8月26日礼拝説教
「もっと大きな賜物を」 Ⅰコリント12章27~31節
12:27あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。
12:28そして、神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれた。
12:29みんなが使徒だろうか。みんなが預言者だろうか。みんなが教師だろうか。みんなが力あるわざを行う者だろうか。 12:30みんながいやしの賜物を持っているのだろうか。みんなが異言を語るのだろうか。みんなが異言を解くのだろうか。
12:31だが、あなたがたは、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。
そこで、わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示そう。 コリント人への第一の手紙 12:27~31
これまで神奈川、東京、大阪を経て見ると様々な教会があることに気づかされました。規模も礼拝のスタイルも本当に様々で、同じ教団だとしても同じ教会はありません。
しかし同じ主イエス・キリストを頭として教会がその体として形成されている点に注目しますと、どれも同じ教会だと言えるでしょう。
パウロが携わった教会はどれもがその地域や礼拝に来る人によって特色があったようです。特に今日読みましたコリントの教会は、文化的にも経済的にも非常に豊かな町にありましたので、貧富的にも教育的にもまた霊的にも伝統においても様々な人々が教会に集められていたようです。
教会に限らず人が集まるところでは一般的に見られる現象ですが、様々な人々が集まると、誰が一番なのか、どういう役割が特別なのかで、どんどん意見が対立しはじめます。そして様々な問題へと発展します。
パウロもその教会形成にあって、また遠距離での手紙による牧会に限界もあってのことでしょう。
パウロは役割分担を教え、その役割がなんらかの序列によるものではなく、人体のそれぞれの肢体がお互いになくてはならないよう関係性をもっているように、教会の一人一人も、それぞれが担う役割も、お互いになくてはならない関係性を持っているのだと、ましてやイエス・キリストを主とする信仰と洗礼による関係性はなおさらであると説きます。
そして教会の役割分担は教会内が上手に快適に維持されるためではなく、それぞれの役割が一つとなって、さらにもう一つの賜物を獲得するためだというのです。
その賜物とは、続く13章ではすでに経験し味わった神によって示された主イエス・キリストの愛であり、その愛に倣い、証しをすることでしょう。
私たちに託されたことは、美しさや巧みさではなく、溢れるほど注がれたイエス・キリストの愛の業を目指し、その愛を証しすることで十分なのです。母教会が豊かに祝福され、ますます神様に用いられますように。アーメン 高陽 鐘翼 師(日本キリスト教団 交野キリスト教会牧師)
8月19日礼拝説教
「時は充ち満ちた」 マルコ1章8〜15節
1:8わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」。
「時は満ちた」と言うとき、準備が整い、行動を起こす時期が到来し、機が熟したことだと私たちは知っています。
主イエスは、公生涯の第一声で『時は満ちた』と宣言されました。それは神が人類の間で行動を起こされる特別な時の到来の告知です。それはアダム以来の人類を不当にも支配してきたこの世の君、サタンの領域に神がキリストにより介入することです。
聖書は人類の歴史の背後に目に見えない暗黒の支配者が、人間を神から分断し、罪の奴隷とし滅ぼそうとしている霊的事実を明らかにします。主イエスは悪魔の仕業を打ち壊す神の国の王として来られました。
主イエスの行くところ、そこに義と平和と喜びが満ち溢れました。その究極の御業は十字架の贖罪死による罪の赦しの完成です。信じる者は誰でも救われ永遠の命に入れられる新時代が到来したのです。それはまた悔い改めの時が満ちたことでもあります。
主イエスが「悔い改めよ」とアピールするとき、自分の生活の方向を変えるべき時がきたということです。神に背を向けた自分勝手な生き方を止め、神に立ち返る時がきているのです。「果たしてこのままでいいのだろうか?」と自問自答する心があるなら、今こそキリストにあって神に帰ろうではありませんか。まさに福音を信じる時がきているのです。
福音とはよきおとずれです。主イエスが福音です。イエスを信頼し主と心に迎え入れる時です。『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。』と自分の重荷を委ねあけ渡すように主イエスは私たちを招かれます。
神の国の到来を告知された主イエスが最初に成されたのは福音を宣べ伝える弟子の招きでした。漁師のペテロとアンデレが召されました。
イエスは最初、肉体におられました。今や、人が福音を語るみ言葉にイエスはおられます。
あなたがみ言葉を語ることにより神の国は現実します。あなたは神の国に入れられたでしょうか。その祝福をみ言葉を語り出すことにより人々に分かち与えることにしようではありませんか。
8月12日礼拝説教
「剣を鋤に槍を鎌に」 イザヤ2章1〜5節
2:1アモツの子イザヤがユダとエルサレムについて示された言葉。
