6月28日礼拝説教
「共に生きるとき」 伝道の書4章1〜12節
4:1わたしはまた、日の下に行われるすべてのしえたげを見た。見よ、しえたげられる者の涙を。彼らを慰める者はない。しえたげる者の手には権力がある。しかし彼らを慰める者はいない。
4:2それで、わたしはなお生きている生存者よりも、すでに死んだ死者を、さいわいな者と思った。
4:3しかし、この両者よりもさいわいなのは、まだ生れない者で、日の下に行われる悪しきわざを見ない者である。
4:4また、わたしはすべての労苦と、すべての巧みなわざを見たが、これは人が互にねたみあってなすものである。これもまた空であって、風を捕えるようである。
4:5愚かなる者は手をつかねて、自分の肉を食う。
4:6片手に物を満たして平穏であるのは、両手に物を満たして労苦し、風を捕えるのにまさる。
4:7わたしはまた、日の下に空なる事のあるのを見た。
4:8ここに人がある。ひとりであって、仲間もなく、子もなく、兄弟もない。それでも彼の労苦は窮まりなく、その目は富に飽くことがない。また彼は言わない、「わたしはだれのために労するのか、どうして自分を楽しませないのか」と。これもまた空であって、苦しいわざである。
4:9ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。
4:10すなわち彼らが倒れる時には、そのひとりがその友を助け起す。しかしひとりであって、その倒れる時、これを助け起す者のない者はわざわいである。
4:11またふたりが一緒に寝れば暖かである。ひとりだけで、どうして暖かになり得ようか。
4:12人がもし、そのひとりを攻め撃ったなら、ふたりで、それに当るであろう。三つよりの綱はたやすくは切れない。
伝道者が太陽の下に続いて観たのは、神の似姿を失った人間の歪んだ実態であった。『すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された』と創世記1章27節は、神のかたちが男女の人間存在に表現されていると教える。
神は人間をご自身の三位一体性(父、御子、聖霊)に基づき、複数で共に生きる生きものとして造られた。神がその三位格により愛と信頼で交わり存在されるように人は似せて造られている。
だが、伝道者が観るのは、虐待、嫉妬、怠慢、貪欲な加重労働、そして孤独であり、それらは、共に生きることを望みつつ果たせずに破れた人間の現実であった。
米国の黒人差別デモの背景にあるのは陰湿なしえたげそのものである。どの分野でも仕事の成功は望ましいが、その背後に嫉妬心、競争心が隠れた動機だとは実に鋭い指摘である。その有様は古今東西、変わる事なく、文字通り現代の様相そのものである。
1章初めに掲げられた主題「空(くう)の空(くう)」がここにも現実味を見せられ、束の間のいのちを、共に生きることならず過ごすことの無意味さが強調される。「風を捉えるよう」で掴みどころが無いのだ。
伝道者はその事実を踏まえ、「ふたりはひとりにまさる」と、共に生きることの有益さを結論として再提示する。共に生きるとき、ひとりが倒れるなら助け起こされる、どんなに寒い晩でも一緒に寝れば暖まる、危険な敵に襲われてもふたりで対決すれば有利に対処できる。
それは結婚関係に妥当するばかりか、真理としてあらゆる活動に適合している。そして伝道者がこの真理を比喩的に表現した「三つ撚りの糸」は、主イエスの約束『ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである』を暗示し指し示している。
お互いの心に主イエスを迎え入れるとき、人は真の意味で関係が愛により撚られ、切れることのない堅い絆で結ばれるのだ。
そのとき、我々は他人を虐待したり、妬んだり、利己的に孤立しない。否、むしろ、虐待で泣く人を慰め、躓く人を助け起こし、冷えた人の心を暖めることになるだろう。
6月21日礼拝説教
「予定と自由の狭間」 伝道の書3章16〜22節
わたしはまた、日の下を見たが、さばきを行う所にも不正があり、公義を行う所にも不正がある。わたしは心に言った、「神は正しい者と悪い者とをさばかれる。神はすべての事と、すべてのわざに、時を定められたからである」と。
わたしはまた、人の子らについて心に言った、「神は彼らをためして、彼らに自分たちが獣にすぎないことを悟らせられるのである」と。人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息をもっている。人は獣にまさるところがない。すべてのものは空だからである。みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。
だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを。それで、わたしは見た、人はその働きによって楽しむにこした事はない。これが彼の分だからである。だれが彼をつれていって、その後の、どうなるかを見させることができようか。
時間をテーマとする3章では、自由と予定の狭間に生きる我々人間の特性を改めて思わざるを得ない。
その第一の特性は獣との同似性にある。人は獣と同じ息をし、同じく死ぬ。しかも束の間の命を生きる。だが、「ちりから出て、ちりに帰る」とは人が神による被造性を有することをも意味する。人間は進化の産物でもなければ輪廻転成の結果でもない。
生物化学者の安藤和子理学博士は徹底した唯物論者、進化論者であったが、生命の神秘の探求途上で主イエスと邂逅し、ダーウイン・メガネを外した結果、神の創造を確信するに至ったと証言された。しかも、人間が獣と決定的に違う点は、神のかたちに似せて造られた神との近似性を有するところにある。神ではないが神の義、聖、真実、善の道徳的属性を備えるべく人は造られている。
伝道者は日の下に「さばきを行う所に不正」を見た。私たちも立法府の国会や法を裁く裁判所に不正が働くのを見ている。検察庁のトップクラスの賭け麻雀が露見し失脚した。元法務大臣が選挙戦で票の取りまとめに多額の資金をばら撒き逮捕された。獣は裁かれることはないが、人はその道徳性の故に裁かれる。
不正を働いてもこの地上生涯で法の網をかいくぐり抜けたとしても、人は死んだ後に神に裁かれる。「神は正しい者と悪いものとを裁かれる」人は神を恐るべし。
伝道者が「だれが彼を連れていって、その後の、どうなるかを見させることができようか」と言う時、未来を否定したかの印象を受ける。人も獣も死ぬがその霊が上に昇るか下に降るか誰も分からないと。そこに旧約時代人の限界がある。
その限界は御子イエスの来臨で破られ、私たちには未来が開かれている。復活されたイエスにより信じる者みな死んでも蘇る希望が与えられている。その上で私たちは現在を神により分与された働きに勤しみ喜び生きることが許されている。だが著しいグローバル化と環境汚染をよくよく弁え、各自が自分の働きが神の配分にかなうものか吟味するべきであろう。
今日の異常さは分を弁えない人間活動がもたらした結果だからである。
6月14日礼拝説教
「神の賜物を喜ぶ」 伝道の書3章10〜15節
わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。神のなされることは皆その時にかなって美しい。
神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。
わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。
わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。
神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。
今あるものは、すでにあったものである。後にあるものも、すでにあったものである。
神は追いやられたものを尋ね求められる。
「すべてのわざには時がある」と時間の枠に生きる人間を3章から直視した伝道者は、10〜15節に神から三つの賜物が授けられている事実を取り上げ、その一つが食い飲みだと指摘する。
ここで神の賜物とされる食い飲みは、2章で快楽の対象とされた食い飲みとは本質的に違っている。束の間の人生において、神により備えられた味覚、聴覚、視覚、触覚、嗅覚の五感ですべてを神の贈り物として感謝して受けとめ味わうことは、快楽を目的にひたすら追求することとは決定的に違っている。
「天の父よ。ありがとう。」と感謝し味わうのであれば、花を音楽を絵画を愛でることは喜ばしい営みとなる。
すでに前回、言及した事実であるが、人の心にある永遠を思う思いも、神の賜る優れた賜物である。神が授与されるオーラム(永遠)は、新約聖書において、信じる者に授けられる永遠の命に相当する。
永遠の命とは、父なる神と御子イエスを知ることである(ヨハネ17:3)と、主イエスは定義された。それによってのみ人は、神と神の御業を認識できるものとされる。同じことの繰り返しのような計測できる時間と、突然訪れる決定的な瞬間を貫いて、人は神の時に適った美しい御業を知ることが許される。勿論のこと、神の御業の全てを見極めることはできないし、それに対する付加削除も許されない。
