3月26日礼拝説教(詳細)
「十字架の勝利」 ローマ1章1〜8節
従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません。キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
律法が肉により弱くなっていたためになしえなかったことを、神はしてくださいました。つまり、神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩む私たちの内に、律法の要求が満たされるためです。肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思います。
肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です。なぜなら、肉の思いは神に敵対し、神の律法に従わないからです。従いえないのです。肉の内にある者は、神に喜ばれることができません。
御名を賛美します。今日から一週間後の4月2日から受難週に入り、9日には復活節を祝う予定です。この受難週に先立つ40日間を、教会暦では四旬節と呼び、キリストの受難を偲び、祈り節制をする期間だと、先週もお話しした通りです。その受難を偲ぶ聖書箇所として選んだローマ8章1〜8節をお読みします。
I. 十字架の受難
8章は、「従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません。」と1節に始まります。「罪に定められる」とは、裁判において罪ありと宣告されることです。有罪の判決が下ることです。今月17日のこと、オランダ・ハーグにある ICC=国際刑事裁判所は、ウクライナ情勢をめぐり、ロシアが占領したウクライナの地域から子どもたちを移送したことが、国際法上の戦争犯罪にあたるとして、ロシアのプーチン大統領などに、逮捕状を出したと明らかにしました。ウクライナ政府は、ロシアが16,000人の子供達を不当にロシアに連れ去り、養子縁組させようとしていると訴えていたからです。これに対してロシア政府は、「言語道断で容認できない。この種のいかなる決定も法律上の観点からロシアでは無効だ」と非難し反論しています。実際にプーチン大統領が逮捕されるかはともかく、国際刑事司法裁判所で裁判にかけられたなら、必ず有罪の判決が下るはずです。
今月20日のこと、所謂、「袴田事件」の死刑囚、袴田巌さんの差し戻し審が確定いたしました。袴田さんは、静岡県の味噌製造会社の専務家族四人を惨殺し放火した罪に問われ、30歳の時に逮捕、静岡裁判所で死刑が宣告されていました。しかし、無罪を主張し続けたため、とうとう念願が叶い、再審公判で、身の潔白を証明する機会が与えられようとしているのです。事件から一年二ヶ月後に、工場の味噌樽から血痕の付着した5点の衣類が、袴田さんが犯行時に着用していた衣類だと断定され、有罪の決定的証拠とされていました。ところが現在では、その衣類は検察側が捏造した物証ではないかと疑われ、この死刑判決は、無実の人を罪におとしめる冤罪ではないかと、言われているものなのです。それが冤罪であるとすれば、逮捕されてから57年がすでに経過しており、袴田さんは現在87歳で、本当に気の毒であるとしか言いようがありません。「罪に定められる」それは、人の経験する中でも恐ろしい出来事です。その恐ろしい有罪宣告の中でも、歴史上、最も恐ろしく、おぞましく、悲惨な有罪宣告は、キリストの十字架刑です。
先週、先々週と連続し、ルカ9章からイエス様の受難予告をお話してきました。イエス様は弟子達にこう予告されたのです。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(ルカ9:22)そして、私たちは、その予告された通りに、イエス様が十字架上で殺されたことを知っております。イエス様は、弟子のユダに裏切られ、銀貨30枚で敵に売り渡されてしまいました。イエス様が、ゲッセマネで逮捕されるや、大祭司の公邸に引っ立てられ、裁判に掛けられ、死刑が宣告されました。死刑を宣告しても死刑を執行する権限の無いユダヤ人議会は、翌朝、即座にローマ総督、ポンテオ・ピラトに訴え、刑の執行を迫りました。その結果、死刑判決の確定したイエス様は、ローマ兵に引き渡され、ゴルゴダの刑場まで、十字架を背負わされ、遂に磔刑に処せられてしまったのです。
私の蔵書の一冊には「死刑全書」という忌まわしい名称の分厚い書物があります。そこには36種類の死刑の方法が解説されているのですが、とても読むに堪えないおぞましい書物です。その八番目が十字架刑です。当時のローマ帝国においては、十字架刑は奴隷専用の残酷な処刑でした。イエス様は、奴隷扱いされたのであり、十字架に先立ち、ローマ兵から鞭打たれ、全身が切り裂かれました。イエス様は、横木に両手を五寸釘で撃ち付けられ、両足は揃えて立木に釘づけられました。その頭には、茨で編んだ冠が被せられました。イエス様は炎天下に裸で群衆の前に晒し者にされ、罵られ、嘲られ、辱められました。最後に息絶えたイエス様の脇腹には、死んでいるかどうか確認するため、ローマ兵により槍が刺し貫かれました。イエス様は、罪に定められたのです。有罪が宣告され、死刑が確定し、死刑が十字架刑によって執行されたのです。それは、文字通り十字架のパッション、受難でした。
Ⅱ.十字架の勝利
ところがです、今日、私たちの手にする聖書は、イエス様の十字架の受難が、実は私たちのための勝利であると言うのです。「今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません」イエス様が罪に定められたので、イエス様にある者は罪に定められることがない、と言われるのです。十字架が勝利であるとは、言い換えれば、私たちが罪に対して勝利することができる、と言うことなのです。ここで、私たちは自分自身について、今一度、再確認しなければならない事実があります。それは、「自分は、生まれながらにして死刑囚である」という事実です。すでに生まれながらに死刑の判決がくだされていた、という事実です。ローマ3章23節にはこうあります。「人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっています」。例外なく人は皆、すべての人が罪人なのです。ローマ5章12節にはこうあります。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」この一人の人とは、人類の始祖アダムのことです。
人間を創造された神様は、アダムと契約を結び、こう告げられました。「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる。」(創世記2章16、17節)その最初の契約には、許可と禁止がありました。それに罰則が付随していたのです。この最初の契約の代表であったアダムが、その契約を破り罪を犯した結果、アダムにつながるすべての人間が罪に定められることになったのです。旧約聖書のヘブライ語の罪、ハッタアーも、新約聖書のギリシャ語の罪、ハマルティアも、その本来は的外れを意味しています。的を狙って弓矢を放っても、矢が的から外れることです。罪とは人が的を外した人生を生きることです。罪とは、人が犯す個々の過ちや犯罪ではなく、神様との正しい関係が破れたことを表すものなのです。最初の人間アダムが契約を破り、神様との正しい関係が破れたために、その罪の結果、人間に死がその裁きとして入り込んできたのです。人は何故死ぬのでしょうか。それは最初の人アダムが罪を犯したからなのです。その罪は、個々人が思いや言葉や行いによって犯す罪のことではありません。それは人類の契約代表であるアダムが犯した罪、契約違反のことであり、私たちは、それを原罪と呼ぶところの罪なのです。私たちは、罪を何か犯したので罪人なのではありません。罪人なので罪を犯すと言うことです。ところが、聖書は、この罪がイエス様の十字架の受難によって処罰され、罪に対して勝利が勝ち取られたと言うのです。4節がこう言っています、「律法が肉により弱くなっていたためになしえなかったことを、神はしてくださいました。つまり、神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです。」この「神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし」とは、イエス様が、私たちと同じ肉体の形を取って人間となられたが、罪の全く無い人として遣わされたことを意味します。この罪の全くない人間イエス様が十字架にかけられる、それによって、神様は人類の原罪を処罰されたのです。それは、イエス様が罪ある全人類の身代わりとなって、神様の罪の処罰を受けられたと言うことです。
先週、先々週と、日曜日午後5時からの「ライフライン友の会」で放映されたのは、北海道旭川市の三浦綾子記念館が主催した、クリスチャン小説家の三浦綾子生誕100年記念行事のことでした。三浦綾子さんが書き残した作品の与えた影響は非常に大きいですね。その小説によって信仰に導かれた方が沢山おられるはずです。朝日新聞の一千万円懸賞付き連続小説に応募されて、第一作の「氷点」が当選し、三浦さんはそれをきっかけに小説作家に転進されました。その代表作の一つに「塩狩峠」がありますね。映画化もされて多くの方々に感銘を与えたものです。それは、旭川市に実在されたクリスチャン鉄道員、長野政雄さんの実話を描いた作品です。それは明治42年2月28日の夜のことでした。彼はいつものように祈祷会に出席するため汽車に乗ります。ところが汽車が、塩狩峠の上り急勾配に差し掛かった時のことです。最後尾の客車の連結器が突然外れ、分離した客車は、逆方向に急速度で走り始めたのです。車内は騒然とし大混乱に陥りました。たまさかその車両に乗り合わせた長野さんは、その客車のデッキにあるハンドブレーキ装置を確認すると、力一杯締め付けました。やがて逆走する客車は、そのスピードが徐行速度まで落ちたものの、完全に止まりませんでした。このまま走ればその先の急勾配にくれば暴走し脱線すること必死です。その時、長野さんは一大決心をされたのです。暴走する列車を止め、人命を救助するため、彼は線路上に飛び降りたのです。その瞬間、客車はゴットンと止まりました。その結果、乗客全員が助かりました。長野さんは乗客の身代わりとなり、自分の命を捨てられたのです。
