1027日礼拝説教(詳細)

「神の許容的意志」  マタイ10章26〜32節

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現わされないものはなく、隠れているもので知られずに済むものはないからである。私が暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、命は殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、命も体もゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れることはない。あなたがたは、たくさんの雀よりも優れた者である。」

 「だから、誰でも人々の前で私を認める者は、私も天の父の前で、その人を認める。しかし、人々の前で私を拒む者は、私も天の父の前でその人を拒む。」

今日は10月最後の主日礼拝となりました。聖書箇所は、マタイ10章26〜32節ですが、29〜31節を読むことにします。聖書を理解する上で大切なことは、その御言葉が置かれた文脈を考慮して読むことです。それによると10章の最初からの流れで分かることは、この御言葉がキリストの12弟子の選びと派遣の文脈に置かれているということです。イエス様は多くの弟子の中から将来、使徒となる12人を選び、彼らに使命課題を与え、そうする力をまた彼らに付与され、未来に向かって積極的に行動するよう派遣されました。

.恐れの弊害

10章 2 節を見ると、そこにはキリストが選ばれた弟子たちの名前がペテロを先頭に挙げられております。主によって選ばれ、使命が付与され、そうする能力が授けられることは素晴らしいことです。しかし、今日私たちが読む聖書箇所によれば、派遣される弟子たちの使命を台無しにする弊害がここに明らかにされています。それを主は、人の心の内にある恐れだと語られました。主は、ここに、「恐れるな、恐れるな、恐れるな」と三回も繰り返し語っておられます。26節「人々を恐れてはならない。」28節「恐れるな」31節「恐れることはない」と畳み掛けられました。

①恐れの本能

恐れそのものは、本来、人間を含め、動物にも備わった本能です。察知した危険を回避するためのスイッチのようなものです。このスイッチが入ると、その瞬間に危険を回避するために、何かしらの反応が起こるわけです。防衛本能と言い換えてもいいかもしれません。この本能は生きていくためには、どうしても不可欠です。人に備わっている本来は良いものなのです。私自身は、40過ぎてから強烈なギックリ腰を経験してから、腰痛が起こると途端に恐れのスイッチが入ります。そしてそれをなんとか回避しようとするために対応するのが常です。キュッとキツく専用のバンドを締めるとか、腰痛のリハビリ体操をするとか、酷い場合にはお医者さんから処方された鎮痛剤を飲むとかするのです。

②恐れの心理

しかし、その恐れの本能は、言い換えると心理的には、悪いことが起こるのではないかという心配、懸念であって、その根底には常に不安があるということです。私たちは、過去の経験からいろんなことを学び、過去の嫌な経験、失敗した経験、傷ついた経験から、自分の身を守るため、もう嫌な目に合わないよう、失敗しないよう、傷つかないように防衛する心理が出てきて、これが恐れとなります。ですから恐れは、過去の経験から未来への防衛心理だと言えるかもしれません。

  恐れの弊害

しかし聖書は、防衛本能、防衛心理と言われる恐れには弊害が伴うことを警告するのです。箴言29章25節には、こう警告されています。「人間を恐れると、それは罠となる。」人は野生の動物を捕まえるのに罠を仕掛けます。罠にかかったらどんなに屈強な熊でも虎でも身動きできなくなってしまいます。それと同様に、人を恐れて顔色を伺い、他人の言動、噂を恐れることによって、人は自分の行動が左右され、自由を失ってしまうことがあります。他人の目を気にするあまり、自分から積極的に動けなくなってしまうのです。仮定に過ぎない未来の脅威に怯えて、現在のことが二の次になってしまうこともあります。常にピリピリと緊張した状態で生活することになり、人生を楽しむことも前向きに考えることもできなくなってしまいます。失敗を恐れると自信を失い、他人も信頼できず、不安感や否定的な気持ちが強くなり、イライラ、フラストレーションの温床となってしまう弊害があるのです。

.恐れの原因

時々、話の中に、あるいは書物の中で、「聖書の中には『恐れるな』という言葉が365回繰り返し出てきますが、それは人間が年中恐れ易いことを意味しています」と語る人がいます。確かにそう言われればそうですね。しかし実際には、恐れ、恐怖などを含めると、聖書中にはもっともっと恐れに関する言葉は沢山使われていると思われます。その人の恐れが本能的、心理的であるとしても、何が恐れの原因となるのか、それは多岐に渡ることで、とても一気にそれらを挙げて語り尽くすことはできません。しかし、今日、私たちは、このマタイ10章の主の御言葉によって、少なくとも二つの恐れの原因を挙げることができるのです。

  少数劣等感

主はこう言われました。「二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか」雀は、弱く、ありふれた、何の取り柄もない野生の小鳥です。古代イスラエルでは神殿に捧げる犠牲の動物の規定がありました。牛や羊や山羊はその犠牲動物の典型です。そればかりか牛や羊など買えない貧乏人でも捧げられる犠牲には、鳩が挙げられています。ところが雀はその対象にさえ挙げられることはありません。雀は、最下層の貧乏人が食べるために、市場で売られている、しかも一羽ではなく、二羽まとめて売られる。その値段を主は「二羽の雀は一アサリオンで売られている」と言われ、非常に安いことが強調されます。

アサリオンという貨幣単位は、1日の労働賃金に相当するデナリ銀貨の12分の一です。今日投票が実施されている衆議院選挙でも争点の一つにされているのが「最低賃金を時給1500円にする」です。現在の平均時給は1055円ですから、日当は8440円となり、その12分の1といえばおよそ700円となります。二羽で1アサリオンであれば一羽は350円ですね。ルカ12章には少し違った言い方で「五羽の雀は二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽でさえ、神の前で忘れられてはいない。」とルカは記録しています。これは、二羽でなく、もう二羽の雀をまとめて買うならおまけに一羽つけてくれるということです。

「その一羽さえ」という主の言葉もルカの方が一層値打ちの低さが印象的です。この一羽の雀に、人の心の恐れの原因が暗示されていないでしょうか。それは少数劣等感、英語で言うならなマイノリティー・コンプレックスなのです。少数であることに対する恐れです。少ないこと小さいこと、価値の無いことに対する恐れです。

あの民数記13章の十二人の斥候によるカナン偵察物語が思い出されませんか。出エジプトを成功させた解放者モーセは、ある日、民の中から12人の指導者を選抜し、約束されたカナンの地を偵察するよう派遣しました。モーセは彼らに命じてこう言ったのです。「ネゲブに行き、さらに山に登って、その地がどのような所か観察しなさい。そこに住む民が強いか弱いか、人数が少ないか多いか、、、調べなさい」(17、18節)その結果、調査し終えた十二人の斥候は、どのように報告したでしょうか。32節には彼らがこのように報告したと記録されています。「私たちが偵察のために行き巡った地は、そこに住もうとする者を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民は皆、巨人だった。私たちはそこでネフィリムを見た。アナク人はネフィリムの出身なのだ。私たちの目には自分がバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」これこそ典型的なマイノリティー・コンプレックスです。原住民が巨人と見え、彼らは自分自身をバッタに見立て、徹頭徹尾、恐怖に支配されてしまったのです。人は自分の価値評価を見誤るとき、恐れの罠にはまってしまいます。

  多数劣等感

私は主の語られた御言葉から、もう一つの恐れの原因を、名付けて多数劣等感としました。英語で言うなら、マジョリティー・コンプレックスとでも言ったらいいでしょうか。主がこう言われるからです。「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」(30節)人の頭の髪の毛の数は、平均すると10万本とも14万本とも言われます。数えきれない数ですね。いちいち数える人などいないでしょう。髪の毛は、暑さや寒さから身を守るものです。直射日光や紫外線から頭部を守ります。衝撃からも頭部を守ります。体内の老廃物や有害物質を体外に排出する機能があると言われます。有害物質には水銀、カドミウム、鉛などがありますが、これらを毛髪内に取り込み、体外に排出する働きがあるのです。この大切な頭の髪の毛が多すぎて、自分にとって耐え難いほど負担だと言う人が果たしているでしょうか。

イギリスの有名な伝道者であり、メソジスト教会の創立者であるジョン・ウエスレーは、馬でイギリス全土を移動し、それこそ毎日五回は説教をしたと言われ、教会、学校、事業の経営にも専念し、それは多忙極まりない日々を過ごしていたと言われます。そんな彼にある人が尋ねました、「あなたは、そんなに忙しく立ち働いて大丈夫なのですか?」そう聞かれた彼は「私の頭には数えきれない程 髪の毛があるが、私にとってそれが何の負担にも感じないように、全く問題がありませんよ。」と答えたと言う愉快な逸話が残っているのです。しかし、その逆に、果たすべき役割や責任、仕事、それに抱える問題が自分にとっては、あまりにも過重で多過ぎる人も中にはいるものです。先ほども出エジプトの解放者モーセの話をしましたが、そのモーセ自身が危険なまでに過重に働き過ぎていた事実が、出エジプト記18章に記録されています。

モーセがイスラエルの民をエジプトから解放してからしばくして、モーセの妻チッポラの父親、彼には義父にあたるミデアン人の祭司エトロが、モーセを訪ねる機会がありました。その時、義父のエトロはモーセの仕事ぶりを見て忠告し、こう勧告したのです。

