1月19日礼拝説教(詳細)

「口に甘く腹に苦い」  黙示録10章8〜11節

すると、天から聞こえたあの声が、再び私に語りかけて言った。「さあ行って、海と地の上に立っている天使の手にある、開かれた巻物を受け取りなさい。」

そこで、天使のところへ行き、「その小さな巻物をください」と言った。すると、天使は私に言った。「それを取って食べなさい。それは、あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い。」

そこで私は、その小さな巻物を天使の手から受け取り、すべて食べた。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると腹には苦かった。そして、私に語りかけるのを聞いた。「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて預言しなければならない。」

アポカルプシス(黙示)

今日、第三主日礼拝では、聖書を黙示録10章から読みます。この聖書箇所は、イエス・キリストの12弟子の一人、使徒ヨハネが巻物を食べさせられたところ、口には蜂蜜のように甘く、腹には苦かったという一風変わった話し内容であります。私にも実は、蜂蜜に関しては甘く苦い思い出があるのです。ウイーンに滞在していた時代、ある年のことでした、ロシアのモスクワにある日本人教会からクリスマスで奉仕するよう依頼があり、空路ウイーンとモスクワを往復しました。帰りしなのことです。教会の代表の方が、お土産にと高級なひと瓶の蜂蜜を下さり、嬉しく頂戴しました。モスクワ空港で、私はその蜂蜜をスーツケースに入れずに、手提げで通関検査を受けたところ、機内持ち込み禁止品だとして担当官に取りあげられてしまったのです。それは何とも残念なことで苦い経験でありました。

使徒ヨハネがこの幻を体験したのは、彼が地中海の孤島パトモスに流刑にされていた時です。彼は晩年、エペソの教会に奉仕していたのですが、キリスト教会を弾圧したローマ皇帝ドミティアヌスによって紀元96年頃、島流しの刑に処されてしまいました。その島で、ある日曜のことです。一人で礼拝している時に、突然にヨハネはキリストの顕現を幻に見せられたのです。そこでヨハネは、主によって黙示録を書き留めるように命じられていたのです。その時、キリストは「あなたが見たこと、今あること、また後に起こることを書き記せ。」(19節)と、ヨハネに語り命じられました。これが22章に及ぶ黙示録の内容の骨子なのです。

.巻物を受け取る

では、ここ10章でヨハネが見せられたのは何であったのか。それは、開かれた小さな巻物を手にした力強い天使の姿でありました。今日、私たちが注目しようとしていること、実はこの天使が手にした巻物なのです。何故かといえば、この巻物に関して、この短い箇所でヨハネに対して、これを受け取るように、これを食べるように、さらに、これを預言するようにと、命じられているからなのです。

    巻物を受け取れ

先ず8節をご覧ください。ヨハネがこのように命じられています。「さあ行って、海と地の上に立っている天使の手にある、開かれた巻物を受け取りなさい。」こう命じたのは「天から聞こえたあの声」です。天の玉座におられる神様の命令に違いありません。ヨハネが天使の手から受け取るように命じられた巻物とは、エジプトのナイル川の河畔に茂るパピルスの茎から作られた紙でできた巻物です。これを原語でビブリオンと呼び、英語の聖書を意味するバイブルはこのビブリオンが語源なのです。開かれた巻物の表裏には文字が記されています。そうです。巻物とは聖書であり神の言葉のことなのです。天使から巻物を受けたのはヨハネ個人でした。しかし、「巻物を受け取りなさい」と現代に生きる私たちにも、これは語られている命令でもあります。「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。」(II テモテ3:16)この年頭にあたり、今一度、霊感された神の言葉としての聖書を主なる神様から受け止め直すことにしようではありませんか。タイム・アンド・スペース  

  巻物を受け取る理由

では、ヨハネが天使の手から開かれた巻物を受け取るべき理由はどこにあるのでしょう。その巻物を受け取るべき理由・根拠が、実に5〜7節の巻物を手にする天使の神への誓いに明らかにされていることが明らかです。天使は右手を挙げて6節にある通り、永遠に活ける方、万物の創造者、すなわち、玉座におられる唯一真の主なる神に対して誓いました。その巻物を受け取るべき理由とは、その誓いの中の「もはや時がない」(6節)この一言です。この一言から、ここで私たちは、私たちが人間としての存在を規定する条件が、時間と空間であることを再確認しておく必要があるでしょう。

人間が生きる条件は時間だけではありません。空間だけでもありません。タイム・アンド・スペースの両方です。時間と空間を存在の条件にしていることが、今本番の大相撲初場所で説明できるのではありませんか。呼び出しに呼び出された二人の力士が、東西から直径4m55㎝の土俵に登り、行事により仕切りを繰り返し、制限時間一杯になるや、行事の「待った無し」の一言で、組み打ちをいたします。土俵と言う限られた円形の空間、制限された仕切り時間、土俵に繰り広げられる相撲は、時間と空間の条件で生きる人間生活の象徴のように思えます。空間だけに生きるのではありません。自分の生活の場、仕事の場、自分のポジションを確保するだけではありません。空間と共に、一切の出来事は時間的連鎖の中に置かれているのであります。

天使が神への誓いで「もはや時がない」と言うとき、相撲で言えば「もう待った無し」という意味です。ここで使用される時の原語クロノスは時間の流れを強調する用語、時計の針で計測できる時間のことです。ギリシャ神話の時計の神様クロノスは、上半身は怪獣で下半身が人間、子供を次々と産んでは怪獣が食べてしまう、そういう何ともグロテスクなイメージです。クロノスは量的な時間の流れ、時計で計測できる時間感覚のことです。その時間が、そのクロノスがもはやない。どういうことでしょう。天使が語る意味は何でしょうか。それは、決定的な時間が到来することを意味しているのです。

    神の秘義の成就

その決定的な時の到来、それが天使の誓いの次の言葉、7節の、「第7の天使がラッパを吹き鳴らすとき、神の秘義が成就する」なのです。秘義とはミステリーです、隠された事柄です。その秘義とは、神が預言者たちに告げられていた良い知らせだとも、説明されます。

ヨハネに天使の語った第七の天使がラッパを吹くと成就すると言われた「神の秘義」とは、いかなる出来事でしょう。それは、11章15節以下に記されている出来事です。どのように言われていますか。「この世の国は、私たちの主とそのメシアのものとなった。主は世々限りなく支配される。」「この世」とは、今私たちが住む宇宙空間のことです。この世界が、「主とメシアのものとなる」それは、それこそ聖書でいうところの千年王国のことを指し示しているのです。千年王国とはキリストの再臨によってクリスチャンたちが復活した時に実現する出来事です。その詳細が記されているのが黙示録20章で、表題も「千年間の支配」とされていますね。キリスト者の希望は、キリストが復活されたように復活することです。キリスト者の復活は、イエス・キリストが再び来臨されるときに実現します。主は「然り、私はすぐに来る」と再臨を約束なされました。主は、空中に再臨され、信じた者は栄光の体を与えられて天に引き上げられることが約束されています。キリストと共に、地上に降り立ち、キリストと共に1000年間を過ごすことになるのです。それが希望です。「第一の復活にあずかる者は、幸いな者であり、聖なる者である。この人たちには、第二の死は無力である。彼らは神とキリストの祭司となって、キリストと共に千年の間支配する。」(20:6)この「第一の復活」が、キリストの空中再臨に起こる復活です。しかし、覚えておかねばならないことは、時間的に起こる順序として、それに先立ち、この世界には大患難時代が到来することです。これこそ、使徒パウロが、テサロニケ第二の2章で語った出来事です。

そこを少し長いのですが、ここで引用することにしましょう。パウロはその1節をこう切り出しています。「さて、きょうだいたち、私たちの主イエス・キリストが来られることと、私たちが御もとに集められることについて、お願いしたいことがあります。」そこで語られているは、主の日、主の来臨に先立ち、「不法の者」が出現するという事実です。聖書は、この人物を反キリストと呼び、4節には「この者は、神と呼ばれたり拝まれたりするものすべてに反抗して高ぶり、神の神殿に座り、自分こそ神であると宣言します。」今現在、私たちの耳目を集める場所こそパレスチナのイスラエルです。そのイスラエルにやがて間違いなく起こるであろう出来事が、この4節で言われていることなのです。反キリストは、エルサレムの神殿に座り、神宣言をすることになります。今現在、エルサレムの神殿の丘には、まだ神殿はありません。2000年前に、ローマ軍により破壊されたままです。しかし、やがて第三の神殿が再建される時が来るに違いありません。そして、そこに反キリストが出現するという最悪の事件が起こることも違いないのです。しかも、そのイスラエルを騙し、弾圧する最悪の期間が定められており、3年半です。それはダニエル書12章に記され、黙示録において語り伝えられているものです。その3年半の最後に、キリストの地上再臨があります。この時、反キリストは打ち倒され、それから千年王国が実現するのです。 ④教会を励ますため

