1124日礼拝説教(詳細)

「王なる主の来臨」  マタイ25章31〜46節

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そうして、王は右側にいる人たちに言う。

『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

すると、正しい人たちが王に答える。

『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、喉が渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、見知らぬ方であられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。

『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。』」

それから、王は左側にいる人たちにも言う。

『呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその使いたちに用意してある永遠の火に入れ。あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせず、喉が渇いていたときに飲ませず、よそ者であったときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、世話をしてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。

『主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、渇いたり、よその人であったり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お仕えしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。

『よく言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである。』こうして、この人たちは永遠の懲らしめを受け、正しい人たちは永遠の命に入るであろう。」

今日の聖書箇所はマタイ25章からお読みします。ご存じでしょうか、教会暦によれば今日は降誕前第五主日です。今年、私たちはクリスマス礼拝を12月22日に予定し、キリストの御降誕を祝おうとしています。それなのに何故、降誕前第五主日にマタイ25章を読むのかと、その理由を問われるなら、このキリストの初臨を祝う時に、キリストの再臨を待望することを、教会はずっと慣例として来たからです。イエス様が公生涯の最後にエルサレムに入場されると、十字架の受難を目前に、主は世の終わりを告げ知らされました。主と共にエルサレムに入場した弟子たちは、エルサレムの壮麗な神殿に心奪われすっかり見惚れてしまったのですが、主は、この神殿は間も無く跡形もなく崩されると予告され、世の終わりの近いことを告げ知らされたのです。そして、24章29、30節に、世の終わりの最大の出来事をこう語られました。「その時、人の子の徴が天に現れる。そして、その時、地上のすべての部族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」今日お読みした25章は、この主の語りかけの流れの中にあり、その主題は「王なる人の子、主の来臨」なのです。

1.王の来臨の時期

31節を読んでみましょう。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。」人の子とは旧約聖書に預言されていたメシア、救い主の称号です。ここで人の子とはイエス・キリストご自身のことです。聖書の一番最後のイエス様の言葉は、「然り、私はすぐに来る。」です。それに対して教会は「アーメン、主イエスよ、来りませ」と言うのです。しかし、人には誰もその日その時がわかりません。ですから、すべての人は目を覚まして待望していなければなりません。ここに救い主、人の子であるイエス様が、その時どのように再臨されるかが、3つ明らかにされています。

  栄光に輝いて来る

第一に分かることは、イエス様が栄光に輝いて来られることです。およそ2000年前にイエス様が来られた時は、人に仕える僕(しもべ)として来られました。イザヤ53章3節にはこれが「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、痛みの人で、病を知っていた。人々から顔を背けられるほど軽蔑され、私たちも彼を尊ばなかった。」と預言されています。その僕の究極こそキリストの十字架の受難です。十字架上のイエス様は、人々から嘲られ、罵られ、軽蔑されました。しかし、その十字架の死は、私たちの罪責を赦すために支払われた犠牲の代価だったのです。しかし、再び来られるときは、全く違います。主イエス様は救いをその犠牲によって完成された神の御子としての栄光に輝いて来臨されるのです。最初に来られた時、主は卑しい僕として来られました。しかし再び来られる時には、栄光に輝く全地を治める王として来られるのです。

  天使を従えて来る

その時、主は栄光に輝き、しかも天使たちを皆従えて来られます。無数の天使たちは、神に仕えるために創造されました。天上の神の栄光の御座には、天使長をはじめ、無数の天使たちが神を礼拝し、賛美し、神に仕えています。イエス様が再臨されるときには、その天使たち全てを従えて来られるというのです。それは王に仕える天使たちの大軍勢です。旧約の列王記下6章に、預言者エリシャとその召使が、アラム王の軍勢に包囲されて窮地に陥った物語が記されています。召使は朝起きて、自分たちが敵軍にすっかり包囲されているのに気づいて、「ああ、ご主人様、どうしたらよいでしょう」と絶望してしまいました。ところがエリシャは、「恐れることはない。私たちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多いのだ」と、召使の杞憂を一蹴してしまいました。現実には、確かにアラムの大軍によって、二人は完全に包囲されて逃げ場がありませんでしたが、その敵軍の周囲には、天使の火の馬と戦車が十重二十重に取り囲んでいたのです。主が再び王として天使の軍勢を率いて再臨されるとき、その壮観な光景は全世界に、それこそネットで中継されて、一挙に知れ渡るに違いありません。

  栄光の座に着座する

第三に明らかなこと、それは主イエスが来臨されると栄光の座に着座されることです。昇天されて天の栄光の座に着座された方は、再臨される時には、地上においても栄光の座に着座なされます。その栄光の御座の着座の目的は、明らかにすべての人を裁くためです。聖書が疑いようもなく明確に明らかにしている真理、それは、人は誰であっても例外なく、神様の前に出て裁かれることです。ヘブル9章27節にはこう記されています。「人間には、ただ一度死ぬことと、その後、裁きを受けることが定まっている」人間は神によって創造された生き物であり、すべての人間はその創造主である神様に対して、どのような生き方をしたのか、全てを申し開きをする責任があるのです。

.王の御座の審判

それでは次に、その栄光の御座による王なる主イエスの審判の詳細を、続いて確認することにしましょう。32〜34節を読んでみれば、その審判の詳細が三つ明らかになります。

「そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そうして、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。」その三つとは、審判の対象とその分別、そしてその判決です。

①審判の対象

主は32節でこう言われます。「そして、すべての国の民がその前に集められる」ここには、栄光の裁きの御座で裁かれる対象が、すべての国の民と言われています。すべての国の民が例外なく神に裁かれること、それは聖書が一貫して教える真理です。詩篇9篇8、9節にこう記されています。「主はとこしえに座し、裁きのために座を揺るぎないものにされる。主は義によって世界を裁き、公平に諸国の民を裁かれる。」この御言葉は、主イエスが再臨されるその時に、間違いなく実現成就するに違いありません。現代世界には、国を裁く機関として国連の国際司法裁判所が、オランダのハーグにあります。ウクライナにロシア軍が侵入してから司法裁判所は、プーチン大統領を戦争犯罪人として指名手配しました。しかし、全く機能していないことは歴然です。裁いても執行する力がまったくないのです。しかし、主が来臨されるときには、プーチンだけではありません。すべての国の民が裁きの対象とされます。私も皆さんも例外ではありません。

②審判の分別

そして、裁きの座の前に集められた民は、大きく二つに分別されて裁かれることになります。「そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊(ひつじ)と山羊(やぎ)を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」古代イスラエルでは、国を治める王は羊飼いに喩えられました。その国民は羊飼いに養われる羊とみなされていたのです。この羊と山羊が日中、同時に牧草地に放たれ放牧されることがあるのですが、夜になると、牧羊者は羊と山羊を必ずより分け、別々の小屋に休ませるのが常でした。羊と山羊は似て非なる家畜動物です。主の御言葉によれば、羊は父なる神に「祝福された人」たちとみなされ、「さあ、私の父に祝福された人たち」と言われています。37節を見ればそこでは別な表現で「正しい人たち」とみなされます。一方、主の御言葉によれば、左側の山羊は「呪われた者ども」とみなされます。すべての国の民は、例外なく祝福された人か、呪われた者かのどちらかです。その中間のグレーゾーンはありません。 ③審判の判決

更に、栄光の主の御座の審判の判決は、この御言葉によってくっきりと鮮やかに違っていることが分かるでしょう。右の羊たち、即ち王の右側にいる人たちに対する判決はこうです。「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。」それに対して左の山羊たち、即ち王の左側にいる人たちに対する判決はこうです。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。」そして最後に主はこう言われます。46節です。「こうして、この人たちは永遠の懲らしめを受け、正しい人たちは永遠の命に入るであろう。」羊に対する判決、山羊に対する判決、それは比較しようもなくまったく違っています。

果たして人は、どれだけ自分の永遠の運命について考えているのでしょうか。永遠の懲らしめなのか、永遠の命なのか、それは深刻極まりない問題であるからです。先日、日本弁護士連合会が、死刑執行停止法の制定を政府に勧告したと伝えられました。これはすでに2004年10月に「死刑執行停止法の制定、死刑制度に関する情報の公開及び死刑問題調査会の設置を求める決議」をしたことに基づくものです。しかし、政府は凶悪犯罪の増加傾向にあることに鑑み、積極的に受け止めようとはしませんでした。死刑は必要だという立場を変えません。しかし、私たちが今日聖書で悟らされる事実は、死刑執行の比ではありません。すでに死ぬことはすべての人に確定しています。問題は、その後の永遠のあり方なのです。

.王の審判の基準

では永遠の命と永遠の懲らしめの判決の基準が一体どこにあるというのでしょうか。王座の右側により分けられた人のことを主は「私の父に祝福された人たち」と呼びかけられました。また、37節には彼らのことが「正しい人たち」と言われていることについてもすでに言及したとおりです。羊に相当するこれらすべての国の民で、祝福された人とされる、正しい人とされる基準は、一体どこにあるのでしょう。その理由、基準の手がかりが、この聖書箇所に限定すれば、35、36節で語られている、この主の御言葉でしょう。

「あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」「食べさせ、飲ませる」これは人の飲食の必要を満たすことです。「宿を貸す」これは人の居住の必要を満たすことです。「裸に着せる」これは人の衣服の必要を満たすことです。「病気の世話をする」これは人の健康の必要を満たすことです。「牢屋を訪ねる」これは人の自由の必要を満たすことです。「衣」「食」「住」「健康」「自由」これは一人の人がまともに生きていくための基本的人権そのものです。主が「あなたがたが私の基本的人権をその必要とするときに満たしてくれたからだ」と、語られるその審判の基準の意味は、一体どういうことなのでしょう。