モーセのしゅうとは、彼が民のために行っているすべてのことを見て、言った。「あなたが民のためにこうして行っていることは何ですか。どうしてあなた一人が座に着いて、民は皆朝から夕方まであなたのそばで立っているのですか。」モーセはしゅうとに言った。「民は、神に尋ねるために私のところに来るのです。彼らに問題が起こると、私のところにやって来ます。私は双方の間を裁いて、神の掟と律法を知らせます。」しゅうとはモーセに言った。「あなたのやり方はよくない。あなたも、一緒にいるこの民も、きっと疲れ切ってしまう。これではあなたに負担がかかりすぎ、一人でそれを行うことはできない。」(18章13〜18 節)

その結果、モーセは義父エトロの忠告を受け入れ、自分の仕事を多くの指導者に分担してもらうことにし、彼は最も重要な案件だけを担当するようにしたという物語です。多くのことを一人で抱え込んで、疲れ切ってしまうことがあるものです。自分で増やした結果である場合もあれば、他人から押し付けられた結果である場合もあるでしょう。辞めたくても辞められない、仕方なしに重圧に耐えて恐れつつ仕事や生活をする人がいるかもしれません。教会の中でも知らず知らずに一人の人に奉仕が集中しないように配慮する必要があります。

.恐れの超克

①恐れの危険

主は12弟子達を選び、彼らに別に語られた言葉が 16 節にこうあります。「私があなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り込むようなものである。」弟子たちは狼の中の羊のようであると言われたのです。戦う力のない羊は狼の格好の餌食です。主が弟子たちを狼の中の羊に喩えたのは、弟子たちが多くの恐れに陥る危険性を知っておられたからです。その恐れが自分たちの弱さ、小ささからくることを主は知っておられます。のしかかってくる過重な働きや人間関係からくることを主はご存知なのです。

②超克の示唆

しかし、主は「恐れることはない」と言われるのです。なぜですか。それは恐れを超克する秘訣、恐れに対峙する秘訣があるからです。恐れに対処する道があるからです。その超克する秘訣こそ、29、30節で語られた言葉なのです。「二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。」恐れに対処する秘訣は、言い換えるならば、神様の許容的な御心に信頼することなのです。主は「その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」と言われました。この「あなたがたの父のお許しがなければ」は直訳すれば「あなたがたの父なしには」です。それがお許しなしにはと訳されたのです。飛んでいる雀が地に落ちる、落下するとは雀が死ぬ自然現象です。主は、その自然現象の一つである、雀の落下、雀のささやかな死でさえも、父なる神様の許し無くしては、神様の御心でなければあり得ないと言われたのです。

  主権的許容

と言うことは、それによって実は、とてつもなく重大なことを意味されたのです。それは、自然の中にも、一切合切の森羅万象に神様の意志が働いていると言うことです。私たちは、春夏秋冬という四季の移り変わりの中に、自然の草木山水の美しさに心癒されるものですが、その一方で、能登半島地震の厳しさ、集中豪雨の悲惨な水害被害の残酷無情にもぶつからざるを得ません。しかし、今日、この御言葉によってしっかり識別しておかなければならないことは、私たちが日常使用している自然という言葉は、聖書の啓示する創造主の存在を前提としない概念であるということです。

この自然という用語は、明治時代後半に外国から輸入された英語のネイチャーを日本語に訳した時から使われ、しかも、自然という用語は仏教語の自然(じねん)なのです。そして、仏教の自然(じねん)とは、人間の内側にある「このようにありたい」という理想的なあり方を表すものであって、外側の客観的な生態系ではありません。ですから聖書においては、自然は聖書的に意味づけるべきであって、神様の創造によって存在に呼び出された被造物を意味すると理解し、その一切が神様の支配下に置かれているということなのです。

一羽の雀が父なる神様のお許しがなければ地に落ちることがない、との御言葉によって、そこから見えてくることがあります。それは神様が自然界をもその主権をもって、御心のままに支配しておられるということです。日光、風、雷、稲妻、雨、水、雹、氷、雪、霜、寒さは、いずれもみな神の命令の下にあるのです。太陽や星のような天体も神の御心に従うのです。神の命令のもとに山は動き、地は揺れ、地面は盛り上がるのです。今年の元旦に発生した能登地震で輪島近郊の大地が4メートルも隆起したこともそうです。神様はご自身の慈愛と愛の表現として自然力の恵みを、また訓戒及び懲罰の手段として、自然の破壊力をも用いられるのです。更に、神様は地上のあらゆる国々、諸国家に対して、主権を持って支配しておられます。ウクライナとロシアのせめぎ合いもそうです。イスラエルとハマス、ヒスボラ、イランとの闘争もそうです。そればかりか、すべての個々人に対しても、その誕生、成功、失敗、偶然なこと、些細な出来事、救われること、救われない運命、その人の自由意志で決めた行為のすべても、神様が主権を持って支配しておられるのです。

エレミヤは預言してこう語りました。「主よ、私は知っています。人間の道はその人自身のものではなく、歩く者が自分自身の足取りを、確かにすることもできないことを。」(エレミヤ10章23節)驚くべき告白ではありませんか。神様の主権的支配は、人間の犯す罪や悪にさえも及ぶことを聖書は教えます。神様は罪が完全に現れるのを許されます。また、神様は罪を起こらないように留めるようになさいます。そればかりか、悪の結果や範囲を限定されます。被造物の悪の行為は、すべて神の完全な支配のもとにあることは聖書によって明らかなことです。それらはただ、神の許しがある時にのみ、そして、ただ神が許される限りにおいてのみ、起こりうるのです。

創世記の37章〜50章に渡ってヤコブの息子ヨセフ物語が延々と綴られていますが、それは、まさしく、人間の営みに対する神様の主権的な支配の証言であります。ヨセフは兄たちに憎み裏切られ、エジプトに奴隷として売り渡されました。しかし不思議な神様の摂理によって、やがてヨセフはエジプトの宰相とされます。そこに、飢饉で食糧を求めてパレスチナの地から兄たちがエジプトに助けを求めてくるのですが、劇的な再会が演じられ、ヨセフは兄たちに自分の身分を明かし、彼らにこう証ししました。「ヨセフは兄弟に言った。『さあどうか近寄ってください。』彼らがそばに近づくと、ヨセフは言った。

『私はあなたがたがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのです。この二年の間、この地で飢饉が起こっていますが、さらに五年、耕すことも刈り入れることもないでしょう。神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、この地で生き残る者をあなたがたに与え、あなたがたを生き長らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここへ遣わしたのは、あなたがたではなく、神です。神が私をファラオの父、宮廷全体の主、エジプト全土を治める者とされました。』」(45・3〜8)

更に私たちはヨセフが、父ヤコブが死んだ後で、兄弟たちに語った言葉を創世記50章19、20節にこう読むのです。「ヨセフは言った。『心配することはありません。私が神に代わることができましょうか。あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。』」人の悪をさえ善に変えることのできる配慮ある神様に信頼することが、恐れを超克する秘訣なのです。

「二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。」「だから、恐れることはない。あなたがたは、たくさんの雀よりも優れた者である。」全く値打ちのない一羽の雀にさえ、配慮される神様は、どんなに不条理で理解し難いような出来事であったとしても、そこに愛をもって主権的に働いておられます。頭の髪の毛の数まで一本残らず数えておられる、主なる神様は、あなたの抱える問題が手に余るほど多く、深刻であったとしても、全てを知っておられ、全てを理解され、最善に導こうと働いていてくださいます。「だから、恐れることはない」のです。私たちの日本語には「ゆるし」と同じ発音をしながら全く違う漢字があります。一つは罪の赦しのゆるしです。もう一つが許可を意味するゆるしです。同じ発音でも時間的に指し示す方向が違いますね。

罪の赦しは過去の時間に向けられます。神様は私たちの犯した過去の罪を全てキリストの十字架ゆえに赦し、帳消しにしてくださいます。同じゆるしでももう一つの許しは未来の時間に向けられるものです。その同じ主なる神様は、未来の時間に向かって生きようとする私たち一人一人の行動の全てを愛の御心に従って許容してくださるのです。そのような神様を信じ、イエス様を信じ、祈ろうではありませんか。「だから、恐れることはない。あなたがたは、たくさんの雀よりも優れた者である。」

1020日礼拝説教(詳細)

「希望と平和の計画」  エレミヤ29章4〜14節

「イスラエルの神、万軍の主は、私がエルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に、こう言われる。家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べなさい。妻をめとって息子、娘をもうけ、息子には妻を迎え、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そこで増えよ。減ってはならない。私が、あなたがたを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたがたにも平安があるのだから。

イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなた方のうちにいる預言者や占い師たちに騙されてはならない。あなたがたのために夢を見る夢占い師に耳を傾けてはならない。彼らは、私の名を使ってあなたがたに偽りの預言をしているからである。私は彼らを遣わしてはいないー主の仰せ。

