8月30日礼拝説教
「土の宿命の超克(ちょうこく)」 伝道の書9章1〜10節
9:1わたしはこのすべての事に心を用いて、このすべての事を明らかにしようとした。すなわち正しい者と賢い者、および彼らのわざが、神の手にあることを明らかにしようとした。愛するか憎むかは人にはわからない。彼らの前にあるすべてのことは空である。
9:2すべての人に臨むところは、みな同様である。正しい者にも正しくない者にも、善良な者にも悪い者にも、清い者にも汚れた者にも、犠牲をささげる者にも、犠牲をささげない者にも、その臨むところは同様である。善良な人も罪びとも異なることはない。誓いをなす者も、誓いをなすことを恐れる者も異なることはない。
9:3すべての人に同一に臨むのは、日の下に行われるすべての事のうちの悪事である。また人の心は悪に満ち、その生きている間は、狂気がその心のうちにあり、その後は死者のもとに行くのである。
9:4すべて生ける者に連なる者には望みがある。生ける犬は、死せるししにまさるからである。
9:5生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない、また、もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも、ついに忘れられる。
9:6その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消えうせて、彼らはもはや日の下に行われるすべての事に、永久にかかわることがない。
9:7あなたは行って、喜びをもってあなたのパンを食べ、楽しい心をもってあなたの酒を飲むがよい。神はすでに、あなたのわざをよみせられたからである。
9:8あなたの衣を常に白くせよ。あなたの頭に油を絶やすな。
9:9日の下で神から賜わったあなたの空なる命の日の間、あなたはその愛する妻と共に楽しく暮すがよい。これはあなたが世にあってうける分、あなたが日の下で労する労苦によって得るものだからである。
9:10すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ。あなたの行く陰府には、わざも、計略も、知識も、知恵もないからである。
「空の空」で筆を起こした伝道者は、太陽の下で行われる全てを鋭い観察眼で精査してきたが、9章でその到達点に達し、要約すると「すべての人間は神の定めの中にあり、終わりは死によって朽ち果てる、という限られた中で生きる他ない」と結論する。
人間の生にメスを入れる伝道者が、すべてのうちで最悪は一つの運命、即ち死がすべての人に臨むことだと言うとき、彼が悲観論者に見えなくはない。だがその後、当時知られた諺「生ける犬は死せる獅子にまさる」を引用することで、むしろ生きることを力強く肯定していることが分かる。屍となった百獣の王ライオンよりも、つまらない犬でも生きていれば価値があるというもの。人が死を知り、死んだ後人の行く陰府には何も無いことを悟りさえすれば、束の間の人生がいかに大切であるかが分かろうというものだ。それ故に、今現在を喜び楽しく生きよと彼は勧告する。
だが伝道者はその時点で、神の知恵である主イエス・キリストにまだ出会ってはいかった。どんなに優れた知恵者でも限界がある。神の啓示の光は漸進的に創世記に始まり、徐々に明るさを増し、主イエスにおいて初めて啓示が完成した。
私たちには伝道者の見えなかった死後の真理がキリストにあって明らかにされている。確かに罪の故に人は死ぬことを知っている。だが、更に、キリストが十字架に贖いの死を遂げて下さったために、罪赦され救われたことをも知っている。そればかりか、死んでも陰府ではなくパラダイスに、即ち、主のもとに直行し、尚且つ、主イエスが再来されるなら、主が蘇られたように、私たちも新しい身体を与えられ復活させられることを知っている。
このように信仰によりまだ見ていない事実を確信するとき、私たちは闇の中に輝く小さなロウソクの灯りのように、束の間の人生が光り輝いてくることが分かる。すべての営みが主の御手にあり、すべての業が神に加納されているとすれば、なお為すべきことを喜びをもって果たしゆく事が期待されている。主が共におられる故に、食事も装いも楽しく、結婚の本来の喜びをも取り戻すことがそこで可能となる。
8月23日礼拝説教
「時と法を弁える」 伝道の書8章1〜17節
8:1だれが知者のようになり得よう。
だれが事の意義を知り得よう。
人の知恵はその人の顔を輝かせ、
またその粗暴な顔を変える。
8:2王の命を守れ。すでに神をさして誓ったことゆえ、驚くな。
8:3事が悪い時は、王の前を去れ、ためらうな。彼はすべてその好むところをなすからである。
8:4王の言葉は決定的である。だれが彼に「あなたは何をするのか」と言うことができようか。
