8月25日礼拝説教(詳細)
「何処から何処へ」 ヨハネ 8 章12〜20節
イエスは再び言われた。「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」
イエスは答えて言われた。「たとえ私が自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、私は知っているからだ。しかし、あなたがたは、私がどこから来てどこへ行くのか、知らない。
8月第四週の今日、聖書はヨハネ 8 章12節からです。今、聖書の言葉を読みましたが、この聖書の言葉のあるものが、一般化して普通に使われているのをご存知でしょう。「狭き門」「目からウロコ」「豚に真珠」「初めに言葉ありき」まだまだ他にもあるかもしれません。その中の一つが、ここで主が語られた14節のフレーズ、「何処から来たのか、何処へ行くのか」です。最もよく知られているのは、この言葉を自分の描いた絵の題名としたフランスの画家ポール・ゴーギャンです。ゴーギャンは54歳で死にますが、自殺にも失敗し、貧困と病苦と絶望の中で、遺書代わりに描いたと言われるのが幅4メートルもある大作「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」なのです。ですから、今日の説教題は「何処から何処へ」としました。
1.世の光
主イエスが、「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、私は知っている」と語られたのは、エルサレムで行われていた盛大な仮庵祭の最後の日、しかも神殿の境内の宝物殿の近くでした。仮庵祭はイスラエル三大祭、過越祭と五旬節に続く最後の祭りです。これは昔、エジプトから解放された民が、荒野を40年、旅したことを記念するためで、市内の至る所に仮庵を作り、そこに住み、祭壇に犠牲が捧げられる時には、毎朝、シュロの葉を降り振り民が行進したものです。祭りは8日間続けられ、朝夕の供物の時には、祭司がシロアムの池から金の器に水を満たし、それを祭壇に注ぎかけ、夕べになると、高い二つの台にそれぞれ大きな四つの灯火に火をつけ、その灯の火は、エルサレムの市中隅々まで照らしたと言われています。
主イエスが、「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」と言われたのは、まさにこの瞬間でした。仮庵祭の祭りに押しかけ、宝物殿の献金箱に捧げ物を捧げる民衆が、ひしめき合う、その只中で、主は大声で、「私は世の光である」と語られたのです。ところがその時、それを聞きつけたパリサイ派の人が、厳しく抗議してきました。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」と辛辣なクレームをつけたのです。証しするとは、自分の目撃した事実を証言する行為であり、どこまでも真実さが、その人に絶対的に求められるものです。この証しは、英語で殉教者を意味する martyr の語源です。死を覚悟してまで真実に証言するというので、殉教者を意味する言葉となったものです。パリサイ派が「その証しは真実ではない。」と糾弾すると、イエスはすかさず「たとえ私が自分について証しをするとしても、その証しは真実である。」と切り返されました。それは、主が死を覚悟するほどの真実さで、自分は証言しているのだ、と言われたのです。
そして、その証しの真実であることの根拠、理由として挙げられたのが、14節なのです。「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、私は知っているからだ。」それが、どうして証言の真実さの根拠となるのでしょうか。何故ならば、自分が何処から来て、自分が何処に行くのか知っている、ということは、その人自身の本質に関わることだからです。イエス様は何処から来られましたか?そうです。神から来られたのです。イエス様は天から来られました。イエス様は何処へ行こうとされていましたか?そうです。神様のもとに戻ろうとしておられたのです。イエス様は天の父のもとに帰ろうしていることを、よく知っておられました。それゆえに、イエス様はご自分をはっきりと「私は世の光である。」と証言されたのです。
以前にも話したことです。この証言の発言の仕方、これは、ご自分が神であることを意味する、特別な独特な仕方です。ギリシャ語の原語で「エゴ エイミ トー フォス」です。このエゴ・エイミとは「私は、、、である」です。そして、このエゴ・エイミの背景にあるのが、あの出エジプト記 3 章14節の神の御名の啓示なのです。モーセが「あなたの名は何ですか」と、神様に問いかけました。すると「私はいる、という者である」と答えられました。この「私はいる」がヘブライ語のヤハウエなのです。それは日本語では主と訳されています。神の御名です。それゆえにです。主イエスが「私は世の光である。」と語られた時、主はご自分が神であることを証言なされた、ということなのです。主は12節で「私は世の光である。」と発言される他に、「わたしはいのちのパンです。」(6:48)、「わたしは羊たちの門です。」(10:7)、「わたしは良い牧者です。」(10:11)、「わたしはよみがえりです。いのちです。」 (11:25)、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(14:6)、「わたしはまことのぶどうの木・・です。」(15:1)と合計 7 回、エゴ・エイミの形式でご自分を証言されています。それゆえに、「私は世の光である。」とは、永遠に変わらない神の御名なのです。イエス・キリストは、永遠に暗闇に閉ざされたこの世を照らす永遠の光としてこられた神様なのです。
次のような寓話があります。洞窟と太陽の会話です。『昔、洞窟が一つありました。その洞窟はいつもやみの中にありました。ある日の事、洞窟は自分に語りかける一つの声を聞きました。「光のあるところに出て来なさい。こちらに来て太陽を見なさい」。洞窟は困惑しました。「あなたが何を言っているのか理解できない。この世には暗やみしか存在しないのに」。しかし洞窟は、しばらくしてから勇気を出して前に出て行きました。するとそこは、何と驚くべきことに、辺り全体が光で満ち溢れていたのです。洞窟は太陽に向かって話しかけました。「私といっしょに暗やみを見に行かないか」。太陽は聞き返しました。「暗やみってそれは何ですか?」洞窟は言った。「こっちへ来ればわかるよ」。そこで太陽は暗やみを見る招待を受けて、洞窟のほうへ向かっていきました。「さあ、暗やみを見せてみなさい。」ところが暗やみはどこを捜してもなかったのです。太陽の光が洞窟の暗やみを消し去ってしまったからなのです。』みなさんは、自分の周囲を何処を見渡しても暗いニュースや事件ばかりだと思うかもしれません。しかし、決して変わることのない神であられる世の光なるイエス・キリストがこられました。この世に、常に光り輝いておられるのです。
Ⅱ.命の光
そして、その光り輝く世の光であるイエス様は、信じて従う者に命の光を約束されるのです。「私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」命の光を持つとはどういうことでしょう?