主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたらすぐに、私はあなたがたを顧みる。あなたがたをこの場所に帰らせるという私の恵みの約束を果たす。あなたがたのために立てた計画は、私がよく知っている——主の仰せ。それはあなたがたに将来と希望を与える平和の計画であって、災いの計画ではない。

聖書は今日、エレミヤ29章4〜14節を読みます。キリスト教国際NGOの団体で「ワールド・ビジョン」という団体があります。その英国支部が行ったデジタル調査で、世界で二番目に人気のある聖書の一節に選ばれた聖句が実は、これから読む箇所にあるのです。ちなみに、一番人気があったのは、皆様もよくご存知のヨハネ3章16節です。注意してお聞きください。お分かりでしょうか。そうです。29章 11 節なのです。預言者エレミヤがどのような事情で、この主の言葉を予言したのか、その背景を少し説明しておく必要があるでしょう。

イスラエルは、紀元前1000年頃に、サウル・ダビデ・ソロモンと王朝が続きました。ところがソロモンが死ぬと、国は北イスラエルと南ユダに分裂してしまいました。そして北イスラエルは、やがてアッシリア帝国によってBC722年に滅ぼされてしまいます。一方、南ユダ王国は更に100年存続することができたものの、エレミヤの時代には存亡の危機に直面していました。

BC598には、19代目の南ユダ王国のエコンヤ王は、超大国バビロンのネブカドネザル王により、エルサレムを包囲されて滅ぼされ、王をはじめとする有力なユダヤ人の大半が、バビロンに捕囚とされてしまいました。その際に、ネブカドネザルは、エコンヤ王の叔父マタンヤをゼデキヤと改名させ、ユダの王に任命しています。このエレミヤのバビロン捕囚の民への手紙は、このゼデキヤ王の治世下で送られた文書なのです。

神の民、イスラエルが何故このようなバビロン捕囚の惨めな境遇に陥ったのでしょうか。その原因は非常にはっきりしています。エレミヤ2章13節には、神の民が二つの悪を行ったからだとその原因が指摘されています。「わが民は二つの悪をなした。命の水の泉である私を捨て、自分たちのために水溜めを掘ったのだ。水を溜めることもできないすぐに壊れる水溜めを。」二つの悪とは、第一に神の民が主なる神を捨てたからです。そして第二は、溜めることもできない水溜を自分のために掘ったこと、即ち、彼らが神を捨て偶像崇拝に陥ってしまったからなのです。預言者エレミヤが、エルサレムから、ゼデキヤ王の時代に、距離にして1000キロも離れたバビロンの捕囚の民に書き送った手紙が、この29章の主の預言の言葉なのです。

.生活の落着

その主の預言の第一は、バビロン捕囚の民に対して、その町で落ち着いて生活をするようにとの勧告でした。

  生活落着勧告

4〜7節にこのように語られています。「イスラエルの神、万軍の主は、私がエルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に、こう言われる。家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べなさい。妻をめとって息子、娘をもうけ、息子には妻を迎え、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そこで増えよ。減ってはならない。」彼らは、家を建てて住めと命じられたのです。果樹園を造って実を食べよと命じられます。妻を娶って結婚し、子供を産み育て、その子達もまた結婚させ、子を産ませ、家系を絶やさず増やせと命じられたのです。結婚して子供を産み、その子供も結婚して子を育てる、それは三世代と捕囚生活が続くことを意味するでしょう。言い換えれば、捕囚とされたバビロンの町で、落ち着いて生活をする覚悟をしなさい、ということだったのです。

  偽情報の警告

どうしてエレミヤは敢えてこのようなメッセージを語らせられたのでしょうか。それは、別に預言者と称するハナンヤがエルサレムで立ち上がり、安易な見通しを主の預言と称して神の民に吹聴していたためです。この経緯については、28章全体に詳細が記されておりますから少し目を通してみましょう。2 節にあるように、「「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。私はバビロンの王の軛を打ち砕く。二年のうちに、バビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から持ち去ってバビロンに運んだ主の神殿の祭具をすべて、私がこの場所に持ち帰らせる。」とハナンヤが断言していたからです。そして、その知らせは、遠くバビロンの捕囚民にも聞き及んでいたに違いありません。「もう直ぐ、解放されるぞ、それも二年内に」それは、捕囚の民にとっては、当然朗報以外の何ものでもありません。であるとすれば、こんな外国の不自由な生活は、そこそこにしておいて、直ぐにも帰国できる準備をしておこう、と考えるとしても不思議ではありません。しかし、それは耳障りのいい偽預言でした。

28章の最後を見てください、ハナンヤは神の裁きを受けて、その年のうちに死んでしまったのです。皆さん、何を信じるかということはとても重要なことです。なぜなら、それはその人の生活に大きな影響を及ぼすからです。それはただの教えでは済まされないのです。その人のライフスタイルに大きな影響が及ぶことになるからなのです。

③平安祈祷要請

エレミヤは更に、預言の言葉をこう語り続けます。「私が、あなたがたを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたがたにも平安があるのだから。」(7節)落ち着いて生活基盤を固めるだけではない、主は「その町の平安を求めて祈りなさい」と命じられたのです。その町とは勿論、バビロンです。自分たちを包囲し滅ぼした、言ってみれば憎っくき敵です。それも月の神ネボやベルを偶像として拝み祀る汚れた民族、その敵国の町の住民の平安を祈れと命じられたのです。

バビロンという国名は、ヘブライ語では創世記11章のバベルと同じで、その意味は混乱です。乱れです。聖書でバビロンとは、サタンが支配するこの世の象徴的言葉でもあります。この勧告は旧約でも非常に画期的なものです。そして、それは新約聖書でも、教会に強調されている勧告そのものです。確かに聖書には「世も世にあるものも、愛してはなりません。」(I ヨハネ2・15)と戒められています。しかし、一方で「神は、その独り子を給うほどに、この世を愛された」と教えられているのではないですか。私たちキリスト者は、主を救い主と信じた瞬間から、神の国に霊的に入れられるのですが、現実的には依然として、この世の仕組みの只中に生きるよう定められているものです。

キリスト者は、自分を愛するように隣人を愛し、この世の人々のために祈ることが、義務課題として与えられている、それが聖書の教えです。使徒ペテロは、その手紙2章13節で「すべて人間の立てた制度に、主のゆえに服従しなさい。」と勧めています。そして、使徒パウロもテモテ第一の手紙2章1、2 節に、「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人のために献げなさい。王たちやすべての位の高い人のためにも、献げなさい。」と勧めています。何故でしょうか。その理由をパウロは続けて、「私たちが、常に敬虔と気品を保ち、穏やかで静かな生活を送るためです。」と説明しています。この世にあって、この世の統治者たちのため祈ることが、信じるクリスチャンに祝福となって必ず還元されるからです。神様もまた「その町の平安あってこそ、あなたがたにも平安があるのだから。」と同じことをエレミヤを通して説明されました。

どうしてそう言えるのでしょうか。それは、そのバビロンの町に彼らを捕囚の囚われの民として送り込んだのは、表向きは、バビロン帝王ネブカドネザルであったにせよ、実は、イスラエルの神であるからなのです。1 節では「ネブカドネザルがエルサレムからバビロンへ捕囚として移した」とネブカドネザルが実行主体者としてあるにも関わらず、4 節では「イスラエルの神、万軍の主は、私がエルサレムからバビロンの捕囚として送ったすべての者に」と、真の実行主体が神様だと言われるからなのです。主なる神は万軍の主です。主なる神は全地を支配する主です。ネブカドネザルは、歴史において神の用いる道具でしかないのです。全ては主の御手の内にあるのです。

ご存知のように、今年の我が国の政治情勢は、裏金問題が噴き出してから混乱を極めてきました。政治家の倫理のあり方が問題視されるからです。そんな最中に、10月1日に石破茂さんが総理大臣に就任されました。そして就任早々、国会解散を宣言し、今まさに選挙戦に突入したところで、27日、来週日曜日には国民の審判を受けようとしています。私たちは、私たちの住むこの町のため、この国のため無関心であっていいはずがありません。上に立つ指導者のために祈り、地域住民のために平和を祈ることが求められていることを、今日、改ためて受け止め、覚えておくことにしましょう。

.約束の待望

エレミヤによる捕囚の民への第二の預言のメッセージは、主なる神の約束を待望することです。10節にこう記されます。「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたらすぐに、私はあなたがたを顧みる。あなたがたをこの場所に帰らせるという私の恵みの約束を果たす。」そうです、主はエレミヤを通してバビロンの捕囚の民に「私の恵みの約束を果たす」と確約なされました。この「恵みの約束」を「幸いな約束」とする別訳があります。ですが、これを直訳すると「良い言葉」となります。この約束と訳された言葉は、ヘブライ語で「ダーヴァール」で、エレミヤ書では非常に特徴的な語彙です。その「ダーヴァール」という言葉の根本的な意味は、「行為を伴ったことば」であり、言葉が行為となって現れ、それが出来事になるという意味が込められているのです。そしてその出来事こそ、バビロンに囚われの身となった捕囚の民が、70年の時が満ちたなら、エルサレムの故郷に帰ることになるということなのです。70年とは、おおよそ人の一生です。短いと言えば短い、長いと言えば長い。今直ぐということではない。しかし、必ず時が満ちれば故郷に帰還することになる。それが恵の約束だと確約されたのです。

