9月29日礼拝説教(詳細)

「裁きの座の応報」   II コリント5章1〜10節

私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物があることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住まいです。

私たちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に望みながら、この地上の幕屋にあって呻いています。それを着たなら、裸ではないことになります。

この幕屋に住む私たちは重荷を負って呻いています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではなく、死ぬべきものが命に飲み込まれてしまうために、天からの住まいを上に着たいからです。私たちをこのことに適う者としてくださったのは、神です。

神は、その保証として霊を与えてくださったのです。それで、私たちはいつも安心しています。もっとも、この体をすみかとしている間は、主から離れた身であることも知っています。

というのは、私たちは、直接見える姿によらず、信仰によって歩んでいるからです。それで、私たちは安心していますが、願わくは、この体という住みかから離れて、主のもとに住みたいと思っています。

だから、体を住みかとしていようと、体を離れていようと、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。私たちは皆、キリストの裁きの座に出てすべてが明らかにされ、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行った仕業に応じて、報いを受けなければならないからです。

9月第五聖日の今日、私たちは聖書を II コリント5章から読みます。今日の礼拝にほとんど欠席したことのない四人の兄弟姉妹の顔が見えませんね。彼らは昨日、今日と北陸の能登の奥地まで地震被災者支援のため出張しているからです。彼らの往路の安全と支援活動のためにお祈りください。1月元旦に能登半島を襲った大地震で341人が亡くなりました。更に先週の集中豪雨で気の毒にも11人も亡くなったと報じられました。亡くなられた方々は、まさかその日に自分が死ぬことになるなど夢にも思わなかったことでしょう。しかし、誰しも人が皆、覚えておくべきことは、必ずいつか死ぬ時がやってくること、それは避け得ぬ現実であることです。

歴史上名の知れた著名人の臨終の言葉が残されています。一休和尚は、「死にとうない」と87歳で死にました。良寛さんは「裏を見せ表を見せて散るもみじ」と呟き73歳で死にました。フランスの哲学者ヴォルテールは「静かに往生させてもらいたい」と84歳で死にました。劇作家のゲーテは「窓を開けてくれ、もっと明かりを」と83歳で死にました。政治家チャーチルは「何もかもウンザリしちゃったよ」と91歳で死にました。さて、皆さんなら、自分の死に臨んでどんな臨終の言葉を残されるでしょうか。

1.未来の希望

今日の聖書箇所の前の箇所、4章 16 節で、この手紙の著者パウロは、自分の死を予感しつつ、こう言い残しました。「私たちは落胆しません。私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。」外なる人が朽ちるとは、やがて身体が衰え死ぬことです。しかし、私たちは落胆することはない、と言うのです。なぜ、パウロはそのように断言できたのでしょう。それは、パウロにはキリストにあって、未来に対して確かな希望があったからなのです。

  新しい身体の希望

その希望をパウロは1節でこう言うのです。「私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物があることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住まいです。」先に4章 16 節で、パウロは自分の体の事を「外なる人」と言いましたね。しかしここでは、比喩的に幕屋と言い換えています。

幕屋とはキャンプなどで使用する布製のテントのことです。私がまだ20代の若い牧師であった頃です。夏にはよく伝道を目的とした野外集会を空き地に大テントを張って実施したものです。しかし雨が降ればビショビショです。大風が吹けば、柱ごと吹き飛ばされたことが何回もありました。

テントは仮住まいです。脆く、破れやすく、痛みやすいものです。私たちの体は、どう見てもテントのよう、幕屋のようです。病気にもなるし、怪我もするし、老人になればあちこちが弱くなってヨボヨボになってしまいます。ところが、希望があると言うのです。「私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物があることを、私たちは知っています。」これこそ未来に関わる確かな知識だからだと言うのです。壊れやすい幕屋に替えて、やがて未来に与えられる体が「神から与えられる建物」と、喩えて言われます。建物とは、幕屋と比較になりません。頑丈なのです。長持ちするのです。勿論、私たちは先の能登半島自身でも多くの建物が倒壊したことを知っています。今回の集中豪雨でも、家が土砂災害で押し潰された事を知っています。しかし、ここでは、神がやがて与えてくださる新しい身体の永遠性を強調するために、幕屋に替えて建物と言われているのです。

  主のもとに住む希望

そして、その未来の希望は、新しい堅牢な永遠の体が与えられる希望を超えた希望、即ち、この新しい体で、「主のもとに住む」ことのできる希望が語られます。それが 6〜8節です。今この肉体に住む限り、私たちは主から離れていることを知っています。私たちは肉の目で直接に主イエス様を見ることはできません。勿論、インマヌエルであり、いつも共に居ると約束されたイエス様が、常に共にいてくださる、内住しておられることを信仰によって私たちは知っています。それでも、それは時によっておぼろげであったり、時には主が遠くに離れておられるかのように錯覚させられるものです。ところが、キリストが来られて、復活の身体、朽ちない・霊の・強い・栄光の体が神様から与えられる時には、永遠に主と共に住むことができる、それが未来の確かな希望なのです。主が弟子たちに約束された通りです。ヨハネ14章2〜3節を読みましょう。「私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。」主は「あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える」と約束されました。主は真実な方ですから、必ず再び来られます。その時、新しい体で主と共に住むことになる、そこに私たちの希望がかかっているのです。

  希望を保障する聖霊

それゆえに、「私たちはいつも安心しています」と言えるのです。何故ですか。それは神様が保証として聖霊を与えて下さったからです。「神は、その保証として霊を与えてくださったのです。」未来にこの希望を持って今現在、安心できるのは聖霊が保証してくれるからです。聖霊が与えられていることをどうして確認できますか。それは、I コリント12章 3 節で確認できますね。「そこで、あなたがたに言っておきます。神の霊によって語る人は、誰も「イエスは呪われよ」とは言わず、また、聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と言うことはできません。」あなたはイエス様を主であると告白できますか。告白されたから洗礼を受けたのですね。それは聖霊が与えられたから告白できたのです。未来にキリストが来られること、来られたキリストが新しい永遠の栄光の体をくださること、それからキリストと共に永遠に住むことができる希望が、まだ確信できない方がおられるでしょうか。イエス様を救い主として心に信じて迎え入れてください。そうすると聖霊が与えられます。そうすると未来の希望が聖霊によって確信することができるようになります。

.未来の責任

更に、私たちは今日、この聖書箇所から、未来の希望と共に私たちの未来にある責任を確認させていただきましょう。それは、10節で語られていることです。「私たちは皆、キリストの裁きの座に出てすべてが明らかにされ、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行った仕業に応じて、報いを受けなければならないからです。」この10節の最初は「私たちは皆」で始まり、最後は「受けなければならないからです」で終わっています。と言うことは、私たちには例外なく、未来に果たすべき責任があることです。その責任とは、キリストの裁きの座に出て全てが明らかにされることです。ヘブル9章 27 節に非常に厳粛な言葉がこう語られています。「人間には、ただ一度死ぬことと、その後、裁きを受けることが定まっている」誰でも自分が死ぬことを知っているでしょう。自分は決して死なないと間違っても思っている人はいないでしょう。しかし、覚えてください。確実に人は死ぬだけではなく、死んだ後に、裁きを受けることが定まっているのです。

  白い玉座の裁き

聖書の最後の黙示録20章11節には、すべての人のために「大きな白い玉座」の裁きが記されています。12 節にはこう記されています。「また私は、死者が、大きな者も小さな者も玉座の前に立っているのを見た。数々の巻物が開かれ、また、もう一つの巻物、すなわち命の書が開かれた。これらの巻物に記されていることに基づき、死者たちはその行いに応じて裁かれた。」そこで行いに応じて裁かれた死者はどうなるのですか?それが 15 節の短い一言です。「命の書に名が記されていない者は、火の池に投げ込まれた。」火の池、それは地獄です。永遠の苦悩の場所です。恐ろしい運命です。これは、キリストの十字架の罪の赦しに預かることなく死んだすべての人の受けるべき最後の審判です。聖書はローマ3章 23 節で「すべての人は罪を犯したため神の栄光を受けることができない」とあります。罪とは原語でハマルティアと言い、その本来の意味は「的外れ」です。人間は神に創造され、神に向けて造られた被造物であり、神を信じないで神との正しい関係の無い人は、生きる的を外した罪人なのです。いま現在、神との正しい関係に入っていない方は、イエス様を信じ「私の心にお入りください」と祈ってみてください。キリストは十字架であなたの罪の赦しのために犠牲となり死んでくださいました。罪の赦しを確信されるなら、たとえ今日、死んでも最後の審判に遭うことは決してありません。他の誰かがあなたに代わって決断することはできません。自分で判断し、自分の意志でイエスを主と信じてください。

  キリストの裁き

しかし、今日、この聖書箇所で語られる裁きとは、裁きは裁きでも黙示録20章の最後の大きな白い玉座の審判ではありません。イエス様を救い主として信じた人は、死んで罪を最後に裁かれることはありません。絶対にありません。キリストが十字架で、すでに身代わりとなり人の罪をになって神の裁きを受けられたからです。この裁きは、イエス様を信じて救われたキリスト者の生前の行いの評価としての裁きのことです。ここで「裁きの座」と訳された原語と、黙示録20章の「玉座」とは全く違います。玉座はスロノスですが、座とはベマトスです。このベマトスは大理石でできた演壇であって、使徒行伝の中ではしばしば地方総督が裁判をする際に着座した演壇のことです。そればかりか、このベマトスはまた、オリンピック競技に際しての審判員が着座する場所にも使用されていました。ですから、このベマトスは、犯罪を裁く法廷ではありません。オリンピックの表彰台をイメージしたらいいのです。私たちの未来にある責任とは、このキリストの前にある表彰台に立つことです。そして「私たちは皆、キリストの裁きの座に出てすべてが明らかにされ」なければなりません。明らかにされるとは、光に照らされて、それまでははっきりと見えにくかったことが、目に見えるように、完全に理解されるようになることです。ここで、この聖句によって四つのことが明らかですね。

  すべてが明らかにされること  

第一にすべてが明らかにされることです。先週、一冊の貴重な書籍を手に入れました。「命のビザを繋いだ男」と言う題名の本です。私は大分以前に「六千人の命のビザ」と言う本で、戦争中にリトアニアの大使であった杉原千畝さんが、ナチスの迫害を逃れようとしたユダヤ人に日本へのビザを発給したことで6000人が助かった話を知って深い感動を覚えたものでした。その大勢のユダヤ人は、リトアニアからシベリア鉄道経由で、ウラジオストックから船で日本に渡り、日本からアメリカなどの国を目指して旅を続けて救出されました。しかし、杉原大使が発給したビザは日本の通過ビザでした。短いのは三日間、長くて2週間程度でしたから、そんな短時間で、次の国のビザを取得するのは簡単にはできないはずでした。どうして彼ら6000人が無事に移動できたのかは謎です。ところが、その謎を解明する人が起こされたのです。それは今もテレビや映画で俳優として活躍する山田純大さんです。彼が10代でアメリカに留学しているときに、たまたま、ユダヤ人の救出に協力した杉原大使のことを知る機会があります。そして知れば知るほどに、日本に辿り着いたユダヤ人たちがどうして無事に日本を通過できたのか疑問を抱いたと言うのです。そして、不思議な仕方で、その決め手となった人物がいることが分かりました。それが小辻節三という人物だったのです。

