12月29日礼拝説教(詳細)
「礼拝に行く秘義」 マタイ2章1〜12節
イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、言った。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は祭司長たちや民の律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは王に言った。
「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ あなたはユダの指導者たちの中で 決して最も小さい者ではない。あなたから一人の指導者が現れ 私の民イスラエルの牧者となるからである。』」
そこで、ヘロデは博士たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、こう言ってベツレヘムへ送り出した。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝むから。」
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子がいる場所の上に止まった。博士たちはその星を見て喜びに溢れた。家に入ってみると、幼子が母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子ヲ拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。それから、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分の国へ帰って行った。
今年最後の礼拝会となりました。聖書はマタイ2章1〜12節をお読みします。こんな愉快な寓話があります。「ある敬虔なクリスチャンが森の美しい教会の礼拝に出席しようとすると、突然、ライオンが立ち向かってきました。すると、彼は『神様、このライオンがクリスチャンでありますように。』と祈りました。すると、ライオンが立ち止まり、祈りの姿勢を取りました。そこで彼は安心してライオンと仲良く森の教会に行き、椅子に並んで座りました。すると、ライオンが食前の感謝の祈りをするではありませんか。『神様、今日私に与えてくださった獲物のゆえに感謝します。これからいただく獲物を祝福してください。』アーメン」どうぞ皆さんはご心配なく。お隣の人は決してライオンではありません。
今日、お読みしたこの東方の博士のエルサレム訪問の聖書箇所は、教会暦では降誕節第一聖日で読まれるのが常となっています。その1節はこう始まります。「イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、東方の博士たちがエルサレムにやって来て」2節には、東方の博士たちがこう語ったと言われています。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」この東方の博士たちは、遠路はるばるエルサレムに旅してきたその目的が、礼拝をするためであった、と語ったのです。ここで彼らが「拝みに来た」と訳されるプロスクネオは、「近くに」を意味するプロスと「接吻する」を意味するクネオの合成語です。行為をもって崇敬の念を表すという意味です。東方の博士たちの短いこの発言には、礼拝の対象、礼拝の動因、そして礼拝の行為といった、礼拝の非常に重要な三重の要素が込められているものです。
1.礼拝の対象とは
ご存知でしょうか、12月19日に読売新聞社を代表してきた渡辺恒雄さんが98歳で逝去されたと報じられました。それを受けて放映されたある報道番組で、渡辺さんが80歳を過ぎてから、ことあるごとに戦争に反対する論陣を張り、その年の首相が、靖国神社参拝をするというので、その前日に電話で、参拝を辞めるよう進言したというのです。「もし、ドイツのヒットラーが神社に祀られ、それをメルケル首相が参拝したらおかしな事ではないか。戦争を開始するのを決めた東條英機首相を祀る神社で、日本の首相が参拝するのはおかしなことではないか」それが渡辺さんの主張であったというのです。
生き物の中で、動物たちの中で、崇敬の念を込めて自分以上の何かを拝み礼拝するのは、人間以外にはありません。礼拝する営みは人間だけの特徴です。肝心かなめの問題は、礼拝する対象を誰にするのかです。何にするのかです。人は誰でもいいから、何でもいいから拝む対象があれば、それでいいのではありません。「イワシの頭も信心から」で言い訳がありません。
① ヘロデ大王か
この聖書箇所によれば、エルサレムに到着した東方の博士たちは、人が真の意味で礼拝すべき対象を、それを「ユダヤ人の王」と言い切っています。彼らはユダヤ人の王を拝みに来たと、エルサレムの人々に公にしているのです。王とは、国家を統治統括する政治的権力者、指導者のことでしょう。その当座、今から2千年前、ユダヤの王として君臨していたのは、ヘロデ大王でした。ヘロデが大王と呼ばれたのは、ローマ皇帝から王に任命されて絶大な権限を有したからです。類まれな政治的手腕で平和と秩序を回復させ、36年の長きに及んで統治したためでした。しかし、ヘロデは純粋なユダヤではありません。改宗したイドマヤ人でした。猜疑心に富み、自分の王位を脅かすと彼が疑った近親者を次々と殺害する残忍非道な男でした。その残酷さは、皇帝アウグストスに「ヘロデの息子であるよりヘロデの豚である方が安全だ」と言わせた程です。ヘロデ王は70歳で死ぬのですが、自分の死期が近いことを悟ると、自分の死と同時に民の間に大歓声が起こることを恐れ、妹のサロメ夫婦に、著名人全員をエリコの競技場に監禁し、自分の死と同時に殺害するよう命じることまでしました。東方の博士たちは、この悪名高きヘロデ大王を拝みに来たのでしょうか。とんでもないことです。 ②イスラエルの神が王
東方の博士たちが拝みに来た「ユダヤ人の王」が誰であるか、それは、それを耳にしたヘロデ王自身の対応によって明らかです。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は祭司長たちや民の律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。」ヘロデ大王も住民も「ユダヤ人の王」という名称によって、直感させられたのは、神がいにしえから約束しておられたメシア、救い主のことでした。
実は、この「ユダヤ人の王」の名称には、旧約聖書の II サムエル8章に記録されている、イスラエルの歴史における、非常に大切な背景があったことを覚えておかねばなりません。イスラエルは、アブラハムを起点に神により選ばれた神の民でした。神の民であるということは、神が主権をもって王として民が治められる、特別な国民であるということです。しかし、イスラエルがエジプトからモーセにより奴隷解放され、パレスチナに定着してサムエルが指導していた時代に、民衆の側から自分たちの上にも治め統治する王を立てるよう、強い要求がありました。8章5節です。「あなたはすでに年を取られ、ご子息たちはあなたが歩んだように歩もうとはしていません。ですから、今、他のすべての国々のように、我々を裁く王を立ててください。」その要求理由は当然と言えば当然でした。彼らは指導者サムエルの後継者と見做されたその息子たちの堕落した乱れた言動に不安を抱いたからです。しかし、それに対する主の言葉はこうでした。7節「民の言うままに、その声に従いなさい。民が退けているのはあなたではない。むしろ、私が彼らの王となることを退けているのだ。」これにより明らかなことは、イスラエルの民の王とは、本来は真の神ご自身であることです。
③ 誕生したメシアこそ
ここで東方の博士たちが拝もうとした「ユダヤ人の王」とは、イスラエルの民の王、すなわち、真の神のことです。そして、その神ご自身が人間の形をとりメシアとして生まれることが預言され、その預言通りにお生まれになられた方こそイエス・キリストなのです。博士たちがベツレヘムに来て拝もうとした礼拝の対象こそ、お生まれになったそのメシアであるイエス様なのです。そのお生まれになった救い主イエス・キリストが、公に、異邦人に現れたという歴史的事実に基づいて、公現祭、公現日が定めらました。そして、この公現祭に、人が礼拝するべき真の対象が救い主イエス・キリストであることが語られてきたのです。
Ⅱ.礼拝の動因とは
真の礼拝の対象であるイエス様が、最初に公に異邦人に現れてくださったのは、これらの東方の博士たちです。では彼らが礼拝に出かけて行こうと動かされた動因はどこにあったのでしょうか。
① 東方から来たこと
第一の礼拝の動因、きっかけは、彼らが東方から到来したことにあります。彼らは東方から来たと言われるので、ペルシャからではないか、バビロニアからではないか、はたまたインドからではないかと言われます。しかし、この東方には地名よりも聖書には象徴的な意味があるのです。最初の人間アダムとエバが、罪を犯したためエデンの園を追い出された場所は「エデンの東」でした。アダムとエバから生まれた長男カインが弟のアベルを殺害した後、住み着いた場所は、「エデンの東、ノドの地」であったと創世記4章16節に明記されています。「カインは主の前を去り、エデンの東、ノドの地に住んだ」ノドとはそのような地名があるのではなく、エデンの東を説明する言葉です。ノドの意味は「さすらい」です。主は弟のアベルを殺害したカインを呪われました。「あなたは地上をさまよい、さすらう者となる。」(4:12)エデンの東はさすらいの地なのです。博士たちが東方から来たということは、彼らが「さすらいの地」から来たことです。アダムに始まる人類は、エデンの園から追放されて以来、すべての人は地上をさまよい、さすらう者なのです。どこから来て、どこに行くのかわからないまま生きざるを得ない「さまよい、さすらう者」です。救い主イエス・キリストが、先ず最初に、公に東方の博士たちに現れたことは、罪によりさすらう者すべての人に現れてくださることなのです。
② 博士であること
第二の動因は、彼らの職業が占星術者であったことにあります。その博士たちとは、博士と訳された原語のマゴスの意味からしても天体を観測して占う占星術師でした。この占いについては、聖書では偶像崇拝と並んで神様が最も忌み嫌われることではなかったでしょうか。40箇所以上にそう記されています。いくつか見てみますと、レビ記 19 章 26 節「占いや呪術を行ってはならない。」とあります。申命記 18 章 10~12 節「あなたの中に、自分の息子や娘を火にくぐらせる者、占い師、卜占する者、まじない師、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。」とある通りです。このように、占いというものは神様が忌み嫌う行為です。私共の明日は、神様の御手の中にあります。占いというものは、その神様の御意志、御心というものを、信仰によらず窺い知ろうとする行為です。或いは、神様以外の何らかの原理によってこの世界が支配されており、それを知ることによって予め明日起きることを知ろうとする技術、それが占いです。つまり、占いというものは神様の御支配というものを信頼しない術、否定するものなのです。ですから神様は占いする者を厭われるのです。
ところが何と、イエス様の誕生を知らされたのは占星術の学者でした。彼らは星に導かれてイエス様を拝みに来た。どうして占星術の学者なのでしょう。それは、彼らが占星術の学者という、神様からすれば最も遠い所に生きていた者だからなのです。神様から最も遠い者であったが故に、彼らは選ばれたのです。東方の博士たちに救い主イエス・キリストが生まれ現れてくださったこと、それは、さまよい、さすらう者、神様から遠く離れていた私たちに現れてくださることを意味するのです。
③ 導く星によること
第三の動員は、明らかに彼らが観測した輝く夜空の星でした。彼らは言いました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」それは星占い師である博士たちが突然現れた星の観測結果でした。この星の出現は、イザヤ60章1〜3節の預言の成就とされます。「起きよ、光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に昇ったのだから。見よ、闇が地を覆い密雲が諸国の民を包む。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる国々はあなたの光に向かって歩み王たちはあなたの曙の輝きに向かって歩む。」
