12月30日礼拝説教
「あとの者が先に」 マタイ20章1〜16節
20:1天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。
20:2彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。
20:3それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。
20:4そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。
20:5そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。
20:6五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、
『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。
20:7彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、
『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。
20:8さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、
『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。
20:9そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。
20:10ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。
20:11もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして
20:12言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。
20:13そこで彼はそのひとりに答えて言った、
『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。
20:14自分の賃銀をもらって行きなさい。
わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。
20:15自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。
それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。
20:16このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。
イソップの「ウサギと亀」は人生の逆転を教える示唆に富む童話です。
では「あとの者は先になり」で締め括られた喩えで何を主イエスは教えようとされたのでしょう。
金持ちの青年に「その財産を売却し、貧民に施し、従え」と主が語られるや、彼が暗い面持ちで立ち去る出来事がこの喩えに先行し、その時、自分たちは一切を捨てて従っているが、
「ついては、何がいただけるでしょうか」と言うペテロの問いが背景となっています。
それは信従の報酬のことです。信じ従ったらどんなメリットがあるのか?
労働の対価としての報酬、賃金、給与、手当に誰も無関心ではあり得ない。それが現実です。
喩えは、登場した葡萄園主が、早朝、9時、12時、3時、そして日も暮れる5時に雇った日雇い労働者に、労働の報酬を遅い順にしかも全員に同額の1デナリを支払う、
すると、早くから汗水流し労した労働者が主人に不当ではないかとクレームを付ける。
私たちにも「そうだ!そうだ!」と加勢したくなる場面。
では全員に均等に払われた1デナリの賃金は何を表すのか。
それは、あの金持ちの青年が切り出した「永遠の生命」です。
日雇いにとりその家族にとり掛け替えのない賃金、それは、人間の人生において掛け替えのない「永遠の生命」、
言い換えれば「神を知ること、主イエスを知ること」(ヨハネ17:3)、生ける神との生きた人格的関係のことなのです。
イエス様を主と受け入れた人に与えられるもの、それは永遠の生命です。
では賃金支払いが逆転したことは何か?それは辛辣な警告です。
子供にとり「先の者」である大人、貧乏人にとり「先の者」である金持ち、遅く救われた者にとり「先の者」である早くからの信者たち!
彼らに対する警告です!
子供を邪険に軽んじる者、経済力を神格化、絶対化する者、信仰を利得と考える者は、後回しにされる警告です。
いや!それ以上にこの喩えは神の気前よさ、神が良いお方であり、救いを行いによらず恩寵により賜る方であること教えるものです。
よくよく考えれば「後の者」であるはずの自分に示された神の寛大さに感謝しよう。
「神われらと共に」 マタイ1章18〜25節
1:18イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。
母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。
1:19夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。
1:20彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、
「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。
その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。
1:21彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。
彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
1:22すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、
これは、「神われらと共にいます」という意味である。
1:24ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。
1:25しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。
そして、その子をイエスと名づけた。
神がひとたび語られると出来事になります。クリスマスは預言の成就です。
処女マリヤに救い主が宿られたのは預言の成就でした。
しかしながら、婚約関係にあった許嫁の妻マリヤの妊娠に気づいた夫ヨセフの受けた衝撃は察して余りあるものです。
この異常事態をどう受け止め、どう対処するべきか、どれほど逡巡したことでしょう。
神を畏れる敬虔な正しい人であったヨセフは、信頼を裏切ったとも言えるマリヤを、
厳格な律法に照らし合わせ、石打ちの刑により公に彼女をさらしものにすることもできたでしょう。
ところが、マリヤの身に起こったことが理解できなくとも、彼女を愛するがゆえに、同じ律法に照らして穏便な離縁を選択し、密かに彼女を去らせようと決断します。
明日にも事を実行に移そうとするその晩、恐らくマリヤとその産まれる子の将来を案じるあまり寝もやらず、うたた寝しつつ思い廻らしていたことでしょう。
しかしながら、その晩、彼の夢に現れた天使の啓示が事態を急転させました。
御使いは、マリヤの身に起こったことは、神の人類救済の計画が実行されようとしているのだとヨセフに告げ知らせ、
その結果、ヨセフはマリヤを妻として迎え入れることができたのです。
そして、聖書には、これは預言の成就だと、イザヤ7章14節が引用され、救い主の名が「インマヌエルと呼ばれるであろう」とクリスマスの意味が明らかにされています。
その名は訳せば『神われらと共にいます』となる。
すなわち、クリスマスとは、神がイエス・キリストにあって罪人と共にいることを決意されたことを私たちに明らかにする出来事なのです。
ベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶に寝かされた幼子イエスは、やがて十字架の身代わりの死により、我々人類に罪の赦しをもたらす救い主なのです。
それゆえに、このお方を、イエス様を信じ受け入れる者、それが誰であれ、神はいついかなる折にも共にいてくださるのです。
「恐れるな。わたしがあなたと共にいる」これは、聖書の最初から最後まで一貫する主旋律なのです。
ハレルヤ!主は共におられます!