8:5命令を守る者は災にあわない。知者の心は時と方法をわきまえている。
8:6人の悪が彼の上に重くても、すべてのわざには時と方法がある。
8:7後に起る事を知る者はない。どんな事が起るかをだれが彼に告げ得よう。
8:8風をとどめる力をもつ人はない。また死の日をつかさどるものはない。戦いには免除はない。また悪はこれを行う者を救うことができない。
8:9わたしはこのすべての事を見た。また日の下に行われるもろもろのわざに心を用いた。時としてはこの人が、かの人を治めて、これに害をこうむらせることがある。
8:10またわたしは悪人の葬られるのを見た。彼らはいつも聖所に出入りし、それを行ったその町でほめられた。これもまた空である。
8:11悪しきわざに対する判決がすみやかに行われないために、人の子らの心はもっぱら悪を行うことに傾いている。
8:12罪びとで百度悪をなして、なお長生きするものがあるけれども、神をかしこみ、み前に恐れをいだく者には幸福があることを、わたしは知っている。
8:13しかし悪人には幸福がない。またその命は影のようであって長くは続かない。彼は神の前に恐れをいだかないからである。
8:14地の上に空な事が行われている。すなわち、義人であって、悪人に臨むべき事が、その身に臨む者がある。また、悪人であって、義人に臨むべき事が、その身に臨む者がある。わたしは言った、これもまた空であると。
8:15そこで、わたしは歓楽をたたえる。それは日の下では、人にとって、食い、飲み、楽しむよりほかに良い事はないからである。これこそは日の下で、神が賜わった命の日の間、その勤労によってその身に伴うものである。
8:16わたしは心をつくして知恵を知ろうとし、また地上に行われるわざを昼も夜も眠らずに窮めようとしたとき、
8:17わたしは神のもろもろのわざを見たが、人は日の下に行われるわざを窮めることはできない。人はこれを尋ねようと労しても、これを窮めることはできない。また、たとい知者があって、これを知ろうと思っても、これを窮めることはできないのである。
一見迷路に見える8章だが、5節の「知者の心は時と方法をわきまえている」をキーワードにすれば、その主旨が「時と法を弁(わきま)える知恵ある者は、不条理な今の時でも責任を持って生き、喜び楽しむことができる」となろう。
伝道者は人の生きる時代を、起こる事の予測できない時(7節)、起こる事を制御できない時(8節)、人が人を支配する災いの時(9節)、義人・悪人アベコベの時(10,12,14節)、犯罪増加の時(11節)、それにもかかわらず神の働かれる時(17節)だと弁える。
神の働きが一切を貫いていることは「すべてのわざには時がある」とする3章で既に確認された。逆境と順境の交差も神のわざだと7章14節で既に学んだ。不条理に見える出来事の連鎖を神の御業が貫いている。しかも人はそのすべてを窮めつくすことはできない程に深淵なのだ。
そればかりか、伝道者は知恵ある者として、神が世界を統治される事実を弁(わきま)えるよう私たちに勧める。2〜4節の王に仕える家臣がその権威に服する勧告には神の秩序による統治が反映される。相互に一定の関係で調和を保つ秩序として政治、社会、家庭、職場、そして教会が定められている。それが不完全であっても最低限の秩序が保たれるよう神は配慮しておられる。その秩序を保つ基準としての法をも神は統治するため定め、十戒がその根底にあることは言うを待たない。神の統治はその秩序を法に従い生きる人々を最後的に審判することで完了される。
だが罪深い我々のうち誰が最後の厳粛な審判に耐えられるだろうか。万人が罪を犯し、神の栄光を受けられないとローマ3章23節は明示している。だが感謝なことに神の審判は、御子イエス・キリストの十字架の苦難により完了された。イエスは十字架上で「すべては終わった」と絶句されたが、それは罪の赦しが主イエスの身代わりの贖いの業による完成を意味されたのである。この大いなる時と法を弁える知恵ある者とは、あの祝祷で明らかなように、神の御顔を照らされた者を指している。
恩恵によるみ言葉の語りかけを受けるなら、知恵によりその顔も輝こう。
8月16日礼拝説教
「顔を輝かす知恵」 伝道の書7章23節〜8章1節
7:23わたしは知恵をもってこのすべての事を試みて、「わたしは知者となろう」と言ったが、遠く及ばなかった。
7:24物事の理は遠く、また、はなはだ深い。だれがこれを見いだすことができよう。
7:25わたしは、心を転じて、物を知り、事を探り、知恵と道理を求めようとし、また悪の愚かなこと、愚痴の狂気であることを知ろうとした。
7:26わたしは、その心が、わなと網のような女、その手が、かせのような女は、死よりも苦い者であることを見いだした。神を喜ばす者は彼女からのがれる。しかし罪びとは彼女に捕えられる。