8月6日には広島に、その3日後の9日には長崎に原爆が炸裂、6日後の15日に日本はポツダム宣言を受諾、無条件降伏しました。
第二次大戦は推定で6千万〜8千5百万人が戦死した史上最大最悪の悲惨な戦争でした。
戦後直ちに創設の国際連合のニューヨーク本部の壁には、” they shall beat their swords into plowshares, and their spears into pruninghooks”とイザヤ2章4節が印刻されました。それにもかかわらず、73年が経過した世界の現実は各国が軍備拡大の一途で真逆であります。
憲法9条に戦争放棄を掲げた日本は、世界軍事ランキングの何と第7位です。
イザヤ2章が預言された紀元前700年頃は、北に獰猛残忍なアッシリア帝国、南に野心的なエジプト帝国が世界制覇の機をうかがい、狭間の小国イスラエルは戦々恐々、何とか同盟関係で生き延びようと姑息な手段にうったえるしか策がありません。
イザヤは人間的手段に頼らず主に信頼するよう呼びかけても彼らには聞く耳がありません。
この預言の成就は神の世界的なマスタープランに基づき、やがて到来されるべきメシア、主イエスを待たねばならない類でした。事実、神の御子イエスが十字架の死と復活によりもたらされた救いの結果、今や全世界に人種の隔てを超えて22億人以上のキリスト者が起こされ、世界平和に寄与しております。
しかしながら、この預言の完全な実現成就は、キリストの再臨を待つもので、主が再び来られる時、はじめて「剣は打ち変えられ鋤とされ、槍は鎌とされる」すなわち人類悲願の世界平和が実現されるのです。
主は『わたしはすぐに来る』と約束されました。それゆえ私たちは『マラナタ』(主よ来りませ)と祈るのです。その視点に立つ者への呼びかけが5節です。
『さあ、我々は主の光に歩もう』光は未来から差込んでいます。
世の光なる主イエスのお言葉に立ち、主の御名により祈り、神のご計画の中を摂理的な導きに従い、私たちの責任を果たしてゆくことが求められているのです
8月5日礼拝説教
「賛美の衣を着て」 イザヤ61章1~3節
61:1主なる神の霊がわたしに臨んだ。
これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、
わたしをつかわして心のいためる者をいやし、
捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、
61:2主の恵みの年とわれわれの神の報復の日とを告げさせ、
また、すべての悲しむ者を慰め、
61:3シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、
灰にかえて冠を与え、
悲しみにかえて喜びの油を与え、
憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。
こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、
主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる。 イザヤ書 61:1~3
私たちは、衣装に様々な機能があることを知っています。
今日、私はカラーワイシャツ着用していますが、これによって私が教会牧師であることを示しています。これは象徴的な機能と言えるでしょう。更に、護身的機能が衣服にあることは説明不要なくらいです。
聖書では、使徒パウロとシラスのピリピの賛美経験がよく知られています。
第二次宣教旅行途路、囚われ鞭打たれ投獄された二人が、暗い獄中でしたことは賛美し祈ることでした。「真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。」その結果何が起こったか?大地震です。鉄の扉は開き、彼らは解放されることになりました。
賛美には優れた護身機能があるのです。カラテや武術が護身術としてあるでしょうが、それに勝る護身術とは賛美することなのです。
更にまた、賛美の衣には装飾美機能があるということです.私は教会玄関前の鉢植えの花に感動しました。この炎暑の夏にも関わらず天に向かって見事に全開し咲き誇っているのです。美しい彼らは一体何をしているのでしょうか?人によってその説明は違うでしょう。だが、花々は皆、偉大な創造者、神を賛美しているに違いないと私は確信します。教会は神の花園です。
人が神を賛美することは神の目に美しいのです。今日も賛美チームが立派にリードしてくれました。彼らのように上手に歌えなくてもいいのです。メロディをつけられなくても賛美の言葉で主をほめたたえればよろしいのです。主はすでに「賛美の衣」を私たちに与えておられます。
詩篇150篇では、誰でも直ぐに気づくことがあります。それは『主を賛美せよ』との呼びかけがいたるところに散りばめられて歌われていることです。
主は、十字架で私たちの憂いの心を引き受け、賛美の衣を与えられたのです。賛美の衣には素晴らしい象徴的、護身的、装飾的意義があります。
今週も生活の狭間で敵が待ち受け、私たちを失望落胆させようとするでしょう。その時、とにかく主を賛美することにしましょう。
泉佐野福音教会
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