この博士たちの観測した星は、天体の魚座における木星と土星の接近に伴う異常な輝きとする説があります。木星はギリシャ神話のジュピターの星であり、土星はユダヤ人に特別の星と呼ばれる星で、木星と土星の合一は257年か258年にしか起きないと言われ、天文学的計算では紀元前7年に現れたことが証明されています。その二つの星の合一はメシア到来の印とされていたのです。そして、紀元前1、2、3世紀には、当時の世界には広くユダヤ人たちが離散し、その結果、終末思想が彼らを通して広がっていたことが知られています。ユダヤ人たちは、その長い歴史の中で、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、エジプト、ローマ帝国の国々に蹂躙され、終末思想が行き渡っていました。それは、神様からメシアが遣わされ、それによって帝国の支配から一挙に解放されることになるという思想、信仰です。これらの東方の博士たちもまた、その思想に影響されていたに違いありません。彼らがいつにない異常に輝く星を観測した時に、それが彼らを動かし、エルサレムへの長途の旅を促したのです。
私たちが12月15日のクリスマス・コンサートにお招きしたゲストは、盲目の福音歌手・北田康広さんでした。彼は持ち前の豊かな美声で、奥様の素晴らしいピアノ伴奏に載せられ、クリスマス讃美歌の数々を歌い上げてくださいました。それは、彼自身が救い主イエス・キリストが現れて下さった感動の裏付けのある演奏でした。5 歳の時、医者の医療ミスで全盲になり、どん底に突き落とされたのですが、北田さんに昇った星は、高校生時代に出会ったクリスチャン教師であり、音楽大学時代に出会ったクリスチャン学生でした。北田さんは、彼らに光を照らされ信仰に導かれ、教会で洗礼を受け、キリストを礼拝するクリスチャンにされました。
先週のライフラインで「瞬きの詩人」と言われた水野源三さんが紹介されました。彼もまた幼少期に病気で全身麻痺状態に陥り、動かせるのは目の瞬きだけでした。そんな水野さんの上に昇って照らした星は、12 歳の時に、彼を訪ねた牧師により手渡された一冊の聖書です。母親に読み聞かせてもらった聖書により、キリストの救いに預かり、彼の内面は一変したのです。その感動を綴った何冊もの詩集がどれほど多くの人に慰めと励ましを与えたことか知れません。
私自身、毎日朝のリハビリ体操をする際には、スマホで必ず「朝静かに」の彼の詩を歌う賛美を聞いております。皆さんは何がきっかけになって神を礼拝することになられたのでしょうか。博士たちは夜空に輝く星でした。星に導かれてイエス様を礼拝することになりました。福音歌手の北田さんは学生時代に出会ったクリスチャンたちでした。水野源三さんは訪ねてくれた牧師であり手渡された一冊の聖書でした。それが何であれ、誰であれ、真の礼拝の対象となるべきイエス・キリストとの出会いに、生かし用いられるのです。
Ⅲ.礼拝の行為とは
東方の博士たちは、真に礼拝すべき対象は「ユダヤ人の王」と確信し、星に導かれてエルサレムに来ると、ベツレヘムに幼子イエスを見つけ出し、直ちに礼拝しました。
① 来て礼拝する
彼らはエルサレムの人々に「私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と率直に語り伝えました。礼拝することにおいて、「拝みに来た」この生活の場を出て礼拝に来ることに大きな意味があります。彼らは東方の、それがバビロニアであったか、ペルシャであったかはともかく、遠方から時間をかけてエルサレムにまで礼拝するために出かけてきたことが、私たちが教会の礼拝に出かけていくことに相当するでしょう。神は創造の業を6日かけ完成され、七日目を安息日に定め、人間に6日働いて安息日を守るよう命じられました。それは6日間の日常生活から出て、七日目の安息日を非日常的な場に出て行くことを意味するのです。
英語でバーチャルリアリティという言葉がありますが、仮想現実のことです。それは人間の手で作り出された非日常的な空間です。映画館で映画に浸ること、劇場で演劇を鑑賞すること、競技場で野球やサッカーに興じること、皆良く知っている経験です。 しかし、私たちは非日常的な空間・時間として礼拝する場に来るのです。自分の住まいを中心とした日常生活にどっぷり浸かり続けてはならないのです。なぜなら、それによって人は自分を失うことになるからです。ここ数年続いた新型コロナ感染の流行で、どこでも教会の礼拝に集まることが妨げられるという大きな影響が避けられませんでした。そこに急速に浮上し普及したのがオンライン礼拝という手段です。教会に集まらず、集会をライン上で配信し、自分の居る場所で参加するという画期的な手段でした。コロナが沈静化した現在でも、そのままネット配信を続ける教会が多数あります。それによって、病床に伏しておられる方、足腰が弱く歩けなくなった老人たち、障害ある方々には大きな恵の手段であることに変わりありません。
しかしながら、それがどんな場所であれ、礼拝する場に神の民と共に集まることに代わるものではありません。主は約束されました。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」(マタイ18:20)イエス様の御名によって集まる集まり、それが教会です。教会、原語のエクレシアの意味は「呼び出された者の集まり」です。日常生活から主によって呼び出されて集まり礼拝することが大切なのです。
② 伏して礼拝する
ベツレヘムの幼子イエスの居られる家に辿り着くと博士たちは「彼らはひれ伏して幼子を拝み」そうです、一同揃って幼子イエスの前にひれ伏して礼拝を捧げました。礼拝、原語のプロスクネオは、尊敬・尊崇の念を表すことです。彼らのイエス様の前にひれ伏す行為は、神を尊崇する気持ちの一つの典型的な動作です。礼拝の行為において非常に大切なことは、そこに集まるすべての礼拝者が一緒に同じ動作をすることです。司会者が起立を促すと全員が立ち上がり、全員が頌栄を歌います。主の祈りを唱和します。讃美歌を一緒に歌います。一緒に説教を聞き、一緒に献金をし、一緒に使徒信条を告白します。シンクロナイズド・スイミングをご存知でしょう。プールの水中で音楽に合わせて一斉に同時に同じ動作を繰り広げる競技です。シンクロナイズとは同時に同じ動作をすることです。それはその動作をする者たちが一つであることを象徴するのです。人は自分の家でも個人的に祈ります。賛美します。聖書を読みます。しかし、礼拝では個人が日常していることを一緒に同時に同じことをするのです。一つの部屋で、同じ空気を吸い、同じピアノの音を聞き、同じメッセージを同時に聴くのです。そこに主が居られるからです。礼拝は人が一致できる最高の場であり時間なのです。神は人が一致し和合する只中に臨在なされるのです。
③ 献げて礼拝する
ひれ伏して幼子イエスを拝む博士たちは、彼らが持参した宝の箱を開け、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。この献げ物が何を意味するか、解釈がいろいろありますが、今日は、彼らが自分たちの商売道具を開け渡したと理解します。彼らは星を占う占星術者でした。バビロンの占星術は厳然として動かない北極星を中心に成り立ち、北極星は人間の運命であり、そこから人間や世の中の動きを読み取ろうというものです。私たち人間は、自分の運命を知りたいという切実な願望・欲求があります。そのため、占いやおみくじに人気があるのです。しかし、博士たちは自分たちの占いの商売道具をイエス様に開け渡しました。人の全ては人間を創造された愛なる神様の御手の中にあることをそれによって告白したのです。
Ⅳ.別な道を帰る
ベツレヘムで目当ての礼拝を献げた博士たちが、来た道とは違った別な道を通って帰って行ったことが、礼拝の秘義を暗示しています。神をイエス・キリストによって礼拝する人は、誰でも変えられて再び自分の生活の場に帰って行くのです。礼拝することによって、誰でも人は新しく造り変えられるのです。
東方の博士たちのベツレヘムでの幼子イエス礼拝は、私たちの礼拝の決定的な根拠となるものです。彼らはユダヤ人以外の私たち異邦人を代表しており、神様がイエス・キリストのゆえに、私たち異邦人すべての礼拝を受け入れてくださることを明らかにしているのです。
使徒パウロは、エペソの信者たちに「キリストにあって、私たちは、キリストの真実により、確信をもって、堂々と神に近づくことができます。」(3章12節)と奨励しました。礼拝するべき対象は、ユダヤ人の王なる御子イエス・キリストです。
神様は私たちを礼拝に導こうとあらゆる手段を用いられます。日常の生活から出て、非日常の礼拝の場所に行くことを大切にしましょう。
12月22日礼拝説教(詳細)
「悪用・利用・活用か」 マタイ1章18〜23節
イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが分かった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。
「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは、「神は私たちと共におられる」という意味である。
第四アドベント、クリスマス礼拝の今日、聖書はマタイ1章18〜23節を読みます。クリスマスはキリストの誕生の祝いの祭り事です。ですから、「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。」と始まるこの箇所は、今日、このクリスマス礼拝には最も相応しいと言うべきでしょう。キリストの降誕に関してはこのマタイ1章とルカ2章に綴られていますが、主人公といえば、ルカの記述ではマリアであり、マタイではヨセフであることが分かります。ヨセフは、なんとも見栄えのしない小さなナザレの村の大工を職とする男です。彼の身に一体何が起こったというのでしょうか。
マリアの処女懐胎
18節を再読してみましょう。「母マリアはヨセフと婚約していたが、一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」とあります。一言で言えば、これはマリアの処女懐胎です。多くの人々のキリスト教信仰の大きなつまずきは、このマリアの処女懐胎です。「結婚もしていないのに、男女の性的な関係もなしに、どうして妊娠して子供が生まれると言うのか、そんなことは科学的に言っても、生理的に絶対あり得ない。とてもじゃないが信じることなどできない。」そのつまずきは、当然と言えば当然の理屈であります。しかし、このマタイによる福音書の冒頭に、その当然、人のつまづきとなるに違いないような事柄を、何故堂々と取り上げられているのでしょうか。それはそこに人智を遥かに超えた深い意味と真理があるからなのです。ここにマリアに関し三つのことが明らかにされています。
婚約していたマリア
先ず第一に分かること、それはマリアがヨセフと婚約関係にあったことです。私たちのこの聖書の中では、二人が婚約関係に至った詳細については、いささかも知る由もありません。旧約聖書の箴言30章にこういう格言があります。「私にとって、驚くべきことが三つ、いや四つのことに納得できない。天にある鷲の道、岩の上の蛇の道、海の中の船の道、そしておとめと共にいる男の道。」驚くべきことが四つある、その四つ目が男女の出会いだと言っています。本当にそうですね。マリアがヨセフとどのように出会ったのか、この聖書以外に、聖書に類する新約聖書外典と呼ばれる文書があり、その内のヤコブの福音書には、その婚約に至る経緯が詳細に物語られているので紹介しておきましょう。それによれば、マリアの父はヨアキムと言い大変裕福であった。その母はアンナと言い、不妊で子が産めなかった。ところがヨアキムが40日断食祈祷した結果、アンナに女児が授けられ、それがマリアであったというのです。ヨアキムは祈祷で子供が授かったら神に捧げると誓約をしていました。そこで子は3歳で神殿に預けられ、神殿で養い育てられることになります。そして、12歳になると、生理出血で神殿が汚されることのないようにと、男寡が募集される、その中からヨセフが選ばれるのです。その信憑性はともかくとして、マリアはヨセフと、しかもかなり歳のいっていたヨセフと婚約関係に入れられていたと思われます。ここで「母マリア」と言われるのですが、婚約は法的には結婚関係に相当するとみなされていたためであり、その意味で彼女は、ヨセフの妻マリアでもありました。
懐胎していたマリア
そこで問題となるのは、ヨセフと婚約関係にあったにも関わらず、マリアが懐胎し、子供を孕んでいることが、自分だけではなしに、他人にも、とりわけヨセフにも分かってしまったという事実なのです。マリアが妊娠して子供を宿したとすれば、人間的には二つの可能性があったとしか考えられません。第一に、マリアが密に他の男性と密通し、性的関係を持った結果であること。もう一つは、婚約中ではあったが、結婚を待たずに、ヨセフと体を一つにした結果であるということです。しかし、18節には「一緒になる前に」とあります。婚約中は、二人は節度を保ち、住まいを別にして過ごすのが常でしたから、ヨセフとの関係は打ち消されます。残るは、不倫によるものとしか人間的には考えられません。ところがここで、全く意想外な記述が、18節にあります。「聖霊によって身ごもっていることが分かった」ということなのです。これはどういうことでしょう。