この小辻さんは京都の下鴨神社の神主の息子です。やがてイスラエルに深い関心を示し、米国に留学してヘブライ語学の博士号の学位を獲得し、ヘブライ語を自由に語れる学者でした。この小辻さんは帰国し、鎌倉に住んでいました。太平洋戦争が開始した1940年頃のことです。神戸のユダヤ人協会から、ナチスから逃げるユダヤ人たちの救出に協力を頼まれたのです。それからというもの、小辻さんは無償でかけづり周り、政府や神戸市役所、警察に働きかけ、滞在ビザを延長させるのに成功しました。その結果、6000人が無事に日本から移動することができたというものです。この伝記を書いた山田さんは、小辻さんが英語で書いた自伝をアメリカで発見します。また、鎌倉に二人の娘さんがおられることが紹介されました。その二人の娘さんと対談した別れ際に、「百年以内に誰か、自分をわかってくれる人が現れるだろう」と「父は亡くなる間際にそんなことを言ったの。」とお二人がポツンと言われたというのです。日本では、結構、リトアニアの大使だった杉原千畝さんが6000人のユダヤ人のために緊急にビザを発給して、救出に協力した話しはよく知られております。まさに昨晩10時から「揺れる命のビザ」とNHKが放映したところです。しかしながら、小辻さんの働きを知る人は全くと言っていいほどにおりません。私もこの10年前に発刊された本で初めて知りました。小辻さんは日本人ですが、

60歳で正式に割礼を受けてユダヤ教徒になります。そして74歳で死んだ時、その遺体はイスラエルに空輸され、かつて救出された多数のユダヤ人たちに出迎えられ、イスラエルの墓地に埋葬されたそうです。小辻博士がそうであるように、人はその成したことの全てをほとんど誰にも知られることはありません。しかし、キリストの裁きの座では違います。光に照らされて全てが明らかにされるのです。

  行った仕業が明らかになる

何が明らかにされますか。「めいめい体を住みかとしていたときに行った仕業」です。「私たちは皆」生きている間、この地上生活をしている間にしたことが、キリストの御座の前で明らかにされるのです。現在、犯罪の摘発のために至る所に設置されている防犯カメラが大活躍しています。そこに記録された映像によって、犯人が特定されて検挙されるケースがたくさんあります。しかし、私たちはあの詩篇139編の記述を読むと驚きませんか。「主よ、あなたは私を調べ私を知っておられる。あなたは座るのも立つのも知り遠くから私の思いを理解される。旅するのも休むのもあなたは見通し、私の道を知り尽くしておられる。私の舌に言葉が上る前に、主よ、あなたは何もかも知っておられる。前からも後ろからも私を囲み御手を私の上に置かれる。その知識は、私にはあまりに不思議、高すぎて及びもつかない。」これは防犯カメラなど比較にもならないことです。思ったこと、語ったこと、行なったこと、それがどんなに些細であっても、キリストは全てをご存じであり、明らかになされるのです。

  仕業の動機が明らかに

そればかりではありません。その仕業の動機が明らかにされるのです。「善であれ悪であれ」とはそういう意味です。人の行い、行動、仕業、発言は表面だけでは、わからないことが多いのです。エレミヤ17章 9 節を口語訳で引用しておきましょう。「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。」やっていることが見せかけは善であっても、その背景にある動機が悪であることがあり得るのです。ユダヤ人にとって大切な三つの徳行がありました。施しと祈祷と断食です。主はこれについて、こう警告されました。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いが受けられない。」これを偽善と言われます。偽善とは舞台役者の演技のことです。それは人に見せるショーでしかありません。自分のすべての仕業がその動機も含めて一切が明らかにされるキリストの裁きの座に出ること、それが未来における私たちの責任なのです。

.未来の喜悦

しかし、しっかり覚えておきましょう。これは未来の責任であると共に未来の私たちの大いなる喜悦、感動であることです。何故なら「私たちは皆、キリストの裁きの座に出て、報いを受けなければならないからです。」キリストの裁きの座に出るとは、犯した罪過ちが裁かれ罰せられることではありません。自分の地上で行った良き業、働きに対する報いを受けることなのです。

  報われる喜び

聖書で報いと訳される言葉がいくつかありますが、みな強調点が違って使われています。その一つのミスソスという言葉は賃金・報酬です。人が働いた労働の対価として払われるのが賃金ですが、キリストの裁きの座の報いは賃金ではありません。もう一つはアポディドミという言葉があるのですが、これはお返しに使われます。ルカ14章7〜14 節は、主が客と招待する者への教訓を語られた教えですが、主は、客を招く際には、金持ちたちではなく、貧乏人や体の不自由な人々を招きなさいと言われました。何故なら、金持ちたちは、招かれたお返しをするかも知れないからだと言われるのです。それに対して、貧しい人を客にすれば、彼らはお返しができない。できないから、あなたは報われると言われたのです。私たちもお返しをすることがありますよね。お返しとは、相手の好意ある自分に対する行為に対して、相手にも同じことをすることによって、対等の立場に保とうとする行為ではありませんか。ギブアンドテイクの関係です。しかし、天のキリストの裁きの座の報いは、お返しでは全くありません。

  払い戻しの喜び

この聖書箇所から明らかにされる報いとは、賃金でもお返しでもなく、これは、その人自身が、自分で積み上げたものの払い戻しであるということなのです。ここで使われている報い、原語でコミゾーですが、これは、特に長い間預けてあったのを返してもらう、そういう意味で使用されます。銀行の現金自動支払い機をイメージしてください。人は銀行に積立、預けた預金を窓口でも自動支払い機でも払い戻すことができますね。

  宝を天に積む

主はあの山上の垂訓でこう言われたのを覚えていますか。「あなたがたは地上に宝を積んではならない。そこでは、虫が食って損なったり、盗人が忍び込んで盗み出したりする。宝は、天に積みなさい。そこでは、虫が食って損なうこともなく、盗人が忍び込んで盗み出すこともない。」(マタイ6:19)主は地上にではなく、天に宝を積みなさいと教えられたのです。自分の体でこの地上に生きる間に、主に喜ばれるどんな働きでも、それは天に宝を積むことです。大分、以前にベストセラーになった「ヤベツの祈り」のウィルキンソンが、主に喜ばれる7つ働きを英語でSを頭文字にして紹介しています。SeekingSubmittingSelf-denialServingSufferingSacrificingShairing です。天に積む宝には、神を求めて祈ることが含まれます。職場の雇用主に忠実に仕えることが含まれます。神への奉仕のために自分を捨てることが含まれます。助けを必要とする人に奉仕することが含まれます。主イエスの御名のために苦しみを受けることが含まれます。神のために犠牲を払うことが含まれます。神の国の拡大のために自分の時間、才能、宝を人と分かち合うことが含まれます。

昨日のことでした。トルコで日本人クリスチャンたちの小さな群れのお世話をされているK兄が訪ねてこられたのです。先日の礼拝メッセージでエペソの遺跡を訪ねたことを話した際に触れたその方です。彼はキリスト教書店の店長を永くされていました。しかしやがて、トルコの宣教に重荷が与えられ、単身自費で活動を開始されたのです。彼のご両親が亡くなられると遺産として受け継いだ家を彼は売り払い、活動資金にされました。主が弟子たちに約束された言葉を文字通り実行されたのです。マタイ19章 29 節です。「また、私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」桑原さんは、そうすることによって天国に宝を積み、今現在もなお、積み続けておられるのです。

私たちの未来には希望があります。主が来臨される時に新しい体が与えられることです。私たちの未来には果たすべき責任があります。それは自分が地上で行った仕業の全てをキリストに裁かれて明るみに出されることです。しかし、私たちにとり、それは未来に経験することになる驚くばかりの喜悦、喜びの感動なのです。何故なら、その時、その日、主によって、私たちの地上生活でのすべての労苦が報われることになるからです。

使徒パウロは自分の死期が近いことを覚え、ピリピの教会にこう語っています。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(ピリピ3;13、14)使徒パウロの活動の全てを動機付けたのは、最後に神の賞を獲得することでした。イエス様から「善かつ忠なる僕、よくやった」と褒めていただくことだったのです。もう間も無く今年も10月に入ろうとしています。その直前の昨日今日と4名の兄弟姉妹たちは、地震と豪雨の被災者支援のため能登に向かいました。彼らもまた、天に宝を積む愛の奉仕をされておられます。10月14日に予定される特別伝道集会のため祈りましょう。人々をお誘いしましょう。チラシを配布して案内しましょう。それがどんなに小さい目立たない奉仕であったとしても、天に宝を積む働きであることを覚えておきましょう。もう一度、あのパウロの語った4章 16 節の言葉を思い起こし、祈りましょう。「だから、私たちは落胆しません。私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。」落胆しないのです。希望があるからです。喜びが待ち受けているからです。

9月22日礼拝説教(詳細)

「究め難い神の道」  ローマ11:25〜36

きょうだいたち、あなたがたにこの秘義をぜひ知っておいてほしい。

それは、あなたがたが自分を賢い者と思わないためです。すなわち、イスラエルの一部がかたくなになったのは、異邦人の満ちる時が来るまでのことであり、こうして全イスラエルが救われることになるのです。次のように書いてあるとおりです。

「シオンから救う者が来てヤコブから不敬虔を遠ざける。これが、彼らの罪を取り除くときに彼らと結ぶ私の契約である。」

福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で愛されています。神の賜物と招きは取り消されることがないからです。

あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は、彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼らもやがて憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を憐れむために、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたのです。

ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。神の裁きのいかに究め難く、その道のいかにたどり難いことか。

「誰が主の思いを知っていたであろうか。誰が主の助言者となったであろうか。誰がまず主に与えてその報いを受けるであろうか。」

すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。

9月22日の今日、聖書はローマ11章25〜36節をお読みします。ご存知のように、私たちは来月14日に兼光伸一牧師を講師にお呼びし、伝道集会を予定しています。この伝道集会の目的は明確であって、それは、私たちの同胞である日本人の知人友人そして自分の家族に福音を聴いていただくことによって、キリストの救いに預かり、神に立ち返って頂くことです。その意味で、その集会を一か月後に控えて、今日の聖書箇所に聞くことは、非常に意義深いことだと私は思うのです。何故かと言えば、この書簡を書いた使徒パウロが、一つの重要な課題を9章から語り始めており、今日読んだ箇所は、その結論であるからです。そして、その重要な課題とは、パウロ自身の同胞・イスラエル人の救いです。

9章1、2節に彼がこう語り出しています。「私はキリストにあって真実を語り、偽りは言いません。私の良心も聖霊によって証ししているとおり、私には深い悲しみがあり、心には絶え間ない痛みがあります。」このパウロの「深い悲しみ」、「絶え間ない痛み」とは何でしょうか。それは、同胞イスラエルが、キリストの福音に対して心を閉ざし、心を頑なにし、信じようとしないことなのです。ですから、パウロはそれ故に、次の 3 節のところで、「私自身、きょうだいたち、つまり肉による同胞のためなら、キリストから離され、呪われた者となってもよいとさえ思っています。」とまで言ってはばからないのです。その悲しむべき状況は、2000年後の現代イスラエルでも同じです。

イスラエルは現在人口が600万人程度ですが、そのクリスチャン人口は統計では 0.25%です。アメリカにも650万人ユダヤ人がいますが、クリスチャン人口はわずか 3.7%なのです。翻って考えてみれば、その悲しむべき状況は、私たち日本人に重なるものです。日本人のクリスチャン人口は、1%以下であるからです。百万人もいない、いや、日曜礼拝に出席する数は20万人程度だと言う人もいます。日本人の大半が福音に心を閉ざし、信じようとしていません。

