1020日礼拝説教

  「希望と平和の計画」  エレミヤ29章4〜14

「イスラエルの神、万軍の主は、私がエルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に、こう言われる。家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べなさい。妻をめとって息子、娘をもうけ、息子には妻を迎え、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そこで増えよ。減ってはならない。私が、あなたがたを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたがたにも平安があるのだから。

イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなた方のうちにいる預言者や占い師たちに騙されてはならない。あなたがたのために夢を見る夢占い師に耳を傾けてはならない。彼らは、私の名を使ってあなたがたに偽りの預言をしているからである。私は彼らを遣わしてはいないー主の仰せ。

主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたらすぐに、私はあなたがたを顧みる。あなたがたをこの場所に帰らせるという私の恵みの約束を果たす。あなたがたのために立てた計画は、私がよく知っている——主の仰せ。それはあなたがたに将来と希望を与える平和の計画であって、災いの計画ではない。

 世界中のキリスト者に2番人気とされるエレミヤ29章11節は、バビロン捕囚のドン底に低迷する神の民に語られた。誇り高き南ユダ王国が滅ぼされた原因は、彼らが主を捨て神ならぬ偶像崇拝に堕落したためだった。

主は罪を憎まれるが、神の民を愛されることに変わりはない。エレミヤに託された預言の第一は、捕囚の地で暫くは、落ち着いて生活せよとの勧告だった。家を建て、畑を耕し、子供を産み育てよと主は命じられた。そればかりか、囚われの地、バビロンの町々の平安をも祈れと勧告される。バビロンとは混乱を意味し、聖書では一貫して堕落したこの世を象徴する。今を生きる私たちも救われ神の国に入れられてはいるが、この世に生活することに変わりなく、私たちもこの世の隣人を愛し、上に立つ政治指導者のために祈ることが求められている。

預言の第二は、必ず実現する神の恵みの約束を待望することだった。主が語られた約束の言葉は、行動を伴い必ず出来事となる。主は彼らに「バビロンに70年の時が満ちたらすぐに、私はあなたがたを顧みる」と約束され、私たちは歴史上、バビロンを打倒したペルシャのクロス王により、捕囚の民がバビロンから解放され、エルサレムに帰還し、神殿を再建した出来事を知っている。生ける神は計画を立て、その計画は将来と希望を与える平和の計画だと確言された。

神に信頼する者の将来は、その経過途中に失望落胆させられるようなことがあったとしても、最後は希望の実現となることが約束される。

このバビロン捕囚の解放預言は、単なる古代史ではない。ダニエル9章によれば、バビロンの宮廷に仕えていたダニエルが、エレミヤの預言書から70年捕囚解放を読み、一人懺悔祈祷すると、天使ガブリエルの終末告知を受けている。告知された70週預言によれば、キリストの到来、キリストの受難、反キリストの到来まで明言されている。

私たちはキリストの降誕と贖いの福音により救われ、今や、終わりの日の主の再臨を待望している。現代世界はいよいよ混沌バベルではあるが、祈り主を求めようではないか。

1013日礼拝説教

「流された血の力」  ヘブル9章11〜15節

しかしキリストは、すでに実現している恵みの大祭司として来られました。人の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、もっと大きく、もっと完全な幕屋を通り 雄山羊や若い雄牛の血によってではなく、ご自身の血によってただ一度聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。雄山羊や若い雄牛の血によってではなく、ご自身の血によってただ一度聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

雄山羊や雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちにふりかけられて、彼らを聖別し、その身を清めるとすれば、まして、永遠の霊によってご自身を傷のない者として神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ行いから清め、生ける神に仕える者としないでしょうか。

こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された違反の贖いとして、キリストが死んでくださった結果、召された者たちが、約束された永遠の財産を受けるためです。

ヘブライ人への手紙は、キリストの優越性を主題としている。

主は比較しようもなく絶対的に優れておられる。だが、その主は十字架に無惨にもはりつけられている。鞭打たれ、釘付けられ、茨の冠を被せられ、脇腹に槍刺され、主は全身から血を流された。

聖書はそのキリストの血に力があると証言する。

第一にはキリストの血は宥める力がある。神は罪を犯した人間を怒られる。神は罪を忌み怒り裁かれる。「罪を犯した魂は死ぬ」また「罪の支払う報酬は死である」と聖書が証言する。