この黙示録10章で、ヨハネが天使の手にある開かれた小さい巻物を受け取るように命じられたのは、困難な世界情勢に置かれた教会を励ますためでした。それは現代に生きる教会にとっても必要な励ましです。なぜなら、世界情勢は刻一刻と悪化していくに違いないからです。私たちの生きる現代にあって、未来は聖書的な見地で言えば、人間の期待に反して楽観を許さない悲惨な出来事の連続に進み行かざるを得ません。この黙示録の中に書き留められた7つの封印の解き明かし、続く7つのラッパの解き明かしを読み進んでみてください。それを裏付けるものこそ、8章13節の空高く飛ぶ一羽の鷲の発言です。「また、見ていると、一羽の鷲が空高く飛びながら、大声でこう言うのを私は聞いた。「災いあれ、災いあれ、災いあれ、地に住む者たちに。なおも三人の天使が吹こうとしているラッパの響きのゆえに。」この100年余りの期間に、世界の人口は爆発的な増加を見せ、今や80億人を突破しました。20世紀初頭には、全世界を巻き込む第一次世界大戦に突入したかと思えば、瞬く間に第二次世界大戦に突入し、5000万人以上が戦死しています。今現在進む軍備拡張競争の実態は、最新式の武器開発技術の向上によって、その殺傷能力の凄まじさは想像を絶するものがあります。核弾頭保有国は増加の一途を辿り、核保有は戦争抑止力だとするような主張は非現実的になりつつあります。ウクライナ戦争の悲劇、ガザ紛争の悲惨さ、ロス火災の凄まじい災害、これらは今後起ころうとする世界的な荒廃の手始めにすぎません。

しかしながら、私たちには希望があるのです。世界は主の御手にあり、「時は満ちた。神の国は近づいた」と宣言された主イエス様、「然り、私は直ぐに来る」と約束された主イエス様に希望を託すことができるのです。明日を守られる主がおられるのです。大患難時代と言われる時代が到来することは間違いない。しかしながら、確かな希望があることを、私たちは巻物によって垣間見せられるのです。そこにこそ聖書を主から受け取るべき根拠理由があるのです。

.巻物を食べ尽くす  

  巻物を食べる

ヨハネは天使の手にある開かれた巻物を受け取れと命じられました。それは、「もはや時がない」からです。そればかりではありません。ヨハネは、天使により「それを取って食べなさい」と言われました。ヨハネは促されて「その小さな巻物をください」と申し出ています。するとその時、「それを取って食べなさい」と天使に命じられたのです。その巻物は手に取るだけではない、食べなければならない、と言われたのです。 パピルスでできた巻物を食べるなど、おかしな話しではありませんか。今誰かから「聖書を食べなさい」と命じられたら困ってしまいますね。そんなことは常識的にできません。バークレーという学者は、この背景にはユダヤ人の教育法があるのではないかと言っています。「少年にアルファベットを教えるとき、教師は、粉と蜜を混ぜて文字盤に文字を書き、一つ一つ字を指して、「この字は何ですか?どう読みますか?」と生徒たちに質問する。すると生徒が正しく答えると、教師は生徒にご褒美として文字を舐めて消させる。するとアルファベットは生徒の口に蜜のように甘く、一緒に文字を覚えることができる」なるほどと思いました。そうかもしれません。 

食べるということは、完全に消化して自分のものとすることです。消化して血となり肉となり骨となりエネルギーとなることです。食べるとは、手にして所有して見る以上のことです。ちょうど人間が食べるものがその人に入って、自分自身の体の一部となるように、自らはっきりした自覚をもって考え、決断的な意志でもって把握する、自分自身の言葉となるような仕方によって読み受け止めることです。5章1節でヨハネが御座におられる方の手にある封印された巻物の裏表には文字が記されていたことが分かっています。今、天使の手にある巻物は封印が解かれ開かれた巻物です。開かれた巻物を食べるとは、内容を知らされ、徹底して自分のものとすることです。外から見ているだけではありません。傍観者、観察者になることではありません。

  口に甘く腹に苦い  

ヨハネが巻物を食べた感想を何と言っていますか。「すべて食べた。それは、口には蜜のように甘かった」同じような印象を詩篇の記者もこう歌っています。「あなたの仰せは口の中でなんと甘いのでしょう。私の口には蜜にもまさります。」(119:103)聖書を美味しいご馳走を食べるように親しみを込めて読んでください。それが口に甘く、心の楽しみになる人は幸いです。 しかし、注意して下さい。ヨハネが経験したことは、巻物を食べた結果、「それは、口には蜜のように甘かったが、食べると腹には苦かった」のです。ヨハネではありませんが、弟子とされたペテロが弟子として召された時の経験が、ルカ5章に記されています。

イエスの一番弟子のペトロは、最初から立派なキリストの弟子であったわけではありません。主がガリラヤ湖畔で人々に話しておられる時、彼は一晩の漁を終えて疲れ果てて網を洗っていました。話を終えると、主はペトロに「沖へ漕ぎ出して漁をしなさい」と言いました。ペトロは「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかしお言葉ですから網を降ろしてみましょう」とその通りしました。すると思わぬ大漁を経験したのです。「お言葉ですから」と自分を従わせること、これが御言葉を食べることですね。そしてペトロはその思わぬ大漁を経験した直後に「主よ、離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言っています。それは今まで経験したことない罪意識ではなかったでしょうか。これが腹に苦いことです。聖書を食べるように、自分のものとするため理解しようとする時、それは喜びであると共に、苦痛でもあるのです。自分の罪深さを自覚させられることを意味します。主に従うために自我を捨てる痛みを意味するでしょう。時代と場合によっては、信仰の故に、迫害を受けることを意味します。

聖書を知り味わうことは、私たちの親しく知る人たちが、それにもかかわらず、主を信じないがために、絶望的な運命にさらされていることを知る痛みを意味します。預言的出来事をじっくり考え、消化する、それは大変辛いこと、悲しいこと、耐え難いことになる、というのです。私たちの信仰生活、教会生活には、相矛盾する二つが同居するのです。喜びと悲しみ、甘さと苦さが同居するのです。それでもこの新しい年に、皆さんは開かれた巻物、聖書を傍観するのではなく、食べて消化しようと熟読し、愛読し、実行しようとされるでしょうか。

.巻物を語り明かす 

いやヨハネは、受け取るだけではない、食べ尽くすだけではない、更に、「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて預言しなければならない。」と天使に命じられます。巻物を食べた者は、他の人々に語り伝える責任があるということです。それは、聖書を受け取り、聖書を食べるように自分のものとした人の当然の帰結でしょう。その真理を味わい知ったなら、それを自分のものだけに隠し持っていることはできないのです。エレミヤの告白を読んだことがありますか。20章7〜9節に彼は切々と、その心境を訴え告白します。「主よ、あなたが惑わしたので私は惑わされました。あなたは私より強く私にまさりました。私は一日中笑い物となり、皆が私を嘲ります。私は語るごとに叫び「暴虐だ、破壊だ」と声を上げなければなりません。主の言葉が私にとって、一日中そしりと嘲りとなるからです。私が、「もう主を思い起こさない、その名によって語らない」と思っても主の言葉は、私の心の中、骨の中に閉じ込められて、燃える火のようになります。押さえつけるのに私は疲れ果てました。私は耐えられません。」そう語るエレミヤ自身、15章16節でこう語っておりました。「あなたの言葉が見いだされたとき、私はそれを食べました。あなたの言葉は私にとって喜びとなり、私の心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、私はあなたの名で呼ばれているからです。」エレミヤも巻物を食べたのです。その味わいは何とも甘く、心の楽しみとなったと言います。しかし、その御言葉を他の人々に伝えた結果、それは彼の腹には苦いのです。彼が語るごとに、人々は彼を嘲り笑いものにするのです。それでも、主の言葉は心の内で燃える火のようだ、押さえつけるのに疲れたと言います。

巻物は受け取るだけではない、食べ尽くさなければならない、そればかりか人々に語り明かさなければならない。主は巻物を食べ尽くしたヨハネに預言するよう求められました。主は、エレミヤにもそれでも預言するように求められました。主は、あなたにも、私にも今、現在、求めておられます。「いや、それは彼らが使徒として召されたからでしょう。預言者として召されたからでしょう。そのような召を受けていない私には関係ないことです。」と言われるかもしれません。そうなのではありません。この世の終わりに臨んで、喫緊の教会の課題は、福音の宣教なのです。主はマタイ24章で語られている終末のしるしに言及される中で、こう語られました。「この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」キリストの再臨の到来実現は、福音宣教にかかっていると言っても過言ではありません。福音が広まれば広まるほど、再臨の日は早められるのです。