① 自分は何処から
それは私たちの生きる人生の根本的な暗い闇の問題点に光が照らされることではありませんか。その根本的な暗い闇の部分とは、今日、この箇所から言えること、それはそれこそ「自分は一体何処から来たのか」という本質的な疑問なのです。イエス様は「自分が何処から来たのか私は知っている」ということがおできになりました。しかし、はっきりとそう言い切れる人は、普通誰もいないのではありませんか。皆、正直分からないのです。何処から来たのかを知らないのです。近くの公園を朝に散歩していた時に、向こうから若い背の高い外国人の女性が歩いてきたので、すかさず「Where are you from?」と尋ねました。すると彼女は「France!」と、はっきり答えてくれました。何処の国で生まれたのか、それくらいは誰だって分かるものです。誰から生まれたかも普通は、誰でも分かっています。自分を産み育ててくれた両親の祖父母や宗祖父母も大体検討が着くことでしょう。しかし、それ以上、先祖を辿るのはそう簡単なことではない。よほど精密な家系図でもない限り、分かりません。私の父は九州の八女郡の星野村出身です。一度訪ねたことがあり、先祖の墓も見てきました。父から聞くところによれば、先祖は昔、その地域の庄屋だったらしい。そして、その前は流浪の浪人侍であったとか。平家の落武者だったのかもしれません。その先は全然わからないのです。
しかし、この点で現在、もっとも注目を集める学問が分子生物学です。それによると古人骨の遺伝子から、直接先祖を辿れるようになったと、確信して主張しているからです。私たちは、20世紀末に、人間の体の設計図となる遺伝子数がおよそ2万2000個であると、遂に数えられたことを知っています。それが21世紀に入ると、次世代シークエンサという D N A配列解析装置が開発された結果、古い遺跡から発掘された古代人の人骨の DNAを解析することができるようになったというのです。そして飛躍的に、人類の先祖を追跡することができるというのです。その最先端を行く学者の一人が、国立科学博物館長の篠田謙一教授です。私は最近、彼の著書になる「人類の起源」と「日本人になった祖先たち」という書物を手に入れ読んでいるところです。それによれば、今までの生物学や人類学の定説が大幅にひっくり返されることになったと言われるのです。そのせいでしょうか、今では「祖先ルーツ検査」が商品化されています。アマゾンでも D N A鑑定キットを買い求めることができます。自分で採取したデータを送れば、4週間程で、祖先 D N A情報を報告してくれるそうです。55,000円ですが、どうですか、皆さんも試してみませんか?それはもちろん冗談です。そうではありません。DNA鑑定によるのではありません。イエス様を信じる者は、自分が何処から来たのかが、明らかに照らし出されるのです。
ルカ3章23節からそこにイエス様の系図が載せられていますね。そこでは父ヨセフから遡り、先祖を辿っていきます。何処に行き当たりますか。そうです。「アダム、そして神に至る」ここからも、主が何処から来たのかが証明されています。イエス様を信じ従う者にも同じ原理が適用されるのです。そうです。自分の先祖の全ての系図の過程の名前の詳細は分からないにしても、結論は同じなのです。「アダム、そして神に至る」そうです。人は皆、最初の人間アダムとエバから来たのです。そして、人間である以上、自分が何処から来たかと言えば、神から来ているのです。神が人間を創造されたのです。日本人の先祖を辿れば神です。中国人も韓国人も、ドイツ人もフランス人もアフリカ人も同じです。究極の先祖は唯一真の創造者である神に至るのです。
② 自分は何者なのか
更に、イエス様に従う者に与えられる命の光とは、人間の本質的なもう一つの問い、疑問、「自分は一体何者なのか」を照らす光です。分かっているようでいて分からないのがこの根本的な問いではありませんか。ネット上のあるコラムに、佐渡島庸平という方が、こんな文章で書き出しているものがありました。『ぼくは小学生の頃からずっと「自分は何者なのだろう?」と問い続けてきた。そして、「何者かにならなくてはいけない」と自分で自分で駆り立ててきた。』このような自問自答は、大小個人差はあるでしょうけれども、人間としての本質的な疑問として誰もが抱くものでしょう。
自分にとって自分とは、一番近い者であるにもかかわらず、自分が何者であるのかが分からない、これが本質的問題なのです。しかし、イエス様を信じる時、ここに光が照らされるのです。その決定的な光を私たちはエペソ 1 章3〜5節に見ることができます。「私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福し、天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです。」
ここで私たちは自分が何者だと言われているのでしょうか。一言で言って、神の子なのです。神がそのように選び定められたからである。自分は何者か? 神の子なのです。ヨハネ1章12節に何と記されていますか。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。」言とは、ロゴス、それはイエス様です。イエス様を受け入れる、つまり信じる、すると何と神の子となる権能、特権が与えられていると言われるのです。そうです。信じ従う者は神の子の特権が与えられるのです。「何者かにならなくてはいけない」と自分で自分を駆り立てる必要はないのです。基本的に人間存在であり、神の子であるだけで十分です。それは永遠に変わらない自分の本質なのです。
③ 自分は何処へ
更に命の光の素晴らしさは、私たちの根本的な暗い疑問点に明るい光を照らし、未来に希望が与えられることです。自分は何処から来たのか?自分は一体何者なのか?第三の大問題は、自分これから何処にいくのだろうか?という疑問です。「われわれはどこから来たのかわれわれは何者か われわれはどこへ行くのか」を4メートルのキャンバスの絵のタイトルとし、自分の遺書として54歳で死ぬ前に、貧困と病苦と絶望の中で、書き上げたポール・ゴーギャンにとって、「われわれはどこへ行くのか」という決定的な疑問を、彼は個人的に解決することができなかったのです。この未来がかかる疑問への唯一の回答は、世の光なるキリストにのみあります。公生涯の末期、刻々とキリストと弟子たちを取り巻く状況は深刻さを増す中で、不安な思いに駆られる弟子たちに呼び掛けられたキリストの言葉が、ヨハネ14章1〜3節に残されています。「「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。」キリストを信じる者の未来は明かるいのです。私たちは寿命が尽きて死ぬことは、もちろん間違いありません。しかし、キリストが再び来られるのです。そして、死んでも復活させられる希望があるのです。その希望は、キリスト自身が三日目に復活された事実ゆえに夢物語ではありません。
7月でしたか、ライフライン友の会で世界的に活躍したプロウインドサーファーの飯島夏樹さんの奥様のインタビュー番組を拝見しました。夏樹さんは、8年間W杯に出場し、マウイ、グアムを拠点にサーフィングの競技大会を転戦した目覚ましい、人も羨むようなスポーツマンでした。ところが2002年に突然、肝細胞癌が宣告され、そのショックからうつ病とパニック症に陥り、2005年に、38歳の若さで亡くなってしまったのです。そんな夏樹さんが何と闘病中に小説「天国で君に会えたら」を執筆、それがベストセラーになります。その夏樹さんが死ぬまでの心境を綴った「ガンに生かされて」という本を最近入手しましたが、そこに彼が奥さんと教会に行かれ、信仰に導かれ、洗礼を受けたことが記されていました。そこに彼の未来への心境が綴られていましたので、そこを抜粋して紹介しましょう。
「今、日本ではタブーとなってしまった『死』。この誰もが等しく通る道を、子どもたちに自然な形で教え導けたらと祈った。そして、現実を知り、受け入れ、力強く生きていってくれたら、僕は天国でいつも微笑んでいることだろう。『死』は悲しいことだけではないんだよ。出逢いがあれば、別れもある。でも信じるものは、また天国で再会できる。」この手記を通じて、夏樹さんの闘病の凄まじさを私は知りました。しかし、38歳でまさに世を去ろうとしていた彼に、キリストによる命の光が与えられていたことをも知るのです。夏樹さんは、自分がこれから何処に行こうとしているのかを、はっきりと確かに知ることができていたのです。人生は七十路、八十路、短いのです。束の間の人生です。光陰矢の如しです。しかし、私たちがこれから何処へ行こうとしているのかが、確立する時、儚い人生は、目的を目指し、一歩一歩踏み進む旅路となります。
Ⅲ.導く光
主が「私は世の光である」と語られたのは、仮庵祭の夕べに8本の灯火がエルサレム中を照らし出した時です。その灯火は、イスラエルの民がエジプトを脱出し、約束の地に入るまでの長い旅路を照らし導いた火の柱の象徴です。出エジプト記13章 21 節にこう記録されています。「主は彼らの先を歩まれ、昼も夜も歩めるよう、昼は雲の柱によって彼らを導き、夜は火の柱によって彼らを照らされた。」約束の地まで、一度も通ったことのない旅路をどうして、神の民は全うすることができたのでしょう。それは、神が導き道を照らされたからです。その導かれた一つの経緯を記す17節を読むとこう書いてあります。「ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ人の住む道に導かれなかった。実際それは近道であったが、民が戦いを目前にして後悔し、エジプトへ戻るかもしれない、と神は考えたからである。」イスラエルを荒野に導かれた主は、近道ではなく、遠回りをさせられたというのです。皆さんの人生にも同じことが言えるかもしれません。自分の周囲には、人生の最短コースを手際よく、手抜かりなく出世コースを進み地歩を固めている人が多数いるのに、何故自分だけ、何回も遠回りをさせられ、ノロノロと思うに任せない人生を生きるのだろうか、と思い悩むことがあるかもしれません。しかし、覚えておきましょう。近道を要領良く生きることが全てではないのです。主が全てをご存知です。
「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。」(ローマ8章28節)主があなたの人生を導かれます。主があなたの人生のあらゆる面で備えていてくださいます。主に信頼して、信じて従い、祈りつつ、今週も進み行くことにしましょう。主に信頼するあなたは、神から出て来たのであり、神の子です。そして、天国を目指す旅人、寄留者であるあなたを主は神の子として光によって導いてくださるに違いありません。
8月18日礼拝説教(詳細)
