1月24日礼拝説教
「天国は近づいた」 マタイ4章12〜17節
さて、イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。 そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。
これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。
「ゼブルンの地、ナフタリの地、
海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、
異邦人のガリラヤ、
暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、
死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。
この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、
「悔い改めよ、天国は近づいた」。
主イエスは沈黙を破り、30歳にして郷里のナザレを離れ、公生涯に入りカペナウムを拠点とされた。ヨハネ逮捕を聞くに及びガリラヤに退いたが、ヘロデ王への恐怖からの逃避ではなく、神の御旨への確信による行動であった。
人間的な見地からすれば消極的、敗北的であっても、それが神の御意志であれば決して無意味ではない。そこには目的を達成する計画がある。転居し、転職し、退職することがあっても、そこに神を認め、新しい目的への出発としよう。主イエスのカペナウムへの移動が、イザヤの預言の成就であったとマタイは引用して証言した。
カペナウムの位置するガリラヤ地方には、選民のユダヤ人が軽蔑した歴史背景があった。700年も以前にアッシリアに占領され、植民地政策で移り住んだ異人種と雑居した結果、「異邦人のガリラヤ」と不名誉なレッテルが貼られていた。
だが、ガリラヤに主イエスが現れたことは「死の地、死の陰に住む人々に光が昇った」との預言の成就であった。それは、主イエスの十字架の死と復活による救いが、全人類にあまねくもたらされる予表である。
事実、復活された主イエスは、「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」と弟子達に委託され、2千年を経過した現在、世界総人口の32%が、救いの恵みに預かっている。神を否定する共産主義が支配的だとする中共にしても13億人のうち1億3千万人がキリスト教徒である。「闇の中に住む民は大いなる光を見た」との預言の成就を私たちは現に見ているのだ。主の御名を讃えよう。
主イエスの誕生により神の支配は現実経験とされている。主イエスは「天の国は近づいた」と宣せられた。70数億人が、地の表の国々に住み分けるが、そこに完全な理想郷は無い。義と平和と喜びは、ただ神の支配の中に生きることにより可能とされる。キリスト信徒の国籍は天にある。地上生活にある限り私たちは二重国籍である。
自分の所属する国、社会にあって、状況がいかなるものであっても主を賛美しよう。一羽の雀でさえ父の許しなしには地に落ちないと保証されるのであるから。
1月17日礼拝説教
「直ぐに捨て従う」 マタイ4章18〜24節
さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。
イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。
イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。
こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの向こうから、おびただしい群衆がきてイエスに従った。
主イエスは公生涯の初めにガリラヤ湖の四人の漁師を弟子に呼び出された。その内のペテロは、やがて「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰の告白に導かれる。
主は彼に「私はこの岩の上に私の教会を建てよう」と宣言された。主は教会を建てるため人を弟子として呼び出される。呼び出された者の集まりが教会である。
主は「私に付いて来なさい」と命じ、「人間をとる漁師にしよう」と約束された。その命令と約束は、福音を聴いた人が信じて罪赦され神に立ち返るようになるためであった。
四人の弟子達がイエスに付いて行くと、主が会堂で教え、福音を宣教し、病気を癒し、悪霊を追い出すのを目撃させられている。福音が語られ人が悔い改め救われるのは主の業であり、教会の役割は、主イエスと一緒に過ごし、その主の業を目撃し、見たこと聞いたことを人々に証言する証人となることである。
現代のキリストの身体である教会の集会に集まることが、主に付いて行くことであり、人は聖書から主の業を知り、集会の只中で救いと癒しと解放の業を目撃することができる。
四人の漁師は呼びかけに応じて網と船とを捨てて従ったので弟子とされた。網と船は、人の生活の大切な支えを代表する。主イエスの弟子となるには、その人の心の中で価値の大転換が求められる。それまで一番自分にとって大切な宝を第二、第三としキリストを第一とすることができるだろうか。
使徒パウロは生けるキリストに出会い、「私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見なしています。」(ピリピ3:8)と言った。放棄することなしにキリストを得ることはできない。
ヤコブは父ゼベダイを船に残した。主は「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない」と後に教えられた。愛情は尊く強い。しかし愛の優先性でイエスを第一にすることによって初めて、人は真に人を愛するようにされる。捨てる者は得る。これは逆説真理である。
四人は網を捨ててすぐに従った。この「すぐに」とは時間的よりもイエスの権威が強調されている。自分の決断の時を自覚し主に従いたい。
1月10日礼拝説教
「すると天が開け」 マタイ3章13〜17節
そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。
ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。
しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。
イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊が はとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。
また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
ベツレヘムで処女マリアより誕生、迫害を避けてエジプトに寄留後、ナザレ村に育ち、主イエスは30歳で公生涯の第一歩を、ヨルダン河畔に踏み出された。ヨハネより受洗するためであった。
ヨハネは悔い改めのバプテスマを授け、人々は罪を告白して受洗した。悔い改めとは、神に背を向ける生き方の方向を転換し神の方を向く決断であった。
ヨハネはイエスに思いとどまらせようと固辞したが、「今はそうさせてもらいたい」と敢えて受洗されるイエスには確かな目的があった。それは、ヨハネへの答えで明らかで、受洗によって神の御心を成就するためであった。
イエスが受洗する罪人達の中に入り共に受洗されたのは、神が人となり人類に寄り添い連帯することを意味した。
御子イエスは人として生まれ、私たちの目線まで下り、人の悲哀、苦痛、暗黒を共有された。
更にヨルダンの流れに全身を浸されたのは、人類の犯した罪の赦しを得させるためにイエスが身代わりとして死ぬことが神の御心であることを象徴していた。水は死の象徴であり、イエスはこれによって十字架へ踏み出された。
何と、水から上がられるや、天が開け「これは私の愛する子」と父なる神のみ声があった。これはメシア預言の詩篇2篇の成就であった。詩篇2篇は古代イスラエルの王の即位礼で歌われた詩で、それはまた永遠の王の即位の預言でもあった。
イエスは、十字架に御自身を捧げ人に仕える僕となられたが、復活された主は、『私は天と地の一切の権能を授かっている』と宣言された。主イエスは天の父に認証された王の王である。
ヨハネの洗礼は悔い改めのしるしだが、イエスの御名による洗礼は、キリストの死と復活に預かる罪の赦しのしるしである。信仰を告白された方はこの洗礼に預かる恵みに招かれている。すでに受洗された者には、天が開かれている。
天が開くとは神が介入することを意味する。置かれた地の状況がどうあれ、祈りに天は開かれ、助け主である聖霊が勝利に導いてくださる。聖霊に満たされることを今年も祈り求めるとき、この年も新しいドラマが展開するだろう。
1月3日礼拝説教
「慰めに満ちる神」 マタイ2章13〜23節
彼らが帰って行ったのち、見よ、主の使が夢でヨセフに現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている」。そこで、ヨセフは立って、夜の間に幼な子とその母とを連れてエジプトへ行き、ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた。それは、主が預言者によって「エジプトからわが子を呼び出した」と言われたことが、成就するためである。
さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。
こうして、預言者エレミヤによって言われたことが、成就したのである。
「叫び泣く大いなる悲しみの声が
ラマで聞えた。
ラケルはその子らのためになげいた。
子らがもはやいないので、
慰められることさえ願わなかった」。
さて、ヘロデが死んだのち、見よ、主の使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、イスラエルの地に行け。幼な子の命をねらっていた人々は、死んでしまった」。
そこでヨセフは立って、幼な子とその母とを連れて、イスラエルの地に帰った。しかし、アケラオがその父ヘロデに代ってユダヤを治めていると聞いたので、そこへ行くことを恐れた。そして夢でみ告げを受けたので、ガリラヤの地方に退き、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちによって、「彼はナザレ人と呼ばれるであろう」と言われたことが、成就するためである。
大晦日から一夜明けて元旦、歴史の一頁をめくる一瞬である。歴史は起こった出来事の記録だが、人の主観で事実が曲げられかねない。だが、キリストの生涯の記録は、四人の福音書記者により信憑性がしっかり担保されている。マタイはキリストの降誕に絡むヘロデ大王の役割を記録したが、それによって権力と立場を濫用し、人を抑圧する人間のおぞましい罪が浮き彫りにされた。
ヘロデは晩年に最愛の妻と三人の息子を処刑し、自分の死の瞬間に三千人の有力者を同時に処刑する指示まで出したことで、その残忍さがうかがわれたばかりか、ベツレヘムの幼児らを虐殺したことでその悪名が歴史に記憶された。幼児虐殺の現代版は、身体的、性的、心理的虐待としてクローズアップされる児童虐待だが、抵抗できない弱者を抑圧する権力乱用は、家庭、学校、職場、地域社会に蔓延する罪の問題である。ここに『上に立つ人は、仕える者のようになりなさい』と諭された主イエスの戒めを心に銘記したい。
一方で、マタイが旧約の預言を三回幼子イエスのエジプト避難に適用した事実に、私たちはそこに神の大いなる慰めを見ることができる。ヨセフが幼いイエスを伴い、ヘロデ王の危害を避けたエジプト逃避は、エレミヤ31章の『私は、エジプトから私の子を呼び出した』の預言の成就である。この預言は過去のモーセによる出エジプトを回顧すると同時に、未来のキリストによる新しい出エジプトを予見している。
奴隷であったイスラエルをエジプトから解放された神が、イエスにより人類を罪の奴隷から解放されることの預言なのであった。神が計画される事は、いかに残虐なヘロデ大王の妨害があっても必ず実現するのだ。使徒パウロも神の慰めを「神は、どのような苦難のときにも、私たちを慰めてくださる」とコリント下1:4に確言した。慰めと訳されるパラクレシスは、呼べば神がそばに来てくださることを意味する。新年にどのような試練が待ち受けようとも、そこには神の慰めが約束されている。苦難にめげず神に従順したヨセフに倣い新年を前進したい。
泉佐野福音教会
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