  善行義認

第一に明確に言えることは、人が何かしかの善行を実践すれば、それによって神様に義と認められる、ということでは全く無いということです。この後で、40節、45節で二度語られている「この最も小さな者」は、「衣」「食」「住」「健康」「自由」という基本的人権に、欠けている社会的な弱い立場にある人々と、考えられないこともありません。生きていくのに困窮している、弱い人の必要を満たすことは、もちろん本当に好ましいことです。非常に良い行いです。しかし、社会的な立場の弱い人を助けることを教え勧めることをしない宗教などは一つもありません。慈善活動はキリスト教の独占事業では毛頭ありません。福祉事業は政府の国策でもあり、地方自治体も取り組み、民間の福祉事業活動が、それこそ幅広い分野で展開されているのが現実です。では、このような活動を活発に行なった人が、真面目に一生懸命、人助けをした人が、その善行の功績によって、神様に義と認められ、祝福され、永遠の命に入れられるのでしょうか。決してそうではありません。そうではないのです。

  信仰義認

誰であっても人が神様の目に正しいと認められるのは、ただ一つしかありません。それは、人の行いではなく信仰です。それが一貫した聖書の真理です。その最も有力な教えがハバクク2章4節の御言葉です。「正しき人はその信仰によって生きる」と記されています。新約聖書にも何回も引用される要(かなめ)となる御言葉です。「正しき人はその行いによって生きる」ではありません。「正しき人はその信仰によって生きる」のです。私たちはその教えを教理的な用語で信仰義認と呼びます。主は、すべての国の民を裁かれる基準が信仰義認にあることを、このマタイ25章の羊と山羊の喩えで語っておられるのです。主が35節で祝福の理由を語られると、それを聞いた右側の人が質問していますね。「主よ、いつ私たちは、そのような善行をしていたのでしょうか。」それに対して主はこう答えられました。「よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」つまり、人が正しいとされる基準は、イエス様と「最も小さな者」との連帯性に込められていると言われたのです。「小さな者にしたのは、私にしたのだ」と言われます。小さな者とイエス様は密接不利な一体なのだと言われます。

ではこの「小さな者」とは誰のことですか。私はこの度、この手にする聖書訳に重要な一つの言葉が欠落しているのに気づきました。同じこの40節が、以前使用していた口語訳では「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」とあります。念のため、原語を調べ、他のいくつもの聖書訳も調べてみましたが、どの訳にも、「わたしの兄弟である」が入っているではありませんか。「小さい者」と「私の兄弟」は同じ人を指しています。何故この聖書訳に欠落したのか、それは恐らく45節と合わせるためだったのかもしれません。そこには「わたしの兄弟」が語られていないからです。では、主がここで「私の兄弟」と言われる場合、それは誰を指すかと言えば、それは主の弟子たちのことなのです。マタイ12章46〜50節を見てみましょう。ここでは、群衆と話しているイエス様に、その母マリアと兄弟たちが近寄ろうとし、するとある人が「ご覧なさい。お母様とご兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と伝えました。するとイエス様がこう答えられたのです。「私の母とは誰か。私のきょうだいとは誰か。」「そして、弟子たちに手を差し伸べて言われた。「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。」そうです。主はご自分の選ばれた弟子たちを「私の兄弟」とみなされました。弟子たちをご自分の兄弟と同定されたのです。

そして彼らを訓練し、使徒として福音宣教に遣わされました。主は使徒達を誰に遣わされたでしょうか。マタイ28章19節を見れば明らかです。「だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。」この「すべての民」とは、マタイ25章32節の「すべての国の民」のことです。これは原語では全く同じ言葉が使われています。これで分かることは、すべての国の民が、イエス様によって遣わされた使徒達によって語られた福音を受け入れ信じることによって、神様に正しい者とみなされ、救われ祝福されると言うことなのです。

しかし、福音を信じたと言うのではなく、イエス様の兄弟である弟子たちの必要に応じて善行をしたことが評価されているのではないだろうかと疑問が湧きますね。これに対しては、マタイ10章40〜42節が理解の助けになるので読んでみましょう。「「あなたがたを受け入れる者は、私を受け入れ、私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。預言者を預言者だということで受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者だということで受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。よく言っておく。私の弟子だということで、この小さな者の一人に、冷たい水を一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」」ここにも「この小さな者の一人」と主が語られた言葉がありますね。ここでも弟子たちのことを指し示して使われています。「小さい者」とは弱い者、貧しい者の代名詞です。イエスの弟子とされた者たちは、網を捨て、船を捨て、自分から進んで貧しくなった者のことです。それゆえに、すべての国の人々が、主によって遣わされた弟子たちの語る福音を聞いて受け入れ、そればかりか、彼らの必要に積極的に応じて助けの手を差し伸べることが、審判の基準となっているということなのです。そしてその基準は初代教会時代を超えて一貫しています。マタイ24章14節を見ると、「この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから終わりがくる。」と主は語られました。福音を宣べ伝えるのは、使徒達であり、さらにそれを継承したのが教会です。教会はイエス様を主と信じた者の信仰共同体であり、教会はキリストの体と聖書は教えます。教会が人間の体に喩えられ、教会がキリストの体であり、キリストがその頭なのです。頭と体は不利一体です。当たり前のことです。

使徒行伝9章を見ると、後にキリストの使徒となるパウロの改心の有り様が記録されています。パウロはキリスト信者の迫害者でした。彼はエルサレムの大祭司たちからクリスチャンたちを逮捕し投獄する権限を受けて、シリアのダマスコに馬に乗って向かっていました。ところがその道中で、天からの光に打たれ、その天からキリストの呼びかけの声を聞きました。「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」これはどういうことですか。パウロが迫害し、迫害しようとしていたのはクリスチャンでした。キリスト教会でした。この天からのキリストの言葉で明らかです。教会とイエス様とは不利一体の連帯性を持った関係にあることです。教会に対するいかなる行為も、それはキリストに対する行為とみなされるのです。教会を通して語られる福音により、イエス様を信じる人はそれにより正しい人とされる。信仰義認なのです。

  無意識善行

しかし、この25章の主の教えから、王の右により分けられ、正しい人とみなされ、父の祝福に預かるための、さらなる基準に、私たちは目を向けるべきでしょう。それは、右側により分けられた人が、王に尋ねた質問にあります。37、38、39節に繰り返される「主よ、いつ私たちは」にあります。いつ、食べさせ、飲ませ、宿を貸し、衣を着せ、牢を訪ねたでしょうか?これは、自分が実践していることを、あたかも気づいていないかのように、良い行いが無意識のうちに行われるべきであるということです。イエス様を信じ救われ教会に加えられた者に求められるのは、兄弟愛の実践です。主は「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と新しい戒めを与えられました。ヨハネはその手紙にこう勧告しました。「御子は私たちのために命を捨ててくださいました。それによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちもきょうだいのために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、きょうだいが貧しく困っているのを見て憐れみの心を閉ざす者があれば、どうして神の愛がその人の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」(I ヨハネ3・16−18)あの王の左側の山羊に呪いが宣告されたのは、愛の業の怠慢です。必要とする人に世話をしようとしなかったからです。私たち主を信じる者により深刻な問題は、怠慢であるよりも、良い業を実践・実行しているのに、それが偽善であることにあります。それが人に見せる演技と成り下がってしまうことです。主はですから言われました。「施しをするときは、右の手のしていることを左の手に知らせてはならない」(マタイ6・3)それは良い働きは、自ずと湧き上がる善意によって無意識に実践されるべきものだということです。そのような無意識の愛の業を主題としたトルストイの「靴屋のマルチン」の物語は、このマタイ25章を題材にして生み出され作品だと言われます。よく知られたその物語の要約はこうです。

「ある町に「マルチン」という名の靴屋が住んでいました。彼の住む地下室のたった一つの窓からは、往来を行き過ぎる人の足が見えました。でも人々の靴を見るだけで、それがだれなのかを見分けることができました。どれもマルチンが精魂こめて作り、修理した靴ばかりだったからです。マルチンは毎日一生懸命靴づくりに励みました。しかし、妻子が次々に亡くなり、ひとりぼっちだったので、本当は悲しみでいっぱいだったのです。そんなある日、マルチンは聖書を読みました。そこに書いてある神さまのことばに安らぎを覚え、毎日夢中になって読んだのです。すると、彼は夢の中でキリストの声を聞きました。「マルチン あした いくから まっておいで」とイエスさまが言われたので、いつ来られるのかと、胸がドキドキしました。マルチンは、その日、雪かきをしている年とったおじいさんに気づいたので「すこしあったまって いきませんか」と声をかけました。疲れたおじいさんは、マルチンの部屋で温まり、元気になって帰っていきました。それから、寒い外で泣き止まない赤ちゃんをあやしているお母さんを助けました。その人は貧しくて空腹なうえ、冬なのに夏服を着て凍えそうだったのです。そこでマルチンは、温かい部屋でパンとスープをごちそうし、自分の上着もあげました。お母さんも赤ちゃんも、マルチンの優しさに温もりました。その後、窓の外で、言い争いの声が聞こえました。少年がおばあさんのりんごを盗ろうとしたので、おばあさんはひどく怒っていたのです。マルチンはおばあさんに、彼を許すように勧め、少年には、おばあさんに謝るように勧めました。やがて二人は歩み寄り、お互いに気持ちを通わせて帰っていきました。その晩、マルチンが聖書を読んでいると、キリストの声がしました。

「マルチン わたしがわからなかったのか あれは みんな わたしだったのだ」と。雪かきのおじいさんも、赤ちゃんのいる貧しい母親も、争っていたおばあさんと男の子もイエスさまだったのです。キリストは「まずしいひと ちからのないひと びょうきのひとや いえのないひとの なかに わたしはいます」トルストイの物語を聞いていると、何かほのぼのとした温かいものが伝わってくるようで、これは素晴らしい作品です。

私たちは間も無くクリスマスを迎えることにより、イエス様が救い主としてこられたことを祝おうとしています。と同時に、再び主が王として再臨なされる日を心待ちして待望することにしましょう。そして、それが喜びと希望となる条件は、イエス様を信じると共に、兄弟の必要を満たす愛の実践にあることを再確認することとし、主に栄光を帰することにしましょう。

11月17日礼拝説教(詳細)

「御名による救い」  使徒3章11〜26節

さて、その男ペトロとヨハネにつきまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ駆け寄って来た。これを見たペトロは、民衆に言った。

