に共同して存在するからで、政府の誤った政策により国民全体が苦難に巻き込まれることはありうることです。
太平洋戦争に突入した結果、日本のクリスチャンたちでも戦争の悲惨を避けることはできませんでした。
しかしながら、恵みにより救いに預かっているのであれば、どのような苦難の最中にあっても、忍耐しつつ神に信頼して祈り、感謝しつつ生きることができるのです。
困難の中にある他の人々にも愛の手を差し伸べ、慰め励まし合うことができるのです。
2018年10月14日礼拝説教
「差別超克の幻を」 使徒行伝10章1〜16節
10:1さて、カイザリヤにコルネリオという名の人がいた。イタリヤ隊と呼ばれた部隊の百卒長で、
10:2信心深く、家族一同と共に神を敬い、民に数々の施しをなし、絶えず神に祈をしていた。
10:3ある日の午後三時ごろ、神の使が彼のところにきて、「コルネリオよ」と呼ぶのを、幻ではっきり見た。
10:4彼は御使を見つめていたが、恐ろしくなって、「主よ、なんでございますか」と言った。
すると御使が言った、「あなたの祈や施しは神のみ前にとどいて、おぼえられている。
10:5ついては今、ヨッパに人をやって、ペテロと呼ばれるシモンという人を招きなさい。
10:6この人は、海べに家をもつ皮なめしシモンという者の客となっている」。
10:7このお告げをした御使が立ち去ったのち、コルネリオは、僕ふたりと、部下の中で信心深い兵卒ひとりとを呼び、
10:8いっさいの事を説明して聞かせ、ヨッパへ送り出した。
10:9翌日、この三人が旅をつづけて町の近くにきたころ、ペテロは祈をするため屋上にのぼった。時は昼の十二時ごろであった。
10:10彼は空腹をおぼえて、何か食べたいと思った。そして、人々が食事の用意をしている間に、夢心地になった。
10:11すると、天が開け、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、地上に降りて来るのを見た。
10:12その中には、地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生きものがはいっていた。
10:13そして声が彼に聞えてきた、「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」。
10:14ペテロは言った、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。
10:15すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。 10:16こんなことが三度もあってから、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。 使徒行伝 10:1~16
使徒ペテロとローマ軍の百卒長コルネリオの会見は、福音がユダヤ人の枠を超え異邦人に及ぶという宣教歴史上、画期的な出来事です。
最初にコルネリオが幻で天使の告知を受け、更にペテロが天の異象を見せられた結果、この出会いが実現しました。
この出来事の主役は聖霊により働かれる主イエスご自身です。あの使徒1章8節で聖霊を約束された復活のイエスは宣教の主なのです。
異邦人コルネリオもペテロもそれまでに全く面識なき両者は、神の導きにより出会い、世界宣教の先駆けとなったのです。
人が改心し救われるのは一切人間の画策にはよりません。神の主権的な行為の結果なのです。私たち自身の救いにも人知を超えた神の導きがあったことをに感謝しましょう。
ペテロが籠の中の様々な生き物の捕食を拒んだ理由は、レビ記11章の食物律法を遵守し、ユダヤ人としての聖さを保持するためです。
しかしながら、ユダヤ人は文字通りの規律遵守のすえ、そこに込められる神の本来の意図を取り違え、いつか他民族への優越意識に陥ったのです。
11章には数多くの種類の動物等が列挙されるのですが、実はこの章の前提には、創世記1章の種類にしたがった神の創造の業があります。
神は無数の異なる種類の生き物を造られ「はなはだ良い」と是認されました。最後に創造されたその種類の一つである人間は、これらの無数の生き物と共生することが、神の似姿としての人間の本分であるとされているのです。
ペテロが幻で種々の動物を捕食するよう啓示されたのは、この汚れた動物に暗示される異邦人への差別偏見を打破されるためでした。
偏見と差別は福音宣教の障害です。主イエスによる罪の赦しの福音は万人に及ぶのです。無意識のうちであっても、誰かを偏見の目で差別するならその意識を放棄すべきなのです。
「立って、、、食べよ」との命令は、神が成そうとされる全く新しい業へ参与するように、ペテロが古い殻から脱却するための促しでした。
人種差別、性差別等々、社会に蔓延する差別意識を私たちも克服し、福音宣教に預かりたいものです。
10月7日礼拝説教
「震われぬ国」 ヘブル12章25〜29節
12:25あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。
もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。
12:26あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。12:27この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。
12:28このように、わたしたちはわれない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。
12:29わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。 へブル人への手紙 12:25~29
ヘブル12章は一つの主題にまとめられ、それは一回性の人の生き方の基本的あり方です。この章にある三つのレタス(英語のLet us=さあ、〜しよう)がその理解の助けになります。
1節にある最初の(レタス)呼びかけは、「競争を走り抜こう」です。一回生の人生を目標を目指し走る競争に譬えた勧告です。オリンピックのマラソンは当時すでに知られた競技でした。
ランナーは月桂樹の栄冠目指して疾走します。『目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである(ピリピ3:14)。』とは使徒パウロもよく言ったものです。
2節の第二の(レタス)呼びかけは、『イエスを仰ぎ見つつ、走ろう』です。
人は誰も例外なく自分の人生を初めて生きるものです。未知の人生を生きる目当てとなる最高で最良の模範は、人となり父なる神の御旨に従い完走された主イエスであります。主は『信仰の導き手であり、またその完成者』であるから、このお方を仰ぎ見つつ走ろう、生きようと勧告されています。
11章にはアブラハムをはじめ多くの信仰の先輩が模範として立っていますが、イエスこそ信仰に生きる私たちの模範なのです。神を信じて生き抜くのは容易ではありません。だからこそ『弱り果てて意気そそうしないために、』主イエスのご生涯を思い見るべきだと呼びかけられるのです。
28節にある最後の(レタス)呼びかけは、『感謝しよう』です。なぜなら、この人生という競争の究極の目指すゴールは、「震るわれぬ国」だからです。台風21号は甚大な被害を近畿地方にもたらしました。鉄筋造りの教会堂すら強風に揺らぎました。日本も世界も至る所、凡ゆる領域が揺れ動いています。
聖書は「震るわれないものが残るために」震るわれるのだと説明されます。
イエスを主と信じた者はすでに神の国に入れられ、世の終わりに目に見える形で完全な不動の御国が与えられると保証されているのです。災害には万全の備えをしましょう。それと同時に、天の御国、震るわれぬ国がすでに与えられ、また与えられることを覚えて感謝し、喜びつつ主に奉仕することにしましょう。
泉佐野福音教会
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