1229日礼拝説教

「礼拝に行く秘義」  マタイ2章1〜12節

イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、言った。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は祭司長たちや民の律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは王に言った。

「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ あなたはユダの指導者たちの中で 決して最も小さい者ではない。あなたから一人の指導者が現れ 私の民イスラエルの牧者となるからである。』」

そこで、ヘロデは博士たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、こう言ってベツレヘムへ送り出した。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝むから。」

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子がいる場所の上に止まった。博士たちはその星を見て喜びに溢れた。家に入ってみると、幼子が母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子ヲ拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。それから、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分の国へ帰って行った。

東方の博士たちは、「ユダヤ人の王を拝みに来たのです」と、旅の目的を語った。「拝む」の原語は崇敬の念を表し、礼拝すると訳される。人間以外に礼拝する動物は他にはいない。だが誰を崇拝するかが肝心な問題点になる。

博士たちが拝もうとしたのは、ユダヤ人の王ヘロデ大王ではなかった。彼は血筋からしてユダヤ人ではなくイドマヤ人で、巧みにローマ皇帝にとり入り、任命された傀儡(かいらい)の権力者だった。猜疑心(さいぎしん)が強く、保身のため彼に殺害された有力者や親族は数知れない。「ヘロデ大王の息子であるより彼の豚の方が安全だ」とまで皇帝アウグストスに言わせた彼は残忍非道だった。

「ユダヤ人の王」の背景には、民族としてのイスラエルの歴史がある。イスラエル民族の存在意義は、神によって神の民として形成され、他の国民と全く違って、神が王として統治するところにあった。その点で、イスラエルが他の国々と同じように王政を求めて堕落した事実が、サムエル上8章に記録されている。

その「ユダヤ人の王」が生まれたことを示唆されたヘロデ大王が直感したのは、旧約聖書に預言されたメシア到来であった。メシア誕生の場所を調査するよう指示された学者たちが、ミカ5章に確認したメシア誕生の町はベツレヘムであった。ベツレヘムの村で乙女マリアにより誕生した幼子こそ「ユダヤ人の王」である主イエス・キリストに他ならない。イエスは神が人として来られたメシアを意味する。人が礼拝するべき対象は、この方を他にはない。

生まれたばかりのメシアが、最初に公にご自身を顕現された星占いの東方の博士たちは、神から最も遠く離れ、人生をさすらう罪深い私たちを代表している。そこに私たちは罪から人を救おうとされる慈愛に富む神のお心遣いを見せられる。博士たちは自分たちの日常生活の場からベツレヘムに礼拝の場を求めて来た。博士たちは幼子イエスの前で一緒に揃って身を伏し、宝物を献げ礼拝した。そこに私たちの礼拝の原型がある。

日常を後に礼拝に行き、皆で同じ礼拝行為をする所に主が臨在なされる。

1222日礼拝説教

「悪用・利用・活用か」  マタイ1章18〜23節

イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが分かった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。

「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われたことが実現するためであった。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは、「神は私たちと共におられる」という意味である。

多くの人にとってのキリスト教の躓きは、「科学的に生理的に非合理であり、とても信じられない」という、救い主の処女降誕にある。婚約関係にあったヨセフには、許嫁の処女マリアの懐胎は衝撃的であった。困惑逡巡したヨセフは、正しい人であったので、表沙汰にするのを避け、マリアを密かに離縁しようと決心した。

神の前に正しい人は、神の戒めを守って生活する。律法の根本精神は愛であるから、他人に対する態度において善意で物事を対処しようとする。妊娠したマリアを離縁して去らせることは、ヨセフにできる最善であった。だが子を宿すマリアに待ち受ける厳しい現実を思えば、ヨセフは思い悩んだに違いない。しかし、まさにその時、思案するヨセフは夢で天使の告知を受け、意想外な結婚促進の新しい選択を提示された。

マリアの妊娠懐胎が、男女の関係によるのではなく、聖霊による神の働きであと告知される。啓示されたヨセフは、即、マリアを妻として受け入れ、そのヨセフの機転によって、神のご計画は成就し、救い主イエス・キリストがお生まれになられた。

