7月28日礼拝説教(詳細)
「知恵分別の秘訣」 箴言 9 章10節
「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることが分別。」
今日は聖書の箴言9章10節をお読みします。もう大分以前のことですが、まだ妻と私がウイーンに滞在していたある年末に、チェコのプラハで年末年始の休暇を取る機会がありました。ウイーンからプラハまで車でナビに頼って行ったのですが、プラハに入り、ある村を夕暮れに通過する際、ナビの指示に従って交差点で曲がって細い道を進むと、どんどん鬱蒼とした森の中に入り、行き着いた先には小さな沼があるだけでした。辺りは真っ暗で不気味で、とんでもないところに来てしまったと思い、何とか U ターンして戻ったことが今でも鮮明に思い出されます。実は、この10節が置かれた箴言9章は、文学的な修辞法で交差配列法で書かれております。この交差配列法というのは、X の形に交差する2本の線を意味しており、その交差する中心点に、最も重要なメッセージが置かれているとされるものなのです。その1本の線に相当するのが1〜6節です。交差する 2 本目の線に相当するのが、13〜18節となるのです。すると、その交差する中心点はどこですか。それが今日お読みした10節なのです。この聖書の書名は「箴言」です。箴言と訳されるヘブライ語のマーシャールは、「たとえ、比喩、なぞ」を意味し、それによって教育する教育法です。ですから、箴言1章の2節から読むと「これは知恵と諭しを知り、分別ある言葉を見極めるため。」に始まり、6節まで、その目的が詳しく語られているのはそのためなのです。
1.交差の人生
では、今日開かれている箴言9章が何を私たちに教えているのでしょう。それは、人の生きる人生は、全く違った2本の線が X の形で交差しているようである、ということです。
① 二つの招待
では最初に、1 本目の線の箇所、1〜6節を読んでみましょう。続いて 2 本目の線に相当する13〜18節を読んでみましょう。直ぐに読んで分かることは、第一の線は、知恵、あるいは知恵の女による呼び掛けで、第二の線は、愚かな女による呼び掛けであって、全く違っているということです。と同時に分かることは、呼びかけの言葉として「思慮なき者は誰でもこちらに来なさい。」というフレーズが、両者とも全く同じであることです。それは4節、16節にありますね。さらに、二つの線に共通している点は、両方とも自分の調理した食事に、人々を招待していることです。5節に「来て私のパンを食べ、私が調合したブドウ酒を飲むがよい」とあります。17節には「盗んだ水は甘く、隠れて食べるパンはうまい」とあります。これから言えることがあります。
人の生きる人生には、全く違っているが、しかしそれでいてよく似たような二つの招待が交差しているということなのです。そして、第一の招待者である知恵、ないしは知恵の女がさし示しているのは主イエス・キリストであり、第二の招待者である悪い女が指し示すのが悪魔でありサタンです。この第一の線として人の人生を貫いているのは、主なる神・イエス・キリストの招きの御言葉です。そして第二の線として人の人生を貫いているのが、サタン・悪魔の誘惑の言葉なのです。この二つの全く違ったラインが、方向の違った招きが、私たちの目には見えないのですが、世界を交差し、すべての人の人生を交差しているのです。
② 二つの結果
その二つの全く違った招待の言葉に応じる人の結果は、全く違ったものになります。第一の招きの結果は、11節の言葉です。「私によって、あなたの日は増し、あなたの命の歳月は加わる」その結果は非常に祝福に満ちたものになるということです。ところが、第二の招きの結果はどうでしょう。18節の言葉です。「そこに死者の霊がいることを、彼女に誘われた者が陰府の深みにいることを知る者はない。」そうです。その結果は、それは恐ろしい死と呪いに満ちたものになることです。イエス様は悪魔についてこう語られました。「悪魔は初めから人殺しであって、真理に立ってはいない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、偽りの父だからである。」(ヨハネ8:44)悪魔は狡猾な偽り者です。
先週のこと、金融詐欺グループ90名が警察に摘発されたと報道されました。ある被害者の若い女性が90万円を振込み騙し取られたのです。彼らはSNSで知り合った人に、儲かる投資を呼び掛け、巧みに詐欺行為を展開し、このグループが詐欺の稼いだ総額は10億円に上ると言われています。その背後には間違いなく悪魔が介在しているのです。何故なら、悪魔は「偽りの父」だからです。
③ 唯一の真理
そして、その二本の全く違った線の交差点に、実は隠された唯一の真理が秘められています。それが今日、お読みした10節の言葉「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることが分別。」なのです。人が自分の人生を生きる上で、一番肝心なもの、一番重要なこと、大切なもの、宝とするべきこと、それは、「主を畏れること」なのです。この10節そのものがまた修辞法で、並行法で書かれています。同じことが別な言い方で表現されています。つまり、「主を畏れること」は「聖なる方を知ること」です。この箴言の後に続く書は「コヘレトの言葉」ですね。その冒頭の出だしをご存知でしょう。「空の空、空の空、一切は空である。」とあります。この書の著者は、自分の地位と財産と力の全てを結集して、自分を満足させようと、一切合切、試して実行してみました。ところがその結果、何もかも「空の空」だと分かった、と言うのです。一切が虚しい、儚い、風を追うような掴みどころがない、と言うのです。その結論をご存知ですか。
12 章の最後に、彼はこう感動的に結ぶのです。「聞き取ったすべての言葉の結論。神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。」これを口語訳で言うとこうです。「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。」これはどういう意味ですか。「人間のすべてである。」また「人の本文である。」、それは、人間の、人間としての存在目的は、神を知ることであると言うことなのです。この真の神を知ること、神を畏れることが、知恵と分別の初めなのです。人は真実な意味において、人生のスタートラインに立つことになるということなのです。
この箴言の大半を書き表したのはソロモン王です。偉大な父ダビデの後の国を治める王として継いだソロモンは、神を畏れ敬い、神にこう祈りました。(列王記上3:8)「わが神、主よ。この度、あなたは父ダビデに代わって、この僕を王とされました。しかし、私は未熟な若者で、どのように振る舞えばよいのか分かりません。僕はあなたがお選びになった民の中の一人ですが、民は多く、その多さのゆえに数えることも調べることもできません。どうか、この僕に聞き分ける心を与え、あなたの民を治め、善と悪をわきまえることができるようにしてください。そうでなければ、誰がこの数多くのあなたの民を治めることができるでしょうか。」私たちは、その祈りが神に聞かれ、ソロモンに優れた知恵と分別の与えられたことを、あの列王記上3章に記録される二人の遊女の審判で知っております。
ある日、二人の子持ちの遊女が裁きを求めて王に訴えでました。二人の遊女は、ある夜一緒にそれぞれ自分の子供を抱いて寝ていました。ところが、片方の遊女は誤って自分の子を押し潰して死なせてしまいます。そして寝ている間に相手の遊女の懐の子供と取り替えてしまいます。二人の遊女は、ソロモン王に生きている子供が誰のものか裁いて欲しいと願い出たのです。ソロモンはどうしたでしょうか。その訴えで王は、家来に命じ、剣で生きている子供を二つに切り裂いて、二人に分け与えるよう指示したのです。するとその時、本当の母親が中止を求め、辞退を申し出ます。もう一方の遊女は、そうしてくれとそれを是認するのですが、その時、王の判決が下りました。剣で切り裂くのを止めた母親が本当の母だとして、子供を返してあげたという裁判です。
私たちの生きる人生においても、どれほど、知恵と分別とが必要でしょうか。感謝なことに、主を畏れ、神を知る時に、いかなる場合でも、主が賜物として知恵と分別とを分け与えてくださるのです。
Ⅱ.択一の人生
この交差配列の箴言で第二に教えられているのは、この全く違った招待のラインが交差する私たちの人生において、知恵分別を与えられ、二者択一の選択を誤らないようにすることです。人間は神によって創造され、神に似せて造られました。それゆえに、神が自由な選択の意志を有するように、人間もまた選択する自由意志が与えられています。人生は、すなわち人が生きることは、正しく選択の連続であります。今、ここにおられるお一人お一人が、今あるのは、自分自身の意志による選択の結果ではありませんか。
① 思慮なき者の自覚
第一にここで教えられている人生の選択において、わきまえておくべきことは、自分はどこまでも 死ぬまで、思慮なき者、浅はかな者であることを謙虚に認めることです。知恵によっても愚かな女によっても、呼び掛けられている者は「思慮なき者」(4節、16節)です。それを別な言い方で、同じように「浅はかな者」と言われています。別訳では「思慮に欠けた者」であり「知恵に欠けた者」です。招待された者に共通するのは、思慮なき者、浅はかな者です。しかしどうでしょう。自分を思慮なき者、浅はかな者と素直に思うこと、認めることには抵抗があるかもしれません。取り分け、高度の学歴を有する人、人生のスイも甘いも経験した人、歳をとった経験豊かな老人には難しいかもしれません。しかしながら、真理はここにあるのです。人間はどこまでも不完全なのであって、知恵分別においては、完全ではあり得ないのです。私たちは、こんなにも名誉、地位、学問がある人が何故、こんな過ちを犯したのだろうかと、首を傾げたくなるような事例を見聞きしないでしょうか。具体的に例を挙げるまでもないことです。人は、自分がマシな人間だ、分別ある人間だ、あの人よりも賢いと思った瞬間から、健全な選択の道から外れてしまうことになります。
② 知恵ある人の自覚
第二に人生の選択において教えられていることは、自分を知恵ある人と自覚することです。それでは、今語ったことと矛盾したように思えるかもしれません。7〜9節をみて下さい。そこに対照的なタイプが挙げられています。嘲(あざけ)る者と悪き者、そして知恵ある人と正しき人です。