7:27伝道者は言う、見よ、その数を知ろうとして、いちいち数えて、わたしが得たものはこれである。
7:28わたしはなおこれを求めたけれども、得なかった。わたしは千人のうちにひとりの男子を得たけれども、そのすべてのうちに、ひとりの女子をも得なかった。
7:29見よ、わたしが得た事は、ただこれだけである。すなわち、神は人を正しい者に造られたけれども、人は多くの計略を考え出した事である。
8:1だれが知者のようになり得よう。
だれが事の意義を知り得よう。
人の知恵はその人の顔を輝かせ、
またその粗暴な顔を変える。
この箇所は知恵により括られ、伝道者は人間の知恵の限界をわきまえつつも、意欲的に物事の道理の一つを極めようとしている。それは悪の愚かさであった。
続く文脈からすれば、それが具体的には死よりも苦いとされる女となる。その苦さは「罠、網、枷」のようだともその最悪さを強調する。何故ここで女を取り上げるのか、それには諸説あり、女性一般のことでなく特定のタイプとする説、性的誘惑の警告とする説、伝道者の極端な女嫌いだとする説等がある。しかし最も妥当な理解は、伝道者が女を暗号的言葉とし謎掛けをし謎解きをしたとする解釈だろう。
彼は、当時の諺である「女はわなで、彼女の心は網、彼女の手はかせ」で謎掛けをし、28節にある同じく当時の諺で謎解きをしている。28節で「千人のうちに」とある千人とは軍隊の旅団の単位と考えられる。そこでこの謎掛けは端的に「女と掛けて何と解く」「軍隊と解く」その心は「危ないので避けられる」と表現できよう。これにより、ふしだらな女に掛けて戦争が狂気の沙汰であることが指摘される。それにより伝道者がその探求の結論とした29節がよく理解できよう。
神は人間を正しい者に造られたが、人は罪により堕落し、「多くの計略」を考案した。すなわち戦争は堕落した人間の作り出した悲惨な現象なのだ。昨日8月15日に終戦が記念された。日本人だけでも300万人以上が無残な死を遂げている。連合軍上陸に備え1億玉砕を叫び婦女子まで竹槍突撃訓練に動員されていた。まさに狂気の沙汰としか言えない。
知恵とは物事を悟り、適切に処理する能力とすれば、戦争の悲惨な道理を悟る者は戦争を回避するため対処しなければ、真の知恵があるとは言えない。今この時、過去の出来事を心に刻み付け、次世代に語り継ぐ責任がある。厳しい国際環境で判断を求められる為政者のため祈り、自ら平和を創り出す努力を怠るべきではない。「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」と主は言われた。その人とは26節の「神を喜ばす者」であり、それは十字架で罪の赦しを受けた者であるに違いない。
8月9日礼拝説教
「ありのまま行く」 伝道の書7章15〜22節
7:15わたしはこのむなしい人生において、もろもろの事を見た。そこには義人がその義によって滅びることがあり、悪人がその悪によって長生きすることがある。
7:16あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。
7:17悪に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。あなたはどうして、自分の時のこないのに、死んでよかろうか。
7:18あなたがこれを執るのはよい、また彼から手を引いてはならない。神をかしこむ者は、このすべてからのがれ出るのである。
7:19知恵が知者を強くするのは、十人のつかさが町におるのにまさる。
7:20善を行い、罪を犯さない正しい人は世にいない。
7:21人の語るすべての事に心をとめてはならない。これはあなたが、自分のしもべのあなたをのろう言葉を聞かないためである。
7:22あなたもまた、しばしば他人をのろったのを自分の心に知っているからである。
伝道者は束の間の人生に、正義の敗北と悪徳の栄えを直視し、現実が必ずしも善人が報われ、悪人が罰せられる因果応報ではない不条理に生きる私たちに如何に生きるべきか打つ手を指南する。
「あなたは義にすぎてはならない」とは、自分の力と努力で正しくあろう、善人であろう、賢くあろうとする傾向を戒める。何故なら、その結果は自画自賛、うぬぼれとなり、他の人を批判し、裁き、軽蔑する危険性をはらむからだ。主イエスが『人をさばくな』と戒められるのもその理由に他ならない。
一方で中には「悪に過ぎる」人があり身の破滅を招いている。
伝道者は勧告する理由を「善を行い、罪を犯さない正しい人は世にいない」と20節で明らかにする。人の目にはどうあれ、神の目に人は十分過ぎる程罪深いからであり、正しく賢くあろうとしても、それは自己満足に過ぎないのだ。「義人はいない。一人もいない」(ローマ3:10)。