私たちが10月に伝道集会をするのは、私たちがすでに救われているという優越感からするのでは全くありません。予算総会で年間行事として企画したから、ただ機械的に実行するというのでもありません。そうではなくて、全くそうではなく、パウロと同じように、日本の同胞の救いを思う、深い悲しみと痛みが動機であるべきではないかと思うのです。

しかし、そのように同胞イスラエルの霊的状況を憂いて9章から11章まで考え祈り黙想し、洞察を深めたパウロは、最後に、どうでしょう、深い感動に満たされ、「栄光が神に永遠にありますように、アーメン」と神を褒め称えています。なぜでしょうか。それは、人類救済の究め難い神の道を垣間見ることが許されたからなのです。だから33節で「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。神の裁きのいかに究め難く、その道のいかにたどり難いことか。」と感嘆して言うのです。

彼は、ローマ書の末尾の記録によれば、この書簡を友人のテルテオにより口述筆記して書いたと言われています。テルテオはパウロが実際、ここまで語ってきて思わず「ああ!」と感嘆するのをそのまま書いたに違いありません。パウロ自身にとって極め難く、深く、たどり難いとするなら、果たして、私たちに極めることができるかどうか心配になりますが、それでもパウロが 25 節で「きょうだいたち、あなたがたにこの秘義をぜひ知っておいてほしい。」と、あえて言っているのですから、私たちも今日、その秘義・奥義を悟らせていただこうではありませんか。パウロはその秘義を要約して最後の 36 節で「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」と語っています。

1.万物の根源

ここで、「すべてのものは、神から出ている」ということは、万物一切は神が根源であるということです。聖書は、開巻早々、その第一声で、「初めに神は天と地を創造された。」で始まっていますね。何か非常に唐突な出だしだと思います。しかも、そこには、何の説明も施されることもなく始まっています。聖書では、つまり神様が森羅万象一切の根源であることが、当然であることが前提となっているからなのです。

相対性理論を提唱したユダヤ人物理学者のアルベルト・アインシュタインの有名な言葉が残されています。彼はこう言いました。「どんな条件であれ、私には確信がある。神は絶対にサイコロを振らない。」うまい言い方をしたものです。それは、「観測される現象が偶然や確率に支配されることもある、とする量子力学の曖昧さを批判したもの」でした。アインシュタインは、宇宙の出来事や運命は単なる偶然ではなく、秩序や法則によって支配されているのだという信念を表現したかったのです。

何年か前にNHKで「神の数式」というドキュメンタリーが放映されました。ご覧になった方もおられるでしょう。天才的な物理学者たちによって、宇宙を解明する究極の方程式が生み出されつつある、というものでした。最終的な方程式は神の数式と呼ばれるだろうというものです。科学と聖書は対立・矛盾するものではないことを覚えておきましょう。科学はその研究の進歩によって、必ずや聖書の真理を証明することになるに違いないのです。

.万物の過程

ここで更に、「すべてのものは、神によって保たれ」るとは、神様を起源とする万物は、神様によって維持・保持されるばかりか、神様が歴史を導き、生成・発展させられるということです。日本語で歴史と言うところをドイツ語はゲシヒテで、英語ではヒストリーで、ヒストリーは起こった出来事・事実を強調し、ゲシヒテはどちらかというと記録することが強調されるのですが、歴史を一言で言えば、起こった出来事を書き連ねたものと言うことができます。

私たちは、この地上に生まれた以上、否が応でも、その歴史を生きなければなりません。時には、自分で思うに任せず、その流れに翻弄される小舟のように感じることがあるかもしれません。しかし、聖書は、この万物そして人類の歴史は神に導かれていると語るのです。しかも、さまざまな歴史家が自分の歴史観で解釈しようとしても、神様がどのように歴史を導かれるのか、決して理解することができません。それはただ奥義によってのみ、初めて悟ることが許されるのだと語るのです。ですから、使徒パウロは 25 節でこう言うのです。「きょうだいたち、あなたがたにこの秘義をぜひ知っておいてほしい」秘義とは原語のミュステリオンで、奥義と訳され、英語のミステリーの語源です。

奥義とは論理的な思考によっては理解できない秘密です。パウロはそれを知って欲しい、悟って欲しいと言います。その秘義、奥義をここで聖書は 25、26節でこれだと語られるのです。「すなわち、イスラエルの一部がかたくなになったのは、異邦人の満ちる時が来るまでのことであり、こうして全イスラエルが救われることになるのです。」

  イスラエルの選び

先ず第一に、これによって秘義の中心にあるものがイスラエルであることが分かりますね。今現在、世界の耳目を集めているのは中東のイスラエル情勢です。パレスチナ難民の収容地域を支配するハマスが、昨年10月7日に、イスラエルに対して残虐非道なテロ行為を働いたために、1200人のユダヤ人が虐殺され、250人が人質として拉致されてしまいました。このハマスを殲滅しようというイスラエルの熾烈な軍事戦略がガザ地区で行われているのです。それから一年にもなろうとする現在、ガザ住民がすでに4万人以上も犠牲になっていると報じられています。

1948年に、今から僅か75年前に中東に建国したこのイスラエルの歴史を遡ると行き着くのは、聖書によれば神によるイスラエルの選びということになります。最初からイスラエルという民族があったのではありません。聖書によれば、神がアブラハムという一人の人物を選び、長い時間をかけて神の民と呼ばれる一つの民族が形成されたのです。そのアブラハムの選びが、創世記12章1〜3 節に記されています。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民とし、祝福しあなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福の基となる。あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う人を私は呪う。地上のすべての氏族はあなたによって祝福される。』」これによってアブラハムを神が選ばれたことに、二つの目的があったことが分かります。

一つは、アブラハムから起こされる民族は神から祝福され大いなる特権が与えられること。もう一つは、世界中の民族がこの神の民によって祝福されることになるということです。アブラハムから起こされるイスラエルが特別な権利を与えられていることを、パウロは、同胞イスラエルを語るときに、ローマ9章 4 節で、その与えられている特権を次のように語っています。「彼らはイスラエル人です。子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは万物の上におられる方。神は永遠にほめたたえられる方、アーメン。」これらの権利を一つ一つ吟味すれば分かることですが、これはとてつもない特権です。彼らには生まれながらにして神の子としての身分が与えられているというのですから、これだけでも驚くばかりの特権です。

  イスラエルの失敗

しかしながら、私たちはこの奥義によって、神によって選ばれ使命と特権を与えられたイスラエルが、歴史において、とんでもない失敗を犯し、神様から見捨てられたという事実を知るのです。使徒パウロは単刀直入に「すなわち、イスラエルの一部がかたくなになった」と語ります。25 節で、このイスラエルが頑なになったことを、この11章の中では別の表現で繰り返し語られていますから見てください。11 節では「ユダヤ人が躓いた」とあります。28 節では「イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対しています」とあります。30 節では「今は彼らの不従順によって」とあります。イスラエルは神の選びの期待に反して失敗したのです。神に対して頑なになり、躓き倒れ、神に不従順で、敵対したのです。

その神様に選ばれ驚くばかりの使命と特権の与えられたイスラエルの失敗の中の大失敗は、何かというと、それが、神様が救い主としてこの世にお遣わしなられた御子イエス・キリストを拒絶したということです。聖書が明らかにするのは、神様が人類救済のために神の民に救い主を送られたのに、彼らは真っ向から拒絶してしまったのです。ユダヤ人指導者たちは、キリストを捕えると、ユダヤ最高議会を開き、大祭司が中心となって、キリストを断罪し、死刑を宣告し、ローマ総督ポンテオ・ピラトに引き渡し、キリストを十字架刑によって殺害してしまいました。

  異邦人の救い

そればかりではありません、この奥義によって明らかにされる隠された秘密はなにかといえば、それは、このイスラエルの失敗が異邦人の救いとなったという驚くべき事実なのです。11 節を見てください。「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたのは、倒れるためであったのか。決してそうではない。かえって、彼らの過ちによって、救いが異邦人に及びました。」これは一体どういうことを意味するのでしょうか。神によって選ばれたはずのイスラエルが、神に頑なになる、躓いてしまう、敵対する、不従順になる、それが、どうして異邦人の救いにつながるのでしょうか。人間の理性的・論理的な思考では理解し難いことです。それは、ユダヤ人の反抗により、救い主イエス・キリストが死刑に処せられ、十字架で死ぬことが、罪の赦しをもたらすこととなったからです。イスラエルの指導者たちには、民衆がイエス様に関心を寄せるのを妬み、イエス様が神を冒涜していると罪を着せて、死刑によって殺害することにより邪魔者を一掃するのに成功したかに見えたはずです。しかしながら何と、その十字架のキリストの死が、罪の贖いの業となったのです。ということは、神様は、このイスラエルの破廉恥な恥ずべき神に対する敵対行為を、人類救済を実現するための手段として用いられたということなのです。誰がこのようなことを考えつきますか。キリストの十字架の死と復活が福音です。この福音を聴いて信じる者は罪が赦されて救われるのです。

  イスラエルの救い

隠された秘密である奥義がここで開示されることによって、更に明らかにされることがあります。それが、イスラエルの救いなのです。パウロは12節でこう語っています。「彼らの過ちが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。」イスラエルがつまづいて失敗したのは、それによって倒れて滅びることではありませんでした。15 節はこうです。「彼らが捨てられることが世界の和解となるなら、受け入れられることは死者の中からの命でなくて何でしょう。」25、26節はこうです。「すなわち、イスラエルの一部がかたくなになったのは、異邦人の満ちる時が来るまでのことであり、こうして全イスラエルが救われることになるのです。」更に28節はこうです。「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で愛されています。」そしてパウロは、30、31節に続けてこう語るのです。「あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は、彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼らもやがて憐れみを受けるためなのです。」イスラエルは罪を犯して失敗したが、神様に愛されている、受け入れられる、やがて救われる、やがて憐れみを受けることになる、それが隠された秘義なのです。

いつ救われることになりますか。25 節「すなわち、イスラエルの一部がかたくなになったのは、異邦人の満ちる時が来るまでのことであり、こうして全イスラエルが救われることになるのです。」失敗したイスラエルが神様に見捨てられどれほどの歳月が経過しましたか。イスラエルは紀元70年にローマ帝国軍によって滅ぼされました。エルサレムでは110万人が殺害されたと言われています。それから、ユダヤ人たちは祖国を失い、世界中に離散させられてしまいました。それからもうすでに二千年近い歳月が経過しているのです。その間にイスラエルが経験したことは、あの申命記28章に記された呪いの全てでした。「主は、あなたと、あなたが自分の上に立てた王とを、あなたもその先祖も知らない国民のもとに行かせる。そこであなたは、木や石でできた他の神々に仕えるようになる。主があなたを追いやる先のすべての民の中で、あなたは恐怖となり、物笑いの種となり、嘲りの的となる。」(36、37節)これが、世界に離散したイスラエルの経験した悲惨でした。その最も悲惨な例こそ、第二次世界大戦でのナチスドイツによるホロコストでしょう。欧州のユダヤ人600万人が、ポーランドのアウシュビッツのガス室で殺害されてしまいました。

しかしそれにも関わらず、その頑なさのゆえにイスラエルの受ける呪いは、「異邦人の満ちる時が来るまで」なのです。ここにおいて、私たちが深く関わっていることを忘れないようにしましょう。「異邦人の満ちる時」とは、ユダヤ人以外の人々、すなわち日本人を含めた異邦人の中で救われるように予知予定されている人々の数が満ちる時のことなのです。その予定されている人の中に、今日、ここにいる私たちが含まれているということです。10月14日に開催予定の伝道集会の意味はここにあります。これによって、一人でも二人でも救いに預かる人が起こされることにより、満ちる日が縮められるということです。