この嘲る者と悪き者を聖書は一つの言葉で愚か者と呼ぶのです。愚かは愚かでも、聖書の言う愚か者とは、知能指数が低いとか、学歴が無いとか、そう言う意味での愚かではなく、ただ一つの点、すなわち神を信じない者のことを指すのです。その一方で、知恵ある人、正しき人を、一言で言えば、それは心から神を信じる者のことなのです。世界には、数多の人が、人種も文化も言語も異にしていますが、80億を超える全世界のすべての人は、この愚か者か信者かに分けられることになります。不愉快に聞こえるかもしれませんが、神を信じない者は、愚か者なのです。
詩篇14篇1節に明確にこう記されています。「愚か者は心の中で言う、『神などいない』と。」そうです。どんなにカッコよく、論理的に神を否定することができたとしても、その人は神の目には、愚か者なのです。新約聖書のルカ12章では、主が「愚かな金持ち」の譬えを語られたことが知られていますね。その金持ちとは神を信じない豊かな農夫のことです。その年、大豊作でその処分に困り、大きな倉を立て直し、すべての収穫物を収納した暁に、この豊かな金持ちの農夫は、自負してこう自分に言い聞かせたのです。「自分の魂にこう言ってやるのだ。「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」』しかし、神はその人に言われた。『愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか。』」(12:19、20)この農夫の根本的な愚かさは、長寿も平安も喜びもすべてが蓄えた穀物にあると考えていたことであり、物質を頼みとし神を信じなかったことです。知恵ある人とは、イエス・キリストを信じることにより、神との関係が正しい人のことなのです。聖書はその信じる人を知恵ある人と呼ぶのです。
③ 選択の責任の自覚
第三に人生の選択において教えられていることは、人はその自らの選択の責任を自分で負わなければならないという厳粛な事実です。12節にこう語られている通りです。「知恵を得るならば、自分のために知恵を得よ。嘲(あざけ)るならば、その責めを自分独りだけで負うことになる。」人は自分の蒔いたものを刈り取ることになるのです。イエス・キリストは山上の垂訓でも言われました。マタイ 7 章13節です。「「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道も広い。そして、そこから入る者は多い。命に通じる門は狭く、その道も細い。そして、それを見いだす者は少ない。」
狭い門とは、イエス・キリストを信じることです。広い門とは悪魔にそそのかされた生活をいつまでも続けることです。その選択の責任は、二者択一で選択した人自身が負わなければなりません。命に至るか、滅びに至るかは、その人の選択にかかっているのです。
Ⅲ.選択の秘訣
目には見えなくても、すべての人の人生に交差する二つの招待の道を進む中で、どのように選択するべきか、最後にその秘訣を具体的に挙げておきましょう。
① 命のパンに預かること
第一に命のパンに預かることです。5節に「来て私のパンを食べ、私が調合したぶどう酒を飲むがよい」と呼び掛けられています。これは、主イエスが、ヨハネ6章35節にこう語られた言葉に通じる言葉です。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」
人生の様々な選択の場合の秘訣は、イエス・キリストを自分の救い主として信じ、心に迎え入れていることです。コリント第一 1 章30節に、使徒パウロがいみじくもこう語りました。「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのです。キリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」イエス・キリストを信じることは、心に神の知恵を授かることです。あなたが、何事か大切なことを決断するときに、主は知恵と分別を与えてくださいます。
② 罪を捨て離れること
第二の秘訣は、明らかに罪と分かることを捨て、離れることです。9章6節でこう言われます。「思慮のない業を捨て、生きよ。」主も言われました。「時は満ちた。悔い改めて、福音を信じなさい。」悔い改めるとは、人生の方向を転換し、主の方に向きを変えることです。向きを変えるとは、今までしていた罪を捨て離れることでもあります。イエス・キリストから人生の選択において、知恵と分別を受けるためには、罪を放棄することが前提条件です。
新約聖書のヘブル書 12 章の1、2節でもこう言われています。「こういうわけで、私たちもまた、このように多くの証人に雲のように囲まれているのですから、すべての重荷や絡みつく罪を捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう。この方は、ご自分の前にある喜びのゆえに、恥をもいとわないで、十字架を忍び、神の王座の右にお座りになったのです。」「イエス様を信じているけれども、問題にぶつかったときに、何故かどうしてよいか分からないことが多い」と言われる方がいるでしょうか。自分の足に「絡みつく罪」過ちを処分しているでしょうか。山上の垂訓でイエス様が戒められておられる兄弟に対する怒りや軽蔑は克服されているでしょうか。姦淫してはならないと戒められていますが、実際に性的な過ちを犯すことはないにしても、ネットや雑誌で心を汚すようなことを処置しているでしょうか。石川県の松任市で牧会していた時代に、ある日、隣町の大きな福音派の教会の役員で、しかも医者である方が、相談あって訪ねて来られました。彼の悩みは、ポルノ雑誌を見ることをどうしても辞められないことでした。無意識のうちに、人に気に入られようとして偽善的な行為をしてはいないでしょうか。皆と一緒に祈るときに、美辞麗句を並べ立てて、人に聞かせるような祈りをしていないでしょうか。自分の大きな罪は神によって赦されているのに、自分の兄弟が犯した些細な罪、過ちを心から赦していないような罪がないでしょうか。神を信じていると言いながら、実は、神様よりも富財産、経済に頼っているような心がないでしょうか。自分を正当化し、他人の行状、振る舞い、言動をそれとはなしに辛辣に裁いていないでしょうか。どれであっても辞めなければなりません。
「思慮のない業を捨て」、「絡みつく罪を捨て」主を仰ぎのぞみつつ、道を進むことが大切な秘訣です。
③ 教えられ得ること
第三の秘訣は非常に大切な態度です。それは、諭し、懲らしめ、教えを素直に受け止める謙遜さを保ことです。7〜9節には非常に意味深長な勧告が連鎖しています。愚か者と賢い者の大きな違いは、愚か者は、人からの諭しや懲らしめ教えを受ける心がないことです。8節「知恵ある人を叱れ」9節「知恵ある人に与えよ」、「正しき人に知らせよ」何故ですか。賢い人は素直に教えを受け、諭しや懲らしめに甘んじる心、受け止める心があるからです。その人は、叱ってくれる人を愛するのです。その人は、知恵をさらに獲得するのです。その人は、なお一層、判断力を増し加えることができるようになるのです。教えられやすい人になりましょう。
今日、私たちがこの教会の礼拝に出席しているということは、二本の全く違った線の交差点に立っているということです。知恵の招待に応えて、イエス・キリストを信じる道を、これまでも進んで来られた方は、そのまま交差点をまっすぐに進んでください。しかし、悪の招待に応えて、今の今まで悪魔にそそのかされて、神を知らず、主を畏れることをせず、偽りの道を進んで来られた方は、この交差点で、イエス・キリストを救い主と信じて、知恵の招待の道に曲がって進むことができます。箴言 14 章12節にこう教えられています。「自分にはまっすぐに映る道も、終わりには死に至る道ということがある。」あなたは、今まで歩んできた道、生き方に自信があると言われるかもしれません。間違ってはいないと確信しておられるかもしれません。しかし、その行先、その終わりは確かでしょうか。何が保証し、何が証明しているでしょうか。主は言われました。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」主を畏れること、神を知ることが知恵の初めです。イエス・キリストを信じてください。知恵の招待に応じてみてください。新しい人生が必ず開けて行くことを、豊かに体験することになることでしょう。
7月21日礼拝説教(詳細)
「かめの粉は尽きず」 列王記上17章8〜16節
主の言葉がエリヤに臨んだ。「すぐにシドンのサレプタへ行って、そこに身を寄せなさい。私はそこで一人のやもめに命じて、あなたを養わせる。」そこでエリヤは、すぐにサレプタへ向かった。
町の入り口まで来ると、そこで一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤは彼女に声をかけて言った。「器に少し水を持って来て、私に飲ませてください。」
そこで彼女が水を取りに行こうとすると、エリヤは呼び止めて言った。「どうかパンも一切れ持って来てください。」
すると彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私には、焼いたパンなどありません。かめの中に一握りの小麦粉と、瓶に少しの油があるだけです。見てください。私は二本の薪を拾って来ましたが、これから私と息子のために調理するところです。それを食べてしまえば、あとは死ぬばかりです。」
エリヤは言った。「心配は要りません。帰って行き、あなたが言ったとおりに調理しなさい。だが、まずそれで、私のために小さなパン菓子を作り、私に持って来なさい。その後で、あなたと息子のために作りなさい。なぜなら、イスラエルの神、主はこう言われるからです。『主がこの地に雨を降らせる日まで、かめの小麦粉は尽きず、瓶の油がなくなることはない。』」
やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。それで、彼女もエリヤも、彼女の家の者も幾日も食べることができた。
主がエリヤを通して告げられた言葉どおり、かめの小麦粉は尽きず、瓶の油がなくなることもなかった。
主の御名を賛美します。今日は、聖霊降臨節の第十主日ということで、聖書日課である列王記上17章からお読みし、お祈りします。今日、私はこの聖書箇所から「かめの粉は尽きず」と題して話そうとするのですが、この「かめの粉は尽きず、瓶の油は絶えない」というフレーズは、聖書の中でも私の大好きな一句の一つであります。この一句は、預言者エリヤによって、サレプタの寡女に語られた主の言葉ですが、私自身の長い人生を支えてくれた一句でもあり、私自身が文字通り経験してきた御言葉でもあるのです。 1.緊張の発生