だがキリストが十字架に血を流されたのは、私たちの罪の身代わりの犠牲となることで神の義の怒りを宥めるためであった。その結果、主を信じる者は罪赦され、神に近づき礼拝する者とされる。誰も自分の善行や努力で神に近づくことは許されない。ただ、キリストの流された血の宥めによってであることを感謝しよう。

キリストの血は、神と人類の敵であるサタンに対しては、暗闇の勢力を撃退する力がある。サタンの名は「敵対者」を意味し、神に愛される人間を妬み憎み滅ぼそうと狙っている。サタンは人間が神に罰せられ滅ぼされるように、人間の罪を告発することで敵対しようとする。義人ヨブが苦難に先立ち、天上の御前会議でサタンに訴えられている事例が、それを証明している。

悪魔の配下の悪霊どもは、個々の信者にささやき、その罪過ち、欠点弱点をあげつらい、「そんなお前は神に近づく資格はない」と神から引き離そうと懸命に働きかける。聖書はだが、「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」と勧告する。キリストの血に撃退する力があるからに相違ない。攻撃されるなら十字架の勝利を宣言して敵を退けよう。

キリストの血は更に麻痺した良心を清める力がある。元来は自分の行為の善悪判断を左右する機能を有した良心は、罪により歴史・文化の基準変化で機能不全に陥っている。だが、主を迎えた心では、死んだ行いからの良心の清めがキリストの血により行われ、御言葉を基準に良心は健全さを回復させられることになる。

106日礼拝説教

「わからなくていい」  ヨブ記42章1〜6節

ヨブは主に答えた。

「私は知りました。あなたはどのようなこともおできになりあなたの企てを妨げることはできません。『知識もないまま主の計画を隠すこの者は誰か。』そのとおりです。私は悟っていないことを申し述べました。私の知らない驚くべきことを。

『聞け、私が語る。私が尋ねる、あなたは答えよ。』私は耳であなたのことを聞いていました。しかし今、私の目はあなたを見ました。それゆえ、私は自分を退け塵と灰の上で悔い改めます。」

ヨブ記は「なぜ義人が苦しむのか」をテーマとする。ヨブは古代の東方で裕福かつ敬虔な人に信頼される好ましい人物だった。だが突然、彼を襲った三重苦が彼を悲嘆に突き落としてしまった。全財産を失い、10人の娘息子は倒壊した家屋で圧死、彼の全身は得体の知れぬ皮膚病に冒されてしまう。神を呪うことこそせず、「主は与え、主は奪う」と信仰に踏み止まりはしたが、こんなに苦しむなら生まれてこなかった方がましだと、自分の誕生日を呪い、「私に休息はない」と暗くうそぶくばかり。

彼の三人の友人はヨブを慰めるべく見舞ったが、ヨブの苦難の原因が彼の犯した罪過ちにあると、因果応報の論理で説諭したため、自分の正しさに固執するヨブは苛立つばかりだった。しかし、その空転する長い論争で双方が疲れ果てた末、主が嵐の中からヨブに語りかけられた結果、ヨブは信仰の転機を迎えている。

ヨブは「あなたはどのようなこともおできになります」と神の全能性を告白し、自分の身に起こった不条理としか言いえないような連続する災難のすべてが、神の按排(あんばい 程よく並べととのえる)により、目的あって配列されたことを認めている。横暴な諸部族による財産略奪も、子供達を圧死させた突風も、全身を覆う病魔も、主なる神の許容にあった。

ヨブは、「知識もないまま主の計画を隠すこの者は誰か。」と問われる主に、「私は悟っていないことを申し述べました。」と答えることで、信心深い自分がかえって神の計画の邪魔をする者であったことを悟り、悔悟の念で受容している。この苦難経験はヨブの問題が自我にあることを浮上させている。

教会においても、自我に満ち満ちた人が問題を起こしかねない。信仰の告白で称賛されたペテロも、自我の強い人物で、主が受難予告をされた際に、横から口出し主を諌めようとすると、主イエスにより「サタン、引き下がれ。」と叱責されてしまった。

主は弟子の条件として、自分の十字架を負い、自分を捨てて従えと命じられる。「塵との上で悔います」と謙るヨブの最後は二倍に祝福されている。すべて分からなくても従い進もう。