その「異邦人の満ちる時」はもうそんなに先のことではないでしょう。もうその時が近いのです。その時とは、主イエスが再臨される時、空中に来られる時、教会が携挙される時でしょう。それから、イスラエルの民族的な救いの時が到来することになるのです。

.万物の目的

ここから見えてくることこそ究め難い神の道ではありませんか。人間の理性では推し量ることのできない神の経綸、神の計画、神の道です。使徒パウロは 36 節の最後に「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」と言葉を結びました。「すべてのものは、神に向かっている」別訳は「神に帰する」です。これは、万物の根源であり、歴史を導かれる神様は、そのなされるすべてに目的を持っておられるということです。 31、32節を今一度読みましょう。「それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼らもやがて憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を憐れむために、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたのです。」神様が、長い歴史の中で、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたといわれています。これが歴史において神が、なされたこと、なされることだというのです。不従順とは神を信じて従うことをしないことです。神があえてすべての人をそうするようにされたというのです。

すべての人の中に私がいます、皆さんが入ります。我々もかつては神に対して不従順でした。信じていませんでした。見向きもしませんでした。理解できますか。しかも、そうすることによって、何と神には、すべての人を憐れむという目的が確かにあったというのです。これこそ隠された秘密の奥義です。究め難い神の道なのです。神の選びの民イスラエルと他のすべての異邦人は、別々の道を通って、同じ目標に神様によって連れて行かれて行くことになります。神様は、各個人個人をもその人に必要な道で導いておられます。神は、憐れむために、理解に苦しむような苦しい経験を許されるのです。

 パウロが 35 節の言葉「誰がまず主に与えてその報いを受けるであろうか」は、ヨブ記35章 7 節からの引用句です。ヨブ記といいますと、正しい人であったヨブが理不尽な不幸に遭うという物語です。ヨブ記では、正しい人であったヨブが理不尽にも子供やら財産すべてを奪われ、自分自身も酷い病にかかるという物語です。そもそもなぜヨブが酷い目に遭わなければいけなかったのか、そこに疑問をどうしてももってしまいます。ヨブ自身納得していませんでした。ですからヨブは神に向かって叫び、神に異議申し立てをしたのです。

ヨブは神に向かって、私は悪くない、はっきりとそう言ったのです。そのヨブに神は答えられました。その答えは全体としてとても長いものですが、つきつめれば 35 節にパウロが引用していることです。神は神である、人間には神の心はわからないということです。その神との対話によってヨブは目を開かれました。神への知識を得たのです。自分の惨めさのなかで、ヨブは神の摂理を知ったのです。私たちの住む世界には、至るところに理不尽な出来事が起こっています。自分自身の人生にも理解に苦しむことが起こります。しかし、それらの全てが偶然でも、単なる人間の思考の思想の理論の産物であるわけではないのです。世界の歴史は、神様によって支配され、統括されているのです。それは到底人智で理解し難いことです。その視点でウクライナの悲劇を受け止め、神の御心がなるよう祈りましょう。その視点でイスラエルのガザの紛争を捉え、祈りましょう。私たち有限な人間の思考によっては、万物を創造され、歴史を完全に支配される神様の道の全てを理解することなど、到底出来ない相談です。

私たち人間にとってできることは、たとえ全部を理解することができなくても、自分のなすべき責任を果たし、全てを完全に支配しておられる神様に信頼して祈ることなのです。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。神の裁きのいかに究め難く、その道のいかにたどり難いことか。」「栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」 

9月15日礼拝説教(詳細)

「キリストの内住」  エペソ3:14〜21

このようなわけで、私は、天と地にあって家族と呼ばれているあらゆるものの源である御父の前に、膝をかがめて祈ります。

どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めてくださいますように。あなたがたの信仰によって、キリストがあなたがたの心の内に住んでくださいますように。あなたがたが愛に根ざし、愛に基づく者となることによって、すべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものかを悟り、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができ、神の満ち溢れるものすべてに向かって満たされますように。私たちの内に働く力によって、私たちが願い、考えることすべてをはるかに超えてかなえることのできる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々にわたって、とこしえにありますように、アーメン。

9月第三週礼拝の今日、聖書はエペソ3章から読みます。このエペソ書は、使徒パウロが第二次宣教旅行で開拓したエペソ教会に宛てた書簡とされています。6章からなる短い手紙形式の書簡ですが、使徒パウロは、この手紙の中でエペソ教会の信徒のために、二度の篤い祈りを捧げています。第一の祈祷は1章15〜19節です。その第二の祈祷が今日、お読みした3章14〜21節なのです。

1.祈りの根拠

この聖書箇所が祈りであることは、最初の一節を読めば明らかです。「このようなわけで、私は、天と地にあって家族と呼ばれているあらゆるものの源である御父の前に、膝をかがめて祈ります。」

  祈りの対象

使徒パウロが、「私は、膝をかがめて祈ります」と言うとき、彼は誰に祈りましたか。父なる神様です。しかし、その神様がどのようなお方であるかを、パウロはここで随分丁寧に形容していると思いませんか。「天と地にあって家族と呼ばれているあらゆるものの源である御父の前に」とパウロは告白するのです。人間が他の動植物と全く違うユニークな特徴は、誰であっても祈るということです。勿論、祈りの対象は全く違いますし、祈り方も違うでしょう。そんな中で使徒パウロは、自分の祈る対象をはっきり自覚し、「私は天と地にあって家族と呼ばれているあらゆるものの源である御父」に祈ると言うのです。

この「天と地にあって家族と呼ばれている」という家族は原語パトウリアは、父を意味するパテールから出た言葉です。元来は家族、部族、民族を意味するのですが、そればかりか多種多様な生物の部類や種類、生きとし生けるものの「種族」を意味すると理解される言葉でもあります。天地万物を存在に呼び出されたのは誰でしょうか。偶然ですか。進化したからですか。そうではありません。神様です。神様が創造されたのです。人が真の意味で祈れる対象は、天地万物の源、創造者である神様なのです。生きとし生けるものに命を与え、すべてを支えてくださる神に祈るのです。

  祈りの根拠

更に、使徒パウロは「このようなわけで、私は膝をかがめて祈ります」と書き出すことによって、祈りには確かな根拠があることを、ここで明らかしています。「このようなわけで」と書くその訳、理由、根拠は、当然にそれ以前に書き記したことです。パウロが祈りの根拠として書いている、特に3章前半には、パウロが直接啓示された神様からの奥義が記されています。奥義とは、それまではすべての人に隠されてはいたが開示された真理です。それを、パウロは3章 6 節にこう語るのです。

「すなわち、異邦人が福音により、キリスト・イエスにあって、共に相続する者、共に同じ体に属する者、共に約束にあずかる者となるということです。」これが神に啓示された奥義だと言います。福音とは、イエス・キリストの十字架の死と復活です。それによって全ての人の罪の赦しが実現することです。ですから、奥義とは、今やキリストの故に、その十字架の死と復活によって、ユダヤ人も異邦人も全く差別なく神様に受け入れられるようになった、ということです。ですから、更にパウロは 12 節に続けて、こう語るのです。

「キリストにあって、私たちは、キリストの真実により、確信をもって、堂々と神に近づくことができます。」そうです。祈りの根拠がここにあります。どうして神様に祈れるのでしょうか、その理由は、福音の故に、罪赦され、「確信をもって、堂々と神に近づくことができ」るからなのです。ですから、私たちもためらうことなく、祈ることが許されているのですから、祈ることにしましょう。祈らせていただくことにしましょう。

  祈りの姿勢

しかし、最近、イエス様を信じたばかりの人々は、「どのような形で祈ってよいのか分かりません」と言われるかもしれません。使徒パウロはここで「私は、膝をかがめて祈ります」と言いますが、原文ではただ「膝をかがめます」だけです。これは祈りの姿勢です。ユダヤ人は古代においては、もっぱら立って手を挙げて祈るのを常としていました。しかし、膝をかがめるのも敬虔な祈りの姿勢の一つだと聖書は教えるのです。その最も有名な記録は、主イエス様のゲッセマネの祈りの姿勢ですね。イエス様も膝まずいて祈られました。しかし、祈りの姿勢、スタイルにはことさら規定などはありません。手を合わせるもよし、椅子に掛けて祈るもよし、ひざまづくもよし、肝心なことは自分の言葉で、心から真実に神様に語りかけることではないでしょうか。

.祈りの願望

ここで最も大切なことは、神様に祈るとき、何を祈り願うのか、何を求めるのかという、祈りの内容となります。祈りに関する学びのための資料は、この聖書には至るところに散りばめられていますから、機会ある毎に丹念に学ぶことにしましょう。しかし、ここでは使徒パウロが「どうか、御父が・・・」と具体的な祈りの課題を祈り出している 16 節〜19 節に、教会にとって最も重要な課題が祈り織りなされていることに、今日は注目しましょう。

  内なる人の強化

その第一の祈りの課題は、内なる人の強化と言ったらいいでしょうか。使徒パウロはこう祈るのです。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めてくださいますように。」この「あなたがた」とはエペソ教会のこと、教会を構成するキリストを信じているクリスチャン信徒のことです。その一人一人の内なる人を神様が強めてくださるようにと使徒パウロは祈るのです。

人間は眼に見える肉体的部分と、眼に見えない心霊的部分とから成る複合的な生き物ですね。肉体的部分を外なる人と呼び、心霊的部分を内なる人と呼ぶこともできますが、聖書で、特に「内なる人」と呼ぶ場合には、これは、イエス・キリストを信じて改心した人の心を指し示しています。コリント第二5章17節に「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです」とあります。キリストを信じて神と和解し、神との正しい関係に立ち戻った人は「新しい人」と呼ばれます。そして、その新しい人とされた人のことをここでは「内なる人」と言い換えられているのです。パウロがエペソ教会のために内なる人の強化を祈るのは何故ですか。それは、外なる人がダメージを受けることで、内なる人も弱体化する危険性にさらされるからです。パウロは同じ言葉を用いて、コリント第二4章 16 節でこう語っていますね。「だから、私たちは落胆しません。私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。」このように語る前の段階の8、9節を見てください。ここでもこうも語っています。「私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません。」つまり、クリスチャンが置かれている生活の場には、時にはひどく落胆させられるような事を避けることができない現実があるということです。苦難を受けることがある、途方に暮れてしまう、迫害されることもある、ひどい場合にはうち倒されることもある、だから、それによって内なる人が、イエス様を信じて新しくされた心が、絶えず落胆させられる危険性がある。だから祈るのです。祈らねばならないのです。内なる人が強化されるために祈る必要が、なんとしてもあるのです。

  キリストの内住

ではどうしたら内なる人が、外なる人の衰え、ダメージによって落胆するのを助け、強化されるのでしょう。そのためにこそ、使徒パウロはこう祈るというのです。「あなたがたの信仰によって、キリストがあなたがたの心の内に住んでくださいますように。」(17節)そうです。パウロがエペソ教会のために祈るのはキリストの内住でした。キリストが人の心に住む、それは神が心に住まわれるということです。この神様が何処に住まわれるのか、これは聖書を一貫した重大なテーマでありました。