この御言葉を預言者エリヤが寡女に語った背景には、前後を読み進むと、非常に厳しい緊張状況が、エリヤ自身の周辺にあったことが分かってまいります。
① 政治的緊張
その時、預言者エリヤは、イスラエルの第8代目の王アハブに対して、政治的に非常に厳しい緊張状態にありました。17章1節を見ると、エリヤがアハブ王にこう宣言したと書いてあります。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私が言葉を発しないかぎり、この数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」
このアハブ王がいかなる人物であったかについては、その前の章の16章29〜33節を読めば、一目瞭然です。アハブ王は紀元前800年頃、イスラエルの第8代目の王として22年間、国を統治したのですが、彼は悪王中の悪王、名うてのワルでした。30節にもこう書いてあるのです。「オムリの子アハブは、彼以前の誰よりも主の目に悪とされることを行った。」彼の悪行で最もよく知られているのは、自分の王宮の隣のナボテの畑を自分のものとするために、彼を殺害して騙し取って自分のものにしたことです。
② 宗教的緊張
更に31節を読むと、エリヤとアハブ王の間には、深刻な宗教的緊張状態があったこともよくわかります。「アハブにとって、ネバトの子ヤロブアムと同じ罪を犯すのはささいなことだったため、シドン人の王エトバアルの娘イゼベルをめとり、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。」このシドン人の王エトバアルとは、イスラエルの遥か北に位置する異邦人の国の王様です。
アハブは、近隣の国々との宥和政策のために、政略結婚で、この異邦人の王の娘、イゼベルを妃としていました。古代においては、外国の王の娘を嫁とする場合、その嫁と従者たちが信奉している宗教を継続する自由が認められていました。そのため、アハブ王は、妃イゼベルのため、彼女の信奉する偶像のバアルの神殿を首都サマリアに建設し、そればかりか、アシェラ像まで作ったと言われます。アシェラとは、カナン宗教の肥沃祭儀の礼拝の対象とされ、古代オリエント全域で信奉されていた女神です。この妃のイゼベルは、やがてバアルに仕える預言者を450人、アシェラに仕える預言者を400人も抱え養い、アハブ王を巻き込み、国中に偶像崇拝を拡散させていました。そればかりか、王妃イゼベルは、主の預言者たちの殺害を強力に実行した恐るべき迫害者でもあったのです。
③ 経済的緊張
主によって立てられた預言者のエリヤにとって、アハブ王のこれらの政治的宗教的な悪行は、到底容認することはできません。その結果が、アハブ王に対するこの宣言であったのです。この宣言の中の「主は生きておられる」という表現は、人が大切な発言をする誓約の誓いの言葉です。神にかけて誓うのであって、自分の言うことに間違いがないと言うことを強調する形式なのです。それは長期間に及ぶ気象変動の予告宣言でした。数年間は、雨も露も降らず、大旱魃が到来することになると宣言したのです。それは、農作物は枯れ果て、収穫は期待されず、人間も家畜もその生命が脅かされることになる、経済的な恐るべき緊張の到来の宣言でした。それは明らかに、民の罪に対する裁きを定めた申命記28章の呪いの結果です。その24節にこう書いてありますね。「頭上の天は銅となり、あなたの下の地は鉄となる。主は地の雨を埃や塵に変えて天から降らせ、あなたを滅ぼす。」勿論、全ての異常気象が神の罪に対する裁きであるというのではありません。しかしながら、この列王記上17章に記された大旱魃は、アハブ王とその民に対する罪の罰としての呪いであったことに間違いありません。
しかしながら主は、このアハブ王に対する宣言の後、預言者エリヤには、この飢饉を彼自身がどう乗り越えるべきか指示を与えられました。2〜6節です。彼がケリテ川の辺りで、その川の水を飲み、カラスが持ち運んで来るという、肉とパンで飢えを凌ぐようにされたというのです。この9年間、私自身は、ゴミ捨ての日には散散、カラスには悩まされ、カラスのイメージは大変悪いものがあります。しかし今から2800年前のこの時ばかりは、驚くばかりのカラスの働きぶりです。カラスは肉もパンも自分で飲み込むことをしないで、毎日エリヤに運んできたというのです。しかし、やがて間もなく渓谷も干上がり、緊張が張り詰めます。そしてそこから、次の8節より今日の聖書箇所が展開するのです。それは命が死の危険に晒されるという、非常に厳しい緊張の場面です。
主は、エリヤの生命の維持のために、シドンのサレプタに行くよう指示されました。そこに住む貧しい寡女(やもめおんな)に養わせると語られたのです。預言者エリヤは、主の語られた通りに出かけました。ケリテ川からすれば、直線距離にしても120キロはあるシドンに北上しました。すると、どうでしょう。その町の入り口で、薪を拾う女に出会いました。そして彼女に声をかけたのです。どうして、この女性が寡女であると分かったのでしょう。古代社会では、寡女には身につける着物がそれと決まっていたからでしょう。
エリヤは最初に「器に少し水を持って来て、私に飲ませてください」水を所望しました。そして、寡女が答えてくれそうな素振りを見たエリヤは、更に「どうかパンも一切れ持って来てください」と頼み込むのです。すると女はこう答えました。「あなたの神、主は生きておられます。私には、焼いたパンなどありません。かめの中に一握りの小麦粉と、瓶に少しの油があるだけです。見てください。私は二本の薪を拾って来ましたが、これから私と息子のために調理するところです。それを食べてしまえば、あとは死ぬばかりです。」ここでも彼女は「主は生きておられます。」と言って語り出していますね。これは、エリヤがアハブに宣言したのと同じ意味です。誓約する際の誠実さの表現なのです。自分の言っていることは嘘ではない、神にかけて誓って言うことです。と言う意味です。「二本の薪」とは実際の数字というより、欠乏の表現でしょう。寡女(やもめおんな)とは養い手の配偶者を失い、社会的な保護のない、貧しく弱い者の典型です。その弱い貧しいこの寡女は、最後のパンを焼いて息子と食べて、あとは死ぬばかりだ、というのです。なんとも暗い惨めな場面です。それは命が死の危険に晒されている厳しい緊張感が漂う一コマです。今朝、この礼拝におられる皆さんは、時代も場所もその状況も、エリヤや寡女と全く違っております。しかしそれでも、どうでしょうか、彼らが置かれたこの同じような厳しい緊張を経験されたことが、あったでしょうか。或いは、今日というこの日に、同じような緊張した状況に置かれておられるでしょうか。
Ⅱ.言葉の介入
私たちは今日、この聖書箇所に、これからしばらく長く緊張をもたらすことになる深刻な大旱魃(だいかんばつ)もさることながら、注目すべき重大な一つの事があります。それは、主の言葉がこの出来事の只中に、緊張する当事者の上に臨んだという事です。17 章の3節に「主の言葉がエリヤに臨んだ」とありますね。更に8節にも「主の言葉がエリヤに臨んだ」と繰り返されています。3節のエリヤに臨んだ主の言葉とは、預言者に対して、場所の移動の指示と、カラスによるエリヤの養いの約束でした。4節のエリヤに臨んだ主の言葉とは、エリヤに対する更なる場所の移動の指示と、寡女によりエリヤの養いの約束でした。では、この預言者エリヤに言葉によって臨んだ方とは一体誰でしょうか。
① 主は神である
このエリヤに言葉で臨んだ方が誰であるか、一番明瞭に解き明かしているのは、実はエリヤ自身の名前そのものです。この王の前に突然現れたエリヤには、父の名も家系も明らかにされていません。彼がギレアドの住民でティシュベ人であったということ以上に出生については何も報告されていません。ヘブルの世界において「名前」はその存在の本質を現す重要な意味を秘めています。今回初めて登場する「エリヤ」と表記される名前のヘブル語は「エリッヤーフー」です。その意味は「主は神」、あるいは「主こそ神」です。神を表わす「エル」と、主を表わす「ヤーウェ」が組合わさった固有名詞なのです。ということは、エリヤは神によって選ばれ、神の前に立ち、「主こそ神である」ことを、イスラエルの民に対して力強く証言する預言者であったのです。
この次の 18 章には、カルメル山頂のバアルの預言者との祈り比べが記録されていますね。エリヤはアハブ王にバアルの預言者、アシェラの預言者を招集させ、偶像と主とどちらが真の神か、本当の神を証明する祈り比べを挑戦しました。それに応じて続々とバアルの450人の預言者、アシェラの預言者400人が詰めかけています。その山頂に大きな石の祭壇を築いて、その上に牛を屠って生贄として置き、それぞれが信奉する神々に祈祷を捧げ、天から火をくだして犠牲の牛を焼き尽くした神を神様と認めようという試みです。その時です、エリヤは民にこう問いかけたのです。「あなたがたは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従いなさい。もしバアルが神であるならバアルに従いなさい。」だが民は、一言も答えなかった。」(21節)この祈り比べの結果は歴然としていました。バアルの預言者達が、犠牲の上に天から火が降るように、喚き踊りいくら祈っても何の答えもありません。しかし、エリヤが主を呼び求め祈ると、天から火が降り、全焼の生贄の全てを焼き尽くしてしまったのです。主こそ、イスラエルの神こそ、真の神なのです。
② 主は生きている
そしてそればかりか、神である主は生きている神なのです。預言者エリヤは、「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」とアハブに宣言しました。水とパンをエリヤに所望された寡女も、異邦人であったにも関わらず、「あなたの神、主は生きておられます」と宣言しています。エリヤに言葉によって臨んだ主は、神であり、活ける神です。この緊張する出来事が起こった場所、シドンは、偶像崇拝のメッカです。バアルの偶像が祀られる神殿が聳え立ち、女神アシェラの神殿とその像が祀られ、シドンは人々が豊穣を祈願する地方でありました。その只中に、その偶像の神々が祀られ信奉される地方で、活ける神、主の言葉がエリヤに臨んだのです。それは、人間の造った泥や石の偶像とは全く違うということです。主は生きておられるのです。
