9月29日礼拝説教(詳細)
「裁きの座の応報」 IIコリント5章1〜10節
私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物があることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住まいです。
私たちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に望みながら、この地上の幕屋にあって呻いています。それを着たなら、裸ではないことになります。
この幕屋に住む私たちは重荷を負って呻いています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではなく、死ぬべきものが命に飲み込まれてしまうために、天からの住まいを上に着たいからです。私たちをこのことに適う者としてくださったのは、神です。
神は、その保証として霊を与えてくださったのです。それで、私たちはいつも安心しています。もっとも、この体をすみかとしている間は、主から離れた身であることも知っています。
というのは、私たちは、直接見える姿によらず、信仰によって歩んでいるからです。それで、私たちは安心していますが、願わくは、この体という住みかから離れて、主のもとに住みたいと思っています。
だから、体を住みかとしていようと、体を離れていようと、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。私たちは皆、キリストの裁きの座に出てすべてが明らかにされ、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行った仕業に応じて、報いを受けなければならないからです。
人が今を生きるのは未来に望みがあるからであり、そうでなければ生きる意味を失い、あるいは刹那的に生きるしかない。しかし、人は必ず死ぬ。それでもその死を超えた望みがある。キリストを信じる者には、復活の主と同じ栄光の朽ちない身体が約束されている。
地上を生きる肉体はもろい天幕のようだが、主が再臨されて与えられる身体は、堅牢な建物のようだと聖書は喩える。その時、私たちは顔と顔を合わせて主と共にいつまでも住むことができる。それまでは、この束の間の人生において、病み、怪我し、老齢化し、しばしば呻かざるを得ない。だが内におられる聖霊が、この確かな希望を明らかにされるので、安心することができる。
私たちを待ち受ける未来には、人として自分の地上の肉体の仕業のすべてが審判される裁きがある。「私たちは皆、キリストの裁きの座に出てすべてが明らかにされ、善であれ悪であれ、めいめい体を住かとしていたときに行った仕業に応じて、報いを受けなければならない。」
この裁きの座は、黙示録20章の白い玉座の罪の裁きではない。その場で開かれる行いの書に照らし合わされ自分の犯した罪過ちの裁かれた罪人は、永遠の地獄に投じられる。しかし、キリストの十字架の罪の赦しを得て救われた信者は、絶対に未来において罪の審判を受けることはない。
この「キリストの裁きの座」とは、生前にキリスト者が行ったすべての良い業、働きの評価で、主から報いが与えられることを意味する。イエス様は、「あなたがたは地上に宝を積んではならない。宝は天に積みなさい。」(マタイ6・19)と教えられた。すなわち、人は自分で積んだ宝が天の報いとして払い戻されることになる。
その宝には、神を求めて祈ること、職場の雇用主に忠実に仕えること、神への奉仕のために自分を捨てること、助けを必要とする人に奉仕すること、御名のために苦しみを受けること、神のために犠牲を払うこと、神の国の拡大のために自分の時間、才能、宝を人と分かち合うことが含まれるに違いない。「神の賞与を得るために」自分の一生を完走しよう。
9月22日礼拝説教(詳細)
「究め難い神の道」 ローマ11章25〜36節
きょうだいたち、あなたがたにこの秘義をぜひ知っておいてほしい。
それは、あなたがたが自分を賢い者と思わないためです。すなわち、イスラエルの一部がかたくなになったのは、異邦人の満ちる時が来るまでのことであり、こうして全イスラエルが救われることになるのです。次のように書いてあるとおりです。
「シオンから救う者が来てヤコブから不敬虔を遠ざける。これが、彼らの罪を取り除くときに彼らと結ぶ私の契約である。」
福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で愛されています。神の賜物と招きは取り消されることがないからです。
あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は、彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼らもやがて憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を憐れむために、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたのです。
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。神の裁きのいかに究め難く、その道のいかにたどり難いことか。
「誰が主の思いを知っていたであろうか。誰が主の助言者となったであろうか。誰がまず主に与えてその報いを受けるであろうか。」
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。
使徒パウロの深い悲しみは、同胞が神に心を閉ざし、福音を信じないことだった。2千年後の現在でも、1200万ユダヤ人でクリスチャンは2%にも満たない。