①約束の計画

そして、その約束こそ、神の計画なのだと、11 節にこう語られるのです。「あなたがたのために立てた計画は、私がよく知っている——主の仰せ。それはあなたがたに将来と希望を与える平和の計画であって、災いの計画ではない。」神は、捕囚の民に、あなたがたのために私は計画を立てていると言われました。計画とは、物事を行うために、その方法・手順などを筋道を立てて企てることです。この度、10月14日の講演会には、元ヤクザを40年稼業としてきたといわれる兼光伸一牧師が語ってくださいました。彼が、ある裁判の進行中に奥様から拘置所に差し入れられたという聖書をパッと開き、創世記1章 1 節を読むに及んで、一大発見をされたと証しされましたね。彼は一瞬にして全ては進化の結果ではない、そうではなくて、神様の創造の結果であることが分かったのです。偶然ではなく、神様の計画の中に、兼光牧師は、自分が確かに生かされていることを悟ることができたのです。

②計画の精通

そればかりかこの預言で、神は私が立てている計画をよく知っていると言われました。聖書はいろいろな訳があるのですが、その一つ岩波書店の聖書訳では、ここを「諸々の計画を、知悉しているからだ」と訳しています。あまり聞きなれない訳です。「知悉(ちしつ)している」とは「精通していること、細かい点まで知っていること」です。素晴らしい訳ですね。私たちが好んで暗記するローマ8章28節を思い出しませんか。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。」ここで、私たちが知っていることが強調されますが、29章11節では、より素晴らしいことに、神様ご自身が、ご自分のお立てになられる計画に精通し、細かい天まで知り尽くしておられることが強調されるのです。

  計画の目的

そして、その計画の目的は、将来と希望を与えることだとはっきりと語られたのです。ここで将来と訳されたヘブライ語はアハリートです。これは「終わり、後に、~の末、最期」と訳されます。つまり神様の計画の目的は、最後が希望となることだと言われたのです。だから、最後は災いではない、絶望ではないのです。神に従う者の最後は途中はどうあれ、最後は希望なのです。途中経過では失望落胆するようなことがあったとしても、終わってみれば希望であったことが分かるのです。そして希望と訳されたヘブライ語のティクヴァーは、その言葉の背景に「待つ」という意味があります。希望とは聖書では、神様からの約束の成就を期待して待つことなのです。

エレミヤの時代に祖国を追われて、1000キロも離れた異国の地、バビロンに捕囚とされた神の民は、どんな心境であったでしょうか。詩篇137編 1 節に歌われていますね。「バビロンの川のほとり、そこに座り、私たちは泣いた。シオンを思い出しながら。」未来に絶望し悲嘆に泣き崩れるそんな神の民に、神様はエレミヤを通して、「バビロンに七十年の時が満ちたらすぐに、私はあなたがたを顧みる。あなたがたをこの場所に帰らせるという私の恵みの約束を果たす。」と希望を約束されたのです。

  終末の計画

ここで私たちはもう一歩踏み込んで、この預言が、実は今を生きる私たちのためであることをも悟らねばなりません。エレミヤはこの時、エルサレム在住でした。その同じ時代に、捕囚となってバビロンに在住していた預言者にダニエルがいました。このダニエルが実に、エレミヤの預言を読み知っていたことが、ダニエル9章を読む時、明らかになります。ダニエル9章1〜3節を読むとこうです。「ダレイオスの治世第一年のことである。メディア出身で、クセルクセスの子であるダレイオスは、王となってカルデア人の王国を支配していた。王の治世第一年、私ダニエルが文書を読んで理解したのは、預言者エレミヤに臨んだ主の言葉によれば、エルサレムの荒廃が終わる年数は七十年だということである。私は神である主に顔を向け、断食し、粗布をまとい、灰をかぶって、祈りを献げ、嘆願した。」この預言者ダニエルは、改めて神の民が捕囚とされるに至った民族の罪を悲しみ、彼は懺悔し祈り、その祈りが延々と 19 節まで続くのです。するとどうでしょう!そこに突然、あの大天使ガブリエルが飛んで来て、彼に触れたというのです。乙女マリアに受胎を告知したあの天使ガブリエルです。そして、ガブリエルは、エレミヤの語った捕囚に関する70年の更なる預言の奥義をダニエルに告げ知らせました。ガブリエルはエレミヤの語った70年を70週に換えて、24節からこう語るのです。「あなたの民と聖なる都について、七十週が定められている。それは、背きを終わらせ、罪を封印し、過ちを償い永遠の義をもたらすためであり、また幻と預言を封じ、最も聖なるものに油を注ぐためである。」エレミヤの預言した70年は、捕囚の民のエルサレム期間と再建預言です。しかしこれは、エレミヤの時代のバビロン捕囚の民の解放を超えた、世の終わりに臨んで、実現する全人類の救いの預言なのです。私たちはこれを「七十週預言」と呼び、1週間を七年と換算することで、490年かけて実現することになる終末預言と理解するものなのです。

このガブリエルの言葉には、人類救済のために救い主が来られることが、25 節に「油注がれた君が来られる」と語られています。そして 26 節には、「六十二週の後、油注がれた者は絶たれ」と、キリストの殉難が語られ、そこに救い主イエス・キリストの十字架が預言されているのです。そればかりか、27 節をもご覧ください。「一週の間、彼は多くの人々と契約を固め半週の間、いけにえと供え物を廃止する。憎むべきものの翼の上に、荒廃をもたらすものが座し、ついに、定められた破滅が、荒廃をもたらすものの上に注がれる。」これは何を意味しているのでしょうか。主イエス様が終末のしるしを語られたマタイ24章の御言葉を思い起こしてみましょう。主は、マタイ24章 15 節でこう語られました。「預言者ダニエルの語った荒廃をもたらす憎むべきものが、聖なる場所に立つのを見たら——読者は悟れ——、」そうです。これは、世の終わりに臨んで実現する大患難の七年のことなのです。「荒廃をもたらす憎むべきもの」とはその時、イスラエルと契約を結ぶべく登場する反キリストのことを指し示すものです。

紀元前600年前後のバビロン捕囚の民の70年後のエルサレム帰還の出来事が、実は、世界の終末に起ころうとする神の救いの業の「型」であり雛形なのです。神様は、エレミヤを通じて、バビロン捕囚の民に、落ち着いて生活をするよう、そして、70年後にエルサレムに帰ることができる約束を期待して待望するよう、語られました。その同じ主なる神様が、今日を生きる私たちに、すでに救い主が来られ十字架に罪の赦しを完成されたことを思い起こさせ、なおかつ、終わりの時に、主イエス様が再び来られる恵みの約束を忍耐強く待ち望むよう語っておられるのです。

私たちの住む世界は、20世紀初頭に全世界を巻き込む第一次大戦、第二次大戦を経験しました。1948年には、不死鳥のようにイスラエルが中東パレスチナに建国されました。戦後に二度の対戦の教訓から国際連合が結成されはしましたが、今現在は、世界の紛争を治める機能をほとんど果たせなくなり、世界はいよいよ混沌の度合いを深めるばかりです。しかし、人間の時間は、神の時間の中に置かれているのです。

南ユダ王国を罰するために、神はバビロンのネブカドネザルを道具として用いられました。私たちの目に見える現実の動きの背後に、歴史を動かされる神様がおられるのです。歴史は神の御手の中に置かれており、神様の計画は必ず実現し成就するのです。

.邂逅の探求

最後に捕囚の民に、バビロンでなすべき最も大切なことが勧告されたことを確認しておきましょう。それは、神を探し求め、神を尋ね求めることです。「あなたがたが私を呼び、来て私に祈るならば、私は聞く。私を捜し求めるならば見いだし、心を尽くして私を尋ね求めるならば、私は見いだされる」(12〜14)捕囚の民となり1000キロ離れた異教の国バビロンには、主の神殿はありません。礼拝をしようにも場所がありません。あるのは月の神様ネボとベル、太陽の神様の神殿ばかりです。その只中で「私に祈りなさい」と主は命じられました。イエス様が言われたことが、古代のこの時代でも語られたのです。

主は言われました。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4章 24 節)神様は霊であり、偏在なさるのであり、どこでもいつでも祈ることができるということです。神を尋ねる、神を探し求める、それは自分の口を開いて、主の御名を呼び祈ることです。14日の講演会で話された兼光伸一牧師は、拘置所で聖書を読み、俄然、神を信じ、祈り始めたと証しされました。彼は、とんでもない場所、裁判進行中の拘置所内の畳三畳の自室で神様を求め祈ると、神様は彼によって見出されたのです。主は、「心を尽くして私を尋ね求めるならば、私は見出される」と約束されます。後のエレミヤ書で、33章ですが、エレミヤ自身が逮捕され、牢獄に閉じ込められ、絶体絶命状態に陥ったその時に、主が個人的に語られるこういう言葉を彼は聞いています。「私を呼べ。私はあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる。」(3節)