詩篇115篇をみてください。こう告白されています。「なぜ国々は言うのか『彼らの神はどこにいるのか』と。私たちの神は天にいまし、御旨のままにすべてを行われる。彼らの偶像は銀と金、人の手が造ったもの。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があっても嗅ぐことができない。手があっても触れず、足があっても歩けない。喉からは声も出せない。それを造り、頼る者は皆偶像と同じようになる。」バアルもアシェラもその偶像に過ぎないのです。命の無い金や銀や粘土や石です。しかし、イスラエルの主は生きておられるのです。
③ 主は養う方
そればかりか、主は生ける神であり、人を養う神であります。主は2節で「私はカラスに命じて、そこであなたを養わせる」とエリヤに約束されました。主は8節で「私はそこで一人の寡女に命じて、あなたを養わせる」と約束されました。人間の最も基本的なニーズは「生存の保障」です。誰が私を養ってくれるのか、私の必要を満たしてくれるのは誰か、という問題は重要です。日本の人口の動向を示すグラフをみますと、私が誕生した1945年頃は7500万人程度でした。しかし、今現在は1億2500万人です。そして、予測されるのは、これから人口は減少に転じ、老人の占める割合は増すばかり、それに反比例して出産率は低下傾向を示しています。そのために年金制度のあり方が大問題になっていますね。生存の保障制度が危ういのです。結局のところ、人間はこの問題を解決してくれる神を求めているのです。偶像を作るその根底にあるものは、この生存の保障なのです。
ネヘミヤ記9章を見てみましょう。エルサレムの城壁修理を指導したネヘミヤが、民を礼拝に導き、過去の歴史を回顧し、神を賛美していたことが記されています。9章5節からです。「立って、あなたがたの神、主をほめたたえよ。いにしえからとこしえまであなたの栄光の御名がほめたたえられますように。それはあらゆる祝福と賛美にまさります。あなたのみが主。あなたは、天と、天の天をそのすべての軍勢を地とその上にあるすべてのものを海とその中にあるすべてのものをお造りになりました。あなたはそれらすべてを生かしておられます。」そして、18節からもこのように賛美しています。「彼らが自分たちのために子牛の鋳像を造り『これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神だ』と言って、激しく侮ったときもあなたは深い憐れみをもって、彼らを荒れ野に見捨てることはなさいませんでした。昼は、旅路を導く雲の柱を、夜は、彼らにその行く道を照らす火の柱を、彼らから取り去ることをなさいませんでした。あなたの恵み深い霊を授けて彼らを悟らせ、彼らの口からあなたのマナを絶やさず、彼らが渇けば、あなたは水を与えられました。四十年間、あなたが養われたので、彼らは荒れ野にあっても不足することなく、衣服は朽ち果てず、足も腫れることがありませんでした。」
そうです。主は歴史において、常にプロバイド(provide)の神、サステイン(sustain)の神であられました。イエス様ご自身、山上の垂訓で、思い煩うことを戒め、こう言われましたね。「だから、あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。」そうです。主なる活ける神は、人の生存を保障してくださる養う神なのです。
④ 成就する主の言葉
そして、活ける養い給う主の言葉は、一度語られると必ず実現成就するのではありませんか。エリヤが寡女に水ばかりか一切れのパンを所望した時に、そんなゆとりが無いと断りかけたのですが、エリヤは寡女にこう迫るのです。「心配は要りません。帰って行き、あなたが言ったとおりに調理しなさい。だが、まずそれで、私のために小さなパン菓子を作り、私に持って来なさい。その後で、あなたと息子のために作りなさい。」これだけ聞いたなら、エリヤは何と残酷な自己中心的な人物だろうと思いますね。自分を優先し、寡女と息子は後回しにせよ、と要求するのですから。しかし、エリヤは続けてこう語ったのです。「なぜなら、イスラエルの神、主はこう言われるからです。『主がこの地に雨を降らせる日まで、かめの小麦粉は尽きず、瓶の油がなくなることはない。』」この時です、寡女にエリヤの口を通して、主の言葉が臨んだのです。人を養われる活(い)ける主が約束を彼女に与えたのです。そして、これを寡女が信じて従い、パンを作り、エリヤに提供した結果、どうでしたか? そうです。15節、「やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。それで、彼女もエリヤも、彼女の家の者も幾日も食べることができた。主がエリヤを通して告げられた言葉どおり、かめの小麦粉は尽きず、瓶の油がなくなることもなかった。」主が語られた言葉が、見事に実現成就したのです。
イザヤは、主の言葉の力を預言して55章10、11節にこう語りました。「雨や雪は、天から降れば天に戻ることなく、必ず地を潤し、ものを生えさせ、芽を出させ、種を蒔く者に種を、食べる者に糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も、空しく私のもとに戻ることはない。必ず、私の望むことをなし、私が託したことを成し遂げる。」活ける神、主の言葉は一度語られると、必ず実現成就するのです。
Ⅲ.緩和の条件
では緊張を緩和させる必要な条件は何でしょうか。それは、生きて養い給う主なる神様に対する生きた信仰です。預言者エリヤにはその生きた信仰がありました。1節のアハブ王に対する宣言で明らかです。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」そう告白したエリヤは、主の言葉が臨むと、その指示に従い、ケリテ川に移動しました。では同じように告白したかに見える、寡女はどうでしたか。彼女はエリヤに水とパンを所望されると、「あなたの神、主は生きておられます」と口にしています。バアルとアシェラの偶像崇拝のメッカに生まれ育った寡女の口から、よくぞこのような告白がなされたものだと、感心させられます。しかし、それは、預言者エリヤの言動が与えた影響の結果であって、自分の本心からの信仰ではありません。神様は神様でも「あなたの神」、エリヤが信奉する神です。他人の神様です。エリヤの信仰は「私の神」の確信ですが、寡女の告白は「あなたの神」であって他人事にすぎなかったのです。しかし、預言者エリヤから主なる神の約束の言葉が、与えられた時に、寡女に真の信仰が賜物として与えられました。それは、彼女が「エリヤの言葉通りにした」行動によって証明されます。その時、彼女は活ける神を「私の神」としたに違いありません。そして彼女は自分の信仰を行動に移したのです。家に戻ってパンを焼き、預言者エリヤに提供したのです。するとどうでしょうか、長い旱魃の続く間、かめの粉は尽きず、瓶の油がなくなることはなく、生きながらえることができました。
人は生きていく人生途上において、命の危険に晒されるような状況に陥ることが必ずやあるものです。自分の生存の保障がどこにあるのか、深刻に問わざるを得ないことがあるでしょう。そんな時、「私の神、主は生きておられる」と心から告白できる信仰がある人は幸いではありませんか。パウロはピリピ 4 章19節で、いみじくもこう語った言葉が思い出されます。「私の神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスにあって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」使徒パウロは「私の神」と言うことができました。人間としての努力が必要ないと言うのではありません。そうではなく、生存の保障は基本的に養い給う主なる神様にあることを確信することが大切なのです。
今週の歩みにおいて、どんな緊張が発生するか、私たちには分かりません。しかし、恐れることはありません。主なる神が、そのお言葉をもって臨んでくださることでしょう。そして、主に信頼して従うときに、驚くばかりの恵みを味わうことがきっとできることでしょう。また、エリヤのように「私の仕える神、主は生きておられる」と告白し、この新しい週の歩みの中で、主にお仕えし、必要とする人々に、主の約束の御言葉を語り伝えさせていただきましょう。
7月14日礼拝説教(詳細)
「恐れずに畏れる」 ヨハネ6章16〜21節
夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。すでに暗くなっていたが、イエスは彼らのところにまだ来ておられなかった。強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出した頃、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。イエスは言われた。「私だ。恐れることはない。」 そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。
先週はヨハネ5章から話しましたが、今日は6章16節からお読みし、祝福を求め、先ず祈ります。今日の聖書箇所は、それに先立つ5千人の給食に続く出来事です。船に乗った弟子達がガリラヤ湖上で真夜中に難破するところをイエス様に救われた、そういう場面です。
これに関連して、先週日曜日のライフライン友の会が、私には思い出されます。そのテレビ番組に登場したのは、4月に78歳で亡くなられた口で絵を描く画家の星野富弘さんでした。
星野さんは子供時代からスポーツが得意で、大学を卒業すると学校の体育の先生となりました。ところが教師となって間も無くの2ヶ月後、学生達に体育授業で鉄棒を指導していた際に、誤って頭から転落し、首の骨を骨折、それ以後、全身麻痺となってしまわれたのです。本当に気の毒な話です。その思いがけない破局に直面し、星野さんは一度は自殺も考えるほど落ち込みました。しかしその危機を感謝なことに見事に克服され、やがてご自分の心境を、口にくわえた筆で詩や絵を表現するようになり、やがて個展を全国に展開され、多くの人に感動の渦を巻き起こした方です。サンテレビで日曜朝7時から三回連続放映されますし、教会では日曜午後5時から、再放映することにしていますから、是非ご覧ください。
