630日礼拝説教

「時空超越の神の愛」  ヨハネ4章43〜54節

ふつかの後に、イエスはここを去ってガリラヤへ行かれた。イエスはみずからはっきり、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言われたのである。ガリラヤに着かれると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。それは、彼らも祭に行っていたので、その祭の時、イエスがエルサレムでなされたことをことごとく見ていたからである。

イエスは、またガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にかえられた所である。ところが、病気をしているむすこを持つある役人がカペナウムにいた。この人が、ユダヤからガリラヤにイエスのきておられることを聞き、みもとにきて、カペナウムに下って、彼の子をなおしていただきたいと、願った。その子が死にかかっていたからである。

そこで、イエスは彼に言われた、「あなたがたは、しるしと奇跡とを見ない限り、決して信じないだろう」。この役人はイエスに言った、「主よ、どうぞ、子供が死なないうちにきて下さい」。イエスは彼に言われた、「お帰りなさい。あなたのむすこは助かるのだ」。

彼は自分に言われたイエスの言葉を信じて帰って行った。その下って行く途中、僕(しもべ)たちが彼に出会い、その子が助かったことを告げた。そこで、彼は僕たちに、そのなおりはじめた時刻を尋ねてみたら、「きのうの午後一時に熱が引きました」と答えた。それは、イエスが「あなたのむすこは助かるのだ」と言われたのと同じ時刻であったことを、この父は知って、彼自身もその家族一同も信じた。これは、イエスがユダヤからガリラヤにきてなされた第二のしるしである。

カナでイエスは王の役人に対応された。その王とは、ユダヤ人が嫌ったガリラヤ領主ヘロデだった。その仕える役人もユダヤ人ではなく、異邦人であった可能性が強いので、ガリラヤの人には無視されるべき罪人であった。その役人にあえて対面されるイエスに、遣わされた神の博愛と憐れみと恵みが具現している。

神はその被造物のすべてをえこひいきせず愛される。神の憐れみは瀕死の息子の回復を切望し困窮する役人にイエスにより注がれた。彼がどんなに人から忌み嫌われる罪人であったとしても、神はその罪を赦し受け入れられる恵みの主であられる。その神の博愛と憐憫と恵みが、生命の回復となって具現した。

死にかかった息子の父である役人は、医者や薬とありったけの手を尽くしたが功を奏せず苦悩していた。だが、イエスに嘆願するや願いはかない、息子の熱は引き癒されている。息子が癒されたことで家族をあげてイエスを主とする信仰に導かれたことは、永遠の生命が付与されたことを意味する。「神はその独り子を賜うほどにこの世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びることなく永遠の命を得るためである。」

永遠の命とは神とイエスとの関係が回復されること、人格的に知ることである。神の愛は信じる者に生命を回復させる。最初からこの役人に生きた信仰があったのではない。見て信じる信仰、奇跡の信仰、自己中心的な御利益信仰であった。

「一緒に来てくれ」と頼む役人にイエスは「帰りなさい。息子は生きている。」と切り返された。それが信仰の転機となった。役人は見ずして信じる御言葉信仰に一挙に立つことができた。帰途に出迎えの僕の報告により明らかにされる息子の熱の引く時間とイエスの発言の時間の一致には驚異の事実が込められている。

イエスの言葉は語られた瞬間、30キロ離れた息子に具現した。イエスのメシア性が、この時空超越のしるしで啓示された。僕の「それは昨日の午後1時であった」という報告は、役人の信仰をも裏付ける。彼は御言葉を受けて急がず途中一泊したのだ。主に信頼する者は命を得ることになる。

623日礼拝説教

「知らない食べ物」  ヨハネ4章31〜38節

その間に、弟子たちが「先生、召し上がってください」と勧めると、イエスは、「私には、あなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「誰かが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。

イエスは言われた。「私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四ヶ月ある』と言っているではないか。しかし、私は言っておく。目を上げて畑を見るがよい。すでに色づいて刈り入れを待っている。刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、蒔く人も刈る人も共に喜ぶのである。『一人が蒔き、一人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。私は、あなたがたを遣わして、あなたがたが自分で労苦しなかったものを刈り取らせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