人は祈ろうと思えば、どこでもいつでも祈ることが許されているのです。祈り尋ね求める時、神様に邂逅(かいこう)するのです、神にお会いすることになるのです。主は最後に「私はあなたがたの繁栄を回復する。」と約束されました。自分の置かれた状況の只中で、あなたが主を求め祈る時に、主は出会ってくださり、そして、しかるべき仕方で主は必ず、あなたの繁栄を回復してくださることでしょう。

10月13日礼拝説教(詳細)

「流された血の力」  ヘブル9章11〜15

しかしキリストは、すでに実現している恵みの大祭司として来られました。人の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、もっと大きく、もっと完全な幕屋を通り 雄山羊や若い雄牛の血によってではなく、ご自身の血によってただ一度聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。雄山羊や若い雄牛の血によってではなく、ご自身の血によってただ一度聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

雄山羊や雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちにふりかけられて、彼らを聖別し、その身を清めるとすれば、まして、永遠の霊によってご自身を傷のない者として神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ行いから清め、生ける神に仕える者としないでしょうか。

こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された違反の贖いとして、キリストが死んでくださった結果、召された者たちが、約束された永遠の財産を受けるためです。

聖書はヘブル9章11〜15 節をお読みしましょう。この書簡が「ヘブライ人への手紙」と称されるように、これはユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれた手紙であります。旧約聖書に精通していないと、少々わかりにくいきらいがあるかもしれません。しかしその主題ははっきりしており、それはキリストの優位性ということです。

どこの世界でも、誰が優位に立ちトップであるかがいつも注目の的です。先月末の自民党総裁戦でも、九人が立候補し、第一回目では過半数達成者がないため、上位 2 者で決選投票が実施されました。その結果、石破さんが僅差で高市さんを破り当選しました。更に国会首班指名選挙では総理大臣に選ばれ、結果として全国会議員の最優位に立たれました。アメリカではドジャーズに入団した大谷選手が今季大活躍で、打率、本塁打、打点で高得点を挙げ、三冠王、二冠王になろうとして注目を集めています。24年度の日本の長者番付では、5 兆9200億円の柳生正さんが一位です。4兆2000億円の孫正義さんが二位とされていますね。しかし覚えておきましょう、いずれもどの世界でも、人の優位はどこまでも相対的なものでしかないのです。しかしキリストの優位性はそうではありません。絶対的な優位です。圧倒的な優位なのです。

ヘブル書を見れば、キリストは天使に優ると言われます。キリストはモーセに優ると言われます。キリストは大祭司に優ると言われます。比較にならない程に優れておられるのです。何故でしょうか。それはイエス・キリストが神の御子であられるからです。誰とも比較の対象とはなられない方だからなのです。今日お読みした聖書箇所のテーマといえば、そのすべてにまさって優れた神の御子イエス・キリストが、十字架上で流された血であり、その血に力があるということです。14 節にこう語られます。「まして、永遠の霊によってご自身を傷のない者として神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ行いから清め、生ける神に仕える者としないでしょうか。」イエス・キリストは、ローマ総督ピラトによって死刑を宣告され、40に一つ足りない鞭打ちを受け、ゴルゴダの丘で十字架に磔られ、最後に脇腹を槍で突き刺され、その全身から血を流されました。

1.宥(なだ)める力

その十字架で流されたキリストの血の力の第一は、神を宥める力であります。聖書はこう語ります。「愛の内に歩みなさい。キリストも私たちを愛して、ご自分を宥めの香りの供え物、また、いけにえとして、私たちのために神に献げてくださったのです。」(エペソ5・2)聖書はこうも語っています。「この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。」(I ヨハネ2・2)この宥めるとは、怒りや不満などをやわらげ静める行為を意味します。聖書は、神様が人間の犯す罪を怒っておられると言います。その人間の罪に対する神の怒りを宥めるためにキリストが十字架で血を流されたのです。しかし、日本人にはほとんど絶対者なる神概念がありません。特に日本人は罪意識よりも恥意識の方を重要視する傾向にあると言われます。

「人に迷惑をかけていなければ良いじゃないか」、「だれも見ていないから良いだろう」というところが多分にあるのです。ある人が、子どもを連れてスイカ泥棒に行きました。子どもに見張りをさせて、食べごろのスイカを叩きながら、さがしていました。すると、子供が突然、「お父さん。見ているよ!」と叫びました。「だ、だれか来たのか?」とお父さんが聞きました。子どもは「神様が、見ているよ!」と答えたそうです。その子は、日曜学校に行っていたので、絶対者なる神様を知っていたのです。

この子供のように幼い頃から神様を知っていたはずのイスラエルのダビデが、王権を握って頂点に達したその時に、気が緩み姦淫の罪を犯し、その罪をもみ消すために殺人の罪をも犯してしまった出来事が聖書に詳細に記されています。ダビデは兵士ウジヤの美しい妻バテシバに惹かれて姦淫の罪を犯し、彼女が妊娠したことを知ると、揉み消し工作を企み、その夫である兵士ウジヤを激戦地に送り込ませ、戦死させてしまったのです。しかしながら、その悪事は白日のもとにさらされることになりました。神様が預言者ナタンを遣わし、ダビデを糾弾されたのです。「イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注ぎ、イスラエルの王としたのは私である。私はあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主人の家をあなたに与え、主人の妻たちをあなたの懐に与え、イスラエルとユダの家をあなたに与えた。もし不足ならば、私はいくらでもあなたに与えたであろう。なぜ、主の言葉を侮り、私の意に背くことをしたのか。あなたはあのヘト人ウリヤを剣にかけ、彼の妻を奪って自分の妻とし、アンモン人の剣で彼を殺した。それゆえ、剣はあなたの家からとこしえに離れることはない。あなたが私を侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからである。』」(II サム12・7−10)

この時のダビデの衝撃的な経験をうたったのが詩篇51編です。そこで彼はこう告白しています。「私は自分の背きを知っています。罪は絶えず私の前にあります。あなたに、ただあなたに私は罪を犯しました。あなたの前に悪事を行いました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。私は過ちの内に生まれ母は罪の内に私を身ごもりました。」誰であっても、その人に罪の意識があってもなくても関係ありません。義なる神様は人の罪を怒り、罪を必ず罰しないではおかれません。「罪を犯した魂は必ず死ぬ。」(エゼキエル18・4)「罪の支払う報酬は死である。」(ローマ6・23)と聖書は語ります。その人間の罪に対する神様の怒りを宥めるために、イエス・キリストが、十字架に血を流されたのです。「血を流すことなしには赦しはありえない」(ヘブル9・22)からです。何故なら、血は命そのものであるからです。「すべての肉なるものの命はその血であり、それが命の代わりとなる」(レビ17・14)

私たち人間の体を流れている血液量は、体重の8%ほどです。赤血球は酸素を摂取し炭酸ガスを排出させています。白血球は病原菌と戦い撃退します。血小板は出血を止めるため作用します。その血の機能は現代生理学で研究し尽くされています。その三分の一を失うと生命に危険が及ぶと言われます。

聖書は血を命の象徴としており、血をすべて流出することが死を意味するとしています。十字架にキリストがその血のすべてを流されたのは、人間の罪に対する神様の怒りを宥めるためであったのです。14 節で「まして、永遠の霊によってご自身を傷のない者として神に献げられたキリストの血は」と言われる神に捧げられたキリストの血は、怒りの宥めの供物なのです。神様は、この十字架の宥めの供物である血のゆえに、人間に罪の赦しをもたらされました。私たちが今日、神様に近づける根拠は、ただ十字架のキリストの血の故です。それ以外にあり得ません。主に感謝しましょう。ですから聖歌426番 1 節で私たちはこう歌うのです。「十字架にかかりたる 救い主を見よや こはなが犯したる罪のため ただ信ぜよ ただ信ぜよ 信ずる者は たれも皆救われん」その通りです。ただ信じましょう。十字架で流されたキリストの血により、罪赦されて、私たちは神様に大胆に近づき礼拝することが許されているのです。

.退ける力

更に第二に、十字架で流されたキリストの血の力とは、神と人の敵であるサタンを、撃退する力があるということです。

サタン、別名、悪魔が最も喜ぶことをご存知ですか。それは人が「悪魔など、サタンなど架空の想像の産物であって、実際には存在することなどあり得ない。」と信じることです。それはとんでもない誤解です。サタン、悪魔はれっきとして存在し、活動しているのです。それが聖書の教えです。

第一に、イエス様ご自身がサタンの存在を指摘されました。「「シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。」(ルカ22・31)

第二に、使徒パウロもサタンの存在をはっきり指摘しています。パウロが偽の働き人について警告した時、こう語りました。「しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らの最期は、その仕業に見合ったものとなるでしょう。」(II コリ11・14、15)

第三に、使徒ヨハネも言います。「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は初めから人殺しであって、真理に立ってはいない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、偽りの父だからである。」(ヨハネ8・44)

第四に、使徒ペテロもサタンの存在をこのように厳しく警告しています。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと歩き回っています。」(I ペテロ5・8)