1.恐れる
さて、今日の説教題をなぜ私は「恐れず畏れる」としたのでしょうか。それは、ガリラヤ湖で難船の破局に直面した弟子達に、不思議な仕方で接近されたイエス様が「私だ。恐れることはない」と語られたからです。恐れとは、私たち人間のネガティブな感情的反応です。それによって人の思考も意志も行動も、強烈に萎縮させてしまうものです。弟子達は、今見せられたばかりの5千人の給食の奇跡によって、その心は深く感動させられ高揚していました。男だけで5千人です。女子供含めれば1万人の空腹を、イエス様が僅か5つのパンと 2 匹の魚で、満腹させることができたのですから。ところが、その弟子達の高揚した心は、それから数時間も過ぎないうちに、急転直下、恐怖のどん底に突き落とされてしまったのです。弟子達の何人かは、ペテロやアンデレやヤコブは、ガリラヤでそれを職業とする漁師でしたから、船を操ることはお手のもの、湖の自然環境も熟知した熟練者でした。しかしその時ばかりは、真夜中に激しい向かい風の嵐に巻き込まれて、万策尽きた時には、彼らは絶望して打ちのめされ、恐れに圧倒されてしまったのです。船に乗って向こう岸に向かおうとする弟子達のこの姿は、今を生きる私たちの姿そのものではありませんか。
①不在の恐れ
16、17節を読むと、その言葉の節々に、弟子達に恐れが、徐々に忍び寄って行った状況を読み取ることができます。時刻は夕方です。彼らはガリラヤ湖畔に下りていきます。12名ですから数隻の漁船に乗り込むと、すでに当たりは暗くなりかかっていました。そして、17節、「イエスは彼らのところにまだ来ておられなかった」のです。この「まだ」という一言には、イエス様が一緒に同船してくれるだろうという彼らの計算が込められているのではありませんか。イエス様はその午後、1万人を越す大勢の群衆にパンと魚を分ち与える大変な働きをなされました。弟子達には、先に湖畔に下りて向こう岸に行くよう指示され、その後、群衆を解散させられたようです。一万人の群衆を、無事に解散させるだけでも大変な手間暇がかかる作業でしょう。湖畔の船にたどり着いた弟子達にも、大群衆の解散で、イエス様が手間暇時間がかかることを容易に想像することができたでしょう。しかし、暗くなりかかり、しかもどうやら風向きも怪しくなってきている。このまま出発しなければ危ない。ガリラヤ湖は丘に囲まれた小さな湖です。その丘の間から湖面に吹き下ろす風が、しばしば激しい嵐を巻き起こすのです。それなのに、どうもイエス様が来られる気配が感じられない。そこには、イエス様不在の不安と恐れがあったと想像できます。
私たちは、それぞれイエスを信じ告白し、イエスを心に迎える祈りをしましたね。そして、イエス様はインマヌエルである、「神は私たちと共におられる」そう信じています。そう分かっている。それでも、時にはふと、本当にイエスは共におられるのだろうか、神は本当に一緒にいてくださるのか、心配になる、不安がよぎることがあるものです。自分が今どのような状況に置かれているか、どんなに苦しいのか、イエス様は、神様は本当にわかってくれるのだろうか。見ていてくれるのだろうか。心配になるのです。ではその時、イエスは何処におられ、何をされていたのでしょう。直ぐ直前の15節でそれが明らかです。「独りでまた山に退かれた」そうです。そこには、複雑な問題が起こっていたのです。群衆を解散させようとすれば、その群衆が何と力づくでイエス様を捕らえて自分たちの王にしようとする動きが起こっていたというのです。こんな不思議な力で腹を満たしてくれる方なら、是非、自分たちを治める王様になってもらおう。そうすれば私たちは苦労することはない。そう思い詰めた群衆が、イエス様を強いて政治家に、指導者に祭り上げようとしたのです。それは全くイエス様の望むところではありません。そこで、イエスはそれを避けたのです。山に退かれたのです。
何のために退かれたのでしょうか。ただ群衆を避けるためではありません。祈るために、ご自分を遣わされた父なる神様の前に、静かな場所を求めて退かれたのです。マタイ14章、マルコ6章にもこの出来事は記録されています。そこにはイエスが「祈るために」退かれたと、はっきり書いてあります。湖畔の弟子達には、そのような事情を知る由もありません。そして弟子達にはイエス様の姿が見えません。何処で何をされておられるかも分かりません。しかし逆に、イエス様には、弟子達の姿が見えるのです。高い山の中腹から湖面が見えたということではありません。イエス様には物理的に離れていても、雲や霞で遮断されていたとしても、全てが見えるのです。すべての状況をご存知なのです。弟子達が暗闇にいること、弟子達が嵐を予感して不安であることをも知っておられるのです。イエス様が共におられる確信が薄れ、不安になる時には覚えておきましょう。たとえ目に見えなくても、共におられると実感することができなくても、感情的に心に波風が立ち不安になったとしても、イエス様はあなたのことを知っておられます。
詩篇139編に歌われています。「主よ、あなたは私を調べ、私を知っておられる。あなたは座るのも立つのも知り、遠くから私の思いを理解される。旅するのも休むのもあなたは見通し、私の道を知り尽くしておられる。私の舌に言葉が上る前に、主よ、あなたは何もかも知っておられる。」そうです。主イエス様があなたを覚え、あなたのために祈っておられことを感謝しましょう。
②破局の恐れ
その時、弟子達は不在の不安と恐れだけではありません。間も無く彼らは、破局の恐れへと突き落とされてしまうのです。18節です。「強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。」彼らは、イエスを待ちきれず、ぐずぐずしては嵐に巻き込まれると判断し、とうとう出帆したのです。すると恐れていたことが現実となりました。19節の「二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出した頃」ということは、1スタディオンは換算すると185m ですから、すでに岸辺を離れて4、5キロ沖合に達していていたことになります。時間的にはマタイやマルコの記述によれば、「夜明け頃」とありますから、それこそ一晩中、暗闇の中を風波に翻弄されて、前進を阻まれ苦闘していたことになります。彼らは万策尽き果て、疲労困憊したに違いありません。このまま行けば、難破して全員水死するしかありません。人生には、それまで全く予想もしないような破局が到来するものではありませんか。
もう高齢で亡くなられましたが、聖路加病院長であった日野原重明先生の破局経験がよく知られていますね。1970 年 3 月 31 日、日野原先生は福岡で開かれる内科医の学会に出席するため羽田発の日本航空機「よど号」に乗っていました。飛行機が富士山頂に差しかかる頃、何人かの若者が突然立ち上がり、日本刀を抜いた男が「我々は日本赤軍である。この機をハイジャックした」と叫びだしたのです。日野原先生を含む乗客乗員103 人はその瞬間から、人質になってしまいます。世に言う「よど号ハイジャック事件」です。ここに先生の手記が残されています。「これは大変なことになった、と思い、とっさに頭に浮かんだのは、こうした緊急事態で人間の脈拍はどうなるだろうか、という疑問でした。隣に座っていたご婦人の脈を取ろうと思ったのですが、妙な疑いをかけられても困ると思いとどまり、自分の脈を測りました」「するとやはり、いつもより脈が速くなっていて、ああ、私はいま興奮しているんだなあ、と納得したのです。つくづく医者なんですね」そのように語る日野原先生も、やはり恐ろしかったでしょう。
しかし、自分でどうすることもできないような破局に直面する時には、コリント第一10章13節を思い出すことにしたいものです。こう記されています。「あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」この神様の真実さが、あのガリラヤ湖の弟子達の破局で明らかにされていますね。波に翻弄される弟子達には、イエス様が湖上を歩いて、船に近づいてくださったのです。彼らはそれによって破局から救われました。日野原先生は、その時の危機経験を更にこんな風に証しするのです。『ハイジャック犯はパイロットに「(北朝鮮の)平壌へ向かえ」と命じた。福岡から平壌に行き先を変えた飛行機が、海峡の上を飛んでいるとき、「機内に持ち込んでいる赤軍機関誌やその他の本を貸し出す。読みたい者は手を挙げろ」と機内放送があった。「彼らが持ち込んでいたのは、金日成や親鸞の伝記、伊東静雄の詩集などでしたが、その中にドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』がありました。『それが読みたい』と手を挙げると、彼らは文庫本 5 冊を私の膝に置いてくれました」ページを開いた途端、本の冒頭の言葉が日野原先生の目に飛び込んできた。「そこにはこう書いてありました。『一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。死なば多くの実を結ぶべし』。ヨハネ福音書の一節です。人質という極限状態の中でしたが、この言葉に出合って、すうっと心が落ち着きました」と、日野原先生は証しするのです。やがてこの事件は解決し、日野原先生も解放されて無事帰宅することができました。破局に直面することは恐ろしいことです。しかし、人生の試練に直面する時にも、恐れることはないのです。真実な神様が必ず逃れの道を備えてくださるからです。
③未完の恐れ
ここにもう一つ、弟子達の抱えた不安と恐れが見え隠れしていないでしょうか。それは、未完成の恐れと不安です。弟子達は、船に乗って向こう岸、カペナウムに行こうとしました。これは主イエスがそのように指示されたからです。彼らにはカペナウムに向かい、そこで成すべき使命・課題が与えられていたに違いありません。しかし、ここで難船に遭遇し、沈没してしまえば、全ては未完成に終わってしまうのではないか。私たちの人生には、この未完成の恐れと不安が付きまとうものです。人間として生まれた以上、幼年・少年・青年・成人・熟年と人間としての完成を目指さねばなりません。それがどんな分野の仕事であっても、これだけは是非とも達成したいという目標があるものです。