ペテロが語ったあのペテロ第二3章12節の言葉を思い出しませんか。「神の日の来るのを待ち望み、それが来るのを早めなさい。その日には、天は燃え尽き、自然界の諸要素は火で溶け去ってしまいます。」そうです。私たちは主の日、再臨の日を待望しつつ、早める努力をすることが求められているのです。12節の後半には「その日には、天は燃え尽き、自然界の諸要素は火で溶け去ってしまいます。」と言われています。私たちはロスアンジェルスの山火事の凄まじい光景を毎日のように見せられています。山から吹き下ろすサンタ・アナのハリケーン並の暴風に煽られ、瞬く間に高級住宅街が焼け野原と化しています。世の終わりは、しかし、その比ではありません。森羅万象が燃え崩れ、やがて新天新地が出現するのです。それは希望であり、また、信じない人には恐怖です。甘くて苦い、それが聖書の預言の言葉です。

この新しい年の始めに、神の言葉である巻物、すなわち、聖書を新しい心で神様から受け取り直しましょう。聖書を自分の血肉となるよう食べ尽くしましょう。そして、機会あるごとに人々に御言葉を語り伝えることにしましょう。「もはや時がないから」なのです。主の日が近いからなのです。

112日礼拝説教(詳細)

「天が開ける時に」  マタイ3章13〜17節

その時、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。

「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私のところに来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。

「今はそうさせてもらいたい。すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。

イエスは洗礼を受けると、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのを御覧になった。そして、

「これは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

 何かが起点に

今日、1月第二主日礼拝ということで、聖書はマタイ3章からお読みします。13〜17節です。今年は、四半世紀となる西暦2025年、戦後80年の節目だとして、何かと話題にもなる年です。私たちの教会としては、創立60周年、教会堂も築30年目と、きりの良い記念すべき年なのですが、皆さんにとってはどんな意味のある年になりそうなのでしょうか。それにしても、私たちが80年目とか、60周年、30年目という場合には、そこには必ず何かが起点となってあるものです。教会で言えば開所式、会堂で言えば献堂式、戦後80年なら天皇の終戦宣言となりますね。

実は、今日読んだ聖書箇所が非常に大切であるということは、ここに記された出来事が、救い主イエス・キリストの生涯の起点となっているからなのです。私たちは、イエス様がベツレヘムの馬小屋で乙女マリアから生まれたことを知っています。ヘロデ大王の殺害をエジプトに避け、やがて戻られナザレ村で生育されたイエス様のことを知っています。そのイエス様が、やがて30歳で公生涯に入られたことも知っておりますね。その公生涯の起点となるのが、実はこのヨハネによる洗礼なのです。イエス様に先駆けて、バプテスマのヨハネが現れる。そして彼はヨルダン川で人々に悔い改めの洗礼を授けていました。ヨハネが、「私は、悔い改めに導くために、あなたがたに水で洗礼を授けている。」と言っていたと11節にあります。

悔い改めとは、方向を転換することです。右から左へ、左から右へ真逆に向きを変えることです。ヨハネがしていたことは、神に背を向けて罪深い生活をしていた人々が、神への方向に生活の向きを変えるようにすることでした。その悔い改めの洗礼を授けるヨルダン川の岸辺に、イエス様が現れる。そこで主はヨハネから洗礼を授けられています。

何故バプテスマを

では何故、イエス様は洗礼を受けられたのでしょうか。どうしてもここに大きな疑問が残ります。イエス様も罪深く方向を神に向け変える必要があったからなのでしょうか。ヨハネは群衆に対して、「毒蛇の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ。」と、それは厳しく説教していたと、7、8節には記されています。イエス様が洗礼をヨハネを受けようとされたのは、イエス様も邪悪な毒蛇の子であるような自覚が自分にあったからなのでしょうか。そうでは全くありません。イエス様が公生涯の最初にヨハネから洗礼を受けたのは、次に続くヨハネとの問答、そして受洗後に起こった出来事によって、これが実は、意外かもしれませんが、王権の即位式であったことが分かってくるのです。

1.王権の即位

  解く鍵の言葉

ヨハネは群衆に混じってイエス様が洗礼を受けようとされると、「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私のところに来られたのですか。」それを阻止しました。ヨハネは、それでは立場があべこべではありませんか、と押し留めようとしたのです。それに対して「今はそうさせてもらいたい。すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです。」と主は答えられました。この主の語られた「すべてを正しく行う」に実は謎を解く鍵があるのです。この原語は直訳すると「全ての義を成就する」となります。そして、この正しい、あるいは義を意味する言語のディカイオスネとは、神の御心のことです。イエス様は「今はそうさせてもらいたい。すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです」と言うことで、神様の意志を実行することを考えておられたのです。その神様のご意志が何であったのかは、洗礼直後に起こった二つの出来事、第一は聖霊が鳩のように降られたこと、そして続いて、天から声が聞こえたことによって、はっきり明らかになります。

それは王権の授与式であった

  聖霊の降臨

第一に聖霊がイエス様の上に降られたこと、この出来事の裏付けとなるのはイザヤ42章1節です。それによって聖霊の降臨は、このイザヤ預言の成就を意味することになります。そこを読んでみましょう。「見よ、私が支える僕、私の心が喜びとする、私の選んだ者を。私は彼に私の霊を授け彼は諸国民に公正をもたらす。」と預言されております。これはメシア預言なのです。神様がその霊を授ける者が、これから遣わそうとする救い主だと、700年も前から預言されていたのです。これによって、イエス様は、神様が喜ぶ僕であり、神様により選ばれたメシアであることが明らかにされます。

  天からの声

さらに第二の出来事、天からの声がありました。これまたそれを裏打ちするのが、メシア預言である詩篇第二編なのです。詩篇第二編とは、今朝の交読詩篇で読み交わしたばかりのあの詩編のことです。この詩篇第二編は、詩篇の中でも特別な作品であり、王の即位式で歌われる詩篇とされていたのです。イスラエルの歴代の王たちの即位式では、必ず読まれ歌われた詩篇でした。なぜかと言いますと、そこには、「私が聖なる山シオンでわが王を立てた」と宣言されているからです。そして主なる神は、王に対してこう語られるのです。「あなたは私の子、私は今日、あなたを生んだ。」その上で、8節には王の支配する支配地が授けられ、9節には王の支配する権能が授けられることが語られています。この詩篇は、歴史的には歴代の王たちの即位式で歌われたものです。しかしこれはまた同時に、やがて到来するメシアに対する預言的な詩篇でもあったのです。

主イエス様が受洗後に水から上がられると天が開けました。聞こえてきた声は「これは私の愛する子、私の心に適う者」との父なる神の声でした。と言うことは、このヨルダン川の岸辺の洗礼式は、王であるメシア、救い主イエス・キリストの即位式であったということなのです。

およそ1週間後の1月20日には、米国では次期大統領として11月に選出されたドナルド・トランプの大統領就任式が、ホワイトハウス前の広場で大々的に行われようとしています。もうすでに選挙でトランプは大統領に選出されています。しかし、その効力は、正式な就任式で公に誓約宣誓することで発行いたします。イエス様は、このヨルダン川の岸辺で受洗されると、ここを起点に公生涯に進み行かれました。神様から遣わされた人類救済の業の実現に向けて行動を開始されました。天の父から認証され、権能が付与されたからです。バプテスマのヨハネによるヨルダン川の洗礼、これは神様の御心に沿ったメシアであるイエス様の王権即位式であったのです。

.人類への連帯に

  死の象徴

主イエス・キリストが、ヨルダン川でヨハネのバプテスマを受けられた更なる意味は、それが人類に対するキリストの連帯を指し示すものであったことでもあります。バプテスマ、即ち洗礼がどのような儀式か説明するまでもないでしょう。洗礼を略式で水を注いだりすることもあります。しかし受洗者が全身を水の中に浸ることが本来の仕方でありました。ヨハネはヨルダン川で洗礼を授けていましたが、洗礼は川でも海でもどこでも構まいません。多くの教会は、会堂内に洗礼槽を用意し授けるのが普通です。ずっとそのまま、水中に浸け続けたら、それこそ息できずに死んでしまいますね。ですから、もちろん直ぐに水から引き上げるものです。それからも分かるように、つまり、洗礼において水に入り、水に浸る動作は、これによって死ぬことを表現しているのです。