「闇から光へ歩む」 ヨハネ8章1〜12節
イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御もとに寄って来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦淫の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。
「先生、この女は姦淫をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。
イエスはかがみ込み、指で地面に何か書いておられた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。
「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってゆき、イエス独りと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。
「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、誰も」と言うと、イエスは言われた。
「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない。」イエスは再び言われた。
「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」
今日の聖書箇所は、ヨハネ8章1〜12節です。先々週木曜日、8月8日に宮崎県日向灘を震源とする震度7.1の地震が発生し、それによって、南海トラフ地震注意報が発令されました。それによって備蓄対策で、お米や水が飛ぶように売れ、店頭から姿を消したスーパーもあると聞きました。私もいざの対策に、ガスボンベを買い足したり、風呂場に水をスレスレまで溜める作業をしたものです。
先週の火曜日の夕方のことでした、娘が書斎に血相変えて飛び込んできました。話を聞けば、風呂場に大きな虫がいるとのこと。天井からボトっと落ちてきたと怖がっていました。そこで見れば、10センチ程度の四つ足の虫。ゴキブリ・キラーを吹きつけ、棒で叩いてやっつけたのですが、どうやら、それはヤモリのようでした。どこから入ったのでしょうか。きっと、地震対策で水のある風呂場に避難したのかもしれません。しかし、今日の聖書の話しはヤモリではありません。姦淫の現場で捕えられた女の話しです。殺すか殺さないかという物騒な物語なのです。イエス様は、エルサレムの神殿の庭で、早朝から人々に教えていました。そこに、突然、律法学者やパリサイ人達が、引きずるようにして、姦淫の現場で捕まえた女を無理矢理、イエス様の前に突き出し、こういう不埒な女はどうするべきかと問いただしてきていたのです。
1.世をおおう闇
今日読んだ最後の12節の所で、イエス様はこう語られました。「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」イエス様はご自分を指して「私は世の光である」と言われました。ということは、それを裏返せば、世は暗闇も同然だということです。
私がまだ10代の頃、中学生であったか、高校生であったか、とにかく、一人で東京の奥多摩にある日原鍾乳洞を見学に行ったことがあります。その時間に他に見学する人はいませんでした。係員に頼めば、洞窟の奥まで、電灯をつけてもらえたのですが、私は敢えて断り、懐中電灯一本で中に自分独りで進みました。50メートルくらい進んだでしょうか。後ろを振り返ると入り口が見えません。真っ暗なのです。急に私は怖くなり、急いで戻り、係員に電灯を付けてもらい、それで安心して見学したという次第でした。私たちの住み生きるこの世が、闇のように暗いとは、夜に電灯が無いことではありません。停電することはあっても、修理すれば問題はありません。昼間は太陽が世界を照らしてくれます。夜には月や星も瞬きます。問題はありません。「一寸先は闇」という意味で、この世が暗闇だと、ここで言われているのでもありません。これから先、どんな運命が待ち受けているのか、まるで予測がつかないことではありません。そうではなくて、人間の生きる本来のあるべき秩序が破壊されている、そういう意味で暗い、闇のようだということなのです。
① 姦淫の女性
その暗闇の典型として登場するのが、この姦淫の現場で捕えられ裁かれようとする女性です。姦淫の現場を見つけられ、無理矢理引っ立てられて、人々の前に立たされたというのですから、あられも無い服装で、泥だらけ、しかも、辱められてふて腐れ、うつむいていたことでしょう。律法学者やパリサイ人たちが、「先生、この女は姦淫をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。」と荒々しく、イエス様に訴えたのです。
このモーセの律法とは申命記22章23節のことです。「ある男と婚約した処女の娘がいて、別の男が町の中で彼女に目をつけ、彼女と寝たならば、二人を町の門のところに引き出し、石で打ちなさい。彼らは死ななければならない。町の中で娘が助けを求めて叫ばず、男は隣人の妻を辱めたからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除きなさい。」
その一つ前の22節も姦淫の規定ですが、23節との違いは、22節は既婚者の姦淫で、23節は婚約している女性の姦淫であることです。姦淫とは、結婚している以外の人と肉体的関係を持ってしまうこと、既婚の男女が配偶者以外の結婚している異性と交わる行為のことです。
聖書の世界では、女性がある男性と婚約した場合には、既婚者と見なされていました。結婚していない段階で、他の男性と性関係を持つことが、その処女の娘にとって、なぜ死罪に値するような姦淫なのでしょう。23節の中程に、「町の中で娘が助けを求めて叫ばず」とあるのは、二人の男女が合意の上で、不当な性関係を持ったということです。彼女にとって不本意なセクハラではないということです。彼らは「石で打ちなさい。彼らは死ななければならない。」と、合意による不当な性関係に死刑が規定されます。
日本でも調べて見ると、姦通罪の刑罰は古代においては死刑であったことが分かっています。しかし、明治憲法が制定されると、姦通罪の刑罰は軽減され、6ヶ月以上2年以下の懲役とされています。ところが、大戦後、1947年に施行された新憲法では、姦通罪は違憲とされ、刑事罰としては廃止されてしまいました。お隣の韓国で姦通罪が廃止されたのは八年前の2015年のことです。では何故、聖書では姦通罪が厳しく死刑だとされるのでしょう。私たちはその理由を、人妻による姦淫の誘惑を退けた、ヨセフの言葉から理解することができます。
創世記39章を開いてみましょう。ヨセフは兄弟達に裏切られ、エジプトの王の役人ポティパルに奴隷として売られてしまいました。その主人の妻が、彼に目を付け、性的関係をもつよう誘惑してきたのです。しかし、ヨセフは、「ご存じのように、ご主人は私がいるので、家のことには何も気を遣わず、財産のすべてを私の手に委ねられました。この家では、私より上に立つ者はおりませんし、私に禁じられているものは何一つありません。ただ、あなたは別です。あなたはご主人の妻ですから。一体どうしてそのように大それた悪事を働き、神に罪を犯すことができましょう。」とそれを断固として退けたのです。姦通罪が死刑に値する重犯罪である理由はこれです。姦淫が人に対する罪である以上に、神に対する犯罪であるからなのです。
人間を男と女の形に創造されたのは神です。神様の意図は、愛なる神に似せて人間を愛の交わりを形作る者とすることにありました。創世記1章27、28節をみて下さい。「神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し、男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ。』」人間を男と女に造られた神様が、男と女の性的交わりによって子が与えられるという祝福を与えられたのです。子が与えられるということは、人間の性欲のはけ口の結果などではありません。神様の祝福です。創世記2章18節では「人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう。」と神が言われ、男アダムに女エバを妻として与えました。「ふさわしい助け手」とは、互いに相対して、信頼して、助け合う存在ということです。それに対して姦淫とは、夫以外の別な男性と、妻以外の別な女性と、性関係を持つことです。それによって、その神の祝福された幸せな関係を破壊すること、それが姦淫なのです。
② 姦淫の男性
この世の闇の典型は、この許嫁の女性の姦淫だけではありません。ここでは姿をくらましている姦淫の相手の男性です。律法の規定に従えば、「二人を町の門のところに引き出し、石で打ちなさい。彼らは死ななければならない。」引き出されて死刑にされるのは、姦淫の当事者二人であるべきです。しかし律法学者たちによって、捕らわれ連れてこられたのは姦淫の女だけでした。この姦淫相手の男性はどこにいるでしょう。実に卑劣極まりない男です。彼は、この若い処女が婚約していることを知っていたでしょう。知っていて自分のものにしようと企んだのです。しかも、セクハラではなしに、相手を誘惑し、合意で性関係を持てるように、仕組んだに違いないのです。
ウイーンに滞在した頃、性的関係を強要されたピアノの専攻の女性留学生がいました。彼女は東京のある音楽学校の理事長によって無理矢理、性関係を強要され、ひどいショックを受けていました。その理事長が彼女をウイーンの音学校に紹介する名目で、空路彼女を日本から引率し、ホテルで一泊した際に、睡眠薬を飲ませて罪を強行したのです。
しかし、この聖書に登場する女性の相手は、巧みに女を騙し合意して性関係を結び、そればかりか、姦淫の現場を押さえられると、これまた巧みに一目散に逃亡してしまったに違いないのです。
③ 姦淫の証人
しかし、ここに登場する人物の中で、この世の暗闇を最も露骨に象徴するのは、姦淫の女を捕らえて、真ん中に立たせた律法学者やパリサイ人達です。律法学者とは聖書の律法に精通した学者のことです。彼らは膨大な律法を丸暗記できたでしょう。パリサイ人とは、律法の戒めを厳格に誰よりも実行する宗教的なエリートでした。