この「聖霊によって身ごもった」とは、マリアが妊娠したのは神の働きの結果であるということなのです。何故なら聖霊は神様のことだからです。私たちは使徒信条の一番初めに「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」と告白するではありませんか。神の本質は全能です。全能であるから天地万物を、神が創造することができたと告白するわけです。最初の人間アダムはどのように誕生したでしょうか。男女の性的結果の誕生ではありません。神は塵を集めて形成し、命の息を吹き入れ、最初の人を無から創造されたと啓示されています。最初の女エバはどうして誕生したでしょうか。そうです。アダムが眠っている間に、脇腹から取られた骨によって創造されたと啓示されています。そうであるならば、通常の男女の交際無しに、マリアが妊娠し、御子イエス様が生まれるということは、全能の神にとって全く問題がないのです。 メシア身籠るマリア
このマリアに関しては、1章の最初のキリストの系図の最後に、「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」と語られています。この系図にマリアが組み込まれているということには、メシアなるイエス様がマリアから誕生させる神様の計画があったことが明らかにされます。この系図には、マリア以外に四名の女性が登場しています。3節にタマル、5節にラハブ、そしてルツ、6節にはウリヤの妻、彼女の名前はバテシバでした。これらの女性一人一人の生涯を詳細に説明することは時間的にできません。彼らに共通して言えることがあります。例外なくおぞましい罪深い行為に関与していた女性たちであったことです。タマルは義父のヤコブと肉体の関係がありました。ラハブは異邦人の売春婦です。ルツは、罪深い先祖のモアブの子孫です、バテシバは夫のある身にも関わらず、ソロモンと不倫関係に陥った女性でした。キリストが、この罪深い家系につながるマリアから、一人の人間として誕生したと言うこと、それは、私たち人間の罪の全てを身代わりとして担い、十字架において神の裁きを引き受け、罪の赦しをもたらすメシアとなるためであったのです。
ヨセフの困惑逡巡
それでは、それとも知らない許嫁の夫ヨセフは、このマリアの処女懐胎に直面して、どのように思い定め、どのように対応したというのでしょうか。19節にはこのように記されていますので読んでみましょう。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心した。」ヨセフの反応、それは一言で言えば困惑逡巡でした。その辺りのヨセフの心境を、先に紹介した新約聖書外典のヤコブの福音書の13節に、ドラマチックに描写されているので、引用しておきましょう。「さて彼女はみごもって6ヶ月となりました。するとご覧なさい。ヨセフが建築から帰って来て家に入り、彼女がみごもっているのを見つけました。そこで彼は自分の顔を打ち、荒布に身を投げ出して、ひどく泣いて言いました。『私はどの顔さげて私の主なる神を仰ごう。私はこの少女のために何を祈ろう。私は彼女を主なる神の神殿から引き取ったのに守ってやらなかった。私を欺いたのは誰だ。誰がこの悪事を私の家で働き、この処女を汚したのだ。まさかアダムの故事が私の身に繰り返されたのではあるまいに。アダムがエバを残して祈りにいったとき、蛇が来てエバがひとりでいるのを見つけ、彼女をだました。私にも同じことが起こってしまった。』」
ダメ男のヨセフ
キリスト教会の歴史の長いヨーロッパの中世には、このヨセフに対する相異なるイメージが作り出されていたといわれます。その一つは、自分の妻が浮気をし、妊娠までしているのに気づかないで、丸め込まれてしまうような、騙され放題の愚か者、ダメ男というイメージです。悪賢い女好きの男が、大工のヨセフが妻に先立たれて男寡であること、神殿の抽選で12歳の処女が当たって婚約していたこと、そしてヨセフが騙されやすいダメ男だと知っていて、何も知らないうぶな少女マリアをかどわかして関係してしまう。マリアはマリアで早くから男好きで、誘惑に負けて妊娠させられてしまう。婚約中なのだから、妊娠したって不倫などと詰問されることもない。婚前交渉でできちゃった婚などは山ほどあるのだから問題ない。ヨセフはマリアに利用され、悪い男に悪用されたというのでしょうか。
正しい人ヨセフ
確かに人に悪用されることはある。人に巧みに利用されるようなことは、世間にはザラにある。しかし違うのです。ヨセフはダメ男ではありません。ヨセフは騙されやすい男ではない。ヨセフのイメージは聖書によればその正反対なのです。「夫ヨセフは正しい人であったので」ヨセフは正しい人、義人でした。この正しいとは敬虔なユダヤ人の特徴です。ルカ1章には洗礼者ヨハネの両親について言われている特徴です。「二人とも神の前に正しい人で、主の戒めと定めとを、みな落ち度なく守って生活していた。」とそこには形容されています。ヨセフもそのような人物、正しい人であったことが明らかです。しかし、それは結果的に彼に絶大な苦悩を生み出すことにもなりました。許嫁の妻マリアの妊娠に困惑逡巡せざるを得なくなります。何故ならば、律法の規定によれば、マリアの妊娠は不倫による結果であるとするならば、これは姦淫罪に相当し、それは死刑に値いするのであり、人々から石を投げつけられ、公然と殺されるべき類の犯罪だったからです。姦淫とは結婚している男女が夫婦以外の異性と性的関係を持つ犯罪を意味しました。マリアとヨセフは婚約中とは言え、法的には結婚関係と同等の立場にあったのです。マリアの行為は赦されざる、社会的に制裁を課せられるべき犯罪行為だったのです。
善意の人ヨセフ
ヨセフが、神の前に正しい人で、主の戒めと定めとを落ち度なく守ろうとしたならば、取るべき第一の選択は、マリアのことを表沙汰にし、法廷に訴えるべきことでした。婚約をすることで将来、夫婦になる契りを交わしていた。それなのに信頼を裏切り、他の男と不貞を働いたとするなら、それは当然の許されるべき選択でした。しかし、彼は、その正しさのゆえに、まさにその正しさのゆえに、そうはしませんでした。何故なら、正しいということ、すなわち義であるということは、「他人に対する態度における善意である」からなのです。聖書はローマ13章で、律法の精神を見事に、使徒パウロが説明しています。「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな』、そのほかどんな戒めがあっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」(9〜10節)聖書の神の律法の根本精神は愛です。隣人愛なのです。ヨセフはマリアの罪は認めても、マリアを裁こうとはしませんでした。「マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心した。」律法の中の姦淫罪を適用するのではなく、ヨセフは離縁の律法を適用しようとしました。
申命記24章1節にこう規定されているからです。「ある人が妻をめとり、夫になったものの、彼女に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、彼女に離縁状を書いて渡し、家を去らせることができる。」離縁すれば結婚に関わる律法から外れることになります。ヨセフは密に離縁することで、マリアに対して愛の配慮をしようとしたのです。しかし、それで問題が解決するわけではありません。ヨセフとの婚約が解除され、ヨセフから去ったとしても、妊娠したマリアの行末はどうなるのでしょうか。生まれてくる子供の将来はどうなるのでしょうか。
天使の受胎告知
まさにヨセフがマリアとその懐妊のジレンマで思い悩み、思い巡らしていたその時でした。彼は夢を見せられたのです。そして、その夢に天使が現れ、ヨセフに驚くばかりのメッセージを告げ知らせたのです。「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」新しい選択の提示第一にそれは、ジレンマに苦しむヨセフに対する、全く意想外な新しい選択の提示でした。ヨセフは、マリアの妊娠を表沙汰にして法廷に訴え出ることは絶対したくない。残された道は、密に離縁して去らせることしかありません。しかし、天使は、法廷に訴えることでもなく、離縁することでもなく、そのまま結婚に進めと命じたのです。「恐れずマリアを妻に迎えなさい」という訳よりも、「恐れず妻マリアを迎えなさい」が妥当でしょう。法的には婚約者はすでに夫であり妻であったからです。
新しい選択の根拠
第二に天使のメッセージは、ヨセフの取るべき正しい選択の根拠を決定的に示すものでした。天使は「マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。」とその提案の根拠を提示しました。マリアの妊娠・懐胎は人間同士の肉的な関係によるものではない、これは神が介入され成された業であるからです。コヘレトの言葉3章11節にこうあります。「すべて神の成されることは時にかなって美しい。」もしマリアの妊娠が、不当な婚外性交渉の結果であるとすれば、それはとても美しいとは言えません。醜く穢れています。しかし、神の聖霊の働きによるのであるなら、それこそ時に適った美しい意味ある行為なのです。 新しい選択の目的
第三に天使のメッセージには、ヨセフの取るべき新しい選択に重大な目的が込められていることが明らかにされます。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」その目的も目的、それはマリアの胎内に宿った子により、神が人類を罪から救済することなのです。マリアの妊娠、それによってメシア、救い主をこの世に送り出すこと、それは歴史における時と空間の只中での神の決定的な美しい業であったのです。その生まれる子の名前までイエスと指名したのは、その目的のためです。その名前の意味は、ヘブライ語では「主は救い」です。許嫁のマリアが懐妊したことに気づき、どうしてよいのか途方にくれ、思い悩んだヨセフは、この夢による天使の告知を受けるや、目覚めて起き、天使が命じたとおりに、妻マリアを迎え入れることができました。ヨセフは、自分の取るべき態度と、その根拠、目的をはっきりと確信することができたからです。私たちは今日、このクリスマスにあって、マリアの処女懐胎、ヨセフの困惑逡巡、そして天使の受胎告知の出来事から、三つの教訓を受け取ることができることでしょう。
思い煩わず祈ること
第一の教訓は、人生のいかなる局面においても、何事も思い煩わずに神に祈ることです。ヨセフは妊娠したマリアとこれから生まれてくるであろう子供の将来を思い悩みつつ、神に祈ったに違いありません。彼は神を畏れる正しい人だったからです。私は、ピリピ4章にこのように勧められていることを思い出します。「何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。」(6、7節)もちろん、祈ったからといって、必ずしもヨセフに天使が夢に現れ、具体的に、誰にでも答えられるという訳ではないでしょう。しかし、間違いなく言えること、それは、キリストが十字架に救いを完成され、天に昇天され、聖霊が助け主として降られ、今を生きる私たちは、ヨセフよりも遥に恵まれた立場に生かされているということです。問題を抱え、静かに信頼して神に祈るなら、聖霊が私たちの思いの内に働き、成すべきことが示され、解決の糸口が示されるに違いないのです。
共なる神に信頼すること
第二の教訓は、いかなる状況の中にあっても、いつでもどこでも共におられる神に信頼することです。この福音の著者マタイは、22節で「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われたことが実現するためであった。」と言ってのけました。処女マリアの懐妊、そして男の子の誕生、それはイザヤ7章14節の預言の成就なのです。これは、南ユダ王国のアハズ王が敵に攻撃されようとした時に、神から与えられた救いの印の預言として「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」と与えられたものです。この預言の完全な成就が、御子イエス・キリストの降誕なのです。イエスの名がインマヌエルと呼ばれるという。インマヌエルとは「神は私たちと共におられる」という意味です。イエスがいつもインマヌエルと呼ばれていたのではありません。その名前の意味するお方であるということです。イエスとは神が人となられたお方です。イエスが居られるとはそこに神が居られることを意味しました。イエス様を救い主として信じるとは、神が共におられる生活を生きることなのです。この礼拝で交読詩篇に46篇を交読したのは何故ですか。それは、その詩篇の告白が、インマヌエルだからです。46篇2節でこう歌います。「神は我らの逃れ場、我らの力。苦難の時の傍らの助け。それゆえ私たちは恐れない地が揺らぎ山々が崩れ落ち、海の中に移るとも。」何故恐れないのですか。8節で歌います。「万軍の主は私たちと共に。ヤコブの神は我らの砦。」そうです。万軍の主が私たちと共にいてくださるからなのです。