十字架のイエス様の死、それは、私たちの罪の身代わりとなる犠牲の死でした。人類の始祖アダムによる原罪のみならず、すべての個々人のおかした罪、これから犯すすべての罪が処罰されたのです。イエス・キリストの十字架は、その意味で私たちのための勝利の受難なのです。イエス様が全人類の罪の毒杯を全部飲み干し、ご自分が裁かれることによって、罪の赦しをもたらしてくださったのです。
Ⅲ.十字架の信仰
「今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません。」イエス様により勝ち取られた十字架の勝利は誰のものでしょうか。「キリスト・イエスにある者」のものです。では「キリスト・イエスにある」とは、どういうことでしょうか? すでにすべての人が例外なく罪を犯し、死に定められていることは、人類の始祖であるアダム、神との最初の契約の代表であるアダムにつながっているからであることを、私たちは知っています。と言うことは、私たちがこうして肉体をもって生きている限りは、その罪と死の秩序を離れることができません。私たちはその意味において、古い契約の代表であるアダムにある者、密接不離な関係にある者です。しかしながら、そこに、神様から遣わされた神の子イエス様が立たれたのです。イエス様は新しい契約の代表、新しい人類のアダムとして立たれたのです。その私たち、生まれながらに「アダムにある者」である私たちが、どのようにして、新しい契約の代表、新しい人類のアダムである「イエス様にある者」になることができるのでしょうか? それはひとえにただイエス様を信じ、十字架の死によって神様が成し遂げてくださったことを信じる信仰によるのです。
神様は第一に十字架のイエス様の死により、罪を処罰されました。イエス様は私たちの罪の身代わりとなり処罰されました。そのように十字架の業を信じ受け入れるときに、人は罪が赦され、神様との関係が正しくされることになります。あなたが、誰かに、「あなたはイエス様を信じますか?」と問われ、「ハイ、私はイエス様を救主として信じます」と答えた瞬間に、あなたは罪赦され、神様と正しい関係に入れられているのです。
そればかりではありません。神様が十字架でイエス様の死によって成し遂げられた、もう一つの大切な業を信じることが必要です。それは、あなたの古い人が、十字架によってイエス様と共に死んだことを認める信仰なのです。信じた方は、何故、続いて洗礼を受けるのですか。あの水の中に入り、沈められ、再び浮かび上がるあの体全体で預かる洗礼は何を意味するのでしょう。ローマ6章3〜4節を読んでみてください。「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにあずかる洗礼を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼を受けたのです。私たちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。」洗礼とは、神様を信じることなく罪の中に生きていた古い自分が、イエス様と共に死んで、神様を信じる新しい自分になったことを信じる、見える形による信仰告白なのです。イエス様の十字架の死はそれによって罪が処罰されただけではありません。それによって罪に支配されている自分が、イエス様と共に死んだことを意味するのです。みなさんは、その意味で洗礼を受け、その意味で、イエス様を信じておられるでしょうか。そうであれば、あなたは「キリスト・イエスにある者」なのです「イエスにある」と言うこの「ある」は場所的な表示ではなく、密接不離な相互内住的な結合関係を表すものです。
その上、その信仰は、聖霊による命の信仰なのです。十字架の信仰によって義とされ神様との正しい関係に入れられます。十字架の古き人の死によって、イエス様との相互内住関係に入れられます。更に、聖霊に支配された命の具体的な生活に入れられることになるのです。2節にこう記されています。「キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」ここで法則と呼ばれるのは、別訳では原理とも訳されています。法則とか原理とは、同じ条件下では、同じ結果が生じることを意味するでしょう。
磁界とコンパスの関係をご存知でしょう。皆さんも方角を指し示すコンパスを使ったことが多分あるでしょう。コンパスは自分の位置を確認するための磁力を使った機器で、回転する針の先端が必ず北を指す性質を利用しています。それはこの地球上には磁界と呼ばれる磁力が働いている空間があるからなのです。その磁力の支配圏にある限りコンパスは必ず同じ方向、北を指し示すことになります。もう一つわかりやすいのは万有引力の法則でしょう。物を高い所から離すと必ず落下するものです。当たり前です。ところがそれは、そこに引力の法則が働いているからだと言うことが、言うまでもなく知られています。引力の働いている支配圏であれば、何回やっても全く同じ結果が出るのです。
この8章2節には、二つの法則、二つの原理があります。「罪と死の法則」とは、私たち人間を取り巻く状況のことで、アダム以来、私たちは罪の支配圏にあると言うことです。罪の支配圏に置かれているため、人は罪を犯さざるを得ません。その結果、死に至らざるを得ないのです。使徒パウロは自分の体験であるかのように、この厳しい現実を7章で語ってきました。その告白的な文章が15節です。「私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。」それは内面のジレンマ、内的葛藤です。そして一つの結論に至るのです。それが20節です。「自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。」23節ではこうも語ります。「私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。」それは、コンパスの針を北に常に向かわせる磁場のようです。物を常に落下させる引力の法則のようです。そして、使徒パウロは絶望的にこう呻くのです、「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。」ところが、そこから急転直下、私たちに救いの道をさし示して断言するのです。
「キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」生きている限り、罪と死との法則が無くなるわけではありません。罪を犯させる力が働く支配圏にいることに変わりはありません。だが、イエス様にあることにより、イエス様を信じ、イエス様と不離一体となることにより、全く新しい法則の中に、命の働く支配権に生かされるのです。その新しい支配圏が「命の霊の法則」なのです。信仰により、人は、聖霊によって働く命の支配圏に置いていただけるのです。それはイエス様を信じた人には聖霊が来られ、聖霊が内にお住まいくださり、聖霊が生きる新しい力を与えてくださることなのです。
今日の聖書箇所では、ここにいる私たち一人ひとりに、内的な葛藤に勝利するための、信仰の決断が求められています。古い契約の人類の代表であるアダムにあり続けようとするのか、それとも、信仰により新しい契約の代表であるイエス・キリストにある者であろうとするかです。5節「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思います。」肉とは罪に支配されけがされた人間性のことです。その支配領域にある限り、惨めさは避けられないのです。しかし、十字架により、全く新しい命の支配領域に入ることが許されるのです。6節「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です。」8節「肉の内にある者は、神に喜ばれることができません。」イエス・キリストを信じ、イエス・キリストにある者となることにより、神に喜ばれた人生を生きることにしようではありませんか。今週も、十字架を見上げ、神様が成し遂げてくださった勝利の御業を賛美し、感謝しつつ、聖霊に満たされて進み行くことにいたしましょう。
3月19日礼拝説教(詳細)
「山頂からの展望」 ルカ9章28〜36節
この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。
祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、衣は白く光り輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後のことについて話していた。
ペトロと仲間は、眠りこけていたが、目を覚ますと、イエスの栄光と、一緒に立っている二人の人が見えた。この二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。幕屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために。」ペトロは、自分でも何を言っているか、分からなかったのである。
ペトロがこう言っていると、雲が現れ、彼らを覆った。彼らが雲に包まれたので、弟子たちは恐れた。すると、雲の中から、「これは私の子、私の選んだ者。これに聞け」と言う声がした。この声がしたとき、イエスだけがそこにおられた。
弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時、誰にも話さなかった。