「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、私たちがまるで自分の力や敬虔さによって、この人を歩かせたかのように、なぜ、私たちを見つめるのですか。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、私たちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。

あなたがたは命の導き手を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。私たちは、そのことの証人です。そして、このイエスの名が、その名を冠した信仰のゆえに、あなたがたの見て知っているこの人を強くしました。その名による信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全に癒やしたのです。

ところで、きょうだいたち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、私には分かっています。しかし、神は、すべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が拭い去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために定めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。

このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなる時まで、天にとどまることになっています。モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、私のような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。この預言者に聴き従わない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』

預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、この日について告げています。あなたがたは預言者の子であり、神はアブラハムに、『地上の全ての氏族は、あなたの子孫によって祝福される』と言われました。それで、神はご自分の僕を復活させ、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、この方があなたがたを祝福して、一人一人を悪から離れさせるためでした。」

聖書は使徒3章の先ず11〜16節を読みましょう。今読んだ聖書箇所は、使徒ペテロがエルサレム神殿広場で、大群衆に語った説教の記録です。次の4章4節には、彼の説教を聞いて信じた人の数が5千人ほどであったと言うのですから、大群衆に語ったメッセージです。

こんな沢山の群衆が集まったのは、実はそれに先立つ神殿の美しい門で生まれつき足の萎えた乞食が、瞬時に癒やされる奇跡が起こっていたからです。それは午後3時頃でした。ペテロとヨハネが午後3時の祈りで神殿に入ろうとしました。すると美しい門で一人の足の萎えた乞食が物乞いをしています。ペテロと目線が合ったその瞬間、「金銀は私には無い。だがあるものをあげよう。」と、イエス・キリストの御名によって彼の手を引き上げると、瞬時に癒され、立ち上がり、踊り出してしまったではありませんか。その結果、二つの動きがありました。一つは、癒された乞食が二人にまとわりついてきたこと。二つは、それを目撃した群衆が驚いて二人に殺到してきたことです。

ペテロがそこで大群衆に説教せざるを得なかった理由は、押しかけてきた群衆の誤解を解くためでした。群衆が二人に押しかけてきたのは、ペテロとヨハネが魔術的な能力を備えた特別不思議な人物だと興味関心を持っていたからです。ですから、ペテロは開口一番「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、私たちがまるで自分の力や敬虔さによって、この人を歩かせたかのように、なぜ、私たちを見つめるのですか。」と叫ばざるを得ませんでした。そして、今起こった不思議な出来事の本当の原因は、自分たちではない、決してそうではない、救い主イエス・キリストによるものなのだと語り出したのです。そこでペテロは明瞭にこう断言しました。「このイエスの名が、その名を冠した信仰のゆえに、あなたがたの見て知っているこの人を強くしました。その名による信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全に癒やしたのです。」(16節)

.御名にある権威

ペテロは、この人を癒したのはイエス・キリストである、その名がこの人を強くした、その名による信仰がこの人を完全に癒したのだ、と言いました。名前とは一種の記号です。便宜上、物や人を指し示す言葉とし通常は使われるものです。にもかかわらず、名前というのは、その物の特徴を全て包み込み、たった一言で表現し、同時に感受させることができる、そういうものです。「名は体を表す」とよく言うのですが、「実体(そのものの本当の姿・ありのままの姿)が名前に表れている」という意味の慣用句ですね。例えば「りんご」という果物の名前。もしその果物を「りんご」という名前を使わずに表現しようとすると、どうなるでしょう。丸い形をして、皮が赤く実は白い。香りが良く、シャキシャキとした歯ざわりでほのかに甘い果物、とでも言えるでしょうか。名前を使うことなく表現しようとすると、その特徴をいくつか挙げていかなければなりません。しかし、名前を使えば、そのような長い説明は必要ありません。「りんご」という言葉に、その特徴全てが納まっているのです。ペテロが足萎えに「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と宣言すると、何と直ちに、彼は歩き始めてしまいました。このイエス様の御名にある権威の根拠を、このペテロの説教から4つ抽出することができます。

  約束されたメシア

第一にイエス様の御名の権威の根拠は、遥か以前から神様によって遣わされると約束されたメシア、救い主であるからです。ペテロは申命記18章から引用して、「モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、私のような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。(22節)と語りました。モーセは、エジプトで430年間奴隷であったイスラエルの民を解放した偉大な指導者です。そのモーセが、神様は「私のような預言者をあなたがたのために立てられる」と預言していたのです。これはちょうど、モーセが民を奴隷から解放したように、人類を罪の奴隷から解放するメシアを神様が立てられるというメシア預言なのです。ペテロは続けて創世記12章3節を引用して、「神はアブラハムに、『地上のすべての氏族は、あなたの子孫によって祝福される』と言われました。(25節)と語りました。この「あなたの子孫によって」の子孫は単数系です。この子孫とは神様が起こされるメシアの預言なのです。24節でペテロはこうも念を押しています。「預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、この日について告げています」そうです。

聖書の大きなテーマの一つは、預言と成就なのです。旧約聖書には至る所に、救い主の到来が預言されており、その実現成就を私たちは、御子イエス・キリストの誕生に見ているのです。ですから、イエス様の御名の権威の根拠の第一は、昔からメシア、救世主として神様に預言され約束されていたことにあるのです。

  栄光受けたメシア

第二の権威の根拠は、イエス様が神様から栄光を受けられたことです。ペテロは、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、私たちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。」(13節)と、その根拠を語っています。これは旧約イザヤ52章13節を背景に語られた発言です。そこには「見よ、わが僕(しもべ)は栄える。彼は高められ、上げられ、はるかに高くなる。」と予言されています。これはメシアの栄光の預言です。通常、「栄光を受ける」とは、並外れた功績に対する賞賛と栄誉が授けられることです。

11月3日に皇居で今年も天皇により文化勲章の授与式が行われました。その功績を讃えるためです。オリンピックでは、優勝者に金メダルが贈呈されます。世界的に有名な栄光の場は、ノーベル賞授賞式でしょう。しかし、メシア、救い主の栄光授与は、私たち人間の想像をはるかに超えています。

イザヤ52章14節が続けてこう語っているのを聞いてください。「多くの人が彼のことで驚いたように、その姿は損なわれ、人のようではなく、姿かたちは人の子らと違っていた」これは神様の約束されたメシアの栄光が受難にあるという預言です。そして、その預言の成就こそキリストの十字架の受難なのです。あの使徒ペテロが、使徒3章13節後半から語り続けたことが、それをより明らかにします。「あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは命の導き手を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。私たちは、そのことの証人です。」ペテロが語ったこれらの出来事は、それこそつい最近、1〜2ヶ月前にエルサレムで起こったばかりのことです。

弟子のユダがイエス様を銀貨30枚で裏切りました。ユダヤ人達は、ローマ総督ピラトにイエス様を引き渡たしました。ピラトは罪を認めずイエス様を釈放しようとしたのに、ユダヤ人たちは拒否しました。そうすることで、イエス様を十字架で殺してしまったのです。しかし、この十字架が、受難がイエス様の栄光なのです。ヨハネ12章で主はこう語られました。「人の子が栄光を受ける時が来た。」続けてこう語られました。「よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」この一粒の麦の喩えは何を指し示していますか。そうです。キリストの十字架の受難なのです。主はご自分の受ける十字架の受難を栄光を受ける時と語られたのです。神がイエス様に栄光を与えられるのは、その十字架の身代わりの犠牲によって神の愛が完全に現されたからです。Iヨハネ4章10節「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」神は御子を罪の身代わりの犠牲とすることにより、人の罪を赦す救いの道を開かれました。神はその犠牲を引き受けられた御子イエス・キリストに栄光を与えられたのです。

  復活されたメシア

そればかりか、イエス様の御名の権威の根拠は、蘇られ生きておられることにあります。「あなたがたは命の導き手を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。」(15節)復活させられたとは、イエス様が生きておられることです。イエス様は十字架に付けられ三日目に復活されました。40日間弟子達に現れ、オリーブ山から雲に包まれ昇天されました。天の父の右に着座され、統べ治めておられます。ですから、主は弟子達に「私は天においても地においても一切の権能を授けられた」と宣言なされたのです。神殿の美しい門で使徒ペテロが「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がりなさい」と命じることができたのは、イエス様が生きておられるからです。死んでしまった人の名前には何の力も権力もありません。その主イエスの権能は、生きておられるがゆえに、今や聖霊によって現実化されているのです。

  再来されるメシア

イエス様の御名の権威の第四の根拠を挙げるとすれば、それは、20節に語られている事実、イエス様の再臨です。「こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために定めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。」来月12月に、私たちは教会を挙げてクリスマスをお祝いしますが、それはメシアなるイエス様がお生まれになったこと、キリストの初臨を記念するからです。しかし、2000年前に来臨されたイエス様が間も無く、再び来られるのです。その時、「主のもとから慰めの時が訪れ」ることになるのです。その時、あの黙示録21章に預言された言葉が成就することになります。「目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。」イエス様が再び来られる時、それは「慰めの時」です。

テレビの特集番組でA Iが詳しく説明されていました。何でも呼びかけると答えてくれると、そのA Iの可能性の大きさを語っていました。そこで、私は携帯のシーリーに「ヘイ!シーリー、私を慰めてくれますか」と呼びかけてみました。すると女性の声で「残念ながらそれはできません。」と返事があるではありませんか。しかしながら、本当の慰めの時が到来するのです。イエス様が再び来られるときに実現されます。だからこそ、イエス様の御名には権威があるのです。

.御名による救い

この使徒ペテロが神殿の広場で大胆に語っていると、それを不愉快に思った神殿の官憲が、二人を逮捕留置してしまいました。次の4章にその顛末が記されています。しかし、そこで裁判に引き出された二人が、並いる世俗的権力者達の面前で、こう大胆に発言したのです。「この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下のこの名のほかに、人間には与えられていないのです。」(12節)イエス様の権威ある御名にのみ救いがあると、二人は臆面もなく証言しました。神殿の広場で足萎えの乞食が癒されたことは、その救いの一つの典型的実例に過ぎません。しかし、この足萎えの乞食の経験が救いを象徴しており、イエス様の御名による救いを私たちに明らかに指し示しています。