背負われ背負うこと
そればかりか、今日、イエス様のお名前インマヌエルによって受けるべき第三の教訓は、共に居られる神に背負って頂きつつ、私たちも課題を背負わせていただくことです。クリスチャンの間でよく知られ愛される詩に「足跡」という作品があります。砂浜に二人の足跡が映し出された写真などを背景に額に収められているのを見かけることがあります。それは自分の人生の歩みを、海辺の砂の上の足跡として振り返る、そういう夢を見たという詩です。ところがある所から足跡は一組になっていた。しかもそれは自分の人生が危機に瀕していた時からだったのです。彼が、「主よ、あの危機の時にあなたはどうして共にいて下さらなかったのですか」と言うと、主イエスは、「子よ、私はいつもあなたと共にいた。足跡が一組になったのは、そこからは私があなたを背負って歩いたからだ」とお答えになる、という詩です。この詩は、「神が我々と共におられる」という恵みの一面をよく表しています。私たちは、自分の足で歩いているつもりでいても、実は共にいて下さる主イエスに背負われ、神様の力に支えられているということが多々ある、いやむしろそういうことの方がはるかに多いのです。神が我々と共におられるとは、神様が、主イエスが私たちを支え、背負っていて下さることだというのは一つの真理です。しかし、そのことだけを見つめていたのでは、インマヌエルの恵みの一面しか知ることができない、ということもまた事実です。神様は時として私たちに、ご自身を、ご自身のなさろうとしておられる救いのみ業を委ね、私たちをそのために用いようとなさるのです。そのための重荷を共に背負ってくれとおっしゃるのです。みごもったマリアを妻として迎え入れた夫のヨセフは、そのような人でした。彼はこれから生まれようとする救い主を生み育てようとするマリア、そして生まれてくる幼子の養育を引き受ける決心をしたのです。
このヨセフよりも遥か昔のヤコブの末息子のヨセフも、神様から重荷を背負わされた器の一人でした。彼は兄弟たちに憎まれエジプトに奴隷として売られましたが、その結果、将来の食糧危機に際して、ヤコブの家族全員を助ける役割を果たしました。同じ名前のサンヒドリンの議員であったアリマタヤのヨセフも神から課題を背負わされ、引き受けた器でした。全議員がイエスに死刑を求刑したのに、彼一人反対し、イエスが十字架に掛けられた際には、死体を引き受け、自分の墓に埋葬しました。パウロの宣教のパートナーであったバルナバの本名は同じヨセフでした。彼もまた、神から課題を背負われ、喜んで神と共に歩んだ器でした。パウロが回心し、教会の仲間に入ろうとしても、迫害者であった彼の過去のため、拒絶されていたところを、バルナバが取りもち、それによってパウロの宣教の業の道が開かれることになりました。
神は、現代のクリスチャンであるみなさんが、神に背負われると同時に、また神から与えられた課題を背負って共に生きるヨセフとなることが期待しておられるのであります。その名はインマヌエル! 主の御降誕を祝いましょう。私たちも共に、神に活用される器とさせていただこうではありませんか。
12月15日礼拝説教(詳細)
「真の光の先駆者」 ヨハネによる福音書 1章6〜9節
一人の人が現れた。神から遣わされた者で、名をヨハネと言った。
この人は証しのために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じる者となるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである。
今日、聖書箇所は、ヨハネ1章6〜9節をお読みします。教会暦によるクリスマスの祝いが間近となりました。今日の午後2時からは、盲目の福音歌手・北田康広さんをお迎えし、恒例のクリスマス・コンサートが予定されています。多くの方々に、このコンサートにより、クリスマスの意義が知らされ、神の恵みと祝福に預かられることを期待します。その意味でも、今日の聖書箇所には、クリスマスの意義が見事に集約されておりますから、これを再確認することで、神に栄光を帰し、神に礼拝を捧げることにしたいと思います。
1.世に来た光
ここで、明らかにされるクリスマスの第一の意義、それが、9節で明らかにされています。
「まことの光があった。その光はこの世に来た」そうです。クリスマスとは、真の光がこの世に来られたということです。
① 光の創造
天地の創造において、神が最初に造られたのは光でした。「神は言われた。『光あれ。』すると光があった。」と創世記1章3節に語られています。光は神の第一のそして最高の創造の作品ではありませんか。光の速度は、秒速30万キロです。一秒間に地球を七回り半で一瞬にして回る速さです。物理学的には、光が粒子とする説があります。波動とする説もあります。この光なくしては宇宙のすべては成り立ちません。光は暗闇を照らして明るくします。光は寒いところに温もりを与えます。光は植物に作用し、その光合性により成長させます。私たち人間は、優れた科学技術を駆使し、人工的にもありとあらゆる種類の光を作り出してきました。LEDなどはその最先端を行くものでしょう。
② 偽物の光
そして、クリスマスの第一の意義、それは、光の中の光、真(まこと)の光がこの世に来られたということなのです。そして、その真の光こそ、乙女マリアから生まれた神の御子イエス・キリストなのです。この御子イエス・キリストの御降誕を祝うことこそクリスマスです。ここで今日、特に強調されるべきことは、イエス様が真の光であることです。この「まこと」と訳された原語のアレシノスとは、偽物ではない、類似ではない、本当に正真正銘であるという意味です。今を生きる私たちを悩ますものは何でしょう。社会全体に溢れる偽物、紛い物、類似品、偽造品、フェイク・ニュースではありませんか。先週も説教の中で、人工知能に触れました。今や A I 技術の急速な驚異的発達によって、人工的にそれこそ何でも作り出し、導き出すことができる時代となってきました。それは結果的に、私たちの日々の生活の便利さをもたらすものです。しかしながら同時に、うっかりすれば、それによって騙され欺かれることになりかねません。先日、新規に購入したばかりのマックのパソコンで、YouTube で讃美歌の動画を聴こうと操作したところ、突然、変な画面が飛び出しました。「あなたのマックに問題が生じました。すぐに下記の電話番号に連絡してください」と表示されたのです。アップル株式会社だと書いてあります。メーカーの警告サービスとしか思えません。何をしても消すことができないので、早速電話したところ、外人の辿々(たどたど)しい日本語で、「これを修復するにはお金がかかります。」と言うではありませんか。咄嗟にこれは詐欺だとピーンときました。そこで直ぐにパソコンを強制終了してしまいました。危ないところでした。まんまと騙されるところでした。現代社会の特徴は、情報化です。無数の情報が拡散し、何が信用できるのか、非常に難しい時代なのです。
③ 正真の光
しかし、感謝なことに、私たちが何の心配もなく、安心して信頼できる真の光が、私たちの住むこの世に来てくださいました。それを祝うことがクリスマスなのです。神の御子イエス・キリストの御降誕がクリスマスです。クリスマスのこの季節、私たちの教会でも、私たちは至る所に光を散りばめています。玄関脇の大きなモミの木に豆電球が夜には輝きます。クリスマス・ツリーは眩いばかりに輝いていますね。何故、光をクリスマスの飾り付けに多用するのですか。それは、まことの光なるイエス様が来てくださったからなのです。微かな光ではありません。おぼろげな光でもありません。5節にこうあるではありませんか。「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」私たちの住む世界は、人間の犯した罪のために、霊的に暗黒状態であり、非常に暗いのです。
ウクライナでは、熾烈なロシアとの戦争が続いています。イスラエルではテロ組織ハマスとの激戦がもうすでに一年を過ぎました。今また中東のシリアでは反政府軍によってアサド政権が崩壊し、大混乱に陥っています。そうこうするうちに、隣国の韓国ではユン大統領の突然の戒厳令発令によって、政治が大混乱に陥って収集の目処が立ちません。それにもかかわらず、光は闇に輝くのです。闇は光に勝つことはないのです。真の光が、この世に来られた。それがクリスマスの祝いなのです。
Ⅱ.人を照す光
そして、世に来られたこの真の光、イエス様はまた、すべての人を照す光なのです。「まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである。」と9節に語られています。すべての人を照すとは、例外がないということです。キリストは誰でも、私を皆さんを一人残らず照らしてくださいます。
① 疑惑の闇の追放
キリストの光に照らされると、人から疑惑の闇が直ちに追放されます。来週月曜日23日〜25日にかけて、関西教区の有志による第4回目の能登地震被災者支援活動が実施されようとしています。ある民間テレビ局の作成したその第3 回目支援活動のドキュメンタリーの録画を見ましたが、そのタイトルは「神も仏も・・・」でした。そのタイトルの意味するところは、「なんで、こんな酷い災難に遭わなきゃならんのか、神も仏もいるものか」その思いが、被災した住民の率直な気持ちであるということです。能登半島では、田植えの季節になると、田んぼの神様を家に招き入れて手厚くもてなし、厳かに田んぼに送り返し、その年の豊作を祈願するのが常です。それも、地震で何もかも破壊されたために、ろくに神事を行うすべもなく、「神も仏もいるものか」とつぶやかざるを得ない心境なのです。しかし、真の光なるイエス様に人が照らされるときに、疑惑の闇は追放されてしまうのです。「目に見えない神など存在するはずがない。神がいるなら見せてくれたらいいだろう。」と多くの人は神の存在を疑い信じられません。しかし、イエス様に照らされると疑いは、不思議と一瞬にして払拭してしまうのです。神が確かに居られること、求める者に報いてくださることが確信させられるのです。
② 絶望の闇の追放
「絶望は愚か者の結論だ」とよく言われます。そうは言われても、分かっていても人は成す術もなく絶望の闇に落ち込むことがしばしばあるものです。その典型は、あのマルコ5章25節から登場する出血の止まらない女ではなかったでしょうか。彼女は12年間も出血が止まらない病気に悩まされました。それこそ途方に暮れ絶望していたに違いありません。多くの医者に治療を期待しました。それなのに酷い目に遭わされたと言うのです。その挙げ句、全財産を使い果たしてしまいます。「なんの甲斐もなく、かえって悪くなる一方であった。」(5章25節)と、そう記されています。しかし、この婦人は感謝なことに、真の光に照らされたのです。イエス様に出会い、イエス様によって絶望の闇が一瞬にして追放されてしまったのです。彼女はイエス様のことを聞くと、群衆に紛れ込みました。そして後ろからイエス様の衣にそっと触れたのです。その理由が、28節に記されていますね。『「せめて、この方の衣にでも触れれば治していだだける」と思ったからである。』その瞬間です。血が止まったのです。イエスは彼女にこう申されました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。病苦から解放されて、達者でいなさい。」イエス様に、真の光に照らされると、絶望から希望に移し変えられるのです。どん底から這い上がることができるのです。
③ 罪過の闇の追放
人が真の光、イエス様に照らされると更に罪過の闇が追放されてしまいます。しかし、照らされるまでは、罪が暗闇であるとも自覚しないのが人間の常です。イエス様により照らされてはじめて、真の意味で罪は自覚される者です。悔い改めて全く新しい人にされたその典型こそ、ルカ19章に登場するザアカイでしょう。彼はその時代の税金請負人でした。彼はその請負人仲間の頭を務め、大した金持ちだったのです。その税務の仕事はユダヤを植民地支配したローマ帝国の委託業務であり、その特権を乱用して不正を働くこと、不当に儲けて蓄財するのが当たり前でした。何故、ザアカイがこのように不名誉な仕事、自国民に嫌われる請負を選んだのかわかりません。背が低かったので劣等感があったからかもしれません。そんな彼がある日、予想外の仕方でイエス様に照らされたのです。大通りを通り過ぎるイエス様を一目見ようと、背の低いザアカイはイチジク桑に上り見下ろそうとしました。そんなザアカイを、イエス様が上を見上げて彼に呼びかけ、その晩、彼の家に泊まることを告げられました。その日、彼は我が家にイエス様を迎え入れ、光に照らされ変えられたのです。「しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰からでも、だまし取った物は、それを四倍にして返します。』」彼は自分の犯した不正の罪を示され、悔い改め、償いをすることを宣言することができたのです。ザアカイは、光に照らされる所に出てきたから幸いです。