「神の選ばれた僕」 マタイ12章9〜21節
12:9イエスはそこを去って、彼らの会堂にはいられた。
12:10すると、そのとき、片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、
「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねた。
12:11イエスは彼らに言われた、「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、
もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。
12:12人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。
だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」。
12:13そしてイエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。
そこで手を伸ばすと、ほかの手のように良くなった。
12:14パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した。
12:15イエスはこれを知って、そこを去って行かれた。
ところが多くの人々がついてきたので、彼らを皆いやし、
12:16そして自分のことを人々にあらわさないようにと、彼らを戒められた。
12:17これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、
私たちはクリスマスを数百年前に語られた預言の成就と見ています。
このイザヤ42章の預言は、主イエスが安息日に片手の萎えた人を癒された後、敵対者から静かに身を引かれた有様を受けて引用されています。
この預言によればイエスは神の選ばれた僕です。
66章から成るイザヤ書の中では、この僕は預言者イザヤ、イスラエルの民、またペルシャのクロス王を意味するかに見られます。
しかし、この預言の完全な成就はキリストなのです。
イエスがヨルダン川で受洗なされたとき、天の父なる神の認証の御声、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』が、この真理を確証しています。
神の僕としての御子イエスの務めは正義を宣べ伝えることでした。
正義とは法廷で降される審判、判決のことです。
神ならぬ人の創り出した偶像による諸宗教が蔓延する世界に、イエスは真の神は天地創造の主であると宣言されます。
イエスは神と人の敵であるサタンに対しては、「今こそこの世の君は追い出されるであろう。」と永遠の滅亡判決を下されました。
今しばらく卑劣な活動をすることが許容されていますが、その命運は確定したのです。
取り分けイエスは我々人類に対しては、無罪放免、神との和解を十字架により結審されました。
十字架は神の義と愛の啓示です。
人の罪の断罪されるべきこと、にも関わらず、罪無き御子が我々の身代わりの犠牲として十字架に神の裁きを引き受けられたことにより、
信じる者に罪の赦しを得させる神の愛が宣言されたのです。
しかしながら、その審判の告知は、私たちの想像を絶する仕方で、すなわち、主イエスは争わず、叫ばず、静かに控え目に、そして思いやり深い仕方でなされるのです。
「傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす(イザ42:3)。」葦は弱さ、失望、落胆、傷心の象徴です。
何と神の愛と恵みは自分の罪を悲しみ、謙り、心貧しくする者に注ぎ出されるのです。
ベツレヘムで誕生した幼子イエスが馬小屋の飼い葉桶に寝かされたことが奇しくも暗示するかのようです。
「御手に触れられ」 マタイ8章14〜17節
8:14それから、イエスはペテロの家にはいって行かれ、そのしゅうとめが熱病で、床についているのをごらんになった。
8:15そこで、その手にさわられると、熱が引いた。そして女は起きあがってイエスをもてなした。
8:16夕暮になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れてきたので、イエスはみ言葉をもって霊どもを追い出し、病人をことごとくおいやしになった。
8:17これは、預言者イザヤによって「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」と言われた言葉が成就するためである。 マタイによる福音書 8:14~17
預言の成就としての神の御子の御降誕の意義は、マタイ8章に引用されるイザヤ53章4節『彼は、、、わたしたちの病を負うた』により一層明らかです。
