84日礼拝説教

「知恵分別の秘訣」  箴言9章10節

主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることが分別。

「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別。」この御言葉が置かれる箴言9章は、文学的な技法の交差配列法で、二つの線が交差するXのような構造です。そして交差配列法で語られるメッセージがその交差点にあり、10節がそれに相当します。

第一の線は1〜6節、第二の線は13〜18節です。二つの文章は知恵(ある女)と愚かな女が道行人々を食事に招待すること、しかも「思慮なき者は誰でもこちらに来なさい」とその招きの言葉も全く同じですが、その結果は全く違い、知恵の招きの結果は命と祝福、愚かな女の結果は死と呪いです。

聖書は、この二つの招待が目に見えなくても全ての人生に交差していると教えます。擬人化された知恵ある女は、イエス・キリストを指し示し、愚かな女は悪魔を意味するのです。

悪魔は初めから人殺しであって、真理に立ってはいない。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。」と主は悪魔の邪悪さを指摘されました。その二つの線が交差する10節こそ、決定的な真理です。

主を畏れることとは、聖なる神様を知ることです。イエス・キリストを信じて活ける神様に立ち返るとき、人は真の知恵のスタートラインに立つのです。コヘレトの言葉12章13節には「神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである」と喝破されています。

箴言を著したとされるソロモン王は、分別を神に謙虚に願い、その結果、彼は知恵ある名王とされました。道行く人々は「思慮なき者」「浅はかな者」と呼びかけられますが、人は知恵分別において一生、完璧ではあり得ないことを意味し、同時に人は愚か者か知恵ある者かが問われます。

賢さと愚かさの聖書の基準は、知能指数や学歴ではなく、神を信じない者は愚かであり、謙虚に神に信頼する者は賢い知恵ある者なのです。神は人を神に似せて選択の自由意志を授けられました。その意味で、人生は日々選択、二者択一の連続です。知恵分別の秘訣は、第一にイエス様を主と心に迎え入れること、さらに諭され、教えられる謙虚さを身につけることでしょう。

721日礼拝説教

「かめの粉は尽きず」  列王記上17章8〜16節

主の言葉がエリヤに臨んだ。「すぐにシドンのサレプタへ行って、そこに身を寄せなさい。私はそこで一人のやもめに命じて、あなたを養わせる。」そこでエリヤは、すぐにサレプタへ向かった。

町の入り口まで来ると、そこで一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤは彼女に声をかけて言った。「器に少し水を持って来て、私に飲ませてください。」

そこで彼女が水を取りに行こうとすると、エリヤは呼び止めて言った。「どうかパンも一切れ持って来てください。」

すると彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私には、焼いたパンなどありません。かめの中に一握りの小麦粉と、瓶に少しの油があるだけです。見てください。私は二本の薪を拾って来ましたが、これから私と息子のために調理するところです。それを食べてしまえば、あとは死ぬばかりです。」

エリヤは言った。「心配は要りません。帰って行き、あなたが言ったとおりに調理しなさい。だが、まずそれで、私のために小さなパン菓子を作り、私に持って来なさい。その後で、あなたと息子のために作りなさい。なぜなら、イスラエルの神、主はこう言われるからです。『主がこの地に雨を降らせる日まで、かめの小麦粉は尽きず、瓶の油がなくなることはない。』」

やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。それで、彼女もエリヤも、彼女の家の者も幾日も食べることができた。

主がエリヤを通して告げられた言葉どおり、かめの小麦粉は尽きず、瓶の油がなくなることもなかった。

大旱魃の最中、貧しい寡女(やもめおんな)に与えられた「かめの小麦粉は尽きず、瓶の油がなくなることはない」との主の言葉は、今日まで多くの聖徒たちを慰めてきました。この御言葉が語られたとき、イスラエルは悪王アハブのゆえに政治的・宗教的な緊張が張り詰めていました。偶像バアル礼拝や豊穣の女神アシェラ崇拝がはびこり、その罪の結果として、飢饉の災いが全土を襲ったのです。預言者エリヤがサレプタの寡女に少しの水と一切れのパンを所望すると、彼女は、差し上げるようなパンが無いばかりか、最後の一切れを息子と食べて死ぬばかりだと、気の毒そうに答えています。そこには命が死の危険にさらされている暗い緊張が漂うのです。

人はその人生経験に、状況は違っても種々の厳しい緊張を味わいます。しかし、注目すべきは、その只中に主の言葉が臨むと、その緊張が緩和させられる真理です。預言者エリヤの名前の意味は「主は神」であり、イスラエルの民に、人手による偶像ではなく、主こそ真の神であることを証言するため、主によって遣わされました。エリヤは、アハブ王に「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」と確言しました。この生きておられる真の神である主は、生きとし活けるもの全てを養うお方でもあります。

飢饉の最中に、主はエリヤをカラスで養い、寡女で養うと約束されました。生存の保障を確保するため、年金や保険や蓄財や制度を充実させることは良いことです。しかし、人間の生存の根源的な保障は、人間を創造された主なる神様にあります。