紀元前1000年頃に、ダビデがイスラエルの王位に着いたとき、彼は自分のためには立派な王宮を建てたのに、主なる神の契約の箱は天幕に安置されていることを心苦しく思い、神様のために神殿を建てる志を立てました。しかし、神様はダビデが建てることを禁じ、代わりに神殿を建てることが許されたのは後継のソロモンであり、そのソロモンが完成した神殿の献堂式において捧げた祈りが、歴代誌下6章に記されています。その17節で祈ったソロモンの祈りはこうでした。「今、イスラエルの神、主よ。あなたの僕ダビデに約束されたことが確かに実現されますように。神は果たして人間と共に地上に住まわれるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです。」ソロモンは、神様の住まいとして建造した神殿を捧げようと、こう祈ったのです。神様のための住まいとして建てたのに、実際には神様をここに完全にお入れすることはできない、と告白しているのです。

その通りです。神様の本質は霊であり、偏在される方であり、人の作った小さな入れ物に過ぎない神殿に収まるはずがないのです。しかし、それにも関わらず、この奉献式によれば、この神殿に雲が満ち溢れたと言われているのです。見てください。5章13、14 節です。「ラッパを吹き鳴らす者と詠唱者は声を合わせて主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパ、シンバルなどの楽器と共に声を上げ、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美すると、雲が神殿、すなわち主の神殿に満ちた。その雲のため、祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が神殿に満ちたからである。」この「主の栄光」の栄光はヘブライ語でカーボードと言い、それは主の臨在を表す特別な用語です。この神殿の奉献で明らかなことは、霊なる神を完全にお入れすることなどはできないが、神殿には神の臨在が満ち溢れたということです。その意味で神殿は非常に重要です。それ以後、神殿は神様がその名を置き、臨在される場所として、イスラエルの中心となります。

しかし、それから1000年後、救い主イエス・キリストが来られるに及んで、神の住まいには大きな変化がおとづれます。ヨハネ2章13節以降には、主イエスがエルサレムの神殿で宮清めをされた記事が記され、そこで主はユダヤ人との間に、このようなやり取りをされたのです。19節「イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、三日で建て直すと言うのか」と言った。イエスはご自分の体である神殿のことを言われたのである。」エルサレムの主の目の前にあった神殿はヘロデ大王が建てた壮麗な神殿です。その真ん前で、主イエスは、ご自分の体が神殿であると宣言されたのです。ということは、イエス様の身体に神が住まわれるということです。しかし、それから間も無く、二つの重大事件が起きたことを私たちは知っています。

その第一は、イエス・キリストが十字架で死なれたこと。第二はエルサレムの神殿が紀元70年に完全にローマ軍によって破壊されてしまったことです。これはどういうことですか。神の住まいであるキリストの体は、復活しましたが、昇天して見えなくなりました。ということは、この地上には、神様の住まいである神殿が消失してしまったことになります。実はこのような背景があって、使徒パウロは「あなたがたの信仰によって、キリストがあなたがたの心の内に住んでくださいますように。」と祈るのです。これは何を意味しますか。それはとてつもなく大いなる真理であり、それは教会が神の住まいとなる神殿とされているということなのです。

この3章に先立ち、すでにパウロは、2章 23 節でこう語るのです。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方が満ちておられるところです。」これこそ、今日改めて驚きをもって受け止めるべき真理です。イエス・キリストを信じた者によって構成される教会、エクレシアは、キリストの体である、神様の住まいである、キリストの住まいとされている、ということです。ここでパウロが「あなたがたの心の内に住んでくださいますように」と祈るのですが、この「住む」という言葉には、ギリシャ語ではパロイケオーとカトイケオーの二つがあります。しかし、ここで使われているのは特にカトイケオーで、これはパロイケオーが一時的滞在を表すのと違い、永住、定住を意味するものです。キリストの十字架の死と復活により、人は信仰により罪赦され、神と和解することができる。しかし、そればかりか、復活され、生きておられるイエス・キリストは、クリスチャンの心に住んでくださる、しかも永住してくださる。それゆえに、このお方によって、ともすれば落胆しがちな魂を強化してくださることになるというのです。

落ち込んだり、沈んだり、失望したり、落胆する人の心を強化する方法には、いろいろな手管があるでしょう。しかし、どんな方法、解決手段とも比較しようのない素晴らしい強化は、キリストの内住なのです。イエス様が自分の心に常時定住してくださるならば、どんなに外なる人が衰えても大丈夫、落胆させられないのです。

  主の愛の横溢

それゆえにこそ、使徒パウロは続けてこう祈るのです。「あなたがたが愛に根ざし、愛に基づく者となることによって、すべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものかを悟り、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができ、神の満ち溢れるものすべてに向かって満たされますように。」随分長い祈りの文言です。原文でも途切れていません。一気にパウロはこう祈るのです。その祈りの趣旨は最後にありますね。「神の満ち溢れるものすべてに向かって満たされますように」天地万物を創造された神様は偉大なお方です。全地全能偏在される唯一無二の父なる神様は、満ち満ちたお方です。そのお方に満ちているものに充満させてくださるのが、内住のイエス・キリストであり、しかも、それはキリストの愛なのです。イエス・キリストを信じ、イエス・キリストを迎え入れ、イエス・キリストに定住・永住していただくことにより、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものかを悟らされるのです。「広さ、長さ、高さ」だけなら三次元の物質的空間です。しかし、キリストの愛は四次元の性質であり、眼に見ることはできません。しかし、パウロは祈るのです。「人智をはるかに超えたキリストの愛を知ることができるように」と。矛盾していませんか。「人智をはるかに超え」ているのに「知ることができるように」とは。ところが、その秘訣があるのです。それこそ、18節の一句です。「すべての聖なる者たちと共に」つまり、キリストの愛、その長さ、広さ、高さ、深さは、教会共同体の交わりを通して、確かに経験、体験されるということなのです。

使徒パウロが改心したのは、彼がダマスコへ迫害途上のことでした。天からの光に打たれ、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と語りかける声を聞いたパウロは、馬から転げ落ちてしまいました。彼は三日間失明し、ダマスコに悶々と過ごさざるを得ません。そのようなパウロにキリストの愛を経験させたのは、主から遣わされた弟子のアナニアであったのです。アナニアが恐れず彼を訪ね、手を置いて祈ると、パウロは聖霊に満たされ、目の鱗が落ちたというのです。パウロは主のお言葉によって救われました。しかし、教会に属するアナニアの手当を受けて、具体的なキリストの愛に触れることができたのです。パウロが改心し、エルサレムに上り、教会の仲間に加わろうとした時どうでしたか。かつての残酷な迫害者であるパウロを知る人々は、簡単には彼を受け入れることはできません。そんな状況で、事態を打開するために動いたのがバルナバでした。使徒行伝9章 27、28節にこう記録されています。「しかしバルナバは、サウロを引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼が旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって堂々と宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで弟子たちと共にいて自由に出入りし、主の名によって堂々と宣教した。」恐れられ孤立しかけていたパウロは、バルナバの愛ある配慮により、教会に受け入れられることができました。このようにしてキリストの愛を、私たちは具体的に、教会のクリスチャンたちによって体験させられていくのです。

新約聖書の中には、数え切れない程に繰り返し語られる言葉があるではありませんか。それは「互いに・・・し合いなさい」という言葉です。教会は、キリストの愛を体験する経験するために備えられた特別な共同体なのです。キリストを頭とし、クリスチャン兄弟姉妹はその体の肢体として愛により結び合わされ、キリストの愛を、教会の交わりによって、具体的に経験させていただくことができるのです。幼い時に脳性小児麻痺で全身麻痺となった水野源三さん、「瞬きの詩人」と呼ばれた水野さんが「キリストの愛に触れてみよ」と詩を作りこう謳いました。『①幾度も聞いても読んでも キリストの愛の尊さは 触れなければ分からないから キリストの愛に触れてみよ キリストの愛に触れてみよ ②幾度も思い考えても キリストの愛の確かさは触れなければ分からないから キリストの愛に触れてみよ キリストの愛に触れてみよ ③涙を流して感動しても キリストの愛の嬉しさは 触れなければ分からないから キリストの愛に触れてみよ キリストの愛に触れてみよ』 そうです。教会はキリストの愛に触れるために、キリストが建てられた神のみ住まいなのです。そしてキリストの愛に触れる度に、人は、神の満ち溢れんばかりの恵みの充満を豊かに経験させられるのです。

.祈りの頌栄

このようにしてエペソ教会のために祈った使徒パウロは、次のように頌栄を唱えることによって祈りを閉じました。「私たちの内に働く力によって、私たちが願い、考えることすべてをはるかに超えてかなえることのできる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々にわたって、とこしえにありますように、アーメン。」パウロは3章 12 節で「キリストにあって、私たちは、キリストの真実により、確信をもって、堂々と神に近づくことができます。」と祈祷の根拠を語りました。そして 14 節で「このようなわけで、私は、天と地にあって家族と呼ばれているあらゆるものの源である御父の前に、膝をかがめて祈ります。」と祈り始めました。その上で「栄光が世々にわたって、とこしえにありますように、アーメン。」と祈りを頌栄で閉るのです。私たちの祈りを聴いてくださる方はどういう方ですか。「私たちの内に働く力によって、私たちが願い、考えることすべてをはるかに超えてかなえることのできる方」なのです。そうです。私たちは正直言って、どう祈り、何を祈るべきか戸惑うものです。しばしば、見当はずれの祈りをすることもあります。そして、問題の核心も分からず、的を外した願いを神様に語ることも多いのです。それにもかかわらず、神様は「私たちが願い、考えることすべてをはるかに超えてかなえることのできる方」なのです。主イエスは、弟子たちに勧めてこう言われました。「あなたがたは心を騒がせないがよい。神を信じ、また、私を信じなさい。」(ヨハネ14:1)神に信頼し、イエス様に信頼して祈り委ねなさいと勧めてくださるのです。使徒パウロもまた、ピリピ書4:6−7でもこう勧めています。「何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、 あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。」あなたが今朝、直面している問題・課題・悩みはなんでしょうか。あなたが、イエス様を救い主と信じて受け入れられるのであれば、あなたは「キリストの真実により、確信を持って、堂々と神に近づくことができます」祈りましょう。祈り、願い、委ね、そして感謝し、栄光を主に帰し、主を褒め称えることにしましょう。

9月8日礼拝説教(詳細)

「この世の寄留者」  I ペテロ2章11〜17節

愛する人たち、あなたがたに勧めます。あなたがたはこの世では寄留者であり、滞在者なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に振る舞いなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神を崇めるようになります。

すべて人間の立てた制度に、主のゆえに服従しなさい。それが、統治者としての王であろうと、あるいは、悪を行う者を罰し、善を行う者を褒めるために、王が派遣した総督であろうと、服従しなさい。善を行って、愚かな人々の無知な発言を封じることが、神の御心だからです。

自由人として行動しなさい。しかし、その自由を、悪を行う口実とせず、神の僕として行動しなさい。すべての人を敬い、きょうだいを愛し、神を畏れ、王を敬いなさい。

聖書は I ペテロ2章からお読みします。先週木曜日の朝、テレビニュースを見つつ朝食をいただいていると、「お寺の終活」のタイトルで、あるお寺の終活支援活動が紹介されていました。お坊さんの前には棺が置かれ、そこには20人程、中年の男女が参加していました。一人の男性が実験的に棺に横たわり、蓋が閉められる場面もありました。皆食い入るように真剣で、最後には遺書を書く場面も紹介されます。それを見ていた娘が突然、「私、まだ遺書を書いてないわ。」と口にしました。そこで私は、仕事に出かける準備する娘に葬儀遺書用紙を準備よく手渡すことができたのです。娘が「教会でも終活するべきだね。」と言いました。「教会では復活祭前後を終活時期にしているんだよ」と私は答えました。人はいつ死ぬか分かりません。いざという時のため、まだ葬儀遺書を準備しておられない方は是非、書き留めて用意されることをお勧めします。教会にはその用紙があります。