神の成されることは、すべて時に適って美しい。ヨセフは困難な事態に直面すると神に祈ったに違いない。神の答えは夢による天使のお告げとは限らないが、祈りは必ず聞かれる。思い煩わずに神に祈ろう。いかなる状況に置かれたにしても神に信頼しよう。

御子イエス様の御降誕は、イザヤ7章のインマヌエル預言の成就であった。神が人となられたキリストは、神が人と共に居てくださるしるしである。私たちは、イエス様を信じ、神が共に居られる生活を生きる。浜辺の砂浜の二人の並ぶ足跡をイメージする信仰の「足跡」の詩は、主に背負われて生きる恵みを証しする。それはインマヌエル信仰の一面の真理ではあるが、大切な一面は、主に背負われつつ、また、自分も主からの務めを背負わされて生きることではないだろうか。

ヨセフはマリアを妻として迎え、自分の子ではない幼子を子として育てる役割を引き受け、その結果、人類を罪から贖う神の救済計画が実現することになった。

12月15日礼拝説教

「真の光の先駆者」  ヨハネによる福音書 1章6〜9節

一人の人が現れた。神から遣わされた者で、名をヨハネと言った。

この人は証しのために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じる者となるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである。

「まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである。」光は、神の創造の最初にして最大の傑作である。光は闇を照らし、暖を与え、植物を成長させる。光なしに世界は成り立たない。

まことの光とはキリストを指す。私たちがクリスマスを祝うのは、その光なるキリストが処女マリアにより誕生されたことによる。まことの光は世に来て、すべての人を例外なく照らされる。照らされた人からは、疑惑の闇が追放される。絶望の闇が追放される。罪責の闇が追放される。最後の敵である死の恐怖も追放され、迷妄からも解放される。

聖書には、イエス様に出会い、イエス様に照らされ、暗闇から解放された人が限りなく登場する。2000年以上も続く教会の歴史上にも、イエス様に出会い、イエス様に照らされ、暗闇から解放された人の数は限りない。12年間も出血の止まらない長血の女は、主の衣のすそに触って癒され、絶望の淵から解放された。不正を働き私腹を肥やしたザアカイは、主の光に照らされ、不正を償い、悔い改めに導かれた。

世界は人の犯した罪過ちで霊的に暗い。偽物、紛い物、類似品、偽造品、フェイク・ニュースが痕を絶たない。にもかかわらず、「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」

光に照らされるために、闇から出てこなければならない。ザアカイは一目イエスを見ようと樹上に潜んだことで光に照らされ、決定的な人格変革を経験した。夜陰に乗じて活動するゴキブリであってはならない。「あなたの言葉は私の足の灯火、私の道の光。」自分の行くべき方向を模索するだろうか。光の内を歩むなら暗闇を歩くことなく、どこに向かうべきか分かる。

主は光を証言する先駆者のヨハネを必要としたように、光に照らされ光の子とされたあなたを光の証人として必要とされる。ヨハネがその弟子達にイエスを救い主と指差すと、彼らはイエス様を信じ、信じた一人アンデレは兄弟のペテロをキリストに紹介した。キリスト教会の歴史は光の証人の連鎖である。光の前に出て照らされ、その連鎖につながろうではではないか。

12月8日礼拝説教

「人工知能と聖書」  ローマ16章25−27節

神は、私の福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、代々にわたって隠されていた秘義を啓示するものです。その秘義は、すべての異邦人を信仰による従順へと導くようにとの永遠の神の命令に従い、今や預言者たちの書物を通して明らかにされ、知らされています。この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

帝国の首都ローマの信徒たちは、権力・文化・宗教・人種のルツボの只中で、解決すべき多くの問題を抱えていた。

使徒パウロは、長い書簡の最後の頌栄で、彼らを硬く立たせることができるのは唯一の真の神であると激励した。人は誰でも、苦難や試練・誘惑・異端の惑わし・生活の心配や煩いに直面して、確かな力づけを必要とする。長い手紙を書き終えたパウロは、神が福音により信徒を強めることができると確言した。その福音とは隠されていた秘義の啓示であり、その秘義こそキリストである。