困難な状況の只中に臨んだ主の言葉を、寡女が生き生きと経験できた秘訣は、彼女の信仰が「あなたの神」信仰から「私の神」信仰に代えられることにありました。エリヤの申し出に「あなたの神、主は生きておられる」と人任せの言い方をしていた寡女に、「かめの小麦粉は尽きず」と約束の御言葉が臨むと、信仰は「私の神」信仰に変えられ、語られた通りに実行した結果、飢饉の最中に食料は不思議と尽きることなく、生き延びることができました。主は生きておられるのです。

714日礼拝説教

「恐れずに畏れる」  ヨハネ6章16〜21節

夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。すでに暗くなっていたが、イエスは彼らのところにまだ来ておられなかった。強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出した頃、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。イエスは言われた。「私だ。恐れることはない。」 そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。  

深夜のガリラヤ湖上で嵐に進行を阻まれ、沈没寸前の弟子たちに、主イエスが近づき「私だ。恐れることはない。」と激励の言葉をかけられました。直前の5千人の給食の奇跡目撃で感動し、気分の高揚していた弟子たちは、その数時間後には、極端な恐怖に突き落とされていました。それ程に極端ではないにしても、弟子たちの船による旅路は、私たちの人生の縮図のようです。

岸辺を離れて目的地のカペナウムを目指して出帆した彼らには、主イエス不在の不安が忍び寄ります。目に見えなくても主は共におられるのだと信じても、時には神様が本当に共におられるのか不安になるものです。弟子たちは嵐に翻弄されると破局を恐れ、目的地で課せられた務めを果たせない未完成をも恐れたことでしょう。ところが、恐れに心挫けた弟子たちに、「恐れることはない。」と主は、彼らを破局から救いだされました。

弟子たちは、恐れるよりも主を畏れるべきでした。主イエスの水上歩行は、救い主・神の子のしるしであるからです。カナの婚礼での葡萄酒の奇跡で質を、役人の息子の癒しの奇跡で空間を、38年間寝たきりの病人の癒しで時間を、5千人の給食で量を超越することを証明された主イエスは、水上歩行で自然法則の超越により、メシアであることを啓示されたのです。

そればかりか、主が「私だ。」と語られた背景には、出エジプト記3章のモーセに対する神啓示があります。神はモーセにご自身の名を「ヤハウエ」と掲示され、その意味は「私はいる」です。弟子たちが恐れよりも畏怖の念でイエス様を畏れるべき理由は、真の神である主、即ちヤハウエが、人の姿で現れた方であることにあります。イエス様は、湖上の嵐の厳しい試練を通して、弟子たちにご自身を啓示しようとされたのです。

ヤコブが「試練に遭ったときには、この上ない喜びと思いなさい」(1:2)と勧告するのは、無意味な試練は無いからです。彼らが翻弄される船にイエス様を迎え入れるや、嵐は鎮まり、間もなく目指す地に着きます。主を心に迎え入れると、物事が必ずや円滑に進むことでしょう。

7月7日礼拝説教

「キリストの権威」  ヨハネ5章19〜29節

そこで、イエスは彼らに答えて言われた。

「よくよく言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何もすることができない。父がなさることは何でも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、ご自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたがたは驚くことになる。父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、自分の望む者に命を与える。

また、父は誰をも裁かず、裁きをすべて子に委ねておられる。すべての人が、父を敬うように、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。

よくよく言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている。

よくよく言っておく。死んだ者が神の子の声を聞き、聞いた者が生きる時が来る。今がその時である。父が、ご自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、父は裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。

このことで驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞く。そして、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るであろう。

ベテスダの池で、イエスが38年間寝たきりの病人を癒した結果、イエスとユダヤ人の間に厳しい権威の対立が起こった。イエスは病人に「床を担いで歩け」と命じ、ユダヤ人は「床を担いで歩くな」と命じている。この対立の結果、ユダヤ人はイエス殺害の方針を固めてしまった。イエスが安息日規定を破り、自分を神とみなす神冒涜罪を犯したことが理由であった。

しかし、イエスは、「父は裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。」と、ご自分の権威は神の付与により、それは自分が「人の子だから」、すなわち救い主であるからと、権威の根拠を論証された。イエスには、人に命を与える権威が付与され、人を裁く権威も付与されている。「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、自分の望む者に命を与える。」イエスは十字架で磔刑に処せられたが、神は大能の力で御子を蘇らせ、イエスに命を与えられた。それゆえに、イエスもまた信じる者に永遠の命を付与する権威がある。

父なる神は御子イエスに人を裁く権威をも授けられた。裁くとは善悪を判別し報いることである。悪とは殺す、盗む、姦淫する等の犯罪ではない。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。」(3:18)悪とは光であるイエスを信じないで闇を愛すること。人は自分のイエスに対する態度によって自分の永遠の運命を選択する厳粛な真理がここにある。

キリストの権威執行には明確な二つの時がある。主が語られる「今がその時」であり、また「来るべき時」である。

イエスが来臨されて以来、恵みの時であり救いの日である。今というこの時に人は救われる機会が提供されている。

「来るべき時」とは主の再臨である。その時、「墓の中にいる者」はすべて復活する。イエスを信じた者は命を受けるため復活し、悪を行った者、即ち信じない者は裁きのため復活する。

人は神に誰もがやがて神の前に申し開きする責任がある。人の取るべき態度は、主の御言葉に聞いて信じ、信じて畏れ敬われるべき主を敬拝すること以外にはない。