私が尊敬する今はもう天国の人となられた宣教師のドネル・マクレン先生のことが忘れられません。私を北海道から北陸に招いてくれたアメリカ人の宣教師です。彼がご自分の開拓された石川県の松任市の教会を私に任せてくださいました。彼は四国にも、関東にもそして北陸にも、いくつもの教会を生み出し、起こされた開拓者でした。そのマクレン先生には夢・ビジョンがありました。それは、日本にリバイバルが起こることでした。カナダ出身の先生は、若い日に、町全体が改心するような大きな信仰リバイバル現象を経験されておられました。その同じことが日本で起こることを先生は、ずっと祈り続けておられたのです。しかし、それは何年経っても実現することはありません。とうとう先生はそのために病気になってしまいました。神経が何箇所か切れる病気で、帰国して治療を受けざるを得ません。そして、やがて引退帰国され、天に召されました。
自分の生きている間に、自分の目指した目標が達成されないのではないかと不安が心をよぎるような時には、あのピリピ書の3章を思い起こしましょう。10節から14節を読みます。「私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。私は、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスによって捕らえられているからです。きょうだいたち、私自身はすでに捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」使徒パウロは勧告してこう言います。「きょうだいたち、私自身はすでに捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、目標を目指してひたすら走ることです。」
アメリカの有名な教会の一つに「Church on the way」という名の教会があります。訳せば「途上の教会」でしょう。私たちの教会もそうなのです。途上にある教会、目標を目指して、「後ろのものを忘れ、前の者に全身を向けつつ」ひたすら走る教会なのです。皆でオールを漕いで、波や嵐と戦いながら、ひたすら前に進み行くのです。個人において然り、家族、企業において然り、私たちは途上にある未完成なものです。しかし、それでいいのです。心配することはありません。
Ⅱ.畏れる
イエスは、嵐に翻弄される船上の弟子達に、湖上を歩いて接近されると、「私だ。恐れることない。」と力強く語られました。イエス様の不在を恐れ不安になることはないのです。どんな悲惨な破局に直面したとしても、恐れることはありません。達成できないのではないか、と未完成を不安に思うこともありません。そうではありません。「おそれ」はおそれでも漢字の違う「畏れ」です。むしろ畏れるべき方を畏れるべきなのです。イエス様を畏れ、神様を畏れるべきなのです。その畏れ敬うべき理由・根拠を、この箇所から三つ挙げることができるでしょう。
① 水上歩行者を
その第一の理由は、水上歩行者を畏れ敬うことです。ガリラヤ湖の恐ろしいばかりに吹き荒れる嵐の只中を、イエスはどのように弟子達に接近されましたか。イエス様は、揺れ動くガリラヤ湖の湖水の上を歩いて、船に近づかれたのです。弟子達はその姿を見て19節には「彼らは恐れた」と書いてあります。マタイはこの所を「弟子達は、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言って怯え、恐怖のあまり叫び声を上げた」と、詳しく記録して書いています。マタイ自身も乗船していた弟子の一人ですから、絶対忘れることがなかったでしょう。マルコも全く同じです。しかしそうではない、彼らは恐れるべきではありません。寧ろ、弟子達は、それ故に、畏れ敬うべきでした。何故なら、湖水の上を歩くことは、自然法則を超越した救い主であるキリストの神性の表れだからです。
ヨハネはキリストの神性のしるしの第一をカナの婚礼での、水を葡萄酒に変える奇跡をあげました。第二のしるしは、カナで役人の息子の病気を癒やされた奇跡を挙げます。第三のしるしは、ベテスダの38年寝たきりの病人の癒やしでしょう。そして、第四のしるしこそ6章はじめに記録される5千人のパンの奇跡です。そして、その第五しるしに相当するのが水上歩行の奇跡なのです。
イエスは、人間の生活の諸要素である質・空間・時間・量を支配されます。そして、今また、この水上歩行により、自然法則すらをも支配される神の御子であることを証明されたのです。これこそ畏れ敬う理由です。
② 通り過ぎる方を
実は、同じ出来事であっても、マタイもヨハネも書いていないことを、マルコが6章48節で記録していることが、調べると分かります。「夜明け頃、湖の上を歩いて弟子達のところへ行き、そばを通り過ぎようとされた。」とあるのです。おかしな話しではありませんか。イエス様は弟子達のところまで近づかれたのに、何とその脇を通り過ぎようとされたとは。通り過ぎて、では何処へイエス様は行こうとされたのでしょう。しかしこれは、旧約聖書において、神様が自らの姿を現される時の独特な表現なのです。二つの例を挙げますと、モーセが、神様に栄光を示してくださいと求めた時、神様はモーセを岩の裂け目に入れて、栄光を通り過ぎさせました。出エジプト記 33 章 18~23 節に書いてあります。また、預言者エリヤが、バアルの預言者と戦い、王妃イゼベルに命を狙われてホレブの山に逃げた時、エリヤの前を主が通り過ぎて行かれました。これは列王記上19章 11 節に書いてあります。
神様が人の前を通り過ぎるとは、神様の顕現、表れの一つの独特な表現なのです。このように、イエス様が弟子たちの前を通り過ぎるというあり方こそ、イエス様がまことの神であることを指し示しているのです。
③ 「私はいる」方を
もう一つの主を畏れるべき理由・根拠は、イエス様が、波に翻弄され狼狽える弟子達に一言、「私だ。」と言われたことにあります。これは英語で言えば、「I am」ですが、これを原語のギリシャ語で言えば、「エゴ・エイミ」です。直訳すれば「私、私である」です。何の変哲もない言い回しのように思えるかもしれませんが、実はこの背景には、あの出エジプトの指導者モーセに対する神の啓示事件があるのです。出エジプト記の3章に記されたこの出来事は、モーセが解放に向けてエジプトに立ち向かうに際して、自分を遣わされる主なる神の名を質問したことによるものです。モーセは神様に、「御覧ください。今、私はイスラエルの人々のところに行って、『あなたがたの先祖の神が私をあなたがたに遣わされました』と言うつもりです。すると彼らは、『その名は何か』と私に問うでしょう。私は何と彼らに言いましょう。」その問いに対する神様の答えが、「私はいる、という者である。」であったのです。神様はその名を「私はいる」と言われました。これがヘブライ語ではヤハウエなのです。それをギリシャ語ではエゴ・エイミ、「私だ」となります。イエス様が弟子達に「私だ。」と語られたということは、イエス様が、あのモーセにご自身を啓示された神様だということを示されたということです。
イエス様は、人となられたヤハウエ、真の偉大な唯一の神なのです。このお方が、破局に直面した弟子達に近づき現れてくださいました。彼らは、恐れるのではなく、畏怖の敬愛の念を込めて畏れかしこむべきなのです。
Ⅲ.迎える
そこで、弟子達はイエス様を船に迎え入れました。すると何が起こったでしょうか。「すると間もなく、船は目指す地に着いた」というのです。このガリラヤ湖での船による向こう岸への旅路は、私たちの人生の縮図そのものです。12人の弟子達は、目的地を目指して船旅をしようとすれば、大嵐に見舞われてしまいました。主は、「あなたがたには世で苦難がある。」(ヨハネ16:33)と言われました。イエス様を信じて神様に立ち返ったら、何もかもすっかりおさまり、無病息災家内安全ということなのではありません。使徒パウロがコリント第一10章で言ったように、「あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません」この世にある限り、試練や苦難や破局的経験は避けることができません。ヤコブなどは、「私の兄弟達、様々な試練に遭ったときは、この上ない喜びと思いなさい。」とまで言っています。何故でしょうか。「信仰が試されると忍耐が生まれることを、あなたがたは知っています。」(ヤコブ1:3)すなわち、私たちの人生に起こることで、意味のない試練や苦しみ困難はないのです。主イエス様が、近くに感じられず孤独に寂しく思えることがあるかもしれません。しかし、主はあなたを知っておられます。あなたから片時も実際には離れることはありません。そして、不思議な仕方で、然るべき方法で、然るべき時に、救いの手を差し伸べてくださるのです。主は今日もあなたに語られます。「私だ。恐れることはない」そうです。取り囲む現実の状況を見て恐れてはなりません。寧ろ、偉大な主なる神、「私はいる」と仰せられる全能の愛なるイエス様を、神様を畏れ敬い礼拝するべきでありましょう。
今日、この礼拝で改めて、自分の人生に、自分の生活に、自分の心に、自分の仕事に、自分の人間関係にイエス様を迎え入れましょう。弟子達の乗った船が間も無く、目指す地に着いたように、イエス様を迎え入れた生活は気持ちが楽になるのです。スムーズにことが運ぶことが分かるのです。今週も、イエス様を迎え入れて何をするにも、主に祈り、主と共に進み行くことにしようではありませんか。
7月7日礼拝説教(詳細)
「キリストの権威」 ヨハネ5章19〜29節
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。
「よくよく言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何もすることができない。父がなさることは何でも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、ご自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたがたは驚くことになる。父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、自分の望む者に命を与える。
また、父は誰をも裁かず、裁きをすべて子に委ねておられる。すべての人が、父を敬うように、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。
よくよく言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている。