  受難の象徴

しかし、イエス様がこの時、ヨルダン川でヨハネにより水に沈められ洗礼を受けられたということは、罪深い自分に死んで新しく神に生きる自分に生まれ変わる、そういう意味ではありませんでした。イエス様の受洗は、これからご自身が受けようとされる受難を指し示す動作による表現であったのです。マルコ10章に記録されていることですが、かつて、主の12弟子の二人、ヤコブとヨハネがイエス様に願い事をしています。それは、将来、彼ら二人を右大臣・左大臣にして欲しいという野望に満ちた願望でした。しかし、それに対して、主はこう尋ねられたのです。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることができるか。」(10:38)彼らが求めていたのは輝かしい名誉ある栄光の座でした。しかし、主が近い将来、受けようとしておられたのは、栄光どころではありません。それは恥と辱めを受ける十字架の受難でした。それはとてつもない苦難であり、その受難・苦難を主は喩えて「飲む杯」それに「受ける洗礼」と表現されたのです。飲む杯とは、甘い葡萄酒の酒ではなく苦い毒杯です。受ける洗礼とは十字架の死の苦悩でした。

主イエス・キリストがヨルダン川の水中に、他の群衆と共に入って行かれたこと、それは、罪ゆえに裁かれ死ななければならない私たち人類の只中に入って連帯し、その死の苦しみ、罪の裁きを自分が身代わりに引き受け、人類に救いをもたらす救済の行為を意味していたのです。主イエスは、神の御子であり、神ご自身です。罪なき神が人の形をとり、人間となられたのは、罪ある人類、私たちに繋がり、私たちと連帯するためであったのです。

  連帯の象徴

コルベ神父) ポーランドのカトリック教会の神父であったコルベ神父のことが思い出されます。マキシミリアノ・コルベ神父は哲学博士号を持つ優秀な方でした。この日本にも布教のため1930年から2年間長崎に滞在されていた経歴の持ち主です。しかし、修道院長に就くためにもポーランドに帰ることになります。その頃に大戦が始まります。1941年にはナチスにより危険人物として逮捕されます。やがてアウシュビッツ強制収容所に入れられ囚人番号は16670でした。その年の7月のことでした。収容所から脱出者が出たことで、無作為に10人が餓死刑に処せられることになりました。囚人のフランツェク・ガイオニチェクというポーランド人軍曹が「私には妻子がいる」と泣き叫びだした。この声を聞いたとき、そこにいたコルベ神父は「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出ました。すると収容所責任者がこの申し出を許可しました。コルベと 9 人の囚人が地下牢の餓死室に押し込められます。通常、餓死刑に処せられるとその牢内において受刑者たちは飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通でした。しかしコルベ神父は全く毅然としており、他の囚人を励ましていました。時折牢内の様子を見に来た通訳のブルーノ・ボルゴヴィツは、牢内から聞こえる祈りと歌声によって餓死室は聖堂のように感じられた、と証言しています。

2 週間後、当局はコルベを含む 4 人にはまだ息があったため、病院付の元犯罪者であるボスを呼び寄せてフェノールを注射して殺害してしまいました。通訳のボルゴヴィツはこのときのことを以下のように証言しています。マキシミリアノ神父は祈りながら、自分で腕を差し伸べました。私は見るに見かねて、用事があると口実を設けて外へ飛び出しました。監視兵とボスが出て行くと、もう一度地下に降りました。マキシミリアノ神父は壁にもたれてすわり、目を開け、頭を左へ傾けていました。その顔は穏やかで、美しく輝いていました。コルベ神父の死、それは妻子のある囚人の軍曹に連帯した結果でした。彼は軍曹の餓死刑を自ら引き受け、その身代わりに独房で餓死したのです。イエス様がヨルダン川の水でバプテスマに預かったのは、キリストとして人類の罪の身代わりとして十字架に死ぬ受難を指し示すものでした。十字架に贖いの代価として殉難の死を遂げることが、神の御心であったのです。

「全ての義を成就する」ために、水のバプテスマを受けられた主イエスは、この洗礼において、十字架の受難の覚悟を確かにお固めになられたのです。

.通貨の儀礼

  洗礼の模範でもあった

そればかりか、主イエスの受洗のもう一つの意味は、人全ての洗礼の模範として受けられたものであるということです。主イエスはヨハネに「すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです。」と語られ、「私にとって」ではなく「我々にふさわしい」と言うことで、その洗礼が模範であることを指し示されました。全ての人が洗礼を受けることが神の御心であることを、これにより示されたのです。ただ溜められた水や流れる川の中に沈められたからといって、そんな単純な動作に一体何の意味があるのか、と疑問を抱く方もいるかもしれません。言葉を代えて言うならば、洗礼は、実はこれは人間が営む儀礼や式典の範疇に入れられる類の行為であります。式というのは、定義すれば、「事柄や関係を簡潔に明確に、しかも一般的に表現するもの」となります。そのため一定の作法や順序で行われるものなのです。式というのは、式をすることによって事柄や関係が生じるということではありません。そうではなくて、すでに起こった出来事や生じている関係を、一定の作法によって簡潔に表現するものなのです。

何故、イエス様がヨルダン川の洗礼を模範として実践されたのでしょうか。それは、単純な洗礼という儀礼、式典が、イエス様を信じ、十字架の贖いにより罪赦された結果、神様との関係が正しくされた人に起こった事柄と神との関係を、表現するものであるからなのです。

  通過儀礼とは

その意味からも、洗礼という行為は、社会学的に言うところの通過儀礼, 英語で言えば「rite of passage」に相当するものです。自分自身が人間であるのに、こう言うのはおかしなことですけれど、よくよく考えてみると、人間とは実にユニークな生き物ではないかと思うのです。先日も話したことですが、私の長女の真知子が、佐藤孝夫牧師が亡くなり、その葬儀の手伝いに行ったところ、その遺品の中に沢山の先生のアルバムがあった。その一つに、「父さんの若い日の写真を見つけたので、添付して送ります」とメイル連絡があるではありませんか。見れば、それは何と寮生活に四人の寮生が映った写真。そこに20歳の時の私が映っているのです。私には勿論それが誰か直ぐ分かります。それが私自身であることを。しかし、お分かりのように全く今現在の私とは違うのです。写真の私は髪の毛が真っ黒です。今の私の髪は真っ白です。ここです。全く違うけれど全く同じであるということです。それが人間なのです。自分は一貫して同じ自分であるけれど、絶えず変化しつつある生き物、それが私たち人間なのです。これを一言で言えば自我同一性ですね。英語でアイデンティティーなのです。オギャーと生まれた瞬間から絶えず変化していませんか。しかし一貫して私は私に変わりがない。そして、一貫していて変化していく人生を生きる過程において、私たちは節目節目の重要な変化に際して、儀礼を行うのです。

古い自分から新しい自分に変わったのだということを、自他ともに確認する機会として儀礼を行うのです。入学式がそうではありませんか。結婚式がそうでしょう。結婚式は何故しますか。二人が出会い結婚するまでは、女性であれば一人の女、父母にとっては娘でしかない。それが結婚式を挙げた途端に全く新しい自分、つまり一人の夫の妻となるのです。私が私であることに変わりはない。同一である。だが、娘から妻に変化する。その変化の自覚を強化する役割を果たすのが儀礼であるということなのです。

  神に対して生きる

主イエスは何故、模範としてヨルダン川で受洗されましたか。それはイエス様を信じて救われた人に起きた変化の自覚を人が洗礼によって強化されるためなのです。使徒パウロが、ローマ6章で洗礼について語った際に、そこに言わんとしたのは、まさにこの点ではなかったでしょうか。6章3〜4節を読んでみましょう。

「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにあずかる洗礼を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼を受けたのです。私たちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。」

聖書はこう教えます。洗礼を受けることは、キリスト・イエスに預かることだと。キリストに預かるとは、キリストが経験されたことが即、自分の経験とされているということです。すなわち、キリストが十字架で死んだので、自分も死んだのであり、キリストが復活されたので、自分も復活したのだということです。その結果として、洗礼を受けた今、自分は「新しい命に生きている」というのです。先ほど語ったように、人は、生きている限り、私の自我に変わりはありません。キリストを信じたから、高木が山田になるわけではない。けれども、キリストを信じた結果、新しい自分に変わっているのです。その変化を聖書は、明確に6章 10、11節にこう言われています。