私たちがクリスマスを祝うのは、御子のご降誕により、神の人類救済が明らかにされたからに他ならない。神の愛は御子イエスの処女マリアからの誕生で、私たちに明らかにされた。この福音を聴くことにより、何故か不思議とイエス様を主と信じる信仰が起こされ、従う従順に導かれる。

ライフラインを提供する関西放送伝道協力会の代表は、若き日に大型トラックのドライバーであった。酷く落ち込むある日、運転しながらラジオ福音放送の世の光から流れる羽鳥 明師の語る短い福音のメッセージを聴き、涙して感動、運転しながらイエス様を主と信じる告白をすることで、瞬時に救いの恵みに入れられたと証言された。彼は教会に通い、献身し、牧師となり、福音放送伝道に貢献し活躍される。人を救い硬く立たせる福音が、聖書に霊感されている。

聖書と人口知能(A I)との違いは歴然としている。超高速電算機に無数のデータを入力し特徴量を導き出すことのできるA Iは、現代生活の花形ではあるが、所詮、それは人の創作であり、便利な道具の域を出ることはできない。教会活動は、A Iを含め最新の技術の傑作である道具・器具を率先して活用はする。しかし、人の本質的な魂の必要は、福音にあることを覚えておこう。

福音を確かに自分の救いの経験とする福音の個人化が求められる。確かに主によって強められた人は、他の人に証言しないわけにはいかない。次週のコンサートで、盲目の福音歌手・北田康広さんは、その意味で証言しようと立たれる。

12月1日礼拝説教

「剣を鋤きに槍を鎌に」  イザヤ2章1〜5節

アモツの子イザヤがユダとエルサレムについて幻に示された言葉。

終わりの日に、主の家の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって川の流れのようにそこに向かい、多くの民は来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。主はその道を私たちに示してくださる。私たちはその道を歩もう」と。教えはシオンから、主の言葉はエルサレムから出るからだ。

主は国々の間を裁き多くの民のために判決を下される。彼らはその剣を鋤にその槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げずもはや戦いを学ぶことはない。

ヤコブの家よ、さあ、主の光の中を歩もう。

神の民の特質は待つ姿勢にある。アドベント(待降節)に、私たちは御子の御降誕と世の終わりの再臨を待望する。

紀元前7世紀に預言書イザヤは、神の民イスラエルの堕落ぶりを「なぜ、あなたがたは再び打たれ、背き続けようとするのか。頭はどこも傷つき、心は全く弱り果てている。」と糾弾した。北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、南ユダ王国も風前の灯だった。

2700年後に今を生きる私たちが見る過去の世界の歴史は流血と悲惨に尽きる。日本を含め、各国の軍備拡張競争の未来は、第三次世界戦争を予感させずにはおかない。だが、私たちは、イザヤが見た幻に未来に実現する確かな希望を抱くことが許されている。「彼らはその剣を鋤に槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦いを学ぶことはない。」

このイザヤの預言は、ニューヨークの国連の壁に大きく彫り刻まれている。2017年の国連総会で「核兵器禁止条約」が採択されたが、軍拡の脅威は拡大するばかり。涙ぐましい平和運動による努力は尊いが、悲しいかな人間的な努力で世界平和の実現は望むべくもない。

このイザヤの平和の預言は、御子イエス・キリストの王としての再臨によってのみ完全に実現成就される。預言者イザヤは、ヒゼキヤ王が獰猛残忍なアッシリアのセンナケリブ王の大軍に包囲されたとき、この預言の最初の成就を見ていた。18万5千人の敵軍が天使により壊滅している。イザヤはこの預言が700年後の御子の降誕によって実現することをも垣間見ている。

イザヤ書には「インマヌエル」預言をはじめ、メシア預言が散りばめられる。御子イエスは、十字架の死と復活により罪の赦しをもたらすことで、神と人との間に和解と平和を実現された。その平和の完成のため主イエスは再び来られる。この希望に立ち、「さあ、主の光の中を歩もう。」と私たちは促される。

世の光であるイエス様を信じて従い、罪の生活と決別し、平和を造る光の子として生き、証しすることが求められる。闇は光に勝てない。再臨の希望を胸に、闇の中に輝き生きよう。