そんな彼らの闇の暗さは、第一に、姦淫の現場を押さえて女を捕らえてきたことにあります。姦通という罪は、人目をはばかって為されるものです。自分と相手の人しか知らない、そういう密かな罪です。姦通の罪というのは、その現場を押さえなければ訴えることは出来ないことになっていました。現行犯でなければ駄目なのです。すべての訴えは二人以上の証人がいなければ成立しないことになっていました。どうも最近自分の夫は変だ。他の女性と一緒に歩いているのを見た。そんなことでは訴えることは出来ないのです。しかし、姦通の現場を複数の人が偶然に目撃するなどということが起こりえるでしょうか。ほとんど考えられません。実際問題としては、計画的に罠にはめるということでもなければ、この姦通の罪で訴えるということはなかなか起きなかったのではないでしょうか。
暗さの第二点は、この女の姦通罪の訴えは、主イエス様を訴える口実を作る罠であった点です。彼らには、この惨めな姦淫の女など、どうでも良かったのです。イエスを罠にはめて、失脚させれば良かったのです。彼らは、イエスの名声と評判を妬み、あわよくば殺害しようと計略を練っていたのです。イエス様に対しする質問は、イエス様をジレンマに陥れるように仕組まれた巧妙な罠でした。
彼らは「あなたはどうお考えになりますか。」と、いかにも優れたラビに対して謙遜に意見を伺おうとするかのように、尋ねています。しかし、それにどう答えるにしても、結果はイエス様が窮地に陥るように仕組まれていたのです。この時、「このような女は、律法の規定通りに石で打て。」と答えたらどうでしょう。イエス様はたちまち、愛と憐れみの人、罪人の友人とは呼ばれなくなり、民衆は忽ち離反し、去っていったことでしょう。そればかりか、ユダヤには死刑執行権がなかったのですから、彼らは、その発言をローマの法秩序を無視する反逆者として、告訴することになったことでしょう。では、この時、「この女を石で打つべきでない」と答えたらどうでしょう。忽ち、権威あるモーセ律法の違反者であり、人の犯す不義に寛容な男だ、姦淫、不品行を助長させる者、家庭を破壊する者として、訴えられることになったでしょう。
彼らの闇の暗さの第三点は、律法学者たちが、自分のことは棚に上げて、姦淫の女の過去の罪過ちをあげつらい、責め立て裁く姿にあります。このパリサイ人たちの姿を正統で美しいと思う人は一人もいないでしょう。彼らは道徳的に宗教的に確かに正しい人です。非の打ち所がないと思われていました。彼ら自身もそう思っていたでしょう。正しい人が、言い逃れの出来ない破廉恥な罪を犯した女性を、公衆の面前に立たせ、その罪を暴き、責め立てるとき、それはそれは彼らは気持ちよかったでしょう。しかし、それがどれほど醜いものであるかを、この物語は私たちに明らかにするのです。私共が、ここを読んでいて、身につまされる思いを致します。それは、この律法学者たちやファリサイ派の人々の姿に自分自身の姿が重なるからではありませんか。自分のことは棚に上げて人の欠点や過ちを責め立てる姿は、私共が、ほとんど日常と言っても良いほどに何の意識もせずに行っていることではないでしょうか。
Ⅱ.世を照らす光
ところが、今日、私たちは、この暗い闇の中に、世を照らす光を見るのです。イエス様が、世の光りとして立っておられる姿をここに見るのです。この福音を書き留めたヨハネは、1章9節に証言してこう言いましたね。「まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである。」その同じ1章の5節には、こうも証言しています。「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」この8章の物語の中に、私たちは闇の中で、見事に輝いている光を見せられるのです。その光こそイエス・キリストなのです。主は、12節でこう語られました。「私は世の光である。」
① 教える姿
その朝、オリブ山から宮の庭に来られたイエス様の前に、大勢の民衆が詰め寄せました。人々は、イエスの教える姿に、イエス様が闇の世に輝く光であることを、見ることができたからです。何故ならば、イエス様の語る言葉が神の言葉であったからです。ヘブル1章1、2節「神は、かつて預言者たちを通して、折に触れ、さまざまなしかたで先祖たちに語られたが、この終わりの時には、御子を通して私たちに語られました。」イエス様はロゴスです。神の言葉です。「あなたの言葉は私の足の灯。私の道の光。」(詩篇119:105)民衆はイエスの語る教えに、自分の生活を照らす命の光、命の言葉を見たのです。
② かがむ姿
イエス様が闇の世に輝く光であることを、人々はまたイエスが民衆の間でかがむ姿に見ることができました。イエスは座って、民衆に目を向け、早朝から教えていました。しかし、姦淫の女が前に立たされた瞬間、律法学者たちがこの女を訴えるのを聞かれると、主イエスは、かがみ込み、地面に静かに何かを書き始められたのです。その時、その場の人々の目線とイエスの目線は全く違っていました。
学者達は意地の悪い、妬み深い、冷酷な冷たい目線を女とイエスに向けていました。その哀れな女は隠れた姦淫の罪を暴かれ、羞恥心と経て腐れた目線を、うなだれて自分の足下に向けていたことでしょう。そこに群がっていた群衆は、卑猥な好奇心の目を、マジマジと姦淫の女に向けていたに違いありません。しかし、イエス様は、女にも学者たちにも群衆にも目を向けません。かがみ込んで目を地面に向けられ、沈黙して何かを書き続けられたのです。
ある写本の一つには、ここに「あたかも彼らの言うことが聞こえなかったように」と書き込みがされています。ある写本には「彼らおのおのの罪」と付加されています。勿論それらは説明のための後からの加筆でしょう。ここには何を書かれていたか、何も書いてありません。しかし神の沈黙は、音もなく静かに光り輝き、人の内側に気づきを与えるものではないでしょうか。
③ 命じる姿
しばらくの沈黙が続いたその時、彼らがしつこく問い続けるその時、イエス様は身を起こして言われたのです。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」その一瞬、沈黙がその場を圧倒しました。訴えていた学者たちは口を手で塞ぎ押し黙りました。イエス様は、同じ申命記の別な律法を引用されたのです。申命記17章7節です。「死刑にするにあたっては、最初に証人たちが手を下し、それからすべての民が手を下す。」人を罪故に死刑に処することは重大な責任が求められます。その罪の証人が、しかも一人でなく複数の目撃者が、責任を持って死刑を実施せよと教えられています。そればかりか、イエス様は、その目撃証人達の中でも「罪を犯したことのない者」が先ず石を打ち、死刑を執行せよと命じられました。これは裏返せば、誰も人は他人を裁く権利は無いことを明言されたということです。
イエスをジレンマに陥れようと謀ったパリサイ人たちが、ここで逆にジレンマに陥れられてしまいました。その結果は明らかです。「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってゆき、イエス独りと、真ん中にいた女が残った。」イエス様は、そこに居合わせたすべての人の内面を照らし出されたのです。「すべての人は罪を犯したので神の栄光を受けることができない」罪の無い人はいません。完全に正しい人、潔白な人はいません。人を裁く権利は誰にも無いのです。
④ 赦るす姿
そして、私たちは、次の女とのやり取りに、世の光なるイエス様を認めさせられるのです。主は女に尋ねます。「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」女が、『主よ、誰も』と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。」イエス・キリストは、罪を裁くために来たのではありません。人の罪を赦し、救うために来られたのです。ローマ8章1節「従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません。」何故ですか。イエス様は、十字架にかかり罪の身代わりとなり、罪の赦し、贖いの御業を成し遂げてくださったからです。
Ⅲ.光に歩む道
最後に、女に語られた御言葉によって、イエスを信じるすべての人の新しい生き方を、主は明らかにされました。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない。」罪の赦しは、罪の是認でも放任でもありません。過去の罪過ちを帳消しにすると同時に、未来に向けて新しい生き方を要求するものです。主は未来に向かって新しい道を進ように、女に「行きなさい」と激励されました。それを可能にする三つのポイントを提示しておきましょう。
① イエスと二人きりになる
9節をご覧ください。そこに居合わせた人々は、律法学者やパリサイ人たちをはじめ、皆その場から離れ去って行きました。「イエス独りと、真ん中にいた女が残った」のです。新しい未来への生き方の秘訣がここにあります。イエス様と二人きりに留まることです。それはイエス様にどこまでも従って行く、付いていく生き方です。主は世の終わりまで、いつでもどこでも共にいてくださいます。「主よ。あなたは私の神、私の主です。」と毎日、主と交わり、主と祈り、主と共に過ごす時を持つことです。
② 罪と悪から分離すること
主は女に「もう罪を犯してはいけない。」と優しく勧告されました。ここで女は石打ち刑を免除され、未来に生きるよう執行猶予が宣告されたのです。コリント第二6章16〜18節にこう勧告されています。「『私は彼らの間に住み、巡り歩く。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。だから、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ』と主は言われる。『汚れたものに触れるな。そうすれば、私はあなたがたを受け入れ、あなたがたの父となりあなたがたは私の息子、娘となる』と全能の主は言われる。」ここに、罪過ちを繰り返さないための実用的な心得の一つがあります。それは誘惑する罪過ちから遠ざかることです。自分を分離させることです。現代の社会の傾向は、性的関係の解放と称して、あらゆる角度から人の情欲を刺激する情報が氾濫していることです。ポルノ雑誌や、ネットのキワドイ動画や写真、SNSによる犯罪への誘惑に加担することで、性的罪過ちが増幅されています。注意深く罪と悪から離れることです。誘惑から逃げ去ることです。
③ 聖霊の導きと助けを得る
この聖書時代から2千年を経た今日、イエスと二人だけになるとは、聖霊に満たされることでしょう。聖霊については、いつも語ってきたように、聖霊は「もう一人の弁護者」あるいは「別な助け主」であられます。聖霊を認め、聖霊に依存する祈りを捧げることが、新しい未来を生きる力となります。聖霊が罪に勝つ力を上から満たし、私を罪の誘惑から助けてくださいます。主は言われます。「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」ハレルヤ!