「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい。」

どういう変化ですか?信じる前には罪に対して生きていたが、キリストを信じた結果、罪に対しては死に、今は神に対して生きている、こういう変化なのです。

  熟慮し勘定に入れて

ここで非常に重要な言葉は最後の「考えなさい」です。この原語のロギゾマイは非常に強い言葉です。勘定に入れる、考慮する、と思ってそのように扱う、だと思う、見做す、決意する、しようと思う、等々意味する用語です。洗礼はそのために設けられる儀礼です。キリストを信じて自分の内に起こった変化を、しっかりと勘定に入れ、熟慮し、そうだと看做し、新しい生き方に生きる決意を強化するための儀礼なのです。新しい年、2025年がスタートして間もない今日の日曜礼拝です。皆さんは、ご自分の洗礼を受けて何年目でしょうか。二度、三度と洗礼を受けることはしませんしできません。あの洗礼の日の感動を覚えていますでしょうか。罪に対して死に、神様に対して責任をもって生きる新しい自分になった自覚を、そのまま保持して、生き続けているでしょうか。ヨルダン川で洗礼を受けられたイエスの上に聖霊が鳩のようにくだりました。洗礼を受ける決断ができたのも聖霊の働きです。受洗したその時以来、聖霊はずっと共におられ、そして上から力と知恵を授けておられます。その時、主イエス様の上の天は開け、上から声がありました。「これは私の愛する子」このイエスに語られた天の父の言葉は、受洗されたあなたへの言葉でもあります。誰と誰の間に生まれたのか、自分の父母が誰であるかは重要ではありますが、それ以上に無上の特権は、同じ自分が、恵みによって神の愛する子とされていることであります。洗礼によって私に起こった大変化は、同じ自分、同じ自我の私が、神様に対して生きるものとされ、今や神の愛する子の一人とされていることです。この新しい2025年、その365日、毎日毎日、神様はあなたをご自分の愛する子として、ねんごろにお取り扱いくださることでしょう。主が十字架の死と復活により成し遂げてくださった救いの御業に感謝し、希望と期待を込めて、新しい年を進みゆこうではありませんか。

1月5日礼拝説教(詳細)

「神の導きに生きる」  マタイ2章13〜23節

博士たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。

「起きて、幼子とその母を連れて、エジプトへ逃げ、私が告げるまで、そこにいなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ退き、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「私は、エジプトから私の子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われたことが実現するためであった。

さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、激しく怒った。そして、人を送り、博士たちから確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいる二歳以下の男の子を、一人残らず殺した。その時、預言者エレミヤを通して言われたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく泣き、嘆く声が。ラケルはその子らのゆえに泣き慰められることを拒んだ。子らがもういないのだから。」

ヘロデが死ぬと、主の天使が、エジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、幼子とその母を連れ、イスラエルの地へ行きなさい。幼子の命を狙っていた人たちは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れてイスラエルの地に入った。しかし、アルケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞き、そこへ行くことを恐れた。すると、夢でお告げがあったので、ガラリヤ地方へ退き、ナザレという町に行って住んだ。

こうして、「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現したのである。 

崖っ縁に立たされた人

今日、改めて新年のご挨拶申し上げます。今年もよろしく。聖書はマタイ2章13〜23節をお読みします。1日の元旦礼拝では、詩篇148編から「賛美の架け橋を渡る」と題して奨励させていただきました。最後に私は、たとえ私たちがこの年に、崖っ縁に立たされるようなことがあるとしても、「とにかく主を賛美します」と告白することにしましょう、とお勧めしました。実践されておられるでしょうか。

さて、今日お読みした聖書箇所には、それこそ危険な崖っ縁に立たされた一人の人物が登場します。それはマリアの夫ヨセフのことです。東方の博士たちが、星に導かれて「ユダヤ人の王」として生まれたメシアを礼拝しようとエルサレムに、はるばる東方から旅してやってきたことについては、先週の礼拝でお話しいたしました。その博士たちがエルサレムに到着すると、ヘロデ大王が彼らに接見しました。星の出現時期を確かめるためでした。そして王は「その子について調べ、見つかったら知らせてくれ、私も拝みに行くから」と、彼らをベツレヘムに送り出します。しかしながら、その王の本意が、居所が分かり次第、殺害する悪意であったことを、私たちは知っています。ところが博士たちは、夢でお告げを受けると、王に逆らい知らせることをせずに、別の道を選び、自分の国に帰ってしまいました。その結果は悲惨でした。これに激怒したヘロデ大王が、ベツレヘム周辺の 2 歳以下の子供たち全員を、殺害するという残酷な命令が実行される事件が起こってしまったのです。このベツレヘムの幼児殺害事件を前後して、ヨセフの取った二つの行為が記録されているのが今日の聖書箇所です。その一つは、天使の啓示を受けてヨセフがマリアと幼子イエスを連れてエジプトに逃避したことです。もう一つは、ヘロデ大王が死んだ後に、エジプトから帰国し、ナザレの村に移り住んだということです。

1.第一の預言(神の確かな計画)

私たちが、このヨセフの危機経験を通して、見えてくる真理があります。それは生ける唯一真の神様には、目的を実現するための確かな計画があるということです。どうしてそう言えるのかというと、この箇所には、「主が預言者を通して言われたことが実現した」というフレーズが短いこの聖書箇所に、14節、17節、23節と 3回も繰り返されているからなのです。「主が預言者を通して言われたことが実現した」ということは、そこに起こった出来事の全てが、偶然の産物では決してないのであって、神様が計画されたことが、その目的通りに実現成就したということです。私たちがこの手にする聖書には、私たちの目には見えないけれども、唯一真の神様が確かにおられること、このお方が、明白な目的を計画し、確かに実行する意志と実現する力がおありであることを教えています。元旦礼拝では、詩篇148編を通して、神様が、私たちの住む天地万物の一切を創造され、しかも維持保持されておられることをお話ししました。私たちは、この神の創造の偉大な業にも、神様の目的と計画の確かな意志と、創造する偉大な力を見せられています。そして今日、私たちが、このマタイ2章の出来事の中に見せられる神様の目的と計画とは、人間が神様の似姿として創造されたにもかかわらず、その犯した罪によって堕落してしまったがために、その人類を罪から救済しようと、救い主をこの世にお遣わしになることなのです。そして、その神のご計画が、実にここに引用される三つの預言によって、その確かさが明らかにされているのです。

  エジプトへの逃避行

星に導かれた博士たちが、ベツレヘムに幼児イエス様を訪ね、贈り物を献げて礼拝して、帰って行った直後のことです。再び天使がヨセフの夢に現われ、「起きて、幼子とその母を連れて、エジプトへ逃げ、私が告げるまで、そこにいなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」と告げ知らせました。するとヨセフは、天使にエジプトに逃げるよう告知されると、ためらうことなく、夜のうちに起き、マリアと幼子を連れ、エジプトに逃避したというのです。地図上で測っても直線距離にして500キロはありますから、ヨセフとマリアの子連れのエジプトへの旅は、決して楽なものではなかったはずです。

  ホセア預言の成就

聖書には、このヨセフとマリアのエジプト逃避行を、ホセア11章1節の預言の成就であると、「私は、エジプトから私の子を呼び出した」という一句をここに引用されています。この1節を正確に引用すれば、「まだ幼かったイスラエルを私は愛した。私は、エジプトから私の子を呼び出した。」です。この預言書のホセアで「私の子」と語られる場合に、これは直接的にはイスラエルの民を指し示していることが明らかです。イスラエルは、神の目には愛する「私の子」なのです。これには出エジプト記4章が背景であることが間違いありません。イスラエルをエジプトの奴隷から解放しようと遣わされたモーセに対して主が、こう語られたと4章22節以降にこのように記されています。「『主はこう言われる。イスラエルは私の息子、私の長子である。私の息子を去らせ、私に仕えさせよと私はあなたに言ったが、あなたは去らせることを拒んだ。それゆえ、私はあなたの息子、あなたの長子を殺す。』」神様は、エジプトに奴隷とされていた民族の初期の時代のイスラエルを自分の幼い息子のようであったと言われたのです。では、何故、このホセア11章1節の預言が、救い主の預言なのでしょう。

  聖書の預言とは

私たちは、ここで改めて聖書の預言の性質を確認する必要があります。聖書の預言とは、単なる一つの未来予告なのではありません。聖書の訳でも漢字で、未来を強調する予めの「予」ではなく、預けることを強調する「預」を使用することで使い分けしています。聖書の預言とは、神が歴史においてなされる業のパターンなのです。似たような事柄を神様が、歴史上で成されることを語るものです。更に、この15節で「預言が実現するため」と書かれた実現という原語は「プレローマ」という言葉で、これは「満ちる」「一杯になる」という意味で、グラスに注がれた水が一杯に満ちて溢れることです。神様による似たような業が一つ起こると、それはグラスが少し満ちることです。そしてその同じパターンの最後的な業こそ救い主において実現する、グラスが満ち溢れるということなのです。