そうです。サタン、または悪魔は神と人との敵なのです。そして元来サタンと言うその名そのものが「敵対者」という意味なのです。このサタンがどのように私たちに敵対するのかを、黙示録12章9、10節で、ヨハネは見事にこのように指摘しています。「この巨大な竜、いにしえの蛇、悪魔ともサタンとも呼ばれる者、全人類を惑わす者は、地上に投げ落とされた。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。そして私は、天で大きな声がこう語るのを聞いた。『今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。』我々のきょうだいたちを告発する者、我々の神の前で昼も夜も彼らを告発する者が投げ落とされたからである。」サタンが人に敵対するとは、神の前で私たちを告発する者だということです。人の罪過ちを神の前に訴えることです。

先週の礼拝ではヨブ記42章からメッセージを語りました。その時、サタンに触れることはありませんでした。しかし、ヨブの苦難の発端にはサタンの介入があったのです。1章2章には、天上における御前会議が記されており、そこにサタンが現れ、神の前でヨブが告発されているのです。「ヨブが信心深く見えるのは、理由があるからですよ。神よ。あなたがヨブに何もかもよくしてやったからですよ。取り去ってご覧なさい。たちまち、あなたを呪うことでしょうよ。」とサタンが、したたかに告発しているのです。サタンは、私たちが罪過ちを犯すと忽ち、神様に訴える、そういう敵対者なのです。そればかりか、サタンの手下である悪霊達が、こっそりと私たちに忍び寄り、耳元に、「お前はこんな卑劣な罪過ちをしでかしたのだから、もう許されることは絶対にないぞ。滅びるばかりだ。教会に行く資格も、奉仕する資格もないではないか。」と囁くことでしょう。しかし、私たちには感謝なことに、絶対的にサタンと悪霊を撃退し勝利する力が与えられているのです。それがキリストの血なのです。ローマ8章31節にこう語られます。「では、これらのことについて何と言うべきでしょう。神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。」続いて33、34 節でこう語られます。「誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。誰が罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです。」

ある時、宗教改革者ルターは、サタンから訴えられました。有名な逸話です。サタンは、白い壁一面に、ルターが犯した罪を洗いざらい、書き上げました。そこには、自分が忘れていた罪も示されていました。ルターは驚きました。しかし、ルターはサタンに対して「お前が示した罪は正しい。まったく私はそういう者である。しかし、お前が見逃していることがある。それは、イエス・キリストの血によって、私の罪がすべて赦されたことである。サタンよ、引き下がれ!」と言って、赤いインクを壁に投げつけたそうです。私は、ドイツのヴィッテンブルク城の建っているその町で、開催された夏の集いに参加した際に、ルターの住まいのその部屋を見てきました。「この部屋でルターはインク壺を投げたのです」と案内されました。私たちは罪深い罪人であることに間違いはありません。しかし、忘れてならないことは、罪人は罪人でも赦された罪人であることです。サタンの惑わしの囁き声が聞こえたら、こう言って撃退してください。「その件はキリストの血によって既に、解決済みだ。文句があるなら、キリストのところに行け!」そう言って撃退してください。パウロもエペソ6章で勧めています。「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるように、神の武具を身に着けなさい。」ヤコブも勧めます。「ですから、神に従い、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4・7)そうです。キリストの血にはサタン、悪魔を撃退する力があるからなのです。

.清める力

キリストの流された血の素晴らしいもう一つの力があります。それこそ、キリストの血が、私たちの良心を死んだ行いから清めることができるということです。14 節をもう一度ご覧ください。「永遠の霊によってご自身を傷のない者として神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ行いから清め、生ける神に仕える者としないでしょうか」

この良心の日本語の語源を調べると、もとは、単純に「良い心」の意であったが、日本国憲法制定時に conscience の訳語として、「良心」を当てたことから、倫理観に相当する意を有するようになった、と言われているのです。一般的には、人が内心において、倫理的な理非判断する基準とされるものです。良心とは、自身に内在する価値観に照らして、ことの可否ないし善悪を測る心の働きのことなのです。この良心の機能に逆らって何かしら過ちを犯すと、「良心の呵責を覚える」とか「心に責められる」と私たちが言うのはこの良心の機能なのです。聖書で言う所の良心とは、ギリシャ語では「共に」と「見る」の合成語で、スンエイドンが使われています。英語で良心のことはコンシャンスと発音しますが、これはラテン語のコンシエンタから由来しており、これも「共に」と「知る」の合成語です。と言うことは、良心とは本来、何かを基準にして一緒に見る、一緒に知るという機能であることが分かります。それは同時に、何を基準にするかによって、良心の機能は左右されてしまうことを意味することになります。

良心は、善悪を判断するために、人間に与えられた神の恵みではありますが、現実には、この世界は、時代とともに道徳的価値基準がどんどん変化していくため、必ずしも良心が適切に機能するとは限らないのです。この 14 節で語られている「私たちの良心を死んだ行いから清める」と言うことは、私たちの良心が健全さを失っているということです。この善悪を判断する良心は、聖書によれば、アダム以来、罪によって汚れた良心に、邪悪な良心に成り下がってしまいました。良心とは「共に見る」あるいは「共に知る」機能であるとするなら、罪によって、神と共に見る、神と共に知ることができなくなってしまっているのです。確かな機能を果たすことができなくなっているのです。この世の基準、この世の道徳的物差し、この世の伝統文化、時代の変化によって、神の目からは人間の良心は機能麻痺状態なのです。

聖書には入れられていませんが、新約聖書外典の「12使徒の教訓」には、死に至る道と命に至る道が教えられており、死に至る道はこうだと書かれています。「まず第一に邪悪であり、殺人、姦淫、情欲、淫蕩、窃盗、偶像崇拝、魔術、毒殺、強奪、偽証、偽善、虚偽、陰険、傲慢、強情、貪欲、誹謗、嫉妬、横着、不遜、自負、厚顔などで呪いに満ちている。」これらが、清められなければならない人の「死んだ行い」です。正しい基準を失った汚れた良心、邪悪な良心であるならば、人がこのような死んだ行いをするとしても、良心の呵責を覚える機能を果たすことが困難であると言うことです。これは本当に恐ろしいことです。

これは極端な例でしょうが、第二次大戦中、ポーランドのアウシュビッツ収容所で600万のユダヤ人がガス室で虐殺された際に、そこで毎日勤務していた男女の作業員の良心は一体どうだったというのでしょうか。ユダヤ人たち全員を素裸にしてガス室に閉じ込め、殺害した後の遺体から、彼ら従業員は、口を開いて金歯を抜き取り、女性の髪の毛を製品の材料とするために切り取り、死体焼却炉から熱で滲み出る体脂肪を集めて石鹸を作っていたというのです。これは想像するしかありませんが、恐らく採用されて作業に従事する最初の頃は、心が痛んだかもしれない。しかし、時間の経過と共に、慣れて何も感じなくなってしまったに違いないのです。

しかし、人がイエス・キリストを救い主として信じ、心に迎え入れる時、何が起こりますか。イエス様が十字架で流された血によって、汚れて機能を失った良心が清められるのです。それまでの価値基準、道徳基準ではなく、神様の御言葉を基準として、自分の言動の善悪を判断することができるように回復してくださるのです。そればかりか、10章 22 節をご覧ください。「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」キリストの血は、私たちと神様との間にある罪責感、罪意識をも取り除いてくださるということです。キリストを信じたから罪過ちを犯さなくなるということではありません。完全・完璧な人間になることではありません。赦された罪人であり、生きている間、罪の誘惑に負けることもあります。しかし、それでも神様から引き離されてしまうのではありません。I ヨハネ1章8、9節

「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」どうして清めてくださるのですか。キリストの血によるのです。悔い改めるなら、十字架の血が清めてくださるのです。不思議な経験です。罪責感・罪意識・良心の呵責から解放され、神様の前に出ることができるのです。

「永遠の霊によってご自身を傷のない者として神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ行いから清め、生ける神に仕える者としないでしょうか。」キリストの血は神様を宥(なだ)める力です。キリストの血は、狡猾なサタンを撃退する力です。そしてキリストの血は、良心を清め、私たちを活ける神に仕える者とする力なのです。十字架の言葉は滅び行く者には愚かであっても、救いに預かる私たちには神の力である、と言えるのは、キリストの血の力のゆえです。この新しい週をも、キリストの血の力に預かり、主と共に愛の内に生かしていただこうではありませんか。祈ります。

106日礼拝説教(詳細)

「わからなくていい」  ヨブ記42章1〜6節

ヨブは主に答えた。

「私は知りました。あなたはどのようなこともおできになりあなたの企てを妨げることはできません。『知識もないまま主の計画を隠すこの者は誰か。』そのとおりです。私は悟っていないことを申し述べました。私の知らない驚くべきことを。

『聞け、私が語る。私が尋ねる、あなたは答えよ。』私は耳であなたのことを聞いていました。しかし今、私の目はあなたを見ました。それゆえ、私は自分を退け塵と灰の上で悔い改めます。」

聖書は今日、旧約聖書ヨブ記42章1〜6節を読みます。ヨブ記は聖書の中でも とっても長い文章なのでヨブ記(読む気)がしないと言われるかもしれません。しかし今日の箇所はその極一部なので、どうぞ我慢してお聞きください。このヨブ記のテーマは、一言で「どうして正しい人が苦しまなければならないのか」と言えるかもしれません。