8月11日礼拝説教(詳細)
「成長する人間像」 コリント人への手紙 第一 3章5〜7節
アポロとは何者ですか。パウロとは何者ですか。二人は、あなたがたを信仰に導くために、それぞれ主がお与えになった分に応じて仕える者です。
私が植え、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させてくださったのは神です。
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神なのです。
8月第二週の聖書箇所として、コリント第一3章5〜7節を読みましょう。これは、使徒パウロが第二次宣教旅行で生み出したギリシャのコリント教会に宛てた手紙の一節です。ギリシャと言えば、ギリシャ発祥のパリオリンピックは今日11日に最終日を迎えようとしていますね。日本勢も大活躍で、すでに18個の金メダルを獲得しており、どの競技も見ていてハラハラドキドキでした。私が観戦して感動するのは、一人一人の選手が、スポーツの分野で徹底的に鍛え上げられ、習熟し切っていることです。人間は固定した生き物ではありません。絶えず成長・成熟・発展する存在なのです。
1.成長する人間
キリストの教会に求められている大切なことがあります。それは、教会につながる一人一人が成長することです。この手紙の 2 章、3章を読んでいると、当時のコリント教会には三種類の人がいたことが分かってきます。
① 自然の人
2 章14節をご覧ください。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。」一番目に紹介されている類(たぐい)の人は自然の人と呼ばれています。生まれつきの人のことです。その最たる特徴は、「神の霊に属する事柄を受け入れません」つまり、目に見えない神に関することに全く関心が無く、否むしろ、どんなに聞いても馬鹿馬鹿しく思え、理解できないし、理解したいとも思わない、そういう人のことです。別な言い方をすれば、それはイエス様を主と信じない人であり、未信者と呼ばれる方々のことです。クリスチャンではない方です。ノンクリスチャンです。
② 肉の人
そればかりか、コリント教会にはもう一つの類の人々がいたことが分かります。それは肉の人と呼ばれる人々のことです。3 章1節にはこう記されています。「きょうだいたち、私はあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまりキリストにある幼子に対するように語りました。」パウロ自身が、ここで「兄弟たち」と呼びかけているのですから、彼らは、間違いなくキリストを信じたクリスチャンです。イエス様を救い主と信じたクリスチャンではあるが、別な言い方をすれば、「肉の人」だと言われています。
肉と言えば、直ぐ私たちは食べる豚肉や牛肉を連想しますが、確かに、原語のサルキノスは、動物の肉体の部分を指す言葉で、肉に違いありません。しかし、これは倫理的、霊的な意味で使われており、人間の官能に支配されやすく、罪の中に駆り立てようとする性質を表す用語でもあるのです。
クリスチャンは、イエス様を信じた結果、罪の奴隷から解放されます。罪はもう主人ではあり得ません。しかし、そのかつての主人である罪の影響に左右されやすい性質のことを肉というのです。その特徴が、ここにいくつか挙げられていますね。
第一にこの類の人には霊的に消化する力がありません。1節によれば、パウロは彼らに対して赤ちゃんに語りかけるように語ったと言っています。ですから、彼らは「キリストにある幼子」だと言われています。2節には、「私はあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。」と、パウロはコリント教会の皆さんに率直に語ります。肉の人の第一の特徴は、聖書を自分で定期的に規則正しく読もうとしません。話しもかなり砕いて柔らかくしたお粥か、ミルクのようにしなければ受け付けないというのです。
第二の特徴は、人を妬(ねた)み羨(うらや)みやすい傾向が著しい点です。イエス様を信じてはいるのです。しかしながら、どちらかといえば、目に見えない神様よりも、目に見える、自分の周囲の仲間の言動に関心が向きがちな人のことです。他人のなりふりが気になるのです。自分よりも相手が優れていると思うと落ち込み、自分の方が優れていると思うと自慢したくなるタイプのことです。
第三の特徴は、人とついつい争い喧嘩してしまう傾向が目立つことです。3節でパウロがこう指摘します。「相変わらず肉の人だからです。互いの間に妬みや争いがあるかぎり、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。」人の苦しみの大半は人間関係の歪(ゆが)みによるものですね。やられたらやり返えしたくなります。ちょっとした相手の不愉快な態度に我慢できず、反応してしまうのです。
第四の特徴は、分裂分派、党派心が強いことです。4節でパウロはこう指摘しています。「ある人が『私はパウロに付く』と言い、他の人が『私はアポロに』と言っているようでは、あなたがたはただの人ではありませんか。」この3、4節で繰り返される「ただの人」とは、原語では「自然の人」と同じです。キリストを信じないこの世の特徴は、妬み、争い、そして分裂分派、党派心が支配的だからです。
③ 霊の人
しかし、コリント教会にはもう一つの類の人がいたことも、分かります。それは霊の人と呼ばれる人のことです。これは 3 章1節に出ているばかりか、前の 2 章15節にも出ています。霊の人とは、勿論、キリストを信じたクリスチャンです。クリスチャンはクリスチャンでも霊的に成熟した人のことを指す言い方です。霊の人の特徴が、2章15節で二つ挙げられています。
その特徴の一つは、霊の人は一切を判断することができるということです。人格的な人間の大きな特徴は、自分で判断し自分で決断できることにあります。物事を正しく理解し判断し見極め、自分の意思で決断実行できるかどうか、人は問われます。勿論ここで問題にされる判断とは、「霊に属する事柄」に関わる判断です。目に見えること、この世の世俗の事柄に関する判断、理解では熟達、熟練した人は、それこそ沢山無数にいます。それこそ尊敬にあたいする方々です。しかし、霊に属する事柄、キリストの福音に関する事柄、目に見えない活ける神様に関する事柄に関しては、「霊によって初めて判断できるからです。」(14節)そうです。聖霊の助けと導きがなければ、到底理解できないものです。
もう一つの霊の人の特徴は15節にあるように「その人自身は誰からも判断されたりしません」つまり霊の人は、何故そのように考え理解し、決断行動するのか、他の人にはさっぱり分からないということです。聖霊によって「キリストの思い」を常に抱いているからです。聖霊によってキリストが自分の内に住んでいただいているからで、キリストの思いが自分の思いと一体となるからです。
しかし、霊の人とは何か偉大な突出した霊的スーパーマンであることではありません。パウロ自身、ローマ 8 章の29節ですが、そこで霊の人を別の言い方で明瞭にこう語っています。「神は前もって知っておられた者たちを、御子のかたちに似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くのきょうだいの中で長子となられるためです。」そうです。
霊の人とは、神の選びの究極の目的として、救われた人が、御子イエス・キリストのかたちに似たものとなることなのです。霊の人の中の霊の人の最たるお方は、人となられた御子イエス・キリストです。イエスは弟子たちに「私についてきなさい」と呼びかけました。イエス様に倣うこと、イエス様のように考え、イエス様のように行動し、イエス様のように生きるように成ることを、信じたクリスチャンは目標とするのです。
オリンピックで大活躍する選手たちの戦いぶりを観戦していて、二つの人間を表す英語を思い出させられます。一つは human being、もう一つは human doing です。前者は直訳すれば人間存在者、後者は人間行動者でしょうか。メダルを獲得した選手が表彰台上で満面笑顔でメダルをかじるポーズを見せるのですが、そこには、どうみても human doing が強調されかねません。人間の実行力と出来栄え、その成果が高く評価されます。それに対して、よく言われることは、人間の大切さは、よく出来るかできないかではなく、根本的に人として存在していることが大切だと。
しかし、私はもう一つの人間を表す英語表現を思い出すのです。それは human becoming です。人間が人間に成ることに強調点を置く表現です。人間は神に創造され、神に似せて造られた生き物です。しかしその神の似像は罪によって破壊されてしまいました。イエス様により罪赦されて救われるとは、自分の人間性に神のイメージを回復することなのです。霊の人とは神の似像の本来のあり方を回復された人のことなのです。 Ⅱ.成長させる神
今日の聖書箇所は、神様が人間を存在に呼び出されたばかりか、成長させて下さる方であると教えています。「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神なのです。」人間を神の像に似せて造られた神様は、罪により堕落した人を、御子のかたちに似たものとなるよう、予(あらかじ)め定めてくださるお方であり、実は、そうなるよう成長させて下るお方なのです。
永遠の天地創造前から、予知予定し、予め選び、この時代に恵みによって私たちを救い出してくださった神様は、成長させてくださる神様です。自然の人、全く霊の事柄に無関心で、無理解で、むしろ聞いても馬鹿馬鹿しいとしか思えないような人を、福音の力によって救ってくださる方が、父なる神なのです。聞いてもよく理解できないばかりか、人のことばかり気になり、とかく人と言い争い、つまづきやすい肉的な人を、御子イエス・キリストのかたちに似せたものとしようと、成長させてくださるのは神様なのです。
① 神は人を用いる