ハレルヤ!今週も4月9日の復活節を迎える前の四旬節にありますので、先週に続く聖書の箇所を読むことにいたします。先週も申しましたように、教会暦による四旬節の期間中には、主の受難を偲び、断食し節制するのが、古くからの教会の慣わしでした。私たちは、今日の礼拝後に、恒例の餅つき大会が予定されております。何となく四旬節にはそぐわない気もしますが、どうぞ安心して楽しくツキ上がりのお餅をいっぱい食べてください。
さて、この28〜36節は「イエスの変貌」と呼ばれる箇所です。イエス様が三人の弟子たちと高い山に祈るために登られた。すると祈っておられるうちに突然光り輝き変貌された。そればかりか、そこにモーセとエリヤが栄光に包まれて現れ、イエス様と語っておられる。その二人がやがて離れ去ろうとするや、厚い雲にいちめんが覆われ、その雲の中から神様の声が聞こえてきた、ざっと言えばそういう内容なのです。しかし、ざっと見ただけでも尋常一様ではありませんね。普通どうみてもあり得ないような現象と言わざるを得ません。では、後世の作り話かというとそうでもない。何故なら、三人の弟子の一人ペテロが、随分後になってしたためた手紙、ペテロ第一の手紙に、「この私たちが、あの方の威光の目撃者だからです。」と、この山頂の出来事を証言しているからです。「私たちは、イエスと共に聖なる山にいたとき、天からかかったこの声を聞いたのです。」とまで詳しく断言して憚らないからなのです。(ペテロ第一1章16、17節)使徒ペテロはそこで「私たちは」と自分一人ではないことを明らかにし、これは三人共通の経験であったと、強調しているからなのです。この出来事は、ルカだけではありません、マタイもマルコもその福音書に書き残しておりますね。ということは大変重要で、間違いない事実、実際起こった出来事だということです。
今日、私が、このイエスの変貌という特別な、印象的な出来事を通して、お伝えしようとするメッセージは何かと言いますと、それは「人は高い地点に立つときには、平地では決して見えないものが見えてくる」ということなのです。イエス様は、ペテロ、ヨハネ、そしてヤコブの三人を連れて山に登られました。ルカはただ「山に」としていますが、マタイもマルコも「高い山」に登ったとしています。山は山でもかなり高い山であった。ペテロが後で書いた手紙では、それは「聖なる山」だと彼はしているのですが、その山の名前が特定されているわけではありません。この出来事が、先週語ったイエス様の受難予告に続いていることが間違いないとすれば、その受難予告がヘルモン山麓のピリポ・カイザリアであったことが確かですから、標高2800のヘルモン山が最有力かもしれません。私が個人として登った最高の山は2000m の大菩薩峠位で、私は登山に関しては、正直全く自信がありません。しかし経験が無くても言えること、それは山頂に立つなら、そのとき平地では絶対に見られない素晴らしい展望が、間違いなく広がって見えるということです。しかし三人の弟子たちが、イエス様に伴われ高い山に登ったとき、見せられた展望とは自然の広がりではありませんでした。それは、およそ想像もつかない霊的な展望を見せられたということです。
今日、私たちは勿論、この日曜日に登山をしているわけではありません。教会に集まり礼拝を捧げています。それはまた、別な言い方をすれば、霊的な高嶺に登り詰める登山であります。日曜日に礼拝するとは、高い山に登る経験なのです。物理的には、教会堂の一階から二階に上がっただけですが、礼拝の集会に参加するということは、目には見えない霊的な高嶺に登ることを意味しているのです。そうするとき、高嶺からでなければ、平生の日常生活では見ることのできないものが見えてくる、見させられるのです。不思議な体験です。
Ⅰ.天国の展望
「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、衣は白く光り輝いた。」(29節)この所をマルコは「ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その衣は真白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいになった。」(9:2)と描写しております。イエス様と共に祈るため高い山に導かれた三人の弟子たちが第一に見せられたのは、イエス様の驚くばかりの変貌でした。イエス様の「衣は白く光り輝いた」。聖書の中では、「白い衣を着た者」というのはいつでも、天的な存在、天にその場所を持つ者に対して使われる特別な表現です。イエス様の衣が白く輝いた。それはイエス様が天にその場所を持つ方であるということです。やがてその場が厚い雲に覆われ、その雲から聞こえる声がありました。「これは私の子、私の選んだ者。これに聞け」(35節)。それは天の父なる神の声でした。ここで山頂に立った三人の弟子たちが、目の前に見せられたのは、天にその場所を持つ神の子イエス様の栄光の姿です。
先週の礼拝では、イエス様の受難予告に先立つペテロの信仰告白に触れました。イエス様は群衆がご自分を何者と言っているか、弟子たちに問われたのです。それに続いて更に、弟子たち自身がご自分を何者と言うのか、と問われました。それに対して、答えたのがペテロでした。彼は的確にズバッと「神のメシアです」と答えたのです。マタイはここをより詳しく「あなたはメシア、生ける神の子です。」と報じています。しかし、告白はしたものの、弟子たちのメシアのイメージと実際のイエス様のイメージとには由々しい格差があったのです。彼らのメシア像は、自分たちの祖国を植民地化し弾圧するローマ帝国を粉砕する政治的な革命家、レジスタンスの闘志でした。ところがイエス様は、その受難告知によって、ご自分が受難のメシアであると、全く別なメシア像を提示されたのです。その受難告知後、それからの弟子たちが、何を考えていたか分かりません。到底理解しかねたことでしょう。黙って悶々と過ごしていたかもしれません。そんな彼らが 1 週間後に高い山に伴われたのです。そして、そこで決定的なメシア像を見せられることになったのです。
今でこそ当たり前になったテレビですが、日本で昭和28年に放映開始された時は、日本中が衝撃でしたね。テレビとはテレビジョンの略で、テレとは遠い、遠隔の意味で、ビジョンとは幻、映像です。映像が音声と共に遠隔地に送信受像される仕掛け装置です。今やテレビだけではありません、ネットにより、どんな遠隔地にでも、映像や音声が発信できる、受信できる、そんな時代になっています。もちろん、ペテロの時代にはテレビなどありません。しかし三人の弟子たちは、映像音声を、しかもそれが、天からの発信、放映を見せられたのです。彼らは、それまでに、人間となられたイエス様を肉眼で見ていました。それは全く自分たちと変わらない、何の変哲もない、口も目も鼻もある人間そのものです。ところが、この山頂において、何と、人間イエス様に栄光の神様が、神の子が光り輝き、天からの音声と共に映し出されたということなのです。それは4K、5K の比ではありません。その明瞭さに疑いようもなく、はっきり鮮明に映し出されたに違いありません。三人の弟子たちが高嶺から見せられた展望、それは天国の展望でした。そして今日覚えていただきたいのです。それと同じくらいに素晴らしいことが、今日、私たちの間でも起こっているということです。それが毎週集まる日曜礼拝の集まりなのです。そうではありませんか。イエス様が「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」(マタイ 18:20)と言われました。イエス様の御名はインマヌエルです。その意味は「神は我らと共におられる」でしょう。イエス様の御名によって集会に集まる時、そこに見えざる栄光の主イエス様が共にいてくださると約束されているのです。どこにおられるのですか。それは、イエス様を信じる一人一人の内に居られるのです。私たちが互いに集まる時に、何を見ていますか。それは確かに、お互いによく顔も名前も知っている、いつも変わり映えのしない兄弟姉妹でしょう。しかし同時に、それ以上のことが経験されているのです。私たちが互いに集まるなら、相手の兄弟に、相手の姉妹のうちに居られるイエス様に、実は顔と顔を合わせて出会っているのです。相手の兄弟姉妹が輝いて見えるときがありませんか。ほっとさせられること、平安に包まれることがありませんか。語りかけられる挨拶や言葉使いによって励まされることがありませんか。私は若い頃、東京駒込の全国聖会に参加する機会がよくありましたが、忘れられない印象の一つは、説教された弓山先生のお顔が光り輝いて見えたことです。終わって近くで先生のお顔を見たら、いつも教室で見ていたのと同じ皮膚の色でした。それは不思議な印象でした。私も説教中にあんなに輝くことができたらいいなあと思いますが、これは高望みでしょう。礼拝会、それはそこに集まる一人一人が、天国からの映像音声を映し出すテレビジョンの役割を果たしている、そういう集まりなのです。素晴らしいと思われませんか。
Ⅱ.歴史の展望
霊的な高嶺に登るとき、山頂から見えるもう一つの開かれた展望があります。30節をご覧ください。「見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。」これまた、ペテロたち三人の弟子たちが、目を見張り仰天させられた出来事ではないでしょうか。時間がここでタイムスリップしているのです。モーセとは、彼らの時代から1500年も前の人物でしょう。エリヤならば800年も前でしょうか。日本史で1500年前と言えば、飛鳥時代ですから、聖徳太子が現れたようなものです。800年前と言えば、源頼朝が現れてきたというようなものです。彼らが突然今、私たちの目の前に立ち現れたら、どうですか。びっくりでしょう。どうしてこの山頂のイエス様の変貌の場面に忽然と二人が現れたのでしょうか。あのシナイ山で十戒を授かったモーセは律法を代表すると言われています。エリヤは預言者を代表するとも言われていますね。私たちの手にするこの聖書は、律法と預言と言い換えることもできる書物です。その聖書が、律法が預言が語ってきた主要な中心メッセージがあるとすれば、それは、罪によって堕落した人類救済のために、神様が救い主、メシアをやがてこの世に遣わされることでした。ですから、この二人が現れたということは、イエス様のメシアであることを、モーセが律法を代表し、エリヤが預言を代表し、それぞれの立場から証言するためであった、と言うことができます。 そればかりではありません。旧約聖書でも最重要人物と思われていたモーセよりもエリヤよりも、イエス様がはるかに優る方であることを示すためでもあった、そのためでもあったことでしょう。
