825日礼拝説教

「何処から何処へ」  ヨハネ8章12〜14節

イエスは再び言われた。「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」

イエスは答えて言われた。「たとえ私が自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、私は知っているからだ。しかし、あなたがたは、私がどこから来てどこへ行くのか、知らない。

「私は世の光である」と主イエスが語られたのは、仮庵祭で8本の大きな灯火に点火、エルサレム市街が照らされ、光り輝いた瞬間であった。その時、すかさずパリサイ派から「あなたは自分を証しするが、真実ではない」と厳しい抗議が起こった。だが、主イエスは「私の証しは真実であり、それは、自分がどこから来て、どこへ行こうとしているか知っているからだ」と真実の根拠を語られた。主イエスは神から来られ、神に帰ろうとされていた。主イエスは天から来られ、天に戻られる。主は人と成られた神であられる。

主が「私は世の光である」と語られた背景には、出エジプト3章14節のモーセに対する神の御名の啓示がある。神はその時、ご自分の名を「私はいる」と啓示された。イエスはこの御名を啓示された神であり、暗い世界を照らす光として人の姿で来られた。

主は全ての人を照らす真の光である。そして信じ従う者に命の光を賜る。その光は誰もが理解し難い究極の疑問、即ち、自分が一体何処から来たのか、という本質的問いに光を照らされる。

発達した分子生物学により人間の遺伝子数は22,000と解析されたが、依然として、人類の起源は闇の内にある。だが命の光は、全ての人の究極の先祖がアダムであり、アダムは神により創造されたことが明らかにされる。

自分が何者であるか、これまた分かっているようでいて誰も分からない謎である。だが感謝なことに、キリストを受け入れた者は、主にあって自分が神の子であると悟らされる。何者かになろうと背伸びは不用であり、すでに大いなる特権が付与されている。

では人の究極の行先は何処だろう。私たちは、主イエスが「私は直ぐに来ます」と約束されたことにより、死んでも復活し、永遠に天国で神と共に生かされることを確信させられる。その命の光は、40年に及ぶ荒野の旅を神の民が火の柱によって導かれたように、信じる者の人生の旅路をも導かれる。その道筋は、必ずしも近道や安易な道ではないかもしれない。しかし万事を益としてくださる主なる神を信頼して、一歩また一歩と進み行こう。

818日礼拝説教

「闇から光に歩む」  ヨハネ8章1〜12節

イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御もとに寄って来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦淫の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。

「先生、この女は姦淫をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。

イエスはかがみ込み、指で地面に何か書いておられた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。

「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。

これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってゆき、イエス独りと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。

「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、誰も」と言うと、イエスは言われた。

「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない。」イエスは再び言われた。

「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」

主はご自身を「私は世の光である」と指し示され、主に従う者は闇の中を歩むことはない、と約束された。この世が闇であることが、姦淫の現場で捕らえられた女に象徴される。

姦淫は結婚外の性的関係の逸脱であり、申命記22章はその行為は死刑に相当すると規定される。重罪である理由は、神の創造秩序の破壊にある。三位の父、御子、御霊が永遠に愛の中に存在されるように、人は男と女に愛を形作るものと、神に似せて造られ、「産めよ、増えよ」と祝福された。

主と民衆の前に引き出された女の相手男性は、責任を回避し逃亡していた。婚約していた処女を騙して合意の上で罪を犯し、死刑逃れを工作する姿は実に醜い。

そればかりか、女を引っ立てて突き出す律法学者達の姿は、姦淫の男女以上に暗い。彼らの主たる狙いは、イエスをジレンマに追い込み、合法的に殺害することにあった。姦淫の女は罠に仕掛けたエサに過ぎない。

律法によれば石打ち刑だが、「あなたはどうお考えになりますか」と彼らは罠をイエスに仕掛けた。「殺すべき」と答えても「殺すな」と答えても、訴えられる口実になった。何よりも彼らの卑劣さは、自分を棚上げして他人を裁く姿にある。

自分を正しいと自認し、他人の非を無意識に裁く態度は、我々の日常茶飯となっている。だが、主イエスは即答を避け、沈黙して地面に字を書く。しつこく追求する彼らに、遂に発せられた命令により立場は逆転させられてしまった。

「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げつけなさい」その結果、年長者から始まって、そこに居合わせた全員が立ち去ってしまった。人が罪を犯しているからだ。

人に他人を裁く権利はない。世の光りとして現れたイエスの前に人の真相が照らされる。その光はそれ以上に女の罪を赦す愛でもあった。主は「私もあなたを罪に定めない」と十字架の贖いゆえに女を釈放し、未来に生きる道を開かれている。「もう罪を犯してはいけない」独りその場に残り主に向き合った女に、主は彼女に生きる力を与えられた。誘惑を避け、聖霊により頼もう。

811日礼拝説教

「成長する人間像」  コリント人への手紙 第一 3章5〜7節

アポロとは何者ですか。パウロとは何者ですか。二人は、あなたがたを信仰に導くために、それぞれ主がお与えになった分に応じて仕える者です。

私が植え、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させてくださったのは神です。

ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神なのです。

私が植え、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させてくださったのは神です。」神はキリストの教会につながるすべての人が成長することを求められる。