よくよく言っておく。死んだ者が神の子の声を聞き、聞いた者が生きる時が来る。今がその時である。父が、ご自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、父は裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。
このことで驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞く。そして、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るであろう。
7月の第一主日に皆様と共に礼拝できる恵みに感謝です。ということは今年も半年が過ぎたということ、残る半年も励ましあって礼拝を守らせていただきましょう。妻と私は毎朝の朝食時に朝ドラを観るのを常としていますが、先週のドラマの一コマで語られた一言が忘れられません。それは、老いた最高裁長官が「市民生活と民法」という本を出版する際に語った、「私などは出涸らしのようなもの」という一言です。その「出涸らし」という一言が身につまされて、「私も牧師として出涸らしのようなものだ」と痛感させられるのです。しかし、たとえ出涸らしであっても、熱いお湯を注げば、それでも少しは味と香りが残っているかもしれませんので、今しばらくご奉仕させていただこうと思うのです。今日の聖書箇所は、ヨハネ5章19〜29節ですが、長い箇所なので、とりあえず27節をお読みします。
1.御子の権威
この箇所のタイトルが、聖書のこの箇所に「御子の権威」とあるように、主題は明らかに神の子イエス・キリストの権威であります。
① 権威の対立
この5章の始めの第三のしるしとも言うべき、エルサレムの「ベテスダの池」で成されたキリストの病人の癒しの結果、ユダヤ人とイエスの間に、非常に厳しい権威の対立が生じました。キリストは、ベテスダの池の辺りに38年間、病気で苦しみ横たわっていた男に、権威を持って「起きて、床を担いで歩きなさい」と命じました。するとその人はすぐに良くなり、床を担いで歩き出したのです。しかし、それに対してユダヤ人達は、このように反駁したのです。「今日は安息日だ。床を担ぐことは許されていない」と彼らは、宗教的権威をもって癒やされた男に命じているのです。権威とは何でしょうか。それは、他人を服従させる威力であると言えるでしょう。キリストは病人に「床を担いで歩け」と命じ、ユダヤ人は病人に「床を担いで歩くな」と命じました。白黒真逆です。意見は真っ向から対立しました。この権威の衝突の結果、ユダヤ人達は二つの理由で、キリストを殺害することを決めることになってしまいました。
殺害するその一つの理由は、イエスが安息日の規定を破ったからです。安息日に医者は病人を手当することは許されていましたが、完全に癒やされることは労働と見做され許されません。イエスが病人を完治させたことは安息日規定違反です。第二の理由は、イエスが自分を神と等しい者としたからです。これは神冒涜罪であり、ユダヤ人にとっては由々しい犯罪です。今日お読みした聖書箇所は、その意味で、ユダヤ人たちから仕掛けられた論争に対する権威の正当性に関するキリストの鮮やかな論証なのです。
② 権威の根拠
そこで、キリストはユダヤ人たちに対して、ご自分の権威の正当性を主張してこう27節で語られました。「父は裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。」ここでキリストは、二つの事を明確に語られました。自分の権威・権能は神から授かっていること、そして、その理由を、自分が人の子だからだと言われたのです。人の子とは神の約束された救い主、メシアの称号の一つです。この称号は、ダニエル7章の預言に由来するものです。(13、14節)引用すると、ここに来るべきメシアが、いかなる方であるか、明瞭にこう預言されています。「私は夜の幻を見ていた。見よ、 人の子のような者が天の雲に乗って来て、日の老いたる者のところに着き、その前に導かれた。この方に支配権、栄誉、王権が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちすべてはこの方に仕える。その支配は永遠の支配で、過ぎ去ることがなくその統治は滅びることがない。」この箇所からいつぞや礼拝で語った箇所です。
私とは預言者ダニエルことです。日の老いたる者とは、全能の父なる神のことです。その前に現れた「人の子のような者」が、神が人類救済のため遣わされようとされたメシアなのです。イエス・キリストは、神が人類救済のために約束された救い主であります。それゆえに、神はキリストに一切の権威・権能を与えておられたのです。それゆえに、「私は天と地の一切の権能を授かっている」と、復活されたイエス・キリストが、弟子達に語られた根拠も、この預言にあったのです。
③ 権威の種類
主はここで、その神から付与された権威を明確に二つ明示されました。その一つは人に命を与えることです。もう一つ、それは人を裁くことです。人に命を与える権威については、21節で語られています。「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、自分の望む者に命を与える」人を裁く権威については、続く22節で語られています。「父は誰をも裁かず、裁きをすべて子に委ねておられる」 キリストが人に命を与える権威を語られる時、さらに20節でこう語られました。「父は子を愛して、ご自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたがたは驚くことになる。」この「これらのこと」とは、ごく最近の出来事としてのベテスダの病人の癒しであり、その前の出来事であれば、カナの役人の息子の癒しの奇跡のことでしょう。しかし、神様が「これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたがたは驚くことになる。」と主は言われました。この「大きな業」とは何でしょうか。それは明らかに十字架の死と復活のことです。
キリストは、罪の赦しをもたらす贖いのために、十字架に犠牲の死を遂げられました。しかし、神の大能の力によって三日目に甦らされました。神は御子イエスに復活の命を与えられたのです。それと同様に、イエスはイエスを信じる者に永遠の生命を与えられるのです。その意味で語られているのが24節です。「よくよく言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている。」では、御子に人を裁く権威が神から与えられているとはどういうことでしょう。それはこの5章の前のヨハネ3章18〜20節で、よく説明されていますから、お読みします。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇を愛した。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない。」このお言葉で、裁きが何であるかが分かります。裁きとは、善と悪とを判別することです。御子イエス・キリストに裁きの権威が与えられたということは、救い主として来臨された御子イエス・キリストに対するその人の態度いかんによって、善悪が裁かれるということです。ここでは悪とは、何らかの法律に違反する犯罪を犯したということではありません。盗んだ、殺した、偽ったから悪だというのではありません。聖書で言う悪とは、イエス・キリストを信じないことなのです。
極最近のこと、私は個人的に二人の人に別々な機会で、聖書からお話しする機会がありました。どちらの場合も相談事があっての話し合いでした。その際に、私はどちらの方々にも、聖書を開いて救いの道を提示する必要を覚え、四つの法則を使用して説明させていただきました。一人の方はイエス様を信じる祈りをするところまで辿りつきました。もう一人の人はイエス様を信じる祈りでためらい、祈らずに別れてしまいました。そのお二人は、しかしそれ以来、全く音信不通であります。それは何を意味するのでしょうか。それは、彼らは二人とも、そのキリストに対する態度によって、イエス・キリストによって裁かれているということです。光の所に来たのに、光の方に来ようとしません。このまま一生、光にこようとせず、闇を愛し続けるなら、それが悪として裁かれることになるのです。非常にこれは厳粛な出来事ではありませんか。
Ⅱ.定めの時
今日の聖書の言葉を通して更に、私たちは、イエス・キリストの権威が執行される特別な二つの時があることを知っておく必要があります。その二つの時とは「今というその時」であり、もう一つは「来るべきその時」です。
① 今というその時
「今というその時」について主は、25節でこう言われました。「よくよく言っておく。死んだ者が神の子の声を聞き、聞いた者が生きる時が来る。今がその時である。」この「今がその時」の今とは、第一義的に主が語っておられるまさにその時です。しかし同時にそれは、主が昇天された後の、この福音書を書いたヨハネが生きていた時代の今でもあります。それはまた、2000年を経た現代を生きる私たちの現在の今でもあります。聖書でこう言われています。「今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日です。」(コリント第二6:2)この「今」は、キリストが来臨されてからの時代の全てを意味するものです。そしてここで「死んだ者」と言われていることは、肉体が死んだ死者ではなく、霊的に死んでいる人間を指す言葉です。人間は全て罪を犯したため、神との関係が分断され、関係が死んだ状態です。人間には神と交流できる霊があるのですが、アダム以来、人の霊は死んで機能していません。しかし、福音を聞いて信じる者は、霊に命が与えられて生かされ、神との交わりが回復させられるのです。今こそ、キリストの命を付与する権威が執行される時、今がその時なのです。
② 来るべきその時
しかし忘れてはならないのです。今というその時、恵みの時、救いの日が終わり、やがて確実に「来るべきその時」となるということです。先週のこと、非常に象徴的な経験をさせられました。火曜日のことでしょうか、隣のY姉が大小様々のひまわりの花束を届けてくださいました。そして翌日の祈祷会では、そのご主人であるY兄が奨励を担当した際に、そのひまわり畑について言及され、広大な敷地一杯に咲き誇る向日葵をその栽培者が、ハサミまで提供し、自由に採取するのを許可されたというのです。そこで、私と家内は、それから二日後の金曜日の午後、病院を訪問した帰途、東羽倉駅近くでもあるその畑を見学することにし、現地に車でたどり着いたのでしたが、何と広大なひまわり畑はトラクターで徹底的に整地され、僅かに土まみれの数個の花が散見されるだけで、跡形もなく消失していたのです。Y夫妻が無償で沢山の向日葵を手に入れる機会は限られていたのです。それと同じことが今の恵の時にも言えるのです。救いの日が終わり、来るべき時が来るに違いないのです。それは、十字架にかかり復活し、昇天されたイエス・キリストが、再び来臨される時のことです。主は聖書の最後で証言されて「然り、私は直ぐに来る」と予告されました。