この預言はイエスが重い皮膚病患者、中風の百卒長の僕、熱病で苦しむペテロの姑、そして大ぜいの病人を癒された出来事の後に引用されています。
すなわちイエスは全ての病苦を引き受けられた癒し主なのです。
しかしこの預言を更に吟味して分かることは、病が実は人間の罪、咎、不義の比喩なのであり、罪こそ私たち全ての人間を苦しめる病気だということです。
その同じ罪が53章6節では、『われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った』と羊飼いの手を離れ迷い出た羊に例えられ、罪が神との正しい関係を逸脱した人間の状態であることが指し示されます。
1998年に世界保健機構(WHO)総会に健康の定義の修正案が提出され、従来の「身体的、精神的、社会的に完全に良好な状態」に「霊的に」が加筆されました。
万物の霊長たる人間は、神との関係に生きるように創造されており、その関係が破断しているのであれば、それこそ霊的な病気であり、罪は死に至る病なのです。
『健康な人には医者はいらない、いるのは病人である』と主イエスは言われました。
それは自らが医者を必要とする自覚を持つことの大切を教えるものです。
イエスは心へりくだる心貧しき者を癒す救い主としてお生まれくださいました。
イエスがペテロの家に迎えられ、熱病で苦しむ姑をご覧になり、その御手で彼女の手に触れられると、なんと瞬時にその高熱は下がり、彼女はイエスをもてなしました。
癒しが彼女を主への奉仕に導きました。
癒されて創造主なる神との正しい関係に入れられたのです。それがどんな病苦であれ、主イエスの癒しの御手は、イエスを愛し信頼しへりくだる全ての人に差し伸べられています。
クリスマスの喜びは、身体的にも精神的にも、社会的にも、そして霊的にも病(や)みを へりくだって自覚する者が、その御手に触れていただくときに、深い現実となるに違いありません。
「これはすなわち」 マタイ4章12〜16節
4:12さて、イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。
4:13そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。
4:14これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。
その引用の中でも11箇所が「預言者によって言われたことの成就するためである」との定型句によるものです。
クリスマスに祝われる神の御子の御降誕の大きな特徴は、この出来事が預言の成就であったことです。
預言とは神が人に権威を与えて語らせたみ言葉です。
神は人類のために確かな目的を歴史に有され、預言者により語られた言葉が実現するとき、その計画は確かな出来事となるのです。
預言を含む旧約聖書が指し示す事実は、神が人類救済の救い主を遣わされることでした。
その救い主がどのような方で、何をなさるのかを明確に示しているのが預言です。
今日からアドベント(待降節)が始まります。ここに引用されたイザヤ預言は、待望されたメシア(救い主)が『大いなる光』だと証言します。
あのベツレヘムの飼い葉桶に寝かされた幼子イエスは、人の暗闇を照らす真の光なのです。
ヨハネは『すべての人を照すまことの光があって、世にきた(ヨハ 1:9)。』と証言しました。
主イエスご自身は『わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう(ヨハ 8:12)。』と言われます。
粒子、波長である光を照明、エネルギー、光合成として私たちに恩恵として与えられる神は、御子イエスを霊的な光として与えられました。
不朽の名著「罪と罰」を著したロシア作家ドストエフスキーは、ペテルベルグの留置場に拘留された時、差し入れられた新約聖書により、イエスに光を見出した結果、深い示唆が与えられたという逸話があります。
人はイエスに照らされ生きる光明を見出すことが許されるのです。
そればかりか、その人自身を主は「あなたがたは、世の光である(マタ 5:14)。」と呼ばれます。
教会はその意味から暗黒を照らす燭台なのです(黙1:20)。
人がその置かれた場所、それが何処であれ、ロウソクの光のように輝くことが期待されます。
その光は、祈りと愛の込められた良き働きにより送り届けられることでしょう。
泉佐野福音教会
日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団
〒598-0031 大阪府泉佐野市東羽倉崎町7-1
TEL:072-465-5159 ( FAX 共通)
E-mail:sanogospelhallelujah@maia.eonet.ne.jp