聖書はヨハネ3章20節にこういう言葉があります。「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない。」私はゴキブリを連想しますね。ゴキブリは光を恐れますね。夜陰に乗じて活動するのです。ゴキブリ退治は本当に大変です。ゴキブリ人間にならないように気を付けましょう。闇を愛さず、光の方に来る、それが照らされるために必要条件なのです。自分で聖書を読み、聖書に聞くことが大切です。礼拝や教会の諸集会に参加して、神の言葉に傾聴する機会を作り出すことが大切です。光に照らされるとき、悔い改めに導かれ、十字架の罪の赦しを得て、罪過の闇は追放されることになるのです。
④ 死の恐怖の追放
真の光に照らされて死の恐怖が追放された証しが、国際ギデオン協会機関誌7月号に掲載されていました。興戸キリスト教会の佐々木扶実子さんの証し文を紹介しておきましょう。
「今から43年前のこと、その頃の私は、家族が亡くなっていくかもしれないという恐れで心がいっぱいの高校生でした。心を埋め尽くすほどの恐れは、中学生の頃の母の大病から始まりました。母は脳外科手術を受けました。その手術は成功したものの、母の意識は半年近く戻りませんでした。人口呼吸器の音だけがする母の病室で中学生の後半を過ごしました。その時にはっきりとこう考えたのを覚えています。『こんなにも近しく親しい人がある日突然、私の目の前から去る日が来るのだろうか。それまでの縁はどこに行ってしまうのか。いや、人は死んだら後どうなるのか。存在はそこで終わるのか。心は、、、魂は、、、』幸い、重い後遺症を残しながらも母は随分時間を経て退院することができました。しかし、この答えの無い問いはずうっと私の中で繰り返されていました。そんなとき、英語が好きだった高校生の私は、当時大きな総合大学で学生伝道活動をされていた「国際ナビゲーター」が開催していた英会話教室に通う機会を得ました。神様は『ここだよ』と連れて行ってくださったのだと思います。」佐々木さんは、その英会話教室で、若い米国人のゲアリー先生が、クラスの最後の10分間、英語で聖書の話を聞くことになります。そしてそこでイエス様の光に照らされる機会を得たのです。佐々木さんは続けてこう証しされます。「本当に不思議です。今でもあの時の部屋の空気感やゲアリー先生の声を思い出すのです。神様がずうっと人の魂や死について考え続けた私に、『答えはここにある』とゲアリー先生を通して聖書を通して語りかけられたのだと確かに思います。神様は聖書の御言葉を通して、悩みと恐れで心をいっぱいにしていた高校生を救いへと導いてくださいました。」と感謝されていました。死は恐怖の王です。最後の敵です。しかし、死への恐れは光によって追放されてしまうのです。
⑤ 迷いの闇の追放
真の光に照らされる恵みをもう一つ挙げておきましょう。人生は選択の連続であり、しばしばどの方向に進むべきか道に迷うものです。しかし、イエス様に照らされるとき、真の光に照らされるときに、導きの光を得るのです。イエス様はヨハネ12章35節にこう語られました。「闇の中を歩く者は、自分が何処へ行くのか分からない。」真っ暗闇に立つなら、自分がどこにいるのか、どこに向かっているかわかりません。激しい吹雪によって一寸先も見えなくなり、それでも歩いているとどうなるのか聞いたことがあります。自分では真っ直ぐに歩いているつもりでも、結果的には大きくぐるぐると堂々巡りをすることになるという話です。しかし光に照らされるときに道を見出すことができるのです。詩篇119:105節に語られている通りです。「あなたの言葉は私の足の灯、私の道の光」私はご存知のように来年4月で80歳を数えようとしています。こんな後期高齢者になって、自分の人生行路を振り返るときに、何のためらいもなく断言できることがあります。これまでの人生のあらゆる行程をイエス様によって光を照らされることによって、確かに導かれ生かされてきたことです。何回も証しすることですが、ウイーンで10年が経過し、来年には70歳を迎えようとするある日、祈る私を主は光で照らし、導きの確信を与えてくださいました。黙示録3章8節の御言葉をくださったのです。「見よ。私はあなたの前に門を開けておいた。誰もこれを閉じることはできない。」その結果、導き入れていただいたのが、この泉佐野福音教会であったのです。ここに今日、私が立って奉仕していること自体が、主が真の光として照らし導かれることの証しです。主は生きておられます。主は真の光、人を照らす光なのです。
Ⅲ.証される光
このように語らせていただいた上で、最後に皆さんに対して大切なメッセージがあります。それは、真の光なるイエス・キリストは、その主の前を行く先駆者を必要としておられることです。
今日の聖書箇所の冒頭6節に「一人の人が現れた。」とありますが、これはイエス・キリストのことではありません。「名をヨハネと言った。」これはバプテスマのヨハネのことです。皆さんは、バプテスマのヨハネと聞くとどんな人物像を連想されますか。大変重要な人物でしたから四福音書全部に記録されています。しかし、ヨハネ福音書はマタイ・マルコ・ルカと大分違いますね。マルコ1章6節によれば、ヨハネのなり振り外観はどうですか。「このヨハネは、らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。」ちょっと近づき難い雰囲気が感じられます。マタイ3章に残されているヨハネの語ったメッセージなど、どうでしょう。「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。」これまた近づき難い厳しい雰囲気が感じられます。ところがヨハネの福音書は彼についての別な大切な側面を紹介するのです。
① 光ではない
その第一の特徴が8節に、ヨハネは「光ではない」と言われています。光とはメシア、救い主のことです。ここに敢えて「彼は光ではない」と言われます。その当時、もしかしたらこのヨハネこそ神様が約束された救い主ではないかと考え、信じて従おうとする人々が結構いたからに違いありません。この1章の19節以降のところを見てください。ヨハネは人々から「あなたはどなたですか」と問われると、公言してはばからず「私はメシアではない」と答えています。更に、ならば何故洗礼を授けるのかと問われと、「私はその方の履き物の紐を解く値打ちもない」と答えています。更に、3章22〜30節では、弟子たちがヨハネにこう質問しています。「先生、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」それに対してヨハネはなんと答えたでしょうか。「あの方は必ず栄え、私は衰える」と答えています。これが第一の大切なポイントです。彼は光ではないのです。
② 光の証言者
では、このヨハネは一体誰なのでしょうか。何をするため神様から遣わされたのでしょうか。その答えは、7節です。「この人は証しのために来た。光について証しをするため」なのです。証しとは、証言です。見たり聞いたり体験して知っていることを、「こうでした」と人に伝え、それを聞いた人々が「ああそうなんだ」と知るようになる、それが証しです。単に詳しく調査し、事実関係を照合し、吟味して導き出した報告ではありません。この目で見、この手で触り、体験した事実が証言です。バプテスマのヨハネは、まさにこれから出現される救い主イエス様に先駆け、その証人となるよう神様に遣わされた人物です。
③ 証人の目的
そしてその証の目的が7節の後半です。「すべての人が彼によって信じる者となるためである。」ここにバプテスマのヨハネが浮き彫りにされます。ヨハネは光ではない。光について証言する人、その結果、人が信じるものとなる、そのため神に遣わされていた人物である、ということです。神様が人類救済のために、御子イエスを救い主としてこの世に遣わされました。神様は、この御子イエスの前に先駆けとなり証言するヨハネを必要とされたのです。ヨハネは、1章29節を見ると、自分の方に近づかれるイエス様を見ると、弟子たちに「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。」と証言しました。その翌日のこと、1章35節を見ると「見よ、神の子羊だ。」と証言しています。その結果、二人の弟子たちはその師であるヨハネを離れ、イエス様について行きました。その弟子の一人のアンデレは、イエス様と語り合った結果、今度はアンデレ自身が光の証人となりました。兄弟のペテロに証し、ペテロがイエス様に連れてこられたのです。ここに光の証人の連鎖ができました。真の光に関する証言を聞いた者は、それによってキリストを信じ救われます。その救われた者が、今度は他の人に対して証言する者とされるのです。
今日の礼拝後、午後二時から開催予定のクリスマス・コンサートとは、その光の証人の連鎖そのものなのではありませんか。私たち教会を構成する一人一人は、誰かから光の証言を聞いて信じ救われた者たちです。その信じた者の共同体である教会は、教会そのものがメシアではありません。光ではありません。光の証人なのです。コンサートのゲストとしてお立ちくださる北田康広さんは、逆境にめげず、真の光なるイエス・キリストに照らされて信じ、今日、真の光の証人として立たれようとしておられます。このバプテスマのヨハネの証言から始まる光の証人の連鎖が、更に拡大発展することを祈りましょう。私たちの証言によって他の人々が信じて救われるように祈りましょう。神様は、真の光であるイエス様の先駆者となることを必要とされたように、主は私を、皆さん一人一人をイエス様の先駆け、証人となることを求めておられるのです。
「人口知能と聖書」 ローマ16章25〜27節
神は、私の福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、代々にわたって隠されていた秘義を啓示するものです。その秘義は、すべての異邦人を信仰による従順へと導くようにとの永遠の神の命令に従い、今や預言者たちの書物を通して明らかにされ、知らされています。この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
第二アドベントの今日12月8日、聖書はローマ16章25〜27節を読みましょう。教会暦によれば、第二アドベントは昔から「聖書の日曜日」バイブル・サンデーとされてきました。ですから、今日は「人口知能と聖書」と題して語らせていただきます。何か新しい本を買った場合に、その読み方の一つには、先ず、最後の後書きを読んでから読むという仕方がありますね。今日お読みした聖書箇所は、16章からなるローマの信徒への手紙の最後の文です。この最後の3節は、原文では本来、一つの文章ですが、新しいこの聖書訳では分かりやすくするためでしょう、3節に区切っていますが、この非常に長い手紙の内容がぎっしり凝縮されていることが分かります。使徒パウロは、この手紙の最後を「神は、私の福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。」と書き出しており、ローマ教会の信徒の兄弟姉妹たちを強めたい、力づけたい、励ましたいと願って、この手紙をしたためたことが分かります。
1.力づけの必要
イタリアの首都ローマは、当時の大ローマ帝国の政治の中心地でした。そこには無名のクリスチャンによって自然発生的に大小様々な教会が誕生していたことが分かっております。ローマは政治中心地であるばかりか、文化の中心地でもありました。世界中のあらゆる思想と宗教が流れ込み、複雑に絡まり渦巻いていました。帝国の首都であるため、ローマは人種のルツボでもあり、教会はローマ人ばかりか多種多様の人種で構成され、そこにはユダヤ人のクリスチャンもいたに違いありません。それゆえに、ローマ教会は様々複雑な問題に直面していたのです。ローマの教会の信徒達は、強大な政治権力、多種多様な宗教と文化、この世的で乱れた道徳の只中で、健全な信仰に生きるために、助けと力づけを必要としていたに違いないのです。ですから、使徒パウロは、この手紙の挨拶で、「あなたがたに会いたいと切に望むのは、霊の賜物をあなたがたに幾らかでも分け与えて、力づけたいからです。」(1・11)と手紙を書いた動機を語っています。パウロは困難な問題に直面するローマの信徒たちを励まし、強めたいとこの手紙を書きしたためたのです。25節で「あなたがたを強めることがおできになります」と訳された言葉の「強める」は、人を力づけ、人を硬く立たせることです。人が苦難に直面するとき、試練に遭遇するとき、罪の誘惑にそそのかされようとするとき、異端的な教えにぐらつくとき、生活上の様々な思い煩いや心配に悩まされるとき、それを乗り越える力づけが必要です。強くしてくれる何かが必要です。自分を硬く立たせてくれるものが不可欠なのです。使徒パウロは、この手紙の最後に、はっきり断言して、こう言い切りました。「神は、あなたがたを強めることがおできになります。」