  罪の支配からの救い

第一にイエス様は、人を罪の支配から救うことができます。この美しい門で物乞いしていた男は、生まれながらの足萎えでした。全く歩けません。それによって彼は拘束され、不自由を囲って生活せざるを得ませんでした。聖書は、人は皆生まれながらの罪人であり、罪の奴隷であると言います。罪人とは、人間を創り人間を愛される生ける神を知らず、神を無視し、神無しに生きる人のことです。人は何らかの罪を犯したから罪人なのではありません。罪人だから罪を犯すのです。この度の衆議院議員選挙で、議員数を四倍に増やして脚光を浴びたある野党の党首が、何と不倫の罪を犯したことが発覚し、平謝りに謝る姿が報道されました。しかし、誰一人として彼を非難する権利がないのではありませんか。罪過ちを犯したことが無い人など一人もいません。すべての人は罪を犯し、罪の支配下にあって、裁かれなければならないからです。「罪を犯す者は、罪の奴隷です。」しかし、イエス様は十字架の死によって、信じる者を救われます。罪の奴隷支配から解放してくださるからです。

  罪の影響からの救い

第二にイエス様は、人を罪の影響から救うことができます。美しい門で、癒された乞食は、何と!踊り上がって立ち、歩き出しました。この癒された乞食の喜びに満ちた姿こそ、罪の奴隷から解放され、キリストの僕とされたキリスト者の姿を反映しています。ローマ8章1、2節がこのあたりのことを説明しています。「今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません。キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです。」法則とか原理というものは、同じ条件下であれば、同じ結果が間違いなく起こるというもの、それが法則・原理です。よくこれを万有引力で説明するのですが、私たちは知らず知らずに引力の法則の影響下で活動しています。物を空中で離せば必ず下に落下してしまいます。引力の影響を受けているからです。私たち人間に生きている限り影響を与え続ける目に見えない一つの法則があります。それが罪と死の法則です。ほっておけば罪過ちを犯し、結果として死を招くことになるということです。しかし、イエス様を信じ受け入れるときに、新しい法則に生かされることになります。命の霊の法則です。聖霊が注がれ、聖霊が罪に打ち勝つ力を与え、結果として命に入れられるのです。

  罪の存在からの救い

イエス様の御名にある救いの最も素晴らしい恵みは、罪の支配、罪の影響から救ってくださるばかりか、やがて、それこそイエス様が再び来られる時に、罪の存在そのものから救われることです。罪が存在しなくなります。それが20節で語られた「慰めの時」でもあり、全く新しい新天新地が到来するときに実現することが約束されているのです。黙示録21章のあの聖句をもう一度読みます。「目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。」何故でしょうか。罪の存在そのものが全く無くなるからなのです。

.御名を冠する信仰

使徒ペテロが逮捕された裁判の席で、「この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下のこの名のほかに、人間には与えられていないのです。」(12節)と語ったと申しました。この救いという言葉は、全てを包括している用語です。罪が赦され、神との正しい関係が回復されたクリスチャンには、それこそ、全ての救いが包括的に約束されているということです。使徒3章の美しい門での奇跡物語は、その救いの典型的な一例でしょう。しかし、私は今日、ここで所謂「繁栄の神学」を語ろうというつもりはありません。つまり、「イエス様を信じれば、何もかもうまくいくことになるのですよ、だからイエス様を固く信じなさい」と単純に語ろうということではありません。それはご利益宗教のお題目であって、そこには、神様と自分との関係、人間としての人格的成長、信仰的理解の深まりなどは入る余地がありません。権威あるイエス様の御名にある救いを、日々現実に体現する道が、今日、この聖書箇所に明確に教えられているので、最後に確認しておきましょう。

  悔い改める

イエス様の御名にある救いを経験する第一のステップは悔い改めることです。ペテロは19節にこう勧告しています。「だから、自分の罪が拭い去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」悔い改めるとは、今まで生きてきた方向を転じて神の方に向くことです。それによって今までしていた間違った罪過ちから離れることです。間違った人間関係があるなら、それを止めることです。間違った習慣があるならそれをやめて離れる決断をすることです。そして悔い改めて立ち帰るとは、現代の神の民である教会の群れに洗礼を受けて加わることです。9月1日に3人の方々が洗礼を受けたことはその意味ですね。彼らはそれまでの生き方の方向を転じて、主なる神に向き、神の民である教会に立ち帰られたのです。

  御名を信じる

その上でイエス様の御名を心で受け入れ信じることです。16節で語られている使徒ペテロの言葉には、二つの信仰が語られています。一つにペテロはこう語りました。「このイエスの名が、その名を冠した信仰のゆえに、あなたがたの見て知っているこの人を強くしました。」この足萎えの男を強くしたのは「その名を冠した信仰」の故だというこの信仰は、ここで奉仕したペテロとヨハネの信仰のことです。ペテロもヨハネも人々に救いの務めを果たすよう召された奉仕者でした。彼らに絶対的に不可欠なのは、主イエスに対する絶大な信仰です。イエス様の御名を、信仰をもって宣言するときに、はじめて聖霊の力が表されるのです。ペテロが「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と命じたとき、その彼らの信仰のゆえに聖霊が働かれました。主は「からし種一粒ほどの信仰があれば、山に向かって海に移れと命じても山は動くのです」と約束されました。更にペテロが「その名による信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全に癒やしたのです。」と言うときには、その信仰とは、強められ癒され立ち上がった足萎え自身の信仰のことです。

イエス様の癒しや奇跡の働きで、常に主が語ってこられた言葉は「あなたの信仰があなたを救いました。」でした。全知全能であられるイエス様には何でもすることができます。しかし、そのお力を引き出すのは本人の主に対する生きた信仰なのです。信仰は恵みを受け取る手です。あの足萎えがその時点で、イエス様の御名に対する知識がどれ程あったのかは定かではありません。しかし、使徒ペテロがイエス様の御名を宣言したときに、聖霊によって彼には、信じる信仰が賜物として授けられたのではありませんか。私たちが主の働きに召し出されて、必要を持てる人々に対して何らかの務めを成そうとする時に、私たちが主を信じて働きを進めるときに、主はその働きを受ける人々にも、働きかけて信仰を賜物として授けてくださるに違いないのです。

  祝福に預かる

その時、務めを成す者が主の御名を信じ、務めを受ける者が主の御名を信じる時、主の御名によって祝福がもたらされるのです。26節「それで、神はご自分の僕を復活させ、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、この方があなたがたを祝福して、一人一人を悪から離れさせるためでした。」祝福とはこれから良いことが起こることです。美しい門で足萎えが癒されたのは、悔い改めて立ち帰り、キリストの十字架と復活の恵みに預かり、祝福されたことそのものです。教会とは、主イエス・キリストによる救いの恵みと祝福にあずかる者の群れです。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方が満ちておられるところです。」と新約エペソ1章23節に語られていますね。であるとするなら、教会はイエスの御名にある救いの祝福が満ち満ちているところなのです。あなたの必要は何でしょうか。あなたは何を求めて今日教会に来られておられるのでしょうか。主ご自身がこう言われました。「私の名によって願うことを何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。私の名によって願うことは何事でも、私がかなえてあげよう。」」(ヨハネ14章13、14節)

主イエスの御名には権威があります。主イエスの御名により人は救われることができます。主イエスの御名を信じるならば、間違いなく祝福されるのです。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がりなさい」と人々に働きかけることができる信仰をいただきましょう。またナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がる信仰を賜物としていただきましょう。「もし信じるなら神の栄光を見るであろう、と言ったではないか」主は今も生きておられます。権威ある御名を信じ受け入れ、主の栄光を私たちも、この新しい週の歩みの只中で見させていただこうではありませんか。

11月10日礼拝説教(詳細)

「右か左か分岐点」  創世記13章1〜18節

アブラムは妻を伴い、すべての持ち物を携え、エジプトからネゲブへと上って行った。ロトも一緒であった。アブラムは家畜や銀と金に恵まれ、大変に裕福であった。彼はネゲブからさらにベテルまで旅を続け、ベテルとアイの間にある、かつて天幕を張った所までやって来て、初めに祭壇を造った場所に行き、そこで主の名を呼んだ。

アブラムを一緒に行ったロトもまた、羊の群れと牛の群れと多くの天幕を持っていた。そのため、その地は彼らが一緒に住むには十分ではなかった。財産が多く、一緒に住むことは出来なかったのである。それで、アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが生じた。当時、その地にはカナン人とぺリジ人が住んでいた。

アブラムはロトに言った。「私たちは親類どうしなのだから、私とあなた、また私の家畜を飼う者たちと、あなたの家畜を飼う者たちとの間で争い事がないようにしたい。あなたの前には広大な土地が広がっているではないか。さあ私と別れて行きなさい。あなたが左にと言うなら、私は右に行こう。あなたが右にと言うなら、私は左に行こう。」

ロトがヨルダンの低地一帯を見回してみると、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったので、その辺り一面は、主の園のように、またエジプトの地のように、ツォアルに至るまであまねく潤っていた。そこでロトは、ヨルダンの低地一帯を選び取った。ロトは東の方へと移って行き、こうして彼らは互いに別れた。アブラムはカナンの地に住み、ロトは低地の町に住んで、ソドムの近くに天幕を移した。ソドムの人々は主に対して、極めて邪悪で罪深かった。

ロトが別れて行った後、主はアブラムに言われた。「さあ、あなたは自分の今いる所から北、南、東、西を見回してみなさい。見渡すかぎりの地を、私はあなたとあなたの子孫に末永く与えよう。私はあなたの子孫を地の塵のように多くする。もし人が地の塵を数えることができるなら、あなたの子孫も数えることができるだろう。さあ、その地を自由に歩き回ってみなさい。私はその地をあなたに与えよう。」アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住み、そこに主のための祭壇を築いた。