15節によれば神が過去に成された業を今、また、これから行われることが明示される。神の創世から神の民イスラエルの歴史を記す聖書は、その意味で、神が今、そして、これから成されようとする御業を私たちに予見させてくれるものとして得難い手がかりとなる。
奴隷から民をモーセにより解放された主は、御子イエスにより罪の奴隷から解放する贖罪の御業を成された。そして、御子は再び来られて最後の敵である死から私たちを解放されようとしておられる。
13節では労苦勤労もまた賜物であるとされる。出勤前に仕事を賜物と神に感謝し、夕べに勤め終えた恵みに感謝の祈りを捧げる者には、いい尽くし難い喜びが泉となって湧出するに違いない。神の豊かな賜物を喜ぼう。
6月7日礼拝説教
「万事に時がある」 伝道の書3章1〜15節
天が下のすべての事には季節があり
すべてのわざには時がある。
生るるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、
こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、
抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、
保つに時があり、捨てるに時があり、
裂くに時があり、縫うに時があり、
黙るに時があり、語るに時があり、
愛するに時があり、憎むに時があり、
戦うに時があり、和らぐに時がある。
働く者はその労することにより、なんの益を得るか。
わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。
神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。
わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。
わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。
今あるものは、すでにあったものである。後にあるものも、すでにあったものである。神は追いやられたものを尋ね求められる。
第一章で宇宙空間、第二章で快楽追求の観察結果を「空(くう)」と見定めた伝道者は、次に第三章では時間に生きる人間模様に、「働く者はその労することにより、なんの益を得るか」(11節)と大きな疑念を抱きます。
ギリシャ語訳聖書は、1節の季節をクロノス、時はカイロスと訳します。クロノスは延々と続く計測可能な時間を表し、カイロスは決定的な瞬間、突然訪れる時を意味し、人間だれしも例外なくその時間の枠の中を生きざるを得ません。「時は金なり」の諺が言うまでもなく、時間をいかに有効的に活用するか、利益優先の現代では、限られた時間が現代人の死活問題です。
2〜8節は美しい14行詩をとるのですが、内容は一対の対立した出来事の連続で、あたかも振り子時計のようです。人は好ましい出来事ばかりでなく、不本意な好ましからざる出来事にも突如襲われる。伝道者はその現実を冷静に計算し、「生まれ」「死ぬ」人間の生は、プラスマイナス=ゼロではないか、「なんの益を得るか」と呟きます。
ところが、彼の心の目は開かれ、人間が季節(クロノス)、時(カイロス)だけではない、いまひとつ隠された時、すなわち「永遠」に生かされている事実を悟ります。「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」(11節)ここで「永遠」と訳される原語はオーラム、ギリシャ語はアイオンと訳します。それは、その前の句「神のなされることは皆その時にかなって美しい」を受けて理解すれば、神の時、神が働かれる時であると分かる。
それは人の目に隠された時間です。その時間への思いが人に授けられる。それは新訳聖書に至り、キリストにおいて初めて万人の経験となるものです。
御子イエスを信じる者は誰でも永遠の命を得るからです(ヨハネ3:16)。信仰は見えないものを確認させます。自分の生涯を貫いて時空を超えた生ける神が働かれるみ業を認識する特別な能力が授けられるのです。勿論、「人は神のなされるわざを初めから終わりまで見極めることはできない」(11節)制約された認識でありますが。垣間見せられる恵みに感謝しよう。
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