しかし、私は、今日、この二人の出現の意味には、もう一つの素晴らしい意味があったと確信するのです。それは、イエス様が歴史の支配者であり、歴史の形成者であることを、弟子たちに、私たちに表すためであったと確信するのです。この山頂で変貌されたイエス様の前に現れたモーセは、B C1500年ごろ、北アフリカのエジプト王朝時代に活躍した人物です。預言者エリヤといえば、B C800年頃、アッシリア帝国やエジプト王朝を背景に、分裂していたイスラエルの王朝を背景に活躍した人物です。どうして彼らのことが、そうだと分かるのですか。それは、彼らと彼らの関わった出来事が、確実に記録され編纂されて歴史として残されているからです。歴史とは、出来事が記録されたもののことですね。単なる出来事だけでは歴史ではありません。記録され編纂されてはじめて歴史となります。それは記録する人によって、その解釈によってまた随分変わりもするものです。その記録された歴史を後世の人がどう解釈するか、これまた、千差万別です。出来事の前後関係から解釈する、因果関係から解釈する、運命論的にこうなるべくしてなったと解釈する、それはもう様々です。そればかりか、今、まさに出来事は起こりつつある、時々刻々と変化しつつある、歴史が作られつつあると言うことも言えます。私たち人間は歴史的生き物なのでしょう。歴史を意識しないわけにはいかない。それでいて歴史の激流に翻弄されているのが現実でしょう。
その歴史と向き合う大切さを訴えた西ドイツのヴァイツゼッカー大統領が、戦後40年目の記念講演で語った言葉が思い出されます。「問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」(『荒れ野の 40 年』より)人によっては、自分に向き合おうとして、「自分史」を書き始める方がおられるかもしれませんね。密かに今注目されているジャンルが自分史です。自分史を作るメリットをあるコラムにはこう書いてありました。「人生は選択の連続です。長生きをするようになった私たちは、これからますます転職をしたり、新しいビジネスに挑戦したり、新天地を求めて移動するなど、マルチな生き方へとシフトしていきます。と、同時に選択を迫られる機会が増えていきます。そんなとき、何を基準に判断をすればいいでしょうか。未来のことを知ろうとしても、それはだれにもわかりません。けれども、過去を振り返り、自分がどのような選択をし、どう生きてきたのかを知ることで、自分がどうあろうとしているのかが見えてきます。迷ったとき、自分がどう生きてきたのかを見つめ、自分らしい選択をしようとすることは、ある意味、自然なことです。過去と対話し、自分史と向きあうことで生きていこうとする人はさらに増えていくでしょう。」これを聞いて、中には自分も作ってみようと思う方がおられるかもしれません。しかし、私は、今日のこの聖書の箇所に、歴史に関する決定的な真理があることを確信させられるのです。それは、イエス様が、歴史の主として私たちの前に立っておられるということです。世界の歴史の主として、日本の歴史の主として、そして自分自身の歴史の主として立たれるのです。世界の歴史も、日本の歴史も、そして自分史でさえ、イエス様を抜きにしては正しく向き合うことはできないのです。人間は神様に造られ、神様により律法で戒められ、神の言葉に従ってどう生きるかが問われる存在だからなのです。私たちが毎週日曜礼拝に出席するとは何を意味するのでしょうか。歴史の形成者であり、歴史の主であるイエス様の前に立つことなのです。私たち人類の歴史を理解するためにも、そして歴史を刻んできた自分自身と向き合うためにも、モーセとエリヤがイエス様と語り合ったように、礼拝を通して、祈りを通して、イエス様と語り合いつつ生きることが必要なのです。
Ⅲ.最期の展望
山頂に立たねば見えないもう一つの展望があることを知ってください。あの二人の人物、モーセとエリヤがイエス様と語り合っていたことは何でしたか。31節をご覧ください。「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後のことについて話していた。」 三人の弟子たちが山頂のイエス様の変貌において見えてきたのは、イエス様の最期の展望です。「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後のこと」これは、あの受難の予告で語られたことに他なりません。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(22節)。しかし、弟子たちには全く理解できませんでしたね。モーセとエリヤとがイエス様と語り合われたのは、このイエス様の十字架の受難のことです。ペテロや他の弟子たちのイメージしたメシアとは、革命的なレジスタンスの闘志でした。しかし、神の約束されたメシアは受難のメシアです。イエス様は、あのイザヤ53章で預言されていたメシアとして来られたのです。「彼は私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって、私たちに平安が与えられ、彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。私たちは皆、羊の群れのようにさまよいそれぞれ自らの道に向かって行った。その私たちすべての過ちを、主は彼に負わせられた。私たちは皆、羊の群れのようにさまよいそれぞれ自らの道に向かって行った。その私たちすべての過ちを、主は彼に負わせられた。」(5〜7節)ここでイエス様とモーセ、エリヤが語り合っていた「最後」とは十字架の死のことです。イエス様は、私たちの罪の赦しのために、犠牲の子羊としてご自身を捧げようとしておられたのです。
しかしながら、山頂において、三人の弟子たちは、この「最後」にさらなる展望が与えられたのです。ここに「最後」と訳された言葉に使用された原語は「エクソダス」です。これは人の死を意味しますが、死ぬことだけではありません。この言葉には「出発、脱出」の意味が込められているのです。「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後のこと」とは十字架の死だけでありません。この「最後」とは十字架で死んで三日目の復活のことでもあったのです。イエス様は死に勝利され、死から脱出され、蘇られたのです。それゆえに、イエス様の十字架の死と復活とは、第二の出エジプトと言われているのです。イスラエルの民が、エジプトの奴隷から解放されたという歴史事実が出エジプトと呼ばれたとすれば、十字架と復活は、人間を罪の奴隷から解放する第二の出エジプトなのです。それは、イエス様が受難予告した通りのことです。「殺され、三日目に復活することになっている」(22節)受難を理解できなかった弟子たちは、復活などなおさら理解できませんでした。しかし、この山頂において、イエス様の最期の展望、すなわち勝利の復活に導かれたのです。今日でも、日曜日に礼拝という霊的な高嶺に登る者は、十字架と復活という第二の出エジプトを展望させられるのではありませんか。罪の赦しと復活の希望が与えられるのです。
そればかりではありません、礼拝という高嶺に登る者は、自分自身の最期、自分の死をも展望することが許されます。人が一度死ぬことは定まっていますね。死なない人はいませんね。最期が来ることは避けられないのです。しかし、日曜日に礼拝する者は、自分の死が単なる最期ではなく、エクソダスであることを、新しい出発であることを、永遠の命への脱出であることをも確信させられるのです。使徒パウロは自分の死期が近いことを思い、こういうことができました。「私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです」(ピリピ1章21節)何故そう言えましたか、何故死ぬことが益なのですか。それは、死ぬことが新しい命への脱出、出発だからです。愛するイエス様の身そば近くに行くことだからです。
更にここで、こういうこともできるでしょう。礼拝という霊的な高嶺に登る者が、今現在、もし厳しい試練にさらされているとするならば、その山頂から、自分の生活の未来に備えられているエクソダスを確信させられるということです。コリント第一10章13節にこう書いてありますね。「あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」あなたは、「こんな辛い試練にはもう耐えられそうもない」と意気消沈しているでしょうか。そんなことはないのです。神は真実な方だと言われているのです。約束をたがう方ではありません。耐えられない試練を与えることがないばかりか、逃れる道をも備えてくださる真実な神様なのです。これが最後か、もうダメか、という瀬戸際に立たされた場合でも、神はエクソダス、脱出の道、逃れの道を備え給う、そういう真実なお方なのです。この礼拝で祈り、そして、毎日祈り進もうとされるなら、神様が備えてくださったエクソダス、逃れの道を発見し、驚くことになることでしょう。毎週連なるこの礼拝により、天国を見させていただこうではありませんか。お互いの中に居られる光り輝く栄光のイエス様にお会いいたしましょう。
この礼拝により、世界の歴史をそして自分の歴史を展望し、自分と向き合い、歴史に生きる自分を見直しさせていただきましょう。礼拝だからこそ、十字架と復活が見えてくるのではありませんか。罪赦されたこと、永遠の未来が開かれていることを感謝しましょう。試練に直面してもエクソダスがあることを期待して新しい週を進み行きましょう。