神様は、イスラエル民族の430年間に及ぶエジプト奴隷生活から解放するためにモーセを遣わされました。その奴隷解放と同じパターンで、神様が最後的な業をなされる。人類を罪の奴隷生活から解放するために救い主を遣わされる。それが、このホセア11章の預言の完全な実現成就なのです。ヨセフによって幼子イエス様がエジプトに退いたこと、これはイエス様が第二の出エジプト、即ち、人類を罪の奴隷から解放する罪の赦しの業を、十字架の死と復活によって成し遂げられることの預言です。それが、この預言によって明らかにされている神様のご計画なのです。

.第二の預言

  残酷な幼児殺害事件

神の計画が明らかにされる第二の預言は、ヘロデ大王によるベツレヘムの幼児殺害事件に関係するエレミヤ31章15節からの引用です。16節には、ヘロデ大王が 2 歳以下の男の子を、一人残らず殺した、と言われる残虐非道が記されています。その記述された後に、「その時、預言者エレミヤを通して言われたことが実現した。」と括弧で括られた言葉が、エレミヤ書からの引用なのです。ヘロデ大王の幼児殺害の後、これを一読しただけでは、誤解を招く箇所ですね。詳細な村の人口は分かりませんが、恐らくベツレヘムは1000人程度の小さな町で、殺された子供たちの数は20〜30名程度ではなかったかと言われています。しかし人数の多少にかかわらず、これは本当に恐ろしいことです。悲しむべきことです。こんな幼児殺害の残虐非道が、神様によって預言されていた、計画されていた、「それは酷すぎませんか?」と言いたくなりませんか。できればこんな箇所は読み飛ばしたくなる箇所です。しかし、よくよく見れば15節と17節の違いからも分かることです。15節では「実現するためであった」と、この「ためであった」によって、起ころうとしている出来事が神の意志であったことが明らかです。しかし17節では、よく見てください。「実現した」となっています。「実現するためであった」ではありません。それは、その悲劇自体を神が目的とし、予見され予定した計画なのではなく、それが罪に満ちた世界に現実に起こったという事実を語っているということなのです。

  エレミヤ預言を読み解く

そして、エレミヤ31章15節から引用されている言葉は、その預言の一部であって、その箇所全体を読み解くときに、これは明らかに神様によってなされたメシア預言であったことが分かってくるのです。マタイ2章のここに引用されているのは、エレミヤ31章の15節です。その通りです。この預言の直接的意味は何かと言えば、それは、BC587に起こったエルサレムの滅亡とバビロン捕囚の嘆きと悲しみの表現であるということなのです。預言者エレミヤは、囚われてバビロンに捕囚として引かれていく多くの若者たちを、嘆き悲しむ母親たちの気持ちを、遠い昔、イスラエルの先祖であるヤコブが愛した妻ラケルを引き合いに出して、ここで悲しみを表現しようとしているのです。

ヤコブは叔父ラバンの娘レアとラケルを嫁に貰いました。ヤコブは姉のレアよりも妹のラケルを愛したことが知られています。ヤコブに愛されたラケルですが、彼女は妻の立場で非常に辛く悲しい経験をした女性でした。ヤコブは息子を次々と、レアによって8人、さらに側女によって2人を得たのですが、ラケルには子供がなかなか生まれません。だいぶかなり後になって、ようやくラケルが産んだ息子がヨセフでした。それから随分時間を経て二度目に生まれたのがベニヤミンでした。その次男の出産の顛末は創世記35章に記録されていますね。ラケルの次男の出産は難産でした。ラケルは難産で苦しみ、産むと間も無く死んでしまいます。ラケルがその死の直前にその子に付けた名が「ベン・オニ」でした。その意味は「私の苦しみの子」です。普通こんな不吉な名前は自分の子供につけないでしょう。夫のヤコブはそれこそ縁起でないと思ったか、ベニヤミン(右手の子)と命名し直しています。しかしまさに、ラケルが自分の胎から生まれる子供にベンオニと名付けざるをえなかった心境に彼女の悲しみが滲み出ているのではないでしょうか。生まれてくる子供が、母である自分に抱かれもせず、お乳も飲まされない我が子を、不憫に思って命名したのではないでしょうか。彼女は、死んで、ベツレヘムの近郊のラマという場所の道路脇に埋葬されました。

このラケルが埋葬される墓があるラマ、実はラマの傍の道を、B C587に、エルサレムからバビロンへ惨めな民が引かれて通って行ったのです。イスラエルの先祖となる12名の息子たちを生み分けた姉のレアと妹のラケルは、その意味でイスラエルの母でした。そのイスラエルの母ラケルが、ラマに埋葬されたその墓地から、バビロンに奴隷として引かれてゆく哀れな民、すなわち自分の子供達を見て、嘆き悲しみ泣いていると、エレミヤは民の悲しみを、ここで表現していたのです。  

.第三の預言

  希望が込められる預言

しかし、その上で続いて語られた預言を見忘れてはなりません。16節にこう語られています。「主はこう言われる。あなたの泣く声を、目の涙を抑えなさい。あなたの労苦には報いがあるからだ— —主の仰せ。彼らは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある——主の仰せ。子らは自分の国に帰って来る。」ということは、このエレミヤ31章の預言は、実は希望のメッセージであったのです。イスラエルの民が、バビロンに捕らわれて引かれていくのは、その犯した罪の罰でした。懲らしめでした。しかしながら、神は必ず彼らを憐れみ、故国に連れもどされる、そういう慰めのメッセージなのです。31節には、さらに「その日が来る——主の仰せ。私はイスラエルの家、およびユダの家と新しい契約を結ぶ。」と預言されているではありませんか。この70年に及ぶバビロン捕囚とその惨めさからの解放は、預言された通りに歴史上、実現したことを私たちは知っています。バビロン帝国を滅ぼしたペルシャ帝国のクロス大王が、ユダヤ人たちに祖国への帰還を許したからです。しかし、エレミヤ31章のこの預言は、約束されたメシアとしてお生まれになったイエス様の誕生において完全に成就したと、今日の聖書箇所は教えているのです。

  幼児殺害に見る罪の現実

紀元前600年ごろに、バビロン帝国の攻撃でエルサレムは滅亡しました。その際に多数の民が殺害されている、その中には、大勢の幼児たちがいたに違いありません。そして、今また、ベツレヘムで、残忍非道なヘロデ大王によって 2 歳以下の男の子たちが惨殺されている。しかも罪なき幼児たちが虐殺されること、それは今現在でも世界中、至る所で実際起こっている現実的な出来事です。それは、神様が計画したことでは全くありません。それは罪深い人間が自らの手で作り出している人為的現象です。昨年の元旦に能登半島地震が発生し多数の死傷者が出ました。しかしそれは天災的悲劇であって人はこれを避けることはできません。しかし、幼児殺害、虐殺は明らかに人為的な悲劇です。避けようとすれば避けられる悲劇です。それはカンボジアで起こり、アフガニスタン、ウクライナ、イスラエルのガザで起こっている生々しい現実的現象です。ガザのテロ組織ハマスが、一昨年の10月の安息日に民間ユダヤ人を襲撃し、1200人が惨殺されました。その中には妊婦が腹を切り裂かれ、胎児が殺害されたとも報道されています。このマタイ2章の言葉は、ヨセフが殺害を何とか避け、エジプトに逃亡することができたので、幼児イエスは無事であった、めでたしめでたしという話しなのではありません。幼児イエスがそのヘロデ王の虐殺を避けたのは、やがて十字架に虐殺されるためでした。幼児を虐殺するような人間のおぞましい罪を取り除き、その十字架の死と復活により、悲しみに沈む人々に希望と喜びを与えるために、救い主なるイエス・キリストが来られたことを明らかにしているのが、このエレミヤ31章の預言なのです。

  ナザレの人とは

ヨセフが、敵対するヘロデ大王が死んだことを夢に天使より伝え聞いて、ガリラヤのナザレ村に行って住んだことを伝える23節に、もう一つの神の計画を示す預言の成就が語られています。「彼はナザレの人と呼ばれる」預言者によって言われたというこの言葉自体は、旧約聖書にはありません。いくつかの解釈があるのですが、最も有力な解釈を紹介しておきます。それは「ナザレの人」と呼ばれることには、人から蔑まれることを当時は意味していたということです。ナタナエルが、ピリポに「ナザレから何の良いものが出ようか」と馬鹿にした話しを覚えていることでしょう。ナザレ村とは人口も300人程度の、何の取り柄もない寒村なのです。神が計画しお遣わしになられる救い主、メシアが、人々によって蔑まれ、卑しめられることを預言した聖書箇所があります。イザヤ53章3節です。「彼は軽蔑され、人々に見捨てら、痛みの人で、病を知っていた。」そうです。イエス様がベツレヘムで生まれ、エジプトに身を避け、ナザレで生い育つこと、それは救い主をこの世に遣わす神様のご計画の表れそのものなのです。ナザレ人として蔑まれた救い主であるイエス・キリストが、最も軽蔑され、嘲弄され、愚弄されたのは十字架上でした。その十字架上で、「父よ。彼らを赦したまえ。彼らは自分で何をしているのかわからないのです。」イエスは愚弄・嘲弄する人のため執りなし祈られたのではなかったでしょうか。

