1124日礼拝説教

「王なる主の来臨」  マタイ25章31〜46節

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そうして、王は右側にいる人たちに言う。

『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

すると、正しい人たちが王に答える。

『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、喉が渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、見知らぬ方であられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。

『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。』」

それから、王は左側にいる人たちにも言う。

『呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその使いたちに用意してある永遠の火に入れ。あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせず、喉が渇いていたときに飲ませず、よそ者であったときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、世話をしてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。

『主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、渇いたり、よその人であったり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お仕えしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。

『よく言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである。』こうして、この人たちは永遠の懲らしめを受け、正しい人たちは永遠の命に入るであろう。」

私たちはクリスマスを祝う季節に、キリストの再臨を想起する。御子の初臨の目的は再臨にある。主は「然り、私はすぐに来る」と約束された。十字架の罪の赦しの救いが王として再臨される主によって完成される。

国を統治する王が羊飼い、民は羊に喩えられる。王なる主は来臨されると、すべての国の民を羊(ひつじ)と山羊(やぎ)を分けるように裁かれる。似て非なる家畜の羊と山羊を分別する基準を、「最も小さな者」にした親切とされた。

弱く貧しい小さな者とは、国の福祉政策や慈善団体に支援される社会的に弱い人々のことではない。どんなに熱心に慈善活動をしたとしても、人はその善行により神に正しいと認められることはない。「正しき人はその信仰によって生きる」人が義と神に認められるのは信仰による。人の基本的人権である衣食住・健康・自由の必要が満たされる「最も小さな者」とは、主がご自分の兄弟とみなされた弟子達のことであり、信仰の共同体である教会を指し示している。

復活の主は「あなたがたは行って、すべての民を弟子としなさい」と教会に至上宣教命令を付託された。主の弟子達を受け入れ、その語る福音により、イエス様を主と信じるなら、人は誰でも救われる。神に正しい人と認めていただくことができる。信じて洗礼を受け、教会の聖徒の交わりに入れられ、互いに愛し合う兄弟愛に生きる者こそ、王の右側に置かれる羊とされる。

互いに愛し合いなさいとの戒めを受けて、使徒ヨハネは、「御子は私たちのために命を捨ててくださいました。それによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちもきょうだいのために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、きょうだいが貧しく困っているのを見て憐れみの心を閉ざす者があれば、どうして神の愛がその人の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」と勧告する。

信仰は愛の行為により証明されるもの。人は皆例外なく死後に、生前の生き方が裁かれることを思いつつ、信仰と愛に生き、目覚めて主の再臨を待望したい。

1117日礼拝説教

「御名による救い」  使徒行伝3章11〜26節

さて、その男ペトロとヨハネにつきまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ駆け寄って来た。これを見たペトロは、民衆に言った。

「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、私たちがまるで自分の力や敬虔さによって、この人を歩かせたかのように、なぜ、私たちを見つめるのですか。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、私たちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。

あなたがたは命の導き手を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。私たちは、そのことの証人です。そして、このイエスの名が、その名を冠した信仰のゆえに、あなた方の見て知っているこの人を強くしました。その名による信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全に癒したのです。

ところで、きょうだいたち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、私には分かっています。しかし、神は、すべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が拭い去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために定めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。

このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなる時まで、天にとどまることになっています。モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、私のような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。この預言者に聴き従わない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』

預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、この日について告げています。あなたがたは預言者の子であり、神はアブラハムに、『地上の全ての氏族は、あなたの子孫によって祝福される』と言われました。それで、神はご自分の僕を復活させ、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、この方があなたがたを祝福して、一人一人を悪から離れさせるためでした。」

美しい門で生まれつき足なえの乞食を瞬時に癒すと、驚き殺到する群衆の誤解を解き、使徒ペテロは主イエスの御名の救いを解き明かした。自分の敬虔さではなくイエスの御名を信じる信仰が癒したと。

イエス様の御名の権威は、メシアとして遣わされると、いにしえから神に約束されていたこと、人類救済のための神の愛を十字架の受難により現した故に神が栄光を与えられたこと、復活昇天されて天地の権能の一切が授けられ生きておられること、近い将来に再臨し慰めの時を実現されることゆえにある。

使徒たちは、この神殿の奇跡的働きのため逮捕尋問されたが、「この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名をほか、人間には与えられていないのです。」とひるむことなく敢然と証言した。主の御名によるこの救いには、人間のすべての必要が包み込まれている。足なえの乞食の癒しはその救いの一例であるばかりか、救いを象徴している。