3月12日礼拝説教(詳細)
「真の日常的課題」 ルカ9章21〜7節
イエスは弟子たちを戒め、このことを誰にも話さないように命じ、そして、言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
それから、イエスは皆に言われた。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを救うのである。人が全世界を手に入れても、自分自身を失い、損なうなら、何の得があるだろうか。
私と私の言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じるであろう。
確かに言っておく。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死なない者がいる。」
ハレルヤ!今日の聖書箇所、ルカ9章を読みましょう。今日、この聖書箇所を読みますのは、2月22日から既に教会暦によるレント(四旬節)に入っているからです。今年のイースターは4月9日で、その前 1 週間が受難週です。その受難週までの40日間、キリストの受難を思いつつ祈り節制するのを古代から教会は習慣としてきました。今日読んだ箇所は、キリストの受難予告と言われ、キリストはこの受難予告を 3 回され、その最初の予告の箇所なのです。その受難を次のように弟子達に予告されます。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」その上で、主は22節の所で、更にこう言われたのです。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、私に従いなさい。」ここで主は特に強調して「日々に」と言われました。ということは、ここに、即ちこのお言葉に私たちの真の日常的課題が凝縮されているということなのです。ここにいる私たちには、例外なく一日24時間が与えられています。23時間だけの人などいないでしょう、25時間の人がいるわけでもありません。私たちは、その1日を自分の思い通りに自由に生きることが許されているのですが、どのように生きるべきなのでしょう。
I. 信 従
主は「私に付いて来たい者は、私に従いなさい。」と言われるのです。今日だけではない、それこそ毎日、毎日私に付いて来たければ、私に従って来なさい、と言われるのです。別な言い方をすれば、これは毎日、毎日イエス様を信じて生きるということではないですか。イエス様だけを信じ仰いで生活するということなのです。誰でも構わない、何でも構わない、「イワシの頭」でも信じられればいいというのではありません。イエス様だけを信じ仰ぎ見て生活するということです。「イエス様、あなたですから、あなたなのですから、私はあなたを信じ、礼拝いたします。」という姿勢、それが「イエス様に付いて従う」ことなのです。
更に「イエス様に付いて従う」とは、その信仰を口で言い表す、イエス様を信じ告白することでもあります。この主の受難予告、実は、ペテロの信仰告白の直後に語られたものであることが前後関係から分かります。前の方の18節を見ると、祈っておられたイエス様の近くに弟子たちが集まってきたとき、主が弟子たちに「群衆は、私のことを何者だと言っているか」と尋ねておられますね。すると、弟子たちが、「洗礼者ヨハネだ、預言者エリヤだ、モーセだ」と次々に答えているのです。すると更にイエス様は「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」と尋ねられたのです。「他の人たちはともかく、では、あなたがたは、私を何者だと言うのか?三年近くも私と寝食行動を共にして来た君たちだが」と、イエス様は問いかけられたのです。それに対して、弟子たちを代表してでしょうか、ペテロが「神のメシアです。」と答えているのです。メシアとは、「油注がれた者」を意味するヘブライ語です。メシアとは、古代においては、神様から権威を授けられた王様、預言者、祭司たちを示す言葉でした。そして、その三つの職能が全部与えられた人物こそ、神様が遣わされるメシア、救い主であると理解されていたのです。
ところが、ペテロがメシア告白をしたその直後に、イエス様は21節を見ると、弟子たちに誰にも話さないように命じられているのです。なぜでしょうか。それは、イエス様をメシアとペテロが告白したとしても、そのメシア理解が十分でないことをイエス様が知っておられたからなのです。ですから、そのメシア理解を明らかにし、イエス様はこう弟子たちに語られました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」イエス様は、ご自分がメシアとしてこれから苦しみを受ける、排斥され殺される、更に復活する、と予告されたのです。これには、告白したばかりのペテロが猛反発しましたね。ここには書いていませんが、マタイ16章22節にこう記録されています。「ペテロはイエスを脇へお連れして、いさめ始めた。『主よ。とんでもないことです。そんなことがあってはなりません』」イエス様の予告されたメシアのイメージは、弟子たちの思い描いていたメシア像と、大幅に全く食い違っていたのです。ペテロのメシア像とは、ローマ帝国を転覆させ、イスラエル国家を再建する強力な政治的指導者だったのです。
ペテロだけではありません。弟子たち全員がそう考えていたのです。別な箇所に、弟子であったヤコブとヨハネの兄弟が、母親と一緒に、イエス様に願い事をした場面があります。彼らは、何をお願いしたかと言えば、イエス様がイスラエル国家を再建した暁には、自分たちを右大臣、左大臣に任命してくれと熱心に頼みこんでいたのです。それを聞いた他の残りの弟子たちが、出し抜かれてしまったと、憤慨して激怒していますね。彼らの将来の野望は、あの二人と同じだったからです。しかし、イエス様は、神様が遣わされたメシアとしての自分は、あなたがたのメシア像とは違う、と諭されたのです。政治的な改革をもたらす革命家なのではない、十字架に命を捨て、罪の赦しをもたらし、信じる者が神様との正しい関係に立ち返れるようにするメシアである、と教えたのです。イエス様に付いて行くとは、十字架に罪の赦しのため犠牲となり、神様の大能の力で復活し、生きておられるイエス様を信じ告白することなのです。
そればかりか一歩進んで、信じ告白しお従いすることです。主は、「私に付いて来たい者は、私に従いなさい」と言われましたが、直訳すれば、「私の後ろから来たい者」なのです。英語なら「Come after me」なのです。横並びではありません。イエス様の前を行くなどもっての他です。イエス様の後ろからついて行く、従うことです。ペテロが、イエス様を脇に連れて行き、「とんでもないことです」と反発しいさめようとすると、イエス様は「サタン、引き下がれ。」と叱責されました。直訳すれば「私の後ろへ行け」です。私は、十字架に架けられるためにエルサレムに向かって行く。その行く手を阻むな。わたしの前に立ちはだかるな。わたしの後ろに行け。わたしの後からついて来い、ということなのです。イエス様を頭の中で考えるだけでは十分ではありません。口先だけで言い表すことでもありません。自分の生活の只中で、具体的に、イエス様の後ろに従い行動をすること、それが私たちの日毎の課題なのです。
II. 放 棄
しかし、イエス様は更に「私に付いて来たい者は、自分を捨て、私に従いなさい」とも言われておられるのです。私たちが日毎の課題を果たすためには、どうしても一つの条件を満たすべきだと、「自分を捨てなさい」と言われるのです。しかも、弟子たちだけではありませんね。23節には「それから、イエスは皆に言われた」とありますから、すべての人に語りかけられておられる、私たちにも語られているのです。
この「捨てる」の原語の意味は強烈です。「否定する、拒否する、否認する、知らぬと言う、関係が無いと言う」です。この場合で思い出す方もおられることでしょう。ペテロが大祭司の中庭で、主イエスを否認したあの場面のことです。ペテロはイエス様がゲッセマネで逮捕された後、他の弟子たちのように逃亡せず、見え隠れしつつ引かれゆくイエス様の後から付いて行きました。大祭司の中庭に忍び入り、イエス様が尋問されている間のことです、召使の女に見咎められ、「お前はあの仲間だ」と言われると『ペテロはそれを打ち消して、「あんな人など知らない」と言った』(ルカ22:57)と言われているのです。実は、この「打ち消す」に、主の言われた「自分を捨て」の「捨てる」と同じ言葉が使われているのです。ペテロはこの土壇場で、自分を捨てたのではありません。イエス様を捨ててしまったのです。イエス様を知っていたのに「知らない」と素知らぬ顔をしたのです。イエス様は、「私に付いて来たい者は、自分を捨て、私に従いなさい」と言われました。捨てるべきはイエス様ではなく、自分を捨てなさいと言われるのです。この捨てるべき自分とは、どういう自分でしょうか。次の24〜26節の主の言葉で分かるのでご覧ください。
① 自己愛の自分放棄
24節です。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを救うのである。」捨てるべき自分は、「自分の命を救おうと思う」自分です。自己中心な自分、自分を一番大事だとする自分なのです。
使徒パウロは、エペソ5章29節で結婚について語る中で、こうはっきり断言してこう言っています。「これまで、誰も我が身を憎んだ者はいません」これは本当に真理ですね。自分を憎むどころか誰でも自分を愛し可愛がり、大事なのです。律法の第二の戒めでも「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」と言われています。人は先ず優先的に自分を愛するものです。誰でも例外なく、一番自分が大切なのです。そうではありませんか。自分を愛しているのです。自分を憎めないのです。自分が大事で仕方ないのです。それは決して悪いことではない。当然のことです。自己愛が無くては、生きていくことができません。