「神をかしこむ者」はこれら両極端を避け、ありのままに行くことができるとの示唆は、キリストの十字架を仰ぎ、罪の赦しによる信仰義認に立つキリスト者に通じるものである。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。(ローマ3:23)」それは自己義認ではなく信仰義認である。
主イエスが「わたしについて来なさい」とあるがまま従うように招かれるのは罪の赦しを前提にしている。それゆえに、ただ十字架を仰ぎ、条件抜きに信じてありのままに行くことが可能なのだ。
そこに、私たちを悩ます他人の自分に対する辛辣な言葉をいちいち気にしないで済むことができるようになれる恵みがある。人の悪口、中傷、批判は気になるものだ。ところが自分も他人を中傷していた前科を認める者は、相手を受け入れ寛容になれるのだ。
キリストにあって赦された罪人の自覚で、ありのままの姿で飾らず、背伸びせず、演技することなく信仰に生きるとき、この不条理な束の間の人生が豊かにされるに違いない。
8月2日礼拝説教
「順境逆境の対処」 伝道の書7章1〜14節
7:1良き名は良き油にまさり、
死ぬる日は生るる日にまさる。
7:2悲しみの家にはいるのは、
宴会の家にはいるのにまさる。
死はすべての人の終りだからである。
生きている者は、これを心にとめる。
7:3悲しみは笑いにまさる。
顔に憂いをもつことによって、
心は良くなるからである。
7:4賢い者の心は悲しみの家にあり、
愚かな者の心は楽しみの家にある。
7:5賢い者の戒めを聞くのは、
愚かな者の歌を聞くのにまさる。
7:6愚かな者の笑いは
かまの下に燃えるいばらの音のようである。
これもまた空である。
7:7たしかに、しえたげは賢い人を愚かにし、
まいないは人の心をそこなう。
7:8事の終りはその初めよりも良い。
耐え忍ぶ心は、おごり高ぶる心にまさる。
7:9気をせきたてて怒るな。
怒りは愚かな者の胸に宿るからである。
7:10「昔が今よりもよかったのはなぜか」と言うな。
あなたがこれを問うのは知恵から出るのではない。
7:11知恵に財産が伴うのは良い。
それは日を見る者どもに益がある。
7:12知恵が身を守るのは、金銭が身を守るようである。
しかし、知恵はこれを持つ者に生命を保たせる。
これが知識のすぐれた所である。
7:13神のみわざを考えみよ。
神の曲げられたものを、
だれがまっすぐにすることができるか。
7:14順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。
先の6章12節では人生が短く空しく影ようだと形容された。7章では、その人生の順境と逆境に適切に対処するよう勧められる。順境とは物事が順調で幸せな境遇のこと、逆境とはその反対だ。「神の曲げられたものを、だれがまっすぐにすることができるか」ではその両方とも神が造られたとすれば、人の不幸は神の仕業であろうか。そうではない。
神の創造は全てが最善で第一原因と呼ばれる。
人間の歪んだ歴史の悲惨は、第二原因の結果であり、それは人間の自由意志の誤用によるものなのだ。新型コロナウイルス感染は人為的問題で、その典型と言える。その意味で誰もが直面する順境逆境への対処は、冷静に現実を受容することが肝要である。その上で取り分け順境の日には、最悪を想定しておく知恵が不可欠である。
対照的な二つの言葉で綴られる1〜6節の詩が強調するのは人の死である。「死ぬる日」がまさるのは、葬儀では人の終わりの現実を人が直視せざるを得ないからだ。自分の死から逆算して今を生きようとしない人の歌や笑いは皮相で、カマドで燃えてパチパチ音を立てるイバラのようだ。
5章で富が所有者に害を与えると教えるのは、自分の死を計算に入れずに金銭を誤用するところにあった。だが、最悪を直視する知恵に伴う財産は、それが懸命に使用されため真の意味で価値があると言える。逆境の日の対処は、万事を治められる神に信頼し、最善を期待して祈ることにある。そうすることが許されている。
マリアとマルタは弟ラザロの病気回復を主イエスに願った。だが事実は、主イエスの到着遅延とラザロの死であった。だが主は姉妹の要請に対し「この病気は死で終わるものではない」(ヨハネ11:4)と言明されていた。事実、主は姉妹たちの期待を超えてラザロを甦らされた。
神は、『私たちの内に働く力によって、私たちが願い、考えることすべてをはるかに超えてかなえることのできる方(コロサイ3:20)』なのだ。ラザロの墓前でマルタが墓石を外し主に協力すると奇跡が起きた。
主はそれがどんなに微小でも心からの人の協力を待ち、驚くばかりの御業を成されようとしているのである。
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