ヤコブの井戸から村へ戻るサマリアの女と入れ違いに、食料を調達して井戸に戻った弟子たちが、「先生、召し上がってください」と主イエスに食事を差し出すと、その応えは「私には、あなたがたの知らない食べ物がある」との返事です。ユダヤ地方から北上してガリラヤ方面への旅の途上であった彼らにとって、食事することは、体力を保持し、エネルギーを補給する上で、必要不可欠でした。

主がそれまでにも食べ物について、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きる」とか、「何を食べようか、何を飲もうかと思い煩ってはなりません」と勧告され、「日用の糧を今日もお与えください」と祈るよう教えられていたことを彼らは知っていた。それに加えて「あなたがたの知らない食べ物がある」との発言には、相当弟子たちは、驚いたに違いない。

主がこのように語られたのは、食べ物を喩えに重要な真理を弟子たちに教えようとされたのであって、私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」と説明されている。主イエスは御子なる神であるのに、父なる神の御心を成し遂げるために、人の形をとり遣わされたのです。それによって、何故、ガリラヤへ行くのに近道ではなく、敢えて遠回りしてまでサマリアを通過されたのか、その理由が解明される。

サマリアで一人の阻害された女を導き、その結果、サマリアの村人たちが救われることが、父なる神の御心であることを、主イエスはご存知であったのです。女が村人たちに主イエスこそ救い主ではないかと、証言した結果、村人たちは続々とイエスに会いに行こうと動きだしていた。

その光景を遠くご覧になると、主は弟子たちに、「目を上げて畑を見るがよい。すでに色づいて刈り入れを待っている」と呼びかけられた。この村に今いま起こりつつある出来事を麦の収穫に喩え、主と共に刈り入れに参与するように呼びかけられたのであった。今日も主は私たちに「目を上げて畑を見るがよい」と福音宣教へと招いておられるのではあるまいか。

6月16日礼拝説教

「天のエルサレム」  ヨハネ4章20、21節

「私どもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」

イエスは言われた。「女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。

それなくしては本来、人は生きていけないはずの礼拝の話題が、サマリアの女の口から飛び出したタイミングは、前後関係からして、唐突な印象がします。主が「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と彼女の隠された個人生活に踏み込まれたことは、主が女の心奥にある癒しがたい渇きを洞察されたからです。次々と男を遍歴し、失望した女は、神を礼拝することの必要性をそれによって突然、喚起させられたのです。主は先立ち、女にヤコブの井戸を指差し、「この水を飲む者はまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない」と語られました。

人は心の渇きを癒す何かを求め試し、それは人によって全て異なります。それが何であれ「また渇く」ものです。「この水」はそれら全てを代表し、必要ではあっても絶対的ではありません。人の心の渇きを真の意味で癒すのは神を礼拝することです。何故なら人は神により神に向けて造られ、神を礼拝することを生きる絶対条件とされた生き物だからです。罪によって断絶した神との関係が、キリストの十字架の罪の赦しを信じる信仰により回復された者は、神を礼拝することを通して心の満たしを深みにおいて経験することが許されるのです。

主はまことの礼拝は霊によると教えられ、それは聖霊が礼拝において働かれることにより、主イエス様の御言葉を想起させてくださるからです。全ての人は罪による霊的認知症のために、神認識機能が死んでいました。しかし、恵みにより信仰により救われると、礼拝を通じて認知機能が活性化され、更新され、発展させられ、主のお言葉を想起させられることで、心が本当の意味で充足させられるのです。

礼拝の完全さは新天新地の天のエルサレムに待たねばならないにしても、イエス様が来られて以来、既に礼拝の条件は整えられており、これに信じる聖徒である私たちが自分の奉仕を分担し、積極的に参与することによって、今ここに礼拝は実現可能なのです。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」とはその意味なのです。

6月9日礼拝説教

「人生の核心基盤」  ハバクク2章1〜4節

私は見張り場につき、砦の上に立って見張りをしよう。主が私に何を語り私の訴えに何と答えられるかを見よう。主は私に答えられた。

「この幻を書き記せ。一目で分かるように板の上にはっきりと記せ。この幻は、なお、定めの時のため、終わりの時について告げるもので、人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても待ち望め。それは必ず来る。遅れることはない。見よ、高慢な者を。その心は正しくない。しかし、正しき人はその信仰によって生きる。