1.ヨブの苦難

私たちがヨブ記の1章2章を読むと、古代の一人の人物ヨブが、とてつもなく厳しい苦難を経験したことを知ります。

  ヨブの横顔

ヨブがいかなる人物であったか、それは、1章1〜3 節に記されたプロフィルよって3つ明らかにされています。

第一にヨブは人格的に大変申し分のない人でした。

第二にヨブは子宝に恵まれ、7人の息子と3人の娘がいました。

第3にヨブは大変な財産家で裕福でした。

そして3節の最後には、ヨブの人柄が「この人は東の人々の中で最も大いなる人であった。」と形容されているのです。

それに加えてヨブを特徴づけていたのは、彼が神様から「私の僕ヨブ」と呼ばれ、最高の称号が与えられていたことです。ヨブは神に愛されていました。信頼されていました。神様に祝福された稀に見る優れた人物だったのです。

  ヨブの災難

ところが、ある日突然、ヨブに災難が襲いかかりました。その激烈な災難によってヨブは大切な三つのものを一挙に失ってしまいます。

第一に彼の貴重な財産であったおびただしい家畜の群れが、暴力によって奪い去られてしまいました。

第二に彼の大切な家族、10人の息子娘が突然襲った暴風で倒れた家の下敷きになり死んでしまいました。

第三に彼は酷く悪性の皮膚病に侵され健康を著しく損ねてしまいました。

今年に入って早々、1月元旦に能登半島を襲った大地震の凄まじい被害状況は、私たちの記憶にまだまだ新しいものがあります。先月末、28、29日に被災者支援活動で現地入りされた四人の兄弟たちは、その凄まじさを肌で実感されたことでしょう。地震では341人が、最近の集中豪雨では11人が死亡し、家屋倒壊、河川氾濫、道路寸断の被害状況は凄まじいものがあります。その回復・復旧の速やかならんことを。私たちは祈るばかりです。

  ヨブの悲嘆

この激烈な災難に襲われたヨブの心境、察して余りありますね。この災難に対する彼の反応の第一は、何と驚くべきことに、神への賛美でした。「私は裸で母の胎を出た。また裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の名はほめたたえられますように。」(1・21)凄いと思いませんか。第二の反応は、災難の受容でした。ヨブが財産と子供を失い、病気のどん底に突き落とされたその時、彼の妻が「あなたは、まだ完全であり続けるのですか。神を呪って死んでしまいなさい。」と辛辣に彼をなじりました。するとヨブは「あなたは愚かな者が言うようなことを言う。私たちは神から幸いを受けるのだから、災いをも受けようではないか。」(2・10)と踏みとどまることが出来ました。彼は神を呪い、罪を犯すようなことはしなかったのです。しかしそれでも、しばらくすると、ヨブは深刻な悲嘆に暮れてしまうのです。彼は神を呪うようなことはしません。

しかし彼は自分の生まれた日を呪ったのです。「この後、ヨブは口を開いて、自分の生まれた日を呪った。」(3・1)そして、その呪いは、「私の生まれた日は消えうせよ。男の子を身ごもったと告げられた夜も。」から始まり、その嘆きは「私は安らかではなく、憩うことはない。私に休息はなく、心は乱されている。」(3・26)で閉じられています。何故ヨブは自分の誕生を呪ったのでしょう。なぜそれまでに心が乱れたのでしょう。それは、何故このような悲惨な災難に、よりによって自分が遭遇しなければならないのか、その理由が分からなかったからです。

  ヨブの友人

そのようにヨブが酷く落ち込んでいたその時でした、渦中にあるヨブを慰めようと、三人の友人達が訪ねてきました。彼らのヨブに対する友情の篤いことは、彼らが悲惨なヨブの有り様を目撃した際の反応で分かります。(2章 11 節から)ご覧ください。彼らは心を痛めて座り込み、丸1週間、語る言葉もなかったというのです。

ところが、彼らがヨブの切々と語る嘆きの言葉を聞くに及んで事態が一変してしました。三人の友人とヨブの間に激しい論争が勃発してしまったのです。それは彼らが、ヨブの悲嘆の言葉を聞いているうちに、ヨブが何故こんな悲惨な災難に遭ったのか、その原因を全く悟っていないと判断したため、ヨブを説得するためでした。そのヨブへの説得は、三人が交代で変わるがわるヨブに語りかけ、それに対してヨブが反論するというやり方でした。何とそれが4章〜37章まで続くのです。

三人の友人たちが、この厳しい災難の根本原因はここにあると、ヨブに語った要点は、最初の友人エリファズが語った、4章7、8節の言葉が代表していると言ってもいいでしょう。「思い起こしてみよ。罪がないのに滅びた者があったか。正しい人で絶ち滅ぼされた者がどこにいたか。私の見たところ、不義を耕し、労苦を蒔く者はそれを刈り取っている。」これは言ってみれば単純な因果応報の論法です。ヨブがとてつもない災難に遭遇した原因は、ヨブが犯した罪過ちにある。ヨブはその結果を刈り取って苦しんでいるのだ。だからヨブよ、罪を改めて神に立ち返れ、そういう趣旨だったのです。

しかし、この主張をヨブは到底容認することをしません。何故なら、冒頭に紹介されていたように、「この人は完全で、正しく、神を畏れ、悪を遠ざけていた。」ヨブの人となりは申し分なかったからです。三人の友人たちの弁論が延々と続けられるとヨブはたまりかねて、こう叫びます。「あなたがたは偽りを上塗りする者。あなたがたは皆、無用の医者だ。どうか、黙っていてくれ。それがあなたがたの知恵であろう。」(13・4、5)医者は病人の症状を診断・分析し、病名を確定すると処置・処方し、病気を癒すものです。しかし、ヨブは、彼らを医者に喩えて「無用の医者だ」と決めつけてしまいました。

私たちは、自分自身が無用の医者にならないように気をつけなければなりません。苦しんでいる人、悩んでいる人、困窮する人、泣き悲しんでいる人を見ると、善意の気持ちから、何とか助けてあげたいと思うことがあります。そして、客観的に自分なりに、その人の取り巻く状況・原因を分析し、対処の仕方を示して、助けてあげたくなるものなのです。しかし、真の意味で、その人の陥っている全ての状況を、第三者が完全に知ることなど、本当はできない相談なのです。無用の医者にならないよう気をつけなければなりません。

私たちができること、なすべきことは何でしょうか。聖書のローマ12章 15 節の一言に要約されているのではありませんか。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」全てが分からなくていいのです。その人の側近くに寄り添ってあげることでいいのです。黙って聞いてあげることでしょう。その打ちひしがれた感情を、心底から同情同感する姿勢ではありませんか。

.ヨブの按排

このとてつも無い災難に遭遇したヨブに、やがて主なる神様が語りかけてくださったことを、38章から読み進むことで私たちは分かってきます。第一回目の語りかけが38章から始まり、第二回目は40章から始まっています。そして、その語りかけに対するヨブの最終的な答えが、実は今日の聖書箇所なのです。

  ヨブの告白

ヨブは友人たちとの論争では、自分の被った災難が、自分の犯した罪過ちの結果であるとする彼らの主張には、断固として反駁・反論しました。では、何故、このように次々と災難が降りかかったのか、ヨブは説明することができません。理解することができません。ところが、神様のねんごろな語りかけによって、ヨブは一つの結論に至るのです。それをヨブは 2 節にこう表明しました。「私は知りました。あなたはどのようなこともおできになりあなたの企てを妨げることはできません。」これは神様が全能であるという信仰の告白です。どうしてヨブがこの神様の全能である確信に至ったのでしょう。それは、神様がヨブに次々と天地創造の仕組みを語られ、問いかけられたからです。38章4節の最初の問いかけを開いて読んでみましょう。「私が地の基を据えたときあなたはどこにいたのか。それを知っているなら、告げよ。あなたは知っているのか誰がその広さを決め、誰がその上に測り縄を張ったのかを。」勿論、ヨブがその時、そこにいた訳がありません。

思い返せば、1月元旦に襲ったあの能登半島地震は強烈でしたね。今回はただ大地が揺れただけではありません。大地の一部が隆起する現象が起こったと報じられました。輪島市に隣接する海岸一帯が、高い所では何と4メートルも全体が隆起している。そこに人が立ち見上げている写真を私も見て、正直、驚きましたね。日本列島には、至る所に活断層が走っていて、地震がいつ起きてもおかしくはない構造になっていることを私たちは知っています。

主はヨブに優しく、次々と問いかけるのです。夜の星、深い海、光と闇、雪と雹、そして、大小様々、バラエティに富んだ動植物に言い及ばれます。38章41節にカラスのことを神様が語られる時に、私自身複雑な気持ちになるのですね。「烏の子らが神に叫び求め食べ物がなくてさまようときに、烏に餌を備えるのは誰か。」この泉佐野に住み着いて9年が経過しましたが、生ゴミを捨てる際のカラスとの格闘は凄まじいものがありましたね。何故か、私の家の前のゴミだけが狙われ、食い散らかされるのです。網を掛け、裾に石を載せてもひっくり返されるのです。とうとう三度目の正直、今度は黒い折り畳みの四角いネットを購入しました。やりました!これで勝利です。しかし、カラスにも小烏がいるのですね。親ガラスは養う責任があるのですよ。かわいそうな気もします。