先週の日曜の夕方、メイルを見れば、北海道北見市のH牧師から、その日の朝の礼拝で語られた奥様の証しの動画が送られていました。11月のいつでしたか、私の長男で北陸の松任で牧師をするJ牧師から、H牧師夫人が入院されていると聞いて、H先生に問い合わせていました。その結果、奥様は、年初めに体調不良のため4月に脳ドック検査を受けられ、医師に脳腫瘍だと診断され、そればかりか、精密検査の結果、肺腺癌も見つけられ、そこで先ず脳腫瘍手術を受けられたことが分かりました。そして、H牧師は、その届いた動画に添えて、先月末に奥様に一時帰宅の許可が出たため、1日の礼拝で証しに立たれたその動画だと説明されていました。私は、その奥様の証しを聞いて、それはそれは切ない辛い試練を通られたのだと、つくづく思い知らされました。頭部の開頭手術を受け、その後はドレンやパイプが何本も取り付けられ、その一つでも手で抜けば命取りになるため、両腕がベッドに縛られる地獄を経験されたとのことでした。初めから分かっていたら、断ったかもしれないと言われるくらい辛い苦痛であったようです。しかしながら聞いていて、非常に感動させられたのは、そのような地獄のような経験の最中に、奥様が神様によって力づけられ、強められ、励まされて耐え抜くことがおできになられたことでした。奥様は詩篇23篇の4節を病床で思い起こされ、それによって神様から力づけられたと証しされたのです。「たとえ死の陰の谷を歩むとも、私は災いを恐れない。あなたは私と共におられ、あなたの鞭と杖が私を慰める。」脳腫瘍手術、それはまさに「死の陰を歩む」死を予感させる、恐ろしく心を暗くする経験です。それでもそれに耐える力を奥様は神様からいただくことができました。「神は、あなたがたを強めることがおできになります。」そうです。神様は人を助け、支え、強めることがおできになります。ローマ教会を励ますこのメッセージは、今日、私たちに語られているメッセージでもあります。今を生きる私が、あなたが、今日、どんな苦境に立たされていたにせよ、神様があなたを助け、力づけ、強め、硬く立たせてくださることに変わりはありません。
Ⅱ.力づけの媒体
では、神様は苦難や試練や思い煩いに遭遇する人をどのように、何によって力づけ、強めてくださるでしょうか。使徒パウロは、手紙を書き続けた最後に、はっきり明瞭に「神は、私の福音によって、あなたがたを強めることがおできになります。」と断言しました。神様が人を力づける媒体、それは福音なのです。ユアンゲリオン!グッドニュース!です。福音とは喜ばしい、良い知らせです。福音によって神様は力づけられるのです。
① 秘義の啓示
この人を力づけるのに神様が用いられる福音が何かを、パウロはここに三つ挙げています。その第一、それは秘義の啓示です。「この福音は、代々にわたって隠されていた秘義を啓示するものです」この啓示の原語はアポカルプシスで、その意味は、覆われたものを取り除くということです。この秘義の原語はムステリオンで、ミステリーの語源でもあり、奥義とも訳される言葉です。代々にわたって隠されていたが今は開示された奥義・秘義とは一体何でしょうか。それは、イエス・キリストなのです。イエス様が秘義であり奥義なのです。それは、パウロが手紙の冒頭ですでに、1章2〜5節に語ったことです。「この福音は、神が聖書の中で預言者を通してあらかじめ約束されたものであり、御子に関するものです。御子は肉によれば、ダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば死者の中からの復活によって、力ある神の子と定められました。この方が、私たちの主イエス・キリストです。」そうです。福音とは、神様が人間を罪から救うために、御子イエス・キリストを、救い主として遣わされたことです。私たちがクリスマスにお祝いしようとするのは、この御子イエス様がお誕生されたからです。この福音が人を力づけ強めるのです。使徒パウロはですから、1章16節でこう語っています。「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。」福音は神の力なのです。なぜなら、イエス様が人を救うことができる、この方によって力づけられるからです。
② 信仰の従順
神様が人を力づけるのに、福音を用いるのは、この福音がイエス・キリストを信じる者を信仰による従順に導くことができるからです。信仰とは聞くことにより、聞くことはキリストの言葉によるものです。イエス・キリストについて語られる福音を聴くことによって、何故か人は不思議と信仰が呼び起こされるのです。何年か前に、ライフラインを関西に放映する近畿放送伝道協力会の代表の方が、礼拝で証しされたのを私は忘れられません。彼はトラック運送業のドライバーでした。その日その時、彼は何故か落ち込み非常に暗い気持ちでトラックで荷物の運送をしていました。ところが何気なくラジオのスイッチを入れると、そこから流れてきたのは、世の光放送の羽鳥明先生の語る短い福音メッセージであったのです。彼はそのラジオ放送を通じて語られたイエス・キリストの福音を聞きながら涙ながらに感動し、運転しながらイエス様を救い主として信じる信仰を告白したと言われるのです。本当に不思議な体験です。素晴らしい経験です。トラック運転を終えて事務所に戻ったときには、彼は全く明るく変えられ、顔つきまで変わっていたそうです。事務所の代表の方が、思わず「どうしたんだ」と尋ねた程でした。彼は福音を聴き、信じた結果、神に強められ、明るさを取り戻されたのです。その上、信じたばかりか、主に従う道に導かれ、教会に通い、献身し、牧師となり、今では放送伝道に貢献され、活躍されておられるのです。
③ 聖書の明示
福音について第三に言えることは、神様がこの福音を聖書によって人に明らかに知らされることによって、人を強め、力づけられることです。26節をご覧ください。「その秘義は、今や預言者たちの書物を通して明らかにされ、知らされています」ここで「書物」とは原語で「書く、描く」を意味するグラフェが使用されています。このグラフェが聖書の中で使用される場合には、これ全てが聖書を意味して用いられています。さて今日、説教題を敢えて「人口知能と聖書」としたのは、人口知能・A I が、今や時代の最先端に飛び出し、あらゆる領域で期待され活用されはじめているからです。私が仕事で使っている27インチの大型のマックのパソコンを購入してからもう5年が経過しました。購入して3年を過ぎるといつ機能停止になるか分からないと言われているので、最新の機種を最近購入することにしました。その機種名がアップル・インテリジェンスなのです。来年春頃から日本語に対応する A I を、ダウンロードすることができるようになるとの触れ込みで売り出されました。ご存じでしょうか、人口知能ブームが戦後 3 回あったと言われます。第一次は1956〜70年代、第二次は1980〜95年代、そして2010年から第三次ブーム時代に入ったと言われるのです。今では、入力されたデータを元に、コンピューターが自ら特徴量を導き出すことができる深層学習、これを英語ではディープランニングと言うのですが、囲碁や将棋でも使われ、自動車の自動運転、ロボット、医療診断に応用されるようなっているのです。この A I を使用するソフトを使えば、どんな問題でも提示すれば、回答が出されるのです。文章で回答することもあれば、相互コミュニケーション方式の音声で回答されもします。
教会から泉佐野駅に行く途中に、かなり広い芝生の広場が広がる場所があります。そこの小さな看板に「自動芝刈実演中」とあり、そこには小さな芝刈機が置いてあります。この芝刈り機に A I が搭載され、人が居なくても範囲を認識し、自由自在に行き来して芝を刈り込むのです。ですから、いつ通っても綺麗に見事に芝が刈り上げられていることが分かります。大したものだと感心しています。テレビのある A I を紹介した番組では、89歳になる高齢の独り住いの婦人が、「この小さな A I がそばにあるので寂しくありません。本当に助かっています。」とニコニコ語っていました。そしてこの老婦人は、台所に立ち、野菜を茹でるのに、A I に向かって「オーケーグーグル!野菜を茹でるけど、温度は何度がいいかしら?」と呼びかけるのです。すると「茹でるには160度から180度がよろしいでしょう。」と A I が音声で回答するのです。確かに科学技術の進歩発展は目覚ましいものがあります。では、この A I によって人は間違いなく必要とする心の力づけ、励ましを得ることができるというのでしょうか。答えは「N O」です。人間が作り出したもの、人工的なもの、それはすべて、生活に必要な手段であり道具であり、人の本質的な心の必要に応えることのできるものではありません。
人間を定義する言葉にホモを使った定義があるのをご存知でしょう。有名なのはリンネがつけた定義でホモサピエンス、英知人です。他の動物とは違い人間は知性・知能が発達した生き物だというのです。ホイジンガーがつけた定義は、ホモルーデンスで、遊戯人です。人間だけが遊ぶことを知っているというのです。フランクルは人間を定義し、人間とは苦悩するものだ。だからホモペーシエンスと名付けました。もう一つ挙げればベルクソンが付けたホモファーベルがあります。これは工作人という意味です。人間は与えられた素材から想像して、何かしら必要な道具を作り出すことができる生き物だと言うのです。私は本当に人間とはホモファーベル・工作人だと思いますね。
私が教会に通い始めた頃、週報などはガリ版印刷でしたね。牧師が「高木君、やってみないかね。」と高校生だった私に頼まれ、それから毎週、鉄筆でロウ紙にヤスリ版の上で字を切りこみ、手を真っ黒にしながらインクで仕上げる作業をしたものです。そんな私が牧師になって40歳近くのこと、簡易和文タイプを10万円で購入し悦にいってました。もう手を汚す作業はしなくて済むぞと。ところがどうでしょうか、一年後には最初のワープロが発売されたのです。それが普及するかと思えば、今度はパソコンが開発され発売され始めたではありませんか。そして見る見るパソコンは進化し、驚くばかりの機能を搭載した機種が出現しているのです。しかし、人間が作り出したものはどこまでも道具でしかありません。どれほどの超高速計算機に、無尽蔵の過去のデータを入力し、精巧な回答を導き出すことができたにしても、それが人の心を強め、力づけ、硬く立たせることはできないのです。
神様が人を強め、力づけ、硬く立たせるのは、福音であり、福音は御子イエス・キリストを啓示するものであり、福音を聞いて信じる者に、神様は力づけることがおできになるのです。これは教会が、福音を宣べ伝え、神様を礼拝するのに、A I を活用することを禁止したり、不要だと言うことでは全くありません。考えてください。モーセの十戒はシナイ山頂で、石に刻まれました。40年の荒野の旅路では、人手による幕屋で礼拝が営まれ、ソロモンは7年もかけて壮麗な神殿を建て、礼拝が捧げられました。預言者に語られた神の言葉は、そのままでは消えてしまったことでしょうが、パピルスや羊皮紙に書記が書き留め、写本が残されたので聖書の基礎ができました。15世紀に至ってグーテンベルグが印刷技術を発明したので、メディアに革命が起こりました。大量に聖書が印刷できるようになったので、ルターによる宗教改革は大きな力を得ることになりました。今現在の私たちの礼拝堂を見てください。我々人間の手により作り出された製品で満ち溢れているではありませんか。教会堂もピアノも音響設備も然り、全てが人間の作り出した道具です。私自身も説教の準備には、今現在、パソコンは不可欠な道具となっています。そこには聖書ソフトが入っており、検索はできるし、コピーすることができる、40年前には考えられない便利さの中で奉仕が可能とされているのです。そうではあっても、作り出した道具によってどんなに便利になっても、人間の本質的な必要に答え、私たちが弱り、苦しむときに、力づけ、強め、硬く立たせてくださるのは、生ける知恵のある真の唯一の神様だけなのです。テモテ第二3章16節にはこう記されています。「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。」ここに AI と聖書の決定的な違いがあります。AI はこれまでに入力された膨大なデータの蓄積から、コンピューターが機械的に必要な回答を作り出すものですが、聖書は、生ける神様、しかも全知全能の人格ある神が、聖霊によって書き留めさせられた書物なのです。その聖書から御子イエス・キリストが解き明かされるときに、神様はそれによって人を強め力づけられるのです。