.下降上昇

最初に1節を読みます。「アブラムは妻を伴い、すべての持ち物を携え、エジプトからネゲブへと上って行った。ロトも一緒であった。」この創世記13章はそれ自体で完結していません。11章、12章の出来事に連続している箇所です。11章の後半には、アブラハムの系図と誕生が記されています。アブラハムは古くBC2000年頃の人であったようです。古代メソポタミア地方に住んでいたテラに、アブラム・ナホル・ハランの3人息子が生まれ、アブラハムはその長男でした。その長男アブラハムが、何故か主なる神に突然、郷里を離れて約束の地へ行くように呼びかけられたのです。「あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい。」(1節)そして、その要請に応じたアブラハムがカナンの地へ、一族郎党を引き連れ、出かけて行ったことが、12章前半に記されているのです。彼が出立した時は75歳でしたから後期高齢者ということになります。神から約束された地について間も無くですが、彼らを待ち受けていたのは、それは厳しい旱魃飢饉でした。沢山の牛や羊の牧草を確保できなければ死活問題です。その時、アブラハムの問題解決手段は、カナンの地を去り、肥沃豊穣なエジプトに下り、家族と家畜を養い守ることでした。

しかし、そのエジプトでアブラハムは、更なる問題に対処しなければなりませんでした。それは、美しい妻のサライを妾に所望してくるエジプトの王に、妻サライを妹と偽り提供することで、自分たちの安全を確保せざるを得なかったことです。その見返りとしてアブラハムは、エジプト王に非常に厚遇され、多くの財産と奴隷を得ることになりました。ところが、主なる神が介入されました。王の宮廷に災いが下され、疫病が蔓延しました。それによってエジプト王に、サラの提供がアブラハムの偽りであったことが露呈し、アブラハム一同は、エジプトから追放処分を受けてしまったのです。

この一連の出来事が、実は13章の1節の「アブラハムは、、、エジプトからネゲブへと上って行った」の背景なのです。この「エジプトからネゲブへと上って行った」と対になる言葉が12章10節の「アブラムはエジプトへ下って行き」です。この上ると下るという言葉には深い意味があります。「エジプトに下る」というとき、このエジプトは聖書では、いつでもそうなのですが、この世的であること、人間中心であること、不信仰であることの象徴なのです。「エジプトに下る」それは霊的、信仰生活の下降減少を象徴的に表しているのです。アブラハムは、カナンの地に着くと、12章8節によれば、直ちに主のために祭壇を築いて、主の名を呼ぶ、神様に祈りを捧げる行動をとったことが分かっています。しかし、彼は、旱魃飢饉が襲って、エジプトに下ろうとした時には、主なる神様に祈ることはしていませんでした。そのため、自分の判断でエジプトに下った結果、卑劣にも自分の妻を犠牲にしてまで、多くの財産と安全を確保するような利己的な行動をせざるを得ない羽目に陥ってしまったのです。エジプトを追放されたアブラハムが、約束の地に立ち返ると、真っ先に実行したのは、「初めに祭壇を造った場所に行き、そこで主の名を呼んだ。」(4節)神を礼拝し祈ることでした。

コロナが流行る前でした。私は泉佐野市の51の町を「祈り歩き」の働きを実行していました。30分程度ですが、その町内を静かに祈りながら歩くのです。その日、市の外れの山里を歩いていた時でした、私は車を小学校近くの道路側の小さな駐車場に停め、そこを出発し祈り歩き始めました。ところが、密集した集落の狭い横丁を歩くうちに、すっかり道に迷ってしまい、自分がどこに居るかも分からず、車に戻ることができません。とうとう私は近くの店で小学校への道を教えてもらい、かろうじて停めてあった車にたどり着くことができたことを今、思い出すのです。立ち返るためには、元の場所に戻ることが肝心だということですね。信仰生活においてもそうです。自分の霊性が低下していると気づくことがあります。疲れてしまう。失敗ばかりしてしまう。人間関係がギグシャクしてうまくいかない。アブラハムはどうしたでしょうか。

「初めに祭壇を造った場所に行き、そこで主の名を呼んだ。」のです。(4節)私たちにとって霊的に立ち返るとは、聖書をまた規則正しく読み始める、忙しくても時間を割いて主と交わり祈る、教会の礼拝や諸集会に努めて出席し、聖徒の交わりを大切にすることではないでしょうか。

Ⅱ.集合離散

最初に読んだ1節を、今一度注意して読むと気づくことがあります。「アブラムは妻を伴い、すべての持ち物を携え、エジプトからネゲブへと上って行った。ロトも一緒であった。」そうです。「ロトも一緒であった」ということです。アブラハムには家族・奴隷・家畜だけではなく、自分の甥にあたるロトとその家族も一緒であったことです。この「ロトも一緒であった」という言葉は、12章4節と対句になっていますね。そこには「ロトも一緒に行った」と書かれています。アブラハムが神の招きと召しを受け、郷里を一族郎党と共に、いざ出発した中には、甥のロトとその家族がいたのです。ロトは、アブラハムの末の弟ハランの息子でした。しかし、ハランは自分の産みの親の父テラが死ぬよりも早く死んでおり、ロトはその時点では、父に死に別れておりました。ロトは、祖父のテラや叔父ナホルも住んでいる町に一緒に住んでいた方が安全であったはずです。しかし何故か、叔父アブラハムと一緒に、約束の地に同行していたのです。アブラハムは恐らく、早く死んでしまった自分の兄弟ハランの息子、自分の甥に当るロトに、親戚としての責任を覚え、心を配って連れて行ったのではないかと想像できます。

  経済蓄積

このアブラハムと甥のロトに共通していることがありました。両者ともに経済的に恵まれ非常に裕福であったことです。2節に「アブラムは家畜や銀と金に恵まれ、大変に裕福であった。」とあります。5節には「アブラムと一緒に行ったロトもまた、羊の群れと牛の群れと多くの天幕を持っていた。」と記されています。彼らが、メソポタミアの郷里を出発する最初の時点で、すでに、財産資産が十分にあったことは、12章5節で分かっております。そればかりではなく、さらにもっと裕福であったのは、彼らがエジプトに下った際に、妻サライのことで難儀に遭ったものの、エジプトの王から沢山の財産・奴隷を得ていたからでした。ここで財産資産とは、専ら羊の群れや牛の群れのことで、その世話をする奴隷たちも多数いたことが分かっています。富・財産が豊かであることは、聖書においては祝福のしるしです。それは生きる上で好ましいことです。良いことであることに間違いはありません。

  利権争奪

しかし、私たちは、ここに、あの旱魃飢饉で直面した貧困の問題とは全く別の問題、すなわち、豊かさ故の重大な問題に、アブラハムが直面したことを見せられます。それは、豊かな富の蓄積が、利権の争奪問題を、必ず引き起こすことになるということです。6節にこう記されています。「そのため、その地は彼らが一緒に住むには十分ではなかった。財産が多く、一緒に住むことはできなかったのである。」非常に皮肉な話ではありませんか。飢饉旱魃で貧困にさらされた時には、寄り添い、助け合い、励まし合えた間柄であったのに、今こうしてお互いに裕福になると、仲良く共同して生活することができないというのです。古代社会のアブラハムやロトのような人々を、社会学の分類では小家畜遊牧民と分類されます。彼らはそういう類の遊牧民でした。カナンの地には、既にいくつもの原住民族が都市国家を形成して住み分けていました。彼らは農耕する畑地を所有しており、家畜を養うのに必要な牧草地が決まっていました。そこに外部から移動して分け入り、家畜を養い生計を立てる遊牧民は、現地の住民と合意の上で、平和に移動しつつ生活しなければなりません。そうであれば、なおのこと、二つの群れが移動し、同じ場所で牧畜により生計を立てることは、家畜が多ければ多いほどに困難であることは明らかです。7節をご覧ください。「それで、アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが生じた。」限られた牧草、限られた井戸水の分配で、どうしても不具合が生じるのを防ぎようがなくなってきたのです。

  妥協解決

その時でした。叔父のアブラハムが甥のロトに総会の開催を提案したのです。家族会議と言ったらいいでしょうか。問題解決を話し合おうとしたのです。アブラハムは議案の提出理由をこう申し述べました。「私たちは親類どうしなのだから、私とあなた、また私の家畜を飼う者たちと、あなたの家畜を飼う者たちとの間で争い事がないようにしたい。」(8節) 親しい縁戚なのだから争うべきでないと言ったのです。アブラハムとロトが争ったのではありません。現場の家畜を飼う者達同士が争っていたことを、もうこれ以上放置することができなくなっていたのです。アブラハムの提案ははっきりしていました。それはお互いに地理的に別れて暮らそうということでした。

「あなたの前には広大な土地が広がっているではないか。さあ私と別れて行きなさい。」(9節)一緒に行動するから良くない。生活するには十分広い土地が広がっているから、私と別れることにしよう、と提案したのです。その上で場所の選択権をアブラハムは甥のロトに与え、こう発言しました。「あなたが左にと言うなら、私は右に行こう。あなたが右にと言うなら、私は左に行こう。」アブラハムとロトの関係は、叔父と甥の関係です。郷里出発に際しては、アブラハムが指導者であり、ロトは追従者でした。牧畜で生計を立てる者にとっては、牧畜に適した牧草地と水の供給が不可欠です。ですから、条件の良い地を選択取得することは、文字通り死活問題です。アブラハムはこの場で、ロトに選択権を譲渡しています。このアブラハムの選択権の放棄に、私たちは何を見るべきでしょうか。

アブラハムの甥のロトに対する親戚としての愛情と寛容の現れと見ることができます。早死にした弟ハランの息子ロトを守る責任を強く覚えたのだ、愛情を示そうとする態度だと理解できるかもしれません。或いは、アブラハムの神に対する信仰の現れと見ることもできるかもしれません。あのエジプトに飢饉で下った際には、自分で自分の安全を確保しようと、自分の妻を妹と偽ってしまった。神に信頼せず、こそくな肉の思いで失敗してしまった。そうではない。自分で行くべき道を選ばず、神に委ねることにしよう。神様に任せていれば、ロトがどちらを選んだとしても、それによって自分が不利になるように見えたとしても問題ではない。