コリント教会にとって、大きな影響を与えた人物は、開拓伝道者のパウロであり、その後、やってきて教会を指導したアポロでした。コリント教会は、使徒パウロが第二次伝道旅行の途次、一年半も長期滞在して指導していなければ、あり得ません。更にその後から、有能で能弁な、聖書知識の豊富なアポロがコリント教会を教えたために、大きな教会に成長することができました。ところがそのため、コリント教会にはその後、パウロを尊敬するグループとアポロを尊敬するグループに大きく分裂していたようです。そういう教会に対して、パウロは警告し、勧告し、5節にこう語るのです。「アポロとは何者ですか。パウロとは何者ですか。二人は、あなたがたを信仰に導くために、それぞれ主がお与えになった分に応じて仕える者です。」そして、肝心なのはこうだと、6、7節に続けて語るのです。「私が植え、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神なのです。」
パウロはここで植物に喩えて教えるのです。種を蒔かなければ水を注ぐ植物はありません。種が蒔かれて芽を出し根を伸ばしても、水を注がなければ枯れてしまいます。種や苗を植える人は必要です。水を注ぎ手入れする人も不可欠です。しかし、教会の成長に関しては、肝心要(かんじんかなめ)は、成長させてくださる神様なのです。彼らは神様の用いる道具に過ぎません。あなたが救われるために神様が用いてくださった人を覚えていますか。私ははっきり覚えています。21 歳で開拓伝道をされた芦田典介牧師で、今はもう84歳でアメリカ在住です。私に水を注いでくださった方もはっきり覚えています。宣教師のウオルター・マッセン博士です。もう天上の人です。種を蒔き、水を注いだ人に感謝しましょう。神は成長させるために人を道具として用いられます。
② 神は御言葉を用いる
人の霊的成長のために神は人を用い、また、聖書の言葉をも用いられます。パウロは一年半、コリントに腰を据え、神の言葉を教え続けました。聖書の言葉は、命のパンです。聖
書は飢え渇きを癒す食べ物である以上に、霊的な成長を促進させる生命の原動力なのです。
③ 神は聖霊を用いる
神はまた人の霊的成長のために聖霊を送られました。ヨハネ 14 章で主が約束された方です。「「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(1、2節)キリストの12弟子に関して、聖霊降臨のペンテコステ前後の変わりようが、よく語られますね。主に従う弟子時代の使徒たちは、教えられても教えられてもよく分かりませんでした。しかし、聖霊が降臨してから、彼らは一変したのです。ヨハネ14章25、26節で主が言われたことが受霊後に起きたのです。「私は、あなたがたのもとにいる間、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」あなたは聖霊に満たされましたか? あなたにもあなたのペンテコステがありますか。来月9月16日には関西教区聖会が予定され、ゲストには天野牧師が予定されます。是非出席参加され、その聖会を通じて祈り、聖霊のバプテスマを求め、満たしを経験されることをお勧めします。
④ 神は環境を用いる
そして、神は人の生きるあらゆる環境の変化を成長に生かされます。ローマ 8 章28節を再度読み直してみましょう。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。」万事がクリスチャン成長に働いて益となるのです。そこには困難な試練や誘惑や問題もあることでしょう。しかし、それはあなたを鍛錬し成長させるために神が用いる手段でもあるのです。詩篇119編71節にはよく知られた聖句があります。「苦しみに遭ったのは私には良いことでした。あなたの掟を学ぶためでした。」
先月のライフライン友の会で、3 回連続して星野富弘さんが登場されました。大学卒業して体育教師として就任2ヶ月後に鉄棒から落下し、半身不随の障害者となり、絶望のどん底に突き落とされました。しかし、その苦難が星野さんを成長させるきっかけとなりました。その星野さんの残りの生涯は、それこそ霊的成長の連続ではなかったでしょうか。口の絵筆で描く美しい花に添えて書き出された名文章の数々、それは、その想像を絶するような苦しい試練から生み出された結晶ではないでしょうか。どうしてこんな辛く苦しいことが起こるのだろうかと悩むことがあっても、神様が霊的に成長させようとされることを覚えて、主に感謝してください。
Ⅲ.成長の目安
それではメッセージの最後に、神が成長させてくださる目安を、いくつか挙げておきましょう。成長させてくださるこの成長という言葉には、数が増えること、栄えることなども含まれる言葉です。
① 救いへ成長する
第一に、ペテロ第一2章1、2節にこう記されています。「だから、一切の悪意、一切の偽り、偽善、妬み、一切の悪口を捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、理に適った、混じりけのない乳を慕い求めなさい。これによって成長し、救われるようになるためです。」聖書で人が救われるとは、イエス・キリストを信じて罪が赦され、神との正しい関係に入れられることを意味します。そしてその救いの体験は比喩的に誕生に喩えられ、イエスを主と信じることは新しく生まれたと表現されます。それゆえに、救いとは成長する過程でもあるのです。生まれた赤ちゃんは乳を飲み、子供となり青年となり大人に成長しなければなりません。最近、信仰に導かれた方々を、神様は、「混じりけのない乳」である聖書の言葉により、救いから救いへと成長させてくださいます。聖書を自分で読むよう努力してください。スマホで聖書朗読を聞いてみてください。礼拝で説教を聞き、聖書の学びに参加してみてください。あなたが成長するための恵の手段は、十分備えられています。
② 相互愛へ成長する
神はまた、あなたを相互愛へと成長させてくださいます。パウロがテサロニケ教会への手紙の挨拶で語った次の言葉に注目してください。テサロニケ第二1章3節です。「きょうだいたち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、あなたがた一同の間で、互いに対する一人一人の愛が豊かになっているからです。」霊の人として成長しているかどうかの目安は、その人自身の他人に対する愛のあり方にあります。ここには信仰の成長も強調されますが、愛がなければ信仰は役に立たないのです。
コリント第一の愛の章のあの箇所をもう一度目を通しておきましょう。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」成長させて下さるのは神です。愛そうと思い願っても愛せないのが現実です。しかし、神は成長させて下さいます。
③ 信仰を成長させる
さらに神様は間違いなくあなたの信仰を成長させてくださいます。キリストの弟子たちは、主に成長を願ってこうお願いしています。ルカ 17 章5節です。「さて、使徒たちが、『私どもの信仰を増してください』と言ったとき、主は言われた。もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『根を抜き、海に植われ』と言えば、言うことを聞くであろう。」弟子たちは自分たちの信仰を成長させてくださいと何故お願いしましたか。それは、イエス様が無理難題を命じられたからです。「もしきょうだいが罪を犯したなら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたの方を向いて、『悔い改めます』と言うなら、赦してやりなさい。」」(3、4節)誰かが自分に罪を犯し、酷い傷を負わせたとしても、それが一日七回、そして悔い改めるなら全部赦しなさい、と命じられたのです。それは人間的にはできないことです。不可能です。一度やられてでも、やり返すしかないのですから。それは神を信頼し、神様の力に頼る以外にできないことです。祈ってください。「主よ。私の信仰を成長させてください」と。
④ 義の実を増やす
コリント第二 9 章10節によれば、神様はあなたの義の実をも増やして下さると約束されています。「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたに種を備えて、それを増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」ここで言われる義の実とは、前後の文脈から、貧しい人への援助のことであると分かります。パウロは、当時、パレスチナの酷い飢饉のために、経済的に疲弊したエルサレムの教会のために、援助のための募金を呼びかけていました。そのために、パウロは「貧しい人々には惜しみなく分け与え、その正義はいつまでも続く。」という詩篇112編9節を引用しています。霊的に成長している人の目安は、貧しい人への暖かい心遣いです。神様は蒔く人に種と食べるパンを下さるのですから、種を蒔いて得た中から、貧しい人へ分ち与えることが期待されるのです。
先週の水曜日の午後1時半から、岸和田市のお城脇の自泉会館で、ウクライナ支援のチャリティがあると案内されたので参加してきました。参加費1000円の半分が支援に回されるというのです。参加者は私含めて5名でしたが、500円でも支援に生かされれば感謝だと思うのです。自分の持てるものを、必要とされる人々と分かち合う、これが成長の大切な一つの目安であることに間違いありません。
⑤ 信者の数が増す
最後に使徒行伝 12 章24節を開いてみましょう。「神の言葉はますます広まり、信者の数が増えていった。」神様は信者の数を増やし、教会を人数的にも成長させて下さるお方です。霊的に健全であれば、教会は必ず人数が着実に増えて行くものです。来年の6月に、私たちの泉佐野福音教会は創立60周年記念式典を予定するところです。このように立派な教会堂が備えられましたが、肝心の教会員数は、着実に増加し成長発展しているでしょうか。世界で最も宣教の難しい街、それはエルサレムです。しかし初代教会においては、大迫害の中で、信者の数は増えていきました。神は必ずやこの教会の信者の数も増やし成長させて下さることでしょう。私たちの罪の赦しを得させるために命を捨てて十字架に耐えてくださった主イエスを思い起こし、「私たちを成長させてください」と祈りましょう。