Ⅲ.力づけの成果
そのように聖書によりキリストの福音により、人が力づけられるとき何が起こりますか。
① 福音の個人化
それを私はここで「福音の個人化」と呼びます。何故なら使徒パウロがここ25節で敢えて単に福音と言わずに「私の福音」と語っているからです。パウロがここで「私の福音」と言う時、それは、パウロ一個人が実際、具体的に神様からこの福音によって救われ、助けられ、強められ、硬く立たせていただいている、ということを意味しています。キリストの福音が個人に体験され、実証されていることです。あの福音、この福音ではありません。誰かの福音、他人事ではないのです。だからこそ、使徒パウロはテモテ第一1章12節からこう言うことができたのです。「私を強めてくださった、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。主は、私を忠実な者と見なして、奉仕の務めに就かせてくださったからです。私は、かつては冒瀆する者、迫害する者、傲慢な者でしたが、信じていないときに知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。私たちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛と共に満ち溢れたのです。『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です。」だからこそ、パウロは1章16節で「私は福音を恥とはしません」とも言えたのではありませんか。
② 福音の宣教化
神様によって強められるその成果を更に言えば、それを私はここで「福音の宣教化」と呼びます。何故なら、使徒パウロがここで「神は、私の福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。」と語るからです。パウロはダマスコ途上でキリストの顕現に預かり、光に打たれ、救いに入れられましたが、このキリストを宣べ伝えないわけにはいきませんでした。福音が個人化され経験されると、それは宣教化に繋がるのです。自分の罪深さを示され、十字架の罪の赦しを通して神の愛に触れた者は、他の人々に宣べ伝え、証しないわけにはいかないのです。
来週15日のクリスマス・コンサートには盲目の福音歌手、北田康広さんをお招きしています。ゲストの北田康広さんのプロフィールを読むと感動ですね。そこを紹介しておきましょう。「未熟児網膜症で生まれ、医者の不手際により5歳で失明した。医者に治らないと宣告されても諦めきれない母親は、息子の目が見えるようになるならと、ありとあらゆる宗教にすがり、お金を注ぎ込んでいく。一方、父親は養鯉業で一攫千金してからはお金の亡者になっていく。毎晩飲んで帰っては罵声を上げる父と母の悲鳴。幼少時の北田は押入れで震える毎日。そして10歳の時、母親は無一文で追い出され、すぐに継母が家に入り込み、いびりが始まった。6歳で盲学校に入学、13年間の寮生活を送る。心の鬱憤を音の出るあらゆる楽器にぶつける毎日。音楽だけが友達だった学生生活。いつも苛められた苦い過去。「自分だけがどうして…」ぶつけるところのない苛立ちばかりが募る孤独な日々を過ごした。しかし、高校入学と同時に転任してきた吉村先生がいち早くその音楽の才能を見出し、しかも生徒としてではなく、一人の対等な人間として語りかけ、親身に耳を傾け、音楽をもっと伸ばすことを勧めてくれた。そこで得た自信と自己肯定が一つのターニングポイントとなり、暗く閉ざされた心に希望の光が差し込むのを感じた。」この盲学校で出会った吉村先生が実はクリスチャンだったのです。第二のターニングポイントを彼はこう語ります。
「徳島県立盲学校から全盲学生として初めて、武蔵野音楽大学ピアノ科に入学する。初めて、見える者ばかりの世界を経験し、自分の目が見えないことを本当の意味で実感した。暗闇のどん底に突き落とされたような無力感と挫折感に打ちのめされたその時、第二の運命的な出会いを迎えた。入学試験の時に一緒になった年上の視覚障碍者、新垣 勉さんとの出会いである。共通点の多い境遇、そして音楽が2人を強く結びつけていった。」この新垣さんがやはりクリスチャンであったのですね。北田さんは、吉村先生、新垣さんから福音を聞かされ、キリストとの出会いに導かれたに違いないのです。その結果、福音が北田さんにとって「私の福音」となったのです。その結果、福音の宣教化とならざるを得ませんでした。今、まさに、当教会まで出向いて賛美を歌い、キリストの福音を証言されようとしているのです。
③ 福音の栄光化
そして、神様に強められた者は、礼拝において神様を賛美し、神様に栄光をお返しし、礼拝するものにされるのではありませんか。福音が栄光化することになるのです。使徒パウロは、ローマの手紙をここまで書き続け、最後に、こう結ばざるを得ません。「この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」こうして、パウロは手紙を 神を褒め称える頌栄で閉じます。宣べ伝えられたキリストの福音に預かり、心の深みから神様によって力づけられ、強められ、硬く立たされた者は、神を礼拝し、神様に栄光を返さないわけにはいかないのです。私たちも、今日、この第二アドベントの礼拝において、栄光・尊厳・威光・誉れ・賛美と力を主にお返ししましょう。
12月1日礼拝説教(詳細)
「剣を鋤に槍を鎌に」 イザヤ2章1〜5節
アモツの子イザヤがユダとエルサレムについて幻に示された言葉。
終わりの日に、主の家の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって川の流れのようにそこに向かい、多くの民は来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。主はその道を私たちに示してくださる。私たちはその道を歩もう」と。教えはシオンから、主の言葉はエルサレムから出るからだ。
主は国々の間を裁き多くの民のために判決を下される。彼らはその剣を鋤にその槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げずもはや戦いを学ぶことはない。
ヤコブの家よ、さあ、主の光の中を歩もう。
聖書は旧約イザヤ2章1〜5節をお読みします。1ヶ月ほど前、あるお店に入った妻が買い物袋を手に、目を輝かせて出てきました。「いいものを見つけたわ。クリスマス・カレンダー箱よ。」それには、色々と楽しい仕掛けがあり、 日付のところが開けられるようになっていて、その中にチョコレートやキャンディー、レゴブロック、おもちゃ、コスメなどが入っていたり、聖書に出てくる御言葉が書いてあったりするのです。子供向けのクリスマスのお楽しみグッズです。うちには小さい子供がいませんから、誰のために妻は買ったのでしょうか。もしかしたら夫の私のためかもしれません。教会のクリスマス・カレンダーによれば、毎日ではありませんが、1日の今日、午後にはキッズワイワイのクリスマス・フェスティバル、15日にはクリスマス・コンサート、18日にはキャンドル・ナイト、そして22日にはクリスマス礼拝とクリスマスお楽しみ会が軒並み予定されています。
クリスマスはキリストの御降誕を待ち望みお祝いするお祭りなのです。ですから、私たちはまた同時に、この季節、キリストの再臨を待望するのを、私たちは常とするのです。何故キリストの再臨を待望するのでしょうか。キリストは平和を造り出すためにお生まれになりました。その平和が完成するのがキリストの再臨によるからなのです。預言者イザヤはその時何が起きるかを予見し、こう語っています。「主は国々の間を裁き多くの民のために判決を下される。彼らはその剣を鋤にその槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦いを学ぶことはない。」
1.前を見る
イザヤは紀元前750年頃から 50 年も長く活躍したイスラエルの預言者でした。この預言者イザヤの書には、1章1節によればイザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻が書き記されています。1章1節で「イザヤが見た」という言葉と、2章1節で「イザヤが示された」とある「示され」と「見た」は全く同じ言葉「ハーザー」です。これはイザヤが目撃した事実が書き留められた預言書であるということです。古い昔には、預言者は予見者とも呼ばれていました。預言者は、神によって予め見せられた事柄を語り出すのがその務めであったのです。では、預言者イザヤがここで何を見せられたのでしょう。その2節は「終わりの日に」で始まり、彼の見せられたものが語られています。この「終わりの日に」とここで訳される言葉を直訳すると「日々の後ろ側で」となります。これによって分かることがあります。それはヘブライ人が、過去を自分の前に置かれたものとして見、未来は自分の後ろにあるものとしていたということです。私たちは違いますね。その逆です。私たちは過去を後ろに置き、未来を前に見ようとします。ヘブル人は違うのです。
① イスラエルの争乱
先ず、預言者イザヤがその目で、自分の前に目撃したもの、それは、神の民の悲惨な過去の歴史の顛末(てんまつ)でした。イザヤは、イスラエルが凶悪な外敵に包囲され、まさに滅ぼされようとする有り様を目の当たりに見てきました。彼が活動し生きた時代は、内外激動の時代でした。北方からは、獰猛(どうもう)残忍なアッシリアが世界帝国を目指して攻め寄せ、722 年には北イスラエルが滅ぼされてしまいました。その勢いでアッシリアは南ユダ王国にも押し迫り、701年には、ヒゼキヤ王もすんでのところで滅ぼされるところでした。そればかりではありません。預言者イザヤが見せられたのは、神に選ばれた民であるはずのイスラエル・ユダヤの呆れ果てるような堕落ぶりでした。イザヤはそれを1章4〜6節に言葉を極めて糾弾し、こう語っています。「災いあれ、罪を犯す国、重い過ちを負う民、悪をなす者の子孫、堕落した子らに。彼らは主を捨てイスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。なぜ、あなたがたは再び打たれ、背き続けようとするのか。頭はどこも傷つき、心は全く弱り果てている。足の裏から頭まで、健やかなところはなく、生傷、打ち傷などの傷は膿も出されず、包まれず、油で和らげられることもない。」預言者イザヤが見せられたのは、瀕死の重症の民でした。
② 全世界の争乱
では、イザヤの時代から2700年も後の世界の有り様を、今を生きる私たちはどのように見ているでしょうか。もちろん、世界の複雑怪奇な歴史を一言で総括することなど、到底できるはずもありません。しかし、それでも私たちは、イエス様が世の終わりのしるしについて語られたあの言葉を思い出さないでしょうか。マタイ24章6節に記された言葉です。「戦争のことや戦争の噂を聞くだろうが、慌てないように注意しなさい。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。」
18世紀後半からイギリスで産業革命が始まり、蒸気機関を原動力とする機械制工場が出現し、工業生産力が格段に増大し始め、世界経済が変化することにより、19世紀に人々は世界の未来が薔薇色に見えてきたと言われています。ところが、どうでしょうか。20世紀に入った途端に、第一次世界大戦が勃発する、それが終わるか終わらぬか30年も経たないうちに、今度は第二次世界大戦に突入してしまいます。薔薇色に見えた世界観は、あっけなく吹っ飛んでしまいました。第一次大戦では、1000万人が戦死し、2100万人が負傷しました。第二次大戦では5000万人が戦死し、日本は310万人が戦死しています。それから80年近い歳月が経過した今現在はどうでしょう。危惧されているのは、下手をすれば第三次世界大戦に突入するのではないかという恐れではないでしょうか。