使徒パウロが福音の基盤とし、ルターが宗教改革の基盤としたのは、ハバクク2章4節の一句「正しき人はその信仰によって生きる」です。

BC600頃に預言活動をしたハバククに、「私は見張り場につき、見張りをしよう」と言わせたのは、彼を取り巻く内憂外患でした。南ユダ王国は当時、政治・宗教・道徳は地に落ち、「私の前には破壊と暴虐があり、争いといさかいが起こっています。」とハバククは神に嘆き訴えました。この預言者ハバククの神への祈りこそ、2600年後の私たちにも求められている姿勢でしょう。

見張り場に立つ狙いは勿論、訴えに対する神の答えです。神はハバククに幻を見せ、その幻を言語化して書き記せと命じられました。ハバククの見せられた幻は、彼の時代にまじかに起ころうとする、獰猛残忍な新バビロニア帝国による侵略の危機です。それは南ユダ王国の堕落に対する神の裁きでした。神は歴史の主権者であり、バビロンを神の民を懲らしめる道具とされたのです。

ネブカドネザル王率いるバビロン軍により、20代目ゼデキヤ王の時代に、エルサレムは破壊され、大勢の民がバビロン捕囚の憂き目にあいました。悪化する国内事情ばかりか、外敵による悲惨な蛮行を見かねて、ハバククは「なぜ黙っておられるのですか、悪しき者が自分より正しい者を呑み込んでいるのに。」と神に嘆き訴えます。しかし、この幻は目前の出来事を超えた遠い未来を予見させる予言でもあります。主は「この幻は、なお、終わりの時について告げるもの」とハバククに答えられます。そして「それは必ず来る。」と約束されます。

実は、この預言を「もう少しすれば、来るべき方がお出でになる」と引用したヘブル10章37節によれば、キリストの来臨を指していたのです。十字架で罪の赦しを得させるため来臨されたイエス様は、「然り、私はすぐに来る」と約束され、終わりの時に再び来られます。その約束と成就の中間時代に生きる者のあるべき態度こそ「正しい人はその信仰により生きる」なのです。状況がどうあれ、私たちは神に信頼して生きるのです。

6月2日礼拝説教

「風は思いのままに」  ヨハネ3章1〜15節

 さて、ファリサイ派の一人で、ニコデモと言う人がいた。ユダヤ人たちの指導者であった。

この人が、夜イエスのもとに来て言った。「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」

イエスは答えて言われた。「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

ニコデモは言った。「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか。」

イエスはお答えになった。「よくよく言っておく。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。

イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことも分からないのか。よくよく言っておく。私たちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたは私たちの証しを受け入れない。私が地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者は誰もいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

夜陰に主イエスを訪ねた老齢で政治的権威と宗教的尊敬を兼ね備えるニコデモに、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と主は唐突に宣言された。これを自然の出産と受けとめたニコデモは、「年を取った者が、どうして生まれることが出来ましょう」と強く反発している。これは主を信じて救われることを、母の胎内からの出生の神秘に喩えたのであって、ニコデモには理解し難いことであった。

人の魂が救われることは、エラ呼吸をする胎児が狭く暗い母の胎内を出た瞬間に肺呼吸に転じ、広く明るい世界に生きるようなのです。胎児が誕生で広い明るい世界に入るのに匹敵することが神の国を見ることであり、神の国に入ることです。それは神が支配される現実を経験することで、人は救われると、神との正しい関係に入り、神に守られることから平安に満たされ、言いしれぬ湧き上がる喜悦を味わう豊かな生活に入るのです。

主は「新たに生まれる」に続いて「水と霊とから生まれる」更に「霊から生まれる」と言い換えられ、その上で、人の救われる経験を風の思いのままに吹く動きに喩え、人間の努力や働きかけによらず、ヨハネ1章13節で語られた「神によって生まれること」であることを教えておられる。

しかもこの訪問者のニコデモという名前のヘブライ語の綴りには、「先に、前もって〜する」という意味の動詞カーダムが入っており、ここに私たちは、救いの驚くべき真理のメッセージを読み解くことになります。それはエペソ1章3、4節に開示されている神の主権的な先行する選びの真理です。「神はキリストにあって、天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました」新しく生まれること、即ち、救われ神の子とされるのは、神の予知予定による選びであり、絶対的恩寵の業なのです。

そればかりか、救われるための人間的努力の必要はありません。ただ、十字架の主イエスを仰ぎ見る信仰だけで救いに入れられるのです。ただ受難の主を仰ぐだけで預かることの許される新生の救いの恵みに感謝したいものです。