キリストは人間を罪過から救うため十字架に命を捨てられた。イエス様を救い主として信じる者は、罪の支配から解放され、罪の影響力に打ち勝ち、やがて主が来られる時には、罪の存在そのものから救われることになる。足なえの乞食が癒され、立ち上がり、喜び跳びはねる姿は、神に立ち返り救われるキリスト者を象徴している。

ペテロは「自分の罪が拭い去られように、悔い改めて立ち帰りなさい」と勧告した。悪から離れ生きる方向を神に転じ、イエス様を固く信じお従いすることが、救われるための確かなステップとなる。ペテロとヨハネが福音の務めを果たすことができたのは、イエス様の御名に信頼していたからであった。足なえの乞食が癒されたのは、彼自身が賜物として与えられたイエス様に対する信仰のゆえでもあった。「あなたの信仰があなたを救ったのです。」と主ご自身が語られていた通りである。信仰がなくては神様に喜ばれることはない。主に信頼する者は祝福される。信じて従う人生に良いことが必ず起こる。自分の思い通りではなく、主の御目に良しとされるように。

1110日礼拝説教

「右か左か分岐点」  創世記13章1〜18節

アブラムは妻を伴い、すべての持ち物を携え、エジプトからネゲブへと上って行った。ロトも一緒であった。アブラムは家畜や銀と金に恵まれ、大変に裕福であった。彼はネゲブからさらにベテルまで旅を続け、ベテルとアイの間にある、かつて天幕を張った所までやって来て、初めに祭壇を造った場所に行き、そこで主の名を呼んだ。

アブラムを一緒に行ったロトもまた、羊の群れと牛の群れと多くの天幕を持っていた。そのため、その地は彼らが一緒に住むには十分ではなかった。財産が多く、一緒に住むことは出来なかったのである。それで、アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが生じた。当時、その地にはカナン人とぺリジ人が住んでいた。

アブラムはロトに言った。「私たちは親類どうしなのだから、私とあなた、また私の家畜を飼う者たちと、あなたの家畜を飼う者たちとの間で争い事がないようにしたい。あなたの前には広大な土地が広がっているではないか。さあ私と別れて行きなさい。あなたが左にと言うなら、私は右に行こう。あなたが右にと言うなら、私は左に行こう。」

ロトがヨルダンの低地一帯を見回してみると、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったので、その辺り一面は、主の園のように、またエジプトの地のように、ツォアルに至るまであまねく潤っていた。そこでロトは、ヨルダンの低地一帯を選び取った。ロトは東の方へと移って行き、こうして彼らは互いに別れた。アブラムはカナンの地に住み、ロトは低地の町に住んで、ソドムの近くに天幕を移した。ソドムの人々は主に対して、極めて邪悪で罪深かった。

ロトが別れて行った後、主はアブラムに言われた。「さあ、あなたは自分の今いる所から北、南、東、西を見回してみなさい。見渡すかぎりの地を、私はあなたとあなたの子孫に末永く与えよう。私はあなたの子孫を地の塵のように多くする。もし人が地の塵を数えることができるなら、あなたの子孫も数えることができるだろう。さあ、その地を自由に歩き回ってみなさい。私はその地をあなたに与えよう。」アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住み、そこに主のための祭壇を築いた。

アブラハムは、神の選びと召しを得て、約束の地に着いたが、飢饉に襲われエジプトに避難した。自分の身の安全のため、妻を妹と偽りエジプト王に差出した結果、富財産は増えたものの、欺瞞が暴かれ追放されてしまう。再び約束の地、パレスチナに戻ると、最初に祭壇を築いた場所で、アブラハムは主の御名を呼び祈った。

エジプトは人間中心、不信仰を象徴する。信仰の低下に気付いたなら、初心に立ち帰り、聖書を読み神に祈り、礼拝出席、聖徒の交わりを再開することが望ましい。

飢饉で経済危機に直面失敗したアブラハムは、約束の地で、今度は豊かさゆえの困難に直面する。アブラハムは、郷里を一緒に出発した甥のロトとの間に、牧草地や井戸水の確保で、争いが生じていた。限られた場所で、二つの遊牧民の大家族が共生することは至難であった。

アブラハムは甥のロトに別離を提案、「あなたが左にと言うなら、私は右に行こう。あなたが右にと言うなら、私は左に行こう。」と、大切な場所の選択権をロトに譲渡している。ロトは豊穣なヨルダン川沿いの低地に離れて行った。

このアブラハムの問題解決の仕方は、甥に対する温かい彼の情愛であろうか。或いは、アブラハムの神への確かな信仰に基づく決断と解することもできよう。自分には不毛地だけしか残されないとしても、神がついておられるから大丈夫であったのだろうか。しかし、飢饉でエジプトに下ること、自己保身のため妻を妹と偽り、卑劣な失敗を経験した結果、この場に臨んで自己判断し決断することを彼は恐れ、結果を人任せにする責任放棄が真相ではなかったのか。