8月4日礼拝説教(詳細)
「ギデオンの精兵」 士師記7章1〜8節
エルバアル、すなわちギデオンと、彼の率いる全軍は朝早く起きて、エン・ハロドのそばに陣を敷いた。一方、ミデヤン人の陣営はその北側、モレの丘に沿った谷にあった。
主はギデオンに言われた。「あなたと共にいる兵の数は多すぎるから、私はミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救ったのだ』と言って、私に対して驕り高ぶるようになってはいけない。そこで今、兵士たちに呼びかけて言いなさい。『恐れおののく者は皆帰るがよい。ギルアドの山から立ち去るがよい。』」
すると、兵の中から二万二千人が帰って行き、一万人が残った。
主はギデオンに言われた。「兵の数はまだ多い。彼らを水辺へと下らせなさい。私はそこで、あなたのために彼らをえり分けることにしよう。私があなたに『この者を共に行かせよ』と告げた者は、あなたと共に行く。私があなたに『この者は共に行かせてはならない』と告げた者は、誰も行ってはならない。」
ギデオンは民を水辺へと下らせた。
主はギデオンに言われた。「犬のように舌で水をなめる者と、膝をついてかがんで水を飲む者とを、すべて別にしなさい。」
手を口に当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの兵は皆、膝をついてかがんで水を飲んだ。手を口に当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの兵は皆、膝をついてかがんで水を飲んだ。
ギデオンはイスラエルの兵士全員の手から食料と角笛を受け取った。そして三百人をとどめ置き、残りはそれぞれの天幕に帰らせた。ミデヤン人の陣営は下に広がる谷にあった。
今日、8月4日の礼拝の聖書箇所は、士師記 7 章です。これは、圧倒的多数の敵軍に包囲された神の民イスラエルが、僅か300人で大勝利を納めたギデオンの精兵と言ってよく知られた箇所です。先週木曜日の朝、一階の部屋に入ってびっくりしました。今日午後2時から開催されるキッズワイワイのサマーフェスティバルで使われる手作りのゲームが、びっしり並べられていたからです。スタッフの皆さんの熱意と創意創造力には脱帽です。参加する子供たちの笑顔が目に見えるようです。
ゲームとは、それはどこまでも遊び事ですが、内容は相手と勝ち負けを競い合う勝負事です。人間には、生まれながらに勝負心、競争心、闘争心というものがあるのでしょうか、他の人と張り合って勝ちたいという気持ちがあるのではないでしょうか。人によっては勝負事が大嫌いな人もいれば、大好きな人もいますが、皆さんは果たしてどちらでしょう。しかし現実には、勝負事の好き嫌いに関わらず、見渡す限り至る所、戦いまた戦いです。先月29日には大相撲夏場所が終わったばかりです。それと同時にパリオリンピック開催です。スポーツや将棋や囲碁、戦争ゲームばかりではありません。現実に血で血を洗う戦争が、世界各地で頻発しています。戦争、戦い、勝負は私たちの避けて通れない大切なテーマの一つです。
1.戦いの論理
人は何故戦うのでしょう。生まれながらに闘争心があるからと言って、それで済ますわけにはいきません。
① 神の民の戦いの論理
士師記 7 章1節をもう一度読みます。「エルバアル、すなわちギデオンと、彼の率いる全軍は朝早く起きて、エン・ハロドのそばに陣を敷いた。一方、ミデヤン人の陣営はその北側、モレの丘に沿った谷にあった。」この書名の士師記の士師とは、ヨシュアによるカナン征服後から王国設立までのおよそ300年間、イスラエルを治めた政治的宗教的指導者のことです。その代表的な士師の一人がギデオンでした。彼はその率いる32000人の軍隊で、135000人の敵と、今まさに戦いを交えるばかりの状態に置かれていました。
神の民イスラエルの戦いは、歴史上、前半と後半に分かれており、前半はカナン征服の戦いであり、後半は外敵の侵略に対する国土防衛の戦いでした。そして、神の民の戦いの論理が、申命記20章1〜4節にこう明瞭に規定されておりました。「あなたが敵に向かって出陣するとき、馬や戦車、また自分よりも数の多い軍勢を見て、恐れてはならない。エジプトの地からあなたを導き上ったあなたの神、主が共におられる。戦いの場に臨むときは、祭司は進み出て民に告げ、次のように言いなさい。「聞け、イスラエルよ。あなたがたは今日、敵と戦おうとしている。気弱になるな。恐れるな。うろたえるな。敵の前でおののくな。次のように言いなさい。あなたがたの神、主が共に歩み、あなたがたのために敵と戦い、あなたがたを救うからである。」それゆえに、原則的に神の民の戦いの論理は、他の国を征服するにせよ、自国を防衛するにせよ、自分たちの戦いは単なる人間同志の戦いではなく、主の戦いであるということでした。
② 人類学の戦いの論理
では、神の民イスラエル以外の世界の国々の戦争の論理を人類学では、どのように説明されているでしょうか。単純に戦争を定義すれば「武力を伴った集団間の戦い」です。もう少し厳密に言えば、「国家もしくはそれに準ずる集団が、自衛や利益の確保を目的に武力を行使し、戦闘を起こす事」です。そして、歴史的に検証された事実として、戦争は太古から続く人類の営みの側面であり、最も原始的かつ暴力的な紛争解決手段であるとされるものです。人間が戦争をしていなかった期間は世界史全体で、わずか6年間しかないと言われます。太平洋戦争が終結して早くも79年が経過しました。これまでに意見が分かれ揺れ動いているのが憲法九条の戦争放棄の規定です。「第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認という規定が、果たして世界の現実に沿うものかどうかが、論争されているのが現実です。
③ 信仰的な戦いの論理
では、イエス・キリストを主と信じるクリスチャンの信仰的な戦いの論理はどこにあるのでしょうか。主の教えは明確です。主はこう言われました。「私は言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)主はゲッセマネの園で、イエスを守ろうとしてペテロがナイフで大祭司の僕の耳を切り落とした時にこう言われました。「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ26:52)そして主は、敵対する者に自分を明渡し、十字架に架けられ、十字架上で敵のために「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのか分からないのです。」と、とりなし祈られました。主イエス・キリストは、十字架の死により罪の赦しと和解の道を人類にもたらされたのです。
しかし、その同じ主が、「世の終わりには戦争と戦争の噂を聞くであろう」と予告されました。戦争の全く無い平和の世界の到来は、キリストの再臨を待たねばなければならないのです。そして主は、弟子たちにこう語られました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)すなわち、イエスを信じる弟子たちが残されて生き続けるこの世に、苦難と戦いが避けられないことを教えられたのです。
主はこの世の君はサタンであると喝破されました。この世の支配的な原理が罪であることをもご存知なのです。ですから、パウロはこの事実に基づいて、主を信じる者の戦いの論理をエペソ6 章に明確にこう定義しました。「私たちの戦いは、人間に対するものではなく、支配、権威、闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊に対するものだからです。」(6:12)これによって、クリスチャンの戦いの論理が、二つ明確にされます。
第一に、戦いの対象は人間に対するものでは全く無いことです。人間同志が争い戦うことは論外なのです。クリスチャンの生き方の基本は、敵をも愛し、隣人を自分のように愛することです。
戦いの論理の第二は、戦うべき対象は、霊的であり、目に見えないサタンの誘惑との戦いであり、罪との戦いであると言うことです。悪魔は狡猾であり、ある時には吠えたけるライオンのように、ある時には狭い隙間に滑り込む蛇のように戦いを仕掛けてきます。ペテロ第一5章8、9節に使徒ペテロがこのように勧告しています。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと歩き回っています。信仰をしっかりと保ち、悪魔に立ち向かいなさい。あなたがたのきょうだいたちも、この世で同じ苦しみに遭っているのは、あなたがたも知っているとおりです。」その一つの具体的な例として、初代教会の歴史を物語る使徒行伝を見るときに、その厳しい戦いの一端を知らされます。
使徒行伝5 章のアナニアとサッピラ夫妻の悲劇です。彼らは教会の愛の交わりの行為として、財産を売却して教会に代金を提出しました。しかし、その背後に狡猾なサタンが躍動していたのです。彼らは売上金の全部と称して実は一部だけを提出しました。ところがそれは使徒ペテロに見破られるところとなってしまいました。ペテロはアナニヤを叱責してこう言いました。「すると、ペトロは言った。『アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金の一部を取っておいたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。』この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。」(5:2〜5)「身を慎み、目を覚ましていなさい。」と書簡に書いたのは、アナニアを叱責したペテロです。目を覚まし祈っていなければなりません。サタンは狡猾にクリスチャン生活に忍びより、様々な角度から誘惑を仕掛けてくるからです。
