1月19日礼拝説教
「口に甘く腹に苦い」 黙示録10章8〜11節
すると、天から聞こえたあの声が、再び私に語りかけて言った。「さあ行って、海と地の上に立っている天使の手にある、開かれた巻物を受け取りなさい。」
そこで、天使のところへ行き、「その小さな巻物をください」と言った。すると、天使は私に言った。「それを取って食べなさい。それは、あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い。」
そこで私は、その小さな巻物を天使の手から受け取り、すべて食べた。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると腹には苦かった。そして、私に語りかけるのを聞いた。「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて預言しなければならない。」
パトモス島に迫害され流刑のヨハネは、第六と第七のラッパの鳴る間に、幕間劇のように海と地をまたぐ巨大な天使の姿を見せられた。その手に持つ小さな開かれた巻物を、天使から受け取ったヨハネはそれを食べると、口には甘く腹には苦かった。パピルスの茎筋から作られた巻物の原語はビブロスであり、英語のバイブルの語源でもある。表裏に文字の記述された巻物は、神の言葉、すなわち聖書に違いない。
天使の手から巻物を受け取るべき理由は、「もはや時がない」と言う天使の神への誓いに込められていた。神の秘義の成就が切迫しているからであった。それは、良い知らせであり、第七の天使(11:15)がラッパを吹いて明らかにされる千年王国を指す。
世の終わりに臨んだ私たちの希望は、主イエス様の空中再臨による教会の携挙にある。更に主の地上再臨で実現する地上の王国に千年間、共に生きることにある。私たちが聖書を神から受け取り直すべき理由がここにある。聖書を抜きにして遠大な世界の未来像を把握することはできない。
黙示録の7つの巻物の封印の解き明かし、7つのラッパの解き明かしで、世界の厳しい歴史展開が容易に見通されてくる。反キリストの出現によるイスラエルの大患難時代は最悪であろう。だが、キリストの来臨による勝利が確定している。目先の出来事にうろたえることのないよう聖書を受け取ろう。
ヨハネは幻で自分が巻物を食べ、それが口に蜂蜜のように甘かったと印象を語る。御言葉が「蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」と詩篇19:11でも歌われている。しかしヨハネは率直に腹には苦いとも言う。その最も適切な解説が、「聖書は、、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です」というIIテモテ3:16にある。
聖書は人の内面を映す鏡のようだ。苦い御言葉も真摯に受け止めよう。ヨハネは、その上で、他の人々に預言するように勧告された。終末にある教会の喫緊の課題は、人々に福音を伝えることにある。この年頭にあたり、新しく聖書を受け取り、聖書を食べ、聖書を語り伝えようではないか。
1月12日礼拝説教
「天が開かれる時に」 マタイ3章13〜17節
その時、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。
「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私のところに来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。
「今はそうさせてもらいたい。すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
イエスは洗礼を受けると、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのを御覧になった。そして、
「これは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
「毒蛇の子らよ、悔い改めにふさわしい実を結べ。」と厳しく迫るバプテスマのヨハネの洗礼を何故、主イエスは群衆と共に受けられたのか。受洗後に開かれた天からの聖霊の降臨と天の声により、これが公生涯の起点となる王権の即位式であったことが分かる。
聖霊降臨は、イザヤ42章の預言成就であり、天の声は王の即位式で歌われた詩篇2編の成就に違いない。
公生涯に生じた最大の論点は、主の王権の所在であった。総督ピラトは「お前はユダヤ人の王なのか」と問い、「これはユダヤ人の王」と敢えて十字架上に罪状書きを貼り付けている。「私は天と地の一切の権能を授かっている」と、死から復活された主は弟子たちに語られた。ヨハネは「王の王、主の主」と主を黙示録に宣言して憚らない。
更に、「すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです」と語ることで、群衆と共に死を象徴する水に入られたことは、主が我々人類と連帯されたことを指し示している。イエス・キリストは神であられたのに人と成られた。