だが、パウロはその痛みを覚えつつ、9章から11章までイスラエル問題を論じるが、最後の結論で「栄光が神にありますように、アーメン」と頌栄を捧げたのは何故だろう。それは、啓示された奥義で、究め難い神の道を垣間見ることが許されたからに違いない。
「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」神が万事の根源、万事の保持・生成・発展、万事の目的だと確信し、パウロはすべての信者が奥義を悟るよう望む。万物を神が創造されたゆえに、神が人類の歴史をも導かれる。
私たち人間は、激流のような歴史の奔流に翻弄される小舟のように感じられるが、歴史は神の御手の中に確かにある。秘義・奥義とは隠された秘密であり、その中心にイスラエルがある。神の召すアブラハムにより興されたイスラエルは、神の民として驚くばかりの祝福と特権が与えられていた。
だが、歴史の事実に、私たちはイスラエルが失敗したことを知っている。その最大の失敗とは、人類救済のため神が遣わされた御子イエス・キリストを拒絶したことであった。彼らは主イエスを捕らえローマ総督に手渡し、十字架により殺害してしまった。だが隠された秘密は、その十字架の御子の死が、罪の赦しをもたらす贖罪の業とされたことにある。
人智理性では理解し難いのは、神が人類救済のために、イスラエルの叛逆・敵意・不従順をも手段として用いられたことである。十字架により「怒りの器」である異邦人の私たちは、ただ信じることで「憐れみの器」とされた。
神は不従順にすべての人を閉じ込めることで憐れみを示されようとされる。そして、今は不従順なイスラエルにもやがて憐れみが示される時が来ると約束されている。
現代世界は混沌とし、理解し難い理不尽な出来事が蔓延している。だがキリストの再臨間近の終わりの時、神の歴史のおける主権に信頼し、自分の責任を果たすよう努めよう。
9月15日礼拝説教
「キリストの内住」エペソ3章14〜21節
このようなわけで、私は、天と地にあって家族と呼ばれているあらゆるものの源である御父の前に、膝をかがめて祈ります。
どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めてくださいますように。あなたがたの信仰によって、キリストがあなたがたの心の内に住んでくださいますように。あなたがたが愛に根ざし、愛に基づく者となることによって、すべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものかを悟り、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができ、神の満ち溢れるものすべてに向かって満たされますように。私たちの内に働く力によって、私たちが願い、考えることすべてをはるかに超えてかなえることのできる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々にわたって、とこしえにありますように、アーメン
使徒パウロは、エペソ教会の信徒のために、彼らがユダヤではない異邦人キリスト者であることから、「キリストにあって、私たちは確信をもって、堂々と神に近づくことができます。」と祈る根拠をキリストに求め御父の前に、彼らの内なる人の強化を、膝をかがめ祈った。
内なる人とは、イエス様を信じて新しく造られた魂のこと。この世に繋がる外なる人、身体が受けるダメージにより落胆する危険性に晒されている。聖書に「私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々、新たにされていきます。」とあり、そのために、パウロは彼らの心にキリストが内住されるよう祈る。
古代イスラエルの名王ダビデは、神の住まいにと神殿建立を願望した。実現したのは後継のソロモンだったが、荘厳な神殿の奉献式で、ソロモンは謙虚に「神は果たして人間と共に地上に住われるでしょうか。」と祈り、自分が建てた神殿に神をお入れすることなどできないと告白した。しかし実際、この奉献式で、神殿には栄光の雲が、祭司達が立っていられないほどに、満ち溢れていた。
主の御名の置かれた臨在の象徴である神殿は、それ以後、イスラエルの中心だった。だが、一千年後に、御子イエス・キリストが、ご自分の身体を神殿であると宣言されるや異変が起こった。神殿である主の身体は十字架で死に埋葬され復活したが、昇天して見えなくなってしまった。そればかりか、エルサレムの荘厳な神殿はローマ軍に跡形もなく破壊され、今に至るまで存在しない。
その上で、使徒パウロがキリストの内住を祈る意味は果たして何か。それは神の住まい、神殿は教会であることを指し示している。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方が満ちておられるところです。」
キリストが信徒の心に内住するなら、人智をはるかに越えたキリストの愛が悟られ、内なる人は必ず強化される。広さ長さ高さ深さ四次元のキリストの愛は、愛を体験する共同体である教会の「すべての聖なる者たちと共に」悟ることができる。何という奥義的経験であろうか。
9月8日礼拝説教
「この世の寄留者」 Iペテロ2章11〜17節
愛する人たち、あなたがたに勧めます。あなたがたはこの世では寄留者であり、滞在者なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に振る舞いなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神を崇めるようになります。
すべて人間の立てた制度に、主のゆえに服従しなさい。それが、統治者としての王であろうと、あるいは、悪を行う者を罰し、善を行う者を褒めるために、王が派遣した総督であろうと、服従しなさい。善を行って、愚かな人々の無知な発言を封じることが、神の御心だからです。
自由人として行動しなさい。しかし、その自由を、悪を行う口実とせず、神の僕として行動しなさい。すべての人を敬い、きょうだいを愛し、神を畏れ、王を敬いなさい。