今日、この説教の後で、私たちは主の聖定された聖餐式に預かろうとしています。その聖定の言葉がコリント第一11章に記載されており、その式典で読むので、その最後の箇所を読むとこうですね。「食事の後、杯も同じようにして言われました。『この杯は、私の血による新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこれを行いなさい。』だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲む度に、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(25、26節)聖餐式の目的の一つは、十字架上で罪の赦しのために犠牲になられたイエス・キリストを想起することです。それと同時に、聖餐式はキリストの再臨を待望することなのです。「主が来られる時まで」そうです。聖餐式は時において限定されており、キリストが再臨される時まで、執行される礼典です。キリストが再臨されると何が起こりますか。「墓の中にいる者」が皆、救い主、人の子の声を聞くことになると言われているのです。「墓の中にいる者」とは25節の「死んだ者」のことではありません。それは霊的に死んだ者、罪により神と関係のない人のことです。「墓の中にいる者」とは、肉体的に死んで埋葬された全ての人のことです。
私が妻と10年間、ウイーンで教会奉仕をする機会に、私たちは日本人クリスチャンたちのための教会墓地を、ウイーン市郊外の墓地に二区画購入しました。その墓地は300万人が眠る有名な墓地です。ベートーベンやモーツアルトなど有名な楽人の墓地もあります。「墓の中にいる者」とは、死んで埋葬された人々のことです。その時、再臨されるキリストの声を聞いて何が起こるというのでしょうか。29節を読んでください。「そして、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るであろう。」そうです。死者の復活です。一部の人ではありません。全ての人が蘇ることです。しかし、復活は復活であっても違う種類の復活です。命を受けるための復活と裁きを受けるための復活と違っているのです。「善を行った者」とはイエス・キリストを救い主として信じた人々です。「悪を行った者」とは信じないで死んだ人々のことです。
この世界には、二種類の人間しかいません。キリストを信じる人とキリストを信じない人です。ここに揺るがせにできない恐るべき真理があります。人は皆誰でもイエス・キリストに対して取る自分の態度によって、自分の永遠の運命を選び取るという真理です。私たちは黙示録の20章11〜15節に目を背けるべきではありません。そこには人間の運命の厳粛な事実が予告されているからです。「また私は、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方を見た。天も地も、その前から逃げて行き、見えなくなった。また私は、死者が、大きな者も小さな者も玉座の前に立っているのを見た。数々の巻物が開かれ、また、もう一つの巻物、すなわち命の書が開かれた。これらの巻物に記されていることに基づき、死者たちはその行いに応じて裁かれた。海はその中にいた死者を吐き出し、死と陰府も、その中にいた死者を吐き出した。死者はおのおの、その行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。命の書に名が記されていない者は、火の池に投げ込まれた。」これは決して耳障りのいい話しではありません。しかし、未来の現実であることに変わりがないのです。
現在毎朝放映されている朝ドラは、日本最初の女性弁護士をモデルにした「虎に翼」という題名で、戦中戦後の日本の憲法が改正される前後がドラマティックに取り上げられ、改めて法律の何たるか、裁判所の何たるかを考えさせられています。主人公の女性弁護士、寅子、愛称、寅ちゃんが何回も裁判所に登場します。そこには、裁判官、弁護士、検事が控え、被告人の後ろに大勢の傍聴者が座ります。そのような裁判所の光景は、他人事ではありません。人は皆誰しも、神の前に自分の生きた道筋の全てを申し開きしなければならないからです。人間は信仰の有無に関係なく、神に造られた人間被造物として、神に対して責任があるのであり、弁明することになるのです。今私たちは、「今がその時」、そうです。恵みの時、救いの日に生かされています。しかし、やがて間もなく「時が来る」、そうです、キリストが再臨される時が来るのです。それは裁きの日なのです。
Ⅲ.取るべき態度
ですから、ここで勧められて取るべき態度は二つしかありません。イエス・キリストに聞いて信じることです。そして、信じてキリストを敬い礼拝することです。
① 聞いて信じる
主はこう語られました。「よくよく言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている。」(24節)主は「よくよく言っておく」と言われました。原語で「よくよく」とは「アーメン、アーメン」です。この言い方は非常に重要な教えを語る際に、主が使う表現です。何が人間にとって一番大事でしょうか。それはイエス・キリストの言葉を聞いて信じることなのです。それ以上はありません。それ以上に大切なことはありません。この私たちが採用する聖書協会共同訳聖書を発行する日本聖書協会の機関誌に、「聖書エッセイ」のコンテストの入賞作品が掲載されていました。その準大賞を紹介し引用しておきましょう。
『職場の休憩室で、最後のドーナツを同僚に譲ってしまった。差し入れのクリスピー・クリーム・ドーナツ。痩せ我慢だと思われたくないから、余裕の笑みを浮かべて私はスマホに戻る。ドーナツを頬張る同僚の顔は絶対見ない。いや見られない。そのとき隣でバイブルが言った。「受けるより与えるほうが幸いです」ああそうですか。電車を降りる時、男がぶつかってきて私は派手によろけた。絶対わざとだろ? ぶつけ返してやろうか? そのとき隣でバイブルが言った。「悪をもって悪に報いないように気をつけなさい」「あなたの敵を愛しなさい」「右の頬を打つ者には、左の頬も……」いやそれは無理。私はその男の背中を見ないようにして、改札に向かった。バイブルはしばしば説教臭い。優等生みたいだ。それも学級委員でもやっていそうな。バイブルはいつも隣にいて、事あるごとに話しかけてくる。「あすのことはあすが心配します」「さばいてはいけません」「狭い門から入りなさい」いちいちタイミングが良くて、ちょっと鬱陶しい。そんなバイブルに心底嫌気が差したのは、私の教会が解散した時だ。長年仕えた教会があっさりなくなり、私は行き場を失った。どう生きるべきか分からなくなった。「できるだけあんたに従ってきたのに、なんでこんな目に遭うんだよ?」「‥‥‥」大事な時にバイブルは答えない。こんちくしょう。私は教会に行かなくなり、祈らなくなった。聖書は本棚の一番目立たない一角に追いやった。それ以来、バイブルは話しかけてこない。そのうち存在自体を忘れた。職場の休憩室で、最後のドーナツを同僚に譲る。小さな恩でも売っておけば、いつか有利に働くかもしれないからだ。「情けは人のためならず」とはよく言ったもの。教会と関係のない経験を色々した。キリスト教と関係のない本を沢山読んだ。数多くの風景と言葉が頭の中に蓄積された。聖書の言葉は隅に追いやられ、それがあったことさえ忘れた。ある日、友人に誘われて教会の礼拝に行った。最後に「主の祈り」を歌う。教会で仕えていた頃、大好きだった曲だ。前奏を聞きながら、十年くらい経っているのに歌詞も旋律もちゃんと覚えていることに気が付いた。思わず声を上げて歌っていた。「国と力、栄えは……」歌いながら、胸が締め付けられる。なんだこれ。頌栄が終わってパイプ椅子に座ると、隣でバイブルが言った。「平安があなたにあるように」イエスと弟子たちが朝食を取る、あの湖畔の風景が胸のうちに広がる。朝の日差し。魚の焼ける匂い。イエスの笑顔。私は全部覚えている。「いきなりなんだよ、今までどこにいたんだよ?」と私はバイブルに言う。「世の終わりまで、あなたとともにいます」こんちくしょう。私は顔を伏せた。』
このエッセイを書いた人は、イエス・キリストに聞いて信じた人ではありませんか。死から命に移されていますね。
② 信じて敬拝する
彼は教会が閉鎖されたので、躓きイエス様から離れてしまったかのようです。でも教会の礼拝にカムバックしています。どうして戻ることができたのでしょう。そうです。イエス様がいつも彼と共におられたからなのです。主は23節でこう言われました。「すべての人が、父を敬うように、子を敬うためである。」父を敬い、子を敬うとは礼拝することです。霊と真(まこと)をもってイエスに聞き、イエスを信じる人は礼拝するのです。今日の詩篇交読の箇所、96編1〜6節ではこう謳われています。「新しい歌を主に歌え。全地よ、主に向かって歌え。主に歌い、その名をたたえ、日ごとに救いの良い知らせを告げよ。国々に、主の栄光をすべての民にその奇(く)しき業(わざ)を語り伝えよ。まことに主は大いなる方、大いに賛美される方、すべての神々にまさり畏れ敬われる方。もろもろの民の神々はすべて空しい。主は天を造られた。威厳と輝きは主の前にあり、力と誉れはその聖所にある。」その4節はこう歌いますね。「まことに主は大いなる方、大いに賛美される方、すべての神々にまさり畏れ敬われる方。」その通りです。主は「畏れ敬われる方」なのです。今朝の賛美礼拝で「なんと素晴らしい」を私たちはすでに歌い賛美しました。その歌詞はこうでしたね。「なんと素晴らしい あなたの愛は 雲より高く天より高く ほめよ イエスを 崇めよ イエスを この命に勝る主の愛は」もう一度、ここで皆さんと一緒にこの賛美を歌い、主を敬い、主を礼拝することにしましょう。
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