パウロが開拓したコリント教会には、自然の人、肉の人、それに霊の人と三種類の人がいた。

自然の人は、目に見えない神に関わる霊の事柄を理解できず、また関心もない。

肉の人は、主を信じるクリスチャンであるがキリストにある幼子で、神の言葉をよく咀嚼できず、人を妬み、人と争い、分裂分派を引き起こす傾向がある。

霊の人は、クリスチャンとして成熟し、聖霊によって霊の事柄をわきまえ、他人からは、何故そのように考え、行動するのか理解されない。だが決して霊的なスーパーマンではない。神が人を救われる究極の目的とされた御子イエス・キリストの似像が形成される人を指す。

人間は神により創造され、神の似像として存在に呼び出された。だが、最初の人アダムが犯した罪により堕落した結果、人は本来のあるべきイメージを失っている。神は、生まれながらの無関心な人を福音により救い、その人を神の子に生まれ変わらせ、肉の人を霊の人に成長させてくださる。

コリント教会はパウロが開拓し、アポロが育成尽力した。神はパウロを種まく農夫、アポロは水を注ぐ農夫と、教会を成長させる道具として用いられた。神は人を成長させるのに人を用い、御言葉を用い、環境を生かし、試練や苦しみをも用いられる。成長させてくださる神に感謝しよう。

人が霊的に成長しているかどうかの目安は、イエスを主と信じ新しく生まれていること。イエスによる神への確かな信頼。弟子たちは主に「私どもの信仰を増してください」と願った。人生の困難は信仰により克服される。だが愛がなければ信仰も空しい。「あなたがた一同の間で、互いに対する一人一人の愛が豊かになっている」と言われる相互愛があるだろうか。必要を覚える人に対して惜しみなく援助の手を差し伸べる愛の配慮があるだろうか。「信者の数が増えていった」教会の数的な増加も確かな成長の目安。「成長させて下さい」と祈ろう。

8月4日礼拝説教

「ギデオンの精兵」  士師記7章1〜8節

エルバアル、すなわちギデオンと、彼の率いる全軍は朝早く起きて、エン・ハロドのそばに陣を敷いた。一方、ミデヤン人の陣営はその北側、モレの丘に沿った谷にあった。

主はギデオンに言われた。「あなたと共にいる兵の数は多すぎるから、私はミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救ったのだ』と言って、私に対して驕り高ぶるようになってはいけない。そこで今、兵士たちに呼びかけて言いなさい。『恐れおののく者は皆帰るがよい。ギルアドの山から立ち去るがよい。』」

すると、兵の中から二万二千人が帰って行き、一万人が残った。

主はギデオンに言われた。「兵の数はまだ多い。彼らを水辺へと下らせなさい。私はそこで、あなたのために彼らをえり分けることにしよう。私があなたに『この者を共に行かせよ』と告げた者は、あなたと共に行く。私があなたに『この者は共に行かせてはならない』と告げた者は、誰も行ってはならない。」

ギデオンは民を水辺へと下らせた。

主はギデオンに言われた。「犬のように舌で水をなめる者と、膝をついてかがんで水を飲む者とを、すべて別にしなさい。」

手を口に当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの兵は皆、膝をついてかがんで水を飲んだ。手を口に当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの兵は皆、膝をついてかがんで水を飲んだ。

ギデオンはイスラエルの兵士全員の手から食料と角笛を受け取った。そして三百人をとどめ置き、残りはそれぞれの天幕に帰らせた。ミデヤン人の陣営は下に広がる谷にあった

カナン入国から王国成立までの不安定な士師時代、その士師の一人ギデオンは、手勢3万2千で敵13万5千に戦いを挑もうとしていた。

歴史的に検証された事実として、戦争は太古から続く人類の営みとなっている。最も原始的かつ暴力的な紛争解決手段である。人間が戦争をしていなかった期間は世界史全体で、わずか6年しかない。

その現実の只中に、主イエスは「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と弟子に命じ、「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」と警告された。自らもご自身を敵に委ね、十字架上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのか分からないのです」と執りなし祈られた。

罪の赦しは信じる者にもたらされたが、世界の平和はキリストの再臨を待たねばならず、「世の終わりには戦争と戦争の噂を聞くであろう」と主は予告される。キリスト者は、世界の戦争を見据えつつ、全く異なった視点で戦いの論理を持つ。

使徒パウロは真の戦いは「私たちの戦いは、人間に対するものではなく、支配、権威、闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊に対するものだからです。」と、暗闇の主権者である悪魔との霊的な戦いであると喝破している。狡猾な悪魔は、蛇のように心に滑り込み、時にはライオンのようにキリスト者を恫喝する。使徒ペテロはそれゆえに「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと歩き回っています。信仰をしっかりと保ち、悪魔に立ち向かいなさい。」と勧告する。

戦いに臨むギデオンに「兵が多すぎる」と主は意想外にも減量を命じ、最終的に彼は300人で13万5千の敵に向かわざるを得なかった。ここに霊的な戦いの秘訣が隠されている。臆病者のギデオンには「力ある勇士よ、主はあなたと共におられます」と最初に約束されていた。主の民の戦いは主の戦いであるから、己の力を過信することなく、全面的に主に信頼することが求められる。敵に勝利して誇り高ぶることのないためである。

直面する戦いが何であれ、主に信頼しよう。