アブラハムにとっては、豊かな土地であろうと、痩せた土地であろうと、どちらでも良かったのだ。神様が共にいて下されば、神様と共に歩んでいければ、それで良かったのだ。自分の将来は、この神様の御手の中にあるから大丈夫だ。これはアブラハムの信仰の現れだと理解できないでもありません。アブラハムは聖書では「信仰の父」と呼ばれる信仰が賞賛される信仰の勇者なのですから。

しかし、もう一つのシビアな解釈の仕方もないわけではありません。それは、これはアブラハムの弱さの現れそのものではなかったのか、という理解の仕方です。「あなたが左にと言うなら、私は右に行こう。」これは選択権の譲渡というような綺麗事ではなく、無責任な自己決断放棄ではないか。アブラハムは自分が養う責任のある家族や、沢山の家畜や奴隷を抱えていました。右に行くか左に行くか、それには彼らの将来がかかっているのに、自分で決めようとせず、何もしない、それは無責任な態度ではないのか。アブラハムはここで、12章とは違った失敗をしているのではないか。12章では、あのエジプトで、自分の安全利益確保のために、妻を妹と偽ることで、自己決断し自己選択して失敗してしまった。今ここでロトの前では、自分で判断決断することを恐れ、責任を放棄し、他人任せにし、決断逃避をしたのではないか。このような態度を、身内の者達からは、「何故叔父であるあなたが、ロトに大切な選択権を譲渡してしまったのですか。私たちの将来はどうなるのですか。」と批判され詰問されたかもしれません。

アブラハムのその後の心境は描かれません。しかし、ロトが肥沃なヨルダン川沿いの緑豊かな低地を選び、分かれていった後で、彼は自分の弱さを嘆き後悔し、惨めささに、一人しょんぼりうなだれていたのではないでしょうか。私たちはアブラハムを信仰の父、信仰の勇者として祭り上げ、模範にしたいと思うかもしれません。しかし弱さに打ち沈むアブラハムこそ、彼の真相ではないでしょうか。

.呪縛祝福

しかし、その弱さを嘆き、そのために打ち沈み、うつむいていたからこそ、アブラハムに、主なる神はこう語られるのです。「さあ、あなたは自分が今いる所から北、南、東、西を見回してみなさい。」(14節)「うつむいていないで目を上げて見まわしなさい」とアブラハムに、主は呼びかけられました。アブラハムを祝福すると召された時に約束されたその契約は変わっていないのです。アブラハムが信仰によって温情溢れる良い決断をした、神様に将来を全く委ねる良い選択をした、信仰の父だから、信仰的な英雄だから、祝福するのだということではないのです。12章では妻を自分の安全利得のために売り渡してしまうような罪と弱さを持ったアブラハムでした。今また、甥のロトの争い解決でも、弱さゆえに自分で決断することを避け、責任逃れをしてしまうようなアブラハムです。それでも約束の真実に変わりはないと、主は語られるのです。

  見回しなさい

主はアブラハムに「さあ、北、南、東、西を見回してみなさい。」と呼びかけられました。この「さあ」という呼びかけはヘブル語で「ナー」です。聖書に406回も出てくる普通の言葉です。しかし主が使われているのは僅かで、人がちょっとやそっとでは信じがたいような事柄に、注意を向けさせようとする場合に使われていることが分かります。創世記15章5節にあります。「天を見上げて、星を数えることができるなら、数えてみなさい。」ここにも原文には「さあ、数えてみなさい」と「ナー」が入っています。世継ぎがおらずに苦悩するアブラハムに、お前の子孫は星の数のようになると言われました。もう一箇所、創世記22章2節です。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。」ここでも原文には「さあ、行きなさい」と「ナー」があります。もう一箇所は出エジプト記11章2節です。「男も女もそれぞれ、その隣人から銀や金の飾り物を求めるように民に告げなさい。」モーセに対して、出エジプトに際して、奴隷時代の労働の対価を堂々とエジプトの民に請求するように命じたところです。これも原文には「さあ、命じなさい」と「ナー」があります。これは英語で言えば「プリーズ」です。「どうか、お願いだから」と神様が命令ではなく嘆願する形で語りかけておられるのです。この13章14節でも「お願いだから、どうか、目を上げて見まわしてくれないか」と主はアブラハムに嘆願されているのです。それくらい、信じがたいこと、普通ありえないことだから「ナー」どうか、お願いだから、見てくれないかと言われるのです。何という神のお心遣いでしょうか。

  与えよう

そして、東西南北、見渡す限り、全てをあなたとあなたの子孫に与えると言われるのです。それは、12章の7節で、約束の地で語られた契約の言葉と全く同じ言葉です。テモテ第二2章13節に神の真実が語られていますね。「私たちが真実でなくても、この方は常に真実であられる。この方にはご自身を否むことはできないからである。」神の素晴らしい属性の一つは真実ということです。真実とは偽ることがないことです。主はアブラハムを召された際に、「私はあなたを祝福する」と約束されました。更に、「私はあなたの子孫にこの地を与える」と約束されました。主は、この約束は、アブラハムがエジプトで妻を裏切り売り渡すような失敗をしても、ロトと争い分かれる際に、責任ある決断を逃げるような失敗をしても、変わらないと言われるのです。これは二度も失敗をして弱さに打ち沈むアブラハムにとっては、信じがたい神の約束です。10節と14節を見ると、アブラハムもロトも同じ地を見回しています。その違いは、ロトは自分で目を上げてみたのに対して、アブラハムは神様によって目を上げさせられたことです。

10節にこう言っています。「ロトがヨルダンの低地一帯を見回してみると、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったので、その辺り一面は、主の園のように、またエジプトの地のように、ツォアルに至るまであまねく潤っていた。」ロトが見た現実は、彼の目にはこの上なく好ましいものです。豊穣で潤い牧畜に最適でした。しかし彼にはその地で将来何が起こるかを見ることはできません。私たちはロトのそれ以後の顛末を、14章においては二つの軍事同盟による激烈な戦争に巻き込まれる姿を知っています。そして19章においては、ロトとその家族の住んでいたソドムが天から降り注ぐ硫黄と火により滅ぼされてしまうことを知っています。かろうじて天使の助けでロトと妻、そして二人の娘が救出されはしますが、妻が塩の柱になったこと、逃げ延びたホロ穴生活で、ロトと娘二人が性的関係を結び、二人の子供が生まれること、その二人が後のモアブ人、アンモン人の先祖となることを知っています。それは祝福の正反対の結末、呪縛そのものです。

それとは対照的に、痩せこけた高台に移動せざるを得なかったアブラハムは、主によって目を上げ、見回させられたとき、それは大いなる計り知れない祝福でありました。「さあ、あなたは自分が今いる所から北、南、東、西を見回してみなさい。」と促されてアブラハムが見せられたのは、ロトの選んだ場所をも含め、東西南北、全地でした。「見渡すかぎりの地を、私はあなたとあなたの子孫に末永く与えよう。」しかも未来永劫、アブラハムの子孫に与えると主は約束を再確認させられたのです。

勿論、その約束の成就は、アブラハムの生存中ではありません。私たちはいまだにその実現を見ていません。紀元70年に追放されたイスラエルが、2000年後、1948年に不死鳥のようにパレスチナにイスラエルを建国しましたが、依然として、その所有権が脅かされ、今まさに激烈な戦争状態に置かれています。その完全な実現成就は、主の再臨に続く千年王国時代なのです。

主は、今日私たちにも「さあ、あなたは自分が今いる所から北、南、東、西を見回してみなさい。」と語っておられます。あなたが自分の今いる所とは、自分の生活している現場のことです。あなたが住み、働き、生活している、そこから東西南北を見渡して見えてくるものは何ですか。ロトのように肉の目で見るなら見誤ることになります。自分の周囲が好ましく見えるかもしれません。失望させられるかもしれません。アブラハムが主に促されて見まわしたように見るとき、何が見えて来るでしょうか。私は新約聖書のコロサイ3章1、2節を思い起こさせられます。「あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地上のものに思いを寄せてはなりません。」私たちもアブラハムと同じなのです。約束が与えられており、その実現成就を将来に実現するのを見据えて、今の現実を生きるのです。「地上のものに思いを寄せてはなりません」とは、日々の生活を適当にないがしろにしていいということではありません。自分の責任をしっかりと果たしつつ、天の御国を目指して生きるのです。神様は、私やあなたが立派であるから、信仰がしっかりしているから、受けるに値するような優れた人物であるから、約束を実行してくださるのではありません。私たちはただ十字架の罪の赦しを信じ、イエス様を信じて恵みにより救われた赦された罪人に過ぎません。こんな私たちに神様は約束を真実に果たすと語っておられるのです。

  歩き回りなさい

主は「さあ、その地を自由に歩き回ってみなさい。私はその地をあなたに与えよう。」と更にアブラハムを促されました。その後、アブラハムは175歳まで生きながらえましたが、自分の土地として所有したのは、妻サラの墓地として買いとったヘブロンのマクペラの墓だけでした。それはほんのわずかな所有地でした。アブラハムは神が将来必ず、約束を果たされることを信じていたのです。「目を上げて畑を見る」です。これは主がヨハネ4章35節からのお言葉によるものです。主は言われました。「あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月ある』と言っているではないか。しかし、私は言っておく。目を上げて畑を見るがよい。すでに色づいて刈り入れを待っている。刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、蒔く人も刈る人も共に喜ぶのである。」主は「目を上げて畑を見るがよい。」と語っておられます。主の目には、収穫の季節に入っていると言われるのです。その時の弟子達には信じがたいことでした。しかし、主は目を上げてみるが良いと言われました。私たちも、今いる所から、信仰の目を上げ、見回すことにしましょう。そして自由に歩き回ることにしましょう。主は教会をご自分の身体として動かし、ご自身の宣教の業を押し進めたいと望んでおられるのです。「目を上げて見回してみなさい」とは、皆さん個々人のためでもあります。主に促されて自分の生活、自分の仕事、自分の家庭、自分の奉仕、自分の教会生活を見直そうではありませんか。