Ⅱ.戦いの態勢
ギデオンは、ミデアン人、アマレク人、総勢13万5000人の敵軍に対峙して、臨戦態
勢に入りました。彼の呼びかけに応じて各部族から参集した兵の数は32000人でした。
① 削減の命令
一人で四人に対抗するなら、何とか行けるとギデオンは思っていたかもしれません。ところが、主はギデオンにこう語られたのです。「あなたと共にいる兵の数は多すぎるから、私はミデヤン人を彼らの手に渡さない。」(2節)人間的な計算からすれば、32000人でも少なすぎると思うのですが、主は逆に「兵の数は多すぎる」と言われたのです。
② 削減の試験
そして、兵の数を減らす対策として二つのテストを命じられました。その一つは、兵士たちにこう呼びかけるテストでした。「恐れおののく者は皆帰るがよい。ギルアドの山から立ち去るがよい。」するとその結果はどうでしたか。なんと2万2千人が帰って行ってしまったのです。ギデオンは、呼びかけに応じて駆けつけてくれた連中であるから、精々数十人か、多くても数百人程度であろうと、心で計算したことでしょう。意外や残留したのは三分の一の1万人でした。
ところが、主は第二のテストを命じられたのです。4節にこう語られています。「兵の数はまだ多い。彼らを水辺へと下らせなさい。私はそこで、あなたのために彼らをえり分けることにしよう。私があなたに『この者を共に行かせよ』と告げた者は、あなたと共に行く。私があなたに『この者は共に行かせてはならない』と告げた者は、誰も行ってはならない。」主はギデオンにこれでもまだ兵の数は多すぎると言われるのです。その水辺でのテストの仕方は兵士たちの水の飲み方によるものでした。主は5節で彼にこう指示されました。「犬のように舌で水をなめる者と、膝をついてかがんで水を飲む者とを、すべて別にしなさい。」その結果はまた驚きです。合格したのは犬のように舌で水を舐めた者300人だけであったからです。彼らは6節で「手を口に当てて水をなめた者」と言い改めています。膝をついて屈んで水を飲む者とどこに違いがあるというのでしょう。ここでその違いが強調されているのではなく、強調されているのは、主が兵の数を少なくしようとされたことなのです。
③ 削減の意図
何故、32000人の兵が多すぎるのですか。何故、1万人の兵が多すぎるのですか。多すぎるどころか少なすぎませんか。ところが主の御心は300人なのです。何故でしょうか。それは、2節で語られた主の言葉にその理由があります。「イスラエルが『自分の手で自分を救ったのだ』と言って、私に対して驕(おご)り高ぶるようになってはいけない。」そうなのです。問題は、敵の数の多少にあるか無いかではなく、戦う人間の心の罪にあるからです。
罪の本質は高ぶりです。高慢です。『自分の手で自分を救ったのだ』と言う態度です。それは真の唯一の神を無視し、自分を全能の神とする自己神格化の罪です。アダムとエバがエデンの園で、サタンにより騙されて犯した罪です。禁断の実を食べると神のようになれると騙され、彼らは誘惑に負けたのです。戦いの臨戦態勢で最も大切な態度は、戦いは本質的に主の戦いであって人間の戦いではないという理解をもった謙遜な態度なのです。
使徒パウロがコリント教会に宛てた手紙の冒頭に、この戦いの真理が同じように語られています。「きょうだいたち、あなたがたが召されたときのことを考えてみなさい。世の知恵ある者は多くはなく、有力な者や家柄のよい者も多くはいませんでした。ところが、神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。すなわち、力ある者を無力な者にするため、無に等しい者を選ばれたのです。それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(1:26〜29)
私たちは、今日、改めてその意味で、選ばれ、救われていることを確認することにしましょう。自分の弱さ、足らなさ、無力さ、無能さを卑下してがっかりする必要はないのです。また、誰か人に何とか褒めてもらいたいと背伸びする必要もないのです。あるがまま、召されたまま、その生まれも、その教養も、学歴も、持てる財産資産の多少も問題ではありません。神が無きに等しいものをあえて選ばれるところに、神の知恵が働いているのです。「それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」
Ⅲ.戦いの勝利
この300人のギデオンの精兵が、7章後半の記録で分かるように、不思議な仕方で135,000人の圧倒的多数の敵軍を粉砕してしまいます。人間的には300人でその大軍に勝てるはずがありません。少数の精兵で勝利できたということ、それは、その戦いが主の戦いであって、主の御名が崇められるためであったからです。主は弟子たちに激励して言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」この世に勝利された主イエスが、信じる者を勝利者にしてくださいます。
使徒パウロも、ローマ 8 章37節でこう確信して語りました。「これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります。」別訳では「圧倒的な勝利者です」「これらすべてのことにおいて」のこれらこととは、35節に列挙された事柄です。「誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。苦難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。」戦いは様々です。宗教的な迫害の戦いがあり、経済的ひっ迫の戦いがあり、暴力的危険の戦いがあります。それが何であれ、四面楚歌の状態に陥り、自分でどうすることもできない圧倒的な困難に遭遇するとしても、恐れてはならないのです。主の戦いである以上、主が戦ってくださるからです。
かつてモーセがエジプトを脱出した民を紅海の海まで導いた時、後ろからエジプトの軍勢が押し迫り、前には海が行くてを阻む絶体絶命の状況に陥りました。その時、モーセは民にこう激励したのです。「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは静かにしていなさい。」(14:14)その結果、海は真っ二つに裂かれ、乾いた道が出来て民は向こう岸に渡ることが出来ました。渡りきった時にモーセが手の杖を差し伸べれば、追ってきたエジプト軍の上に海の水が襲いかかり全軍が溺れ死んでしまいました。
ダビデが巨人ゴリアテに対決した時はどうでしたか。「ダビデはそのペリシテ人に言った。「お前は剣や槍や投げ槍で私に向かって来るが、私はお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によって、お前に立ち向かう。」と対決したダビデは、宣言したのです。「主が救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主の戦いである。主はお前たちを我々の手に渡される。」(サムエル上17:45〜47)この結果は歴然でした。少年ダビデは、巨人ゴリアテを石投げの小石を投げつけるだけで、撃ち倒してしまいました。エジプト脱出の民は弱い者の象徴です。巨人ゴリアテの前に立つ少年ダビデも小さき者、無に等しい者の象徴です。しかし、戦いが人間の戦いではなく、主の戦いであるなら、その結果は明白なのです。必ず勝利するのです。それはそれによって、主の栄光が表されるためであるからです。
今日、皆さんは個人としてどのような戦いを強いられているでしょうか。今日、皆さんは個人としてどのようなサタンの誘惑に直面しているでしょうか。問題・課題の大きさ、過重さに圧倒されて身動きできない状態でしょうか。ギデオン自身も、敵に包囲された状態では、全くの臆病者であり恐れに圧倒されていた人物です。しかし、主の使いが彼に現れ、こう語られました。「力ある勇士よ。主はあなたと共におられます。」(士師記 6 章12節)決して恐れることはありません。主はあなたの現在をご覧になり、かつまた、あなたが主にあって信仰により勝利者となる未来を見ておられるからです。そして、そこには確かな約束があります。「主はあなたと共におられます」これこそ、聖書の一貫した私たちに対する神様からのメッセージであります。
あるアメリカの牧師が、乗っていたジェット旅客機が乱気流に巻き込まれた時の恐ろしかった経験を語った証があります。飛行機が離陸してしばらく安定した状態で航行していると、突然、乱気流に入るのでシートベルトを着用するよう、緊急のアナウンスが入りました。しばらくすると案の定、機体は乱気流に巻き込まれ、激しく上下に高下し、その状態が続くうちに、乗客は恐ろしさのあまり、泣き出す人も、喚く人もあり、ある人は祈っている人もいました。ところが乗客の一人牧師がふと脇の席の小さな可愛い女の子を見ると、その子は静かに何事もないかの如く、本を読み、時に目をつぶって考えたりしているようなのです。非常に不思議に思い、牧師は、恐ろしい状態が収まってしばらくしてから、そっとその子に尋ねてみました。「どうして静かにしていられたのかな」すると返事はこうでした。「このジェット機のパイロットは私のパパだからよ。」この少女は自分のお父さんを信頼し切っていたのです。無事に目的地に誘導し、家に一緒に帰れることを疑うことがなかったのです。
主はギデオンに約束されました。「主はあなたと共におられます」今週も共にいつもいてくださる主のみ声を聞き分け、主に従い、自分の戦いを戦い抜いてください。信仰は勝利です。主を信じる者は世に勝つのです。共におられる主イエスを仰ぎ望みましょう。
泉佐野福音教会
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