人の命は儚いもの、人生は長いようで短い。それは誰でもわかっていることです。そうですね。今日、この聖書箇所は、その儚い短い人生を生きるクリスチャンのことを「この世の寄留者」と言います。あまり普段使わない言い方です。その意味は、宿り人、旅人、市民権を持たぬ他国人ということです。その意味では、この寄留者という言葉は、今の自分にどうもピンとこないと言われる方がおられるかもしれません。

しかし、この書簡が書き送られた人々はそうではありませんでした。11節を見て下さい。こう書き出されているからです。「・・・使徒ペテロから・・・アジア各地に離散し、滞在している選ばれた人たち」この「滞在している」が2章11 節の寄留者と原語では同じ言葉が使われているからです。この手紙の受取人はその時、実際、小アジア各地で市民権を持たぬ他国人として生活している人々でした。その人々には、ペテロが「あなたがたはこの世では寄留者です」と語ったのを聞いて、「本当にそうだ」と分かったはずです。実際、彼らは本国を離れて他国に寄留滞在していたからです。しかし、ペテロはもう一歩踏み込んで勧めるのです。すべてのクリスチャンたちは、この世では寄留者だ、旅人だと言っているのです。それは私たちにとってどういう意味なのでしょう。

1.寄留者の特権

先ず第一に、寄留者には驚くばかりの素晴らしい特権が与えられています。先の1章 1 節の次の 2 節に「すなわち、父なる神が予知されたことに従って、霊により聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血の注ぎを受けるために選ばれた人たちへ。」とペテロが受取人のことを語ることによって、この寄留者とは、主イエスを信じているクリスチャンであることが明らかです。そして、その寄留者クリスチャンには、実は3つの素晴らしい特権が与えられているのです。

  神に憐れまれる

その特権の第一は10節で明らかです。「あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』」。寄留者クリスチャンに与えられる特権の第一は神の憐れみです。憐れみとは、苦悩または困窮のうちにある人々に向けて示される神の慈愛です。神は憐れみ深いお方です。(エペソ2:4)覚えておきましょう。人生においてどんな苦境に立たされるようなことがあっても、神様が憐れみ、その苦しみから導き出してくださいます。

  神に愛される

特権の第二は、寄留者は神に愛されていることです。11 節でペテロは「愛する人たち」と呼びかけています。これは直訳すれば「愛されている人たち」ということもできます。私が愛されている?誰によってですか。神様によってです。I ヨハネ4章10節はこう言われています。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」神は愛です。「ここに愛あり」これはサラ金の宣伝フレーズではありません。覚えておきましょう。イエス様を救主として受け入れることができたのは、神の愛の結果です。あなたは神に愛されています。神の犠牲的な、永遠に変わることのない愛によって、あなたも私も愛されています。これほど素晴らしい特権はありません。

  神に慰められる

第三の特権は、寄留者であるクリスチャンは神に慰められることです。使徒ペテロは呼びかけて「愛する人たち、あなたがたに勧めます」と語りました。この「勧める」の原語パラカレオーのもう一つの意味は慰めるでもあります。寄留者は、クリスチャンは神に憐れまれ、愛され、そればかりか、神に慰められる特権に生きることが許されているということです。ペテロが「あなたがたに勧めます」と言うときに、これは安っぽい気休めになるようなことを語ろうとしているのではないのです。これから語ることによって、あなた方は確かに神様から慰められます、励まされることになります、そういう意味でペテロは語っているのです。聖書は神様が慈しみ深い、慰めに満ちた方だと教えます。神はどのような苦難のときにも、私たちを慰め励まし、力づけ元気づけてくださる方なのです。

.寄留者の目的

人は誰でも、イエス・キリストを救い主と信じてクリスチャンとされるなら、その人は、「自分はこの世を寄留者として生きているのだ」と自覚させられると聖書は教えるのです。そして、この世で寄留者として生きるということは、自分の前に置かれた確かな目的をしっかり自覚して生きるということであります。宿り人、旅人、市民権を持たぬ他国人を寄留者と呼ぶのですが、寄留者は放浪者ではありません。この世の地上生活で転々とする意味では、放浪者も寄留者も似たようです。しかし、放浪者には確かな目的がありません。何処から来て何処に行くのか分かりません。

しかし、寄留者は目的をしっかり確保して生きるのです。

  目的的指向

自分の人生を生きる旅人、寄留者には、自分が進み行こうと目指す確かな目的があります。この点に関して使徒パウロが、ピリピ3章に明確にこう語っています。「きょうだいたち、皆一緒に私に倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、私たちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架の敵として歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、地上のことしか考えていません。しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから、救い主である主イエス・キリストが来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自身の栄光の体と同じ形に変えてくださるのです。」私たちも信じる以前は「地上のことしか考えていません」でした。そうではありませんか。しかし、信じた結果、目指す目的がはっきりさせられたのです。「私たちの国籍は天にあります」そうです。この世の寄留者の目指す目的は天なのです。その模範的人物こそ信仰の父アブラハムでした。

あの信仰の祖と呼ばれるヘブル11章で確認しておきましょう。8 節です。「信仰によって、アブラハムは、自分が受け継ぐことになる土地に出て行くように召されたとき、これに従い、行く先を知らずに出て行きました。信仰によって、アブラハムは、他国人として約束の地に寄留し、同じ約束を共に受け継ぐイサク、ヤコブと共に幕屋に住みました。アブラハムは、堅固な土台の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し、建設されたのは、神です。」13節も続けて読みましょう。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束のものは手にしませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、滞在者であることを告白したのです。」この「滞在者」は寄留者のことです。イエス様を信じた人は誰でも、この世の人生において、天国を目指すという確かな目的的指向を持って生きるのです。私たちの国籍は天にあります。天を目指し生きるのです。

  目的的禁欲

更に聖書は、この世の寄留者は、目的的禁欲に生きると教えるのです。11 節ご覧ください。「あなたがたはこの世では寄留者であり、滞在者なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」この「肉の欲を避けなさい」という勧告は、言い換えれば禁欲です。しかし、単なる禁欲と目的的禁欲とは全く違うのです。禁欲は禁欲でも、はっきりとした目標、目的を自覚した禁欲なのです。今現在、パリでパラリンピックが開催中です。身体にハンディを負っているにも関わらず、日本選手が様々な種目でメダルを獲得する姿は感動です。これらのスポーツ選手の生き方こそ目的的禁欲そのものです。彼らは目指す競技大会に向けて、金メダルを獲得するという目的のために、それはそれは厳しい禁欲節制の日常生活を喜んでするのです。食べ過ぎたり、遊び過ぎたり、夜更かししたり、自堕落な生活をしているなら、体を鍛えて勝利することなど絶対不可能です。彼らは目的のために節制に努めるのです。

ペテロは4章 3 節で「かつてあなたがたは、異邦人の好みに任せて、放蕩、情欲、泥酔、馬鹿騒ぎ、暴飲、律法の禁じる偶像礼拝にふけってきましたが、もうそれで十分です。」と肉の欲のいくつかを列挙します。肉とは聖書では罪に影響される人間性のことです。性的な罪過ちも含まれますが、それは人間全体に関わる欲望です。それを寄留者は、クリスチャンは自制する。何故ですか。肉の欲に耽っているなら、人生の目的を到底達成することができないからです。

  目的的善行

更に聖書は、この世の寄留者は、目的的善行に生きるとも教えます。12 節です。「また、異教徒の間で立派に振る舞いなさい。」この「立派に振る舞う」の立派と訳されたカロスとは美しい、麗しいという意味です。ですから、美しく振る舞うとは、価値ある行い、良い行い、善行をするということです。その善行を聖書の律法で言い変えるならば隣人愛でしょう。隣人愛が語られる律法は、旧約聖書でもレビ19章です。そして、そこに、本当に気づかないように短くちょこっと記されているのが隣人愛です。レビ記19章 18 節に記されています「隣人を自分のように愛しなさい。私は主である。」注意深く読まねば見落としそうです。そしてこの戒めの収められている19章を見回して分かることは、全体が、貧しく弱い立場にいる人を大切にするよう戒められていることです。

昔、ポルトガルの宣教師が日本に布教した時代、あのザビエルたちが到来した頃、聖書はラテン語で書かれていましたから、ラテン語で愛はカリタスで、その当時、愛を意味するカリタスは「御大切」と訳されました。今でも思うと何か分かりやすくて、非常に名訳ではないかと思うのです。

19章18節をそれで訳すと「隣人を自分のように御大切にしなさい」そうです。キリストを愛し信じる寄留者クリスチャンであるなら、隣人を御大切にするのです。何故ですか。それは目的があるからです。それはクリスチャンではない異邦人が、異教徒の方々が神を崇めるようになるためです。12 節です。「そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神を崇めるようになります。」この手紙の書かれた背景には当時のクリスチャンたちが、言われのない中傷、非難、批判にさらされていた現実がありました。それに対する対応は、クリスチャンの立派な振る舞いだとペテロは勧告するのです。

批判し中傷する人の口を塞ぐ最大の手段は、愛の業、良き働き、価値ある行為だと言うのです。寄留者は天国を目指して生きます。寄留者はそのために自制し、節制に努めます。寄留者は隣人愛に生きることで証しするのです。寄留者は目的をしっかり保持して生きるのです。

.寄留者の責任

キリストを信じてこの世で寄留者として生きる人は、神に憐れまれ、神に愛され、神に慰められます。そして、寄留者は天国を目指す目的指向をしっかり、心に抱き、目的を自覚して禁欲し、目的を自覚して隣人愛を実践するとお話ししました。そこで、最後に私たちがキリストを信じた結果、この世の寄留者であるとは、責任を負って生きることであることを確認することにしましょう。特権が与えられ、目的が定まり生きる寄留者は、この世から遊離して無責任ではあり得ません。むしろ、責任をしっかり自覚して生きるものです。

  制度に服従

それは第一にこの世に立てられた制度に服従する責任を果たすということです。13 節でペテロはこう勧告しました。「すべて人間の立てた制度に、主のゆえに服従しなさい。」これと並行してローマ13章 1 節も引用しておきましょう。「人は皆、上に立つ権力に従うべきです。神によらない権力はなく、今ある権力はすべて神によって立てられたものだからです。」そして覚えておいてください。ペテロもパウロも殉教の死を遂げたのは、残虐非道な皇帝ネロの支配時代であっただろうということです。

紀元64年にローマ大火がありました。それによって木造建築の大半が焼け落ちてしまいました。それを仕掛けたのはネロ自身であったろうと推測されています。彼はローマ市内を作り直したい野望があったに違いありません。しかし、ネロは自分に非難が降りかかるのを避けるために、放火犯人を当時のクリスチャンだと決めつけ、そのために大迫害が起こりました。動物の皮を着せられて犬に食いつかせたり、柱に縛り付けて油を注ぎ、火をつけて夜の暗闇を照らす灯にしたり、円形競技場でライオンと格闘させるなどして、残酷に迫害しました。その支配下でこの手紙は書かれていたのです。制度とペテロが言うときそれはローマ帝国を指したでしょう。パウロが権力というときそれは皇帝ネロを意識していたでしょう。