113日礼拝説教(詳細)

「最良の腐敗は最悪」  イザヤ44章6〜17節

イスラエルの王なる主、イスラエルを贖う方、万軍の主はこう言われる。

私は初めであり、終わりである。私のほかに神はいない。誰が私と同じように宣言しこれを告知し、私に並べ立てるだろうか。

私がとこしえの民を起こしたときから、起ころうとすること、来るべきことまで、彼らに告知させよ。恐れるな、おびえるな。昔から私はあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたは私の証人。私のほかに神があろうか。私のほかに岩があろうか。私はそれを知らない。

偶像を形づくる者は皆空しく彼らが慕うものは役に立たない。彼ら自身が証人だ。彼らは見ることもできず、知ることもできずただ恥じ入るだけだ。誰が神を形づくり何の役にも立たない偶像を鋳たのか。見よ、その仲間たちは皆恥じ入る。

職人たちは人間にすぎない。皆集まって立ち向かうが、恐れて共に恥じ入る。鍛冶職人は炭火で斧を作り、槌でそれを形づくる。力ある腕でそれを作るが腹がすけば力がなくなり水を飲まなければ疲れてしまう。木工は測り縄を張り、筆で印を付け、人の形に似せて人間の美しさに似せて造り、神殿に置く。彼は杉を切り松や樫の木を選んで林の中で育てる。また、月桂樹を植え、雨がそれを成長させる。

それは、自分の薪となる。人はそれを取って暖まり燃やしてパンを焼く。さらに、神を造ってそれを拝み偶像に仕立ててその前にひれ伏す。また、その半分を火の中で燃やしその上で肉をあぶって食べあぶり肉で満ち足りる。さらに、暖まって「ああ、暖かい、炎を感じる」と言う。そして、その残りを神に造り上げ、自分の偶像としその前にひれ伏して拝み、祈って言う。「救ってください。あなたはわたしの神だから」と。

私はすでに4年以上、教会暦に準じる聖書日課に従って説教してきましたが、今日の主題は堕落です。そこで聖書はイザヤ44章6〜17節を先ずお読みし、更に新約聖書ローマ3章23〜24章を読むことにします。

1.最良の腐敗

私が石川県松任市の教会に赴任したのは、確か39歳だったと思います。宣教師によって準備された住居兼集会所としたのは、古い二階建ての長屋の半分でした。浄土真宗信仰の強い古い伝統的な松任の町で、集会の為に家を探した宣教師に、誰も家を貸す人はおらず、かろうじて借りることができたのが古い長屋だったのです。その長屋の隣には、老夫婦とその娘夫婦が暮らしており、ご主人は市役所から委託されたゴミ回収会社に勤務する方でした。親しくなった暁に、ある時、「高木さん、これまだ食べられるから、よかったらどうぞ」と、大きな高級ハムを届けてくれたことがありました。当時は子供5人の大所帯ですから、それはそれは嬉しいお裾分けでした。ところがどうでしょうか。包装を切り開いてみれば、そのハムは見事に腐っていたのです。とてもとても食べられる品物ではありません。ですから結局捨ててしまいました。聖書によれば、人間はこの腐ったハムのようだと言われます。「人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっています」(ローマ3・23)この「神の栄光を受けられなくなっています」とは、人間が腐り果ててしまったということに他なりません。

  創造された人間

古くて新しい問いですが、私たち人間とはどうして存在しているのでしょうか。当たり前のようでいて当たり前でないことです。この質問に対する答えとしてよく知られている回答は二つで、その一つは、進化の結果とする意見、もう一つは神による創造の結果とする見解です。左右対称の絵を見ると、見方によっては顔に見えもし、壺に見えもするシンメトリー、左右対称の愉快な絵をご存知でしょう。万物自然も同じで、その人の見方によっては進化した結果だと言われれば、なるほどそうだと納得できないわけではありません。しかし、聖書は違うのです。天地を創造された神が人間を人間として造られた、神の創造の結果、私たち人間は存在するようになったと教えます。

  最高最良の人間

しかも聖書によれば、人間は神の創造されたすべての被造物の中でも最高傑作だ、と教えられます。創世記1章 27 節を見てください。「神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し、男と女に創造された。」この「神のかたち」のかたちは英語ではイメージです。神はご自分をイメージし、ご自分をモデルとし、人間をご自分に似せて造られたと言われているのです。その他の一切の被造物のどれも、それがどれほど美しく巧妙に魅力的に見えたとしても、神のイメージによって造られたものはありません。と言うことは、人間は神の創造の最高傑作だと言うことなのです。人間に優るものはありません。そればかりではありません。この創世記1章を一節づつ、追って読み進むと分かることです。その創造の段階毎に、「神は見て良しとされた」と繰り返され、その 6 回目、31節では「神は、造ったすべてのものをご覧になった。それは極めて良かった」とあるではありませんか。ベリー・グッドなのです!中でも最後に人間が創造された直後ですから、人間はその意味でも最良完全であったと言うことができるのです。

  腐敗堕落の人間

ああ、それにもかかわらず、と言わなければなりません。聖書が「人は皆、神の栄光を受けられなくなっています」、人は腐れただれて、腐臭紛々だと言われるのは何故でしょう。最高最良なるものが最悪になったと言われるのは何故でしょうか。それは人間が罪を犯した結果なのです。犯した罪が人を腐敗させたのです。そして、その人を腐敗させ堕落させた罪が、何であるかを見事に解明しているのが、実は今日の聖書箇所なのです。それは一言で言い表すとすれば、人間が自分の手で神ならぬものを神とする偶像を作り上げた、と言うことに尽きるのです。9 節には、「偶像を形づくる者は皆空しく、彼らが慕うものは役に立たない。彼ら自身が証人だ。彼らは見ることもできず、知ることもできずただ恥じ入るだけだ。」と記されます。この9〜17節は、偶像を造り、偶像を崇拝することが、いかに空しいかが、皮肉たっぷりに批判されている箇所です。12 節には、鍛治職人が偶像を作る有様が描かれます。13節からは木工職人が偶像を作る詳しい工程が描かれます。

第一に偶像を掘り出す木材となる木を選んで植樹育成します。

第二に伐採した樹木の一部を暖房用に使い、一部をパンを焼いたり、肉を焼く調理用の薪として使い、その残りの良質の部分を偶像に仕立て、その前で礼拝し、「救ってください。あなたは私の神だからと」祈るのです。

13節は注目に値する描写です。その木材から道具を使って掘り刻む手順が描かれます。「人の形に似せて、人間の美しさに似せて造り、神殿に置く。」これは実に皮肉な描写ではありませんか。創世記1章では、人間は神の形に似せて造られたと記されているのに、ここでは、偶像は人の形に似せて造られたと描写されているのです。ここに偶像崇拝の本質が啓示されているのです。

偶像崇拝とは人間自身を、自分自身を神格化することであると言うことです。自分の手で造った偶像に向かって「救ってください。あなたは私の神だから」と祈るのは、偶像を動かし、偶像をコントロールし、偶像を支配しやらせようとすることです。偶像崇拝では、祈願する際に、様々な呪文を唱えるのが常です。自分の益となるように神々をコントロールする作業であり、それは、自分自身が絶対者であること、自分が実は神様であることを意味することになるのです。エデンの園で、善悪を知る木から取って食べる誘惑の根本がここにありました。サタンは、女のエバをそそのかし、こうささやきました。「それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているのだ。」(創世記3・5)罪の本質とは、神ではないのに自分を神とすることです。唯一の真の神を否定し、自分を神格化することが罪の本質です。金属を打ち叩いて造る偶像、木材から掘り刻んで造る偶像が、全てではありません。

人間は自分を絶対化、神格化する偶像を有形無形、ありとあるゆる形で造りだします。その最たるものが経済です。お金です。富財産です。富財産をふんだんに自由自在に使えれば、幸福を我が物とすることができると思い込むことです。政治権力も偶像となります。政治権力を自在に操作することの背景には、自分を神格化する誘惑が潜んでいるのです。私たちは、この度の衆議院選挙の争点の一つが裏金議員問題であったことを知っています。その裏金議員の所属する支部に2000万円の政治活動資金を自民党本部が、選挙終盤に支給したことを共産党の赤旗がすっぱぬき、喧伝されたために、一挙に自民党支持が減少してしまったと言われています。政治制度そのものは良いのです。善なるものです。だが、最善最良が腐敗すると最悪なのです。最近の報道によれば、インターネットで世界的規模の事業を展開するグーグルやアップル、通販の Amazon が、次々とアメリカの原子力発電所と個別に契約を結び、大量の電力を取得しようとしていると伝えていました。何かと思えば、今注目される A I の運用のために、大型コンピューターを動かす膨大な電力を必要とするからなのです。人工知能 (AI) とは、人間が知能によって遂行している問題解決や意思決定といった能力を、コンピューターをはじめとする機械を用いて模倣および再現するものです。私は、これこそ現代の善悪を知る木ではないかと考えさせられています。どんな動画でも描ける。疑問や問題を提起すれば、必要な回答をコンピューターが瞬時に策定し、文章化してくれる。今やどの分野でも、この(AI) が不可欠と見做され、開発され活用されてきました。それは13節に記される「人の形に似せて、人間の美しさに似せて造る」偶像の典型となりかねません。

.最悪の処罰

人が偶像を造り拝むこと、偶像崇拝によって、実は自分自身を絶対者なる神とすることは、最良の人間の堕落腐敗です。私は、実に見事な高級品のハムを貰った時、それが腐っていることに気づいた時に、直ちに捨ててしまいました。最初に造られた人間、アダムとエバが誘惑に負けて、罪を犯した結果、神様はどうされましたか。彼らをエデンの園から追放されてしまいました。では、このイザヤが預言した時代のユダヤの人々はどうであったのでしょうか。