長崎大核兵器廃絶研究センターによれば、世界9カ国の核保有国が持つ核弾頭の概数が1万2120 発になったと発表されています。各国政府の公表資料などをもとに、米国(5044)、ロシア(5580)、中国(500)、インド(170)、北朝鮮(50)です。配備済みや配備に備えて貯蔵されている現役核弾頭は 9583 発で、6年間で3・6%増加したと言われています。最近のウクライナ情勢によれば、ロシア軍に北朝鮮兵士が参戦したことを受けて、ウクライナからロシア国内向けに、射程距離300キロのアメリカ製ミサイル「ATACMS」が発射され、それに反応したロシア政府が、「核使用のハードルを下げる」と警告してきました。核保有国であるアメリカやイギリスがロシア国内にミサイル発射を容認するなら、ロシアへの参戦と見做すと言うのです。ロシアによる核の脅かしは、これまで何回も繰り返されてきたため、本気で核使用に踏み切ることはないだろうと予測する向きもあります。しかし、今後の成り行き次第で、どうなるかは、不透明なままです。私たちは、もし核で核に対応するような戦争に突入すれば、取り返しのつかない人類絶滅となることを知っているのです。
③ 日本の争乱
では、私たちが日本に見るのは何でしょう。非戦論をうたう憲法九条を掲げつつ、世界でも有数の軍事力を増強してきているという事実ではありませんか。今年度の防衛予算は8兆9千億円であり、G N P比率 1.6%です。今、本気で比率を2%に上げることが検討されています。来年米国にトランプ政権が誕生すれば、一層、その傾向が強化されることでしょう。トランプは必ず、日本の防衛はアメリカにおんぶするのではなく、自国の防衛は自国で賄えと言ってくるに違いないからです。ご存知のように台湾を巡る中国の動きや、独裁色を強め、ミサイル発射実験を続ける北朝鮮の脅威によって、日本を巡る東アジアには非常な緊張の高まりが発生しているのが現状なのです。
Ⅱ.後ろを見る
ところが今日、私たちは全く見ることができず、予測し難い未来を、今日のこの聖書の言葉によって、垣間見ることが許されていることを知るのです。紀元前700年前の激動のイスラエルにおいて、預言者イザヤは、過去の争乱の現実を自分の目の前に認めつつ、神からの霊感を受け、未来を幻の中に見せられているのです。イザヤはここで恐らく自分の後ろに、すなわち未来に起こる三つのことを、主によって見せられたに違いありません。
① 近未来的出来事
その幻に、イザヤは第一に、近未来的な出来事として、南ユダ王国がアッシリアに勝利して、平和を獲得することを見せられたことでしょう。列王記下18、19章には、当時まだ若い王ヒゼキヤが、アッシリアの王センナケリブの大軍に、首都エルサレムを包囲され、窮地に陥った大事件が記されています。その時、神に信頼して祈るヒゼキヤ王は、全く不思議な仕方で、アッシリアのセンナケリブ王の大軍に勝利する体験をさせられました。何と包囲していたアッシリア軍に天使の軍勢が襲いかかり、185、000人が撃ち殺されてしまったというのです。イザヤが2章4節で「主は国々の間を裁き、多くの民のために判決を下される。」と語った預言が成就したとみて間違いありません。
② キリストの平和
イザヤは更に、それから700年も後に起こる出来事、すなわち、神の御子イエス・キリストの到来によって実現する平和を、その幻に見たに違いありません。私たちは、このイザヤ7章14節にあるメシア預言をよく知っていますね。「それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」私たちはこのイザヤ9章1節にあるメシア預言をもよく知っていますね。「闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝いた。」この光はメシアなるイエス・キリストのことです。私たちは、イザヤ9章5節の預言も知っています。「一人のみどりごが、私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた。主権がその肩にあり、その名は『驚くべき指導者、力ある神永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」これはメシア預言の典型です。御子が人として乙女マリアから生まれた目的は、ただ一つです。それは、十字架の死と復活により、人間に罪の赦しを与えることによって、神との平和を得させることです。ローマ5章1節はこの事実がこう語ります。「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。」人は、罪の故に神に背を向け、神との敵対関係にありました。しかし、キリストを信じる者は誰でも、神と和解し、神との間に平和が構築されるのです。その結果、神との和解により神と平和の関係に入れられた者は、人と人との平和のために用いられることになるのです。
③ キリストの再臨
預言者イザヤが、第三に幻に見せられたのは、近未来に起こる出来事、そして700年後のキリストの来臨、更に世の終わりに臨んで再臨されるキリストの姿なのです。2章4節の「彼らはその剣を鋤にその槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げずもはや戦いを学ぶことはない。」これは、イエス・キリストが約束された世の終わりの再臨によって実現される驚くべき出来事の預言です。
ご存知でしょうか。この言葉は現在、ニューヨークの国連本部の広場の壁に刻み込まれている文章と全く同じです。長い間、この言葉の引用が明記されていなかったため、1945年に国連の創設者たちが考えだしたものとみなされてきました。ところが1975 年に、この言葉の下にイザヤという名前が彫り込まれた結果、聖書の引用であることが明らかにされたのです。
しかし、第一次、第二次世界大戦の悲惨な経験から、世界平和建設を目的に創設された国際連合によって、この預言の言葉が少しでも現実化したと言えるでしょうか。2017年には、将来的な核兵器の全廃へ向け、核兵器を包括的に法的禁止とする初めての国際条約として、「核兵器禁止条約」が国連総会で採択されました。2024 年のノーベル平和賞には、被爆者の立場から核兵器廃絶を訴えてきた日本原水爆被害者団体協議会が受賞することになりました。しかし、そのような平和的努力によって、この預言は実現に近づいているでしょうか。悲しいかな、現実は、いよいよ各国共々に軍備拡張を図らねば国家の防衛は困難であると、防衛予算を増やす政策が主流なのです。
2章4節の預言は、ただイエス・キリストの再臨によってのみ完全に実現成就される平和の希望なのです。イザヤ11章6〜9節を読みましょう。「狼は小羊と共に宿り豹は子山羊と共に伏す。子牛と若獅子は共に草を食み、小さな子どもがそれを導く。雌牛と熊は草を食みその子らは共に伏す。獅子も牛のようにわらを食べる。乳飲み子はコブラの穴に戯れ乳離れした子は毒蛇の巣に手を伸ばす。私の聖なる山のどこにおいても、害を加え、滅ぼすものは何もない。水が海を覆うように、主を知ることが地を満たすからである。」これは主イエス様が来臨されることにより全地に実現する平和を象徴する預言です。キリストが再び来てくださることによって、完全な平和が必ず実現成就することになるのです。 Ⅲ.光に歩む
それゆえに、イザヤは目前の国内外の危機的な状況の只中で、平和の到来を告げ知らせ、ですからその最後に、私たちに勧告して、こう呼びかけるのです。「ヤコブの家よ、さあ、主の光の中を歩もう。」何と素晴らしい励ましの呼びかけでしょうか。過去に捉われている私たちを、また未来の展望を見せられる私たちを、現在に引き戻してくれるのです。そして、今を生きる私たちを実際的な行動へと向かうよう促しているのです。ヤコブの家とは、イザヤの生きた時代の神の民、イスラエルであり、それはまた、イエス様を信じた私たち教会のことです。現在を生きる私たちに「主の光の中に歩め」と促すのです。
① 主に従うこと
「さあ、主の光の中を歩もう。」これは第一にイエス様に従う決意を固くすることです。主は言われました。「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」(ヨハネ8章12節)「私に従う者」とは、イエス様を自分の主と信じる者です。大切なことは、イエス様を信じて従うことです。心で信じ、口で告白して救われます。そして、主にお従いするのです。使徒ペテロが昼 12 時の祈りをしようとした時でした。彼は空腹で祈りが眠りに移行してしまいます。お祈りがお眠りになったのですが、天からの幻に、籠に入れられた動物を屠って食べるよう命じられました。ところがペテロは何と答えたでしょう。「主よ。それは私にはできません。」ユダヤ人として汚れた動物を食べられませんと断ったのです。しかし、その答えは矛盾でした。彼はイエス様を「主よ。」と呼び、かつ「できません」と断ってしまったのです。イエス様が主であるなら従うことが正解です。あなたはいかがですか。イエス様に生活の隅々までお従いしようと心に決めておられるでしょうか。
② 闇から離れる
「主の光の中を歩む」とは、闇から離れることでもあります。エペソ5章8節に「あなたがたは、以前は闇でしたが、今は主にあって光となっています。光の子として歩みなさい」と勧告されています。そして具体的に7節で「彼らの仲間になってはなりません。」と勧告されます。闇の仲間のことです。闇の仲間とは空しい言葉で付き合う仲間のことです。3、
4節にこう勧められます。「聖なる者にふさわしく、あなたがたの間では、淫らなことも、どんな汚れたことも、貪欲なことも、口にしてはなりません。恥ずべきこと、愚かな話、下品な冗談もふさわしくありません。むしろ、感謝の言葉を口にしなさい。」どんな言葉を聞き、どんな言葉を語るかによって、人は影響されるからです。
③ 平和を造り出す
最後に「主の光の中に歩む」とは、平和を願い、平和を祈り、平和を造り出すことです。主は、マタイ5章9節の山上の垂訓で「平和を造る人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」と教えられました。平和を造る人は世の光を信じた光の子たちです。主はその14節で「あなたがたは世の光である」と弟子たちに呼びかけられました。その上で16節に「あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである。」と命じておられます。
先週の日曜のライフライン友の会のことです。放映された番組で証しをされたのは株式会社アシェルの女社長の岩崎多恵さんでした。ずいぶん以前に「地下足袋をハイヒールに履きかえて」という証しの小冊子で私は存じ上げていました。奈良県吉野山の田舎育ちの岩崎さんの人生は、文字通り波乱万丈です。高校3年の時、平和であった家族に突然、危機が到来しました。会社を経営していた父親が友人の多額の借金の保証人となり、その友人が逃げたため借金返済の義務を負わされてしまったのです。その総額は相当なものでした。家族会議が開かれ、「このまま夜逃げするか、借金を皆で返済するか、どちらかだ。」と父に言われた結果、家族全員で働いて返済することを決めます。多恵さんは17歳の高校生でしたが、バイトとして建築現場で地下足袋を履いて働き、借金返済に協力したそうです。そして到頭、さしもの高額な借金も払い終えることができます。ところが、そこに再び危機が家族を襲いかかりました。お父さんを残して旅行していた最中に家が火災を起こし、父が全身3分の1の大ヤケドで瀕死の重症で入院してしまったのです。それが九死に一生で何とか助かるのですが、それから1年4ヶ月後に父は、脳溢血で亡くなってしまいました。その葬儀が教会で行われたときでした。お父さんの人徳を慕った350人以上の会葬者で会場はいっぱいでした。その葬儀の最中です、棺に付き添い泣きっぱなしで、火葬場まで着いて行った一人の男性がいました。それは、父があの多額の借金の保障をした人物だったのです。多恵さんは証言して語られました。お父さんは、全額返済を済ませた後、彼を探し出し、そして彼に言ったというのです。
「もう借金は全額払ってある。そして君を私は赦している」と。多恵さんの父親もイエス様を信じて洗礼を受けたクリスチャンであったのです。キリストによって神との平和を得ていた父親は、酷い仕打ちをした友人の代わりに借金を払い、払ったばかりか、彼を赦し、彼との間の平和を作り出しておられたという、これは素晴らしい証しなのです。
今日に至る長い人類の歴史と世界の現状は、人間の善意による努力によっても、破壊と悲惨の連続です。そのような現実に生きる私たちに、今日、聖書を通して、主は未来に希望が確かにあることを確証しています。「主は国々の間を裁き多くの民のために判決を下される。彼らはその剣を鋤にその槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げずもはや戦いを学ぶことはない。」その希望をしっかりと心に深く受け止め、主の光の中を歩むことにしましょう。「ヤコブの家よ、さあ、主の光の中を歩もう。」クリスマスの祝いも近い、新しい今週、1週間を光の子として平和を造るため歩み、進んで行きましょう。
泉佐野福音教会
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