だが、痩せた高台に残り、独り黙ってうなだれるアブラハムに、主は「さあ、あなたは自分が今いる所から北、南、東、西を見回しなさい。」と呼び掛けられる。更に「見渡すかぎりの地を与えよう。」と、以前に与えたアブラハム契約を再確認される。

アブラハムに対する神の選びも召しも、アブラハム個人の資質にはよらない。どこまでも主なる神様の絶対的恩寵なのだ。我々もまた、恵みを得て生活の場から目を上げよう。

113日礼拝説教

「最良の腐敗は最悪」  イザヤ44章6〜17節

イスラエルの王なる主、イスラエルを贖う方、万軍の主はこう言われる。

私は初めであり、終わりである。私のほかに神はいない。誰が私と同じように宣言しこれを告知し、私に並べ立てるだろうか。私がとこしえの民を起こしたときから、起ころうとすること、来るべきことまで、彼らに告知させよ。恐れるな、おびえるな。昔から私はあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたは私の証人。私のほかに神があろうか。私のほかに岩があろうか。私はそれを知らない。

偶像を形づくる者は皆空しく彼らが慕うものは役に立たない。彼ら自身が証人だ。彼らは見ることもできず、知ることもできずただ恥じ入るだけだ。誰が神を形づくり何の役にも立たない偶像を鋳たのか。見よ、その仲間たちは皆恥じ入る。職人たちは人間にすぎない。皆集まって立ち向かうが、恐れて共に恥じ入る。

鍛冶職人は炭火で斧を作り、槌でそれを形づくる。力ある腕でそれを作るが腹がすけば力がなくなり水を飲まなければ疲れてしまう。

木工は測り縄を張り、筆で印を付け、人の形に似せて人間の美しさに似せて造り、神殿に置く。彼は杉を切り松や樫の木を選んで林の中で育てる。また、月桂樹を植え、雨がそれを成長させる。それは、自分の薪となる。

人はそれを取って暖まり燃やしてパンを焼く。さらに、神を造ってそれを拝み偶像に仕立ててその前にひれ伏す。また、その半分を火の中で燃やしその上で肉をあぶって食べあぶり肉で満ち足りる。さらに、暖まって「ああ、暖かい、炎を感じる」と言う。そして、その残りを神に造り上げ、自分の偶像としその前にひれ伏して拝み、祈って言う。「救ってください。あなたはわたしの神だから」と。

どんな名ブランドで高級なハムでも腐ったら最悪で投棄するしかない。人は神に似せて創造された最高最良の傑作だが、すべての人は神の栄光を受けられない、即ち、腐れ果てていると聖書は言う。

その腐敗の原因は犯した罪であり、その罪の本質が偶像の作成と崇拝にあるとイザヤ44章は明らかにする。材料となる樹木を植樹育成し、伐採する。その材木の一部は暖房用に、一部は煮炊きの燃料とし、残る部分を掘り刻んで偶像を作り、「救ってください。あなたは私の神だから」と祈る。

イザヤは皮肉にも、「木工は、測り縄を張り、小刀で造り上げ、人の形に似せて、人間の美しさに似せて造り、神殿に置く」と語る。神は神の形に似せて人を造られたが、人間は人の形に似せて偶像を造る。造った者が造られたものの上位にある。人間は偶像の上位にあり、偶像に向かって呪文を唱え、自分の益となるよう命じる。それはまさしく人間が自分を神とする神格化に他ならず、そこに罪の本質が隠されている。

エデンの園で、蛇がエバに「それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となる」と誘惑した意味がそこにある。神ならぬ者を神として拝む偶像崇拝者の最初の人、アダムとエバは罪故にエデンの園から追放されてしまった。

預言者イザヤの時代の神の民イスラエルがアッシリヤやバビロンに滅ぼされたのは、彼らが国をあげてバアルやアシタロテの神々崇拝に堕落したからであった。今やすべての人を罪ゆえに神は怒られる。(ローマ1・18)その怒りは、人の好きなようになすがまま神が放任された状態に啓示されている。したいように偶像崇拝し、歪んだ性的関係を放任し、歪んだ意志による社会性の歪みに神は放任される。最良の腐敗が最悪である。

だが唯一の真の主なる神は、揺るがぬ証拠としての歴史に行動でご自身を現され、神の民をバビロン捕囚から解放され、彼らを主の証人とされた。歴史上最大の神の業は、御子イエス様の誕生と十字架に贖罪にある。罪深い我々をも主は現代に生きる神の証人として立ててくださるのは恵みに他ならない。