ユダヤ人の先祖はアブラハムです。アブラハムは神が特別にご自分の民を起こすために最初に選ばれた人物でした。アブラハムからイサクが生まれ、イサクからヤコブ、ヤコブから12部族が作られ、彼らは神の民として選ばれた民族でした。神の民である、その意味では、最良の民族でした。しかし、アブラハムから1300年後の彼らは、最悪の状態に置かれていたのです。国は分裂し、北イスラエル、南ユダに分断され、北イスラエルは B C722年にアッシリア帝国に滅ぼされてしまいます。それから100年後には、南ユダ王国もバビロンに滅ぼされてしまうのです。何故でしょうか。それは最良の民族が腐れ果てたためです。腐敗したために神様に捨てられてしまったのです。彼らを愛し彼らを選んでくださった真の唯一の神を捨て、神ならぬ神々、偶像を取り入れ、偶像崇拝に陥り堕落してしまったからなのです。イザヤ書の冒頭、1章2節からの預言を聞いてください。「天よ、聞け。地よ、耳を傾けよ。主が語られる。私は子どもたちを育て上げ、大きくした。しかし、彼らは私に背いた。牛は飼い主を知っており、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らない。私の民は理解していない。災いあれ、罪を犯す国、重い過ちを負う民、悪をなす者の子孫、堕落した子らに。彼らは主を捨てイスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。なぜ、あなたがたは再び打たれ、背き続けようとするのか。頭はどこも傷つき、心は全く弱り果てている。」ユダヤの民は、主に背いてどうしましたか。主を捨ててどうしましたか。彼らは中東パレスチナの周辺の豊穣神アシタロテやバアルを取り込み、偶像崇拝者に堕落してしまったのです。

神は偶像崇拝に堕落した北イスラエルをアッシリア帝国によって罰し、懲らしめられました。神は偶像崇拝に堕落した南ユダ王国をバビロン帝国によって罰し、懲らしめられました。人間をご自身の似像に創造された神は、神を捨て、自分を神とするすべての人を怒り、懲らしめられます。神のすべての人間に対する怒りが、いかなるものかを明らかにしているのがローマ章の1章です。18、19節には神様が怒られる理由がこう述べられます。「不義によって真理を妨げる人間のあらゆる不敬虔と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らには明らかだからです。神がそれを示されたのです。」その神の怒りが具体的にいかなるものかを24節から読み進む時に、その意外さに驚かされます。神の怒りとは一言で言えば、人間をしたいようにさせること、神が放任されておられると言うことです。私たちの間でもこう言いませんか。「人は言われているうちが華なのではないか」と。いくら言っても言うことを聞かなくなったら、その人を「ほっておけ」と好きなように放任するしかないでしょう。

神の前に、実は、すべての人間の状況とは、そう言うことなのです。人間が自分でしたいように、神様が放任されてしまったと言うことなのです。したいことを好き勝手にできるのならそれは、それこそ自由でいいことじゃないか。こんなありがたいことはない。そうではありません。放任されてしまうとは、まさにそれは最悪の状態だと言うことです。22節、見てご覧なさい。「自分では知恵ある者と称しながら愚かになり、不滅の神の栄光を、滅ぶべき人間や鳥や獣や地を這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」これは、人間が偶像崇拝に陥るのを、神が放任されておられるということです。24節、見てご覧なさい。「そこで神は、彼らが心の欲望によって汚れるに任せられ、こうして、彼らは互いにその体を辱めるようになりました。」これは、人間が性的な倒錯に陥るままに、神様が放任されていると言うことです。性的解放という名目で、性的道徳があらゆる世界で紊乱しています。結婚外の性的関係、結婚しない男女の性的不品行、男と男、女と女の同性愛関係が、当たり前のこととなりつつあります。 28節、見てご覧なさい。「彼らは神を知っていることに価値があると思わなかったので、神は、彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」これは、人間が神を見捨てたので、歪んだ意志の働くままに、神様が人間を放任されたということです。29、30節には、その恐るべき意志の腐敗が列挙されているではありませんか。「あらゆる不正、邪悪、貪欲、悪意に満ち、妬み、殺意、争い、欺き、邪念に溢れ、陰口を叩き、悪口を言い、神を憎み、傲慢になり、思い上がり、見栄を張り、悪事をたくらみ、親に逆らい、無分別、身勝手、薄情、無慈悲になったのです。」ここだけでも21列挙されます。最良の人間の腐敗の最悪は、罪のしたい放題放任されるということです。

.証人の喚問

しかしながら、私たちに今日、このイザヤ44章を通して、神様が腐敗して最悪な私たち人間に対して成された、驚くばかりの業を告げ知らせておられるのです。

唯一性の宣言

その驚くばかりの神様の業とは、第一に神様ご自身が、唯一の神であることを力強く啓示されたことです。6節にこう語られています。「イスラエルの王なる主、イスラエルを贖う方、万軍の主はこう言われる。私は初めであり、終わりである。私のほかに神はいない。」これは強烈な主なる神の唯一性の宣言です。主は「私のほかに神はいない」と宣言されます。多神教の古代世界において、これは特別な宣言です。8節でも唯一性が強調されこう語られます。「私のほかに神があろうか。私のほかに岩があろうか。私はそれを知らない。」ここでは神が避けどころを意味する岩に喩えられます。人が真の意味で助けを必要とするとき、避難できる堅固なシェルターとなる神は、他にないと主張されるのです。そして、神様の称号を三つ掲示され、「私はイスラエルの王なる主である」、「私はイスラエルを贖う者である」、「私は万軍の主である」と主張されます。9〜17節まで、皮肉たっぷりに語られる偶像の制作と偶像崇拝者の虚しさは、その神の唯一性を浮き彫りにする背景のようなものです。主なる聖書の神様は、比較することのできない唯一無比の神様なのです。

  唯一性の論拠

その驚くばかりの神様の業は、第二に主なる神がその唯一性の証拠、論拠を明らかにされたことです。それが7節の意味するところです。「誰が私と同じように宣言しこれを告知し、私に並べ立てるだろうか。私がとこしえの民を起こしたときから、起ころうとすること、来るべきことまで、彼らに告知させよ。」これは神様の唯一性の根拠、証拠、論拠が、歴史にあるということです。歴史とは、時間空間の中に起こった出来事の記録です。しかし、歴史上の出来事のすべては、偶然・偶発、単なる人間の恣意行為の連続ではなく、神の意志により支配され、動かされていることにあります。神様がアブラハムによりイスラエルを神の民として起こされた目的は、彼らが自分たちの歴史体験のただ中に、神の支配を悟り知るためであったのです。神様はイスラエルに、預言者を通して、繰り返し繰り返し、予め何が起こるかを予告されました。旧約聖書に、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルを初め、16名の預言者がその語った預言が記録されているのは、そのことを指し示すものです。これらの預言者は、自分の立てられた時代の王たちと民衆に、神がなさろうとするご計画を、語ってきたのです。王をはじめ神の民は、歴史の只中で、その一部始終を見聞きし、その肌で直に感じ取ってきたのです。「誰が私と同じように宣言しこれを告知し、私に並べ立てるだろうか。」と語られる時、人の手で造られた偶像を指し示されるのです。「私がとこしえの民を起こしたときから、起ころうとすること、来るべきことまで、彼らに告知させよ。」偶像に分かっていたなら告知させよ。そんなことを偶像ができるわけがないだろう。その具体的な実例が、実は今日読まれてはいない44章の最後に具体的に預言されています。それは、バビロン捕囚の民を解放することになるペルシャ帝国の初代王クロス出現の預言です。44章28節、続いて45章1節を読んでみるとこうです。「また、キュロスについて、「彼は私の牧者、私の望みをすべて実現する」と言い、エルサレムについて、「それは再建され、神殿は基が据えられる」と言う。主は油を注がれた人キュロスについてこう言われる。私は彼の右手を取り彼の前に諸国民を従わせ、王たちを丸腰にする。彼の前に扉は開かれどの門も閉ざされることはない。」歴史上ペルシャ帝国が、バビロンを打ち倒し、捕囚の神の民に解放命令を宣言したのは、B C538年ですから、預言者イザヤは、この歴史的出来事を200年も前に、予見して語っていたということです。神の唯一性の決定的な根拠はその歴史にあります。

証人の喚問

その唯一、真の神が歴史の只中で、遙か古から語り約束し、人間救済の為に成し遂げられた業こそ、救い主イエス・キリストの十字架の贖いの業に他なりません。6節に主は「イスラエルを贖う方」と啓示され、主は人類全体を贖う方として、御子イエス・キリストをこの世に遣わされ、罪の奴隷であった私たちを救済するために、救いの業を完成なされました。あと2ヶ月で2025年を迎えようとしています。西暦の起源は何処にありますか。キリストの降誕です。ですから、紀元前は B C、基督以前と呼び、紀元後を A D、ラテン語でアノ・ドミニ、主の年と呼ぶのは、歴史上に成された神様の救いの業が根拠なのです。主はイザヤを通して、B C538にバビロン捕囚からの歴史的な解放を経験することになる、神の民に対して、「恐れるな、おびえるな。昔から私はあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたは私の証人。」と呼びかけ、彼らに主なる神の歴史的証人となるよう求められました。主は、今や、十字架の救いに預かった、ここにいる私たちに対しても、「あなたがたは私の証人」と語られるのです。最良の民であったのに偶像崇拝に走り腐敗し堕落し最悪となったユダヤ人たちを、主はバビロンから解放し、証人に立てられました。何も知らず、罪の中に生まれ、罪禍の中に死んでいた私たちをも、主は、十字架の救いの証人としてお立てくださっているのです。今日、私たちは、聖餐式に預かろうとするのですが、十字架の故に罪赦され、唯一の神の子とされたことを確認し、感謝しましょう。そして、歴史支配をその唯一性の根拠とされる神様の証人として立たせていただきましょう。主は6節で「私は初めであり、終わりである。私のほかに神はいない。」と語られました。万物を開始された神様がすべてを完成させてくださいます。あなたの人生を、私の人生を開始してくださった主が、きっと最善に完成してくださいます。すべてを主の御手に委ね、今週の日々を祈りつつ、証人として生かしていただきましょう。