ペテロは政治制度はすべて人間が立てたと書きました。しかしパウロは神によって立てられたと言い、表現の違いがそこに見られます。しかし、一致する点は、政治的権威には服従するべきであることです。国あるいは国家の三要素は、国土と人民と権威の三つです。ある特定の国土に住む人民を治める権威があって国家が成立するのです。しかし、その国家の形態、政治的共同体は、その時代時代に、人々が徐々に作り上げる道具のようなものであると言われています。国家の政治のあり方の違いの例話を紹介しましょう。「共産主義:あなたが二匹の乳牛を持っているとする。すると政府は、二匹とも取り上げて、あなたにはミルクを与える。社会主義:あなたが二匹の乳牛を持っているとする。すると政府は、一匹を取り上げて、その一匹を他の人にわけてあげようとする。ファシズム(独裁政治):あなたが二匹の乳牛を持っているとする。すると政府は、二匹とも取り上げて、あなたにその牛のミルクを売りつける。ナチズム(戦争中のドイツのヒトラーの政権):あなたが二匹の乳牛を持っているとする。すると政府は、二匹とも取り上げて、あなたを拳銃で撃ち殺す。資本主義:あなたが二匹の乳牛を持っているとする。あなたは一匹を売りはらって、そのお金で、雄牛を買うだろう。」

人は、自分の生まれ生きる時代と国家を選ぶことはできません。日本の歴史でもそうです。奈良時代、徳川時代、明治時代、昭和時代、制度は随分違います。神が時代時代によって人々が作り上げる種々様々異なる政治制度を、許容されるのは何故でしょう。それは、アダム以来の罪による堕落した世界とはいえ、そこに最低限の秩序が確保されるためであると、神学的には理解されます。あのよく知られている「皇帝への税金」問答での主イエス様の対応からも、私たちは制度的権威に対する態度を学べるでしょう。キリストには、彼を罠に掛けようとした敵対するパリサイ派によって狡猾な質問が投げかけられました。「ところで、どうお思いでしょうか。お答えください。皇帝に税金を納めるのは許されているでしょうか。いないでしょうか。」(マタイ22:17)それに対するキリストの回答は見事と言う他ありません。主が彼らに「税金を納める硬貨を見せなさい。」と言われる、彼らがデナリオ銀貨を持参すると、主は「これは、誰の肖像と銘か」と尋ねられ、彼らが「皇帝のものです」と答えるや、「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に帰しなさい。」と回答されたのです。それは、人は神と人とに同時に責任を有する存在なのであり、当然、秩序を保つため機能している政治制度に対しても、人が義務を果たすことは当然なことだと教えられたのです。使徒パウロもローマ13章で税金についてこう語ります。「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」(7節)これが寄留者である皆さんに対する聖書の教えです。払うべき税金は然るべき仕方で納めるようにしましょう。選挙する投票日には、必ず1票を投じることによって政治的責任を果たすようにすることにしましょう。

  無知に抵抗

しかし、制度に服従するだけでなく、抵抗する責任のあることを忘れるべきではありません。13〜15 節は一貫して制度への服従を語ると理解できますが、「愚かな人々の無知な発言を封じること」には、政治的権威ある者が無知を封じ込めることだけではなく、無知な政治家自身を封じ込めることも含むと理解するべきだと思います。人間の立てた政治制度が、いつも悪を罰し、善を誉めるとばかりとはいかないものです。

1933年にアドルフ・ヒットラーが政権の座に着いた時、ドイツに緊張がはしりました。ドイツの教会の多くが、自分たちはドイツ的キリスト者であると称して、全面的にヒットラーに加担しました。しかし、ヒットラーの魂胆を見抜いたドイツのある教会や牧師たちは、自分たちを告白教会と称し、敢然とナチス政権に抵抗する姿勢を見せたのです。翌年の1934年の5月でした。彼らは勇気を奮って有名なバルメン宣言を公表しました。その第5項に次のように彼らは主張したのです。「国家は、教会もその中にあるいまだ救われぬこの世にあって、人間的な洞察と人間的な能力の量に従って、権力の威嚇と行使を為しつつ、正義と平和のために配慮するという課題を、神の定めによって与えられているということを、聖書はわれわれに語る。教会はこのような神の定めの恩恵を、神に対する感謝と畏敬の中に承認する。」しかしこの宣言では次のようにも主張することを恐れませんでした。「国家がその特別な委託を超えて、人間生活の唯一にして全体的な秩序となり、従って教会の使命をも果すべきであるとか、そのようなことが可能であるとかいうような誤った教えを、われわれは斥ける。」私たちはこの世の寄留者でありますが、制度的な権威が明らかに本来の使命から脱線するときには、それに抵抗する責任があることをしっかりと覚えておきましょう。

  真理に隷属

そして、この世の寄留者である私たちに課せられた責任は、真理に隷属することです。主はこう語られました。「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。』」(ヨハネ8:31、32)そして、その弟子であるペテロは2章 16 節に勧告してこのように勧告するのです。「自由人として行動しなさい。」私たちはキリストにあってこの世の寄留者であり、その大いなる特徴は自由人であることです。日本の憲法では人間の自由権とは、国家権力による制約を受けず自由に考え行動できる権利であり、自由権には精神的自由権、経済的自由権、人身の自由が保障されています。しかし、聖書は、この自由は、イエス・キリストの弟子となり、神の僕となることによってのみ、真の意味で人は獲得することができると言われるのです。主を信じ、主の言葉に踏みとどまり、主の僕となることによって、逆説的に人は真に自由にされるのです。

あなたは、この世に生まれつき、この世、この地上のことしか考えていない人でしょうか。あなたは、この世に生まれて、どこから来て、どこに行くのかわからず、当てずっぽうに生きる放浪者のようでしょうか。あなたは、何にも束縛されず、自分のしたいことを自由自在にしたいと願いながら、実際には、したいことはできない、したくないことを実際にはしてしまい、自分で自分をどうすることもできない人でしょうか。

それとも、この世の寄留者であって、天国の都を目指す目的をしっかり見据えて、自分の責任を果たそうとする人でしょうか。イエス・キリストを信じましょう。主イエスの御言葉に踏みとどまりましょう。主に従うことが自由への近道であります。この新しい週の歩みを立派に振る舞えるよう、聖霊の助けと導きを祈ろうではありませんか。 

9月1日礼拝説教(詳細)

「罪赦される恵み」   I ヨハネ5章13〜21

神の子の名を信じるあなたがたに、これらのことを書いたのは、あなたがたが永遠の命を持っていることを知ってほしいからです。何事でも神の御心に適うことを願うなら、神は聞いてくださる。これこそ私たちが神に抱いている確信です。私たちは、願い事を何でも聞いてくださると知れば、神に願ったことは、すでにかなえられたと知るのです。

もし誰かが、死に至らない罪を犯しているきょうだいを見たら、神に願いなさい。そうすれば、神は死に至らない罪を犯した人に命をお与えになります。しかし、死に至る罪もあります。これについては、願い求めなさいとは言いません。

不正はすべて罪ですが、死に至らない罪があります。神から生まれた人は誰も罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた人は自分を守り、悪い者がその人に触れることはありません。

私たちは神から出た者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。しかし、神の子が来て、真実な方を知る力を私たちに与えてくださったことを知っています。

私たちは、真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神であり、永遠の命です。子たちよ、偶像から身を守りなさい。

今日は感謝なことに、この礼拝に引き続いて、会場を一階に移し、洗礼式を予定しています。洗礼は、水の中に入り、水の中から出ることによって、キリストの十字架の死と復活に預かったことを告白する儀礼です。そればかりか、信仰共同体である教会に加入する儀礼でもあります。ペテロ第一の手紙の3章21節には、洗礼を説明してこう語られています。「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなく、正しい良心が神に対して行う誓約です。」この誓約と訳された原語のエペロテーマは、質問と答えを意味しており、洗礼に際して受洗者に行われる信仰問答を意味するものです。私たちも今日の洗礼式の中で、受洗される方々には、5つの誓約をしていただくことになります。そこで、その最初の3つをこの礼拝で、洗礼に先駆け確認していただこうと思うのです。これは受洗者の方々だけではなく、ここに集まる全ての人にとっても大切なことですから、共に確認していただきたいと思います。

.罪人の自覚

先ず洗礼式の誓約の第一の質問はこうです。「あなたがたは、天地の造り主、生けるまことの神のみを信じますか。」司式者の私がこう質問するのに対して、受洗される方は、どうぞ、「はい」と答えてください。間違っても「いいえ」とは言わないでくださいね。洗礼を受けるとは、それまで信じてはいなかったが、唯一の真の神のみを信じていることを告白することです。それをひっくり返して言い換えれば、唯一の神様を信じるまでは、自分は神を信じない罪人であったことを告白するということです。何故なら、聖書の教える罪とは、神を信じないことだからです。ローマ3章23節には、「人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている」とあります。

人は皆、老若男女、人種や民族の違いを越えて、全て例外なく罪人である、と聖書は教えます。今日の聖書箇所、ヨハネ第一5章 17 節には「不正はすべて罪です」とあります。別訳は「不義は全て罪です」と不正を不義と訳しているのもあります。この不正とは、不義とは、法律に違反する犯罪行為のことです。人は法律で禁止された行為を、意図的に犯す時、違反者として罰せられます。

ウイーン滞在中に、ある日のこと裁判所から何やら書類が届きました。その書類によって分かったことは、6ヶ月も前の何日、何時、何分に、あなたの車はここを通過する時、何キロのスピード違反をしているが間違いがないか。間違い無ければ罰金を払うようにという通告でした。記憶を辿って分かったことは、ザルツブルグ郊外の大きな湖で休暇を取ろうと湖畔を走った際に、隠しカメラで計測されてしまったのです。広大な湖の湖畔の誰も通らない道でしたから、油断してスピードを出し過ぎていたのですね。80ユーロくらいだったでしょうか、一万円相当の罰金を払うことになりました。

しかし、聖書が「人は皆、罪を犯した」と言う時、それは個々の諸々の違反行為のことではありません。それはそうではなくて、唯一まことの神を信じないことなのです。神との正しい関係が破れていることなのです。私たちは、この罪を教理的に原罪、オリジナル・シンと呼びます。神が創造された最初の人間、アダムとエバが犯した罪の故に、人類に罪が入り、人は皆、アダム以来罪人なのです。法律に違反し犯罪を犯したから罪人なのではありません。そういう意味で、神様を信じない、神様との関係が破れていた罪人でしたが、今、イエス・キリストによって、私は神様を信じる者です、と告白する、それが洗礼なのです。

.赦しの確信

洗礼式の誓約の第二の質問はこうです。「あなたがたは、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いによって救われていることを確信していますか」です。これもまた、どうぞ、受洗者の方々は、「はい」と答えてください。間違っても首を振り「いいえ」とは言わないでください。人が洗礼を受けるということは、十字架のキリストの犠牲の死によって自分の罪が赦されたことを確信しているということを告白することなのです。ここで、キリストが十字架に磔にされたことが記されているルカ23章の32〜34節を読んでみましょう。「ほかにも、二人の犯罪人がイエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。その時、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。』人々はくじを引いて、イエスの衣を分け合った。」そこまでです。

十字架刑は、ローマ帝国では重犯罪人に対する残酷極まりない死刑方法でした。犯罪人を十字架に炎天下、釘付けするか、縛り付けるかして晒し物にするのです。簡単には死ねません。苦しみが持続し囚人を散々苦しめる惨たらしい殺し方です。