  ヨブの按排

ヨブは、この神様の語りかけを聞くうちに分かったのです。神様は災難が何故起きたのか、その理由を直接語ることを全くなされませんが、ヨブは、神様は全能のお方であって、自分の身に起こった全ても神様の企てであることが分かったのです。ヨブが体験した災難の全ては神様の按排(あんばい)だったのです。別の塩と梅を合わせた塩梅は味加減のことですが、この按排とは程よく並べることを意味する言葉です。ある日、突然に乱暴な部族が襲いかかって家畜財産を奪い取る出来事。息子娘たちが一つ屋根の下で、楽しく会食をしているとき、突然大風が吹いて家が潰れてしまう出来事、一瞬にしてヨブの全身が腫れ物でただれてしまうこと。友人たちが本当は彼を慰めようとして訪ねてきたのに、結果としては大論争になってしまったこと。これらは、偶然ではなかったのです。それは、神様が企画され、神様が按排され、程よく並べられた出来事の連続であったということなのです。ヨブが何かとてつもなく悪いことをしたから懲らしめようと、神が罰せられたのではありません。であるとすれば、何故、このような災害が起こることを神様が許容されたのでしょう。

  按排への対応

その理解の鍵となるのが、3 節ではありませんか。ヨブはかつて神様が語られた言葉、「知識もないまま主の計画を隠すこの者は誰か。」これをここに引用し、「そのとおりです。私は悟っていないことを申し述べました。私の知らない驚くべきことを。」と主に答えているのです。私たちは、1章 8 節で、主がヨブを「地上には彼ほど完全で、正しく、神を畏れ、悪を遠ざけている者はいない」と評価されていたことを知っています。しかしながら、もう一歩進んで、この 3 節の引用された主の言葉によって、主がヨブを「知識もないまま主の計画を隠す者」とみなしておられたことをも知らされるのです。「主の計画を隠す者」とは、主の目には、神様を邪魔する者であるということです。つまり、ヨブは、本当の意味では悟ってもいない、本当の意味では分かってもいない神に関わる事柄を、自分では分かっているつもりで、とうとうとまくし立てることによって、神様の邪魔をする者になっていたということなのです。ヨブの問題は、確かに彼の罪や、この世や、良心の問題ではありません。本当の彼の問題は、彼自身だったのです。彼の砕かれていない己れ、自我が神を知ることを妨げていた、それがヨブの問題だったのです。

私は、21歳で牧師になり、それ以来58年間も教会の働きに携わってきましたが、自分を含めて教会の中では、多くの人がこのヨブのようなのです。ヨブのようなタイプの人たちは、罪に染まった様子もないし、この世を愛してもいません。彼らは、いつも自分が正しいと思っています。この己に満ち満ちた人、自我の強い人が、しばしば教会に多くの困難をもたらすのです。

ペテロも己に満ちている一人でした。多くの機会に自分の意見を堂々と述べる人でした。最後の晩餐を終えてオリーブ山に移動しつつ、主イエスが、「今夜、あなたがたは皆、私につまずく。」と言われると、ペテロはすぐ様、「たとえ、皆があなたにつまずいても、私は決して躓きません」と断言しています。主イエスの前でペテロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白した直後に、主が受難を予告され、ご自分がエルサレムで殺され、復活すると語られると、ペテロは、すぐ様に、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とイエスを諌めてしまいます。イエスは彼を叱責し「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている」と退けられました。己れ、自我とは考えや意見に現れる魂の生命です。それはしばしば神の働きを邪魔し、神のなさろうとする計画を覆い隠す作用となってしまうものなのです。

マルチン・ルターは宗教改革において、時のローマ法王と辛辣に対決しました。その彼がこう言っています。「私の内には、ローマ法王より偉大な法王がいる。それは私の己れだ」ルター自身が自分のことをそう言ってはばかりません。だからこそ、主は私たちの己、自我に対処しようとされるのです。主が「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。」(マタイ16・24)と言われたのはその意味です。

先週水曜日に、北陸の長男の順一牧師からメイルで、先週実施された能登地震被災者支援活動のスナップや動画を沢山送ってきてくれました。その中の何枚かは、アーサー・ホーランド師が持参された手作りの十字架を担いで珠洲市内を更新する動画でした。小さな車が付いて引きやすくなった十字架です。主は「自分の十字架を担え」と命じられます。己れ、自我に死ななければ主に付いて行くことができないです。そうでなければ、自分の強い意見や考えによって、主のなさろうとされる計画が覆い隠されてしまうのです。至ってその熱心が主を邪魔する働きとなりかねません。それ故に、主は、あなたの自我が取り扱われるために、すべての環境を按排されるのです。

神さまは、両親、夫や妻、子どもたち、教会や同労者を按排しておられます。事故や病気すらも程よく並べておられるのです。それによって、私たちの己れ、自我が取り扱われるのです。使徒パウロがいつか語ったあの I コリント8章2節もそのことを語っています。「ある人が、何かを知っていると思っているなら、その人は、知らねばならないように知ってはいないのです。」非常に厳しい言葉です。知ったかぶって軽々しく自分の意見を押し付けたりすることを避けることにしましょう。

.ヨブの忍耐

最後に、私たちはこのヨブの神への答えにおいて、この苦難を通して忍耐を学んだことを知るのです。ヨブは、「私は耳であなたのことを聞いていました。しかし今、私の目はあなたを見ました。」(4 節)と答えているからです。

  ヨブの信仰

ここにヨブの中に、神を知る知識の大いなる飛躍があったことを知ります。試練に会う以前の神知識は、噂を耳で聞くようなものだったが、試練を経た今は、あたかも直接に神様を目で見たようだと言うのです。以前には頭で教理的に知っていたことを、今は体験的に知ることができました、というのです。

  ヨブの忍耐

新約のヤコブ5章 11 節は、ここのところを押さえて語っているのでしょう。「私たちは忍耐した人たちを幸いな者とたたえます。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主がもたらした結末を知っています。主は憐れみに満ち、慈しみ深い方です。」忍耐という言葉は、何かの下に留まり続けるという意味です。ヨブの人となりは、神を畏れ信じる敬虔な信仰者でした。そればかりか、ヨブは、洪水のように押し寄せる厳しい災難に遭遇しても、神を信じる信仰にとどまり続けたのです。財産を失い、それこそすってんてんになっても、「私は裸では母の胎を出た。また裸でそこに帰ろう。」と神を呪わず、彼は信仰に踏みとどまりました。全身腫れ物に覆われ、妻から見捨てられても、「私たちは神から幸いを受けるのだから、災いをも受けようではないか」と神を呪わず信仰に踏みとどまりました。そればかりか、力強くこう告白していたのです。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に塵の上に立たれる。私の皮膚がこのように剝ぎ取られた後、私は肉を離れ、神を仰ぎ見る。この私が仰ぎ見る。ほかならぬ私のこの目で見る。私のはらわたは私の内で焦がれる。」(19章25〜27節)

キリストが現れ、十字架の贖いと復活の業をなされる遥か遥か以前に、ヨブがこのような確信を持ち得たことは驚きです。ヨブはこの恐るべき災難をかいくぐる経験を通して、神への信仰に踏み留まり続けたのです。その結果、ヨブはそれまでに経験したことのない神経験へ導き入れられました。そればかりか、人間としての確かな謙遜さを身につけることができたのです。

  ヨブの回復

ヨブは 6 節にこう神に答えていました。「それゆえ、私は自分を退け、塵と灰の上で悔い改めます。」ヨブは自分を退けると言うのです。自分は神に造られた被造物に過ぎず、塵と灰同然だと言って、神の前にへりくだったのです。「神は高ぶる者を退け、謙る者に恵みを給う」そうです。その結果、ヨブの繁栄は、見事に回復されました。10節以降を見てください。「ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄を回復した。そして、主はヨブの財産すべてを二倍に増やした。」二倍にするとは償うことです。主は彼の財産を二倍にされ、彼の寿命を二倍にされ、280年生きたというのです。ヨブは老いた後、「生涯を全うして死んだ」それは、満足死です。アブラハムがそうであったように、信仰の人は満足して死ぬことができるのです。ヤコブはヨブについてこう結んでいますね。「あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主がもたらした結末を知っています。主は憐れみ満ち、慈しみ深い方です。」(ヤコブ5・11)詩篇119編71節にこう記されています。「苦しみに遭ったのは私には良いことでした。あなたの掟を学ぶためでした。」不条理な理解し難い苦しみに遭遇することは、時に堪え難い苦痛です。しかし、全てがわからなくてもいいのです。なぜなら、神様にはどのようなこともおできになり、私たちに理解し難い苦しみをも按排され、目的に向かって必ず導いてくださるからなのです。この新しい週の歩みも、全てがわからなくても、全てを知り按排し、導いてくださる主に信頼して進み行くことにいたしましょう。