主の水のバプテスマは十字架の受難を指し示している。人は罪ゆえに死の裁きと滅びは避けられない。しかし、罪のない人と成られた主が、罪ある人類に連帯し、人類を代表し、身代わりとなり十字架で罪の裁きを引き受けられたことにより、信じる者は罪赦され救われ、永遠の命が付与される道が開かれることとなった。その上、主は「我々にふさわしいことです」と語られることで、洗礼の模範を示されておられる。
私たちが受ける洗礼式は、文化人類学的に言えば通過儀礼に相当する。私という人格個人は、一貫して一生の間、同一ではあるが、絶えず変化する生き物として造られている。その主要な変わり目に営む儀礼は、自他共に変化の自覚が強化される機能を果たしている。入学式、入社式、結婚式、みな然り。
主が洗礼を模範としたのは、信仰者の霊的、内的な変化の自覚を強化するからに他ならない。受洗者は、罪に対して死に、神に対して生きる者と変えられ他のだ。神に対し生きるものと変えられた自覚を強め、新年を進み行きたい。
1月5日礼拝説教
「神の導きに生きる」 マタイ2章13〜23節
博士たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。
「起きて、幼子とその母を連れて、エジプトへ逃げ、私が告げるまで、そこにいなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ退き、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「私は、エジプトから私の子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われたことが実現するためであった。
さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、激しく怒った。そして、人を送り、博士たちから確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいる二歳以下の男の子を、一人残らず殺した。その時、預言者エレミヤを通して言われたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく泣き、嘆く声が。ラケルはその子らのゆえに泣き慰められることを拒んだ。子らがもういないのだから。」
ヘロデが死ぬと、主の天使が、エジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、幼子とその母を連れ、イスラエルの地へ行きなさい。幼子の命を狙っていた人たちは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れてイスラエルの地に入った。しかし、アルケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞き、そこへ行くことを恐れた。すると、夢でお告げがあったので、ガラリヤ地方へ退き、ナザレという町に行って住んだ。
こうして、「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現したのである。
マリアに抱かれる幼児イエスを拝した東方の博士たちが故国に帰って行ったその夜、ヨセフは夢による天使の告知を受け、家族と共に直ちにエジプトへ逃避している。残虐なヘロデ大王が、幼児イエスを恐れて殺害しようとベツレヘムに兵士を送ろうとしていたからであった。
ヨセフがエジプトに逃避したこと、ベツレヘムの2歳以下の男の子たちが殺害されたこと、再びヨセフがガリラヤのナザレに戻ったこと、そのどれも主が預言者を通して言われたことの実現であったと強調されている。それは、神が目的を定め、実現のための計画を実行される意志と力があることを意味する。
ここに引用された最初の預言はホセア11章1節、2番目の預言はエレミヤ31章15節、そして最後の預言はイザヤ53章3節に違いない。聖書の預言とは、神が歴史的になされるパターンであり、それらは最後に神の意図された目的を指し示すものとなっている。
究極の預言成就は、神が罪により堕落した人類救済のためメシアをこの世に送られることで、そのメシアこそ十字架に贖いの業を成し遂げられた主イエスであった。
第一番目の預言はモーセによる奴隷解放の出エジプトに関係し、イエスの十字架の死と復活が第二の出エジプトであったことを指し示す。
第二の預言は、バビロン捕囚からの解放に関係し、イエスの十字架の死と復活が第二のバビロン解放であったことを指し示す。
第三は、「ナザレの人」が当時、さげすむ表現であることから、卑しめられたイエスの十字架の死と復活とを指し示している。
今現在、この十字架の贖いを信じる私たちが、罪赦され神の子とされていることを、聖餐式に預かるこの時、主に感謝しよう。
神の計画は、ヨセフが導きに従ったことによって実現された。神はあなたにも計画実現の参加を求めておられる。人生に偶然はない。神はあなたが導きに従うとき、神の目的が成就される。神はあなたの環境、信頼できる人の助言、聖書の御言葉によって導かれる。
導かれるときには確信と平安がしるしとなる。新しい年、2025年を神の導きに生きることとしよう。
泉佐野福音教会
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