  聖餐式に預かる

こうしてヨセフのエジプト逃避行を通じて語られた三つの預言によって、私たちは、神様の人類救済のために、救い主として御子イエス・キリストをお遣わしになる計画の確かさを明らかにすることができました。その上で、私たちはこれから、今日、2025年の最初の礼拝で聖餐式にあずかろうとしているのであります。聖餐式は、主イエスが十字架上で流された罪なき血と砕かれた御体に預かることです。それは、第二の出エジプトに他なりません。イスラエルがかつてエジプトで奴隷であったように、私たちも知らずと罪の奴隷であり、神に無関心で、神に背を向け、自分の好き勝手な生き方をし、滅びに定められていた者でした。しかし、イエス様を救い主と信じ、罪赦され、新しく造られた者、神を信じない者から神を信じる者とされたことを再確認する礼典こそ、これから受ける聖餐式なのであります。そして、この新しい年の第一番目の今日の礼拝において、イエスを信じて新しく造られた者の生き方として、今日、最後に、この聖書箇所に登場する神に用いられたヨセフに倣い、神の導きに生きる者であることを再確認したいと思うのです。神の計画は、ヨセフが神の導きに従順に従った結果、実現成就されました。神様は、私にも、みなさんにも、お一人お一人に、神様のご計画の実現に、協力参与することを望んでおられます。そのために神様は、一人一人を生活の隅々まで導いておられます。ヨセフの生き方から神様の導きの拠り所を4つ挙げて確認し、お祈りしたいと思います。

.神の導きの拠り所

第一にヨセフは、自分を取り巻く環境により神の導きを得ました。彼はすでに結婚して子供がいたはずです。しかし、妻に先立たれて男やもめとなっていたのですが、エルサレム神殿の行った籤引きによって、乙女マリアとの再婚の道が開かれました。人生においては、全てが偶然ではありません。それは人間の自由意志の結果であると同時に、人の環境に神様の介在がある結果なのです。

更に、ヨセフが神の導きのよりどころとしたのは、信頼に値する人々の助言であったということです。ベツレヘムで飼い葉桶に寝かされた赤子のイエス様を、夜の暗さの中でも訪ねてきた野辺の羊飼いたちの証言は、ヨセフにとって貴重な助言であったことでしょう。ヨセフがマリアと幼児を抱いてエルサレムの宮に、出産の捧げ物をしようとぬかずいた時に近づいて、幼児イエスを胸に抱き、祝福した老人のシメオンの祈りは、ヨセフに導きの確信を与えたことでしょう。そればかりか、さらに近づいてきた女預言者アンナの発言も貴重な助言であったに違いありません。ルカ2章に記されている通りです。あなたのために親身に熱心に祈っていてくれる方がいます。信頼できる主にある人々の助言を、今年も大切にしましょう。

ヨセフが神の導きの拠り所にしたのは、何と言っても神の御言葉でした。東方の博士たちがベツレヘムにヨセフとマリアを訪ね当てた時に、博士たちがことの成り行きをどう語ったかを私たちはその詳細を知る由もありません。しかし、私は想像するのです。彼らは夜空に異様に光り輝く星を観測したことを語ったでしょう。そればかりか、ヘロデ大王の命令で、メシア誕生の場所としてベツレヘムであることを学者たちが探し当てたという、旧約のミカ5章の預言も恐らく大事にそらんじて、ヨセフとマリアに語ったでありましょう。何にもまして、ヨセフの拠り所は、夢に現れた天使たちの言葉でした。ヨセフは、受胎告知で天使の語りかけを受け、エジプト逃避でも、ナザレに戻ることでも、天使の語り掛けを受けていました。聖書の一般化していなかった時代には、このような天使による啓示が有力な導きの手段でしたが、聖書がまとまって手近にある私たちにとっての神の導きの拠り所は、神の御言葉、聖書の言葉なのです。私自身、80年近い人生の要所要所で、御言葉によって導かれたことが何回あったことでしょうか。

この泉佐野福音教会に奉職する手がかりの最たる拠り所こそ御言葉でした。何回も証ししたことですが、黙示録3章8節が与えられた結果なのです。「見よ、私はあなたの前に門を開けておいた。誰もこれを閉じることはできない。」今年も、神様の確かな導きのサインとしての御言葉を拠り所としていきましょう。

そして導きの拠り所で大切なのは主観的ではありますが、確かな確信と平安です。ヨセフの行動の特徴は、確信すると即座に行動している点です。ヨセフは、天使の受胎告知を得るや、目覚めると直ちにマリアを迎え入れました。天使のエジプト逃避の告知を受けるや、ヨセフは、夜中に起きて直ちに行動し、エジプトへの旅立ちをしました。それは、神様から平安と確信が与えられたからです。不安のままに、心騒ぐのに軽率に行動するべきではありません。御心であるならば、神の導きには必ず平安があり、確信することができるものなのです。さあそれでは、主の聖餐式に移ることにし、神様のご計画に生かされて、この新しい年を神様の導きに生きる決意を、新しくさせていただこうではありませんか。

11日元旦礼拝

「賛美の架橋(かけはし)を渡る」  詩篇148篇1~14

ハレルヤ。

天から 主を賛美せよ。

もろもろの高い所で 主を賛美せよ。

主の使いらよ、こぞって 主を賛美せよ。

主の万軍よ、こぞって 主を賛美せよ。

太陽よ、月よ こぞって 主を賛美せよ。

輝く星よ、こぞって 主を賛美せよ。

天の天よ 天の上にある大水よ 主を賛美せよ。

主の名を賛美せよ。

主が命じ、それらは創造された。

主はそれらを代々とこしえに立て、掟を与えて、それが消えうせないようにした。

地上から 主を賛美せよ。

海の竜たちよ、すべての深淵よ、火よ、雹よ、雪よ、霧よ、御言葉を成し遂げる激しい風よ、山々よ、すべての丘よ、実を結ぶ木よ、すべての杉の木よ、生き物よ、すべての獣よ、 地を這うものよ、翼ある鳥よ地上の王たちよ、すべての民よ、高官たちよ、地上のすべての支配者よ、若者もおとめも、老人も子どもも共に。

主の名を賛美せよ。

御名はひとり高く、その威厳は地と天の上にある。

主はその民の角を高く上げた。

賛美は主に忠実なすべての人のなすこと、主のそばにいる民、イスラエルの子らのなすこと。

ハレルヤ

2025年の新年明けましておめでとうございます。新年を迎えられた皆さんに, 聖書を開き奨励をさせていただくことにいたします。聖書は詩篇148編で1〜14節をお読みします。この聖書箇所から、私は今日の説教題を「賛美の架橋を渡る」としました。それは、お分かりのように「主を賛美せよ」と言うフレーズが、この詩篇には8回も繰り返されているからです。そればかりではありません。最初と最後のハレルヤも訳せば「主を賛美せよ」なのです。それを加えれば10回も「主を賛美せよ」が繰り返されているからです。そればかりではありません。1〜6節では、天から全てが「こぞって」主を賛美するようにと呼びかけられています。7〜10節では、地上から「すべて」が主を賛美するようにと、呼びかけられています。11〜13節では、地上の「すべての」人間が主を賛美するようにと呼びかけられているからです。

1.崖っ縁に立つ年

では、説教題で何故「賛美の架け橋」としたのかというと、それは、この新年、2025年を、私なりに「崖っ縁に立つ年」と見定めたためなのです。私事ですが、今日の昼食に娘がお雑煮を作ってくれましたが、私の顔をまじまじと見つめ「父さん、お餅はしっかり噛んで食べてくださいよね。喉につっかかったら大変なことになるから。」と言われてしまいました。そういう歳なのですね。今年の4月で私は満80歳を数えるのです。その意味でもこれから何が起きるか分からない、本当に崖っ縁に立たされた感がするのですよ。