キリストを信じる者は、この世の寄留者である。聖書は、キリスト者を旅人・宿り人・市民権のない他国人のように喩える。
悲観的な姿では決してなく、むしろ神の憐れみを受け、神に愛され、神に慰められる大いなる特権が与えられている。限られた短い人生を様々な困難・辛苦を生きるが、慈愛の神に励まされ、元気づけを受けることが許されている。
寄留者は、何処から来て何処へ行くのか定まらない放浪者・流浪者とは違う。寄留者であるキリスト者は、自分の国籍が天にあることを確信し目指し生きる。その模範的な寄留者が信仰の父、アブラハムであった。彼は自分が地上ではよそ者であり、滞在者であることを告白し、はるかに天国を見て喜び生き抜いていた。
その目指す目的ゆえに、寄留者は肉の欲を抑制し謹厳に身を慎む。スポーツ選手が栄冠を目指して節制するのに似ている。また、寄留者は未信者の間で立派に振る舞うよう聖書は勧告する。
この世の伝統や習慣・習俗に迎合しないからと非難する未信者がいても、隣人愛の地道な生き方で批判をかわすように寄留者は生きるよう努める。そうするとき、不思議な神の訪れが批判者の上に臨み、逆に彼らが神を崇めるように造り変えられる。
寄留者は、究極の目的である天国を目指し地上生活を生きるが、その生きる限りこの世での果たすべき責任を軽んじることをしない。聖書は「すべて人間の立てた制度に、主のゆえに服従しなさい」と勧告する。政治制度のあり方は、時代により人間の作り出す道具であって、思想体系システムが違っている。すべての上に立たれる主権者なる主が、いかなる制度をも容認されるのは、それによって、その地域の秩序が最低限度でも確保されるためであると考えられる。
9月には日本の与党・野党が代表を決め、国会において首班指名選挙が予定される。誰が選出されるにせよ、上に立つ指導者のため執りなし祈り、また、選挙では一票を投じ、払うべき税金はきちんと納めよう。しかし、制度と権威を濫用する為政者には抗議・抵抗する勇気を持ち合わせよう。
私たちは主にあって自由人なのだ。
9月1日礼拝説教
「罪赦される恵み」 Iヨハネ5章13〜21節
神の子の名を信じるあなたがたに、これらのことを書いたのは、あなたがたが永遠の命を持っていることを知ってほしいからです。何事でも神の御心に適うことを願うなら、神は聞いてくださる。これこそ私たちが神に抱いている確信です。私たちは、願い事を何でも聞いてくださると知れば、神に願ったことは、すでにかなえられたと知るのです。
もし誰かが、死に至らない罪を犯しているきょうだいを見たら、神に願いなさい。そうすれば、神は死に至らない罪を犯した人に命をお与えになります。しかし、死に至る罪もあります。これについては、願い求めなさいとは言いません。
不正はすべて罪ですが、死に至らない罪があります。神から生まれた人は誰も罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた人は自分を守り、悪い者がその人に触れることはありません。
私たちは神から出た者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。しかし、神の子が来て、真実な方を知る力を私たちに与えてくださったことを知っています。
私たちは、真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神であり、永遠の命です。子たちよ、偶像から身を守りなさい。
礼拝に続いて3名の兄姉が受洗される。受洗の誓約の信仰問答を共に確認し、受洗者の新しい一歩のため祝福を祈りたい。
最初に「あなたは、天地の造り主、生けるまことの神のみを信じますか」と問われる。洗礼者は、神を認めず信じない罪人であったが、今は真の神のみを信じると告白する。
罪とは個々の法律違反ではなく、始祖アダムの堕落で人類に入った原罪を指す。その意味で人は皆、例外なく生まれながらに罪人である。
次に「あなたは、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いによって救われていることを確信していますか」と問われる。
十字架にキリストは磔られ、罪の赦しのため犠牲となった。「彼は私たちの背きのために刺し貫かれ、彼が受けた打傷によって私たちは癒やされた」とキリストの受難はイザヤ53章に預言されている。キリストは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」と十字架上でとりなし祈られた。
両脇に磔られた重犯罪人は私たちを代表している。一人はイエスを呪い、一人はイエスを信じ受け入れた。使徒ペテロは「自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負って下さいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです」と奨励する。洗礼は、罪により滅ぶべき存在であったが、十字架の故に罪赦されて救われたことを確信して告白する。
そして「あなたがたは、聖霊の恵みに信頼し、キリストのしもべとして、ふさわしく生きることを願いますか」と受洗者は問われる。
受洗者には神への願いが叶う恵みがある。「何事でも神の御心に適うことを願うなら、神は聞いてくださる。これこそ私たちが神に抱いている確信です。」(Iヨハネ5:14)何という幸いか!
ここで特別に祈り願うよう求められる祈りがある。死に至らない罪を犯している兄弟のために願うことだ。(5:16)先に受洗したが、いつか躓き倒れ、主から離れている兄弟がいたら、執りなし祈ろう。「そうすれば、神は死に至らない罪を犯した人に命をお与えになります」洗礼で教会加入した者として、日々に兄弟のために祈ろう。
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