しかし、神様との関係を度外視した自己愛が、実は非常に危険なのです。つまり、イエス様について行く、その為に、自己愛よりも優先してイエス様を第一に愛することが求められるという事なのです。ペテロは大祭司の庭で、自分の身の危険を感じて、イエス様を公然と三度も知らないと、否認してしまいました。ですから、あのヨハネ21章に記録されている復活されたイエス様との彼の関係回復での、その条件は愛であったのです。その関係回復で、ペテロにイエス様が問われたのは愛の問いでした。「あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」 直訳では「あなたはこれら以上に」です。「これら」に人、物、全てが入ります。ペテロ自身も入るのです。「ペテロよ、あなたは、自分を愛するより私を愛するか?」と、イエス様は単刀直入に問われたのです。主は「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを救うのである。」と言われます。人の地上での肉体的生命は、死んだらお終いです。その自分の命大切さゆえに、戦々恐々として自己愛、自己中心に生きるなら、一番大切なもの、永遠の命を失ってしまうのです。
イエス様により、罪赦され、神様との関係が回復すれば、永遠の命が与えられます。自己中心に、自分だけを愛して生きようとするなら、永遠に生きる望みを失うことになるのです。
② 貪欲な自分放棄
主は、次の25節ではこうも言われます、「人が全世界を手に入れても、自分自身を失い、損なうなら、何の得があるだろうか。」ここでの自分というのは、自己中心的自己愛だけではありません。貪欲な自分なのです。よくよく自分を観察してみれば、貪(むさぼ)る自分がいるのです。すべの罪の根底に隠れている罪です。その貪欲の究極は「全世界を手に入れる」ことでしょう。言い換えれば「あらゆる地上の富」を出来るものなら手に入れたいという欲望が、実は人の心深くに隠れ潜んでいるのです。世界人口は80億を突破しましたが、その 1%の大金持ちが残り99%の人の資産の二倍を所有していると言われます。どうしてそんな理不尽なのですか。貪欲だからです。いくらあっても満足することがないからです。もっと、もっと沢山欲しいからです。そして、富、財産、金銭が全能の神様であるかのように錯覚してしまうからです。金さえあれば何でも出来ると誤解するからです。しかし、主は言われるのです。「人が全世界を手に入れても、自分自身を失い、損なうなら、何の得があるだろうか。」 どんなに蓄財しても、土地も金も保険も株券も人の肉体的生命を永遠に保存できますか、できないのです。死んだら全部置いて行かなければなりません。金で命を買うことは絶対できないのです。
イエス様に心から付き従いたいと望むのであれば、神様を信じていなかった古い自分、自分のこの世における利益だけを追い求めるような生き方を捨てなさい、と主は言われるのです。
③ 恥じる自己放棄
更に続けてイエス様は26節でこう言われました。「私と私の言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じるであろう。」自己愛の自分だけでない、貪欲な自分だけではない、否定するべき自分、捨てるべき自分は、恥ずかしいと思う自分です。恥ずかしいというのは、自分の欠点・過失などを自覚して体裁悪く感じるさまのことですね。しかし、ここでイエス様の言われている恥ずかしさは、それとは違います。イエス様とイエス様の言葉を恥ずかしく思うことです。クリスチャンであること自体を恥ずかしいと思うことです。イエス様を信じていることを知られることが恥ずかしいのです。聖書の言葉を口に出すことなど、さらさら恥ずかしくためらわれることなのです。そのような人をイエス様は、再び来られるときに、イエス様ご自身が、そのような人を恥じる、と言われるのです。イエス様は十字架に掛かり罪の赦しを得させる救いの業を成し遂げ、復活し、昇天されました。そのイエス様は再び来られます。「然り、私は直ぐに来る」と約束されました。最初に来られた時は、罪を赦して人を救うために来られました。しかし再び来られるのは、すべての人を裁くために来られるのです。その時、その自分が生きている生活の中で、イエス様を恥ずかしく思うのであれば、その裁きに耐えることができないのです。イエス様にどこまでも後から従って行きたいなら、自分を捨てなければなりません。自己中心的な自分、貪欲な自分、恥ずかしい自分をゴミ同然に捨てなければなりません。この世の生活だけに通用するような自分を否定し、憎み、捨てなければならないのです。自分に対して「ノー!」と宣言しなければならないのです。我が家では、ゴミ捨て役は私です。月曜には缶瓶、段ボール、水曜土曜には生ゴミ、木曜にはプラスチックを捨てます。要らないゴミを家に捨てずに放置したらどうなりますか。身動きが取れなくなり、臭い匂いが蔓延してしまうでしょう。イエス様に付いて行きたいなら、ゴミのような自分を放棄しなければなりません。その時、本当の自由な自分を取り戻すことができるのです。
III. 献 身
しかし、捨てることが目的ではありません。捨てることは、イエス様の後から、イエス様が歩まれたように、自分の十字架を負って従って行くための条件なのです。
主は言われました。「自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、私に従いなさい。」「自分の十字架を負う」と言えば、「これは私が担うべき十字架なのです」と人が、自分の経験する人生の困難を語るのを聞くことがありますね。試験に落第した、恋愛が失恋で終わった、不慮の交通事故で全身麻痺した、医者から癌が全治不能と宣告された、そんな時、担うべき十字架だと言うことがあります。しかし、ここでイエス様が言われる十字架は違います。或いは「自分の十字架を負う」と言われると、迫害されて殉教することがすぐ連想されがちです。確かにイエス様が十字架で殺されたように、イエス様の12使徒たちも殆どが迫害されて殺害されたことが知られています。しかし、イエス様は12弟子だけではなく「皆」に語られたのです、それにまた「日々に」自分の十字架を負うようにとも語られたのです。このことからしても、この自分の十字架は殉教の死であるよりも、愛の犠牲の精神で生きることを意味して語られたことが明らかなのです。イエス様が十字架にかかられたのは、自分の罪のためではありません。私たちの罪の身代わりの犠牲となって、私たちを愛するが故に、十字架にかけられたのです。それ故に、この「自分の十字架」とは、神様の為、主イエスの為、そして隣人の為に自分が担う重荷のことなのです。愛の犠牲のことなのです。イエス様が「日々、自分の十字架を負って、従いなさい」と言われたのは、他の人のために必要な出来る愛の犠牲を払いつつ、毎日を生きるように、と言われているのです。このイエス様の自分の十字架を負う勧告は、「一日一善」のような単なる道徳訓ではありません。それをすれば功徳があると言うことでもありません。十字架を通してイエス様に愛され、神様の愛を体験させられた結果、自分が愛されたように、自分もまた他人を愛する、その為に犠牲を払う、ということなのです。それが、イエス様に従う毎日の生き方、課題なのです。
私は、この主イエスの後について歩んでいくイメージを、雪道を歩く時のイメージと重ねることが出来るのではないかと思います。膝かその上まで深く降り積もった雪道を一人で歩くのは、本当に大変です。十分もしないうちに息が上がってしまいます。しかし、自分の前に誰かが歩いてくれる。その前の人が雪をかき分け、雪を踏み固めてくれるのなら、話は別です。その人のすぐ後ろを歩くのはそれ程大変ではないのです。
今日、皆さんは、日曜という貴重な休みの日に、礼拝するため教会に来られました。これは自分のため犠牲を払ってくださったイエス様を礼拝するため、他の全てを後にされた犠牲的行為ではありませんか。教会の礼拝や集会のため、分担して奉仕される方が沢山おられますが、誰も給料や謝礼をもらっていませんね。これは、主のため、他の人々のための犠牲的愛の奉仕ではありませんか。誰かの為に1日に時間を定めて執りなし祈る、電話をかけて安否を問い電話口でも祝福して祈る、希望されれば訪問して証しを分かち合う、礼拝や諸集会に誰かを誘ったり、車で送迎を引き受ける、手紙を出したり、トラクトを送ったりする、自分でできる奉仕の働きを実行する、それが自分の十字架を負うことなのです。
主はこの段落の最後にこう語り閉じられておられますね。「確かに言っておく。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死なない者がいる。」27節です。イエス様は神の国をもたらすために来られました。イエス様がおられる所に神の国が現在するのです。イエス様の後に付いて従うことを決断するや、その人は、その生きている今現在、神の国に入れていただけるということなのです。聖霊による義と平和と喜びを実感体験させられると約束されているのです。混迷する時代に私たちは生かされております。しかし、私たちは暗闇を照らす世の光として立たされているのです。イエス様の後から、今日も従って行きましょう。日々イエス様に従って行きましょう。そうするときに、この新しい週も、きっと先週とはまた違った喜びに満ちた出来事に満ちた週となるに違いないのです。
3月5日礼拝説教(詳細)
「人生の試金石」 ルカによる福音書4章1~8節
さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川から帰られた。そして、霊によって荒れ野に導かれ、四十日間、悪魔から試みを受けられた。さらに、
悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、こう言った。「この国々の一切の権力と栄華とを与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もし私を拝むなら、全部あなたのものになる。」
イエスはお答えになった『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。
ハレルヤ!先週火曜から木曜にかけ、横浜で開催された教職研修会に妻と二人で参加してきました。ホテルに二泊三日缶詰状態でしたが、四年ぶりに開催された内容豊かな研修で、とても感謝しております。皆さんの祈りに感謝です。研修会は28日の夜より、土屋理事長による教団ビジョンの提言で始まり、そのビジョンに基づき、教団の新しい景色、教団の未来予想図が紹介されました。
2 回目の聖会には北野ジョイス先生が説教を担当され、ゼカリヤ4章から素晴らしい説教で、並いる牧師たちにチャレンジしてくださいました。その説教の中の感動的な逸話の一つは、アメリカの四人の宣教師達によるアフリカ宣教物語でした。1900年の初頭、アメリカにリバイバルが起こりました。アッセンブリー教団はそのリバイバルに起こされた群れです。そこからアフリカ宣教の使命を受けた四人の宣教師が果敢に出発するのです。船がリベリア沖に差し掛かった時でした、聖霊の促しを四人が受け、目的地はもっと先であったのに、「ここで降りるよう」促され、船長がここは危険だと警告したのに、小舟で降りて海岸へ向かったのです。すると、そこに手を振る一人の黒人が待っていました。彼はアニミズム(生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方)崇拝者であったのですが、その心は本当の神に渇いていたのです。不思議と幻でギャラウエー海岸に行くよう想いが与えられ、「大きな箱から小さな箱が出てくる。その人たちがお前に教える」という指示を得たそうなのです。内陸部の船を見たことのない黒人であったからなのでしょう、船を箱と表現されていました。そこで彼は、7日間歩いて海岸にたどり着くと、そこに言われた通りに四人の宣教師達が、船で向かって来るのが見えたわけなのです。彼はやがてイエスを信じて救われ、その結果、やがてリベリア国にキリスト教会が誕生、アッセンブリー教団が組織され、彼が初代の理事長となったという。そういうワンダフルな逸話でした。その朝の北野先生のメッセージは「超自然的に前進できる」でありました。超自然的に考え、祈り、計画し、愛し、働こうという、強烈なチャレンジを与えられるものでした。私と家内も強く励ましを受け、こうして歳は取りはしましたが、この泉佐野市でも、超自然的にこれからも前進しようと、固く決心させられた次第なのです。
さてここで、今日の聖書箇所を読むことにしましょう。ルカ4章1〜8節です。主イエス・キリストが荒野で悪魔の試みを受けた箇所です。先週も今週もレジメのポイントに試惑という用語を使っていますが、これは、私の作った合成語であって、辞書にはありませんのでご了承ください。先週説明しましたように、誘惑も試練も原語のギリシャ語ではペイラスモスが使われ、同じ出来事でも人の対処によっては、それが誘惑にもなり試練にもなるという意味で、試練と誘惑を合成して作った言葉なのです。
1.試惑の期間
2節をご覧ください。主イエスは40日間、悪魔の誘惑を受けたと言われています。40という数字は、聖書によく使われていることを皆さんもご存知でしょう。モーセはシナイ山で40日断食して、十戒を授かっていますね。イスラエルの民は、解放されて出エジプトすると、40年荒野を旅してパレスチナに至っています。預言者エリヤが、神の山ホレブに向けて、40日かけて歩いて行った話もよく知られています。申命記8章2節には、こう言われています。「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった」そうです。これからも分かるように、40とは、試み、検疫を意味する数字なのです。
コロナのパンデミックが随分長引きましたが、海外旅行者の国内入国は、非常に厳しい制限を受けることになりました。空港に降り立つと、10日間とか、ある期間、所定の場所に待機させられ、期間を過ぎると検査を受け、感染していない安全を確認されて初めて入国できる、という具合でした。40とはそういう意味があるのです。
そこから、主イエスの荒野の40日の試惑は、これは世界の歴史ドラマの包括だと言われています。あるいはまた、40日の試練は、私たち個人の人生ドラマの包括だとも言われる所以なのです。人の味わう誘惑や試練は、厳しくもあり、また辛く苦しいものですね。しかし、誘惑や試練には、はっきりとした目的があるのです。それは、その誘惑試練に遭う人を神様が実は試しておられる、その人の内にあるものを神様が知ろうとされる、それが目的なのです。人間はオギャーと生まれ、やがて死んで終わり、ただそれだけではないのです。人間の体は、死ねば焼かれて灰になる、埋められ土になる、しかし、人は永遠に生きる、そういうものとして神によって特別に造られた生き物なのです。その永遠に生きるために、永遠に生きるに相応しいかどうか、神様により試みられる、それが試練・誘惑の目的なのです。
主イエスが荒野で試みられたのは、実は、私たちが試みられる時に、その助けとなるためでありました。ヘブル2章17、18節にこう記されていますね。「それで、イエスは、神の前で憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪をなだめるために、あらゆる点できょうだいたちと同じようにならなければなりませんでした。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」主イエスが厳しい荒野の悪魔による試練、誘惑に勝利されたのは、私たちが誘惑試練に直面するときに、私たちを助けるためであったことを覚えておきましょう。
先週日曜のライフライン友の会では、「花の詩歌展」で一般的にもよく知られている星野富弘さんの文章を組曲にして作曲されたその演奏が放映されました。ユーオディアのアンサンブルと合唱団による大変美しい、また感動的な演奏でした。その合間に文章の朗読が入り、星野さんの辛い試練の体験が紹介されました。群馬大学卒業されると、中学校教師となるのですが、クラブ活動中で体育の指導中、鉄棒から転落、頸髄損傷で手足の自由を失わってしまわれたのです。それから実に入院生活9年、それはそれは星野さんにとっては辛い厳しい試練の日々でした。全ての自由が奪われ、星野さんは絶望的心境に陥りました。ところがある日、星野さんの友人が差し入れてくれた一冊の聖書をきっかけに、その心境に転機が訪れたのです。彼は、使えない手の代わりに10グラムの筆を口にくわえ、彼の心境を花の絵と詩に託して、次々と発表し続けることになられたのです。その個展は、日本に留まらず、海外にまで及びました。群馬の郷里に建てられた富弘美術館には、何と600万人以上の来館者が訪れております。何故、かくまで人を惹きつけるのでしょうか。それは、単に厳しい障害を克服した以上に、富弘さんが、その辛さの中に、生きる意味を見出されたからなのです。その苦しむ以前には見えなかったものが、見えるようになられたのです。人生の生きる意味がわかったのです。見えないけれども確かに神様がおられること、神様が彼を愛しておられること、神様が目的を持って生かしておられること、それによって富弘さんは、永遠に生きる希望が与えられたのです。
私たちもまた、試練誘惑に遭ったことでしょう。これからもあることでしょう。しかし、その期間はいつまでも続くものではありません。試練誘惑には確かな目的があるのです。すでに試練誘惑を見事に耐え勝利された主イエスに祈りましょう。そして時期を得た助けを受けることにしましょう。
Ⅱ.試惑の核心
先週、私たちは、主イエスが荒野で受けられた第一の誘惑をみたところです。覚えておられるでしょうか。石をパンに命じる誘惑でした。今日は、更に続く第二の試惑を主に観ていくことにいたします。主イエスを巧みに狡猾に誘惑したのは悪魔でした。サタンです。彼は試みる者と言われています。その誘惑者である悪魔が人を誘い出し試みるその核心は、その中心は何でしょうか。それは、その誘惑する人の脇に、神を押しやろうとすることです。神を、その人のあらゆる営み、やろうとすることの余計なものとすることです。神は無視して差し支えないものとする、神を度外視し、計算に入れなくてもいいようにする、それが誘惑の核心なのです。
悪魔による第一の試みは、石にパンになるよう命じることでした。これは「人はパンだけで生きるものだ」という誘惑でした。これを別な言い方をすれば、唯物主義的生き方です。経済至上主義的生き方です。物質的な必要が全て満たされさえすれば、神様など不用だということなのです。これについては、先週すでに触れたところです。
悪魔の試み、誘惑の第二の核心、それを一言で言えば理想主義となるでしょう。5〜7節にある悪魔の誘惑の言葉はこうです。「さらに、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、こう言った。『この国々の一切の権力と栄華とを与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もし私を拝むなら、全部あなたのものになる。』」主イエスが、どこか高い所に引き上げられ、世界の国々を一挙に見せられたというのです。私と妻は、先週の研修会には、日根野駅から新大阪まで特急を利用し、それから新横浜まで新幹線を使いました。早いですね。3時間程度で着いてしまいます。その途中、車窓から次々に目に入ってくるのは、近代化された無数の家並み、モダンなビル、工場です。それは一気に都会の繁栄ぶりを見せられる体験でした。しかし、それでも、それは極々一部に過ぎません。イエス様は、いっぺんに全世界の国々を見せられたというのです。今では宇宙衛星でなら可能かも知れませんが、当時はこれに相当する場所など地上にはありませんね。ですから、これは幻視、即ち、幻のうちに見せられた現象に違いありません。その全ての国々を、しかもその権力と栄華を見せられたというのです。力強い権威者によってもたらされた理想的な繁栄を見せられたということなのです。