しかし実際に、この新しい年を「崖っ縁に立つ年」と見定めた本元は、実は日本の経済産業省なのです。経済産業省は、この新しい年を5年前に「2025年の崖」と位置付けました。これは、日本の企業に対する警告です。デジタル・トランスフォーメーションに真剣に取り組まないと、とんでもない経済損失を被ることになる、と言う警告なのです。私がまだ石川県の松任市に住んでいた30年以上前のことです。老朽化した松任市立病院が新築された時のことです。私が非常に驚いたことは、古い病院時代の受付には、人が溢れていたのに、新しい病院の受付のロビーは、いつ行ってもガランとすっきりしていたことです。それは病院が新しいコンピューターシステムを取り入れた結果でした。経済産業省が警告するのは、同じようにコンピューターシステムを取り入れた企業各社が、さらに新しくシステムを変革しないならば、世界的な競争力を失ってしまう、12兆円を越す損失を招くことになるぞ、という警告なのです。日本の企業は、うっかりしていると、2025年に崖っ縁に立つことになるそう言う意味で名付けられていたのです。

.東尋坊の断崖

福井県の坂井市に観光名所として東尋坊という崖が、越前加賀海岸国定公園に特別保護区として指定されているのをご存知ですか。高い場所では25メートルの垂直の崖で、これほどの規模は世界に三箇所しかないと言われるほどです。その東尋坊の由来は、平泉寺の一人の僧侶の名前で、彼は曰く付きの乱暴者であったばかりか、恋愛関係の恨みを買って、この崖から突き落とされたことによると言われています。この崖は自殺の名所でもあります。このような崖っ縁に立つと言うことは、非常に危険であると言うことです。崖を踏み外し落下したら、絶対に助かりません。死ぬばかりです。

日本ばかりではありません、世界中を見渡すと、政治・経済・医療・宇宙・環境・技術・交通・資源・社会・情報・人口・通信、あらゆる分野が、崖っ縁に立たされている、そういう現象が、見え隠れしていないでしょうか。その最たるものの一つは、国土の2割をロシアに占領されているウクライナでしょう。来月で戦争状態は3年を迎えようとしています。それこそ国家存亡の崖っ縁に立たされているのではないでしょうか。今日この日、新年を迎えられた皆さんは、初夢を見て胸膨らませてやる気満々ですか。楽観的に見て未来が薔薇色に見えるでしょうか。皆さんは2025年をどう受け止めておられるでしょうか。

.崖っ縁に架ける橋

ここで、聖書から文字通り崖っ縁に立たされた二人の人物を、一人は旧約聖書から、もう一人を新約聖書から紹介しましょう。

旧約聖書の人物とは南ユダ王国の4代目のヨシャパテ王のことです。このヨシャパテ王の治世に、夥(おびただ)しい敵の大群が攻め寄せ、国が危機に陥る事件がありました。「海の彼方から大軍が攻めて来ました」と報告を受けたヨシャパテ王は、すっかり恐怖に打ちのめされてしまいました。しかし、彼は勇気を奮い起こして神殿にぬかずき、そして神に祈りを捧げました。すると預言者からメッセージが与えられます。歴代下20章15〜17節にその預言が記録され、それを受けると人々はどうしたでしょうか。19節を見るとこう記されています。「レビ人のうち、ケハト人の一族、コラ人の一族が立ち上がり、非常に大きな声でイスラエルの神、主を賛美した。」そうです。彼らが存亡の危機に際し、崖っ縁に立ってしたこと、それは主を賛美することでした。

新約聖書の人物とは、使徒パウロのことです。パウロは生涯3回の宣教旅行を試み、その2回目の時でした。ピリピと言う町に来た時に、彼は全く不本意にも官憲に捉えられ投獄されてしまいました。占いの悪霊に憑かれた女奴隷を解放してあげたのを恨まれ、訴えられた結果でした。パウロと同僚のシラスとは、両手両足を枷(かせ)に繋がれ、地下牢に閉じ込められてしまいました。それこそ崖ぷちに立たされ、明日が思いやられる危険な状況でした。そんな彼らが真夜中にしたことがあります。それは何と獄中で二人が神への賛美の歌を歌って祈ることであったのです。この旧約聖書のヨシャパテ王と新約聖書の使徒パウロに共通することがあります。それは両者とも絶体絶命の崖っ縁に立たされた際に、「賛美の歌」を歌ったと言うことです。

.賛美とは

賛美とは、神に向かってその栄光を讃え、喜びと感謝を表現することです。賛美は神への信仰告白であり、信仰による勝利の先取りです。詩篇148編では、天上で賛美を促されたものたちに対して、その賛美の根拠が5節に記されています。それは、主が万物の創造者であるからだと言われているのです。「主の名を賛美せよ。主が命じ、それらを創造された」創造するとは、神により一切が存在に呼び出される行為です。そして、6節では、神は創造されたばかりか、その造られた全ての被造物を維持保存されるからだと、賛美の根拠が語られています。「主はそれらを世世とこしえに立て、掟を与えて、それが消え失せないようにした。」13節では、地上の全ての人が神を賛美すべき理由根拠を「御名はひとり高く、その威厳は地と天の上にある。」と語られています。賛美する理由は、主なる神が他者と比較しようのない、至高の偉大な威厳ある方だからであると言われているのです。

昨年2024年は、これまでになかったことで、一斉に70カ国以上の国々で選挙が実施されたと言われています。大きな特徴は、既成の権力者が弱体化したこと、その中で、プーチン大統領のような独裁者だけが圧倒的に勝利しています。しかし、どれだけ、人々から名声を勝ち取り、自分の威光を示したとしても、それは儚い夢に過ぎません。

.賛美した結果

旧約のヨシャパテ王が賛美した結果はどうでしたか。聖書に見るとおり、彼と彼の軍隊は圧倒的な勝利に終わり、しかも戦わずしてただ賛美するだけで、敵は圧倒されてしまいました。新約のパウロが賛美した結果はどうでしたか。聖書に見る通り、真夜中に大地震が起こり、獄中から解放されていましました。ヨシャパテ王も使徒パウロも崖っ縁に立たされはしたものの、彼らは崖に架け橋を架けることによって、安全に渡りきることができたのです。そして、その架け橋こそ賛美でした。この新しい2025年は今日始まったばかりです。一寸先は闇です。この先、何が起こるか誰が予測できるでしょうか。しかし、たとえ切り立った絶壁のような崖っ縁に立たされることがあったとしても、大丈夫なのです。あなたも崖に架け橋となる賛美を歌うことができれば、安全に崖を渡りきることができるでしょう。

.崖っ縁を渡る人

では、崖っ縁に立たされても架け橋を渡りきることができるのは誰でしょうか。14節にこう規定されています。「主はその民の角を高く上げた。賛美は主に忠実なすべての人のなすこと、主のそばにいる民、イスラエルの子らのなすこと。ハレルヤ。」主に忠実な全ての人です。主のそばにいる民です。イスラエルの子らです。

これらの人々に新約聖書で該当するのは、イエス・キリストの弟子たちでした。イエスの弟子たちは、イエス・キリストと共に、非常に厳しい崖っ縁に立たされた時に、一緒に賛美の歌を歌った人々であったからです。マタイ26章30節にこう記録されています。「一同は、賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた。」彼らは、どんな崖っ縁に彼らは立たされていたでしょうか。これは最後の晩餐を終えた直後のことでした。主イエスは、ユダに裏切られてまもなくゲッセマネの園で逮捕され、ピラトに裁かれ、十字架に磔にされようとしていました。あのゲッセマネの祈り、三度祈られた祈りにより、それが危険極まりない崖っぷちであったことが分かります。主は「父よ。この盃を私から過ぎ去らせてください。」と祈られています。それは十字架の受難の危機です。弟子たちの崖っぷちは、この方こそはメシアと期待し寝食を共にし従って来たはずのイエスが、彼らから離れていこうとされたことです。主は、26章の31節で警告されています。「「今夜、あなたがたは皆、私につまずく。『私は羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからだ。」しかし、イエスもイエスの弟子たちもその崖っ縁に立たされて、まさにその危機的状況の真っ只中で、賛美の歌を歌ったのです。それは一切が全能の父なる神の御手の中にある確信の表れでした。その結果は歴然としています。主は十字架に付けられ、そして3日目に復活して勝利されました。弟子たちは、復活の主と再会し、初代教会が誕生し、世界に福音が宣べ伝えられ、多くの魂が救われたのです。

.角を高く上げられる

14節に「主はその民の角を高く上げ」と言われます。角と言えば、鹿や牛や野牛の角が連想されます。それは力と尊厳と威光の象徴です。主は神を褒め称え賛美する人を尊ばれます。そして、主は神を賛美し褒め称える人を本当の意味で強い者とされ、戦いに勝利を与えてくださるのです。人生には何が起こるか予測不可能です。しかし、たとえ崖っ縁に立たされることがあっても、神を賛美することによって、崖に架け橋が構築されるのです。この新しい一年、何があっても神を賛美し、神に栄光を表し、日々を生きようではありませんか。神様の祝福を祈ります。