その時、イエスの十字架の脇には、二人の極悪人が同時に磔られていました。当番のローマ兵士たちはというと、サイコロでイエスの衣類を分け合っていました。その時です、イエスが祈られたのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」彼らとは誰のことでしょう。無頓着に衣服をくじ引きで分け合うローマ兵士たちのことですか。両脇の犯罪者たちですか。足下で主を嘲弄し愚弄し、嘲る群衆のことですか。主を妬んで引き渡した祭司達ですか。この彼らには私たちも含め、すべての人のことです。これによって、イエスの十字架の死が罪の赦しを得させる犠牲であったことが明らかです。

聖書にこう書いてあります。「血を流すことなしには赦しはありえないのです。」(ヘブル9:22)また聖書にはこうも書いてあります。「彼は私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって、私たちに平安が与えられ、彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。」(イザヤ53:5)使徒ペテロも、これを受けて、書簡の2章22〜24節に説明してこう語っています。「『この方は罪を犯さずその口には偽りがなかった。』罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました。そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。」

キリストの十字架の両脇の重罪人は、私たちを代表してそこに磔けられたのではありませんか。その脇の一人の罪人はイエスを罵り退けました。しかし、もう一人の罪人はイエスを信じ受け入れました。彼はそれによって、罪の赦しを得ることができました。洗礼を受けるとは、自分の罪が赦され救われたことを告白することです。十字架に磔られ、罪の身代わりとなり犠牲となられたイエスを救い主と信じたので、受洗者の皆さんは洗礼を受けられるのです。

.恵みの受納

さて、洗礼に際して誓約する第三の質問はこうです。「あなたがたは、聖霊の恵みに信頼し、キリストのしもべとして、ふさわしく生きることを願いますか。」どうぞこれにも「はい」と答えてください。十字架に磔られたキリストを救い主と信じて、罪赦された人は、赦された恵みに生きることを誓約するのです。今日、朗読した聖書箇所に、三つの恵みが明らかにされていますから、これを洗礼に先立って確認することにしましょう。

  永遠の命の恵み

その恵みの第一が5章13節です。「神の子の名を信じるあなたがたに、これらのことを書いたのは、あなたがたが永遠の命を持っていることを知ってほしいからです。」この手紙の著者であるヨハネは、この手紙を書いた目的の一つは、イエスを信じた者が永遠の命を持っていることを知ってほしいからだと率直に、ここに語っています。罪を赦された人に与えられている恵みの第一は永遠の命なのです。イエス様を救い主と信じ洗礼を受ける方々は、与えられた永遠の命の恵みに生きることを誓約するのです。

この同じヨハネが、ヨハネ福音書の1章12、13節でこう語っていますね。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。この人々は、血によらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、神によって生まれたのである。」この言とは、原語でロゴスとは、イエス様のことです。このイエス様を信じると、人は神の子とされるのです。そして神の子とされるとは、「神によって生まれた」からだと言われます。

私は1945年4月20日に疎開先の千葉県で生まれました。父親の名は潔、母親は豊子であることを確かに知っています。しかし、私は自分が二人の間で生まれた記憶が全然ありません。しかし、両親から遺伝子を受け取り、彼らから命をもらって、今日まで生きてきたことは間違いありません。しかし、そんな私が、イエス様を16歳で信じた瞬間に、私は神によって生まれた、と聖書は言うのです。どうしてかわかりません。記憶もありません。しかし、永遠の生命が付与されたのです。どうして、分かりますか。付与されていることは確かに分かるのです。それは目には神は見ることができないにもかかわらず、いつの間にか、「天の父なる神様!」「主よ!」「イエス様!」と、神に呼びかけ祈ることが始まったことによってなのです。

命とは生命的な人格関係のことです。洗礼を受けようとされる方々は、毎日お祈りをされていますか。神様に呼びかけるお祈りをされているなら、あなたには神から永遠の命が恵みとして与えられたからなのです。その命の恵みに日々生きてください。

  願いが叶う恵み

罪赦された者に与えられる二つ目の恵みは、その祈り願いが、神様によって叶えられるという恵みです。14、15節を読んでみましょう。「何事でも神の御心に適うことを願うなら、神は聞いてくださる。これこそ私たちが神に抱いている確信です。私たちは、願い事を何でも聞いてくださると知れば、神に願ったことは、すでにかなえられたと知るのです。」クリスチャンになった人で、「クリスチャンになったら、もうクリスチャンをやめられません」と言う人がいますか。何故クリスチャンを辞められないのか、その理由を尋ねてみてください。

誰も私に尋ねてくれた人はいませんが、私もクリスチャンを辞められない一人なのです。本当に感謝なことです。私は16歳で信じて洗礼を受けました。私の典型的な特徴は、何事でも飽きやすいタイプです。何事でも興味を持って始めてもすぐ飽きてしまうのです。持続しないのです。我ながら呆れています。長続きしないタイプなのです。困ったものです。ですから、恥ずかしいことですが、なんでもモノにならないのです。しかし、どういう訳か、クリスチャンであることだけは長持ちしているのです。飽きないのです。辞められないのです。不思議です。何故ですか。どうしてでしょうか?それは、神様が何事でも、私が願い祈り求めるものを聞いてくださる、叶えてくださるからなのです。勿論、自分勝手な自己満足的な願い祈りではありません。ご利益宗教ではありません。「何事でも神の御心に適うことを願うなら、神は聞いてくださる。これこそ私たちが神に抱いている確信です。」そうなのです。これが私の確信であり、辞められない強烈な理由です。

私が33歳の時でした。最初の妻が三人の子供を残して病気で召天してしまう辛いことがありました。それこそ、それからは私は途方に暮れる日々でしたが、それでも神様に祈ったのです。「御心ならば再婚できますように」と。しかし、人間的にはほとんど不可能でした。そうではありませんか。誰が三人の子連れ狼のところに嫁に来るでしょうか。しかし、不思議です。神様は祈りに答えてくださったのです。再婚できたのです。そして45年も続いているのです。飽きやすい私はいまだに飽きることなく結婚生活を続けることができているのです。

しかし、今日、洗礼を受けられる方々に、祈り願いが叶えられる恵みの生活で、ここに紹介されている次の祈りを実践されることをお勧めしたいのです。それが16節の祈りです。「もし誰かが、死に至らない罪を犯しているきょうだいを見たら、神に願いなさい。そうすれば、神は死に至らない罪を犯した人に命をお与えになります。しかし、死に至る罪もあります。これについては、願い求めなさいとは言いません。」この死に至らない罪とはなんでしょう。死に至る罪というのもあるのですか。このフレーズは聖書の中でも難解な箇所の一つで、詳しく説明するには時間がありません。この「死に至る罪」とは、よくよく考えた上で、故意に悔い改めることもなく犯し続ける罪と言ったらいいでしょうか。

使徒行伝5章に登場するアナニアとサフィラが分かりやすい例に該当するかもしれません。この夫婦は慈善の名目で、自分の財産を処分し、その代金を教会に持参したのですが、その持参した金額を処分財産の全部と称し、実は一部だけを提出したという話です。しかし、結果は恐ろしいものでした。使徒ペテロがその偽善を見抜き、「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と一喝すると、それを聞いたアナニアが、その場で倒れ即死してしまいます。その後からそれとも知らずに入ってきた妻のサフィラに、同じように値段をペテロが問いただすと、同じことを彼女が答えため、ペテロは「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。」とこれまた一喝すると、彼女もその場に倒れて息が絶えてしまいました。起こって欲しくない事件ですね。

しかしそうではなく、「死に至らない罪」を犯している兄弟を見つけたら神に祈りなさい、願いなさい、と言われているのです。これは一度洗礼を受けて信仰を告白している兄弟、姉妹、クリスチャンたちのことです。しかし、中には誘惑に負けて、罪過ちを犯し、主から離れているかもしれない。そういう兄弟を見たら、執りなし祈りなさいと勧告されているのです。ヤコブも5章19、20 節で勧めていますね。「私のきょうだいたち、あなたがたの中で真理から迷い出た者を、真理へと連れ戻す人があれば、その人は、罪人を迷いの道から連れ戻し、彼の魂を死から救い、また、多くの罪を覆うことになると、あなたがたは知っていなさい。」

私がまだ牧師として 20 代の前半でしたか、私を可愛がって教えてくれた老伝道者がいました。上石正義先生です。その上石先生がよく口にするフレーズがありました。彼の口癖はこの16節から作った言い回しでした。漢文調ですが、それは「祈りて命与うべし」でした。それをよく教えてくれました。そして彼は実によく人の名前を挙げては執りなし祈る、祈りの器でした。一緒に電車で出かけるときに、駅で電車が来るのを待つ間、ベンチに腰掛け、彼はノートを開き、黙々と祈っているのです。そこにはびっしりと名前が書かれていました。彼は「神に願ったことは、すでに叶えられた」と知っていたので祈られたのです。いつその願いが叶えられるか、それは主の御心の内にあることです。私たちはひたすらに祈るのです。祈ればよろしいのです。執りなし願うのです。

どうぞ、この願いが叶えられる祈りの恵みを是非是非、実践してください。

  罪に勝利する恵み

恵みの三番目は、これが最後ですが、罪に勝利する恵みです。18節を読みましょう。「神から生まれた人は誰も罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた人は自分を守り、悪い者がその人に触れることはありません」「神から生まれた人」とは、そうです。イエス様を信じたクリスチャンです。今日、洗礼に預かろうとされておられる方々のことです。「誰も罪を犯さない」しかし、これはおかしくありませんか。実際、1章 8 節には同じヨハネがこう言っているのではありませんか。「自分に罪がないというなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にはありません。」18節では「罪を犯さない」と言い、矛盾ではありませんか。これは、今私たちが生きる時代が、聖書においては「終わりの時」であることの理解に関わってくる事柄です。イエス様は「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と言われましたね。この「神の国は近づいた」という「近づく」と言う微妙な言い回しは、既に到来している、ということを意味し、未だこれから到来する、という意味の両方を含蓄する言い方なのです。イエス様が来臨されたということは、既に神の国が到来したことです。この今既に神の国が到来したという意味では、イエス様を信じ救われたクリスチャンは、罪赦され清められ、罪に定められることがありません。しかし、神の国はイエス様が再臨されることによって完全に到来するという意味においては、クリスチャンと言えども、罪過ちに陥る危険性がないわけではないという意味なのです。

2章1節を読んでみましょう。「私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」ここでは、イエス様が「弁護者」と言われていますね。イエス様は乙女マリアより生まれた救い主です。しかし、復活し昇天され、天上の父の右に着座された今、イエス様は「弁護者」であられるのです。すなわち、私たちが罪過ちを犯したとしても、自分の罪を告白するなら、イエス様は、十字架の流された血によって罪を赦し、また、清める働きをしてくださるということなのです。5章 19 節を見るとこう書いてありますね。「私たちは神から出た者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。」覚えていてください。いま皆さんが生きる世界は、悪い者、すなわち悪魔、サタンの支配下にあるということです。サタンは狡猾な蛇のようであり、虎視眈々と隙を伺い、罠を仕掛け、クリスチャンをつまずかせようと企んでいるのです。主を信じて従うクリスチャン生活は、その意味で毎日が霊的な戦いです。しかし、感謝なことに勝利の戦いを私たちは戦うことが許されているのです。勝利することが恵みとして約束されているのです。