一つの国は、国家は、この二つの言葉、権力と栄華に要約されます。国家は一人の権力者の統治によって、国民が理想的に繁栄させられ、幸福にされるものであるということです。どの国の国民も、アメリカ人でも日本人でも中国人でも、誰しもが自分たちを繁栄させてくれる、幸福にしてくれる権力者を渇望するものです。悪魔はその両方を、権力と栄華、繁栄を任されているぞ、これと思う人に、俺は与えることができるぞと、うそぶくのです。これこそ世界の歴史ドラマの総括です。どの国家においてもその歴史で繰り返されてきたのは、この政治権力の闘争であり、栄華・繁栄・幸福の渇望です。政治的野心のある人物は、どんな手段を講じてでも、権力の頂点に立とうとします。国民、群衆はより優れた権力者を熱狂支持しようとする、悪魔はそこを突いて人を誘惑するのです。
悪魔はイエスに「もし私を拝むなら、全部あなたのものになる」と誘惑を仕掛けました。そうすれば、イエスが、世界最強の権力者の座を勝ち得ることができるぞ、その権力で全世界の全ての国民に繁栄をもたらすことができるぞ、と誘惑しました。しかし、イエスはキッパリ拒絶されたのです。こう断言されました。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」それは申命記6章13節からの引用でした。神を脇に押しやり、神を度外視し、どうでもよいとするような権力、人間の知恵、組織、経済、そして武力で国を統治するだけの権力では、理想的な繁栄、栄華は決して達成することはできない、と悪魔の誘惑を排斥されたのです。
世界の全ての人を治める真の権威、権力、権能は、悪魔によるのではありません。神によりイエス・キリストに与えられているのです。主ご自身がこう言明されました。マタイ28章18節「イエスは、近寄って来て言われた。『私は天と地の一切の権能を授かっている。』」その権能は、父なる神が復活されたキリストに授けられたものなのです。十字架で命を捨てられたキリストに与えられているのです。イエスに授けられたのは、天と地を治める権威、権能です。地だけを治める権力は、不完全であり限界があるのです。イエスの権能は、天の真理に基づく、全宇宙を貫く永遠の支配なのです。本当の統治と繁栄は、イエスを信じて罪の赦しを得て、人の心が変えられたところに、初めて実現するものなのです。その意味で、人は誰が自分を治める権威者であるかを選択する責任があります。
ポンテオ・ピラトの前に、イエスを引き出し、訴えた群衆の前で、ピラトは一つの提案をしています。ヨハネ18章38〜40節のところに、ピラトの提案がこう記されています。「ところで、過越祭には、誰か一人をあなたがたに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」すると、彼らは叫んで、「その男ではない。バラバだ」と言った。バラバは強盗であった。」 このバラバをここでは強盗と言われています。マルコ15章7節では「暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒」とも呼ばれています。ルカ23章19節では「このバラバは、都で起こった暴動と殺人のかどで投獄されていた」とあります。マタイには「評判の囚人」とバラバのことを形容してもいます。マタイ27章16節はいろいろ訳されており、「名うての囚人」「名の知れた囚人」「有名な囚人」「隠れなき囚人」「悪名高き囚人」と様々です。ということは、バラバは単なる強盗ではなかった、いやむしろ、当時のパレスチナの政治状況では、彼は、ローマ帝国支配に抵抗するレジスタンスの有名な闘士であったということなのです。言い換えて言えば、バラバはメシア的な人物であったのです。バラバの名前はバル・アッバスで、バルは子供、アッバスは父です。ですから、バラバとは父の子を意味し、神の子を意味したのです。神から遣わされたメシアである。そういうメシア的な政治運動家への贈り名なのです。ローマ総督ピラトの前には、二人のメシアが並ぶことになりました。ピラトはその二人のメシアの選択を群衆に迫ったのです。しかし、群衆はイエスを拒否し、「バラバを!バラバを釈放せよ!」とバラバを選択しました。これがこの世の現実です。この世は、神を度外視した政治的解決、軍事的解決、力による国家統一、福祉繁栄を期待してやまない、ということなのです。
皮肉なことに、使徒とされたペテロでさえもよくわかっていなかったようです。彼は信仰告白に導かれて、「あなたこそ生ける神の子、キリストです。」と言いましたね。イエスが神のメシアである!確かにそれは正解でした。主イエスは彼を称賛しています。しかし、次の瞬間、彼はイエスを拒否しているのです。自分が間も無く捕らわれ、裁かれ、十字架に付けられ殺されると、イエスが受難を予告するや否や、ペテロはイエスを脇に引き寄せ、「主よ。どんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(マタイ16:22)とイエスを非難してしまいました。ペテロがイエスに期待していたメシア像、それは、イスラエルを植民地支配の残酷なローマ帝国を徹底的に転覆させ、イスラエルを国家として再建する指導者、それがイエスに期待したメシアだったのです。そのペテロに対して主は何と言われましたか? 「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている。」(23節)と叱責されたのです。ペテロも知らず知らずにサタンの、悪魔の誘惑にさらされてしまっていたのです。
よく知られているように、第二次世界大戦が終結すると、共産主義国家と資本主義国家間の冷戦が深刻化しましたね。ところが、共産主義のソビエト連邦が70年経過すると崩壊し、これでやっと平和が訪れるかと期待されたものでした。ところがその期待は裏切られ、全く新たな冷戦が深刻化しつつあるのが現状ではないでしょうか。この現代の政治指導者を見ていると、文字通り悪魔に唆されているとしか言いようがありません。権力を得た権力者は、どこまでも権力にしがみつき、自分の政治的な野望を実現しようとする独裁者が、深刻な問題を引き起こしているのを私たちは、あちらこちらに見せられています。民主主義によれば、法の支配する法治国家が理想でしょう。しかし、現代の国々の傾向は、法の支配ではなく、法による支配、即ち、独裁者が勝手に法律を次々に都合よく作ることによって、国民を強制的に支配しようとするのです。それでも、私たちは、ローマ13章により、この地上の上に立つ権力が、それが誰であれ、神によって立てられていることを知っています。神はその国に最低限の秩序が保たれるよう、人間により政治的統治を許容されておられるからです。それ故に、私たちには、彼ら上に立つ為政者のために祈る義務があります。と同時に、その地上の権力には限界があり、真の意味での繁栄、平和は実現することは不可能であることをもわきまえ知っておくべきでしょう。
私たちは、その上で、この世にあってイエスのもたらされた神の国を求めて祈るべきなのです。世俗的な理想的なより良い世界を創るためでないとするなら、イエスは何をもたらそうとされたのでしょうか。この世の人間の国ではありません。それは神の国です。人間の国はどこまでも人間の国です。それ以上のものではありません。この人間の歴史の只中に、新しい神の支配を実現すること、それによって、真の神を私たちにもたらすこと、それがイエスのメシアの使命であります。主は悪魔を、申命記6章13節を引用して、退けました。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」真の神を自分の神とするために、ただイエス・キリストを主と信じ受け入れるのです。そしてイエスの御名により神を礼拝し、神の国を求めて祈ることが求められているのです。
Ⅲ.試惑の結末
ルカには書いていませんが、マルコ1章13節には、荒野で悪魔に試みられたイエスが、「野獣と共におられた」とあります。これは、イザヤが預言した未来の平和の先取りです。「狼は小羊と共に宿り豹は子山羊と共に伏す。子牛と若獅子は共に草を食み、小さな子どもがそれを導く。雌牛と熊は草を食みその子らは共に伏す。獅子も牛のようにわらを食べる。乳飲み子はコブラの穴に戯れ乳離れした子は毒蛇の巣に手を伸ばす。私の聖なる山のどこにおいても、害を加え、滅ぼすものは何もない。水が海を覆うように、主を知ることが地を満たすからである。」(イザヤ11:6−9)イエスを迎え入れる時、その助けを得て誘惑に打ち勝つとき、そこに真の平和が実現するということが約束されているのです。
また、続いて「天使たちがイエスに仕えていた」ともありますね。これは、イエスを信じ迎え入れる時、人は天の軍勢で守られ、本当の意味で安全であるということです。どんなに軍備を増強し、組織を強化し、経済力でカバーしようとしても、人は心の不安を払拭することはできません。人間は、自分の力で人間的な工作をすればするほどに、不安は増大するばかりなのです。しかし、一度、イエスを主と迎え入れる時に、安心することができるのです。 ルカ福音書では、14節に「イエスが霊の力に満ちてガリラヤに帰られると」と続いています。誘惑に勝利した者には聖霊の力が与えられ、主の業がそれから展開されていくということです。
神を礼拝し、イエスに祈る時に、平和と安全と勝利が現実となるのです。私たちを聖霊に満たしてくださるよう祈りましょう。主の祈りを今日も祈りましょう。「天にまします我らの父よ。御国が来ますように。御心の天になるごとく血にもなりますように。」今週も、平和と安全と聖霊の力に満たされて、神の国の栄光を見させていただきましょう。
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